【コラム・相沢冬樹】土浦旧市内で住居表示が行われたのは1973年から74年にかけてだから、1935年に始まる祇園町の歴史は随分と短命だった。今の中央二丁目・桜橋交差点に楔(くさび)の先端を打ち込んだような街区があり、川口1丁目までの約200m区間に商店街を形成していた。「土浦銀座」とも「目抜き通り」とも称された土浦駅前通りきっての商店街だったが、まさに「祗園精舎の鐘の声…盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」の栄枯盛衰を地で行く町名となってしまった。

その旧祇園町では、14年度から土浦市による「亀城モール整備事業」が進められている。16店舗ほどが軒を並べた楔形の街区はほぼシャッター通りと化していたが、市は約1900㎡を買収、一旦更地に戻した上、遊歩道などに再整備する。18年度中に、祇園町は名実ともに消えることになる。

計画を聞いて僕は、街角にたたずむ少女を思い出し、行き先が気になるとブログに書いた。時計・宝飾品の専門店「東京堂」の店頭を飾っていた少女のブロンズ像である。昨年末、突然姿を消したため、伝手(つて)をたどって探し出し、先般再会を果たしてみると、彼女が土浦にやってきたのは1970年代の末だと知った。すでに祇園町の時代ではなかったのだ。

2011年に亡くなった水戸市の彫刻家、小鹿尚久さんの作品で、1978年ごろの二科展に出品された。これを気にいったのが東京堂の経営者、故・桜井幸一さんと娘の満子さん(現姓・大谷)。「上野の展覧会で見て一目ぼれ。私は子供時分からの倹約家で、貯めたお金がソコソコあったので、それを元手に購入を即決した」(満子さん)という。

つくば市側から来た高架道路が土浦駅方向に大きく右カーブを切る交差点付近に、店舗があった。まだ高架道路のない時代、トラックが直進して店に突っ込みかけたことがある。

「日中、お客様が2人ほどおられてね、大きな音にびっくりした。ところがトラックはブロンズ像の右肩をかすめて止まった。それ以来、店の守り神になった」

東京堂の銘を刻む特注の御影石を台座に使っていて、その重さで進入を止めた。以来膝の上にキャベツが置かれたり、さい銭が供えられたりもした。やがて満子さんは嫁ぎ、父親は亡くなり、店は畳まれた。しかし右肩にかすかな傷あとを残す少女は、ずっと店頭で商店街の衰退する様を見届けたのである。

満子さんは今も東京堂の代表取締役を務めるが、会社の所在地は土浦・荒川沖駅近くになっている。訪ねると「つけ汁家安曇野」ののれんがかかるそば店で、少女像は店舗脇に置かれていた。満子さんの嫁ぎ先である。

「以前は300万円で売ってくれって話もあったけど今じゃ不景気でそれほどでもない。動かすにも重くてね、台座込みで1tもあるからクレーン車でやっと運びだした。そば屋には似合わない看板娘だけど、私がモデルだったということにしている」(ブロガー)