《くずかごの唄》9 家族の分断 38度線の北と南


【コラム・奥井登美子】ピョンチャンオリンピックが無事に終わって、本当によかったと思う。姑が元気な頃。明治生まれのくせに英会話が出来て、その時代は誰もやらなかったハグまでして、おしゃべりするので、いろいろな外国人が我が家にやってきた。姑の父・祖父たちが設立したキリスト教会が、今の筑波銀行本店の近くにあり、城跡の公園を抜けると我が家にぶつかる。地理的な便宜もあったのかも知れない。

新渡戸稲造さんが我が家にいらした時。6歳だった兄の奥井誠一が、新渡戸さんにしがみついて離れない。子供好きの氏は、彼を膝に抱いたまま写真に写っている。誠一は、東北大学教授(薬学)のとき、45歳で亡くなってしまったが、新渡戸さんから頂いた暖かさを世界中に振りまいたような生き方をした人だった。

我が家に新渡戸稲造氏がいらした時=昭和3年

今の天皇陛下の英会話の先生をしていらしたミス・ローズさんがいらしたこともある。姑はローズさんの来訪が嬉しくて、息子に知らせたかったにちがいない。亡くなった誠一の写真を抱えて写っている。

我が家にミス・ローズさんがいらした時=昭和45年

残念ながら写真が残っていないが、敬虔というにふさわしい韓国人の牧師さんが来宅、一緒に私の手料理で食事をしたことがある。まだ幼い子供が2人、おじいちゃんとおばあちゃんにじゃれつくので、客の前で怒るわけにもいかず、私がとまどっていた時だった。

子供がふざけるのをじっとみていた牧師さんが、どうしたわけか、大きな涙を流している。威厳のある男の人が人前で泣く。その涙の意味の大きさに圧倒されてしまって、姑も私も、何も言えない。不思議な光景に子供たちもしゅんと、おとなしくなってしまった。

「38度線の北に息子の家族がいます」。北朝鮮という国名がまだ普及していなかったので、みな、38度線の北と言っていた。「会いたいのですが、会えません」「……」。それ以上聞いてはいけない雰囲気で、どうしてもうかがえなかったが、祖父、祖母の膝にたわむれ、遊びながら食事をしている幼い子どもたちを見て、思わず涙が出てしまったらしい。

定規で引いたように38度線で北と南に分けてしまったので、別れ別れになってしまった家族も、多かったに違いない。オリンピックで少し歩みよったかのようにみえる韓国の報道の中に、分断された家族の報道がないのはなぜなのか。50年前のこの時から私は気になっている。(随筆家)