【コラム・栗原亮】安政7年(1860)3月3日、水戸浪士が大老井伊直弼を桜田門外で襲った。浪士の1人、関鉄之助の発した銃弾で直弼は即死する。この暗殺、江戸市中で知らない者はなかったが、幕府内が大混乱、発表されたのは1カ月以上も後だった。

直弼暗殺は常陸国にも波及する。水戸浪士に対する幕府の探索は厳しくなり、水戸藩も尊攘派の取り締まりを強化する。当時、小川、玉造、潮来の郷校が尊攘派の拠点となっていた。

信太郡(阿見町、美浦村)では、関東取締出役が農民を動員して槍や鉄砲で武装させ、霞ケ浦を渡り、出島(かすみがうら市)から逃げて来る浪士を捕縛した。大山や牛込(美浦村)でも、農民による監視が6カ月以上続いた。

京都では、長州藩尊攘派が朝廷に攘夷を迫っていた。こういった情勢下、14代将軍徳川家茂が上洛、将軍後見職一橋慶喜は攘夷を約束。文久3年(1862)5月10日を攘夷期限とすることを朝廷に上奏する。

この期限を守り、長州藩は欧米諸国の商船軍艦を砲撃。これに対し、6月1日、米、仏の軍艦が長州の砲台を攻撃。結果、武器・弾薬に劣る長州勢は完敗、砲台は占領された。

政治の舞台は京都へ

長州武士団の刀や槍では、欧米に勝てないことがはっきりする。そこで高杉晋作は、農民や商人の子弟を集め、奇兵隊を創設。高杉は4カ国連合艦隊代表者と交渉に臨んだが、欧米側は彦島の租借を要求。だが高杉は要求を拒否、欧米側は彦島租借を諦める。下関は開港場となり、外国から商品や武器を入手できるようになった。

文久期(1861~64)から政治の中心は、江戸から京都に移った。将軍継嗣を一橋慶喜に据えようとする一橋派の運動も京都が舞台になる。長州藩は藩論を開国路線から攘夷路線に転換、朝廷に食い込む。次第に長州藩が朝廷を牛耳り、朝廷を利用した討幕活動が活発化する。

こうした長州の動きに、薩摩藩と会津藩が危機感を持つ。文久3年(1863)8月18日、長州藩を朝廷から追い出すべく、京都御所を両藩の兵が固め、長州藩を京都から追い出した(8月18日の政変)。長州藩は名誉回復を幕府と朝廷に訴えるが、回復できたのは慶応3年(1867)12月9日。王政復古の大号令によって復権する。(郷土史家)