火曜日, 4月 30, 2024
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《続・気軽にSOS》1 私が髪を伸ばす理由

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浅井和幸さんの似顔絵イラスト

この3月まで常陽新聞に「気軽にSOS 街の相談屋 上手に悩んで楽しく生きる」を連載させていただきました。週1回を2年半ほど続けることが出来て、とても良い体験ができたと思っています。この度、感じたことや悩み相談をお届けできる機会をNEWSつくばにいただけたことを嬉しく思っています。

半年前の私と、今の私の分かりやすい違いは、髪の長さですね。私は、髪の毛を後ろ側半分だけ伸ばしていて、今、肩甲骨が隠れるぐらいの長さになっています。前から見ると普通の男性の髪形に見えますが、後ろから見ると女性の髪形のような、変てこりんな髪形をしています。

自分でも認識している、変てこりんな髪形。周りの人が変だなと感じるのは当たり前だと思いますが、それでも、私の周りには、変だという人は皆無です。全く困らない状況どころか、いろいろとプラスに働くことがあるぐらいです。

それでも、先日、その髪型を快く感じられないので変えて欲しいという人に出会いました。そんな髪型では周りの人から良く見られないし、相談という仕事をしている以上、マイナスにしか働かないはずだということです。

私自身は、この髪型で損をしたことはありませんよ。むしろ、得をしているぐらいですと実例を出して説明しても、何のために髪を伸ばしているかを説明しても、全く納得してくれませんでした。

この方の意見は私を思って言ってくれたことですし、変な意見ではありません。それどころか、とても常識的な、良識的な意見だと思います。ですが、その常識的で、良識的な感覚が世間にあることが、実は、私が髪を伸ばしている理由にもつながります。

つまり、このような理論です。
1)日本人には、その年代や性別に合った髪型というものがある。サラリーマンらしい髪型、アーティストらしい髪型、ラーメン屋らしい髪型、女性らしい髪型、男性らしい髪型。

2)そして、もちろん子どもらしい髪型というものがある。(余談ですが、私の時代の男子中学生らしい髪型は、坊主頭でした。今では非常識ですか?)

3)「らしい髪型」でないのは、おかしなことである。

4)髪の毛がないのは、子どもらしい髪型でなく、その子どもはおかしい髪型である。

大人の感覚は、子どもに伝わり、そして大人より子供の方が行動化を起こしやすいものです。

髪の毛が無い子どもはいじめられる可能性があるということです。いじめられなくても、髪のない子どもは、自分の姿を恥じ、縮こまっていくことでしょう。

そして、実際に小児がんのため抗がん剤を服用することだったり、他の病気だったりが原因で髪の毛を失ってしまう子供たちが存在します。

その子たちにウィッグを提供する活動、それに髪を寄付するために、私は髪を1年ほど伸ばしているのです。ヘアドネーションというらしく、私は、あともう少しで30㎝を提供できるぐらいに伸びています。

つまり、男の私が長髪であることがおかしいと思う空気があればあるほど、私は髪を伸ばし続け、提供し続けるということでしょう。誰もがおかしいと感じない世界であれば、ヘアドネーションは必要のない世界になるでしょうね。

常識的な、良識的な言動が、もしかしたら偏見を助長し、誰かが傷ついているかもしれないという感覚は大切なことだと思います。(浅井和幸)

【あさい・かずゆき】石岡一高卒。1991年科学技術庁無機材質研究所(総理府事務官)入庁。精神障害者福祉施設勤務を経て、2002年浅井心理相談室開業。NPO法人若年者社会参加支援普及協会アストリンク理事長。NPO法人青少年の自立を支える会シオン副理事長。NPO法人とらい理事。ボランティア活動「浅色の雲の会」主宰。

《宍塚の里山》1 どんなところ?-会発足のころ

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宍塚大池
及川ひろみさん

里山は、雑木林、谷津田、ため池などからなる身近な自然環境です。人々は里山で薪(まき)や炭、肥料など生活に必要な様々な恵みを受けて、田畑を耕し、1000年以上にわたって暮らしてきました。里山の自然は、持続的に活用されてきた、人と自然の協働作品であると同時に歴史的な文化財です。人の手が加わり続けられてきたことで、里山は原生林以上に多様な生き物が生息し、全絶滅危惧種の1/4が里山に生息すると言われています。

茨城県土浦市宍塚には、ため池、雑木林、谷津田、草原、湿地、昔ながらの小川など、様々な環境が複雑に入り組んだ100haほどの里山があります。1960年ごろまでこの里山では、建材、農具、家具、家財用材を取り、生薬、キノコ、山菜、シジミ、魚、ウナギを採るなど、山、田畑、草地すべてを暮らしに利用していました。しかし、灯油、ガス、電気などエネルギー革命によって人々の暮らしは大きく変わりました。また農業と密接な係りがある里山ですが、里山は大型機械の導入が難しいこと、化学肥料の利用によってそれまで里山に依存していた農業が大きくその姿を変えました。そして里山はその価値が一旦見失われたかのようにみえるようになりました。

しかし本当に里山には価値はないのでしょうか、そう言い切れるのでしょうか。このシリーズでは宍塚の里山とはどんなところなのか、そしてどのような価値が潜み、どのように生かすことが可能なのか、大切なところなのか、考えてゆくものにしたいと思います。

宍塚の里山は1970年ごろから開発計画が幾度もありました。その都度社会状況が整わず、実行されることなく、貴重な里山が残されてきました。

会は助走期間の2年を経、1989年9月、この里山について理解を深め、未来に伝える手段を見出すことを目的に「宍塚の自然と歴史の会」が発足しました。その柱は生物の多様性と、環境を学ぶ場所です。

発足当初毎年宍塚の区長さんを訪問し、「観察会をさせていただきたい」「観察会を行うために散策路の草刈りをさせていただきたい」の2点をお願いしました。散策路は市道ですが、よそから来た者がよかれと勝手気ままに行動することは避けたい、礼節を保つための訪問でした。今も許可を得られたところ以外は入らないことを守っています。東京から50㌔圏に位置する宍塚の里山は交通の便もいいことから、観察会には首都圏から参加される方も加わり和気あいあいと行っています。

宍塚の里山は関東平野有数の広い里山であり、2015年環境省による「生物多様性保全上重要な里地里山」に選定されました。(及川ひろみ)

毎月第2、第4金曜日掲載。

【おいかわ・ひろみ】東京都出身。神奈川県内の小学校教員を務める。1970年代につくば市転居後、「学園都市の自然と親しむ会」などのメンバーとして子連れで近隣の自然を散策。1987年に宍塚地区の開発計画を知り、里山を未来に伝える活動に取り組む。現在、認定NPO法人宍塚の自然と歴史の会理事長。

《吾妻カガミ》16 茨城6区のまばゆい風景

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台風一過の筑波山。土浦市街越しに

台風襲来と同時進行した衆院選挙(22日)では、FM放送「ラジオつくば」の堀越智也社長に頼まれ、開票番組(21~23時)の解説を担当した。先の県知事選に続く出演で、本業の経済ジャーナリストから政治にもテリトリーを拡げている。つくば地域を対象とした電波ということを念頭に、解説はできるだけ6区に絞り込んだ。以下、そのポイントを活字に起こしてみた。

6区には3新人が立候補したが、国光あやのさん(自民党)と青山やまと君(希望の党)―2候補とも38歳!―のトップ戦いになった。結果は約6,000票の差を付けて国光さんの勝ち。青山君も重複比例で議員になったから、お2人にはおめでとうと言いたい。つくばみらい、つくば、土浦、かすみがうら、石岡から、30代の男女が国政に向かう。県南地域の変化をまばゆく感じる。

獲得票を市別に見ると、かすみがうらと土浦、石岡は青山君が勝ち、あとの2市は国光さんが勝った。ラジオでは「土浦は青山君の出身地であり県議時代の選挙区、かすみがうらは奥さんの出身地」と勝因を解説したが、両市では自民の取り組みが弱かったのではないかとの分析も聞こえてくる。

いわゆる落下傘の国光さんとお会いしたのは今年2月、出馬表明の数日前だった。著名な政治ジャーナリストから「地域の情勢についてレクしてやってくれ」との電話があり、面談した。その際、地元出身の青山君が前回落ちてからコツコツ活動をしているから、次の次を狙うぐらいの覚悟でないと難しいのではないか、と話した。

ほかに、楽ではない理由を2つ挙げた。①茨城の自民は組織活動がいい加減、政権党ということで頼みにしたら間違い②元厚生相の丹羽雄哉氏の後継ということだが、丹羽氏は正直地元では人気がない―。クールな分析だったと思うが、自民、後継、若い、女性―これらが売りと思っていた国光さんは厳しい表情を見せた。

国光さんにとって、出馬表明から半年後の選挙は想定外だったと思う。だが、強い風が吹いた。9月の県知事選で、自民推薦の大井川和彦氏が勝ったからだ。自民党本部から活を入れられた自民県連が知事選に勝利、その勢いで衆院選に臨んだ。

青山君には、民進党の分裂は想定外だったと思う。仮に立憲民主党候補が立った区のように野党連合が成立、古沢喜幸氏(共産党)が降りるようなことになっていれば、小選挙区議員と比例議員は逆になっていたのではないか。一寸先は闇、政治は難しい。(坂本 栄)

《邑から日本を見る》2 原発問題はやはり争点だった 知事選でわかったこと(2)

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私は、橋本昌氏が告示日の直前になって、東海第2原発の再稼働に反対するという「豹変」ぶりを見せたことに疑問を感じた。新聞は、橋本氏は8月8日の政見放送の収録で「再稼働を認めない」と言った、と伝えている。支持者への根回しはなかったようだ。再稼働反対の公明票をつなぎとめるためではないか、と見られている。

しかし、結果は橋本氏の期待通りにはならなかった。新聞各紙の出口調査では、投票した人の約6割が原発再稼働反対だった。しかしそのうちの4割の人が大井川氏に投票した。原発再稼働は争点にはならなかったと言える。原発に賛成の立場の連合は逆に反発し、大井川氏に流れたようで、橋本氏は結果としてアブ蜂取らずだった。

鶴田氏の敗因はいくつか挙げられるが、決定的と思えるのは、出馬表明が遅れたことだ。記者会見から告示日まで実質1カ月しかなかった。しかも、民進党、社民党の推薦は得られなかった。野党共闘は茨城の知事選では実現しなかった。

私は、自分の経験も踏まえ、投票の際、政策で選ぶ人は1割くらいしかいない、と考えている。会う、話をする、講演会などで聞いてもらう、靴を何足も履きつぶすほど歩け、人に会え、と言われた。しかし、選挙民すべての人に会ったり話したりはできないので、友人や知人の役割も大きい。あの人の言うことなら信頼できると。自公両党はそれぞれの組織をフル稼働させた。本人(大井川)のことは知らなくとも、あの人が言うのだから、という積み重ねの結果だったのではないか。

では、鶴田氏の出馬は無駄だったのか。そんなことはない。新聞各紙が書いたように、最初はそうではなかったのに、間違いなく東海第2原発の再稼働問題は争点になった。原発反対運動をしてきた市町村議の何人かは橋本氏支持を表明し、鶴田票を取り込む行動に出た。

9月に行われた隣県のいわき市長選では、3人の候補者は東京電力福島第1、第2原発がすぐ近くにあるのに、誰も原発や放射能問題を積極的に触れなかった。結果は現職再選だった。原発銀座と言われる福井県では、県レベルでも市町村レベルでも、原発問題を主要論点とする候補者はこれまでほとんどいなかったと聞いている。

大井川氏は「県民の意思を十分に反映する形で、再稼働の可否を慎重に判断する」と言っているようだが、「茨城県民は原発再稼働に反対」が半数を超えていることを重く受け止めて欲しい。

鶴田氏の功績の二つ目は、「いのち最優先」という、誰もが当たり前だと思うことを前面に押し出したことであろう。「歴代知事は大型開発優先の県政を進めてきて、全国第8位の財政力がありながら、医療や福祉、教育は全国最低クラス、魅力度も最低。それはどうしてなの」というのは、主婦の感覚、庶民の感覚であり、これまでそのようなことが選挙時に話題になることはなかった。最新の報道では、本県は今年も「魅力度」全国最下位だそうだ。

さて、本稿が皆さんの目に触れる時には今回の総選挙の結果が出ている。茨城では実質的な野党共闘が成立しなかった。

事前のメディアは、ほとんどで自公両党が圧勝し、野党では小池東京都知事が率いる希望の党が伸びず、立憲民主党が健闘している、と伝えている。結果はどうか。疑惑隠し、大義が見えない、などと言われてきた。天下取りを狙った小池さんは、安倍政権を倒すと言いながら「排除」を振りかざし、しがらみのない政治を口にしても、おやりになることはしがらみだらけ。一貫性がない。有権者はどう判断するだろうか。

とにかく、政治を変えることができる唯一のチャンスは選挙だ。「台所は必ずしも政治につながらないが、政治は確実に台所につながっている」。ありとあらゆることがテーマ、争点になるのだ。年金、医療、教育など、自分の暮らし、地域の変貌、農業の衰退などをどうするのか。あの人に頼まれたからではなく、自分のアタマで考えたいが、後の祭りか。

次回は今回の選挙結果を取り上げる。(先崎千尋)

 

《吾妻カガミ》15 メディアの国際化は

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー15

勝負の分かれ目

斎藤:メディアが一般企業のようにグローバル化することは可能と。

坂本:時事の証券部長のとき、私が手掛けた電子メディアの競争相手は、日経のQUICK、米国のブルームバーグ、英国のロイターの3社でした。

そのころのことは、文藝春秋の下出進氏のロングインタビューを受け、いろいろ話しました。下出氏は取材先を拡げ、「勝負の分かれ目―メディアの生き残りに賭けた男たちの物語」(講談社、1999年刊、2400円)という本にまとめています。

私は、ブルームバーグとかロイターとか外国勢の日本進出に抵抗、外国メディアの記者クラブ加盟を妨害する悪役として描かれています。古本屋かアマゾンで手に入れば、読んでみてください。(笑)

そのころ、時事もグローバル化するにはどうしたらいいか考え、ブルームバーグ買収を夢想したこともありました。私が時事の社長になっていたら、買収に動いたでしょうね。電通株上場で、大株主の時事と共同には多額の含みがあり、軍資金は十分でした。(笑)

相互補完的な媒体

齋藤:そのあたり、もっと詳しく。

坂本:そのころ、ブルームバーグの社長、マイケル・ブルームバーグ氏が会社を処分し、政界に転出するという噂が流れていました。売り値は2億~3億㌦でしたか。

結局、彼はニューヨーク市長になりましたが、会社は売りませんでした。それどころか、自社の含みを政治資金にし、大統領選に出ようと考えたこともありました。

ブルームバーグ氏は、日本の事業を拡大しようと、よく東京に来ました。パーティや会見で同社のことを聞くと、ビジネスの内容が時事と補完関係にあり、魅力的な会社であることが分かりました。

ブルームバーグは①英語版電子メディアを使い②世界の市場関係者に③経済情報サービスする―ビジネスだけをしておりました。時事は①日本語版電子メディアを使い②国内の市場関係者を相手に③経済情報をサービスする―ビジネスが収益の柱でした。

顧客の電子端末に提供するコンテンツも、データに強い―記事には弱い―ブルームバーグ、記事に強い―データには弱い―時事と、サービスも補完的でした。

旧知の証券会社M&A担当役員と、プレスセンターで飯を食い、時事首脳のGOが出たら仲介してくれるかと聞いたら、「買収がうまく行ったらNYに送り込む社長はいるのか」「考えてなかった。いなければ僕が行くしかないか」―こういったやり取りがありました。彼は今、BMWのバイクに乗って世界中を旅行しています。(笑)

この話を時事の役員に話したら、冗談かと思ったのか大笑いされました。私には妄想癖があるということですかね。この構想、いいポイントを突いていたと思いますが。

自社色に染めないと

要は、日本のメディアが国際化するには、ブランドがある既存の会社を買収するしかないということです。日経のように、「FINANCIAL TIMES」というブランドを買わないと、外に出るのはなかなか難しい。

しかし、日経は「FINANCIAL TIMES」に社長を送り込まず、英社の経営陣を尊重すると言っています。これではダメです。日経の色に染めなければ、多額の資金を投入して買収した意味がありません。この辺は物足りないですね。

藤本・齋藤:なるほど。ありがとうございました。(了)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

あとがき 自己紹介的な「メディアあれこれ」は今回で終わります。「吾妻カガミ」は次回以降、一回完結型になります。はじめにでも触れましたように、地域のこと、(国の)内外のこと、いろいろなテーマを取り上げます。不定期ですが、よろしくお願いします。

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

《吾妻カガミ》14 時代の変遷、多様な視点

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー14

月曜は大学の日

斎藤:新聞への寄稿だけでなく、古巣・時事も手伝っているそうですが。

坂本:時事の方は地域アドバイザーです。これは、先に触れた「常陽懇話会」―事務局が新聞社内にありましたので旧社破綻に伴い解散―会員の約3分の1を、時事の同様の組織「内外情勢調査会」に紹介したことが縁になりました。

内情は全国組織ですが、県内には茨城支部(水戸・日立中心)と県南支部(つくば・土浦中心)の2支部があります。地域新聞の社長・会長・顧問を10年やっていましたから、地元の政治家、経営者、首長とは懇意にしておりました。その財産を活用、古巣の地域業務を手伝っているわけです。

また、2015年春から、茨城キリスト教大という日立市の大学で教えるようになりました。4年前にオープンした経営学部の講師をやってくれないかと、知り合いの理事から誘われ、毎週月曜日の午後、2コマ―国際経済と社会科学―教えています。

昔風の講義ではなく、生徒が興味を持つよう、ナマの話も入れてということでしたので、記者時代の知識、新聞経営の経験をブレンドしています。生徒とのコンタクトだけでなく、若い先生といろいろな話をするのは楽しいですね。日立の飲み屋もいくつか開拓しました。(笑)

官主導→民主導

藤本:最後に大きな話になるのですが、戦後日本の経済ジャーナリズムの問題点は。

坂本:取材33年のうち、前半は高度成長、後半はバブル崩壊でした。前半の日本経済は、官主導と言っていいと思います。後半は、金利自由化や規制緩和に象徴されるように、民主導、市場重視になりました。

官主導時代の取材対象は、通産省、大蔵省、日銀などが代表的なところです。民主導になると、自動車、電機、流通といった産業界、企業の商品開発とか業績、株式・為替・金融といった市場に、取材の力点が移りました。

成長期はどうして官主導だったのか。会社に蓄積がなく、おカネがないから、国が産業界におカネを重点配分する必要があったからです。ところがバブルのころから、企業にも蓄えができ、国の指図をいちいち受けない方がやりやすい―そういう景色に変わりました。

その移行期は、80年代後半から90年前半でしょうか。でも、日本の経済ジャーナリズムは、官主導ノスタルジアから抜け切れていない。もっと、企業・市場志向になる必要があると思います。

米国を見ると、企業の合併とか投資の記事、つまり民の記事が多い。FRBの記事も結構ありますが、これは企業がマーケットを気にしているからです。日本では、役所がこう考えているといった記事がまだ多いような気がします。

英米メディアの目

藤本:グローバル化が進む中、経済ジャーナリズムの役割は。

坂本:今、日本の企業がどんどん外に出ています。こういった企業の動きに比べると、メディアはドメスティックです。市場は「日本の読者」、商品は「日本語の媒体」ですから、仕方ないといえば仕方ないでしょう。

でも日経は、英国の経済紙「FINANCIAL TIMES」を買収、市場や商品を拡げる決断をしました。推測ですが、グローバル視野でメディアビジネスを展開しないと、取材対象でもあり読者でもある、企業のニーズを満たせないと判断したのでしょう。

日経を有料電子版で読んでいますが、「FINANCIAL TIMES」の邦訳記事は有益です。情報の質だけでなく、日本メディアとは違った視点で物事を見ているからです。「THE WALL STREET JOURNAL」の電子版も読んでいますが、米のビジネス界、エスタブリッシュメントの視点を知るのに役立ちます。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

 

《吾妻カガミ》13 地域新聞の経営モデル

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー13

 日刊紙<無料紙

坂本:話が逸れました。常陽新聞の方に戻ります。社長を引き受けたものの、ネットの普及によって、全国紙も地方紙も、日刊紙の将来性はないと思っていました。それなのにどうして引き受けたのかと思うでしょう。私の経営方針は、日刊紙は続けるものの、儲からないから、フリーペーパー(無料紙)を収益の柱にする―というものでした。

斎藤:そのビジネスモデル、もう少し詳しく。

坂本:東京には、地下鉄駅にスタンド置きのフリー紙がありますが、地方では全国紙への折り込み―チラシと同じように―がデリバリーの主な手段になっています。

常陽新聞は県南を対象にしたフリー紙を出していたので、その内容・頁数を充実・拡大させながら、水戸市で出していたフリー紙も強化しました。2004年のつくばエクスプレス(TX)開通に合わせ、沿線を対象とする3つ目のフリー紙も発行しました。

リーマンショック

有料日刊紙の赤字をフリー紙の黒字で埋め、地域のために日刊紙を維持する―というのがビジネスモデルでした。もちろん、日刊紙のブランドがフリー紙の信用にもつながるという、相乗効果も意識しました。社長就任後、新聞業界紙の取材にも、日刊紙中心でなくフリー紙中心でと話していました。

ところが、ミニバブル―時事を辞めた03年を底に株価は回復プロセスに入りました―を想定した経営モデルは、08年のリーマンショックで崩れました。フリー紙は100%広告収入で成り立っていますから、リーマンで景気が悪化、広告はあっという間に蒸発しました。

フリー紙は、ミニバブルを追い風に、マンションなど不動産広告、ショッピングセンターなど小売店広告が主な収入源でしたから、それは最悪でした。

私は、経済は2~3年ダメだなと思い―実際は5年も続きましたが―、フリー紙のうち県南版だけ残し、水戸版は廃刊、TX版は投資分を回収して転売しました。フリー紙中心モデルは困難と判断したわけです。

旧社破綻→新創刊

藤本:常陽新聞の破綻と再発行に至る経緯は。

坂本:一連の再生シナリオを描いて、社長を辞任、地域の有力者に後をお願いしました。でも継続性というものがありますから、2年は会長として残りました。そのあと顧問に退き、経営の第一線から離れました。

ただ、地域の名士の方々、約100人―社長さん、理事長さん、市長さん、議員さん―を会員とする「常陽懇話会」の主宰は続け、月1回、東京の評論家とか地元の有力者を呼んで講演してもらいました。

ところが13年夏、2代あとの社長がついにギブアップ、破産処理をして、新聞社の歴史は終わりました。そこまで悪くなっているとは私も知らず、ビックリでした。日刊紙の読者は減り、フリー紙も不振ということもあり、仕方ないでしょう。

店仕舞から1ヶ月経ったころ、ソフトバンクに10年おられた理系の方が、エリアをつくば市と土浦市に絞り込んで、タブロイド版日刊紙をやりたい、ついては「常陽新聞」の題字を使いたい、と言ってきました。

止めておいた方がいいと言ったのですが、是非にということで、制作、印刷、配送など、会社立ち上げについて助言しました。別の世界にいた方が新聞をやりたいということで、常識にとらわれない経営も面白いかな、と思いました。

その「常陽新聞株式会社」―私が社長をしていたのは「常陽新聞新社」―は、14年2月、常陽新聞を「新創刊」しました。少し協力しなければと、月2回、地域名士へのインタビュー記事を寄稿していますから、記者現役です。(編注:復刊された「常陽新聞」は17年3月末休刊。土屋ゼミ・インタビュー時点では発行中)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

 

《吾妻カガミ》12 ネット展開で経営と衝突

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー12

 アルバイト原稿

藤本:1998年、大阪支社に行かれました。

坂本:大阪赴任中、20世紀から21世紀に移るミレニアムがあり、配信システム=コンピューターの誤作動が起きたらどうするか―これが一つの仕事でした。幸い何事もありませんでしたが。

大阪では支社次長として、経済部、商品部、水産部、社会部、内政部、運動部、写真部などを管理するのが仕事でした。思い出深いのは、和歌山カレー事件ですね。週刊誌やテレビは大騒ぎでした。

藤本:大阪支社の前、解説委員をしていますが。

坂本:新聞社でいうと論説委員ですね。時事は論説記事を配信していないこともあり、論説委員と呼ばないで、解説委員という職名でした。当時、週刊誌「世界週報」「週刊時事」とか、経済関係のニュースレターを発行していましたから、その執筆がメインです。私は、経済、特に国際経済を担当しました。

各社の記者もそうですが、外部の雑誌などからも注文が来ます。比較的時間に余裕がありましたから、週刊誌や月刊誌には随分書きました。いわゆるアル(バイト)ゲン(稿)です。これは楽しかったですね、原稿料も入って来るし。(笑)

通信社→地域紙

藤本:2003年、常陽新聞へ移りました。

坂本:時事を辞め、郷里の土浦に本社があった「常陽新聞」の社長になりました。茨城県には水戸市本社の「茨城新聞」と土浦市本社の「常陽新聞」がありましたが、茨城は県紙、常陽は県南地域紙です。

常陽は1948年創刊ですから、土浦が「県南の商都」と言われたころは経営も順調だったようです。ところが、若い人の新聞離れ、土浦の地盤沈下もあり、苦戦していました。

地方銀行の役員や県庁の幹部から、辞める半年前、地元に戻り社長をやってくれないかという話がありました。いろいろ考えた末、56歳―昔はこの歳が定年でした―になったことでもあり、別の分野、ニュースの卸売り=通信社から、ニュースの小売り=新聞社に転身するのも面白いかと引き受けました。(笑)

ネガティブ要因

実は辞める前の1~2年、経営の方向について私の考えが受け入れられず、悶々としていました。ひとつは、日銀キャップ、経済部デスク、証券部長、経済部長のとき手掛けた電子メディア―金融情報サービスの「MAIN」と証券情報サービスの「PRIME」―のシステム開発体制についてです。

システム更新の際、経営陣は外部開発会社に投げる―アウトソーシングですね―方針を打ち出しました。これに対し私は、通信社のシステムは独自性が強く、外部に任せるには無理があると、自社主導を主張しました。

結局、外のシステム会社に丸投げされましたが、開発に時間がかかり過ぎ、新モデルを出すタイミングを失っただけでなく、投資額も危機水準まで膨らみ、この選択は失敗しました。結果が分かったのは、私が辞めたあとでしたが。(笑)

もうひとつは、通信社としてインターネットをどう使うか―ネット戦略についてです。大阪から戻ったあと、ネットを使ったメディア企画の新部門を任されました。そこで、紙を持たない通信社にとってネットは好機と考え、既存サービス―NTTの専用回線を使った電子サービス―を、ネット上に構築するプランを立てました。

しかし、歴史ある、既存サービス体系を重視する経営陣は反対、ネット化構想だけでなく、組織―メディア事業本部と言いました―も潰されました。こういったこともあり、時事の居心地が悪くなっていたわけです。

システム開発とネット展開の方向性をめぐる、経営陣との衝突。ネガティブ要因ですが、これらも時事を辞め、ローカル紙に移った理由です。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

《吾妻カガミ》11 通信社と新聞社の関係

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー11

 住宅ローン専門会社

斉藤:経済部長時代はどんなことが。

坂本:経済部デスクを3年、証券部長を2年やったあと、経済部長になりました。バブル崩壊後の時期で、金融機関の危機が進行していたころです。

でも、部長のときは、銀行の倒産は出ませんでした。経営の破綻で早かったのは、北海道拓殖銀行です。その後バタバタ行きましたけれど、部長のころは、信用金庫の危機はありましたが、大物金融機関の危機は表面化しておりませんでした。

部長時代の一番のテーマは、個人向け住宅ローンの専門会社―住専と言っていました―が倒産したことでした。住専は銀行が設立したノンバンクです。親銀行のダミーとして、高い金利で住宅ローンを貸していましたが、バブルの崩壊で次々倒れました。金融危機の助走期です。

銀行破綻が表面化したのは、経済部長のあと、整理部長―各部から出稿される記事を最終チェックするセクション―をしていたころです。この時期に、いくつかの銀行や証券が行き詰まりました。

経営危機絡みの記事

今では信じられないけれど、私が経済部長のころ、新聞やテレビの金融機関危機に関する報道は慎重でした。あの銀行の経営が危ないと報道されると、本当に潰れてしまうからです。危ないと書かれると、預金者は下ろしに走り、取り付け騒ぎになる。報道で預金が逃げると、何とか持ちこたえてきた銀行も潰れます。

ですから、どの新聞も銀行のネガティブな記事を出すことには慎重でした。自動車や家電のマイナス記事とは決定的に違います。東京の信金の経営危機が進行していたとき、それを書くかどうか各社悩みました。破綻の引き金を引くリスクは避けたいですからね。

ところが、金融機関の経営不安が常態化し、危機が表面化した90年後半には、あの銀行が危ない、この銀行が危ない、といった記事が争うように出るようになりました。銀行も普通の会社と同じと、報道側にも読者側にも免疫ができたのが大きいと思います。(笑)

三菱銀と東京銀の合併

藤本:三菱銀行と東京銀行の合併はどうでしたか。

坂本:それは時事が抜きました。日経と同着でしたが、新聞協会賞は日経に行きました。というのは、新聞社と新聞社なら対等の立場でどちらが勝ちか審査できますが、通信社は新聞社に記事を売るのが商売なので、通信社と新聞社が賞の判定を競うのは難しい。

時事は、うちの特ダネである証拠を揃え、新聞協会に出しましたが、結局、協会賞は日経に行きました。そのとき、私は経済部を離れ、整理部でしたが、何とか賞を取れないか、いろいろ画策しました。

でも、社内的には、同着だったという評価が定着しています。協会賞は日経に持っていかれましたから、担当記者たちは大いに不満でしたが、決めるのは協会だから仕方ありません。社内的には、時事のスクープという位置付けになっています。名誉のために言っておきます。(笑)

通信社と新聞社は、ニュースコンテンツの卸業=通信社と小売業=新聞社の関係です。別の言い方をすると、新聞社は通信社の顧客ということになります。新聞社はお客様ですから、賞などの争いになると、どうしても立場が弱い。裏話みたいな話になりましたが、こういう理屈で納得させているわけです。(笑)

しかし、記者は、業界の構造に関係なく、取材の現場では競争しているわけですから、なかなか怒りが収まらない。現場からの突き上げで管理職は大変でした。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

 

《吾妻カガミ》10 新メディアをリリース

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー10

電子メディア

斎藤:そのあと経済部デスクを経て、証券部長になります。

坂本:証券部は、株式債券市場、証券会社経営、上場企業決算などがカバー範囲ですが、実は、社長から証券電子メディアをつくれという特命がありました。ですから、取材現場の指揮統括よりも、新商品づくりに力を注ぎました。

今、株価はインターネットのサイトなどにリアルタイムで表示されます。しかし、私が証券部長だったころ、ネットはありませんでした。

刻々の相場はNTTの専用回線を使って送られ、プロ向けの専用端末―これを電子メディアと呼んでいました―に表示されていました。当時、時事はこのサービスをやっていなかったので、この分野に新規参入しようと決断したわけです。

そのころ、一般の人が相場を知る手段は、朝夕刊の株式欄とか、短波放送の音声でした。それで物足りない人は、自分の口座がある証券会社に電話で教えてもらいました。ただ、証券会社や銀行の担当部門は、専用線で送られてくる情報をパソコンのような端末で受け、詳しい市場情報を入手していました。

英米社も競争相手

日本経済新聞の子会社QUICKは、そういった専門サービスをしていました。QUICKのほか、米国ブルームバーグ社―その社長はニューヨーク市長になりました―、英国ロイター通信も似たようなサービスをしていました。

そのころ時事は、為替金融情報をサービスする電子メディア―商品名「MAIN」―を展開、これが軌道に乗ったので、株式債券の電子メディアもやろうと、3社が抑えていた市場に殴り込みをかけたわけです。

私はこのプロジェクトの責任者になり、システム担当、営業担当、編集部門を指揮、新メディア「PRIME」―小型の液晶カラー端末、証券会社などが利用―をリリースしました。社内、社外の調整など大変でしたが、完成披露の記者会見も設営、ニュースリリースも書きましたから、これは面白かった。

インサイダー内規

藤本:証券部の運営面で記憶に残っていることは。

坂本:気を使ったのは、株式市場を取材している記者からインサイダー取引を出さないようにすることでした。証券経済記者は取材の過程で、発表されていない企業決算とか新事業などを知ることができます。

その情報をもとに、その会社の株を事前に買って儲けることも可能です。株が上がりそうな記事を出す前に、株を仕込んでおくことができます。そういった行為をインサイダー取引と言いますが、そんなことをやったら報道機関の信用は丸つぶれです。

「PRIME」のリリースで、時事は証券市場に強い影響力を持つようになりましたら、記者がインサイダー取引をやったらアウトです。私は、証券経済記者、その他関係者の株式売買を禁止する内規をつくり、社内に徹底しました。これがないと、何かあったとき社員を処分できません。抑止力を持たせる手段でもありました。

藤本:インサイダーはばれるものですか。

坂本:株式売買はコンピューターでやりますから、その記録が証券会社、市場売買システムに残る。その記録を証券取引等監視委員会―日本版SEC(米証券取引委員会)―がウォッチしています。監視委は不自然な取引を見付け、インサイダー取引を摘発しています。

脱税の摘発と同じで、悪質な行為を見せしめのために取り締まっているようです。證券会社とか銀行の社員、上場会社の幹部がやっていたら、見せしめとしては効きます。メディア人を摘発することも有効でしょう。幸い、私が部長の時、時事からインサイダーは出ませんでした。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

 

《邑から日本を見る》1 茨城は国の直轄地 知事選でわかったこと(1)

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先崎千尋氏

「政治の世界は、一寸先は闇」という随分前に聞いた言葉を思い出している。「解散はこの時しかない」と満を持して安倍首相は9月28日に国会を冒頭解散した。これに対して小池東京都知事は乾坤一擲(けんこんいってき)、民進党をメルトダウンさせ、希望の党を作り、10日告示の選挙戦に臨む。執筆時点では情勢がどう変わっていくのか見通せない。このことについては、いずれコメントすることにするとして、先の茨城県知事選挙を振り返ってみたい。

茨城には新潟のような風は吹かなかった。8月26日投開票の茨城県知事選挙は自民、公明両党が推薦した大井川和彦氏が、7選を目指した橋本昌氏、東海第2原発の再稼働阻止を旗印にした鶴田真子美氏を破り、当選した。

私は、日本原電東海第2発電所の再稼働問題が選挙の争点になると考えていた。しかし、選挙の結果とその後の新聞各紙の検証記事を見ると、どうやら原発問題は主要な争点にはならなかったようだ。

自民党は3月に大井川氏を推薦し、橋本氏は4月に出馬表明した。この時点では、保守同士の一騎打ち、7選の是非が問われる、というのが一般の見方だった。2人とも原発を争点だとは考えていなかった。

原発問題が争点に浮上したのは、鶴田氏が6月末に出馬表明してから。彼女は「原発の再稼働を止めて、あらゆるいのちを守ることが日本の未来にとって大切なこと」と訴えた。

当初は知名度が勝る橋本氏が優位だと見られていた。潮目が変わったのは7月半ばに公明党が大井川氏の推薦を決めたことだった。それより前の7月上旬、東京都議選で公明党が都民ファーストの会の候補を支援したため、自民党が歴史的大敗を喫した。これでこじれた両党の関係修復を狙ったのが茨城県知事選で、菅官房長官と山口公明党代表が手打ちをした、と伝えられている。TBSの報道では、その時点で橋本氏が4 ポイント大井川氏をリードしており、それならひっくり返せるとの判断だったようだ。

県内の公明党支持層は約15 万票。新聞各紙の出口調査ではその8割以上が大井川氏に投票したようなので、決定的だった。まさに「潮目が変わった」のだ。

思い起こせば24年前。竹内藤男知事が汚職で逮捕され、直後の知事選で橋本氏の出馬が首相官邸で決まったことと構図が全く同じ、と私には見える。茨城では、岩上二郎氏以外はすべて中央官庁出身の官僚しか知事になっていない。そこから見えるのは、茨城は国の直轄地ないしは植民地、ということだ。「橋本、お前いつまで知事の座にしがみついてんだ。あとがつかえてるんだ。早くどけ」と言わんばかりだ。岸田党政調会長、小泉副幹事長、野田総務大臣らが続々と県内に入り、安倍政権は総力を挙げて大井川氏にてこ入れした。

橋本陣営は、「官邸介入、中央との対決」を叫んでいたようだが、橋本氏は24年前がどうだったのかを忘れているのではないか。選挙後に群馬の友人とその話をしたら、「群馬では県知事が中央の天下りなんてことはないよ」と言っていた。

総理大臣を務めた細川護熙氏はかつて熊本県知事だった。『権不十年』(NHK出版)という本を残している。権力は10 年も経つと腐ってしまうという意味だ。これをやろうと決めたことの大体は10年の時間があればできる。細川氏は最初から2期8年で辞めることを決めていたようだ。それにしても橋本氏の24年は長すぎた。(先﨑千尋)

毎月第2、第4月曜日掲載。

まっさき・ちひろ】1942年茨城県瓜連町(うりづら)生まれ。慶應義塾大経済学部卒。元瓜連町長。茨城大学人文学部市民共創教育研究センター客員研究員、一般財団法人総合科学研究機構特任研究員、環境自治体会議監査役、NPO法人有機農業推進協会顧問。農業。主な著書は『農協のあり方を考える』(日本経済評論社、1982)、『よみがえれ農協』(全国協同出版、1991)など。那珂市在住。

《吾妻カガミ》9 バブル経済の風景2つ

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー9

 自己資本ルール

斉藤:バブルと関係がある案件はなかったですか。

坂本:実はもう一つ、プロフェッショナルなテーマがありました。銀行には自己資本規制というものがあります。体力に応じた貸し出しをするように、貸出額を分母に、自己資本を分子に置き、その割合を一定以下に抑えるというものです。これを 8%とかに決め、たくさん融資したければ自己資本を増やしなさい、無理なら貸し出しを抑えなさい―と。

なぜこのような規制があるかというと、体力=自己資本を無視して貸し出しに走ると、銀行の経営が不健全になるからです。いざというときカネがないではアウトです。バブルのときに体力不相応の融資をし、バブル崩壊後、返してもらえなくなり、銀行は体力が弱い順に潰れました。

保有株式の含み

日銀を担当していたとき、BIS(国際決済銀行)がグローバルな自己資本ルールをつくりました。いわゆるBIS規制です。簡単に言うと、国際業務をやる銀行は自己資本比率を8%以上にしなければならないというものです。

問題は自己資本の定義です。日本の銀行は融資先企業の株をたくさん持っていましたから、その含み益を自己資本として計上させようと画策しました。そうすれば分子が増え、分母=融資を増やすことが可能になり、業務を拡大ができるからです。

ところが、米銀は企業の株をあまり持っていませんから、日本の主張に反対し、株の含みは自己資本として認められないと主張しました。日本の言い分を認めると、日本の銀行の貸し出しが増え、米銀が負けてしまうからです。結局、この交渉は間を取り、確か、含みの45%は分子として認めることで決着しました。

よく考えてみると、これはバブルの一因になったと思います。当時、株価はカネ余りでドンドン上がっていましたから、45%でも分子はドンドン増える。結果として、日本の銀行は分母に余力ができ、貸し出しを増やせたわけです。

BIS規制が米の要求通り「株の含みはダメ」となっていたら、日本のバブルは小ぶりになったと思います。8%をキープするため、貸し出しを抑えなければなりませんから。

そのころ、ある銀行頭取に「株が上がる時はよいけれども、下がる時は貸し出しがしにくくなくなる。半面しか見ていないのではないか」と言ったことがあります。私は株の下落を心配したのですが、ドンドン上昇したので貸し出しに走り、結果、不良債権の山を築きました。

BIS規制では要求の約半分が通り、銀行はハッピーでしたが、あとで考えると、「うまくいった」ことがバブルの一因になったのです。

成功体験に潜む罠

日米当局は1985年、外為を円高ドル安の方向に誘導することで合意しました。いわゆるプラザ合意です。日銀は、円高によるマイナス―輸出減による経済停滞―を和らげようと、超が付くぐらいに金融を緩めたわけですが、やり過ぎがバブルの原因になりました。

「よかれ」と思い、金融を思い切り緩和、銀行、企業、資産家が「ハッピー、ハッピー」と踊っているうちに、風船が膨らみ過ぎ、破裂しました。BIS規制も超金融緩和も、「うまく行った」「よかれ」と思っていたことが、悪い結果の遠因になりました。

話は違いますが、日露戦争の勝利体験が、先の大戦敗北の遠因になりました。高級軍人の奢りですね。学生のとき、どうして戦争に負けたのか、政略、戦略、戦術などをいろいろ調べましたが、成功体験を踏まえた戦争計画にあったことが分かりました。経済も戦争もはしゃぎ過ぎは怖いですね。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》8 資産効果による好景気  

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー8

 バブル時代の日銀

斉藤:外務省のあと、まだ現場が続いたのですか。

坂本:外務省のあと、キャップという取材グループの長として、また日銀を担当しました。ワシントンへ行く前、日銀では下端でしたが、2回目は一番上になったわけです。(笑)

最初のとき、取材グループは4人でした。ところが2回目のときは増えていて、7~8人体制でした。経済の中で金融の役割が高まっていたからです。キャップは2年半ぐらいやりましたか。

2度目の日銀はバブルが進行していたころです。昭和天皇が亡くなったのは、日銀を担当していたときでした。バブルが弾けたのは1990年代前半ですから、キャップ時代はその真っ直中。

皆ハッピーで、バブルなんて否定的な言い方はしませんでした。破裂してからバブルになるわけで、進行中の言い方は「資産効果による好景気」です。株は上がる、地価は上がる、給料は上がる。豊かな国になったものだと、盛り上がっていました。

日銀幹部も、日産の高級車「シーマ」が飛ぶように売れると、はしゃいでいました。経済は、いずれ米国を追い抜くかという勢い。

キャップの仕事は、銀行の頭取や幹部とゴルフに行くこと。週末、マンションには黒塗りの車が迎えに来て、名門クラブでゴルフ。接待攻勢に経済記者もバブルを満喫していたわけです。(笑)

公定歩合→市場金利

藤本:時代の空気は分かりました。当時の金融のテーマは。

坂本:そのころ日銀は、バブルの原因になった金融緩和に並行して、金利の自由化を進めていました。

自由化が進んだ今、金利はマーケットで決まっています。自由化前は、銀行が貸す金利、個人が借りる金利、預金の金利などは、日銀が根っこの金利―もう死語になりましたが、公定歩合と言いました―を決め、これを参考にいろいろな金利を決めなさいというシステムでした。

貸出金利も預金金利も、日銀がえいやっと根っこを変えると、それに連動して変わる。戦後ずっと、こういうやり方をしてきたわけです。

キャップのころ、日本も経済大国になったのだから、金利も市場で決めるべきだと、日銀は金利の自由化に動きます。私の関心事は、日銀は自由化をどう進めるのか、どういう金融操作をするのか―ということでした。プロフェッショナルなテーマです。

プロ好みの特ダネ

市場金利なんて一般の人は関心ありません。でも経済システムにとっては重要なことでした。日本は世界トップクラスの経済国になりつつある、だから金融システムも米国と同じにしないといけないと、日銀は考えていました。

自由化についての日銀や都銀の動きをウォッチする中で、特ダネも書きました。銀行が優良企業に貸す際の金利を「プライムレート」と言いますが、自由化時代のプライムの決め方―複数の市場金利を組み合わせて決める方程式―を抜いたのです。

専門性の高い記事だったこともあり、編集局長賞とかは出ませんでしたが、金融のプロ―日銀や民間銀行の幹部連―の時事に対する評価は高まりました。

最初に日銀を担当したとき、一番下で外為を担当したときの話の中で、キャップの仕事は政策金利操作だったと言いました。その政策金利とは公定歩合のことですが、私がキャップだったころから、その公定歩合の役割が消滅しました。

日銀はマーケットを操作、いろいろな金利が市場金利に連動して決められるようになったからです。昔、金融のキーワードだった公定歩合は、今、死語になりました。若い記者は知らないでしょうね。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》7 原稿は送れてナンボ

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー7

 原子炉の中に入る

齋藤:1983年にワシントンから帰り、89年に証券部長になります。その間は何を。

坂本:他社の記者のようにデスクといった役職ではなく、若かった私は現場のクラブに配属されました。エネルギー記者クラブ。ここで、電力、石油、ガス業界を担当しました。

いまも石油会社の合併に絡んだ報道がありますが、当時は会社数が多く、その再編成が業界最大のテーマでした。大協と丸善が合併しコスモになるとか、日石と三菱の合併とか。

電力業界は、原発建設が主テーマでした。大津波に襲われ、今、福島原発8基は廃炉中か運転停止中ですが、そのころ、福島は1基か2基しか動いてなかったと思います。新潟の柏崎原発は建設中で、火が入る前の炉に入れてもらい、内側を見せてもらいました。

原発から出たプルトニウムの再処理を青森でやることになり、まだ野原だった六ケ所村にも行きました。今、ほぼ完成はしているものの、稼働していないあのプラントです。

そのころは、原発を電源構成の中心に据えるという原発必要論が世論でした。ポスト福島の今とは大分違っていましたね。海運・造船をカバーしていた73年、石油ショックを経験していますから、原油を輸入に依存する石油火力は安全保障上問題があると、私は思っています。ですから、今も原発必要論者です。(笑)

南米ウルグアイへ

藤本:石油、電力のあとは。

坂本:外務省クラブに2年ぐらい。最近、TPPという経済圏協定が話題になっています。太平洋を取り巻く12ヵ国が集まり、国と国の間の垣根を低くし、投資や貿易を円滑にしようという構想です。

外務省担当のころは、自由貿易と保護貿易の中間モデルでもある経済圏ではなく、GATT(関税貿易一般協定)―今はWTO(国際貿易機構)―の場で、世界の自由貿易ルールをつくるという動きが主流でした。

戦後、この国際機関の場で、関税を低くする交渉=貿易ラウンドが何度も行われました。外務省にいたとき、南米ウルグアイで新貿易交渉をスタートさせようということになりました。いわゆるウルグアイラウンドです。

ウルグアイへの直行便はありません。先ず米アトランタに飛び、ブラジルの空港で一休みして、アルゼンチンに向かう。そこでローカル便に乗り換え、ウルグアイに入りました。

交渉スタートアップの場所、プンタ・デル・エステ―東の岬―という南米の高級保養地でした。そこで1週間、ラウンドにGOを出す会議があったわけです。

回線確保に苦労

リゾートの地で、ビジネスの地でありませんから、電話回線が少なくて原稿を送りたくても送れない。そこで、扱い慣れないテレックスを借り、鑽孔(さんこう)テープを打ち、電話回線の空きを使い、混んでいない時間を狙い送稿する。いくら原稿を書いても、東京に届けなければ何にもなりませんから、大変でした。(笑)

このラウンドはまとまりましたが、3ケタの国が参加するラウンドは利害が錯綜する。こんなことをやってもダメだと、やりたい国だけが集まって貿易圏とか経済圏をつくることが、その後、主流になりました。TPPはその一形態です。

外務省時代、日米貿易問題がまだ残り、ハワイに行ったこともありました。もう一つ大きかったのは先進国首脳会議=サミット。7カ国で持ち回り開催していますから、7年に1回は東京にやって来る。外務省のとき東京サミットがあり、それも担当しました。

ワシントンのときも、ウイリアムズバーグ(米)とベニス(伊)で開かれたサミットをカバーしています。ベニスのときは、カーター大統領機にくっついて回る大旅行でした。島のクラシックなカジノで大勝ち、ホワイトハウスの連中に大番振る舞いしたこともありましたね。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》6 ペーパー社会で助かる

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー6

 日本車規制

藤本:そのほか、どんな大きな案件が。

坂本:2番目は自動車問題です。今、日本の車は米市場でかなりのシェアを持っています。2割とか3割。昔は、フォード、GM、クライスラー、これら米3社がシェアを抑えていました。日本やドイツの車は多くありませんでした。

ところが、日本車は燃費がよいということで、ホンダ、日産、トヨタなどが1970年代後半、シェアを拡げました。このままいったら米の自動車産業が潰れてしまうと、70年代後半から、日本車輸入を規制する動きが出てきた。私がワシントンに行ったころ、その機運が強まりました。

議会に、日本車を規制する法案が毎日のように提出される。米国は、役人が法案をつくるのではなく、議員が法案をつくります。利害が絡んだ議員が、日本車のシェアを何パーセント以下にせよといった法案をガンガン出すわけです。

ですから、議会のプレスギャラリーをチェックすることが日課になりました。その記事が日本の夕刊にデカデカ載りますからね。

藤本:貿易摩擦ですね。

坂本:自動車摩擦です。結局、米側の輸入規制ではなく、日本が自主的に輸出を規制することで話がつきました。自由貿易主義の米国が保護貿易に傾斜するのは恰好悪いということで、日本側の自主アクションになったわけです。通産省が水面下で交渉、決着しました。自動車の輸出減は日本経済の一大事ですから、ワシントン特派員にとっては活躍の場。これが2つ目です。

民主党→共和党

 斉藤:1980年、大統領が民主党から共和党に代わりました。

坂本:民主党のカーター大統領から共和党のレーガン大統領に代わりました。米国では民主党と共和党の間で政権が行ったり来たりしますが、政権が変わると政策もガラッと変わる。

日本でも自民党から民主党に代わったとき、政策が変わりましたけれど、あの比ではない。役人の幹部クラスも総入れ替え。政策の中身も大きく変わる。

大統領が共和党に移ったことで、貿易政策がどうなるか、金融政策がどうなるか、原子力政策がどうなるか、世界中が注視します。この取材は大変でした。これらがパッケージでなく、安全保障、貿易政策、経済政策など、分野別のペーパーで発表されます。

その前に、内容の片鱗でも書かなければなりません。ワシントン担当の勝負所です。緊張を強いられ、えらく疲れました。(笑)

平時は役所回り

藤本:ニューヨークにも支局はあったのですか。

坂本:NYの方が人数は多い。NYの経済は何をやるかというと、米企業の取材が中心になります。証券・為替・金融マーケットもNYの担当です。経済以外では、米国全体の社会部的な記事―流行とか事件とか―はNYが担当していました。

時事の場合、ほかに、ロサンゼルス、サンフランシスコにも各1人置いていました。経済でいえば、ワシントンは財政とか貿易とか金融とかの政策分野がカバー範囲になります。

大きな案件がない平時のルーティンは、財務省、商務省、商務省、FRB―日本の日銀に相当する中央銀行―といった経済関係の役所・機関を回り、広報担当に「何か面白いいことありますかー」と御用聞きすることでした。これは日本でも同じですね。(笑)

米国はペーパー社会ですから、偉い人の発言、イベントの説明、記者会見の詳細など、なんでも文字に起こして配布します。ヒアリングに難があった私には好都合でした。ただ、役所を回り、財務省近くの支局に戻ると、紙袋は資料でいっぱい。それらに目を通し、どれを記事にするか選択するのは大変でしたが。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》5 米政府の危機管理に感心

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー5

ワシントンでも一番下

藤本:ワシントン赴任は1979年8月ですから、30歳ちょっとで。

坂本:べらぼう若いですね。朝日、読売、毎日の3大紙、それから時事通信、共同通信―この5社は、ワシントン特派員の構成がほぼ同じでした。つまり、各社ほぼ4人体制でした。日経、サンケイは2~3人だったと思います。

支局長は各社、国際畑の人です。特派員をいくつも経験した人が支局長。それから、国際畑の中堅記者、政治畑の中堅記者、経済畑の中堅記者というのが、5社の基本陣容でした。NHK、中日新聞はその半分ぐらいで、国際畑と政治畑の組み合わせが多かったようです。

私は4人体制の経済担当です。読売、朝日、共同、毎日の経済担当は年齢が5~10上の、30代後半~40代のベテランでした。政治担当も国際担当も大体そうだったと思います。なぜかというと、当時「上がりのコース」と言っていたのですけれど、ワシントン特派員は、記者をやってきて、現場最後のポストというのが一般的でした。

ワシントンの仕事が終わると、本社に戻って偉くなるのです。編集局の各部次長、つまりデスクになるというのが各社の人事の流れでした。

他社の経済担当に比べると、私は若い。皆さん、経験を積んでいるわけですから、そういう中でどうやるか苦労しました。特派員は各社を代表して来ています。若いということでハンディをもらうわけにはいかない。先輩方が10の仕事をするのであれば、私は15も20もやらないと追い付かない。

ホメイニの革命

斉藤:取材面ではどんなことがあったのですか。

坂本:大きな事件や案件が3つ4つありました。赴任直後の1979年、イランで革命が起こった。それまでイランは、パーレビーという米国と仲のよい王様が支配していました。それを、イスラム教のトップ、ホメイニ師が倒して政権を握った。

そのとき、米大使館員を大使館内に閉じ込め、人質に取ってしまった。これは米国にとって大変な屈辱。結局、失敗しましたが、米軍部隊による米館員奪還作戦も実行しました。

イランは大産油国ですから、この革命で石油市場が混乱。産油国は石油で儲かったドルを世界中で運用していますから、金融市場も大変でした。産油国は、米国、日本、欧州などの企業株や国債に投資してしますが、イランのオイルマネーも数百億ドル、米国市場に投資されていました。革命後、ホメイニはそれらを売却すると宣言したのです。

イラン資産を凍結

多額の株や国債が売られれば証券市場が大混乱に陥る。イランの動きに、ホワイトハウスと財務省が急きょ協議、イランが保有する株や国債の売却を禁じる命令が出されました。売り注文が出ても、それを扱う米国の証券会社は言うことを聞くなと。これで在米資産は凍結され、国際金融への衝撃がブロックされました。

あのとき、安全保障の観点からの資産凍結がなければ、世界は不況に陥ったと思います。この危機管理を見て、さすが米政府と思ったものでした。米国は、安全保障=軍事と市場=経済をセットとして考えていたわけです。私の中でも、趣味の軍事と仕事の経済がクロスした瞬間でした。(笑)

イランの発表は、ワシントン時間の未明でした。東京からバージニア州マクリーンの自宅に「えらいことだ。すぐカバーしろ」と電話が入り、早朝からホワイトハウスと財務省をカバー。それから1週間ぐらい、凍結令の関連記事を書きまくりました。

苦労したのは、財務省が発表する文書をどう記事にするか。法令ですから、ピリオッドがない、読点ばかりです。日本の外国為替管理法の類で、読んでもよく分からない。大蔵省から来ている大使館員の説明も要領を得ず、日経の特派員と解釈を合わせて送稿したものでした。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

初秋に桜? はしゃいで反省

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9月末に咲いた桜
コスモス(秋桜)

桜といえば春を代表する花だが、9月末、桜の花が数輪咲いた。場所は土浦市大岩田の自宅庭。昨年3月、2~3㍍の苗木を注文、造園屋に植えてもらった山桜の若木。昨年4月は数輪、今春はそれなりの花を付けたが、まさか初秋に咲くとは…。

異常気象のせいか、吉兆かとコメントを付け、フェースブック(FB)に写真を載せたところ、「いいね!」「超いいね!」が並び、大ヒット。でも、冷静な「お友だち」もおり、「四季桜ではないか」との指摘が。四季桜?

Wikipediaで調べると、「狂い咲きでない状態で年2回開花」「4月上旬ごろ、10月末ごろ、開花する」「花は薄く淡い紅花」「エドヒガシとマメザクラの交雑種」と説明されている。「四季桜」(栃木県宇都宮酒造)という銘柄の日本酒まであることも知った。

植物にあまり関心がなかった私。「人が犬に噛みついた」級のニュースだと、FBに出して恥をかいたわけだが、その威力を知る機会にもなった。フェイク・ニュース(嘘記事)をチェックしてもらえる場にもなると。

FBは、名前、誕生日、出身校、勤務先、趣味など、個人情報を公開するほど、友だちが集まる仕掛け。友だちの友だちまで紹介してくれるから、輪はどんどん拡がる。あまり拡げると、日々のやりとりが大変なので、OKを出すのは抑え気味にしている。

もともとFBは、大学の同級生が情報を交換するためのソフトだった。これは便利だと世界に拡がり、ビジネス化され、ネット時代の優良企業になった。何だ、それはと、ソフトをダウンロードしたのは、同社がNYに上場したときだった。

FBなどを動かす場=インターネットが拡がったのは1990年代後半。そのころ、ネットは若い人のツールで、メカに弱いシルバーは敬遠すると言われていた。私は逆に、インターネットはシルバーのツールになると思ったが、予想は的中した。

300人超のお友だちは、地域の方々のほか、大学の友だち、記者時代の知り合いも多い。FBを使うと、彼らと毎日コンタクトできる。自宅で繋がるから、動くのが苦手なシルバーにはピッタリ。文字だけでなく、写真や動画まで使える。

桜花をアップしてから4日後、狭い庭に1本のコスモスが花を付けているのを発見した。「秋の桜」と、はしゃいだ反省を込め、ニュースでも何でもない「秋桜」を「秋の桜」との対比(言葉遊び)でアップしたところ、こちらも「いいね!」。

地域どころか、Google Mapsでは点のような庭のことも、ニュースになる? それが全国、世界に発信される。女房が秋桜の花を2輪カット、トイレの一輪差しに。世界はますます絞られる。(坂本 栄)

《吾妻カガミ》4 入社8年で4分野を担当

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー4

 経済でもよかった

藤本:雑用係のあと、取材の現場に出たのですか。

坂本:デスク補助という名の雑用係のあと、入社2年目に、大蔵省のクラブ「財政研究会」に配属されました。ここでは、主計局の防衛主計官を担当、防衛関係予算や中期防衛計画を取材しました。個人的な専門分野だったから楽しかった。政治部でなく、経済部でもよかったと。(笑)

5人クラブの一番下端で1年半やって、次は自動車クラブに回りました。トヨタとか日産とかホンダなど、自動車メーカーが取材対象です。

藤本:自動車クラブというものがあるのですか。

坂本:そう。そこに2年ぐらいいました。そのときは、自動車業界のほか、航空機・軍需産業も取材対象に含めてもらいました。三菱重工、川崎重工、石川島播磨重工、富士重工などです。それぞれ分野は違いますが、これらメーカーは飛行機、タンク、艦艇などをつくっていました。

戦闘機工場や潜水艦造船所の取材もあって、ここも楽しかった。富士重の場合は自動車も飛行機もつくっていましたから、新宿駅前の本社にはよく通いました。

そのあと運輸省クラブに2年ぐらい。今、建設省と合併して国交省になりましたが、当時は別々でした。タンカー建造ブームのころで、私はここで造船と海運を担当しました。大型タンカー建造ドック―当時は100万㌧ドックと言っていました―取材のため、北海道から九州まで造船各社の大型ドックを見て回りました。

一番下は外国為替

そのあと日銀クラブに回され、2年いました。入社8年間で、大蔵省、自動車・兵器、造船・海運、日銀の4分野を担当したことになります。それぞれ2年ぐらいのローテーションですね。あとで話しますが、日銀の次はワシントンに行ってくれと。

斎藤:日銀といういと何か難しそうですが、どんな取材をしたのですか。

坂本:日銀では国際金融、外国為替問題を担当しました。外為というのは変動相場制ですよね。毎日、1ドルいくらとレートが変わる。私が担当したとき、相場が物凄く動いて、円高方向に大きく振れました。1ドル200円台だったものが、180円ぐらいまで。その後200円台に戻りましたけれど、円高に円高にと動いたころです。

当時は、自動車、船舶、家電といった輸出産業が日本の基幹産業で、これらが日本経済を支えていました。円高は輸出にとっては採算上好ましくない。利益を確保するためには、輸出先市場で値段を上げなくてはなりませんから。そうすると競争力が落ちる。輸出企業にとっては大変なことで、経済界は大騒ぎでした。

メディアの方も「大変だ、大変だ」と、毎日のように、外為記事が紙面では大きなスペースを占めました。

市場介入で特ダネ

 当時、時事の日銀クラブは4人でした。私はここでも一番下、割り当てられた分野は為替市場と国際金融でした。日銀で一番大事なのは金融政策の取材です。これは一番上のベテラン記者、キャップがやる。都銀など民間銀行を担当するのが二番手、三番目手の先輩たち。

そのころ国際金融は経済ではマイナーでしたから、一番下は為替を中心に国際金融をやれと。ところが、円高、円高で外為が大きなテーマになり、下っ端の私が特ダネを出す大チャンスに恵まれました。

日銀のあと、ワシントンに行かされますが、社は「あいつは国際金融が得意そうだから米国に出そう」と思ったようです。あのとき日銀にいなければ、ワシントンに行く機会はあったとしても、もっと後だったでしょう。

その特ダネ―日米通貨当局が市場介入協定を締結―の後追い記事が日経や読売の一面に載り、社長賞を貰いました。軍事を勉強するために「New York Times」とか「News Week」を読んでいましたから、読む方の英語はあまり問題ありませんでした。話したり聞いたりはダメでしたが。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》3 雑用の教育効果は大きい

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早大政経学・土屋ゼミ・インタビュー3

電話で原稿取り

齋藤:時事の経済部はどのような新人教育をしていましたか。

坂本:教育はメディア各社によって違うと思いますが、時事は政治部も経済部も社会部も、入社1年目は雑用係です。当時はワープロもないし、インターネットもないわけですから、急ぎの原稿は電話で来ます。

先輩記者の電話送稿を聞き取り、それを原稿用紙に書き写す。それが新人の主な仕事でした。電話で送るほど急がないものは、各記者、属している記者クラブで書く。編集庶務係がオートバイに乗って各クラブを回り、出来上がった原稿を集めて来る。

FAXもインターネットもありませんから、物理的に原稿を集めて来るか、電話で吹き込んでもらうしかありません。大蔵省で予算発表があるときは、詳細で分厚い資料が出る。デスクはそれを早く見たいから「坂本、取って来い」「はい」と、役所に走る。(笑)

雑用の教育効果は大です。電話で1日に何本も原稿を取りますから、書き方を覚えます。先輩の原稿を書き写すわけですから、用字、用語も覚えます。間違えると怒られるから、用字、用語、原稿の書き方を懸命に覚えます。

馬鹿か!勉強しろ!

経済部は当時、50人ぐらいの組織で、記者クラブに40人ぐらい張り付いていました。どのクラブのだれか、声で分かります。雑用をすることで、経済関係の記者クラブ―大蔵省、外務省、通産省、農水省、日本銀行、商工会議所、経団連のクラブとか―は20ぐらいありましたが、クラブがある役所・組織がどんな仕事をしているのかも覚えます。

雑用をやる中で、経済部がカバーしていることが理解できる。教科書で覚えるのではなく、雑用をやりながら覚える。雑用はそういう意味で大事ですね。

左手で電話を持ち、来年度予算額は云々と、右手で原稿を取るわけです。財政用語が分からなければ書き取れない。「それ何ですか」と聞くと「馬鹿か」と怒られる。書き取りを間違うと、デスクから「勉強しろ」と怒鳴られる。

藤本:最初は取材に行くことはないということですか。

坂本:全くありませんでした。やらせてもらえない。せいぜい、記者クラブに原稿とか資料を取りに行くとき、何をしているのか様子を見るぐらい。書かせてもらえませんでした。

広範な取材ネット

齋藤:経済部は何人ぐらいいたのですか。

坂本:部長を入れて50人ぐらい。送ってきた原稿を直すデスクが5、6人。入社1年目の同級雑用係がもう1人いましたが、彼は早稲田の政経でした。あと、弁当手配や庶務的なことをやる人が1人。記者から名刺を作ってくれと言われると、そのおばさんが総務部に頼みに行く。

藤本:その方は記者ではないわけですね。

坂本:ずっと雑用係。そういう人、部長、デスク、雑用係2人、合わせると10人ぐらい。残りは出先のクラブに配置されていました。霞が関だけでも、大蔵省(今の財務省)、農水省、通産省(経済産業省)、外務省、運輸省(総務省)、建設省(国交省)などです。

今はなくなったけれど、経済企画庁という役所もありました。こういった役所のほか、日銀、自動車、電気、百貨店、エネルギー、重工業など、産業界のクラブもある。財界担当のクラブもありました。なんだかんだ入れると20ぐらいあったのではないか。

そういったクラブに記者が張り付いているわけです。少ないところは1人、多いところは3人とか4人とか。そこを拠点に担当分野をカバーするわけです。そういった広範な取材ネットワークがありましたから、記者の活動を支える雑用係は絶対必要でした。飲みに連れて行ってもらえる恩典もありましたが。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》2 政治国際希望なのに経済

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早大政経・土屋ゼミ・インタビュー2

卒論は「戦略論」

藤本:授業とかゼミでは、どんな関係の勉強を。

坂本:一橋の場合、1、2年は教養課程で、ドイツ語とかフランス語とか、第二語学でクラスを分けていました。3、4年の専門課程になると、どこかゼミを選ばなければならない。前期のクラスみたいなものです。

私は、政治学のゼミを初めて持った藤原彰先生―当時は講師から助教授になったばかりでした―のところに入りました。ゼミの同窓は14人でした。

藤原先生は岩波新書の「昭和史」、山川出版の「軍事史」といった本を出していました。軍事史の専門家です。元々、陸軍士官学校卒の将校でした。幼年学校を出て士官学校に入った生粋の軍人。中国では尉官として部隊を率いていたそうです。戦後、東大史学科に入り直し、他の大学を経て一橋に来られ、私が3年になったときゼミを持ったのです。

軍事に関心がありましたから、これは面白そうだと藤原ゼミに入りました。卒論は「戦略論」です。英国にリッデルハートという戦史家がおり、「戦略論」を書いています。元々軍人で、「第2次世界大戦史」も出しています。当時、彼の「戦略論」は翻訳されておらず、丸善書店で取り寄せ読みました。

卒論としては安易でしたが、この本の主要部を翻訳、兵書の古典とその戦略論を比較、コメントを付けてまとめたのが卒論の「戦略論」です。(笑)

軍事卒論は戦後初

斎藤:卒論としては珍しい分野ですが、一橋には軍事関係の卒論がほかにも。

坂本:一橋の場合、卒論は図書館に保存されていますから今でも読めます。提出してから調べたのですが、先の大戦のあと、軍事に関する卒論を出したのは私が初めてでした。

日本は戦争に負けたこともあり、戦後、軍事論はタブー視されていたこともあったと思います。憲法9条問題もあり、今も日本の軍事リテラシーは低い状況が続いています。テレビのコメンテーターの話を聞いていると、小学生レベルです。国際水準からほど遠い。(笑)

戦前、一橋にも戦争関連の卒論はたくさんありました。日本は米国相手に総力戦をやっていたわけですから、管理された経済システムが必要でした。国の資源を戦争遂行に配分しないといけない。経済政策的観点からの卒論は、戦前、戦中、結構ありました。

杉並の久住さん

藤本:1970年に卒業、時事通信に入社しましたが。

坂本:大学時代、軍事関係の知識を得ようと、いろいろな人に話を聞きに行きました。政治評論家とか軍事評論家とか。そういった方に、大学祭の講演に来てもらったこともあります。

その中に、軍事評論家の久住忠男さんという方がおりました。旧海軍佐官で、当時、時事通信が発行していた外交週刊誌「世界週報」に寄稿していました。それを読み、久住さんの杉並のお宅によくうかがいました。「こんなリポート書きました。どうでしょうか」と。

そういうこともあり、時事というのは面白そうだなと。でも久住さんには、時事を受けますから推薦してくださいとは言わないで受けました。関心があったのは軍事ですから、配属は政治部とか外信部―社によって外報部とか国際部とも言います―を希望していたのですが、人事部長が「一橋は経済だろう」と、経済部に回したようです。

人事は組織で決めるものだから、仕方ありません。久住さんに事前にお願いして、当時の社長に「あいつは政治部とか外信部がいいぞ」と言ってもらえば、その通りになったでしょう。でも、そういう裏工作はしませんでした。(笑) (続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

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