【コラム・栗原亮】今回はまず江戸時代の文書に触れたい。大名家文書には薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、対馬藩の宗家、仙台藩の伊達家などの文書がある。東京大学史料編纂所の山本博文教授がこれらを『日本史の第一級史料』(光文社新書、2006年)の中で紹介。史料を探す面白さ、読み方をわかりやすく書いており、「近世史への招待」の本ともいえる。

茨城に残る武家文書はどんなものがあるのか。水戸徳川記念館には、水戸徳川家に関する史料と『大日本史』修史事業に関係する史料が残されている。だが、水戸藩の藩政文書は明治維新期の混乱で藩庁が焼かれ、残っていない。

土浦藩土屋家の藩政文書も、明治前期の新治郡役所の火事で焼けてしまった。土屋家の家関係の史料の方は、国文学研究資料館に所蔵されている。その中には村に関する史料が若干含まれている。

古河藩、結城藩、石岡藩、牛久藩などの藩政史料はほとんど残されておらず、県内の藩政文書の残存率は高くない。藩士の文書としては、麻生藩家老三好家の藩政日記『麻生日記抜書』(4冊)、下妻藩家老の『井上家中日記』(40冊)などが残っている。

藩政文書ではないが、古河藩家老鷹見泉石(たかみ・せんせき)が近世後期に残した『鷹見泉石日記』(全8冊、吉川弘文館、2001~4年)もある。泉石は若い頃から蘭学を学び、天文、歴史、地理、兵学などの資料を集め、川路聖謨(かわじ・としあきら)、江川担庵(えがわ・たんあん)、勝海舟、渡辺崋山らと交友があった。

日記には交友関係や公務関係記録があり、幕末期の知識人の動きや諸藩の動向を知る上で貴重な史料である。

一方、村の史料が残るようになるのは、豊臣秀吉が太閤検地を実施し、兵農分離がなされてからである。畿内の惣村(そうそん)では、戦国期には領主(荘園・武家領主)による直接の支配がなくなり、年貢などの徴収を村に請負わせる「村請制(むらうけせい)」が成立したことで、史料が残るようになった。

茨城も同様で、村請負制の成立によって村落の史料が残されるようになった。徳川3代将軍家光のころ、村の組織がほぼ確立したといわれる。(郷土史家)