【コラム・高橋恵一】著名人の戦後70年を振り返っての談話をまとめた本があるが、その中の女性の体験として、戦争が終わって復職した傷痍(しょうい)軍人の教師の授業の紹介がある。教師は、「新しい憲法」の前文を涙で声を詰まらせながら読み上げて、生徒に「暗記しろ」と命じたという。

教師は、戦地に行く前「軍国教師」だったのだろう、英語の知識も、真理を求める心も、他人に親切にする大切さも学んでいたが、当時の世相のもと、信念を持って、忠君愛国を鼓舞し、戦争遂行のスローガンを子供たちに伝えていたのだろう。教師は、自分に召集がかかった時、俺まで?と戸惑ったかもしれないが、喜んで出征したに違いない。

しかし、教師にとって、現実の軍隊・戦場は想像をはるかに超えるものであった。大陸では、弱いはずの敵兵が強力な抵抗をして、味方の損害も大きくなり、敵への怒りと憎悪が増した。五族協和、八紘一宇(はっこういちう)の思想の下、大東亜共栄圏を実現して、現地民も皇国の民として幸せな暮らしができるのに、日本人に向けるまなざしの奥には憎悪が潜んでいた。なまじ教養がある分、戦争の理不尽さを思い、様々な矛盾に対して自分を納得させるのに苦しんだ。

戦況の悪化で、南方戦線に送られると、絶望的な前線に立たされた。次々と敵兵を切り倒すはずの隊長は、突撃を命ずる言葉が終わらないうちに砲弾に直撃されて全身が吹き飛んだ。自分は、生徒や部下に教えていた通り、潔く突撃し、最後は「天皇陛下バンザイ」と叫んで散ることだけを考えていたが、突然、爆音と熱さを感じた途端に意識を失った。

気が付いたときは、米軍施設のベッドに収容され、頭部とわき腹に重症を負い、右脚を失っていた。終戦になり、抜け殻のようになって、どうにか故郷に戻り、戦後の人材不足から、教壇に戻ったが、子供たちにどう向き合うのか、何も考えられなかった。どう、生きるべきかも分からなかった。

学校に戻って間もなく、「新しい憲法」の教科書が配布され、教師は、それに接したとき衝撃を受けた。というより、涙があふれ、声を上げて泣いた。他人の前で、大声を上げて泣いた。同僚の教師も、新しい教科書に盛んにうなずいていた。教室で、憲法前文を涙声で読み上げながら、新制中学の生徒に「暗記しろ」と命じたのだった。

教師の実際の経歴を私は知らない。むろん心の葛藤も想像である。国民主権を人類普遍の原理と謳い、人権尊重と戦争放棄を定める新憲法は、教師にとって「自分と国が進むべき道しるべ」になったのだろう。「悟りが開けた」と言える。新憲法は、ほとんどの日本人の「腑(ふ)に落ち」受け入れられた。

後に、児童文学作家となった女子中学生は、70年前の命令を「決して忘れない」と語っている。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)