土曜日, 4月 19, 2025
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《つくば法律日記》4 働き方改革 その理念と現実

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堀越氏の事務所がある「つくばセンタービル」

【コラム・堀越智也】安倍内閣は働き方改革を提唱している。少子高齢化に起因する労働力人口減少や、長時間労働による過労死問題などを契機とする改革である。

男女問わず柔軟に労働時間を選択できれば、子育てもしやすくなる結果、出生率も上昇する。労働者が柔軟に労働時間を選択しても生産性が下がらず、むしろ向上するならば、企業も労働時間を柔軟にする労働体系を採用しやくなる。

各企業の働き方改革の成功事例がビジネス誌やビジネス番組で紹介されることが増えているが、そんな紹介事例が増えていけば、働き方改革も浸透していくだろう。

また、AI(人工知能)も急速に普及していくと思われ、仕事がなくなり労働時間が減ることを懸念する「180度逆方向の問題」があることを考えると、企業にとって労働時間が短くなることによる損失は少なくなるだろう。このように働き方改革そのものは前向きに捉えている。

ただ、自分のことをゆるく語ってみると、事務所の組織としての働き方は別として、自分自身に染み付いた働き方はなかなか変えられない。労働時間を減らせば成果が上がるという確信があればそうするが、睡眠時間さえ削らなければ、働いた分だけいろいろな成果がある。実際は睡眠時間を削ってでも仕事をしてしまう。

野球をやっていた学生時代から、1回でも多くバットを振った者が成功するという落合博満さんや、箸を持てなくなるほど手首を鍛えた野村克也さんの言葉をリスペクトして過ごした。司法試験の時も、朝から晩まで1秒でも多く勉強しようと、歩いている時も歯磨きしている時も何かを暗記しようとしていた。

僕らより上の世代の人たちも、移動のバスでもつま先立ちをして下半身を鍛えるシーンが出てくる「巨人の星」や、倒れても倒れても立ち上がる「明日のジョー」を見て育った。そんな人たちが名誉ある実績を残していると、それに憧れる。

それが子供のころからのことだと、体に染み付いてなかなか離れない。先日、同級生のお寿司屋さんも、数日前に過労でダウンしたにも関わらず、再び立ち上がったジョーのごとく寿司を握っていた。平昌オリンピックでも、極限まで努力した人が結果を出したように思える。

僕の中の働き方改革は、そんなことと、自分の年齢や健康と相談しながら進めていかなければならない難解な事業なのだ。(弁護士)

《続・気軽にSOS》9 一つの原因が一つの結果に?

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【コラム・浅井和幸】私たちは、良い事をすれば良い結果が起きる、悪い事をすれば悪いことが起きる―そのように漠然と思っています。悪い人には悪いことが起き、良い人には良いことが起きると教育されていることもあるでしょう。

さて、それは本当なのでしょうか?真実だと感じているから、「癌になってしまったのは自分が悪い人間だからなのか」とか、「自分が悪い親だから子どもが不登校になってしまったのだ」と責めてしまうのでしょう。

これらの考え方はよくある一般的なものです。ですが、正しい考え方ではありません。むしろ迷信だと断言できます。

さて質問です。善人は病気をせずに、悪人が癌になるものですか?悪人が作った料理はまずくて、善人が作った料理は美味しい料理なのでしょうか?答えは「いいえ」ですよね。

体調の良し悪し、料理の味の良し悪しが、必ずしも人格や行いの良し悪しに直結するわけではありません。でも、悪人の方が得というわけじゃないですからね。良い人間の方が、健康や料理に対して真面目に取り組む可能性は少しだけ高いかもしれませんね。

私が伝えたいのは、一つの良い原因が一つの良い結果を生むわけではないという事です。むしろ、たくさんの要因が重なって結果を生み出すものなのです。一つの材料が悪くても他の材料が良くて、料理人の腕が良ければ、美味しい料理になるでしょう。

「美味しい料理ができた」という結果を出したいのであれば、良い人であるかどうかよりも、美味しい料理が出来るための要因を増やすことが大切なのです。料理の知識や腕、材料、道具など、美味しい料理を作る方向に近づく要因を増やすことが大切なのです。

繰り返しますが、何が目的かを考え、目的に対する要因を増やすことが重要なのです。そもそも、単純に良いと悪いに分けるから間違ってしまうという事が言えるでしょう。目的に向かってプラスなのか?マイナスなのか?―という考え方が必要なのです。

時には、マイナスであることを消すことも必要でしょう。しかし、私たちは、マイナスを取り除くことに偏りがちです。美味しい料理を作るのに、まずくなる材料は取り除いた方が良いでしょう。しかし、取り除くだけでは、結局、料理すらできないのです。マイナスを取り除く、プラスを増やす―どちらもあった方が良いです。

そして結果は、また次の結果につながり、たくさんの要因の一つになっていきます。昨日のテストの悪い点数を悔やみ続けたり、無かったことにするために時間を割いたりするよりも、次のテストで良い点数を取るために行動することが大切なのは明らかです。

後悔をし続けている人、自分や他人を責め続けて苦しんでいる人に提案です。もう一度、自分が目的としていることを意識しなおし、それに向かう方法を考え、実行してみてください。(精神保健福祉士)

《光の図書館だより》4 借りるべきか買うべきか

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土浦市立図書館

【コラム・入沢弘子】ここ数年、出版業界からの図書館への風当たりが強くなっています。大きく報じられたのは、新潮社・佐藤隆信社長の図書館総合展での発言(2015年11月)、文藝春秋・松井清人社長の全国図書館大会での発言(17年10月)です。

佐藤社長の発言は、図書館が貸出要望の多い本を複数購入する「複本制度」について、これが書籍販売の妨げになっているという内容でした。曰く、「本の売り上げが減っているのは、図書館の貸し出しの増加が一因である。一部の新刊に限って、図書館に1年間の貸し出し猶予を求める。図書館で売れる本を貸し出されると、出版全般が痛んでしまう構造にあることをご理解いただきたい」。

また、松井社長は「文藝春秋社の文庫本の収益は週刊誌より大きく、(全体の)約3割と収益の柱である。文庫市場の低迷は、版元にとっても作家にとっても命取りになりかねない重大事。出版文化を共に支えてくださる公共図書館の方、どうか文庫本の貸し出しをやめてください」と訴えました。

大手2社の社長発言で、苦境に立たされる出版業界の姿が注目されました。公益法人全国出版協会によると、日本の出版販売数は書籍・月刊誌とも1996~97年をピークに減少傾向に転じています。特に文庫本は、消費税が増税された2014年、前年比6.2%減と過去最大のマイナスを記録。その後もマイナス6%が続いているそうです。松井社長の発言もごもっともです。

35年近く前。私が前職の広告会社に入社したころは、新聞、テレビ、雑誌、ラジオの4メディアは活気がありました。それが、インターネットの出現、経済規模の縮小、ライフスタイルの変化などにより、苦戦を強いられています。出版各社は、インターネットと連動した新サービスを提供するなど、社会変化に適応する「未来の形」を探っている状況です。

私は、図書館で借りて読んでみて、購入する価値ありと判断した本(繰り返して読みたい本、手元に置きたい本)は買ってしまいます。周囲の本好きの方々もその傾向にあるようです。

さて、図書館が新刊書やベストセラーの貸し出しを控え、文庫本の貸し出しを止めたら、本を購入する方が増え、出版業界は再び活気を取り戻すのでしょうか。みなさん、どう思われますか?(土浦市立図書館館長)

《続・平熱日記》8 東京タワー 1枚の絵

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【コラム・斉藤裕之】少し具合の悪いところがあって入院することになったかみさん。気を紛らわすためか、東京に住む次女に会いに行ったとのこと。「どこで会ったの?」「東京タワー。なつこが行きたいっていうから」。意外な答え。

30年以上も前、一度だけ東京タワーに昇ったことがあります。仕事かなんかで上京して来た父の用事が済むまでの間、場所が近かったのだと記憶していますが、思い切って東京タワーまで行ってみました。

当時の私には穏やかではない入場料を払い、一番上の展望台を目指しました。夜の東京は道路が網目の様に光り、果てしなく広がる光の海はエネルギーに満ちていました。地球が丸く、自転しているように感じられたことをよく覚えています。

かみさんが東京タワーに昇ってそれからどうしたのか、何を食べたかは聞きませんでしたが、久しぶりに次女との時間を過ごせたならそれでいいと思いました。

やがて入院の日を迎え、次女がやってきました。一人暮らしでろくなものは食っていないだろうと思い、食べたいものを訪ねると「あんまり腹減ってない」とつれない返事。それでもと、好物のきんぴらごぼうと薩摩芋入りのトン汁を作っておいたのですが、私が出かけている間に長女と平らげてくれていました。

次の日次女と病院を訪れると、かみさんは思いの外元気で少し安心しました。病院を出て、「今日は何食べたい?」「さかな」「さしみ?」「焼き魚」「わかった」。帰りにスーパーに寄って買い物をして、いつもよりちょっとだけ品数の多い夕餉(ゆうげ)。

美味しいとも言いませんが、たらふく食べた様子の次女。私は焼酎を片手にアトリエに。すると、子供の教室用の大きな机の上に5枚ほどの絵が。部屋の中にほったらかしてある板切れに、クレヨンで描かれたものでした。

次女がいつの間にか描いたんだなとすぐにわかりました。犬のフーちゃんが寝ているところや文字の描かれたもの。そして目に飛び込んできたのは「東京タワー」の絵。かみさんとの思い出が大胆なタッチで描かれています。

日ごろはつっけんどんでぐうたらな次女。「でも、なつこはああみえて繊細なんだよ」って、かみさんがいつかつぶやいたことを思い出しました。どういう気持ちでこの絵を描いたのかはわかりませんが、入院しているかみさんには画像をメールで送りました。因みに返信はありません。この絵のことは気づかないふりをすることにした私は、次女が帰っていった後に台所の片隅に飾ってみました。

どうやらかみさんは順調に回復して予定通り退院できそうです。帰ってきてこの絵を見つけたかみさんはどう思うでしょう。多分何も言わないな。私にも次女にも。梅がほころび始めました。もうすぐ春です。(画家)

▼今回の作品は次女によるものです。

《邑から日本を見る》10 石牟礼道子さん逝く 足尾-水俣-福島

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飯野農夫也の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】今月10日、「水俣病闘争のジャンヌダルク」と言われた石牟礼道子さんが亡くなった。10数年前からパーキンソン病を患っていた。90歳だった。

11、12日の新聞各紙は石牟礼さんの逝去を大きく扱い、社説や1面下のコラム、識者の追悼文などを載せていた。私はそれらを脇に置きながら、彼女の『苦海浄土-わが水俣病』(講談社)と米本浩二『評伝石牟礼道子-渚に立つひと』(新潮社)を読んだ。

新聞の見出しは「水俣に寄り添い続け、声なき者たちの魂紡ぐ」「問い続けた真の豊かさ」など。作家の池澤夏樹さんは「『苦海浄土』は、非人間的な近代文明に対する強烈なアンチテーゼ。水俣を書きながら、現代世界が抱える問題を描き出した」と評している。

水俣病の「公式確認」は1956年5月。それより前から不知火海の魚を食べていた猫が狂い死にし、やがて漁民たちも次々に「奇病」にかかっていった。石牟礼さんはそこを訪ね歩き、息子が入院した水俣市立病院で、症状で苦しむ水俣病患者に出逢った。

その後、水俣病患者の検診会場に紛れ込み、共同井戸で女衆から話を聞き、糸をつむぐように『苦海浄土』を編んでいった。

「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。うちはひとりじゃ前も合わせきらん。手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが。それでじいちゃん(夫のこと)が、仕様ンなかおなごになったわいちゅうて、着物の前をあわせてくれらす。うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい」。

石牟礼さんは患者たちを訪ね歩いて話を聞いたが、単なる聞き書きにはしなかった。言葉さえ奪われてしまった患者たちの魂を乗り移らせたかのように、「本人が心の中で語っていること、話したいこと」を写し取り、文字にしていった。

石牟礼さんは68年、水俣病裁判闘争を支援するために結成された「水俣病対策市民会議」の結成に尽力し、チッソ水俣工場正門前の座り込みに加わった。70年からのチッソ東京本社での座り込みは1年半に及び、「水俣病闘争のジャンヌダルク」と呼ばれたのだ。

石牟礼さんは日本最初の公害事件・足尾鉱山鉱毒事件を調べるために渡良瀬川を歩き、田中正造の姿を捜し、民衆の魂の声を聞き取ろうとした。そして「足尾鉱毒事件では民百姓は暮らしと土地を奪われた。70年後の水俣では、日本資本主義は直接個人のいのちそのものを食い尽くす。谷中村の怨念は幽暗の水俣によみがえった」と書く。

石牟礼さんは東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故にも反応していた。効率に走る近代の枠組みは根本において変わってはいない。福島の事故はその現実を映し出した。足尾、水俣そして福島は1本の太い糸で繋がっている。

今、彼女が私たちに何を訴え、何を残そうとしたのかを静かに考えている。(元瓜連町長)

《食う寝る宇宙》8 久しぶりに太陽フレアが発生

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【コラム・玉置晋】本稿は掲載の1週間前、2月17日に執筆しているところなのですが、宇宙天気アナリストとして、今週(2月12日~)は少しだけ忙しかったです。久しぶりに太陽フレアが発生したのです。

喜んでよいやら悲しんでよいやら、自分のおかれたポジション柄、ちょっと複雑な気持ちです。宇宙天気アナリストとしては、お仕事できるわけでウキウキしますが、人工衛星の運用者としては困ったもの。なので、仕事場ではポーカーフェースに徹しているつもりですが、時折ニヤリとしていても、皆様お察しくださいね。

さて、事の始まりは日本時間2月12日9時に、地球から見て太陽面の中心付近で発生した太陽フレアでした。この日は建国記念日の振替休日で、僕はお休みを頂いていました。パソコンで宇宙天気データを常にモニタしていますので、宇宙天気のトレンドの変化を見つけてしまうわけです。

僕ってば仕事熱心ですね。いや楽しいんですけどね。果たしてこれは仕事なのか?どこまでが仕事でどこから趣味?世の中、働き方改革が叫ばれ、残業時間削減が言われていますが、この様にグレーな部分をどう扱っていくのか?じっくり労働争議いたしましょうかね。

別次元のネタになってしまいますので、話を元に戻しましょう。太陽フレアの監視は人工衛星や地上の望遠鏡で行われています。僕が太陽フレア監視のために、常日頃モニタしているのは赤道上空、高度3万6千kmから太陽を監視する米国の静止気象衛星GOES(Geostationary Operational Environmental Satellite)のX線データです。

X線はレントゲンでお馴染みの電磁波の一種ですが、皮や肉を透過して骨を診るだけあって、強力なパワーがあってこそ発せられるわけです。太陽上空の100万度を超えるコロナ大気は、その温度故にハイパワー。すなわちX線が放射されています。特に太陽フレアのパワーは超ど級で、1発で水爆10万~1億個分です。太陽フレアが起きるとX線がギラリと輝くわけです。

今回の太陽フレアは「Cクラス」という最弱のものだったのですが、ちょっと厄介なタイプで、太陽コロナの塊を地球方向に吹き飛ばしてくれました。この塊が地球の磁場と衝突して発生する磁気嵐は、人工衛星故障の原因となりますので、動向を追跡しておりました。衛星運用者にアラートを出すべきか否か、悩ましい選択でしたが、今回は限定的に情報を展開するに留めました。

塊が地球を通過したのは2月15日17時過ぎでしたので、太陽から3日と8時間でやってきたことになります。結果として「そよ風」程度で、下手に騒がなくてよかったとホッと胸をなでおろしております。だって毎回騒いでいると、オオカミ少年になってしまうでしょ?(宇宙天気防災研究者)

《地域包括ケア》6 かかりつけ医の往診と訪問診療

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(出典・厚生労働省)

【コラム・室生勝】前回のコラムを読んだ知人は早速、ネットで調べたようだ。「ホームページの情報は2年前と古い(これでは情報提供と言えない)が、かかりつけ医は内科医なのに往診も訪問診療もしないらしい。かかりつけ医を替えたほうがよいのか」と電話で相談を受けた。返答に困った。今の医者には20数年、高血圧と軽い糖尿病で月1回は通院し、家族もお世話になっているという。2年前の情報だから信じていいかどうか、かかりつけ医に直接尋ねることを勧めた。

逆から言えば、診療所の医師は長年通院している患者さんをかかりつけの患者さんとみているのが常識だ。多くの患者さんは、通院できなくなったら、月1回往診あるいは訪問診療してもらい、自分の最期も看取ってくれると思っている。かかりつけ医に長年診てもらうということは「契約関係」ではないが、医師への「信頼関係」よりも「信任関係」、すなわち信頼して任せていることである。

私は64歳のとき多忙とストレスから狭心症と高血圧を発病したが、70歳までは開業医を辞めるつもりはなかった。70歳近くなって、在宅診療していた患者さんには私の持病を説明し、病状が悪くなったら引退すると話していた。しかし、通院している患者さんには言いそびれて話していなかった。

私の診療を受けていた患者さんに、医師の方から一方的に「信任関係」を崩したことになった。患者さんとその家族に十分な説明を行い、患者さんを引き受けてくれる医師に詳しい診療情報を提供した。患者さんには、私が辞めたあとも電話あるいは直接相談に応じることを約束した。

私の診療状況をよく知っている知人が言った。「先生が在宅診療していた患者さんたちは、先生に死に水を取ってもらいたかったんですよ」。その言葉は心に突き刺さった。今も忘れない。

60歳を過ぎた開業医が、往診はするが訪問診療をしたくないという気持ちを、私はよく理解できる。往診は急病や持病が急に悪くなったときに医師に依頼する場合の診療だが、訪問診療は週に1回ないし2週に1回、定期的に患者さんの住まいを訪問すると約束する在宅医療である。これによって24時間、365日拘束されることになるからだ。

10数人の患者さんの訪問診療を引き受けると、数日から10日の休暇は取りにくくなる。医師1人の診療所では、患者さんが満足する在宅医療を続けることは難しい。だが、診療所医師は近くの診療所医師と連携することで可能だ。多くの診療所医師が在宅医療をすればするほど、受け持つ患者数は少なくなる。多くの診療所医師がかかりつけ患者さんの在宅医療を引き受けてくれることを願っている。(高齢者サロン主宰)

《宍塚の里山》9 聞き書き 里山の暮らし①

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「聞き書き 里山の暮らし」中の宍塚大池の写真

【コラム・及川ひろみ】宍塚の里山がどんなに貴重な大切な所と言っても、その歴史的な背景について理解しなければ、「よそ者が勝手なことを言っている」で終わってしまいそうです。

農業や日常の暮らしと自然が深く結びついて生み出されてきた里山は、先祖の知恵の結晶、まさに文化遺産といえるものです。この40~50年で農業も暮らしも急激に変化しました。里山の未来を考える時、これまでの人と里山の関わりをその土地に則して学ぶことが課題でした。「宍塚の自然と歴史の会」では会発足当初から、この課題に沿って地元の方からお話しをうかがい、記録に残してきました。

例えば「頭はシャンプー代わりに粘土を使い、洗い終わると、梅干しをトントントンとこすりつけてくれるの」。これは今で言う泥パック、そして梅干しはリンス。今に生きる科学的で合理的な、知恵の結晶とも言える話を数多く聞きました。

年中行事などの暮らしの様子からは、人と人との温かな繋がり、地域の優しさがしみじみと伝わり、我々のこれからの暮らしのあり方をも示唆しているように感じられました。当然、当時の暮らしは物理的にも精神的にも厳しいものであったことは容易に想像がつき、時に涙することもありました。でも淡々と語られる話には芯の強さ、誇りが感じられ、楽しかったこと、夢のような日々であったこと—懐かしい思い出が詰まった里山の暮らしでした。

その記録を残す者がいることの喜びを感じました。あふれ出る、汲めども尽きぬ泉のような話を、好奇心むき出しにして聞き、記録にまとめていきました。今記録に留めなければ、記憶さえ失われてしまう里山の暮らしの話に、聞き入り、記録したものです。

それも、お話しくださる方々が、テープレコーダーがあると話しにくいと言われ、機械に頼ることのない作業でした。1997年、会の中に歴史部会が発足してから、この作業は急速に進みました。多くの場合、少なくともお1人5回以上聞き取りを行い(前回お聞きしたことをまとめ、確認に再訪してさらに話をうかがうという、きりのない活動になりました)、そして1999年、「聞き書き 里山の暮らし―土浦市宍塚」を出版しました。

うかがった話を補足するために、昭和30年代の宍塚の畑、水田、茅場などの土地の利用地図、大池周辺の呼び名、地名の地図(地名は土地に刻まれた先人の活動の痕跡です)などのほか、明治10年創立の宍塚小学校に保管されていた明治時代の農作物の克明な記録も加えました。この冊子は地域を理解する上で貴重な資料になり、翌年、茨城県中学校推薦図書に選定されました。(宍塚の自然と歴史の会代表)

「聞き書き 里山の暮らし」の表紙

《ひょうたんの眼》4 冬季オリンピック報道

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【コラム・高橋恵一】やっぱり、けがを克服した羽生結弦選手が金メダルに輝き、実力を出せた小平奈緒選手がオリンピック新記録で優勝した。感動のエピソードと併せて、銅メダルのフェルナンデス(スペイン)や、銀メダルの李相花(韓国)の演技や滑走も見ることができた。しかし、日本人選手が上位に入れず、メダルから遠い種目の金メダル外国人選手の滑降する勇姿や華麗な演技はほとんど観ることが出来ない。スポーツに疎い私でも、冬のオリンピックといえば「白い恋人たち」のゲレンデに舞うスキーのイメージなのだが、「アルペン」の「滑降」「回転」の金メダルや銀メダル選手のストックを持つ優雅な滑りの姿は見せてもらえない。やっぱり。

オリンピックのような国際スポーツイベントの意義は何なのだろうか?同胞の活躍への期待や感動、見え隠れする国威発揚の場など、様々な要素を抱えているのも現実だが、先ず、メディアの伝えなくてはならないことは何なのか?視聴率を意識しての報道姿勢だとしても、国際的な超一流の勇姿を伝えなくてはいけないのではないか?金メダル選手の滑り、演技は、若い人にとって目標になるだろうし、オリンピックはそれを知ることのできる最高の機会といえるだろう。世界一の選手を紹介して欲しい。

以前にも書いたが、オリンピックは平和を求めるスポーツ祭典でもある。それなのに日本のメディアは、国際平和の希求には関心が薄いように思える。というよりも、我が国の一部に根強く残る「嫌韓」「嫌半島」の意識に悪乗りし、あるいは政権幹部への忖度(そんたく)が働いて、今回のオリンピックの成功を期待したくないのではないかと穿(うが)ってしまうことが随所に見られるように思う。

韓国は、古代からの隣国であり、これからも永遠に続く関係なのはいうまでもない。その国が、極めて複雑な国際情勢の中で、平和の祭典を成功させ、できれば民族の融和にも繋がるようにしたいと思っているとすれば、我が国、わが政府は、それを支援する気持ちこそが必要だと思う。政府は、自らは傷つかない安全圏に身を置きながら強硬姿勢を発信し、メディアは、自国選手のメダル取りだけを追いかける。何か、貧相なものを感じて、空しい。

そのオリンピック騒ぎの陰で、高齢者、非正規労働者、貧困者を顧みない予算措置、金融政策、労働政策が強行されようとし、何も変わらないという「憲法改正=改悪」が進められようとしている。祖父の背後霊に応えるためだけに、一文字だけでも「変えた」という実績を目論む最高権力者。金メダリストにお祝いの電話を掛けるパフォーマンスを、仰々しく報道するメディア。国民をなめ切っているとしか思えない。メディアが本分を忘れ、権力批判の目線を失ったときの不幸は、戦前の日本を思い起こす歴史の教訓である。ますます戦前に近づいていると思う。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)

《土着通信部》7 石岡まちなかは稲荷神社だらけ ㊤

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石岡稲荷

【コラム・相沢冬樹】なぜか、石岡の町にはお稲荷様がたくさんある。古い町内ごとに当たり前のような顔をして鎮座している。それでいて、稲荷神社の代名詞である朱塗りの鳥居は全く見当たらず、よそ者には疑問が募るところだが、地元に不思議がる様子はまるでない。初午(はつうま)の7日、一日かけて旧市内9カ所の稲荷神社をめぐってみた。

初午は2月最初の午の日、各地の稲荷神社で豊作、商売繁盛、開運、家内安全を祈願する行事で、京都・伏見稲荷や笠間稲荷の初午大祭が知られる。元は旧暦2月の行事で、今の3月にあたっており、ちょうど稲作を始める時期だったため、農耕の神様をまつるようになった。稲荷の名は「稲生り」からきたともいわれている。

そんな初午の日に石岡では何か行事があるのだろうか。まずは石岡市観光協会発行の「歴史散策コース案内」を参考に歩いてみることにした。掲載されているのは、隅之宮福徳稲荷神社(府中1丁目)、青木稲荷神社(府中2丁目)、鈴之宮稲荷神社(国府2丁目)、宇迦魂稲荷神社(国府6丁目)―の4社。徒歩で回っても1時間と掛からない範囲にある。

境内に正月飾りなどを焼いたような跡があるだけで、どこも人の気配がない。神社に掲示されている案内文のなかには「毎年、町内では初午祭を行っている」とあったが、その形跡はうかがえなかった。

週末にでも日取りを移して行うのかもしれない。情報を得ようと、まちかど情報センター(国府3丁目)を訪ねると、NPOの白井育夫理事長が住居表示前の旧町名で書かれた一文を紹介してくれた。「石岡市は旧市内だけでも、金丸町の鈴之宮の開運、仲之内の福体、青木町、守横、守木町(三社)、土橋町、木比提(きびさげ)など、十社ほどある」(今泉義文『石岡の今昔』、1983年刊)。

前半の金丸町から守横までがこれまでに回った4社である。しかし、そのあと守木町から先は観光協会の案内図では分からない。白井理事長は知り合いに電話するなどして、守木町の3社を探り当ててくれた。

国府公園と道路をはさんだ向かい側にある天之宮正一位稲荷神社、仁平稲荷・妻恋稲荷・行幸稲荷の三座を祀る金刀比羅神社の境内社はすぐにたどり着けるが、もう一つが難しい。

赤い鳥居もないし、狛狐の像も見つからない。歩道の拡張整備で窮屈な敷地に押し込められたような祠(ほこら)があったが、鳥居にも社(やしろ)にも神社名を記した額が見当たらない。やっと社の脇の小さな石碑に「稲荷神社」の刻字を見つけた。守木町中組の某が1991年寄贈したとある。「中組」というのは講組織だろう。守木町にある3つの講がそれぞれに稲荷神社を設けたわけだ。現在はいずれも国府6丁目に所在する。

さらに土橋町(府中2丁目)の藤森稲荷神社までは200mほどの距離だ。ここもお寺の参道脇の引っ込んだ空間に隠れるように建っている。お稲荷様はよほど狭い場所がお好きとみえる。(ブロガー)

《吾妻カガミ》25 新聞部数 10年で2割減 10年後は?

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霞ケ浦遠景。土浦市の霞ケ浦総合公園から歩崎(かすみがうら市)を望む

【コラム・坂本栄】この10年で日本の新聞は1000万部減って4200万部に落ち込んだ。日本新聞協会が昨秋まとめた数字だが、なんと2割も減ったことになる。この調子だと、新聞大好き団塊世代がアラウンド80になる10年後には絶望的な数字になろう。さらにマイナス2000万部?

どんな商品でもこのスケールで市場が縮小するとビジネスとして成り立たなくなる。全国、数県、県、数市各規模の新聞経営陣も、紙メディアが主流の時代は終わったと認識していると思う。だが直視するのを避けている。若い時のよき思い出(新聞全盛時代)にとらわれているからだ。

最近、新聞の可能性について講演を頼まれ、元通信社記者、元地域紙経営者、現ネットメディア代表の経験を踏まえ、メディアの構造について話した。以下、そのポイント。

メディアとコンテンツ

いわゆるマス媒体は2つの要素で構成されている。一つは情報の運搬手段(メディア)。具体的には、紙(新聞、雑誌、本)、電波(ラジオ、TV)、インターネット(ウェブサイト)などだが、運搬手段としては圧倒的にネットが優れている。

その優位性は、もう一つの要素である情報の中身(コンテンツ)を見ればよく分かる。コンテンツは、活字、音声、写真、動画などによって表現されるが、紙メディアが扱えるのは活字と写真だけで、音声と動画は扱えない。TVはすべて扱えるが(ラジオは音のみ)、活字表現には向いていない。これに対しネットは、活字、音声、写真、動画はもちろん、これらコンテンツの保存も自由自在。

運搬手段の能力は明らかに、紙<電波<ネットの順になる。運搬手段としての紙が「自転車」だとすれば、ネットは「自動車」だから勝負にならない(電波は「バイク」?)。もちろん、電磁調理器が普及した今、煮炊きに薪炭も使われるように、紙メディアが消滅することはない。

ロケットと弾頭の関係

講演では、情報の運搬手段と中身の関係を、大陸間弾道弾(ICBM)に例えて話した。ICBMの兵器としての優劣は、弾頭部に積む核の小型化・軽量化・破壊力(コンテンツ)と、ロケット部分の飛距離と積載力(メディア)で決まる。ロケットが遠くに正確に届かなければ、いくら強力な弾頭を載せても兵器としては落第。これは新聞・TV・ネットでも同じであると。

新聞はどういう形で終焉するのだろうか。その優れたコンテンツ編集力(TVやネットよりも上)を維持しながら、運搬手段をネットに切り替えるしかない。そのプロセスで、流通部門(配送配達)、工場部門(輪転機)、制作部門(編集部局=新聞は偉いと思っている)を整理整頓する必要がある。

新聞は強靱な編集力(企画、記事作成・点検、記事の軽重判断)を持ち、コンテンツ制作力は優れている。この「弾頭」を最新の「ロケット」にどう積載するか。経営陣は「ICBMの開発者」にならなければならない。この作業をしないと編集力が無駄になってしまう。(経済ジャーナリスト)

《郷土史あれこれ》4 県内に残る古代・中世の古文書

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亀城公園に隣接する土浦市立博物館

【コラム・栗原亮】今回は茨城県内に残る古代・中世の古文書を見ていきたい。古代常陸国の国府であった石岡市鹿の子遺跡で発掘された漆紙文書は一大発見であった。漆紙文書は漆を保存する容器の蓋として使用された反故(ほご)紙。これにより当時の常陸国の戸数と人口が判明し、考古学会を驚かせた。

県内中世文書の第1は、鹿島神宮の中世文書である。表装されて県立歴史館に保管されている。1200点余の史料には源頼朝などの御教書(みぎょうしょ)、鎌倉幕府や室町幕府の将軍の史料が残され、県内最大規模の文書群。根本寺(鹿嶋市)、千妙寺(桜川市)にも中世文書が残されている。

常陸太田を拠点に鎌倉時代から豊臣時代まで勢力を誇った戦国大名、佐竹氏の残した史料群もある。これらは中世常陸国の武士団を研究する上で最適の史料。慶長7年(1602年)に出羽国秋田に転封となった佐竹氏は、元禄期に家臣団を水戸に派遣、関係文書の収集を行った。これらは秋田県立図書館、東京大学史料編纂所、千秋文庫(東京都)に所蔵され、茨城県内の市町村史では必ず利用されている。

鉾田市域の在地領主、烟田(かまた)一族が残した文書もある。この文書は、鎌倉期、南北朝期、室町期の武家文書。この中には譲状(ゆずりじょう)、関東下知状(げちじょう)、一族の相続争いにからむ文書、南北朝争乱期の文書、室町期の軍忠状など、生き残りをかけた在地領主の史料が残されている。

中世文書は、土浦の町人学者・色川三中(みなか)、土浦藩小田出身の学者・長島尉信(やすのぶ)、水戸藩の学者・小宮山楓軒(ふうけん)らによっても収集された。三中は、下総国香取神宮文書の『香取文書纂』、常陸国の中世文書を収録した『続常陸遺文』、国学者・中山信名(のぶな)の稿本『常陸誌料』を基に、『新編常陸国誌』を完成させ、地域文化の発展に寄与した。

尉信は、水戸藩や土浦藩に仕える傍ら、多くの文書を収集して地域史を研究した。楓軒は、水戸藩郡奉行を勤め、『楓軒文書纂』という膨大な史料を残している。これら筆写史料には現在残されていない資料も多くある。誠に貴重である。

県内には畿内の惣村(そうそん)文書のような村落文書は残されていない。これら文書には領主への願書、村落間争論文書、商業文書など、村の内部に関する史料があり、農民の動きを知ることができる。常陸国では武家支配が強かったせいか、村落の自治を物語る史料がほとんどない。戦国末期に残された郷村間の境界裁定文書があるのみで、中世農民の動きを十分知ることができない。農民の歴史を本格的に知ることができるのは、茨城県では江戸時代である。(郷土史家)

《続・気軽にSOS》8 イヌ好き、ネコ好き、ヘビ好き

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【コラム・浅井和幸】イヌ好きのAは言いました。「イヌの、人に忠実で賢いところが好きだ」。ネコ好きのBは言いました。「ネコの、自由で気まぐれなところがかわいくて好きだ」。了見が狭いと、この会話だけで、AはBに、BはAに否定されたと感じてけんかになることがあります。自分と違う感覚、意見は、否定される言葉なのだと解釈してしまうのでしょう。「イヌの方が好き」「ネコの方が好き」と、勝手に解釈してしまうのかもしれません。

さらに人は、自分の意見を正当化したい、強く伝えたいという気持ちで、比較して伝えます。Aは「ネコよりもイヌの方が好きだ」と言います。Bは「イヌよりもネコの方が好きだ」と言います。前の会話よりも、自分の好きな動物、自分の意見を否定された気持ちを強く感じることでしょう。

そして人は、自分の気持ちを伝えるために、別のものを否定して伝えるようになります。Aは「ネコは気まぐれで呼んでも来ない、冷たい感じがする。その点イヌはとてもかわいい」と言うかもしれません。Bは「イヌは人にこびるし、ほえてうるさい。その点ネコはかわいい」と言うかもしれません。

このような言い合いになったら、冗談のやり取りでない限り、本気のけんかになるかもしれませんね。

ヘビ好きのC。積極的にヘビ好きを言うことはありません。それでも隠しているわけではありませんので、話の流れで、ヘビのかわいらしさや魅力を話します。かなりの確率で「え~、ヘビ?」と嫌な顔をされます。それも織り込み済みで、Cは「そうだよね。気持ち悪いと感じるのが普通だよね。でも自分はヘビが好きで、かわいいって感じるんだ」と伝えます。

イヌやネコと違い、ヘビが好きだという人は少数派であることを認識しています。またヘビが嫌いである人が多いことも分かっているのです。なので、ヘビが好きであることや魅力があることを無理に思い込ませようとすることもありません。相手がヘビを嫌いでも、自分と感覚が違うだけで否定されたと憤慨することはありません。

あなたは、趣味や学歴、生き方や習慣など、自分の安心と正当性を「普通」という言葉で表現して、相手が少数派であることで間違いなのだと押し付けていませんか?「多様な価値観を認めるのが普通だ」「普通は大学を出ているでしょ?」「年収〇〇〇万円は普通でしょ?」「これぐらいのことは出来て当たり前だよね」「そこまで言わなくても普通は分かるでしょ?」

普通という言葉を投げかけられるのが嫌いだと考えている人が、結構、この普通という言葉を相手に投げかけている場面によく出くわします。多数派なのか、少数派なのかではなく、相手の気持ちや立場も、自分の気持ちや立場も尊重しながらコミュニケーションが取れるとよいですね。少数派の方に正当性があることだって確実にありますし、どちらにも正当性があることも十分に考えられるのですから。(精神保健福祉士)

《泳げる霞ケ浦へ》4 霞ケ浦を音楽でイメージアップ

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霞ケ浦KOHANロック

【コラム・霞ケ浦市民協会】毎回、世界湖沼会議開催の話題で盛り上がっているこのコラム欄ですが、今回は少し違う視点で霞ケ浦を語ろうと思います。湖の側では最も人口が多い土浦周辺の住民に霞ケ浦のイメージを聞くと、「あまり良くない」「近づきたくない」と言う方が多いと感じます。

水質がとても悪かった30〜40年前。私も体験しましたが、夏になると湖面が毒々しい緑色のアオコに埋め尽くされ、鼻が曲がる様な臭いが土浦駅あたりまで漂ってきました。これが原因になって「霞ケ浦=近付くなど考えられない、とても汚い」というイメージが植えつけられてしまったようです。

しかし、今の霞ケ浦はそのころとは見違えるほど水質が改善し、美しい風景を取り戻しています。でも、かつて湖水浴場が賑わっていたころ(写真で見るだけで私には記憶が無いのですが…)のように、地域の方々が観光地として楽しむ様子はあまり見られません。

ところが、都内や関西の方々に聞いてみると、霞ケ浦のイメージは悪くないのです。これは「宝の持ち腐れ」だとかねてから思っていました。そして、湖畔を舞台にした遠方の方々が集まれるイベントがあれば、きっと観光地として見直されるとの想いが私にはあります。

そこで、根っからの音楽好きの私が取り組んでいるのが『霞ケ浦KOHANロック』です。初回は、一般社団法人霞ケ浦市民協会が主催する「泳げる霞ケ浦市民フェスティバル」(毎年7月の第3月曜日=海の日に霞ケ浦総合公園で開催)の20周年記念事業として実現させました。

その後も、市民協会、フェスティバル実行委員会の皆さんの支援、地域のミュージシャンや音楽ファンの方々の協力、毎回楽しみに来てくださる方々からの応援をいただき、昨年3回目を開催することができました。

毎年少しずつ輪を広げ、霞ケ浦が日本中、世界中から注目されるスポットになることを目指しています。霞ケ浦が多くの方々から注目されることで、環境問題への意識が高まり、さらなる水質の向上、そして泳げる霞ケ浦へつながると考えています。

今年4回目の『霞ケ浦KOHANロック』を温かく見守っていただければと思います。(山田径子・霞ケ浦市民協会理事/KOHANロック実行委員長)

《くずかごの唄》8 居間の片隅の展示コーナー

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【コラム・奥井登美子】居間の片隅に、ハガキ15枚ぐらいのささやかなコーナーをつくってある。わが家の「年賀状傑作選」展示コーナーだ。勝手にいろいろな賞をつけてある。「ユーモア賞」「可愛いで賞」「さよならしま賞」など。

最多受賞者は医者の関寛之氏だ。今年の相撲取りも面白かったが、傑作中の傑作は昨年トリ年の「とんび」の絵。昔流行した冬の外套「とんび」を着た男の人が描かれている。「ふと正月に懐かしむ昭和へのノスタルジア、絶滅危惧ファッションとんび」と解説された木版画である。

これを見て私は笑いすぎ、お腹が痛くなってしまった。本当に痛くなったら、関先生に診察してもらうしかない。「可愛いで賞」は小さな子供と犬の写真。何枚もあって何回見ても心がほどける。

「さよならしま賞」は「誰が名付けた子犬のワルツ 今年のリズムが舞っている 元旦」。従姉妹の和子さんから筆書きの年賀状が来たその日、彼女が亡くなったという知らせが入った。天国からのハガキかな…と、一瞬どきんとしたが、年賀状を書くのは年末だから、人生の最後まで筆で字を書くほどしっかりしていた証拠だと考えることにした。貴重な形見になってしまった。

老人になると、若いころには思いもしなかった意外なことが起こる。年賀を取り交わした友達が次々に亡くなって、賀状の来る数がガタンと減ってしまった。淋しい限りである。

私が年賀状を出すのは1年1回だけ、旧友や親戚に「まだ生きていますよ」という存在証明の証拠になると思うからなのだ。

「年賀状を書くことが体力的にできなくなってしまったので今年で最後とします。しかし、頂くのはとてもうれしいので今までどおりにして下さい」と、まったく都合のよいことを書いてくる友達もいる。

絵描きさん、写真家、研究者(設計図の絵柄もある)など、個性的な作品は何回見ても楽しい。このコーナーは、1年間毎日眺めて、友達から励ましてもらう貴重な場なのだ。(随筆家)

《好人余聞》4 「日本の靴文化を、ここから変えたい」 大沼義明さん

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工房で作業する大沼義明さん

【コラム・オダギ秀】旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのようにつづりたいと思っています。

「だって、足のお医者さんは、靴の専門家ではないんですから」。笑いながら、仕方ないんですよ、と語り始めた大沼義明さん。ドイツで学んだシューフィッター、つまり快適なシューズ選びの知識とフィッティング技術を持った、高度な専門技術者だ。土浦市で「ザックスオオヌマ」を経営している靴職人である。

足専門の整形外科医が大沼さんを訪ねて来た時の話だ。色々話をして、その医師の靴を見せてもらったのだそうだ。その時のことを、当人、きし整形外科内科の山口健一先生は語っている。

「職業がら月に200人以上の足を診療していて、自分の足を治療する前に、靴を見直す、靴の履き方を見直すことが最優先だと思っています。それなのに、自分自身は大沼さんにフィッティングしていただいたら、今まで30数年間、正しい靴を履いていなかったと思い、恥ずかしく感じました」

足の専門医でさえ、靴のフィッティングに関しては良い状態になっていない、ということが日本の実情なのだろう。靴が合っているかどうか、自分でも判らないのでしょうね、と大沼さんは言う。

「本来、人間の足って、ものすごくよく出来ているんです。ところが、現代は、きわめて多くの人の歩き方がおかしい。それは、足癖が悪いわけではなくて、足に合った靴を履いていないからなんです。合っている靴を履いて歩けば、即、いい歩き方に変わります。人間本来の、筋肉の使い方、関節の使い方、足の使い方ができるようになるんです。でも今は、軽くて柔らかくてゆったり感じる靴が売れる。誰もが、何となく合っていると感じてしまう靴が売れていて、メーカーはそんな靴ばかり作っている」

足に合った靴ではなくて、売れそうな靴ばかりが流行る。それが、日本の靴文化の現状なのだとボクも思う。大沼さんは続ける。

「合っているかどうか、履いている本人も判らない時代になってしまった。靴の選び方を知らない、判らない。すべての人が、一人一人違う足をしていますから、その足に合う靴は、全部違う。それなのに、合っている靴を履いていると思わせられているんです。こんな日本の現状を、この土地から変えたいと思っているんですよ」(写真家)

▼ザックスオオヌマ:土浦市中央1-10-1 電話029-822-0801

《続・平熱日記》7 冬の「スイミングクラブ」

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【コラム・斉藤裕之】冬になると恋しくなるのがスイミングクラブ。とはいってもプールで泳ぎたいわけではありません。英語でスイミングクラブというのはワタリガニ。蟹(かに)と言えばだれもが認めるタラバ、ズワイ、毛ガニが御三家。しかし私はワタリガニファン。値段も手頃ということも、もちろん魅力のひとつですが、独特のお味が大好物。

ところが、スーパーに行ってもこの頃滅多にお目にかかれない。中国産やバーレーン産の小ぶりな出汁(だし)取りにしかならないようなものはよくあるのですが、身のずっしり入った大きいものはとんと見かけなくなりました。そのワタリガニ、先日久しぶりに東北産のでかいのを発見。迷うことなくカートへ。

さて、赤くゆでられた蟹。これをばらすのは私の仕事。まず甲羅をパカッと外す。美味しそうなみそや内子があればラッキー。それから縦にバキッと真二つ。そして順番に足を外していくのですが、メーンイベントは4番目の足。スイミングクラブの所以たる一番下の足は泳ぐために鰭(ひれ)の様になっているのですが、よく使うその太ももは身も大きく甘くて絶品。

大きな身の付いたその足をまずはかみさん、子供たちに。私はおこぼれをいただきながら献身的に身を取り分けます。しかし、むさぼるという言葉がぴったりの光景。家族が黙々と蟹をむさぼる姿はちょっと部族っぽい感じ。同じ釜の飯ならぬ同じ蟹の飯は、しばしの間悩みも忘れてひたすらむさぼる家族飯。

ばらばらにされた蟹の残骸の山を前にごちそうさま。第1ラウンド終了。うちではその後蟹のだしで鍋に移り、雑炊へとなだれ込むのがワタリガニフルコースです。

実はワタリガニは瀬戸内海ではポピュラーな生き物です。子供の頃、海水浴に行くと膝位の深さのところを横切る影。これを捕まえようとして、何度も潜ってゲットするのが手のひらよりも大きいワタリガニ。通称ガザミでした。しかし持ち帰って食べた記憶はありません。こんなに美味しいと知っていれば。悔やまれます。今もあの海にいるのかなあ。いて欲しいですね。

しかし今どきは、漁師さんの網よりもネットで捕獲する方が容易な時代。でもそれは無粋というもの。スーパーの棚でいつかまた会えるのを楽しみにしております。冬のスイミングクラブ。(画家)

《邑から日本を見る》9 『邑から日本を見る』という本

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「邑から日本を見るー先崎千尋の『常陽新聞』全記録」の表紙

【コラム・先﨑千尋】この『NEWSつくば』は紙媒体の『常陽新聞』を受け継いでいる。その『常陽新聞』(つくば市)は昨年3月に休刊(実質廃刊か)になった。私はそこに「ムラから日本を見る」というコラムを月に2回書いてきた。土浦時代の『常陽新聞』には「先﨑千尋のオピニオン」があった。

私が『常陽新聞』とかかわりを持ったのは1976年だから、もう40年を超す。私の人生の半分以上だ。当時「30代」という企画記事があり、私は農協職員でありながら地元の瓜連町議に当選し、二足のわらじを履くことになったのが面白いということだった。この時の記事の見出しは「農本主義つらぬく 現場から築く農協運動」だった。

その後、農業、農政、農協などについての寄稿を求められ、「視点」そして「先﨑千尋のオピニオン」の連載となった。気が付いたら、40年余の間に書いた原稿は200本を超えていた。最後のころは1回の分量は2,000字近い。これを組み直すと1冊には収まらない。

そこで、紙面をそのまま製版し、発表時の雰囲気がわかるスタイルにすることを思いついた。写真もそのままだ。掲載順に並べるのでは面白くないので、関連する記事をまとめ、12に章立てした。「政治にモノ申す」、「EPA TPPと日本」、「原発を止めよう」、「環境とくらし」、「地域農業をどうする」、「茨城を元気に」、「滅びを待つ農協」、「ムラで生きる」、「食は文化 食こそ文化」、「干しいもという文化」、「先輩、仲間を送る」、「本と人との出会い」がそれだ。

農業をベースに、身近な話題やわが国の動きなどその時々に思いついたこと、多くの人に訴えたいことなどを率直に書いてきた。

さらに、私がこれまで書いてきた1,100余の単行本や論文、評論、書評などを著述目録として発行順に並べた。私は日ごろ日記を書かないが、『常陽新聞』の記事と著述目録を見れば、いつどこでどんなことをしてきたのか、何を考えていたのかがわかる。いわば自叙伝である。

本書の巻頭を飾ったのは、市川紀行元美浦村長の「先﨑千尋断章」という詩と村上達也前東海村長の「『先﨑ちひろ』について」という序文。これを見て、2人とも私のことをよく観察してくれていると思った。

私がモノを書く時の師は、茨城にゆかりのある須田禎一と秋田県横手市で101歳まで「生涯ジャーナリスト」だった、むのたけじだ。書くことによって自分の立ち位置をはっきりさせ、そこから退かないという決意を示す。もちろん、自分の全体重をかけて書く。後進県と言われてきた茨城の地にあって、1人の男がこういう生き方をしてきたのかという読み方をしていただければありがたい。(元瓜連町長)

『邑から日本を見る-先﨑千尋の「常陽新聞」全記録』の発行所はSTEP(つくば市松代4-21-2-2-101 電話029-858-0376)

《食う寝る宇宙》7 宇宙受験

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【コラム・玉置晋】ここのところ、宇宙天気は静穏で、私が慌てて職場に走る事態は起きていません。太陽活動は約11年周期で活動期と静穏期を繰り返すらしいということがわかっています。でもね、継続的な観測データがあるのは、ガリレオの時代から500年程度。宇宙的な時間の流れでみると、本当のところはわかりません。

学校で習ったから、必ずそれが正しいなんて、信じちゃうようなチープな大人になりたくない―なんてパンクな思想(ただの偏屈)だった私の高校時代の成績は散々たるもの。宇宙について勉強したいと考えていたけど、宇宙を学べる大学って、そこそこ、勉強出来ないと入れないのですわ。

やりたいことは明確なのに、実力が伴わない。このジレンマは今の自分にも通じるものがあり、やりきれない感情が思い起こされます。

自分の反省を踏まえて、受験生にアドヴァイスします。受験に関していえば「例え不本意でも、割り切って素直に受け入れろよ」です。だって、受験生にとっての1stプライオリティは試験に合格することでしょ?合格しないと先に進めないですもの。少なくとも従来のペーパー試験の受験は、教えられたことを着実にやる人間が勝ちます。よって、受験生諸君、とりあえず割り切りましょう。

でも、言いたいのはここから。教えられたことをやっていればよいというのは、ルールの定められたゲームの中だけ。世界が変わって、違うルールが適用されれば、「ごじゃっぺ(役にたたないという意味の茨城弁)」になります。

高度400kmを飛行する国際宇宙ステーション(ISS)は地球の引力とISSが円軌道を描いて飛行するときの遠心力の力のつり合いにより、微小重力状態になります。地上世界で1Gの重力加速度ルールの中で一生懸命セットした髪の毛はぐちゃぐちゃになり、ゲップなどした日には、胃の中のものが全部出てきて、シンガポールのマーライオンの様な状態となるそうです。浮遊した他人の内容物で窒息する恐れもあり、一大事です。

どうも、今の時代、従来のルールが怪しくなってきている香りがします。パンクな思想が勝利する時代がやってくるかも。あ~、その前に、割り切って大学院のレポートを書かなくちゃなあ。(宇宙天気防災研究者)

《地域包括ケア》5 市町村の連携拠点事業

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出典・厚生労働省

【コラム・室生勝】前々回から掲載している「地域包括ケアシステムの姿」は、真ん中の高齢者を「介護が必要になったら…在宅系サービス、施設サービス」、「病気になったら…病院、かかりつけ医」、「地域包括支援センター、ケアマネジャー」、そして「介護予防サービス」など、いろいろな職種が連携して支えている解説図である。

在宅サービスには、ヘルパー、デイサービス、デイケア、ショートステイ、訪問看護、訪問リハビリなどがある。かかりつけ医は、通院・在宅医療、病院は急性期に入院を引き受ける。地域包括支援センターは、高齢者が要介護にならないように介護予防に務める。ケアマネジャーは高齢者が要介護になったら適切な介護サービスを利用できるようマネジメントする。多くの職種が関わっているのだ。下にある介護予防サービスには、市町村および民間のサービスのほか、地域の住民ボランティアが提供する生活支援・介護予防サービスもある。

厚労省は「地域包括ケアシステム」の中でも、在宅医療と介護の連携強化が最重要と考え、2012年度から各市町村に、在宅医療介護連携拠点事業を医師会と協力して実施するよう勧めてきた。さらにそれを発展させ、15年から在宅医療介護連携推進事業の実施を促してきた。「連携拠点事業」から「連携推進事業」に前進させるわけだ。本年度から全ての市町村で取り組む。

「連携拠点事業」を実施した市町村や医師会など20事業者の報告を県ホームページ(HP)で見ると、その成果は事業に参加した在宅医療・介護の多職種が連携して切れ目のないサービスを住民に提供すること、そのためには多職種への相談支援と研修の見直しが必要であること、そして地域住民への普及啓発が欠かせないことを学んだことだろう。

この事業には医療介護福祉関係者全員が参加したわけでない。参加者しなかった多職種にどれだけ浸透するかが課題である。実施した多くの市町村や医師会のHPは、参加しなかった医療介護福祉関係者にその概要を伝えることができても住民が理解できる内容ではない。住民の理解を得るには冊子だけではなく、出前啓蒙講座を小地域で実施すべきであろう。

県南2市と医師会では、経年的に取り組んだ実施事業の内容をHPに掲載している。各診療所の医師がケアマネジャーや多職種が面談できる曜日と時間帯(連携タイム)と在宅医療の内容がわかる。これで、かかりつけ医と連携が進むだろう。しかし病院医の連携タイムがあるとは聞いていない。

市民には、「連携拠点事業」の成果の中で、各医療機関の在宅医療内容が一覧できるようになったのが好評らしい。かかりつけ医がどの程度の在宅医療を提供してくれるのかわかるからだ。かかりつけ医を替えなきゃいけないのかと不安になる市民も出てくるだろう。(高齢者サロン主宰)