日曜日, 4月 20, 2025
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《地域包括ケア》8 父の言葉 在宅医療は町医者の仕事

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出典・厚労省

【コラム・室生勝】1903年生まれの父から、町医者は明治時代から往診を行っていたと聞いていた。在宅医療は町医者の仕事だったのだ。このこともあり、私は1976年に診療所を開いたときから、外来通院の患者さんが車の乗り降りが困難になったら、患者さんや家族の希望に応じて臨時往診や定期往診(訪問診療とは言っていなかった)を当たり前のように行っていた。

在宅医療と改まって言われるようになったのは、92年の医療法改正により、在宅医療が入院医療や外来医療と区別されるようになってからである。

90年代から在宅医療に取り組んでいた診療所医師たちは、日本医師会、県医師会、市郡医師会とは関係がない研究会に参加していた。当時の限られた保健福祉サービスを活用して、効果的な手法を工夫しながら在宅医療を実施していた。しかし、その取り組みに共感したのは一部の診療所医師だけだった。

92年に、県医師会地域医療委員会の依頼で「つくば医療福祉事例検討会」の公開デモをつくば市で行ってから、県内数カ所の郡市医師会が在宅ケアカンファレンスを毎月か隔月で開催するようになった。それでも、郡市医師会として会員に在宅医療を勧める活動は低調であった。

2000年の介護保険制度発足後も、県医師会、郡市医師会の在宅医療への取り組みは主治医意見書と介護認定審査会への参加ぐらいであった。06年に在宅療養支援診療所制度が創設されて、やっと診療所医師が在宅医療に参入し始めた。その年に、日本医師会が遅ればせながら「在宅医研修会」を開催している。

日本医師会の在宅医療への取り組みが遅れていた大きな原因は、役員に在宅医療を実践している医師がごく一部で、発言力も弱かったためと思う。さらに県医師会活動は日本医師会の指針通り、また郡市医師会も県医師会の指示通りといった具合で、地域の医師会員も在宅医療が外来診療とは関係のないものと認識していた。

日本医師会が、かかりつけ医の在宅医療と地域包括ケアシステムについて、マスコミを通じ国民にメッセージを送ったのは13年になってからだった。

日本医師会・4病院団体協議会は『医療提供体制のあり方』で「今後の超高齢社会では、これまで以上に在宅医療の充実が必要である。 かかりつけ医による在宅医療を推進すると共に、身近なところにいつでも入院できる病院等を用意して、自宅や居住系施設、介護施設など、どこにいても医療が適切に確保できるように、地域毎に医師会や医療機関が行政や住民と協力しながら、介護など連携した地域包括ケアシステムを確立していく」と提言している。(高齢者サロン主宰)

《宍塚の里山》11 ニホンアカガエル

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大量に産み付けられた卵塊

【コラム・及川ひろみ】ニホンアカガエルは冬季産卵することから、生息が可能なのは谷津田のような冬に水があり、背後に林のある場所-里山が主たる生息地です。

里山で子育てをするサシバは、ヒナにカエルやヘビを与える里山の代表的なタカです。かつてNHKの番組にあった「生き物地球紀行」の撮影が宍塚の谷津、2カ所で行われ、里山のタカ、サシバが放映されました。

しかし放映の翌年からサシバが繁殖に失敗するようになりました。谷津田は大型農業機械が入らず耕作がしにくく、また農家の高齢化も影響し、宍塚の谷津では耕地放棄が目立つようになり、アカガエルの産卵が減ったことで、サシバの繁殖に影響があると考えられました。

そこで会では、農家から休耕になった田んぼを借り1999年から耕作を始めました。また谷津田で耕作する農家を支援するために「米のオーナー制」を設け、耕作が続けやすい条件を整えたり、また親子で耕作する「田んぼの学校」など、田んぼに関わる人を増やし、耕作地を広げてゆきました。

さらに、ニホンアカガエルが産卵できそうな水たまりを増やすために、湿地の復元を図り(2カ所)、アカガエルやドジョウなどの生息用の池(ビオトープ)を3カ所掘り、冬季に水が溜まる場所作りにも努めました。ニホンアカガエルの産卵には、適した水の深さがあり、深過ぎても浅過ぎても卵のふ化に影響があるとの研究報告があることから、水場づくりには深さにも配慮しました。

アカガエルの産卵は一腹に一卵塊と決まっていますから、卵塊数を数えるとアカガエルの生息数がおよそ分かります。毎年2月中ごろから2週に1回、里山内に散る産卵場所で、卵塊数を数え続けています。

サシバが繁殖に失敗するようになってから、会がアカガエルの回復を図るために行った水場の整備の結果、卵塊数が6倍に増えました。カエルが増えるとカエルを好物とするヘビが増え、サシバが確実に繁殖に成功するようになりました。ヘビは嫌われ者で、ヘビが増えることへの非難もあると聞きますが、ヘビは生態系にとって重要な一員です。そうは言っても、なかなか見ることはできません。ご安心を。

この時期の子ども達との自然観察の目玉はアカガエルの卵やオタマジャクシです。卵塊もオタマジャクシも子どもたちに大人気の生き物です。

今年もニホンアカガエルの卵塊やふ化したばかりの小さなオタマジャクシに会える季節になりました。

次期レッドデータブックの書き換え時には、ニホンアカガエルもリストに加えられるだろうと専門家から聞きました。(認定NPO法人宍塚の自然と歴史の会 及川ひろみ)

《ひょうたんの眼》5 教師の号泣

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馬酔木(あしび)

【コラム・高橋恵一】著名人の戦後70年を振り返っての談話をまとめた本があるが、その中の女性の体験として、戦争が終わって復職した傷痍(しょうい)軍人の教師の授業の紹介がある。教師は、「新しい憲法」の前文を涙で声を詰まらせながら読み上げて、生徒に「暗記しろ」と命じたという。

教師は、戦地に行く前「軍国教師」だったのだろう、英語の知識も、真理を求める心も、他人に親切にする大切さも学んでいたが、当時の世相のもと、信念を持って、忠君愛国を鼓舞し、戦争遂行のスローガンを子供たちに伝えていたのだろう。教師は、自分に召集がかかった時、俺まで?と戸惑ったかもしれないが、喜んで出征したに違いない。

しかし、教師にとって、現実の軍隊・戦場は想像をはるかに超えるものであった。大陸では、弱いはずの敵兵が強力な抵抗をして、味方の損害も大きくなり、敵への怒りと憎悪が増した。五族協和、八紘一宇(はっこういちう)の思想の下、大東亜共栄圏を実現して、現地民も皇国の民として幸せな暮らしができるのに、日本人に向けるまなざしの奥には憎悪が潜んでいた。なまじ教養がある分、戦争の理不尽さを思い、様々な矛盾に対して自分を納得させるのに苦しんだ。

戦況の悪化で、南方戦線に送られると、絶望的な前線に立たされた。次々と敵兵を切り倒すはずの隊長は、突撃を命ずる言葉が終わらないうちに砲弾に直撃されて全身が吹き飛んだ。自分は、生徒や部下に教えていた通り、潔く突撃し、最後は「天皇陛下バンザイ」と叫んで散ることだけを考えていたが、突然、爆音と熱さを感じた途端に意識を失った。

気が付いたときは、米軍施設のベッドに収容され、頭部とわき腹に重症を負い、右脚を失っていた。終戦になり、抜け殻のようになって、どうにか故郷に戻り、戦後の人材不足から、教壇に戻ったが、子供たちにどう向き合うのか、何も考えられなかった。どう、生きるべきかも分からなかった。

学校に戻って間もなく、「新しい憲法」の教科書が配布され、教師は、それに接したとき衝撃を受けた。というより、涙があふれ、声を上げて泣いた。他人の前で、大声を上げて泣いた。同僚の教師も、新しい教科書に盛んにうなずいていた。教室で、憲法前文を涙声で読み上げながら、新制中学の生徒に「暗記しろ」と命じたのだった。

教師の実際の経歴を私は知らない。むろん心の葛藤も想像である。国民主権を人類普遍の原理と謳い、人権尊重と戦争放棄を定める新憲法は、教師にとって「自分と国が進むべき道しるべ」になったのだろう。「悟りが開けた」と言える。新憲法は、ほとんどの日本人の「腑(ふ)に落ち」受け入れられた。

後に、児童文学作家となった女子中学生は、70年前の命令を「決して忘れない」と語っている。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)

《くずかごの唄》10 生きがい販売株式会社

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【コラム・奥井登美子】「どこかに、生きがい売っていないかなあ」「イキガイ、生きた貝?ちがう?」「会社停年退職して、主人、やることなくなっちゃった。私のやること一挙手一投足、難癖つけるの。うるさくて、うるさくて…」「生きがい販売株式会社なんて、聞いたことないし、自分で見つけるしかない。何が好きなの?」「仕事が好きなの。それがなくなって、どうしていいかわからなくなっている」

老人の多くなるこれからの社会で、定年後の「生きかた」をどうするか。大きなテーマだ。女の人は仕事を卒業しても、日常の生活の中で、料理とか、手仕事とかで、新しい生きがいを見つけられるけれど、男どもは、どうも方向転換が苦手で杓子(しゃくし)定規に何事も考える。

その生き方が問題なのだ。夫婦の場合は奥さんに当たって多少の憂さ晴らしが出来るけれど、単身の男はそれも出来なくて鬱(うつ)っぽくなってしまう。

うちの亭主は今、4月に講演会を開くと夢中になっている。薬学の合成化学が専門で、停年まで製薬会社の研究所で実験ばかりやってきた人なのに、昨年、湯川秀樹氏の日記が見つかったという新聞記事、アインシュタインが広島に原爆を落としたことを湯川さんに謝ったというテレビ番組を見てからだった。

学生時代に湯川さんの最後の講義を聞きに行ったことを思い出してしまったらしい。アインシュタインの本ばかり何冊も買ってきたり、図書館で借りてきたりして、部屋中がアインシュタインで埋まってしまった。

「講演会ってテーマは何なの」「天文学の新しい幕開け、重力波の発見」「えっ、そんな、専門でもないことしゃべって、自分でわかっているの?」「わかっていない。だから面白いんだ」

自分でもわかっていないことを人に講演する。ずいぶんずうずうしいが、老人だと思えば許してくれるのだろうか。そこのところがわからない。主催者の日本山岳会の人たちの寛容さに期待するしかない。

これからの社会は、近隣の老人の、ささやか過ぎるような「生きがい」にも、目を向けて、もっと社会全体が、老いた人に優しく寛容にならなければならないと思う。(随筆家)

《土着通信部》9 宝飾店の看板娘が2度目の嫁入り

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少女像と大谷満子さん(㊧は中央2丁目時代)

【コラム・相沢冬樹】土浦旧市内で住居表示が行われたのは1973年から74年にかけてだから、1935年に始まる祇園町の歴史は随分と短命だった。今の中央二丁目・桜橋交差点に楔(くさび)の先端を打ち込んだような街区があり、川口1丁目までの約200m区間に商店街を形成していた。「土浦銀座」とも「目抜き通り」とも称された土浦駅前通りきっての商店街だったが、まさに「祗園精舎の鐘の声…盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」の栄枯盛衰を地で行く町名となってしまった。

その旧祇園町では、14年度から土浦市による「亀城モール整備事業」が進められている。16店舗ほどが軒を並べた楔形の街区はほぼシャッター通りと化していたが、市は約1900㎡を買収、一旦更地に戻した上、遊歩道などに再整備する。18年度中に、祇園町は名実ともに消えることになる。

計画を聞いて僕は、街角にたたずむ少女を思い出し、行き先が気になるとブログに書いた。時計・宝飾品の専門店「東京堂」の店頭を飾っていた少女のブロンズ像である。昨年末、突然姿を消したため、伝手(つて)をたどって探し出し、先般再会を果たしてみると、彼女が土浦にやってきたのは1970年代の末だと知った。すでに祇園町の時代ではなかったのだ。

2011年に亡くなった水戸市の彫刻家、小鹿尚久さんの作品で、1978年ごろの二科展に出品された。これを気にいったのが東京堂の経営者、故・桜井幸一さんと娘の満子さん(現姓・大谷)。「上野の展覧会で見て一目ぼれ。私は子供時分からの倹約家で、貯めたお金がソコソコあったので、それを元手に購入を即決した」(満子さん)という。

つくば市側から来た高架道路が土浦駅方向に大きく右カーブを切る交差点付近に、店舗があった。まだ高架道路のない時代、トラックが直進して店に突っ込みかけたことがある。

「日中、お客様が2人ほどおられてね、大きな音にびっくりした。ところがトラックはブロンズ像の右肩をかすめて止まった。それ以来、店の守り神になった」

東京堂の銘を刻む特注の御影石を台座に使っていて、その重さで進入を止めた。以来膝の上にキャベツが置かれたり、さい銭が供えられたりもした。やがて満子さんは嫁ぎ、父親は亡くなり、店は畳まれた。しかし右肩にかすかな傷あとを残す少女は、ずっと店頭で商店街の衰退する様を見届けたのである。

満子さんは今も東京堂の代表取締役を務めるが、会社の所在地は土浦・荒川沖駅近くになっている。訪ねると「つけ汁家安曇野」ののれんがかかるそば店で、少女像は店舗脇に置かれていた。満子さんの嫁ぎ先である。

「以前は300万円で売ってくれって話もあったけど今じゃ不景気でそれほどでもない。動かすにも重くてね、台座込みで1tもあるからクレーン車でやっと運びだした。そば屋には似合わない看板娘だけど、私がモデルだったということにしている」(ブロガー)

《吾妻カガミ》27 市民は「つくばファースト」?

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湖畔の日の出(2018年3月14日午前6時 霞ケ浦総合公園)

【コラム・坂本栄】今年は明治維新から150年。私が卒業した高校は昨年創立120周年の式典を行った。こういった区切りに比べるとつまらないタームだが、在住40年の東京から茨城に戻って15年。生まれ育った土浦に戻るとき、10~20年あるいは30年かけて、2つのことを何とか実現できないかと考えていた。

ひとつは、汚いことで有名になった霞ケ浦の水をきれいにすること。その活動の一環は本コラム《泳げる霞ケ浦へ》欄でも報告されているが、私はある意味「根治」が必要ではないかと思っていた。霞ケ浦と太平洋を水門で遮断することを止め、湖海一体化した自然体系に戻せば、海の浄化力で湖はかっての姿を取り戻すと。

この点については、本コラム《吾妻カガミ》 20の「霞ケ浦を一大リゾート地に」の中で論点(私の考えとそれに対する反論)を整理しておいた。ご関心がある方は保存記事をクリックしていただきたい。

もうひとつは、県南の土浦市とつくば市の合併。2003年に地域紙社長として戻ったあと、両市長へのインタビューの際には、合併について前向きなコメントを引き出すよう工夫した。「平成の大合併」とは関係なく、機運を盛り上げたいと思ったからだ。

土浦との合併は不調に

江戸・昭和の香り(土浦)と平成の香り(つくば)、旧い街(土浦・つくば周辺部)と新しい街(つくば中心部)、湖水(霞ケ浦)と山並み(筑波山)、娯楽(土浦)と学園(つくば)、高レベルの大学(筑波大)と高校(土浦一高)、鉄道(常磐線・TX)と高速(常磐道)―これらをくくれれば広域首都圏の県南中核市として申し分ない。

その機運は13~14年に盛り上がった。つくば市長3期目の市原健一さんが土浦市長3期目の中川清さんに予備的会合を提案、勉強会の形で協議することになったからだ。企業の合併もそうだが、この種の案件は組織トップの意欲と判断によって決まる。両市長とも行政的にも政治的にも円熟する3期目。これは行けると思った。

しかし、予備協議は不調に終わる。最大の要因はつくばの市民が意外と冷めていたからだ。14年秋に実施された市民アンケートでは、合併に賛成15%、反対55%という数字だった。これには言い出しっぺの市原さんもがっかりしたようで、「市民は現状に不満がないようだ」と総括した。

昔、県南の中心だった土浦の市民は現状に危機感を抱き、今、学園都市として成長しているつくばの市民は現状に満足している。市民調査を総括するとこういうことだろう。つくば市民は現状維持に傾いている。流行の表現を使えば「つくばファースト」か。変化を拒み守りに入ると組織も地域も停滞する。(経済ジャーナリスト)

《郷土史あれこれ》5 近世の武家文書と村の史料

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亀城公園に隣接する土浦市立博物館

【コラム・栗原亮】今回はまず江戸時代の文書に触れたい。大名家文書には薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、対馬藩の宗家、仙台藩の伊達家などの文書がある。東京大学史料編纂所の山本博文教授がこれらを『日本史の第一級史料』(光文社新書、2006年)の中で紹介。史料を探す面白さ、読み方をわかりやすく書いており、「近世史への招待」の本ともいえる。

茨城に残る武家文書はどんなものがあるのか。水戸徳川記念館には、水戸徳川家に関する史料と『大日本史』修史事業に関係する史料が残されている。だが、水戸藩の藩政文書は明治維新期の混乱で藩庁が焼かれ、残っていない。

土浦藩土屋家の藩政文書も、明治前期の新治郡役所の火事で焼けてしまった。土屋家の家関係の史料の方は、国文学研究資料館に所蔵されている。その中には村に関する史料が若干含まれている。

古河藩、結城藩、石岡藩、牛久藩などの藩政史料はほとんど残されておらず、県内の藩政文書の残存率は高くない。藩士の文書としては、麻生藩家老三好家の藩政日記『麻生日記抜書』(4冊)、下妻藩家老の『井上家中日記』(40冊)などが残っている。

藩政文書ではないが、古河藩家老鷹見泉石(たかみ・せんせき)が近世後期に残した『鷹見泉石日記』(全8冊、吉川弘文館、2001~4年)もある。泉石は若い頃から蘭学を学び、天文、歴史、地理、兵学などの資料を集め、川路聖謨(かわじ・としあきら)、江川担庵(えがわ・たんあん)、勝海舟、渡辺崋山らと交友があった。

日記には交友関係や公務関係記録があり、幕末期の知識人の動きや諸藩の動向を知る上で貴重な史料である。

一方、村の史料が残るようになるのは、豊臣秀吉が太閤検地を実施し、兵農分離がなされてからである。畿内の惣村(そうそん)では、戦国期には領主(荘園・武家領主)による直接の支配がなくなり、年貢などの徴収を村に請負わせる「村請制(むらうけせい)」が成立したことで、史料が残るようになった。

茨城も同様で、村請負制の成立によって村落の史料が残されるようになった。徳川3代将軍家光のころ、村の組織がほぼ確立したといわれる。(郷土史家)

《続・気軽にSOS》10 はだしの国で靴を売る

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【コラム・浅井和幸】はだしの国で靴を売るという話を聞いたことはあるでしょうか?ビジネスのたとえ話でよく使われるそうです。

ある靴を履いていない国に、2人のセールスマンが訪れます。セールスマンAが、本社に報告をしました。「この国では、靴は売れません。誰も靴を履いていないのですから」。セールスマンBが、本社に報告しました。「この国では、靴が売れます。誰も靴を履いていないのですから」

おおよそセールスマンBの方が、ポジティブで良い気がします。一般的には、ポジティブが良くて、ネガティブがいけないと教えられますからね。しかし、ポジティブにもネガティブにも、良い点と悪い点があるのです。

ポジティブな気持ちは新しい事に挑戦しやすく、ネガティブな気持ちは行動を変えにくいという特徴があります。ポジティブな気持ちは危険に鈍感になりやすく、ネガティブは危険に過敏になりやすいという性質を持っています。

どちらも特徴であって、長所にも短所にもなり得ます。ポジティブも、ネガティブも、程度やバランスが必要で、その場に合わせた適切な使い方が大切なのです。

先ほどのセールスマンBも、その国で靴が売れるかどうかはやってみなければ分かりません。さらには儲けが出るかどうかは、経費などとの兼ね合いがあり、さらに複雑です。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の特徴をあらわした、ホトトギスの有名な俳句がありますよね。

1.鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

2.鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス

3.鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

この3人の方法は、優劣付けがたいですよね(もちろん、全ての方法を巧みに使えたから天下人になった3人だと思いますが)。

先ほどのセールスマンAは「殺してしまえ」と、その場での営業はあきらめ、別の、靴の売れそうな場所を探すかもしれません。セールスマンBは「鳴かせてみせよう」と売る工夫をするかもしれません。「鳴くまで待とう」は、その場ですぐには売らず、売れる時期が来たら一気に売ろうという考え方です。売れ始めた靴を真似て、大資本を使って一気に市場を狙う手もあるでしょう。

私たちは、手軽に上手くいく方法、きっかけを求めます。「成功するたった3つのこと」とか「成功者に共通する7つの習慣」といった文章をあちこちで見ます。「上手くいくきっかけを教えて欲しい」という相談をよく受けます。

それでも私がお願いしたいのは、工夫をし続けること、失敗を繰り返しても考え、行動を繰り返すことです。創意工夫、試行錯誤を繰り返してほしいのです。美味しい料理を作れるようになりたいのであれば、分量を丸暗記するだけでなく、味見をしたり、食べた人の意見を聞いたりして、次に活用するのがよいと思います。(精神保健福祉士)

《泳げる霞ケ浦へ》5 市民の会「ワン・エイト」って何?

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ヨットと釣り人=2012年

【コラム・霞ケ浦市民協会】これまでの本欄コラムで、当協会設立の経緯や、「泳げる霞ケ浦」提唱の理由、世界湖沼会議参加の様子などが伝えられたかと思います。

1995年の第6回会議に向けて組織された「世界湖沼会議市民の会」は当協会の前身ですが、今年の第17回会議においても市民のパワーと行動を結集させるべく、各団体で「世界湖沼会議市民の会’18」を設立しました。前回の名称に「’18」を加えて、通称「ワン・エイト」です。ぜひ、覚えてくださいね。

学術会議である世界湖沼会議の歴史において、23年前の第6回会議がひときわ異彩を放ったのは「市民」の存在と参加でした。

当時、県内外の多くの市民が水問題に関心を寄せ、積極的に問題提起をし、考え、行動し、発表や情報交換をしました。例えば「霞ケ浦の水が臭い」と、ふつうの人が、ふつうに感じることを口にし、意見を聞き、情報を集める。そして、専門家の話を聞く。一歩でも解決に近づこうと、自分たちにできることを見つける。

とはいえ、市民だけでは限界もあり、妙案も実現しないことのほうが多いですよね。そこで必要なのが、市民、行政、企業、研究者の連携です。

このことは、全国に誇るべきパートナーシップとして、第6回会議の『霞ケ浦宣言』にも謳われました。異なる立場の者が、同じ目標を持ち協力していく。この道は、なかなか険しく細く、多数の岐路が想定されますが、目指すゴールは、誰の目にも同じように見えているはずです。

ワン・エイトは、現在24団体で構成されています。県内の環境団体が中心ですが、活動エリアも、事業内容も、組織体制も異なります。「市民」「市民団体」と一くくりにしても、活動がそれぞれ違うのは当たり前のこと。十把一絡げとはいきません。

しかし、これこそがワン・エイトの魅力であり、強さなのです。多種多様な人材と知識、行動力―これは一朝一夕に得られるものではありません。

人材や活動パワーは何者にも勝る財産です。この財産である個々の市民・団体を「点」とすれば、それを「線」に繋いでいくワン・エイトの役割は会議までのものではなく、むしろ会議後にあるとも言えるでしょう。

水環境は、多角的に捉えない限り全体像が見えません。多数の「線」が結び付き、やがて地域、人々を広く包み込めるような「面」が描けるように、ワン・エイトのゴールは未来へ続いています。(市村和男 霞ケ浦市民協会理事長/世界湖沼会議市民の会’18会長)

《つくば道》5 茨城の観光ポテンシャルは高い

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霞ケ浦湖畔から筑波山を望む

【コラム・塚本一也】先日ピョンチャン冬季オリンピックが閉幕し、現在はパラリンピックが開催されています。閉式後はいよいよ2020年の東京五輪が注目されることになるでしょう。また、2019年にはラグビーワールドカップの日本開催が決定しており、同年には茨城国体も開催されます。国内のアスリートが当県を訪れ、さらに世界が日本を注目する機会が訪れようとしています。

国内各地から初めて茨城へ来県するお客様やこれから日本を訪れる観光客に対して、私たちはどのような「おもてなし」をすればよいのでしょうか?

観光開発には俗にいう三原則があります。一つ目はファミリー客をターゲットにすること、二つ目はリピート率を上げる工夫をすること、三つ目は非日常的空間を演出することです。この三原則を忠実に守っているのが東京ディズニーランドです。舞浜の駅を降りた瞬間から演出が始まり、全てのキャスト・スタッフが夢の世界を作り上げています。

将来、国体や東京五輪などをきっかけに、茨城を訪れたお客さまが「次は家族旅行で来たい」―そう思っていただけるかどうかが茨城県観光開発の鍵になります。観光旅行とは非日常を楽しむために時間とお金を費やすのであって、日々見ているような景色や常日頃体験しているようなおもてなしでは、観光客の満足度を高めてリピート率を上げることにはつながりません。

これから茨城県では観光客を取り込むための様々な施策が実施されようとしています。霞ケ浦湖畔から筑波山を周遊する「つくば霞ケ浦りんりんロード」などはいい一例でしょう。このりんりんロードを例にとれば、サイクリング愛好家だけが楽しむのでなく、ファミリー層や幅広い年代の観光客を対象とした地元住民と共に楽しめるような交流の場をつくることなども考えられます。

スパやアスレチック場のような施設の整備や、シンガポールにある森に溶け込むようなテントの屋台村など設ける案はいかがでしょうか?また、このコースは万葉の時代から西の富士、東の筑波と謳われた関東のシンボル「筑波山」を巡るコースで、他県にないポテンシャルを秘めています。茨城空港から筑波山へ向かう観光ルートを開発して、筑波山を一体的に遊園化することも面白いと思います。

これらを実現するためには地域の住民と行政、事業者が一体となって取りくむ枠組みが必要となります。今、世の中にあふれている多くのものは夢物語からはじまりました。オリンピックは夢を実現するためには何が必要かを私たちに教えてくれました。これから訪れる観光客に茨城の自然や歴史、文化や人との出会いと交流の場を提供し、丸ごと楽しんでいただくことが目指すべきおもてなしではないでしょうか。

茨城県が日本有数の観光地へと変わる千載一遇のチャンスが訪れようとしているのです。(大曽根タクシー社長)

《好人余聞》5 「見知らぬ者同士の心が繋がるんです」 矢口蕃さん

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シャック(無線室)で交信する矢口蕃さん

【コラム・オダギ秀】人生という旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのように綴りたいと思っています。

「今の時代は、コミュニケーションが取れない時代でしょ。隣りの家同士でも、知り合わないこともある。でも、ハム(アマチュア無線家)は、全然知らない者同士が、すぐに親しくなれるんですよ」

矢口蕃(しげる)さんは、楽しそうに、自分の長い長いハム人生を語ってくれた。アマチュア無線局JA1IOAの超ベテラン局長。

「CQと言う言葉があります。これは、誰か応答してくださいって意味の無線用語なんです。ハムは、無線で、CQ CQと呼びかける。すると、その電波を聞いたどこかのハムが、それに応えて、おしゃべりが始まる。それでお付き合いが始まります。日本全国だけではなく、全世界でですよ」

矢口さんが初交信したのは1961年というから、矢口さんのハム人生は、もう60年近いことになる。これまでに、のべ25万局以上と交信したそうだ。多くの賞を得ているが、壁に張られたその表彰状にまぎれて、額に入ったクレジットカード大の小さな免許証が、誇らしげに掛けてある。

「道の駅アワード(賞)というのがあるんです。各地の道の駅から電波を出して交信すると、その数で賞が決まる。ボクはそれが楽しくて、新しい道の駅が出来ると出掛けて、そこの駐車場からCQと呼びかけます。すると、無線交信だけでなく、近くのハムは実際にやって来る。そして、ワアワアおしゃべりしたり、その土地の美味しいもの食べたり、温泉に入ったり。見ず知らずの者同士が、見ず知らずでなくなってしまうんです。日本全国に友だちができました。九州行ったり、また北海道にも行きたいな」

その楽しみがあったから、長いハム趣味を続けて来たんだろうなあ、と矢口さんは振り返る。

矢口さんのお宅には、高い大きなアンテナがそびえているが、ここから発信された電波が、矢口さんの世界を拡げ、人生を拡げていったのだろう。

「ハムで広がるコミュニケーションは、ハム同士だけじゃないんです。各地を伺うと、その地のハムが、ハムでない家族や若い人などを連れてきてくれる。そんな出会いも楽しいですねえ」

矢口さんは、無線室のテーブルのキー(モールス信号を打ち出す電鍵)を引き寄せると、愛おしそうに叩き始めた。(写真家)

《続・平熱日記》9 愛車奪還作戦 最大積歳200才?

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【コラム・斉藤裕之】昨年、友人のマヨねえさん邸を弟と建てていた時のことです。手短に説明をしますと、マヨねえ邸は私との共通の友人コマタさん宅の敷地を3分の1ほど分けてもらって建てるところから始まりました。お互いお世継ぎもなく、やがて来る老後をよき隣人として生きていこうという意味合いもあってのことです。

さて、工事もだいぶ進んだある日。弟と作業をしておりますと、1台の軽自動車がコマタさんちの前を徐行しながら通過しました。しばらくすると、また同じ車がやってきて止まりました。運転席と後部座席にはおばあちゃんらしき人影。そして、助手席から降りてきたのはコマタさんの父上ではありませんか。そしてガレージに向かう父上。

ガレージに置いてあるのは父上の愛車ジムニー。実は父上がご高齢のため運転を控えるようにと諭したらしいのですが、内緒で乗っていることが発覚し、コマタさんが強制没収したジムニーなのでした。この日、意を決した父上はおばあちゃん2人を引き連れ、愛車奪還にやってきたのでした。

その後、ガレージをしばらくうろうろした父上。しかしキーが見つからないのか、あきらめた様子で、おばあちゃんたちの待つ軽自動車に乗り込む父上。作戦失敗。よほど車が必要だったのか、これほどの執念と実行力があれば、まだまだ運転も大丈夫な気もしました。でも、コマタさん的には父上の運転はアウトなのだそうです。

アクセルとブレーキを踏み間違える事故が連日のように報じられます。高齢者マークの車も本当に増えました。しかし、ここ茨城では車ナシの生活は考えられません。昨日できたことが今日出来ねえはずはあんめえ。だから、年をとっても免許を返納するのを躊躇(ちゅうちょ)してしまうんでしょうね。

そう遠くない将来に、我が身にもその時がやってくるのは確実。そのころ自動運転技術がどうなっているのかわかりませんが、車に頼らない生活環境に身を移すことも考えないと。

その後、父上は運転をあきらめたそうですが、笑うに笑えない珍事は日々日本中で起こっているのが現実でしょう。それにしても、コマタさんは端から見ても実にかいがいしくご両親に付き合っておられます。えらい!

ところで、父上の愛車ジムニーは現在我が家に停まっています。コマタさんが処分しようとしたジムニーを弟の長女が欲しいということになって、しばらくうちで預かることになったのです。車の後ろに最大積載量200㎏と書いてあるのを見て思いました。積載の載の字はそろそろ歳という字に変わるな。最大積歳量200才なんてね。(画家)

《邑から日本を見る》11 基地の中に沖縄がある

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飯野農夫也の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】私たち人間には、体験しないとあるいはその身になってみないとわからないことがある。水俣病患者の苦しみと差別。東京電力福島第1原発事故による避難者たち。部落問題。「従軍慰安婦」。冤罪事件の被告。数えればきりがない。私は先月、沖縄県の米軍嘉手納基地で、その場にいなければわからない経験をしてきた。

耳をつんざくすさまじい轟音(ごうおん)。音量は100デシベル以上あるのではないか。それがひっきりなしに飛び立つ。基地のすぐ前の道の駅「かでな」でのこと。爆撃機の名前はF-15Cイーグル機。短ければ30秒くらいの間隔で目の前を飛び立っていく。

現在、嘉手納基地には4000mの滑走路が2本あり、隣接して弾薬庫がある。嘉手納町の83%が基地。残りのわずかな土地に1万4000人がひしめきあうようにして住んでいる。嘉手納は基地の島沖縄の縮図だ。朝鮮戦争やベトナム戦争の時には、この嘉手納基地がフルに活用され、多くの人の命を奪った。実際には核攻撃はなかったが、その基地とされた。

復帰前の沖縄には、米軍の核兵器1300発が嘉手納弾薬庫などに貯蔵されていたと伝えられている。米軍は現在、核兵器の存在については、否定も肯定もしない原則を盾に公式認定をしていない。現地の人は、核兵器はあると言っている。

日本全体の面積のうち沖縄はわずか0.6%しかないのに、在日米軍基地のおよそ74%が沖縄に集中している。それ自体が問題だが、そのすべてが沖縄戦でアメリカが日本から強奪したものだということを忘れてはならない。そして米軍機の事故やトラブル、海兵隊員らによる暴行事件は今なお後を絶たず、沖縄の人たちを苦しめている。その根源は、憲法、司法を超えた日米地位協定。その改定が沖縄問題の最大の課題だと考えている。

今回の沖縄行きの目的のもう一つは、辺野古新基地建設現場をわが目で見ることだった。那覇から辺野古まで車で1時間ちょっと。高速道路は米軍基地の中を縫うようにして走っている。基地の中に沖縄があることを実感した。

日米間で辺野古の海にV字型の滑走路を作ることを決めたのが2011年。世界一危ない普天間基地を名護市辺野古に移設するというものだ。ここはキャンプ・シュワブという基地と弾薬庫があり、核疑惑が持たれている。

私が辺野古で見たのは、建設予定地の海岸と、国道沿いにある工事用ゲートと反対派の座り込みテント。昨年秋から護岸工事と石材の投下作業が行われているそうだが、近づけないので、その様子は見られなかった。ジュゴンがすむというきれいな透き通る海。波は静かだった。

2月4日の名護市長選挙で建設反対を主張してきた稲嶺進さんが自民・公明両党が推薦した渡具知武豊さんに敗れた。「安倍官邸と自民が沖縄に襲いかかる」と言われるようなすさまじい選挙だったようだ。その経緯を詳しく書けないが、選挙を含めて辺野古の問題は、憲法を無視し、アメリカにおもねり、平和主義を捨て、強権を振りかざし、地方自治を踏みにじるという安倍政権の本質を示していると思う。(元瓜連町長)

《食う寝る宇宙》9 宇宙現象を古典で調べる

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【コラム・玉置晋】2018年2月5日に茨城大学で開催されたシンポジウム「歴史資料を活用した減災・気候変動適応に向けた新たな研究分野の創成」は刺激的な試みだと思います。僕の指導教官の茨城大の野澤恵先生のグループからも「茨城県内の歴史資料による科学研究への活用提案」という題目で発表がありました。

発表したのは理学部4年生の宮崎君(学部4年生でこの様な大舞台で発表するのは大したこと)です。彼の研究によると、「江戸時代の梅雨は現在よりも雨が少なかったかもしれない」とのこと。土浦の商人で国学者の色川三中(いろかわ・みなか)と弟の美年(みとし)が遺した日記「家事志」には、日々の天気や気象データが含まれており、これを抽出し、現在の気象と比較を行ったわけです。

このシンポジウム、なかなか刺激的な試みです。何かというと、分理融合イベントなんですね。日本人は高等学校で文系クラス、理系クラスに分かれた後、文系民族と理系民族に分かれて、一生、民族思想を掲げがちなのですが、それを打ち破るパンクな試みといえます。この様に分野を超えたアプローチの事を「interdisciplinary(インターディシプリナリー)」と言うそうです。「学際的」とでも訳しましょうか。

古典と科学を融合した「学際的な」動きは宇宙分野でも試みられ、成果が出ています。宇宙天気防災分野について勉強研究していると、ある壁が立ちはだかっていることに気づいてしまったわけです。それは、宇宙天気の科学データがまとまっているのは20世紀後半以降で、わずか半世紀の宇宙天気しか把握できていないということ。そこで注目するのが古典です。三中の「家事志」に記載されていた科学データは気象に関するものでしたが、宇宙天気の様子を示す記録があってもおかしくないわけです。

人工衛星がない時代にも観測できた宇宙天気現象には何があるかというと、まずは太陽の黒点です。中国や日本では、肉眼でも見える巨大な太陽黒点は「日中有黒子」として記載されています。サッカー日本代表のエンブレムにある3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」は黒点を表現したものとも言われています。あとはオーロラですね。大規模な太陽活動の後には、日本でも赤いオーロラがみえることがあります。この様なオーロラは「赤気」と記載されています。

昨年、スペース・ウェザー誌に発表された論文「Ryuho, Kataoka.; Kiyomi, Iwahashi. Inclined zenith aurora over Kyoto on 17 September 1770: Graphical evidence of extreme magnetic storm. Space Weather AN AGU GOURNAL, 2017, DOI: 10.1002/2017SW001690.」によると、1770年に京都で目撃された赤いオーロラに関する記述、描画が古典に記載されており、その様子を分析すると、1859年に発生した宇宙天気大擾乱(じょうらん)「キャリントン・イベント」(コラム3回目参照)を超える規模だった可能性もあるとのこと。

衝撃的なのは、この2つの宇宙天気大擾乱のタイムインターバルが100年未満という点です。来年で「キャリントン・イベント」から160年が経つことを考えると、寒気がします。(宇宙天気防災研究者)

《地域包括ケア》7 電話で繋がる かかりつけ医と患者

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出典・厚労省

【コラム・室生勝】冬になると思い出すのは故郷北陸の雪である。終戦間もない小学6年生の頃、雪が降りしきる夜、大人4人が綱で引っ張る患家の馬ソリに父が毛布にくるまって乗り、往診に出かけたのを鮮明に覚えている。三八豪雪(昭和38年1月)以来、市町村は強力な除雪車で除雪し、ここ20年、往診はスタッドレスタイヤの乗用車で可能になったようだ。

それに比べれば、雪が無いつくばの冬の往診は楽なものだと開業医時代に思った。1990年代に訪問診療していた患者さんは月間平均20数人で、30数人に達したこともあった。木曜日の外来診療を休み、木曜日終日と土曜日午後を訪問診療に当てた。

1990年代半ばから、「つくば医療福祉事例検討会」を共に始めた医師と連携し、重症化しやすい在宅患者さんにグループで緊急対応する体制をつくった。これによって、学会や夏季休暇を利用した隔年の海外旅行にも出かけられるようになった。当時、つくば市医師会で私たちのように連携していたグループが2、3あったように思う。

2000年に発足した介護保険制度で、訪問看護ステーションを利用できるようになり、在宅医療の負担は明らかに減った。連携医師関係も、訪問看護師という協力者を得てやりやすくなった。重症化しやすい患者さんには、24時間対応の訪問看護ステーションを利用してもらった。医師だけでなく、訪問看護師も24時間対応を保証し、患者さんや家族に大きな安心感を与えた。

患者さんに安心感を与えたものに、携帯電話の利用と電話訪問もあった。私は1999年にポケベルを携帯電話に替え、在宅医療を提供している患者さん宅の電話番号をメモリーし、患者さんには私の携帯番号を知らせた。重症化の兆しがある患者さんには、1日おきに電話をかけた。家族に心配なことはないか、症状に変化はないか、往診しなくてもいいかなどを訊いた。

患者さんや家族はかかりつけ医が持ち歩く携帯にいつでも電話できるし、かかりつけ医からは家族に電話がかかってくる。このシステムについて感想を聞いたところ、かかりつけ医がいつも自分たちのことを気にかけてくれているんだと、毎日の緊張感が薄らぎ、介護の辛さが和らいだと評価してくれた。

携帯に患者宅の電話番号を入れるとき、「お宅の電話を何番目にメモリーしました」と必ず伝えた。このことが、私が「自分たちだけのかかりつけ医」でなく「多くの患者さんのかかりつけ医」であることを患者さんや家族に意識させたのか、むやみに電話をかけて来なかった。

患者さんと家族介護者の健康に配慮したトータルケアは、介護者の介護ストレスを減らし、患者家族関係を良好な状態に保ち、在宅医療を続けやすくなり、自宅で看取ることにつながっていたように思う。(高齢者サロン主宰)

《宍塚の里山》10 聞き書き 里山の暮らし②

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「聞き書き 里山の暮らし」中の宍塚大池の写真

【コラム・及川ひろみ】聞き取った中には、宍塚には今はいないゲンジボタル(キノボタルと呼ばれていた)、ムササビ、リスなどもいたことが明らかになった。ウナギ、ドジョウ、タニシも市が立つほど採れたそうだ。中でも最も熱心に捕ったのはウナギ。

夏、池の水が少なくなると池に入り、ウナギ鎌を左右に振り、水中のウナギを鎌の先にひっかけて捕った。今も、鴨居にその鎌が飾られている家が結構ある。そして、今でも度々、大池にはウナギがいるのかと質問を受ける。残念ながら見たことはないが、2013年夏、池が減水した時、ウナギ鎌を振るっている老人を見た。地元の方にはウナギ捕りの思い出が今も強烈に残っているようだ。

「ドジョウは夜行性なので、夜、松の根(ヒデぼっくい)をカンテラ代わりに燃やし、ヤスとドジョウ入れを持って捕った。明かりが宍塚の田に点々とみられ美しかった」とS老人。

キノコ採りの話も多くの方から伺った。「野良の合間にこっそり採る。出る場所はほぼ毎年決まっていて、旨いキノコが出る所は家族にも教えない。教えるのは死の間際だ」とS古老。ドウガンボウ(アオドウカン、クロドウガン)。どれも今では茨城ですら見ることができないと、キノコ専門家から聞いた。

ホウキタケ、初茸、イッポンシメジ、ホンシメジなどなど、美味しいキノコがたくさん採れた様子が伝わってくる(今では宍塚では見られないものも多い)。土地に産するものは地主の所有物だが、キノコと山菜は誰でも採ることができたそうだ。

指先が化膿した時に、カブトムシの幼虫の皮をかぶせると治るとの話には驚いた。この話をされた古老が亡くなられてから、幼虫の皮には殺菌効果があることが報道され、びっくりした。雑菌が多い腐葉土に育つカブトムシの幼虫には、体内に雑菌が入るとこれを殺す作用を持つ物質があると言う。知恵の結晶はどこまでも深く、驚く話が止めどなく聞かれ、知恵の深さを思い知った。

宍塚町50人以上の方から、人によっては10回以上聞き取った。聞いた料理の中のいくつかは、収穫祭や里山の春を楽しむ会で再現。「ならせ餅」「さなぶり」などの伝統行事については、毎年、大勢の子ども達にその意味を伝えている。

2005年、「続聞き書き里山の暮らし―土浦市宍塚」(A6版、334頁)を発行した。①聞き書き編②テーマ編(a農業用水 b山 c谷津田と稲作 d畑と作物 e住 f食 g衣 h年中行事 i動植物)③資料編(航空写真から見た宍塚の変化、土地利用図、小地名及び寺社、年表)―から成っている。

聞き取りをさせていただいた方々がご高齢になり、失われてゆく知恵や記憶をすがる思いで追い求めている。会の出版物は土浦市立図書館、つくば市立図書館、国会図書館に寄付。県内の希望する学校すべてに寄贈した。(宍塚の自然と歴史の会代表)

「続 聞き書き 里山の暮らし」の表紙

《映画探偵団》5 007映画の眼 センター地区の謎

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【コラム・冠木新市】「つくば市議会だより」(No.151)には、つくば市が「中心市街地まちづくりビジョン」を6月目途に策定すると出ていた。また、閉店したクレオを所有する筑波都市整備㈱は売却を考えているようだともあった。

「世界のあしたが見えるまちつくば2018年度予算」には、「クレオ跡地利活用事業」(新規648万円)、「中心市街地プレスメイキング事業(新規1000万円)」が計上されている。つくばセンター地区活性化のための謎を解く「映画探偵団」としては、今後の推移をしっかり監視するつもりである。

監視といえば、“人の眼”になるが、テレビ『つくつくつくばの七不思議/サイコドン』(2014)の撮影中に、面白い発見をした。それは、オークラフロンティアホテルつくば11階の東西南北の窓ガラスが“人の眼”の形をしているということだ。

そして南側の窓ガラスは、なんとノバホール入り口上にある三角形の窓ガラスにぴったりと映り込む仕掛けとなっていた。まるで古代エジプトの石工組織に端を発したフリーメーソンのシンボルマークを思わせるのである。

三角形の眼の視線の先は、一直線でエキスポセンターのプラネタリウムに向けられ、さらに奥の松見公園の展望台を見ている。この展望台の10階には壁画が飾ってあり、東側に黄色、西側に緑色のピラミッド群が描かれている。このことは何を意味しているのか。

“人の眼”で思い出すのは、映画007シリーズである。『007/ゴールデンアイ』(1995)以降、ボンドの巻頭アクション後に始まるタイトルバックには、毎回のように片方の“人の眼”の大写しが挿入される。観客を監視するような“人の眼”である。

「未来はすでに映画の中に予告されている」とは私の持論だが、007シリーズはその裏付けをしてくれている。ボンドが使うスパイの小道具や悪の組織犯罪計画は、公開後20~30年で現実化したものが多い。カーナビ、水陸両用車、顔認証識別システムなどは、はるか昔に描かれていた。

『007/スペクター』(2015)では、ボンドの体内にマイクロチップが注入され、生体データが管理される。犯罪組織スペクターは、偽医薬品を製造し、その秘密をあばく者の抹殺をはかる。人身売買では16万人の移民を風俗に売り飛ばす。

極め付けは、テロ対策を名目に9カ国の情報機関でつくられた“九つの目委員会”に情報を集約させ、世界監視網を形成、その主導権を握ろうとする。

もしスペクターのような組織が、美名のもとにセンター地区に入り込んできたら、市民は見抜けるだろうか。『007/サンダーボール作戦』(1965)では、難民救済所の奥がスペクター本部の作戦本部だった。

そんなことを妄想しながら、センタービル1階のアイアイモールを団員と歩いた。「あ、居酒屋閉じちゃいましたね」と団員が言った。クレオ閉店の陰で、また1店が消えた。だがしかし、居酒屋前のバー「ボンド」は健在である。サイコドン ハ トコヤンセ。(脚本家)

《くずかごの唄》9 家族の分断 38度線の北と南

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【コラム・奥井登美子】ピョンチャンオリンピックが無事に終わって、本当によかったと思う。姑が元気な頃。明治生まれのくせに英会話が出来て、その時代は誰もやらなかったハグまでして、おしゃべりするので、いろいろな外国人が我が家にやってきた。姑の父・祖父たちが設立したキリスト教会が、今の筑波銀行本店の近くにあり、城跡の公園を抜けると我が家にぶつかる。地理的な便宜もあったのかも知れない。

新渡戸稲造さんが我が家にいらした時。6歳だった兄の奥井誠一が、新渡戸さんにしがみついて離れない。子供好きの氏は、彼を膝に抱いたまま写真に写っている。誠一は、東北大学教授(薬学)のとき、45歳で亡くなってしまったが、新渡戸さんから頂いた暖かさを世界中に振りまいたような生き方をした人だった。

我が家に新渡戸稲造氏がいらした時=昭和3年

今の天皇陛下の英会話の先生をしていらしたミス・ローズさんがいらしたこともある。姑はローズさんの来訪が嬉しくて、息子に知らせたかったにちがいない。亡くなった誠一の写真を抱えて写っている。

我が家にミス・ローズさんがいらした時=昭和45年

残念ながら写真が残っていないが、敬虔というにふさわしい韓国人の牧師さんが来宅、一緒に私の手料理で食事をしたことがある。まだ幼い子供が2人、おじいちゃんとおばあちゃんにじゃれつくので、客の前で怒るわけにもいかず、私がとまどっていた時だった。

子供がふざけるのをじっとみていた牧師さんが、どうしたわけか、大きな涙を流している。威厳のある男の人が人前で泣く。その涙の意味の大きさに圧倒されてしまって、姑も私も、何も言えない。不思議な光景に子供たちもしゅんと、おとなしくなってしまった。

「38度線の北に息子の家族がいます」。北朝鮮という国名がまだ普及していなかったので、みな、38度線の北と言っていた。「会いたいのですが、会えません」「……」。それ以上聞いてはいけない雰囲気で、どうしてもうかがえなかったが、祖父、祖母の膝にたわむれ、遊びながら食事をしている幼い子どもたちを見て、思わず涙が出てしまったらしい。

定規で引いたように38度線で北と南に分けてしまったので、別れ別れになってしまった家族も、多かったに違いない。オリンピックで少し歩みよったかのようにみえる韓国の報道の中に、分断された家族の報道がないのはなぜなのか。50年前のこの時から私は気になっている。(随筆家)

《土着通信部》8 石岡まちなかは稲荷神社だらけ ㊦

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参道に素木鳥居が続く木比提(きびさげ)稲荷神社

【コラム・相沢冬樹】石岡旧市内の稲荷神社をめぐって、歩数計は7,000歩を超えていた。さすがに空腹を覚え、そば店で遅い昼食をとることにした。2月7日のことで、店内はひな祭りに向けた飾り付けに切り替わっていたが、テーブルに神社のお札が無造作に置かれていた。女主人に「節分のものか」とたずねた。

すると「初午でいただいた」という。やはり初午行事はあったのだ。金毘羅神社にあった妻恋稲荷のもの。講中があって、神社のお祓いをうけたお札が届けられたばかりだった。

節分やひな祭りに比べれば初午は地味な行事だが、石岡のまちなかにはしっかり根付いている。稲荷神社は観光資源ではなく日常の地縁のなかにある。

「石岡は、歴史的に火事が多い町でね。うちも昭和4年(1929)の大火に遭っている。それが初午の日だったそう」。女主人の話にピンと来るものがあった。今泉義文『石岡の今昔』にこう書かれている。

「石岡地方の俚諺(りげん)に『初午の火は火早い』という言葉がある。これまで石岡の火災はいずれもこの日が多く、大火となっている。明治三年、長峰寺(若松町)の出火も、庚午(かのえうま)二月十日の夜で、筑波おろしの西風に、火の手を吹き付けられ、青木、香丸、仲の内、金丸町の一部が火の海となり、五百余戸を焼野原としてしまった。その中に青木稲荷があったが、奇蹟的にも類焼を免れた」

青木稲荷が「火伏せの稲荷」と呼ばれるようになった所以(ゆえん)を書いた箇所だが、同様の例は昭和4年の大火の際にも起こっていた。全焼206戸、1200棟を焼いたが、守横町にあった稲荷社が火災をよせつけず無事に残るなどしており、これらから火事と稲荷信仰が強固に結びついた。旧町内に作られた講組織が温存され、小さな稲荷社を守ってきたのである。

朱塗りの鳥居が見つからないのも、火に通じる朱色・赤色をあえて避けたからに違いない。

まちなかをはずれるが、木比提(きびさげ)稲荷(石岡市石岡)はその象徴のような神社である。創建年代は不詳だが、常陸大掾(だいじょう)氏の鬼門の護りとして古くから祀られてきたという。

長い参道に鳥居が続くのは、いかにもお稲荷様らしいつくりだが、赤ではない。素木(しらき)鳥居と呼ぶそうだ。ここも昭和59年(1984)に火災に遭っている。焼けた拝殿を建て直したということだが、火の手は裏の本殿にも及んだようだ。柱や蛙股(かえるまた)などの木組みが、正面寄りほど黒く焼け焦げたまま残っている。

昭和4年の石岡大火は3月14日に起こっている。初午といっても旧暦だったのだ。旧暦だと今年の初午は3月27日。二の午、三の午まであるというから、厳しい寒さが続く折、まだまだ警戒を緩めてはいけない。初午の火は早い。用心、用心、火の用心。(ブロガー)

《吾妻カガミ》26 分散投資と電源構成

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霞ケ浦湖畔(土浦市立総合公園から望む)

【コラム・坂本栄】2月下旬、国際経済の最終講義をした。本当は1月だったのだが、ひどい風邪で休講せざるを得ず、補講をセットしてもらった。私は半期15回の最後の講義を「終論」と呼んでいる。それまでは基本的な知識を学んでもらい、最終回では「考え方のベース」になるようなことを話すように心掛けている。

たまたま、最終回は株価が急騰急落している時期にぶつかった。そこで「皆さんが将来おカネを貯め、金融資産を持つようになったときの参考に」と、ポートフォリオ(金融投資の組み合わせ)を重点的に取り上げた。

この考え方については、各論の「株式・債券・商品などの金融商品」で話している。ポイントは①リスク回避のために複数の金融商品に分散して投資する②つまり、預貯金、内外債券、内外株式、外貨などに分け、特定品の暴落による大損失を回避する―など。

終論ではその回の記憶を呼び起こしてもらい、1投資対象がゼロになっても、全体の20~25%を失う程度の割合にしておいた方がよいと話した。「リスクを避けていたのではおカネ儲けはできないが…」と念を押しながら。

リスクをどう見るか

終論では、株価の急騰急落、米金融緩和の終焉、円高傾向の外為など、リスクの事例を説明したあと、話をエネルギーミックス(電源構成)にシフトさせた。「皆さんが毎日使っている電気のつくり方、つまり発電方法も分散しておかないと、想定外のことが起きたとき、経済がリスクにさらされる」と。

電源構成については各論の「石油・石炭・天然ガスの開発」の中で話している。その際のレジメには、原子力20~22%、太陽光や風力など再生可能エネルギー22~24%、液化天然ガス(LNG)火力27%、石炭火力26%、石油火力3%―といった配分が政府の2030年目標と記載。終論では「原発は今ゼロに近いが、政府の発電ポートフォリオでは4本柱の1つ」と補足した。

これらはいずれもリスクをはらんでいる。大津波で非常冷却装置がやられた福島原発は言うまでもない。輸入に依存するLNGや石油も、シーレーンの途絶、産出国の混乱などで輸入できなくなる事態も想定される。

「富士山の噴火や曇天が続く異常気象が到来した場合、太陽光は当てにできない」「大地震で風車が倒れることを想定すると、風力にもリスクがある」「リスキーだが環境対策で優れ、燃料面で安定している原発をポートフォリオに加えることは、逆張り投資としては面白い」とも指摘しておいた。

学生には頭の体操をしてもらえたかどうか。おカネとデンキという生活の大きな要素を掘り下げ、あれこれ冷静に考えてもらえればと思っている。(大学兼任講師)