日曜日, 4月 20, 2025
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《泳げる霞ケ浦へ》8 りんりんロード+レンタル自転車

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コペンハーゲン市内の自転車ステーション

【コラム・霞ヶ浦市民協会】霞ケ浦湖岸を走る「霞ケ浦自転車道」と筑波山西側の旧筑波鉄道跡を走る「つくばりんりんロード」がつながり、全長180キロの自転車道「つくば霞ケ浦りんりんロード」が開通した。私の職場がある土浦の霞ケ浦総合公園にも、自転車愛好家が全国から訪れ、土日曜日、公園駐車場は他県ナンバーの車であふれている。

この自転車道に沿って、土浦市2カ所、桜川市、石岡市、つくば市、かすみがうら市、行方市、潮来市各1カ所―合計8カ所に、どこで借りてどこで返してもOKの「広域レンタサイクル事業」もスタートした。このシステムに加え、各市の観光拠点に「自転車ステーション」を設ければ、各市のにぎわい=活性化も期待できるのではないだろうか。

近年ヨーロッパでは、「路面電車の復活」「自転車の活用」が進められているが、デンマークのコペンハーゲン市には自転車専用車線があり、レンタル自転車ステーションも市内随所にある。調べたところ、120カ所にステーションが設けられ、20クローネ硬貨(約350円)でどこへでも自転車で行ける。

以下、1999年に同市で開かれた第8回世界湖沼会議に参加した時の思い出話だが、「自転車の街」をイメージしていただけたらと思う。

自転車の街 コペンハーゲン

コペンハーゲン市は水と緑にあふれ、歴史のある都市である。チボリ公園、市庁舎、王宮殿、教会、旧証券取引所など歴史的建造物も多く、都市景観は素晴らしい。これらが運河など水辺に触れ合う工夫が随所にしてある。運河クルーズで見る水辺からの景観は特に素晴らしく、1つ1つの建造物が印象に残っている。

目を陸に向けると、やたらに自転車が多く、通勤通学などの交通手段として市民に定着している。乳母車を前に付けたような3輪自転車もあり、これはなかなか高額ということだった。自転車のチャイルドシートも、足のステップがしっかりカバーされていて、子供に合わせてオーダーできるそうだ。

チボリ公園視察のあと、レンタル自転車に試乗してみた。赤黄青が基調のカラフルな自転車は、ブレーキがハンドルに付いておらず、サドルを逆転するとブレーキがかかる仕組み。最初はとまどったが、すぐ要領が分かった。

翌朝、ホテル前のステーションから自転車散策に出てみた。早朝にもかかわらず、大通りは通勤通学の自転車であふれ、どんどん抜かれる。こちらはのんびりと、ドローニンリーゼ橋畔にあるレストラン側の木道桟橋をゆっくり走り、水鳥のさえずりを聞き、透き通った空気を吸って、朝の一時を過ごした。(大川幸一 霞ヶ浦市民協会副理事長)

《ご飯は世界を救う》1 ランチ、食べる前に、まず描く

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川浪せつ子さん

【コラム・川浪せつ子】「食いしん坊」で「好奇心イッパイ」の私のお話です。お付き合いください。

36年前、東京からつくばに来ました。当時は、外食をする場所どころか、毎日の買い物にも不便な陸の孤島。でも、今では「美味しいものたくさんの街」ですね。「ランチを描くのはスケッチの練習になるなぁ」と思い、描き続けて10年余り。スケッチはすごい枚数になりました。

食事が運ばれてきて、食べるのではなく、まず描く。友人とランチした時、「描くと思った。イイよ、描いても」。連れ合いとの時は、待たせてしまうのに気兼ねして「アナタも描いたら」「ボクにも冷たいもの食べろというの」。

私のランチスケッチは「つくば市周辺の歩みともリンクしている」と、大げさに自分勝手に思って続けています。「ランチ」から地域、そして胃袋からその周辺の話題を、つづっていきたいと思います。

荒川沖駅前「カフェ・ド・コトブキ」

初回は、つくば市ではなく、土浦市のカフェです。どこにしようか迷いましたが、荒川沖駅前の「カフェ・ド・コトブキ」さん。

この駅は、なんと開業が明治29年(1896)だそうで。2000年ごろは、 1万2000人の乗車人数でしたが、最近は8000人ほど。ひたち野うしく駅、つくばエクスプレス(TX)が出来て、今でこそ閑散としていますが、一世を風靡(?)したこともあるのですね。仕事で渋谷まで通っていた時、大変お世話になりました。

東京通いの時期には、このカフェを知らなかったのですが、息子の塾の送迎時、時間をつぶす場所を探していて出合いました。育児の手もだいぶ離れ、水彩画を描き始めた時と重なっていました。「そうだ!このレトロなカフェを絵に描こう」。

そして、今の私があるのです。今回は「トーストセット」ですが、大好きなものは「ハンバーグセット和風」。洋風もどちらも、付け合せの野菜も多く美味しいです。ちなみに「コトブキ」さん、創業1985年。33年も続いているのですねぇ。

「コトブキ」さんを通じ、いろいろな出会いがあり、今年6月にはミニ展示会をさせてもらいました。そして、「NEWSつくば」(元常陽新聞の方々を中心にスタート)との再会。1年4カ月ぶりで、また連載をさせていただきますね♪(イラストレーター)

【かわなみ・せつこ】武蔵野美術短期大学デザイン科卒(テキスタイルデザイン専攻)。住宅部品会社デザイン室、(建物の外観や室内を立体的な絵にする)建築パース事務所を経て、現在、フリーの「建築パース」イラストレーター。イーアスつくば内「アイカルチャー」の「かんたん水彩イラスト」講師。つくばショートムービーコンペティション市民審査員。東京都練馬区出身。1982年、結婚によりつくば市に移り在住。

《くずかごの唄》18 サイキンの絵本 「ずかん・細菌」

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【コラム・奥井登美子】JR土浦駅のお隣に新しい土浦市立図書館ができて、私の楽しみが増えた。美人で、気心の行き届いた入沢弘子館長にお会いするのもうれしいが、なによりも、本を選ぶ楽しみが増えたのである。

町の中に本屋さんが少なくなってしまい、読みたい本が手に入りにくくなってしまった。若い人たちは、取り寄せればいいのにと簡単に言うが、本というものはタイトルとか広告だけで送ってもらうものではない。ページをめくって、わくわくして、コレなら読んでみようと買うのが本というものなのに、取り寄せは本の楽しみ方を知らない人のやることである。

前の市立図書館は家から近いけれど、本が少な過ぎて、お目当ての本が1~2冊見つかれば幸運という存在だった。

年を取ってくると、誰でも白内障気味で、目が悪くなる。私が図書館に行って、最初に行くのが児童書コーナー。活字が大きいから年寄りに向いている。

この間、土浦協同病院で「薬剤耐性対策の公開講座」があった。「近年は医療機関外での市中感染型の薬剤耐性感染症が増加している現状です。ヒト、動物といった垣根を越えた世界規模での取り組みが必要であることが認識され、公開講座を企画しました」とある。

駅前図書館の賢い活用法

具体的にいえば、トリインフルエンザのものすごいものが土浦地域に流行した場合、医療機関と従事者は、どう考え行動すればいいのか。その基本的なことを、講座で話してくれるらしい。行きたいけれど、チト待てよ。私はサイキン、サイキンの勉強をしていない。ディノコッカス・ラディオデュランスはどんな菌でしょうかと聞かれても、解らない。

そういう時の助け舟は、図書館。本を何冊も選び出して、気持のいい窓辺の机の上にずらり並べて、見比べ、読み比べる。そういうことの出来るスペースがたくさんあって、ゆっくりと、楽しそうに、1人で読んでいる人たちも多い。

薬剤耐性感染症の本は専門的過ぎるのか、適当なものがなかったが、子供の本で「ずかん・細菌」(技術評論社)が、よく出来た絵本で、耐性菌のことまでわかりやすく書いてあった。

絵本だから、写真と絵が大きく描いてあるので理解しやすい。「絵本」といって馬鹿にして、開けてもみない大人もいるが、絵本の方が凝縮された知識が得られる場合があるのだ。最近の科学絵本は、しっかりと、内容の充実したものが増えてきた。

せっかく素敵な図書館が出来たのだから、年寄りも子供も、絵本を見て楽しもうではないか。(随筆家)

《土着通信部》17 土用の丑「地産地消」の食えない話

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霞ケ浦産のウナギの蒲焼きなど滅多に口にできない

【コラム・相沢冬樹】土用の丑(うし)の20日が近づいて、霞ケ浦産ウナギの近況が気になった。県内の天然ウナギは、福島第1原発事故の影響で2012年4月以降、出荷制限がかかっていたが、16年2月に解除されている。16年度の霞ケ浦・北浦の生産量(漁獲量)は3tと報告されたが、翌17年度分も知りたくなって、県霞ケ浦北浦水産事務所(土浦市)などを訪ねたのである。

農林水産省の統計だと、震災前の2010年は、天然ウナギ漁獲量245tのうち、霞ケ浦や那珂川流域などの茨城産は40tを占めて全国トップだった。15年には全国の漁獲量は70tしかなくなり、約5万tの国内消費量、約2万tの国内生産量の大半を、それぞれ輸入もの、養殖ものに頼る推移となった。

天然ウナギといっても、霞ケ浦は常陸川水門(逆水門)で海と隔てられているから、ニホンウナギが太平洋から直接入ってくることはない。ウナギの稚魚であるシラスウナギを放流し、その成長を待って採捕するものである。出荷制限中は霞ケ浦漁業協同組合によるシラスウナギの放流も手控えられ、再開したのは16年度からだから、同年度の不漁は致し方なかった。

シラスウナギ放流は、17年度も金額ベースで200万円ほど掛けて行われた。霞ケ浦では「はえ縄」でウナギを釣り上げる漁が普通で、漁期は夏までに終わっている。体調23㎝未満は採捕が禁止なので、資源の回復具合はしばらく様子をみないと分からない。

ウナギ:絶滅危惧種?天然記念物?

しかし、17年度統計はまだまとまっていなかった。霞ケ浦漁協に聞くと「水揚げは増えている様子だが、ウナギ漁は漁協を介さず業者と直接取り引きしてしまうので統計をとれない」そうだ。今年こそ霞ケ浦産ウナギの「地産地消」を期待したが、出荷制限中に漁をやめた漁師もおり、天然ものは依然手の届かぬところにある。

ニホンウナギは、絶滅のおそれのある野生生物のリストで絶滅危惧IB種に指定されている。採捕を規制するものではないが、この先は天然ものに限らずウナギを食べること自体が難しくなってくる。ニホンウナギのワシントン条約(CITES)付属書掲載が濃厚となっているためだ。

ニホンウナギの国際取引では、日本は台湾との稚魚のシラス貿易が禁止となっている中、漁獲実態のない香港からの輸入が問題となっており、台湾産も香港経由で日本に輸入されているといわれる。仮に付属書掲載となれば、密漁されたシラスウナギの輸出入は難しくなり、国内のウナギ養殖に大打撃を与えそうだ。

ワシントン条約締約国会議は来年5月に開かれる。勧告や規制発効のタイミングは流動的だが、最悪今年の土用の丑がウナギの食べ納めとなってしまうかもしれない。養殖ウナギでも絶滅危惧種を、天然ウナギなら天然記念物を食べているようなもの。資源保護を考えたいが、蒲焼きの香ばしい誘惑に懐具合以外で抗する術を持たないのが悩ましいところである。(ブロガー)

《吾妻カガミ》36 レジェンドが語ったバブルの断章

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梟に囲まれ笑う バブルの梟雄 故三谷章氏

【コラム・坂本栄】不動産業界のレジェンド(伝説的人物)、三谷章さん(大豊商事会長)が6月28日亡くなりました。私はバブルの時代は東京にいましたので、三谷さんの当時の活躍をつぶさには知りません。でも4年前、常陽新聞(2014年2月~17年4月)のインタビューで、彼の痛快な活動を愉快に聞くことができました。今回はそのサマリー(要約)です。

三谷さんには、「キーパーソン」というタイトルのインタビュー企画に6回登場していただきました。最初は1回で済ませるつもりでしたが、話が面白いこともあり、2回、3回と続けているうち、気がついたら6回になっていました。長時間のQ&Aはテープに取ってありますので、いずれ本にまとめようと考えています。

全回共通の副タイトルは「レジェンドが語るバブルの断章」とつけました。主タイトルは、「ゴルフ場所有せず開発のみ」(1)、「神は桃色の超高級車に乗って」(2)、「幻の筑波山麓学者村」(3)、「釧路、仙台、大島、そして京都」(4)、「ダービー出馬、高級シャンパン700本」(5)、「大手銀行から株式上場の誘い」(6)です。

このあと、「徳州会の用地打診」「国税局の執拗な査察」も準備していましたが、三谷さんの体調もあり、掲載には至りませんでした。そして、私の取材意図は一貫して、銀行と不動産会社の関係を明らかにすることでした。

銀行の裏の裏まで知り尽くした男

インタビューの中で三谷さんは、銀行がゴルフ場開発案件を大豊に大量に持ち込み、開発資金をドンドン融資したと証言しています。銀行は開発(不動産会社の仕事)だけでなく、ゴルフ場を保有経営したらどうかとも提案してきたが、断ったそうです。ゴルフバブルの真っ最中、これは続くはずがないとクールな判断が働いたと。

バブルが崩壊すると、全国の不動産会社は所有不動産価値を上回る銀行借り入れを抱え、経営破綻の危機に直面します。でも大豊は倒産しませんでした。このカラクリを明らかにすることも私のテーマでした。

その辺の事情について、三谷さんは「結局、(銀行は)破綻処理でなく、この部分はどこ(A社)、あの部分はどこ(B社)といった具合に(価値が大幅下落した)保有不動産をさばいてくれた。銀行も随分儲けさせてやったし、いろいろ助けてやったのだから当然ではないか」と、ニヤリ。

どうやら銀行は、銀行のバブルビジネスの裏の裏まで知り尽くした三谷さんが恐くて、大豊を破綻に追い込むことができなかったようです。バブルの梟雄(きょうゆう)の逝去に合掌。(経済ジャーナリスト)

三谷章さんインタビュー(1)=2014年9月25日付け常陽新聞
三谷章さんインタビュー(6)=2015年1月6日付け、同

《郷土史あれこれ》9 阿見・美浦でも尊攘派浪士狩り

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土浦市立博物館

【コラム・栗原亮】安政7年(1860)3月3日、水戸浪士が大老井伊直弼を桜田門外で襲った。浪士の1人、関鉄之助の発した銃弾で直弼は即死する。この暗殺、江戸市中で知らない者はなかったが、幕府内が大混乱、発表されたのは1カ月以上も後だった。

直弼暗殺は常陸国にも波及する。水戸浪士に対する幕府の探索は厳しくなり、水戸藩も尊攘派の取り締まりを強化する。当時、小川、玉造、潮来の郷校が尊攘派の拠点となっていた。

信太郡(阿見町、美浦村)では、関東取締出役が農民を動員して槍や鉄砲で武装させ、霞ケ浦を渡り、出島(かすみがうら市)から逃げて来る浪士を捕縛した。大山や牛込(美浦村)でも、農民による監視が6カ月以上続いた。

京都では、長州藩尊攘派が朝廷に攘夷を迫っていた。こういった情勢下、14代将軍徳川家茂が上洛、将軍後見職一橋慶喜は攘夷を約束。文久3年(1862)5月10日を攘夷期限とすることを朝廷に上奏する。

この期限を守り、長州藩は欧米諸国の商船軍艦を砲撃。これに対し、6月1日、米、仏の軍艦が長州の砲台を攻撃。結果、武器・弾薬に劣る長州勢は完敗、砲台は占領された。

政治の舞台は京都へ

長州武士団の刀や槍では、欧米に勝てないことがはっきりする。そこで高杉晋作は、農民や商人の子弟を集め、奇兵隊を創設。高杉は4カ国連合艦隊代表者と交渉に臨んだが、欧米側は彦島の租借を要求。だが高杉は要求を拒否、欧米側は彦島租借を諦める。下関は開港場となり、外国から商品や武器を入手できるようになった。

文久期(1861~64)から政治の中心は、江戸から京都に移った。将軍継嗣を一橋慶喜に据えようとする一橋派の運動も京都が舞台になる。長州藩は藩論を開国路線から攘夷路線に転換、朝廷に食い込む。次第に長州藩が朝廷を牛耳り、朝廷を利用した討幕活動が活発化する。

こうした長州の動きに、薩摩藩と会津藩が危機感を持つ。文久3年(1863)8月18日、長州藩を朝廷から追い出すべく、京都御所を両藩の兵が固め、長州藩を京都から追い出した(8月18日の政変)。長州藩は名誉回復を幕府と朝廷に訴えるが、回復できたのは慶応3年(1867)12月9日。王政復古の大号令によって復権する。(郷土史家)

《地域包括ケア》15 つくば旧庁舎跡に「サ高住」の声

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【コラム・室生勝】地域で最も包括的な支援を必要としているのは、ひとり暮らし高齢者、高齢者夫婦世帯、それから高齢者と障がい者の世帯である。ほとんどが後期高齢者で、年齢を重ねるとともに認知症が合併してくる。

認知症で生活に支障をきたしている高齢者を支えるには、認知症の人本人と相性がよいサービス提供者がケアチームの要になるとよい。チームが認知症の人に寄り添ったケアを提供しても、本人と家族の関係がよくないと本人は安定した生活を送れない。

家族が介護疲れで、つい口調が強くなり関係が悪化することがよくある。家族関係が悪くなると、不穏や妄想などの周辺症状が多くなり、介護度が軽度でも在宅生活が難しくなる。介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム=特養)でショートステイを定期的に利用できればいいが、要望が多く応じきれていない。

在宅生活継続が困難になってきた高齢者の受け皿として、公的な特養がある。だが入居希望者が多く、厚労省は2015年度から入所基準を要介護3以上とした。要介護1、2でも、やむを得ない事情による入所「特例入所」の扱いがある。対象は、認知症、知的・精神障がい、被虐待、単身、高齢者のみの世帯などの高齢者で、在宅生活が困難な方。しかしどのケースでも年単位の入所待ちになる。

柏市豊四季台の事例

特養以外では、要支援や要介護1、2でも入れる民間の有料老人ホームがあるが、費用がかかる。特養あるいは老人ホームに代わる住まいとしては、サービス付き高齢者住宅(サ高住)がある。介護や医療と連携して高齢者の生活を支援するため、サービス付き住宅の供給を増やそうと、11年、高齢者住まい法が改正された。

当時、つくば市の調査では、現在の住まいを希望する比率が高かったので、サ高住の建設を市街化区域に限り認め、市街化調整区域には認めなかったようである。16年度の同市の住民アンケート調査では、要支援1から要介護5の78名に「入りたい施設」を聞いたところ、特養34.6%、有料老人ホーム19.2%、サ高住15.4%という回答で、サ高住と老人ホームの間に大差はなかった。

現在つくば市は、民間事業者や市民との対話を通じ、旧庁舎跡地の利用法を検討しているが、庁舎跡再開発にサ高住建設を望む声もあるようだ。庁舎跡は、その圏域の人たちにとっては通い慣れた場所といえる。

住み慣れた地区を再開発して建設されたサ高住が、柏市豊四季台にある。1964年に建てられた集合住宅群は順次建て替えられ、UR賃貸住宅や民間マンションが立ち並ぶ中に、クリニック、訪問看護ステーション、ヘルパーステーションなどが併設された6階建のサ高住がある。(高齢者サロン主宰)

《宍塚の里山》18 虫媒花 ハンゲショウ(半夏生)

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五斗蒔谷津のハンゲショウ群生地

【コラム・及川ひろみ】ハンゲショウはドクダミ科の多年草で、湿地に群生する植物です。宍塚では五斗蒔谷津に見事な群生地があります。6月中下旬から7月にかけて、花が咲きます。花と言っても花弁がない花穂状で、目立ちません。

しかしこの花、昆虫が花粉を運ぶ虫媒花。虫を集めなければなりません。そこで花に近い葉の半分を真っ白に染め、昆虫に花の在処を伝えていると言われています。葉の白さは格別で、遠くからでも目立ちます。そして白い葉は花が終わると緑色に戻ります。

ハンゲショウ(半夏生)の名前の由来は諸説ありますが、葉が半分化粧をしているように見えることから「ハンゲショウ」になったと言われています。「片白草(カタシロクサ)」とも呼ばれます。

季節を表す言葉「半夏生」は、農家にとって、この日までに田植えを終える目安となっていたそうです。機械に頼る農業が普及するまで、梅雨のころ、人の手で一苗一苗植えられた田植え。その作業を終える目安の半夏生、今年は7月2日でした。

薬草 サンパクソウ

ハンゲショウはサンパクソウ(三白草)と呼ばれる薬草で、清熱、消炎、解毒、利尿、腫れ物などに効能があるそうです。ハンゲショウを折ると、ドクダミのような臭いがします(ドクダミほど強烈ではありませんが)。

さて、五斗蒔谷津のハンゲショウ。初めてこの谷津でこの植物を見たのは、25年ほど前のことです。五斗蒔谷津が田んぼであったころから、田の縁に見られたのではないかと思います(自生であるかどうかは分かりません)。そのころの群落はそれほど大きなものではありませんでした。

茨城大学農学部の黒田教授が2012年から谷津で調査を続ける中、ヨシやガマを刈り採った結果、今のような大群落になりました。群落はますます広がっています。ハンゲショウが群落を作るのは地下茎によるもので、根のような茎を縦横無尽に湿地帯に伸ばし、広がった結果です。まさに宍塚の見どころの一つになっています。群落を作っているところは泥深く、足を踏み入れることはできません。

この大群落、私たちの会が所有する森「「わくわくの森(ゼフィルスの森)」を過ぎた、五斗蒔谷津が一望できる所で、観察路から見ることができます。皆さま、土曜観察会に参加され、どうぞご覧ください。(宍塚の自然と歴史の会代表)

《映画探偵団》 9 センター地区 リブロとゲオの棚

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【コラム・冠木新市】つくばセンター地区での楽しみの一つは、西武百貨店跡地前にある書店リブロQ’t店での立ち読みだ。入り口付近の店長の棚が充実している。本棚の一角3段に約70冊の本が並ぶ。哲学思想、批評、社会学、サブカルチャー、風俗、芸術など、大型書店でしか取り扱わない難しい本を店長(稲葉順氏)がセレクトした棚である。気になる何冊かを紹介すると…。

『祝祭の日々、私の映画アトランダム』(高崎俊夫著):これぞ映画マニアという本。『1937年の日本人 なぜ日本は戦争への坂道を歩んでいったのか』(山崎雅弘著):戦前の昭和文化にこだわる私には嬉しい参考書。

『昭和のノスタルジー解体 「懐かしさ」はどう作られたのか』(高野光平著)。そして『60年代が僕たちをつくった』(小野民樹著):戦後の昭和文化を批評した本で自分を客観視できる。

『ゾンビでわかる神経科学』(ティモシー・ヴァースタイネンほか):これは医学書だ。さらに『ゾンビ学』(岡野健著):ゾンビ映画史と観客の受容史などの解説本。そんなゾンビ史の横には『共食いの博物誌』『死体は嘘をつかない 全米トップ検死医が語る死と真実』が置いてある。

硬軟取り混ぜた本の選びと関連本の配列の工夫に、遊び心が感じられる。この店長の棚に影響を受けそうだ。

『死霊の盆踊り』『エド・ウッド』

センター地区でのもう一つの楽しみは、国際会議場前の古着屋の奥にあるレンタル店ゲオ。ここのDVD棚には日本未公開作が隠れていて、何本も貴重な作品を見ることができた。コメディコーナーを眺めていたら、何十年も気になっていたカルトムービー『死霊の盆踊り』(1965)を発見。集団いじめを連想させるゾンビ映画は嫌いだが、この作品は借りて家で見た。

ホラー小説家が、恋人と夜のドライブに出て事故を起こし、墓場に迷い込む。すると、この世に未練を残して死んだ女性が次々に現れて裸踊りをするという、B級お色気映画。特典のメイキングで、脚本を担当したのは史上最低の監督と呼ばれたエド・ウッド。エドのことは、鬼才ティム・バートン監督のモノクロ映画『エド・ウッド』(1994)で知っていた。DVDを出して久し振りに見直した。

お話は、エドとモルヒネ中毒患者で落ちぶれた吸血鬼役者ベラ・ルゴシとの交流を描いたもの。エドが、孤独なルゴシのために次々出演作を作ろうとする。少年時代のアイドル、ルゴシのために必死に尽くす姿は、何度見ても心打たれる。介護映画と言ってもおかしくない作品なのだ。

ルゴシ急死の後、SF映画を撮影するエドは、製作資金を提供する協会関係者と度々もめる。怒り狂ったエドは酒場へ駆け込み、偶然、尊敬する監督オーソン・ウェルズと出会い、「夢のために闘え」と激励される。完成した作品には、エドがルゴシの姿を撮ったプライベートフィルムが挿入されてある。

見終わって、ふと、センター地区が輝いていた30年前に活動していた人たちは今何をしているのか気になった。元気にしているのだろうか。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

《好人余聞》 9 「こんな竹の筒に惚れてしまったんですね」渡辺大輔さん

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【コラム・オダギ秀】人生という旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのように綴りたいと思っています。

「あの日、あのバス停に立っていなかったら、ボクは違う運命を辿ることになったのかも知れません」

筑波大学の木立の中のバス停に、入学試験を終えた18歳の少年が佇んでいた。そこに、彼が聴いたことのない音とメロディが流れて来る。彼はその楽器を見たこともなく、名前も知らなかった。けれど奏でられるその音楽に打ち震え、心惹かれて、人生を変えることとなった。

少年は、20年前の渡辺大輔さん。つくば市に住むケーナ奏者だ。渡辺さんが、アンデスの楽器ケーナと初めて出会った瞬間だった。いま彼は、ケーナのプロの演奏家となっている。その切っ掛けとなった瞬間だった。

「それまでも音楽が好きで、X-Japanやら久石譲さんに惹かれていたんですが、これと言う楽器に出会えなかった。でも、バス停で聞いた音とメロディに、これだ、と思ったんです。大学に入ると、その演奏していた人たちを1ヶ月ぐらいかけて探し、そのサークルに入りました。そこでケーナという楽器を知り、曲がリャキルナ(悲しい人)と言うのを知りました」

大学を卒業し、渡辺さんは市役所に勤めた。だが、ケーナへの思いは、ますます強くなっていたのだろう。公務員になって2年過ぎたころ、ケーナのプロの演奏家になりたいと、両親に告白する。

「渡辺家始まって以来の大修羅場になりましたよ。ケーナの演奏家なんて、どうなるかもわからない。とんでもないと母には泣かれ、父には怒られ、散々でした。

「そんな気持ちを抱えながら、公務員の仕事は精一杯やりました。それなりに充実し、よくやっていたと思います。でも、勇気を出せば、ケーナという楽器で、自分を表現出来る幸せな人生を歩めるかも知れない、という思いは捨てられなかった。で、とうとう市役所職員8年目を終える時に、勘当されてもいいという覚悟で、親に電話したんです。すると、こちらから言い出す前に、お父さんもお母さんも応援するよ、と言われたんです。気持ちを判ってくれていたんですね」

渡辺さんがケーナと出会って、15年が過ぎていた。公務員を退職し、以来、ケーナ演奏家としての渡辺さんの活躍は目覚ましい。

人生を切り開く情熱は、バス停に立たなくても、いつでも何処でも誰にでも、湧き上がるのかも知れない。情熱は自分で作るものだ、渡辺さんと話していると、そんな気がしてくる。(写真家)

・公式ブログ「渡辺大輔ケーナ日記」 https://ameblo.jp/dai-quena/ ・YouTube動画『リャキルナ』 https://youtu.be/Z_i0A6g4zJg ・YouTube動画『木枯らし(旧・風の詩)』 https://youtu.be/8CAuYaQxVh0

《続・平熱日記》17 維新から150年 これからは?

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【コラム・斉藤裕之】山口の産だというと、「長州ですか!」って言われるのがどうも。明治維新から150年ということで、ちょいちょい関連した記事を目にしますが、実はそこら辺の話に無関心というか、苦手です。故郷は好きですが、長州人としての自覚は全くありません。

歴史的には全く関係ないのですが、開国に伴う私の説を一つ。「ひとは見たものに、憧れを持ったものに近づこうとして進化する」という説であります。

例えば、鎖国のまま、食糧事情やスポーツ環境だけが現在のように豊かになったとして、外国文化や外国人に一切触れずに今日まで日本人が過ごしたとしたら? 恐らく、今ほど体格は良くなっていない。扁平な顔つきのままの日本人に違いない。

なぜならば、映画、テレビ、雑誌などで見る外国人へのあこがれで、日本人の体格や顔つきは少しずつ欧米人化してきたのです。つまり「見たものに近づこうとして進化した」ということ。

実際に、最近の子供は目鼻立ちもしっかりしているし、背も高くなったのはもちろんですが、手足も長い。髪の毛が茶色っぽい子もいます。まさに見ることによる進化です。と偉そうに言っても、何の科学的根拠もないのですが。実際に、どこかの村で100年かけて実験をするわけにもいかないですし。

私の説は置いといて、確かに体格はよくなりましたが、中身はどうでしょう。むしろ、退化しているところもあるような気がします。昔の人より今の人の方が優れているかと言えば、「んー」。結局、いろいろ便利になっても、人間の性能は昔と大して変わっていないということですか。

多分、ひーひーじいちゃん辺りは江戸時代。ちょっと前までは、ちょんまげで着物姿の随分不思議な民族だったのでしょうね。それからすると、随分文明も開化しました。さて、これからの150年はどうなっていくのでしょう。

昔の1年分の出来事がわずか1日ほどで進んでいくかのごとき、今の世の中。人工知能なるものが、これからの生活を大きく変えていくんですかね。第4次産業革命とか、新たなパラダイムへなんて色めきだっていますが。

確かに、医療や福祉、自動運転など、いろんな分野でその恩恵は想像を超えるもかもしれません。聞けば答えるスピーカーのように、何でもすぐに答えが手に入るのがいいのか悪いのか。まあ、あのスピーカーも間もなく燃えないゴミの山となるでしょうが。

でも、映画でよく見る近未来都市。無機質な感じ。あれはいやだな。ちゃんと飯を炊いて、木綿の服着て汗かいて。木造の平屋で畑耕して。ちょっと不便な生活。そっちの方向の未来もあっていいような。

維新から150年。あべちゃん以下大臣、党幹部は長州勢多し。素直に自慢できないのが今の長州人としての私の本音かもね。鎖国でもしてみますか。(画家)

《邑から日本を見る》19 相良倫子さん 「平和の詩」の衝撃

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】後期高齢者の仲間に入った私。感激することをまだ忘れてはいないことがわかった。

先月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で執り行われた「沖縄県全戦没者追悼式」のテレビ中継を見ていて、地元中学生の相良倫子さんの「生きる」という詩の朗読に目がくぎづけになり、しばしぼう然。ピンと背筋を伸ばし、堂々とした姿勢で会場を見渡し、すべての方向に目を配り、一つひとつの言葉をかみしめるように情感を重ねながら、こん身の力を込めて平和の尊さを訴えた。まるで「平和」が彼女に乗り移ったかのように。

「私は、生きている。大地を踏みしめ、風を全身に受け、草の匂いを感じ、潮騒に耳を傾けて」「この島は、何と美しい島だろう。青く輝く海、光る波、小川のせせらぎ、山の緑、三線の響き、照りつける太陽の光」

豊かな美しい沖縄の島の情景がわが脳裏によみがえる。場面は一転して、73年前の地獄絵図を鮮明に描き出す。

「小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。優しく響く三線は、爆弾の轟に消えた。青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声。燃えつくされた民家、火薬の匂い」

私も相良さんもこの場面を目にしてはいないけれども、戦争の残酷さを思い浮かべることができる。彼女は、幼いころから曾祖母が語る戦争体験に耳を傾けていたという。

「みんな、生きていたのだ。私と何も変わらない、懸命に生きる命だったのだ。それなのに、壊されて、奪われた。生きた時代が違う。ただ、それだけで」「私は手を強く握り、誓う。奪われた命に想いを馳せて、心から誓う。私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。平和を創造する努力を厭わないことを」

この言葉を聞いて、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララさんの国連でのスピーチを思い出した。

「私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って」「これからも、共に生きてゆこう。この青に囲まれた美しい故郷から。真の平和を発信しよう。一人一人が立ち上がって、みんなで未来を歩んでいこう」「私は今を、生きていく」

「命」「今」「生きる」の三つをキーワードにして、「命を輝かせて生きる」と決意した14歳の相良さん。私は7分余、一度も下を見ない彼女のスピーチを映像で何度も見た。そしてその情熱と気迫を感じ取った。相良さんの詩は会場や視聴者の魂を揺さぶった。

しかし、その後に登壇した安倍首相は、誰かが書いた原稿を淡々と下を向いて読み上げただけだった。彼女の訴えに何も感じなかったようだ。「私が先頭に立って沖縄の振興を前に進めてまいります」という首相の挨拶は、沖縄を直接統治するという意思表示。辺野古の動きがそのことを示している。怖い国だ。(元瓜連町長)

《食う寝る宇宙》17 英語を話せない迷える宇宙業界人

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【コラム・玉置晋】僕は英語を読めます。文章も多少書けます(辞書を抱えながらですけどね)。中学校から英語の授業があって、大学院修士課程を経て就職。そして今、2度目の大学院修士課程。論文を死ぬほど読み、宇宙における標準規格文書なんかも読んで、日本語にまとめ皆に説明したりして。

でも僕、英語を話せません。初めての海外は新婚旅行のハワイでした。コンビニで買い物をするのも涙目で、あまりの情けなさに離婚の危機でしたが、うちの奥さんの寛容さに救われました。英語を読んでいれば、そのうち話せるようになるさ!と、10年論文を読み続けましたが、状況は変わらず。

本状況から以下の結論が導きだされました。「英語を読める」「英語を書ける」ことと「英語を話せる」ことは別物である。

うちの奥さんは英語ぺらぺらです。助産師をしていて、外国の患者さんとも、冗談をかましながら会話しています。でも、時々、中学校レベルの単語のスペルがわからんといいます。

もう一度言います。「英語を読める」「英語を書ける」ことと「英語を話せる」ことは別物である。

「ちぐらっぽ」英語

僕は恥ずかしながら、英語を話せない宇宙業界人です。宇宙の仕事においては、海外の方と情報をやりとりすることも多いのは想像に難くないと思うのですが、そんな中で僕が生存して来られたのは奇跡に近いと思っています。

じゃあ、勉強しろよと、つっこまれそうですが、僕は知っています。日本語にあふれた日本国内で英語を話せるようになるためには、努力と根性と投資(時間、お金)を要することを。英語を使って仕事で活躍している人たちは、本当に寝る間を惜しんで勉強されている。

正直、彼等と同じ土俵で戦うのは、よい選択とはいえないということを肌で知っています。とはいえ、コンビニで泣かない程度の会話力がないのは、いかがなものかとも思います。以前、家の中で英語を公用語にしてみようと試みたことがあります。夫婦の会話がなくなり、大事なものを失いそうでしたので、1週間で中止しました。

うちの奥さん、英語ぺらぺらと書きましたが、本人曰く「ちぐらっぽイングリッシュ」(「ちぐらっぽ」とは茨城弁で嘘のこと)だそうで、まだまだブラッシュアップが必要と感じている様です。本コラムが掲載されているころ、彼女はハワイに短期留学中です。遊んでないで勉強するんだよ。(宇宙天気防災研究者)

《続・気軽にSOS》16 優しく接するか 厳しく接するか

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【コラム・浅井和幸】優しく接するのが良いですか? それとも厳しくしたら良いですか?こういった質問を、たびたび受けます。

周りの訳知り顔の家族や友人、支援者が「優しくしなさい」「厳しくしなさい」「甘やかし過ぎなんだよ」「厳し過ぎるんだよ」と、あれこれ、ありがたいアドバイスをするのでしょう。あるいは立派な本を読んだのかもしれません。聞き続けて、読み続けて、疲れてしまうのでしょうね。

私はこの質問に、どのように応えるでしょうか? この2つの選択肢しかないのであれば、私は無言となります。自由に答えられるのであれば、一言「適切に接するのが良いです」と答えます。もう一言使えるとしたら「目的に対して」を頭に付けます。

言葉にすれば当たり前なのですが、一般的には、この「適切に」が抜け落ちていることが多いです。優しくか、厳しくかの二者択一しか考えられないで苦しんでいる方は、むしろ多数派なのかもしれませんね。

目的に対して、適切に

完璧な適切というもの、理想的なものは幻想にしかすぎないので、試行錯誤、創意工夫をしなければいけません。

そのためには、一つのアクションを起こしたら、相手や環境がどのように変化したか、反応したかをつぶさに見る必要があるでしょう。相手がどのように感じたか、何を伝えたいかをおろそかにして、自分が良い行動、あるいは悪いと責められない方法を取ろうとしてしまいがちなのです。

優しい言葉が良い、厳しくするのが良い、ゆっくりが良い、笑顔が良い、謙虚が良い、丁寧が良い、と言われますが、絶対に良いという対応法は存在するものでしょうか。

気を遣うことで、余計に相手を緊張させることがあります。優しく相手の作業を手伝うことで、相手の能力を奪うこともあります。「目的に対して、適切に接することが出来るように、試行錯誤と創意工夫を繰り返すこと」が大切です。

そのためには、自分がどうするかと同じぐらい、相手がどのように感じているのかにも気を向けることが必要なのです。(精神保健福祉士)

《光の図書館だより》8 どうなる? あなたのまちの図書館

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土浦市立図書館

【コラム・入沢弘子】いま、図書館界で旬の2つのテーマがあります。1つは「まちづくりと図書館」。中教審の諮問「地域活性化やまちづくりに資するために、教育委員会所管の図書館等を首長部局に移管する」を受け、図書館が公共政策の一端を担う比重が高まり、「本来の図書館機能」の低下を招くとの懸念があることです。

2つ目は指定管理者導入の影響です。図書館運営に民間企業等が参入することが可能になりましたが、専門的な人材育成や長期的な計画遂行、地域ならではの図書館サービス提供の継続性を危ぶむ声もあります。

先月開催された関東甲信越地区と全国の2つの研究大会でも、これらのテーマが盛り込まれました。「聖域」だった図書館が、外部要因によって変化を迫られることに危機感を持つ保守的な方が多いのでしょう。

土浦市は、中心市街地活性化を視野に入れたコンパクトシティを推進する中で、図書館を移転させた経緯があるため、駅前のにぎわいを創出することも当館の重要な使命です。併せて、これまで以上の図書館サービスの充実も事業計画に掲げています。

新図書館 2つのミッション

このため、施設自体をシティプロモーション資源とした事業を実施し、開館190日目の今月1日には、年間目標の9割弱の35万人来館を達成しました。運営は一部業務を民間企業に委託しています。おかげで、これまで司書職員が取り組む時間がなかった事業にも、専門性を発揮してもらっています。

私は、関東甲信越大会で、まちづくりに貢献する図書館の事例として、これまでのプロモーション戦略とその成果を発表しました。

長年勤務した広告会社では、「得意先企業の課題解決にノウハウを駆使して貢献する」ことが方針でしたので、市のミッション遂行と図書館運営の両立は当然のことでした。しかし、図書館関係者の間では、民間からの公募館長の発表に賛否が分かれたと聞いています。コンサバティブな方には違和感があったのでしょう。

いま、図書館は変革期に差しかかっています。社会や利用者ニーズに合った、「その市ならではの図書館」はどうしたら実現するのでしょうか。あなたのまちの図書館は、どんな図書館になっていくのでしょうか?(土浦市立図書館館長)

《くずかごの唄》17 高齢化時代 薬剤師の難しさ

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【コラム・奥井登美子】我が家は明治28年生まれの昔からの薬局。お客様も昔からの付き合いのご老人ばかりである。ある日、Aさんがやってきた。元気がない。「歩くと息苦しいので、病院に行って診てもらったら、心臓がもう、へとへと、なんだと…」。

「今日の処方箋、フランドルテープが入っている。これはテープだけれど、心臓の薬(経皮吸収型・虚血性心疾患治療剤)だから、間違えないでね、1日1回、忘れないように、胸か、おなかの上あたりに貼るの」

「絆創膏なんだろ。足か腕に貼ってもいいべな」「心臓の近くに貼らないと、意味がないの。ほら、このパンフに貼り方の絵が書いてあるでしょ。絵の通りに貼ってみてちょうだい」「心臓の薬で貼り薬なんかあるのか」「あるわよ。心臓は大事ですもの」

少しシツコイかなと思ったが、ものがものだけに間違えたら大変。3回も、心臓の近くに貼ることを説明した。

1週間経って、再びAさんがやってきた。「きょう病院に行って、足に貼ったと言ったら、先生に怒られちゃったよ」「この間、よく説明したはず。パンフにも、心臓の薬と書いてあるのに」「目が悪くなっちゃって。読むのが、なんだかオックウなんだ」。

多分ドクターは、調剤した薬剤師の説明が不十分だと判断したに違いない。私としては、何回も念を押して説明したはずなのに、残念至極。

老人にありがちなことだけれど、家に着いたとたん、直前のことはすべて忘れてしまう。絆創膏状の貼り薬は足か手に貼るものという、昔からの慣習がむくむくとよみがえる。

薬剤師も、その人の思い込みを取り除き、理解できる言葉を選んで、ゆっくりと大きい声で、間違えないように何回も説明し、拡大コピーしたパンフを渡す。

医療の進歩とともに、町の薬剤師にも、患者さんの「理解できる言葉を選択する」という、思いがけない問題が降りかかってきたと思う。(随筆家)

《土着通信部》16 月を待って船を出す 土浦・小松三夜下

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霞ケ浦の対岸おおつ野あたりに上がる下弦(二十三夜)の月=土浦・小松「三夜様」から

【コラム・相沢冬樹】三夜下のバス停(土浦市小松3丁目)脇に小さな喫茶店がある。「美味小家」と書いて「うまごや」と読む。家族の競馬好きが高じてのネーミング、地名の小松も気に入っていると女主人のシオタさんはいう。

「だって小松は駒津といったんでしょ」

オープンは2014年。開店準備を見かけてからの付き合いで、散歩途中に立ち寄るようになると、小松について書かれた資料をコピーして渡したりした。

「鎌倉時代の頃は、三夜様の下は海であった。それ以前、まだ鎌倉街道などが整備されていない頃、そこは対岸の真鍋台方面と結ぶ国府道の交通の要衝だった。そこの舟着き場は、公用の旅行者が利用する馬の継ぎ立て場であった。それで「駒津」と言われていたという」(本堂清『土浦町内ものがたり』1989年、常陽新聞社)

三夜様(二十三夜尊)は、バス停近くの百段ほどの石段を登った台地の上にある。その裾を縫うように、根道という名の古道が通っている。今の土浦第二小前から下高津方面に抜け、ルートは分からぬが国府(石岡)まで通じていた。古い東海道という説もある。霞ケ浦南岸の津を結ぶ駅路(うまやじ)だから、三夜下に馬小屋があって不思議はないのである。

僕はブログに、十五夜過ぎての月の出は夜ごと遅くなるから闇夜の中、皆で光明を待ったのが「月待」の起源と書いた。十九夜の月の出は午後9時前後、二十三夜では深夜零時前後になる。一人で待つのは怖いし時間を持て余すから、仲間が集って月の出を待った。それが江戸時代、若妻たちの十九夜講やら、若者衆の二十三夜講へと発展した。

しかし、よく考えてみれば、闇夜を恐れたのは講に集う村人ばかりではない。駅路を利用する旅人にとっても、夜道の往来はきわめて危険だったはずだ。戦前まで、根道から土浦の町方面には霞ケ浦が深く入り込み、沼や入り江に続く低湿地帯が広がっていた。どこでぬかるみにはまるか分からない。夜道に馬を走らせることはできない。

そして、そうか船着き場か──。霞ケ浦は海ともつながっていたから潮の干満もあった。交易や漁労で船を出す際には、潮目を読まなければならない。これに月の満ち欠けがからむ。

上弦(旧暦8日)や下弦(旧暦23日)のころには、月・地球・太陽が直角に並び、太陰潮と太陽潮とが打ち消し合うため小潮となる。基本、穏やかなのである。月の出を待って船を出したのかもしれない。月待が月読につながったという見立てはどうだろう。足だまりとしての駅路が、二十三夜信仰とつながって月読宮となる。

熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(額田王)

津と船と月待は、万葉の時代から詠まれてきたモチーフだと、美味小家で僕はコーヒー片手に講釈をする。二十三夜の6日は月読尊を祀る三夜様の縁日、夜半まで月を待つことなく、月例の行事は午前中でお開きとなる。(ブロガー)

《吾妻カガミ》35 ダメな材料が続出 つくば駅周辺地区

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オークラフロンティアつくば㊧とホテルグランド東雲

【コラム・坂本栄】今回もTXつくば駅周辺の問題を取り上げます。というのはまた悪材料が出てきたからです。本サイト22日の記事によると、センタービル(オークラフロンティアホテルつくばとノバホールをつなぐ建物)の1階にあった蕎麦屋が店を閉じたそうです。人通りが少なくなったところで1店だけ店を張るのはつらいものです。ビジネス判断としては当然でしょう。

前回のコラムで、西武百貨店跡にマンションが建つのは好ましくないと市当局は考えていると書きました。また、あるホテル会社が西武跡を買い取り、ホテルを建てようとしているとの情報も紹介しました。

ところがその後、事情通から「西武跡にホテルは建たない。なぜなら、土地建物の持ち主・筑波都市整備はオークラつくばに対し、西武跡をホテル業者には売らないと約束している」と耳打ちされました。民と民のビジネスを縛る約束があり、高値で買いオファーがあっても、都市整備はホテル用途には売却できないというのです。

一昔前まで、オークラつくばは都市整備が保有するホテルでした(運営は虎ノ門の「ホテルオークラ東京」を運営するホテルオークラに委託)。しかしお荷物になり、経営権をホテルオークラに譲渡、今は都市整備から切り離されています。でも昔のつながりもあり、競争相手になるホテルは西武跡地(隣接区画)に出させないと約束していたようです。

ホテルが集積する街?

マンションもホテルもNOということですから、西武跡地処分のハードルは結構高くなります。このコラムの32でも指摘しましたように、TXつくば駅を中心とするセンター地区は駐車場の利便性に問題があります。また駅間競争では研究学園駅に負けました。

ダメダメばかりです。モータリゼーション時代を迎え、理想の研究学園都市、その中心になるセンター地区の絵を描いた都市計画者は、今ごろなにを思っているでしょうか。

つくばセンター地区をどうやって再生させるか。最近、地域のメディアが好んで取り上げるテーマですが、前段で触れたような制約を取り払い、もっと自由に考えた方がよいのではないかと思っています。マンションでもホテルでもいいのではないか、広い平面駐車場をつくったらどうか、行政はあまり口を出さず、ビジネスベースで進めた方がよいのではないか—と。

オークラつくばとホテルグランド東雲の間(西武跡地)に、大ホテルが建つのも面白いと思います。このエリアに宿泊・宴会・レストランを持つホテルが林立すればにぎやかになるでしょう。とんかつ屋が3軒、ラーメン屋が3軒集まれば、どこがうまいかと足を運びたくなります(例えは大衆的過ぎますが)。(経済ジャーナリスト)

《猫と暮らせば》2 働く女性のメニューは手軽さが条件

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時短ニーズが追い風になり、売り上げを伸ばすレトルトカレー

【コラム・橋立多美】電子レンジなどで手軽に調理できるレトルトカレーの人気が高まり、民間調査会社によると、2017年の売上高が固形のルーを上回ったことが分かった。

その背景は、単身世帯が増えてルーを使って複数人分のカレーを作る機会が減っていること、火を使わないのでシニア世代が安心して使えることが挙げられる。最大の要因は、働きながら育児や家事を日々こなしている女性の時短ニーズだろうと思う。

私の次女は共働き世帯で、2人の小学生を育てながら働いている。夕方仕事を終えると学童保育に迎えに行き、帰宅すると洗濯物の片付けと夕食と入浴の準備に追われて息つく暇もない。子どもたちと食卓を囲んだ後は、台所の片付けや学校への連絡帳と宿題のチェックと、これまた忙しい。

働きながら、育児や家事を日々こなしている女性たちの家事にかかる時間を短縮する「時短商品」の先駆けは、1990年代に発売された食洗器だ。注目を集めてヒット商品となった。その後も時短商品は家電以外の領域に広がり、短時間料理のニーズが高まっている。

主婦向け雑誌では今や、冷凍食品や電子レンジなどを活用した時短調理法の特集が定番企画になっている。働く女性たちの時短ニーズへの要望に応えたものだろう。専業主婦も料理にかける時間を減らしているという調査結果がある。

写真のレトルトカレーは大手食品メーカーから発売されているもので、1食分(150g)が3袋入って税別348円。170gが4袋入った商品は税別398円。いずれのメーカーも食材やスパイスに趣向を凝らし、多彩なレトルトカレーをラインアップしている。

時代の変化とともに暮らしぶりや商品は変わるもの。今の女性たちは、子育て中の母親は自分の身を飾ることより育児に勤しむという、ひと昔前のステレオタイプから脱皮し、ファッションやSNSを楽しみ、自分流の生活を満喫しているように見受けられる。団塊世代の私にはうらやましい限りだ。

母親がハッピーでなければ子どももハッピーにはなれない。母親が手軽な調理で生き生き暮らすことに異論はないが、成長期の子らには新鮮な野菜を添えてやってと願う。(ライター)

《ひょうたんの眼》7 観光振興に便乗するビジネス

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【コラム・高橋恵一】観光客の招致が地域振興の目玉と位置付けられ、様々な取り組みがされている。最近は日本も観光立国と国レベルで喧伝されているが、どうも違和感がある。「観光」とは、文字通り、光=自他ともに誇れるものを、観るあるいは観せることだ。素晴らしい景色、文化的価値の高い建造物、人々を魅了する祭りやイベント、名物料理など。それらに浸りたくて来る人々を観光客という。

北陸の某高級温泉旅館は超一流のもてなしと豪華な料理・施設で有名だが、料金も中途半端でない。庶民は1回だけでも泊まりたいという憧れの旅館だ。その利用者はどこから来るのか? 隣接地域の近畿地方が20%、東京を含む全国が30%、地元北陸3県が50%だそうだ。

遠くの観光客が来てくれるのは、地元の人々に愛されるからなのだ。自ら足を運び、自ら親しみ、自ら誇りに思うものだから、他の地域の人々にも観てもらいたい。その気持ちが根底にあって、観光業・観光地が成り立つのだと思う。

観光振興が地域の経済活性化に繋がることは否定しない。しかし、ビジネスチャンスを優先する発想で、地元の宝物を利用しようとすることは歓迎できない。ユネスコの世界遺産のときも触れたが、他の地域と競って指定を受けるものでもなかろう。人類の歴史や地域の自然の営みを永く歴史に位置付け、その維持保存に万全を期す覚悟を持って指定を受けるべきであろう。

山口萩は「忖度」遺産?

余談だが、明治維新に繋がる産業革命遺産群が世界遺産に指定された。中には、萩の反射炉や松下村塾が含まれているが、茨城の那珂湊の反射炉や弘道館の方が歴史的意義は大きいと思う。萩は為政者の地元である。日本政治史に輝く「忖度」遺産としてなら納得できないでもないが…。

世界遺産指定など、世の中、観光地・資源の権威づけに力を入れているが、日本人の自主性のない「評価基準」を反映したものなのだろうか。自らの眼で美しいと感じ、自らの舌で美味しいと感じるものにこそ、真の価値がある。

底の浅い観光に便乗するビジネスもいただけない。例えば民泊だ。旅とつながる「民泊」の原型は、ホームステイであり民宿だろう。その土地の人々のくらしの雰囲気の中で、普通の家庭・農家・漁家などに泊めていただく。ホスト家族と伴に家庭料理を味わい、その土地の物語を聞かせてもらう。外国人客ともなれば、そのまま国際交流になる。ホストファミリーとの交流もなく、空き部屋利用の宿泊対策ではあまりにも貧相だ。

さらに、地域振興の目玉として、「カジノ」をつくるのだそうだ。金持ち外国人をターゲットにする国家的ビジネスだそうだ。しかし、外国人呼び込みをうたい文句にして始まったマカオのカジノの大半のお客さんは、中国国内からだ。週3回以内という「厳しい」規制下で、生活破綻の憂き目を見るのは日本人客になるのが目に見えている。

自らの素晴らしいものをおすそ分けし、おすそ分けを受ける観光。なのに、一部の人が観光を餌食にする。タコが自らの足を食べるたとえ話を、改めて思い出す時ではないか。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)