《土着通信部》16 月を待って船を出す 土浦・小松三夜下

霞ケ浦の対岸おおつ野あたりに上がる下弦(二十三夜)の月=土浦・小松「三夜様」から

【コラム・相沢冬樹】三夜下のバス停(土浦市小松3丁目)脇に小さな喫茶店がある。「美味小家」と書いて「うまごや」と読む。家族の競馬好きが高じてのネーミング、地名の小松も気に入っていると女主人のシオタさんはいう。

「だって小松は駒津といったんでしょ」

オープンは2014年。開店準備を見かけてからの付き合いで、散歩途中に立ち寄るようになると、小松について書かれた資料をコピーして渡したりした。

「鎌倉時代の頃は、三夜様の下は海であった。それ以前、まだ鎌倉街道などが整備されていない頃、そこは対岸の真鍋台方面と結ぶ国府道の交通の要衝だった。そこの舟着き場は、公用の旅行者が利用する馬の継ぎ立て場であった。それで「駒津」と言われていたという」(本堂清『土浦町内ものがたり』1989年、常陽新聞社)

三夜様(二十三夜尊)は、バス停近くの百段ほどの石段を登った台地の上にある。その裾を縫うように、根道という名の古道が通っている。今の土浦第二小前から下高津方面に抜け、ルートは分からぬが国府(石岡)まで通じていた。古い東海道という説もある。霞ケ浦南岸の津を結ぶ駅路(うまやじ)だから、三夜下に馬小屋があって不思議はないのである。

僕はブログに、十五夜過ぎての月の出は夜ごと遅くなるから闇夜の中、皆で光明を待ったのが「月待」の起源と書いた。十九夜の月の出は午後9時前後、二十三夜では深夜零時前後になる。一人で待つのは怖いし時間を持て余すから、仲間が集って月の出を待った。それが江戸時代、若妻たちの十九夜講やら、若者衆の二十三夜講へと発展した。

しかし、よく考えてみれば、闇夜を恐れたのは講に集う村人ばかりではない。駅路を利用する旅人にとっても、夜道の往来はきわめて危険だったはずだ。戦前まで、根道から土浦の町方面には霞ケ浦が深く入り込み、沼や入り江に続く低湿地帯が広がっていた。どこでぬかるみにはまるか分からない。夜道に馬を走らせることはできない。

そして、そうか船着き場か──。霞ケ浦は海ともつながっていたから潮の干満もあった。交易や漁労で船を出す際には、潮目を読まなければならない。これに月の満ち欠けがからむ。

上弦(旧暦8日)や下弦(旧暦23日)のころには、月・地球・太陽が直角に並び、太陰潮と太陽潮とが打ち消し合うため小潮となる。基本、穏やかなのである。月の出を待って船を出したのかもしれない。月待が月読につながったという見立てはどうだろう。足だまりとしての駅路が、二十三夜信仰とつながって月読宮となる。

熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(額田王)

津と船と月待は、万葉の時代から詠まれてきたモチーフだと、美味小家で僕はコーヒー片手に講釈をする。二十三夜の6日は月読尊を祀る三夜様の縁日、夜半まで月を待つことなく、月例の行事は午前中でお開きとなる。(ブロガー)