【コラム・相沢冬樹】石岡旧市内の稲荷神社をめぐって、歩数計は7,000歩を超えていた。さすがに空腹を覚え、そば店で遅い昼食をとることにした。2月7日のことで、店内はひな祭りに向けた飾り付けに切り替わっていたが、テーブルに神社のお札が無造作に置かれていた。女主人に「節分のものか」とたずねた。

すると「初午でいただいた」という。やはり初午行事はあったのだ。金毘羅神社にあった妻恋稲荷のもの。講中があって、神社のお祓いをうけたお札が届けられたばかりだった。

節分やひな祭りに比べれば初午は地味な行事だが、石岡のまちなかにはしっかり根付いている。稲荷神社は観光資源ではなく日常の地縁のなかにある。

「石岡は、歴史的に火事が多い町でね。うちも昭和4年(1929)の大火に遭っている。それが初午の日だったそう」。女主人の話にピンと来るものがあった。今泉義文『石岡の今昔』にこう書かれている。

「石岡地方の俚諺(りげん)に『初午の火は火早い』という言葉がある。これまで石岡の火災はいずれもこの日が多く、大火となっている。明治三年、長峰寺(若松町)の出火も、庚午(かのえうま)二月十日の夜で、筑波おろしの西風に、火の手を吹き付けられ、青木、香丸、仲の内、金丸町の一部が火の海となり、五百余戸を焼野原としてしまった。その中に青木稲荷があったが、奇蹟的にも類焼を免れた」

青木稲荷が「火伏せの稲荷」と呼ばれるようになった所以(ゆえん)を書いた箇所だが、同様の例は昭和4年の大火の際にも起こっていた。全焼206戸、1200棟を焼いたが、守横町にあった稲荷社が火災をよせつけず無事に残るなどしており、これらから火事と稲荷信仰が強固に結びついた。旧町内に作られた講組織が温存され、小さな稲荷社を守ってきたのである。

朱塗りの鳥居が見つからないのも、火に通じる朱色・赤色をあえて避けたからに違いない。

まちなかをはずれるが、木比提(きびさげ)稲荷(石岡市石岡)はその象徴のような神社である。創建年代は不詳だが、常陸大掾(だいじょう)氏の鬼門の護りとして古くから祀られてきたという。

長い参道に鳥居が続くのは、いかにもお稲荷様らしいつくりだが、赤ではない。素木(しらき)鳥居と呼ぶそうだ。ここも昭和59年(1984)に火災に遭っている。焼けた拝殿を建て直したということだが、火の手は裏の本殿にも及んだようだ。柱や蛙股(かえるまた)などの木組みが、正面寄りほど黒く焼け焦げたまま残っている。

昭和4年の石岡大火は3月14日に起こっている。初午といっても旧暦だったのだ。旧暦だと今年の初午は3月27日。二の午、三の午まであるというから、厳しい寒さが続く折、まだまだ警戒を緩めてはいけない。初午の火は早い。用心、用心、火の用心。(ブロガー)