月曜日, 10月 12, 2026
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人形に命を吹き込む50年 筑波大学人形劇団「ノイ」

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人形劇団ノイのメンバー。活動拠点にする筑波大学春日キャンパスで

「人形って、生きているように見える瞬間があるんです」。今年、旗揚げから50年を迎えた筑波大学の学生人形劇団「ノイ(NEU)」の塚越彩加さん(20)はそう話す。筑波大学開学3年目の1976年に発足したノイは、現在、学部生18人、大学院生4人の計22人で活動する。ドイツ語で「新しい」を意味する「ノイ」という名前には、旗揚げ当時の学生たちの「新しい人形劇をつくろう」という思いが込められている。半世紀の歴史の中で受け継がれてきたのは、「人形劇を『面白い』『楽しい』と思う気持ち」だ。

受け継いできた技術と人のつながり

「ごめん! そこはもう少し間を詰められるかな」

仕切りを外した畳敷き10畳二間の稽古場に、張り詰めた声が響く。声の主は、8月に都内で公演を予定する、宮沢賢治原作の「注文の多い料理店」で演出を務める同大2年の田中咲妃さん(19)だ。公演が間近に迫り、稽古にも熱が入る。「この作品は昨年5月の初演以来、何度も改良を重ねてきた。人の身体表現と人形劇をどう組み合わせるかが大切。もっと見やすく、分かりやすい作品になるよう、最後まで磨き上げていきたい」と話す。

8月の公演に向けて稽古に熱が入る

ノイが活動拠点とするのは、TXつくば駅近くの筑波大春日エリアの春日課外活動施設だ。2002年に同大と統合した旧・図書館情報大学の敷地内にあった旧宿泊施設をアトリエとして使用している。

室内には、次回作に向けて制作途中の美術道具が並ぶ。舞台で使う人形は、人形の胴体や頭に直接手を入れて、指や手首の動きで動かすパペットや棒遣い人形、作品によってはより直感的に操作できる糸操り人形を用いている。人形は、和紙や新聞紙、包装紙などを型に何層も貼り重ねる「張り子」という技法も用いられ、衣装や舞台美術など、公演で使うほぼ全ての道具をメンバー自身が手作業で仕上げるのが劇団発足以来続く伝統だ。一体あたり、試作の期間も含めると、完成までに約1カ月を要する。演目によっては、人形と共に、役者の身体表現も取り入れ物語の世界を表現する。

「活動を始めてまず難しかったのは人形作り。構造を考えたり、縫製したり、丈夫に仕上げたり、工程がとても多い。上手な人を見ると『どうしてこんな仕組みを思いつくんだろう』と驚く」と、入団3年目の塚越さんは振り返る。照明機材や音響機材、大きな黒幕なども代々受け継がれてきたものだ。「今改めて全部そろえようと思ったら、本当に大変」と語る。

学生メンバーが必要な道具を手作りする

一方で、「伝統は技術的なものだけではない」と話すのは、ノイ代表の横井一葉さん(20)だ。「50年という歴史の中で、人のつながりも受け継がれてきた。OB・OGの皆さんとは今も交流がある。公演を見に来てくださったり、ワークショップなど学外のイベントで、プロとして活動されていたり、自分で劇団を立ち上げたりした先輩たちから直接アドバイスをいただく機会もある。本当に貴重」

コロナ禍経て「バージョンアップ」

演目は、劇団によるオリジナル作品が中心だが、近年は、神話や童話をモチーフにしながら人形劇としてより物語を引き立たせるためにセリフや場面を追加するなど再構成した作品も増えている。一方で、公演を控える「注文の多い料理店」は、原作の文章を忠実に再現しており、ノイの中では珍しい作品だ。メンバーは、公演ごとに役者として舞台に立つこともあれば、演出担当者として役者への演技指導、照明や美術、音響効果などを指示する舞台の責任者も務める。脚本は、演出担当者が一人で作ることもあれば、メンバー全員で話し合いながら仕上げることもある。

一時期は、劇団員が10人を切る時期が続いたこともあった。活動を自粛せざるを得なかったコロナ禍では、公演のサイクルや演出方法など途切れてしまった伝統もあった。しかし活動を再開させる中で、以前よりバージョンアップさせたのが公演方法だという。

以前は、春の新歓公演、夏の新人公演、雙峰祭(学園祭)公演、卒業公演、演劇祭への参加などと年間スケジュールが決まっており、公演ごとに新作を作るのが慣例だった。一方、現在は、定期的な公演のほかに、地域の幼稚園や保育園、小学校から依頼を受けて行う公演が増え、年間を通じて舞台に立っている。

「コロナ禍で劇団の運営方法や文化を引き継ぐことが難しくなった。公演ごとに新作を作り、一つの作品に全力を注ぎ、公演が終われば一区切り、という印象がこれまでのノイにはあった」と横井さんは言う。「演劇にはそうしたスタイルも多くある。例えばミュージカルは長期間同じ作品を上演するし、小劇場では1週間ほど公演し、次の作品へ移ることもある。ただ、その方法では作品を改善する機会も少なく、経験も次につながりにくかった」と話す。一方、プロの人形劇団は、幼稚園や小学校などを巡回しながら、何度も同じ作品を上演することが多い。「私たちも、これまで小劇場のようなスタイルだったが、今はプロの人形劇団に近い形へ少しずつ移行しているところ」だと横井さんは説明する。

ノイのマスコットになっている約30年前に作られた人形「宇宙人」

「楽しむこと」が伝統

「仕掛けのある人形が思い通りに動いた時は、本当にうれしい」と話す横井さん。「脚本の面白さがお客さんに伝わって、笑ってくれたり、泣いてくれたりすると、『頑張って良かった』と思えるし、自分が思い描いていた動きが、人形でそのまま表現できた時は本当に感動する。驚きと美しさの瞬間をつくりたい、子どもにも分かりやすく、大人にも通じる驚きと感動を大事にしたい」

50年を迎えて横井さんは「活動を休止してしまった学生人形劇団が少なくない中で、他大学の人形劇団出身の方から『うちの大学では劇団がなくなっちゃったんだよね』と言われる。ノイ出身でプロとして活動する先輩からも『今もノイはにぎやかでうれしい』と言われると、うれしいです」

ノイの一番の伝統は「楽しむこと」だと横井さんはいう。「作品づくりをしていると『こう動かしたいのにうまくいかない』『思ったように見えない』と苦しくなることがたくさんある。でも、その試行錯誤そのものを楽しんでほしい。『楽しむこと』をノイの伝統として受け継いでいってほしい」という。

「趣味は『人形劇』と胸を張って言えるくらい、人形劇にどっぷり浸かっている。人形劇が本当に好きなので」と笑顔を見せる横井さん。「人形劇というと『子どものためのもの』というイメージを持っている方も多いと思う。でも私たちは、その先入観を覆すような作品づくりを目指している。どの作品にも『面白かった』『驚いた』と思っていただける見どころがあると信じている。11月には学園祭での公演もある。ぜひ劇場へ足を運んでいただけたらうれしいです」。(柴田大輔)

◆筑波大学人形劇団ノイの公演スケジュールや活動の詳細は、同劇団の公式サイトへ。

世界で一番幸せ者です《続・気軽にSOS》174

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【コラム・浅井和幸】2014年にタブロイド判「常陽新聞」に《気軽にSOS》を寄稿、その後、ネットメディア「NEWSつくば」に《続・気軽にSOS》のタイトルで継続、このコラムも干支(えと)が一回りしました。今回が定期寄稿の最後になりますが、この欄を通じて、私自身のことも発信でき、とても幸せな時間でした。

周りの人からこのことを聞かれたら、私は「自分は世界で一番幸せな人間である」と答えます。実際、いろいろな反応がありました。

Aさんは「自分はやっとこの年齢(80歳)になって、その気持ちになれた。浅井の年齢でそう感じることは素晴らしい」と言ってくれました。Bさんは「そう感じられるように、自分もいろいろと学んでいきたい」と言っていました。Cさんは「こんな不幸がたくさんある世界で、そんな能天気な言葉が信じられない」と言ってくれました。

各人が、今どのように生きていて、この世界をどのように感じていて、浅井に対してどのような立場で接しているのかで、それぞれの感想は変わってきます。多くの感想から感じることは、自分が立派な人間だと思われたい、自分が賢い人間だと思われたいと背伸びしている人は、義務をあまり課して自分を追い詰めていなか、ということです。

「おいしいね」と感想を伝えるよりも「〇〇の料理はまずい」と言えるほうが、味が分かる人間であると見られるように。「人の悪口を言えるほうが人間を知っているのだ」とアピールできると思い込んでいるように。

お金に困ったことがないと聞くと、どれほど金持ちなのかと考えてしまいがちですが、あまりお金を使わない生活であれば、お金持ちでなくともお金に困ることはありません。たくさんの収入や資産があっても、支払いが多ければお金に困るものです。

「足るを知る」ということは「我慢をする」とはイコールではないでしょうし、「今後は全く成長しない」ということともイコールではないでしょう。現在に喜び、さらなる高みを目指して力を付けいく「足るを知る」という境地もあるはずです。

私の幸せの定義

今後、私の考えはどんどん変わっていくかもしれませんが、今のところ、私の幸せの定義は次の状態です。

ある程度の余裕があり、何となくこの先も何とかなるだろうという感覚を持ち、そのうえで、五感(六感もかなぁ)で良さを感じたときに感じられるもの。五感とは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚です。例えば、美しいとか、かっこいい音楽だなとか、おいしいとか、いい匂いとか、よい肌触りとかを感じることです。

何となく大丈夫かなという感覚は難しいので、つらく苦しいときでも、とにかく、空を見上げて面白い雲だなとか、肌触りの良いタオルだなと思うような体験を繰り返してみてください。きっと、不幸しかないようなこの毎日の中で、少しの光を感じられるときが来るかもしれません。(精神保健福祉士)

鹿島神宮を訪ねて《ふるほんや見聞記》19

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鹿島神宮境内に設置された御船祭の案内板

【コラム・岡田富朗】今年は、12年に一度の午年(うまどし)に執り行われる鹿島神宮の「式年大祭 御船祭(みふねまつり)」が、9月1日から3日まで斎行されます。祭礼は、1日の勅使参向例祭(ちょくしさんこうれいさい)・神幸祭(じんこうさい)、2日の御船祭、3日の行宮祭(あんぐうさい)・還幸祭(かんこうさい)の3日間にわたって執り行われます。12年に一度、午年に斎行されるのは、十二支が一巡する節目であることに加え、午が方角では南、時刻では正午を表し、陽の気が最も盛んになると考えられているためです。この大祭には、「天下泰平」「諸願成就」「魔陣退散」の願いが込められています。

鹿島神宮では年間90を超える祭儀が執り行われ、祭頭祭(さいとうさい)や白馬祭(おうめさい)、流鏑馬(やぶさめ)など特色ある諸行事が数多く行われていますが、その中でも一番規模の大きな祭礼が御船祭であり、本邦内海で行われる御船祭としても最大の祭典です。開催期間中は多くの人出が見込まれるため、神宮周辺では交通規制が実施されるほか、シャトルバスが運行されます。

御船祭の起源は二千年以上前にさかのぼるとされ、平安時代より体系化され、世情に合わせその規模や形を変えることはあっても、現代まで脈々と受け継がれてきた祭礼です。

鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」(たけみかづちのおおかみ)は鹿嶋の地域だけでなく、日本全国を守護する神として古くから信仰されてきました。その御神威を広く全国に届けるため、祭礼の舞台となるのが、かつて「香取の海」と呼ばれた広大な水域です。現在の霞ケ浦や北浦、水郷地帯一帯に広がっていたこの内海は、古代には東国最大級の水上交通の要衝でした。

現在の御船祭は1870(明治3)年に再興されたもので、御分霊をお遷(うつ)した御神輿に約2000人が供奉して北浦湖岸の大船津へ向かいます。大船津河岸の大船津鳥居(西の一之鳥居)に御船祭の時期のみ設置される船着き場で神事が執り行われます。そこから色鮮やかな五色の吹き流しや龍頭を飾りつけた「御座船」を先頭に、幟旗や大漁旗を飾り付けた約100隻の供奉船(ぐぶせん)が約11キロをわたって香取市加藤洲に向かって進み、香取神宮のお迎えを受けます。

武甕槌大神と経津主大神

鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」と香取神宮の御祭神「経津主大神」(ふつぬしのおおかみ)は、ともに協力して日本の基礎を築き上げた神として神話で語られています。御船祭では、「今後も共に国の安寧のために力を尽くす」ことを確認することに重要な意義があるとされています。香取神宮では2026年4月に12年に一度の「式年神幸祭」を執り行い、「経津主大神」を鹿島神宮の神職がお迎えしています。

こうした歴史ある式年大祭を迎えるにあたり、2020年から5年7カ月にわたり、記念事業として境内の主要建造物を修繕する「令和の大改修」が進められてきました。6月には楼門改修工事の完了をもってすべての工事が終了し、修復を終えた楼門が参拝者を迎えます。楼門は1634(寛永11)年、水戸藩初代藩主・徳川頼房によって奉納されたもので、日本三大楼門の一つに数えられ、国の重要文化財にも指定されています。(ブックセンター・キャンパス店主)

6月に屋根のふき替えと塗装工事を終えた楼門

筑波大、2年ぶりの皇后杯出場ならず 女子サッカー県予選 準優勝 

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前半8分、敵陣に攻め込む筑波大の戸塚(水色のユニフォーム)=撮影/高橋浩一

第32回茨城県女子サッカー選手権 兼 皇后杯JFA第48回全日本女子サッカー選手権関東予選茨城県予選は1日、水戸市立サッカー・ラグビー場(ツインフィールド)で決勝が行われ、筑波大学女子サッカー部とQOL IBARAKI MITO CIRUELA(シルエラ)が対戦、筑波大は0-1で敗れた。2年ぶりの皇后杯出場はならず、準優勝となった。

第32回茨城県女子サッカー選手権大会(8月1日、水戸ツインフィールド)
筑波大0-1シルエラ
前半0-0
後半0-1

前半9分、石原がゴールに迫る

シルエラはかつてMITO EIKO FC茨城レディースとして活動していたチーム。2019年にFC水戸シルエラに改名し、22年に運営会社の移管に伴いFC QOL MITO CIRUELAに再改名し、この年関東女子サッカーリーグ2部に昇格した。25年には体制を一新、ゼネラルマネージャーに赤崎秀平さん(筑波大学、J1鹿島などでプレー)、アドバイザーに鈴木隆行さん(元日本代表、J1鹿島、J2水戸などでプレー)が就任し、監督には佐藤誠一郎さん(元水戸商高監督、前つくばFCレディース監督)を迎えた。

前半16分、縦パスを受けて反転、シュートを放つ打田もえ

「前回対戦したときからスタッフも選手も替わっており、気を引き締めて臨んだ。前に足が速い選手がいて攻撃力があり、後ろの守備もしっかり固めている」と、筑波大の吉田拓矢監督は印象を語る。

前半30分、ドリブルで運ぶ大野

試合では、前半は筑波大が圧倒的にボールを保持した。攻撃時は4-3-3、守備時は4-4-2のフォーメーションで、サイドからは左ウイングの戸塚環が両足を使ったステップやドリブルで敵陣を切り裂き、中央では大野羽愛から石原百華へのホットラインが機能していた。シルエラはパスの狙いは良いものの選手の動きと合わず、ボールをロストする場面が多く見られた。

前半38分、浮き球に足を伸ばす三上心優

前半の給水タイム以降はシルエラの動きが良くなり、筑波大のパスを巧みに刈り取る場面なども多く見られるようになった。後半に入ってもシルエラの勢いは続き、7分にはついにゴールを割られてしまう。左サイドのペナルティエリア横へ攻め込んだ相手選手を倒してしまい、直接フリーキックに。相手が中央で頭で合わせたボールを一度ははじき返したが、こぼれ球を押し込まれ、これが決勝点となった。「ファールを取られた位置も、はじき返した位置も悪かった。壁が壁として機能していない。最後の寄せをチームとして徹底しなくては」と、筑波大主将でDFの山崎琳の反省の弁。

後半アディショナルタイム、途中出場した川勝梨央のドリブル

筑波大の次の目標は、関東大学女子サッカーリーグ1部への復帰。2部リーグ優勝なら自動昇格、3位以内なら入れ替え戦の機会が与えられる。「いま5位で残り5試合。取りこぼしは許されない」と吉田監督。そのためには今日の敗北も糧にしたいところ。「1試合の中でチャンスはそう何度もない。決めるところを決めきることが大事。うまいから勝てるわけではない。勝ちきるメンタリティーも鍛えなくては」と、9月末からのリーグ戦再開に備える。(池田充雄)

優勝したシルエラの集合写真
準優勝の筑波大の集合写真

バイシクル・ダイアリーズ ⑷《ことばのおはなし》95

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写真は筆者

【コラム・山口絹記】前回記事では、人生初の本格的なサイクリングがヒルクライムになりつつあるところまで書いた。

冷静に振り返ってみると、私がこんな無謀なコトに及んだのにはそれなりの理由があるように思う。つくば市に暮らし始めて10年以上たつのだが、実はつくばの中心部の街並みには坂がほとんどないことを意識せずに暮らしてきた。したがって、普段ロードバイクで走る分には坂道を経験したことがなかったのだ。平地に飼いならされていたと言ってもよいだろう。

そして、今回のライドにおける前半30分、約10キロが実はずっと下り坂だったことに私は気が付いていなかった。初心者の私でもしっかりペダルを踏み込めば時速40キロ以上出せることを、自分のバイクの性能ゆえと思い込んでいたのだ。ロードバイクってこんなに速いんだ! すごい! 端的に言って間抜けである。

平坦と思い込んでいた下り坂の爽快な記憶をひきずったまま、私はヒルクライムを開始した。何かつらいけど、まぁなんとかなるだろう、そう思った。実は、私が走っていた道は「八幡高原チャレンジコース」という名のコースの一部で、中上級者向けの山岳コースという位置づけになっているらしい。

走行開始から2時間30分、短い下りから突然の上り坂、獲得標高にして760メートルで両脚を激しくつった。下りで重くしていたギアのまま、上りに突入したのが原因だ。ショルダーバッグを投げ捨てたくなるのをこらえ、坂道に罵声を浴びせ、悲鳴をあげながらバイクをひいて歩いて登る。食料はない。持ってきたのは水500ミリリットルだけ。軽い遭難である。

走行距離42キロ、3時間40分

そこから45分かけて、もう一度短い下りを挟んだ上り坂を悲鳴と愚痴を吐き散らしながら標高1040メートルの八幡崎に登頂した。獲得標高959メートル。少し曇ってはいたが那須野が原の景色が広がっていた。なんてこった、ちょっと気持ちいい。

帰りはほぼ下り坂だ。延々と苦しんだ登りを15分で下ることができた。総走行距離は42.21キロ、約3時間40分のライドだった。

記憶領域の小さい私の脳みそに残ったのは、那須野が原の景色と下りの気持ちよさだったのだろう。帰ってきた3日後の5月6日深夜、偶然「ツール・ド・つくば2026」のエントリーページを見つけた私は、深く考えずにその場でエントリーした。ツール・ド・つくばのコースは全長約12キロ、高低差約500メートルだという。途中から歩いたとはいえ、すでに私は脚がつるまでに760メートル登り、距離にしたら40キロ以上走っているのだ。

翌日、過去のツール・ド・つくばの映像をYouTubeで見た私は凍り付いた。なんかみんなピチピチの服にサングラスをつけて走っている。こんな服持ってない。というか、思ったよりだいぶ本格的である。まずいかもしれない。大会の本番は5月31日。あと3週間である(言語研究者)

最期の1週間、家では何が起こるのか?《看取り医者は見た!》54

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写真構成は筆者

【コラム・平野国美】患者さんのご家族から受ける相談には、いくつか共通するものがあります。その代表が、この問いです。「先生、あとどれくらいなのでしょうか?」。その奥にあるのは、残された時間の長さへの関心だけではありません。「これから家で何が起こるのか、自分たちで看られるのか」という不安です。病名は理解していても、その先の日々に何が起こるかは、案外、誰も知らないのです。

私は23年にわたる訪問診療で、3400人ほどの患者さんの最期に立ち会ってきました。その経験から言えるのは、人生の最終盤の1週間には、多くの方に共通する「ゆるやかな道筋」があるということです。それを知っているかどうかで、ご家族の1週間はまったく違うものになります。

まず、食が細くなります。ご家族はここで一番動揺されます。「食べないから弱るのではないか」と。しかし順序は逆です。体が「店じまい」の支度を始めたから、食べなくなるのです。この時期の体は、栄養を受け取る力そのものを畳みつつあります。無理に食べさせることは、むしろ本人を苦しめることがあります。好きなものを一口、ふた口。それで十分なのです。

次に、眠る時間が長くなります。ウトウトと、1日の大半をまどろみの中で過ごすようになる。呼びかけへの返事が減ると、ご家族は「意識がなくなった」と悲しまれますが、耳は最期まで働いていると私たちは考えています。返事がなくても、声は届いています。

そして最後の数日、呼吸の仕方が変わります。喉の奥でゴロゴロと音がしたり、あごを上下させるような呼吸になったりします。初めて見るご家族には、苦しんでいるように見えます。夜中にこの呼吸が始まって、救急車を呼ぶべきか迷ったという話を、私は何度も聞いてきました。しかし、これは死前喘鳴(ぜんめい)、下顎(かがく)呼吸と呼ばれる、体が閉じていく自然な過程です。本人の意識はすでに深いところにあり、見た目ほどの苦痛はないとされています。

最期は医療でなく家族の出番

以前、看取らせていただいたある男性のご家族には、この道筋を初診の日を含め、何度かお伝えしてありました。最期の夜、例の呼吸が始まったとき、娘さんは慌てませんでした。「先生の話していた呼吸だ」と気づき、救急車ではなく、父親の手を握ることを選ばれました。翌朝、私が死亡診断に伺うと、娘さんは泣きながら、しかしどこか晴れやかに言われました。「最期まで家の音の中に居させてあげられました」

死の間際の変化は、知らなければ「異変」ですが、知っていれば「道筋」です。異変には救急車で応じるしかありませんが、道筋とわかれば、手を握って寄り添うことができます。最期の1週間に家で起こることの多くは、医療の出番ではなく、家族の出番なのです。

そして、その道筋を前もってご家族に手渡すこと。それが私たち訪問診療医の、処方より大事な仕事なのかもしれません。(訪問診療医師)

「甲子園2勝以上目標」霞ケ浦高校で壮行会【高校野球茨城’26】

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全校生徒が迎える中、壮行会会場に入場する選手たち

高校野球茨城大会で2年ぶり4回目の優勝を果たし、県代表として全国大会に出場する霞ケ浦高校野球部の壮行会が31日、阿見町青宿の同校で行われた。会場には全校生徒が集まり、チアダンス部、吹奏楽部と共に、選手たちに大きな拍手を送った。 

村上聖主将は「皆さんの応援のお陰で夏の大会を優勝することができ、甲子園に出場することができる。甲子園では2勝以上することを目標に全員野球で一戦一戦戦っていくので応援よろしくお願いします」とあいさつした。

あいさつする村上聖主将

髙橋祐二監督は「初戦から決勝戦まで数多くの盛大な声援のお陰で茨城県を制すことができ、ありがとうございました。霞ケ浦旋風を甲子園で巻き起こして、一戦必勝で皆さんと大きな声で校歌が歌えるように頑張って参ります。ご声援よろしくお願いします」と話した。

岡村守学校長は「野球は最後の最後までどうなるか分からないが、高校生らしく、霞ケ浦高校らしく、仲間を信じて諦めず、全力で戦い抜いてもらいたい。この夏で全てを出し切ってもらいたい。霞ケ浦高校の野球を全国の皆さんに見せてあげよう。甲子園の1勝は簡単ではないが、学校全体で一丸となって、みんなで声援を送って、全力でみんなで勝たせてあげよう」と全校生徒に応援の後押しを呼び掛けた。

生徒代表から花束を受け取る村上聖主将

壮行会では、校歌を斉唱し、全員でステージ上の選手に向かい熱いエールを送った。

参加したチアダンス部部長の池田來未さんは「決勝は接戦でハラハラしながらの応援だったので、より大きな声を出して、応援で勝たないといけないという気持ちが強かった。勝って霞ケ浦の野球はすごいと感じた。前回は強豪の智弁和歌山に勝っているので今回も一戦一戦勝って優勝出来るように頑張ってほしい。同じクラスの西野結太さん、塚田泰生さん、石沢夢叶さんはとても明るくて、ムードメーカー、いつもみんなを笑わせてくれる。甲子園でもみんなを笑顔にしてほしい」と話した。

壮行会で選手たちにエールを送るチアリーダー

チームは31日、茨城空港から現地に向けて出発した。全国大会の組み合わせ抽選会は8月1日にオンラインで行われ、対戦カードが決まる。大会は5日から阪神甲子園球場で開幕する。

エースの稲山幸汰投手は、県大会での疲労はなく調子は良いという。常総学院との決勝戦で3本のタイムリーを放ち優勝に大きく貢献した菊地勇一選手も、決勝までは調子が上がらなかったが、3本のタイムリーで勢いづいて打撃が良くなった。万全の状態で、夢の舞台、甲子園で2勝以上を目指す。(高橋浩一)

答申受け全面見直し つくば市 茎崎給食レストラン整備事業

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茎崎給食レストランの建設が予定されていた岩崎保育所跡地=つくば市上岩崎

つくば市が同市上岩崎の市立保育所跡地に建設を計画していた「茎崎給食レストラン整備事業」に対し、事業の必要性や効果などを検証する市長の諮問機関、大規模事業評価委員会(委員長・藤川昌樹筑波大教授)がこのほど、「検討・整理を要する事項が複数ある」とする厳しい内容の答申をまとめた。答申を受け五十嵐立青市長は、31日開かれた市議会全員協議会で「答申の指摘を踏まえると、当初の計画通りに事業を実施することは困難」だとし、事業を全面的に見直すことを表明した。

市議からは「元々の計画段階の検討が不十分だった」とする意見があった一方、「(事業見直しを)もう一度考え直してもいいのではないか。再度検討いただきたい」「答申は全面否定ではない。答申を受けて引いてしまうのではなく練り直すべき」などの意見が相次いだ。

五十嵐市長は「(同事業は自身の)公約でもあり、つくれるものであればつくりたいが、今回の答申を読み込めば、表現として『中止すべき』と書いてないからと、いろいろ解釈をして進めることにしてしまえば、ガバナンス(統治の仕組み)不全につながってしまう。大規模事業評価制度は(住民投票で白紙撤回された)総合運動公園の反省から生まれた制度なので、(同評価委の)専門家の皆さんに真摯に議論いただいて出された答申を、真摯に受け止めず、我田引水的な解釈をしてこれを進めてしまったら、一事業というよりガバナンスそのものに関わる問題になってしまう」などと話し理解を求めた。

三つの複合施設

同事業は①予定地に隣接する市立茎崎第二小学校に自校式給食を提供する調理機能➁市産の地場野菜を貯蔵したり加工して市の学校給食に提供する機能③茎崎二小の児童生徒約250人と一般市民約50人に計300食の給食を提供するレストラン機能の三つを備えた複合施設。

今後について五十嵐市長は①自校式給食提供機能について「現在(大規模な給食センターで複数の学校の給食をまとめて調理する)センター方式を採用し2万7000食を提供でき充足している。今のところ自校式給食のグランドデザインを描けるかは難しい」と話し、自校式給食施設の整備についてはいったん断念し、市全体の給食提供体制の見直し時期を判断していくとした。➁加工・貯蔵機能については「市内のさまざまな農業者団体と話をして、どのような可能性があるかを調査したい」とし、事業主体や、整備場所などを再検討していくとした。③給食レストラン機能については、学校の年間行事の中で地域住民と一緒に活動するイベントなどの際に児童生徒が地域住民と一緒に給食を食べるなど、既存の学校施設などを活用し、地域と児童生徒の交流機会を創出する方策などを検討していくとした。

さらに予定地の今後の利活用については「8月9日と10日に住民説明会を開き、そこで皆さんからどのような希望があるかうかがっていきたい」と述べた。

グランドデザイン無い

大規模事業評価委で問題にされたのは、①自校式給食について、これまで同市は、大規模な給食センターを次々に整備し1日計約3万食の調理能力を整え、2025年4月には桜給食センターを稼働させるなど市全体の給食供給体制を充足させたのに、その直後に茎崎給食レストランを計画し、自校式給食の実証を行う計画を立てたなどの整合性の無さだ。答申は、市の学校給食の提供体制の中で給食レストラン事業をどのように位置づけるかというグランドデザイン(長期的構想)が無い中で、必要性や妥当性を判断することは困難だなどと指摘した。➁加工・貯蔵既往については、市全域分の加工・貯蔵機能を、市域の南端に近い場所で行うことの妥当性について十分な理解に至らないなどと指摘し、③給食レストラン機能については、一般来客の提供食数を1日50食と見込み、営業時間1日2時間、2回転と想定するが、需要予測、営業計画、配置計画、既存施設の活用など代替手段との比較検討が不十分で、地域交流や居場所づくり、健康増進などの課題に対して給食レストランが本当に最適で必要なのかの十分な説明や整理が無いので、判断材料が不足しているなどとした。

その上で「結果として使用されない施設や非常に効率の悪いものが出来上がった場合に『(地域住民の)要望があったので仕方ない』ということは行政の言い訳として許されない」などと厳しい意見を付けた。

総事業費当初の2.5倍

同給食レストラン整備計画は、敷地面積約2500平方メートル、複合施設は鉄骨2階建て、延べ床面積約1083平方メートルで、事業費は計14億3900万円の計画だった。今年7月から実施設計、2027、28年度に建設工事を実施し、29年にオープンする予定だった。

当時、茎崎地区の小中学校などに計約2500食を提供していたた茎崎給食センターが老朽化し、解体する計画が出される中(2025年3月末に廃止)、茎崎地区住民から同給食センターの建て替えを求める要望などが出された時期に、市から、給食レストラン整備計画が持ち上がった。当初の事業規模は5億円程度とされ、2024年度に基本計画策定と敷地測量が実施、25~26年度に基本・実施設計に着手した。その後、資材費や人件費の高騰などから事業費は当初見込みの2.5倍の14億3870万円になることが見込まれ、10億円を超える事業であることから、昨年12月、大規模事業評価委員会で事業計画の検証がスタートした。これまで市は、基本計画と測量に174万円を使い、基本・実施設計は1793万円の予算のうち537万円をすでに前払いしているという。

大規模事業評価は、総合運動公園建設計画が住民投票で白紙撤回となったのを教訓に10億円以上の事業を対象に第三者が必要性や優先性、経済性など6項目を評価する市独自の制度で、実施は上郷高校跡地に建設予定の陸上競技場に続いて2事業目。陸上競技場は当時、妥当とする答申が出された。その後、事業費が増えている。(鈴木宏子)

筑波大生有志ら「筑波学生新聞」を発行 宿舎値上げ問題きっかけ

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「筑波学生新聞」創刊号を手に、顔を出さないことを条件に取材に応じる編集スタッフの筑波大生=つくば市吾妻の公園

公式サイトも開設

学生宿舎の値上げ問題をはじめとした大学側の対応に対する疑問をきっかけに(3月11日付、18日付)、筑波大生有志らが今年4月、学生新聞「筑波学生新聞」を創刊し、7月中旬、だれでも無料で購読できる公式ウエブサイトを開設した。同大生によると「大学当局の意に反することを言いにくい」風土にも関わらず、「筑波大唯一の独立系メディア」と銘打ち、学生たちは意気軒昂(いきけんこう)に活動を続けている。

匿名を条件に取材に応じた新聞編集スタッフの一人は「(学生宿舎の)寄宿料の値上げをはじめ、大学のやっていることにおかしいと感じる点が多くあった」ことが、今回の発刊に至ったと話す。

同大にはもともと、大学公認の大学新聞「筑波大学新聞」とは別に、非公認ながらも学生たちが独自に編集制作した「筑波學生新聞」(※「学」の文字は旧字体)が2007年まで発行されていた。「筑波學生新聞」と、今回創刊された「筑波学生新聞」とは直接の関係は無いが、新聞編集スタッフは「昔あった『筑波學生新聞』は、大学に対して批判的な立場を貫いていたと聞いている。できれば、その志を受け継ぎたいという思いから、同じ名前を付けた」と、理由を説明する。旧「筑波學生新聞」は記事の中で、当時の「筑波大学新聞」と旧「筑波學生新聞」の違いを「権力と反権力」「拘束と自由」「強者と弱者」と表現していたという。

筑波学生新聞第2号の紙面画像と公式X(右)

臨場感が伝わる記事に

4月に創刊された筑波学生新聞は、創刊以降、2カ月に1回のペースで定期発行し、必要に応じて特別号を追加発行している。これまでに学生宿舎問題を取り上げた「宿舎問題特別号」と、大学公認の学生代表組織「全学学類・専門学群・総合学域群代表者会議」(全代会)の問題点を取り上げた「全代会問題特別号」を発行した。

このうち「宿舎問題特別号」は、「学生による質疑に多くの記述を割くよう心がけた。執筆に際しては、(学生宿舎値上げ問題の説明会)会場で反響を呼んでいたものや、すでに他の学生による発信の中でも注目されている点に気を配った。(説明会の)その場にいた学生記者にしか書けない記事にしたかった」と、臨場感が伝わるような記事に仕上げたと話す。

7月中旬に開設した筑波学生新聞の公式サイト

学内配布が困難に

創刊当初の今年4月は、印刷した紙の新聞を学内で配布できず、公式Ⅹ(旧ツイッター)で告知するのがやっとだった。

編集スタッフは、学内で配布できなかった理由を「新聞を配布する約5日前に、教員のサインが入った届け出を、(学生部などの)関係部署に提出する必要があるため」だと明かした。提出時に紙面の内容もチェックされることから、「事実上の検閲」を受ける恐れがあると危惧(きぐ)しているとする。

さらに「届け出には責任者の名前を書かなければならず、その教員や学生が大学から目をつけられ、場合によっては処分されるかもしれないという恐怖がある。普通に考えればこんなことで処分されるのはあり得ないが、予想の上を行くのがウチの大学(筑波大学)なので…」と懸念を示した。

学生の懸念について筑波大広報局に確認を求めたところ、「学内において文書配布を希望する場合、掲示又は配布予定の5日前(休日は期間に算入しない)までに大学側に『文書等掲示・配布願』を提出し、配布の許可を得る必要がある」との回答があった。その上で同大広報局は「『届出』という表現は不正確であり、提出書類は許可を求める願い書である」と念押しし、文書配布の可否を決める権限は大学当局にあることを強調した。

根拠として2005年制定の「筑波大学学生の活動に関する法人規程」の第14条から第18条で文書の掲示や配布について定めた項目があるという。同大の「文書等掲示・配布願」には、団体名と団体の代表責任者の氏名・住所・電話番号などに加えて、掲示・配布場所、配布枚数など細かく記入する書式になっている。

学生有志が今年4月1日、筑波学生新聞の創刊を公式Ⅹで発表すると、2日後には大学側から「筑波大学新聞と筑波学生新聞は異なります」という趣旨の注意書きが公表された経緯があるという。

茨城大学生とも協力

紙の新聞の学内配布は事実上ふさがれた形だが、紙面画像データは公式Ⅹからダウンロードできるため、Ⅹからダウンロードして印刷したり、スマートフォンやパソコンから閲覧できる。7月中旬からは公式ウェブサイトが開設され、スマートフォンやパソコンからの閲覧が便利になった。

取材や執筆、編集作業は現時点で、少数の編集スタッフが手掛ける。ほかに、茨城大学(水戸市)の学生有志も協力しているという。以前は茨城大にも学生新聞があったが現在は無くなったため、筑波大生有志と茨城大生有志が協力して「茨大学生新聞」も今年4月下旬に創刊。このため発行元の名称が「茨城・筑波学生新聞連絡会」となっている。

文化や思索の拠点に

編集スタッフは「筑波学生新聞」のこれからについて「『暴露やスクープをどんどんやっていきたい』というよりは、『普通に新聞をやりたい』ということ。週刊誌のようになるのが目的ではない」と話す。その上で、以前の筑波学生新聞が学外の文化人を招いて講演会を開いた事例を挙げて「筑波大学の中での文化や思索の拠点になるようなものを目指している。もちろん、暴露すべきことはしっかり暴露するが、大学をおちょくるのが目的ではない」との将来像を示した。

一方で、学生宿舎問題をはじめとした、学生たちが大学生活などで抱く疑問や違和感など「学生たちが『これっておかしくない?』という声も紙面で取り上げていきたい」との姿勢を強調した。(崎山勝功)

※これまでの筑波学生新聞の記事は、公式Ⅹと公式ウェブサイトで無料で読むことができる。公式サイトはこちら。公式Ⅹ(旧ツイッター) はこちら。

日本のど真ん中、標準時子午線が走る淡路島の課題《令和樂学ラボ》42

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淡路市東浦町の子午線の近くにあるラジオ関西淡路送信所(筆者撮影)

【コラム・川上美智子】両親の実家があった淡路島は、筆者が3歳近くまで過ごした故郷でもあり、今もほぼ年1回は墓参りに訪れている。神戸から明石海峡大橋を渡って間もなくの神戸淡路鳴門自動車道沿い(淡路市東浦町)に、東経135度の日本標準時子午線を示す搭が建っている。淡路島は経度(東西)、緯度(南北)から見て日本列島のほぼ中央に位置していて、温暖な気候に恵まれて古代より住みやすい地であった。

古事記にはイザナギ、イザナミ2柱の神による日本列島の国生み伝説が残されており、淡路島南端の海に浮かぶ沼島がその淤能碁呂島(おのごろじま)とされ、天の御柱(あめのみはしら)と言われる宮殿の一つが30メートルの高さの巨岩、上立神岩(かみたてがみいわ)とされている。

また、対岸にそびえる淡路島最高峰の諭鶴羽(ゆづるは)山頂に2神が鶴の羽に乗って舞い降り、第9代開化天皇の代には諭鶴羽神社が作られたとされる。私は、そこから海岸沿いに数キロ離れた家で沼島を眺めながら育った。その後の20年は父の勤務先が銀座であったので東京で暮らしたが、故郷の淡路島への思いは強い。

淡路島は神戸から近いので関西の観光地として発展を続けているものの、高齢化が進み、人口減少は深刻である。特に年少人口(0~14歳)の減少は顕著である。淡路島には北から淡路市、洲本市、南あわじ市の3市があるが、故郷の南あわじ市は本土から離れていることもあり人口減が心配である。

2026年の日本全体の年少人口比率は11.44%であるが、南あわじ市は10.14%で、2026年3月現在では4342人しかいない。つくば市の3万9400人や、水戸市の3万1828人と比較すると、いかに少ないかが分かる。0歳児は167人で、出生数は年々急減している。働く世代の20歳代が200人台にへこみ、70歳代が800人前後と突出しているのも特徴であり、高齢社会の縮図を見るようである。

子育て環境の向上と教育の充実

そのような南あわじ市であるが、「子育て環境の向上と教育の充実」が市政の根幹に関わる施策であるとして、新たなプロジェクトを始めようとしている。廃校を活用した子どもの屋内遊び場施設への改修である。2012年まではこの地域の夏季猛暑日は0日であったが、気候変動に伴い近年は20~30日に激増したそうである。屋内型の子どもの遊び場は、茨城でも人気が高く、利用者が多い。過疎化で放置建物や廃墟を目にすることが多くなっているが、その利活用である。

場所は、廃校になって4年ほど経つ1991年建築の小学校で、1万7000平米の敷地に校舎、体育館、プールなどが残されている。これらを活用し、フットサルコート、アスレチック、バスケットコートなどの屋内運動場、プレイルーム、図書館、工作DIY、音楽・ダンス室、レストラン、カフェに、プールはビオトープ、釣り堀に、運動場はバーベキュースペース、農園、駐車場などにする案が描かれている。

プロポーザル方式で計画設計事業者を決定するようである。夢のある話であるが、子どもたちの魅力的な遊び場となり、子育て世代の転入に結びつく施設になるか、過疎地のモデル事業として見守って行きたい。(茨城キリスト教大学名誉教授、関彰商事アドバイザー)

世界のジンをつなぐ 大滝航さん 土浦発、オンライン書店を運営

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土浦を拠点に活動する大滝航さん

作家の孤独に向き合う

土浦を拠点に、ニューヨークや香港、韓国など国内外のアートブックフェアを巡り、世界中の作家と直接やり取りを重ねる土浦市在住の大滝航さん(42)。個人や小規模の団体が少部数で制作する作品集や同人誌などの小冊子、ジン(ZINE)の出版・販売を手掛け、主にアート系の作品を販売するオンラインショップ「クレバス(crevasse)」を一人で運営する。扱うのは、世界各地で孤独に向き合い、生み出された作品だ。

深い氷の裂け目を意味する「クレバス」という名前には、作品作りに打ち込む作家の孤独を重ねている。誰かに頼まれたわけでもなく、自宅で一人、作品を作り続ける。そんな姿を大滝さんには「谷に落ちている」ようだという。「この話、すぐ伝わる人と、全然伝わらない人がいる。でも、一瞬で分かってくれる人もいる。そういう人とは波長が合うんですよ」と大滝さんは笑う。

2022年に出展した米国ニューヨークでのアートブックフェア(大滝航さん提供)

「間違っていない」と伝えたい

「写真を見て良いと思ったら『この本を買いたい』とメッセージを送る。返事があれば見積もりを出してもらって『ペイパル(オンライン決済サービス)で払うね』ってインスタのメッセージでやりとりする。その人がどこの国に住んでいても変わらない」と大滝さんが話す。作品集などの写真は、オンライン上で見たり、イベントなどで実際に見て判断している。

クレバスの販売サイトを開くと目に入るのは、国内外の作家が手がける、大きさや形も様々な写真集だ。今を生きる若者たちのリアルな日常を映し出すものや、写真や本のあり方を根本から問い直すものなど、多様な世界に触れることができる。

「作品は、そこに行き着くストーリーがあって、嘘がないものがいい」と話す大滝さん。写真家の林朋奈さんによる「母子手帳」は、直径8センチほどの、円形の写真集だ。単語帳のように金属リングでとじられたページには、幼い子どもを抱きながら、もう一つの手に持つスマートフォンで、街中にある鏡に映る林さん自身の写真がある。対になるのは、おもちゃやベビー服など、子どもが使う日用品。それぞれが、明るい原色の背景とともに映し出されている。

「子育てが始まりカメラを持ち歩けない中で、アイフォンで撮ったのがこの写真。大きさ、丸い形、ポップな色使い、どれも写真のテーマとマッチしてる。表現するのに不必要なものがない。美しさを感じる」と大滝さんが解説する。

「合理性を無視して作るのがジン。自分の表現のために、一人、黙々と。その過程で孤独を感じる人に、『俺はいいと思った』と伝えたい。『この作品はいい。間違ってない』って」

ジンとの出合い

現在はオンラインショップを軸に、国内イベントに毎月出展するほか、年に数回、海外でのブックフェアに出展する。作家のジンを制作したり、買い付けたジンを国内外の書店に卸したり、作家とのイベント企画も手掛ける。「出版業でもデザイナーでもなかった僕が、出会いをきっかけに必要なことを少しずつやってきた」と話す。

ジンの魅力を「文化的背景を取り込みながら、それぞれの国や地域で生まれる異なる人のあり方を見ることができる、民主的に、自然発生的に生まれてくる本。手に取った人が、自分でもこんなものを作りたいとその気をさせてくれる」と語る。

大滝さんが制作するカセットテープサイズの写真集

福島県出身の大滝さんは大学進学を機に茨城県に移ってきた。高校で絵を学び、大学でも美術を専攻した。学外で個展を開催し、友人の展示を企画するなど活動を広げてきた。卒業後は一般企業に就職し、一時活動から距離を置くこともあったが、2016年にクレバスを立ち上げた。現在、専業で活動する。

初めてジンと出合ったのはクレバスを始めた前年のことだ。古書店で何気なく手にしたのが、コラージュ作品が掲載された20ページほどの手製の本だった。調べると、スイス・チューリッヒに拠点を置く独立系出版社ニーブスが作ったジンだった。

「200部、150部しか作っていない。僕自身が創作活動をしてきて、例えば自宅で作った200部ほどの二つ折りの本が地球の裏側に届くなんて想像もできなかった。自分もやりたいと思ったのが、活動のきっかけ」だと振り返る。

オンライン書店からスタートした。活動の中で出会った作家たちが作る本を販売したかった。さらに、ニーブスのように地球の裏側へも届けたいと思い、書店にも売り込んだ。でも返ってきたのは「アート系って売れないんだよね」という冷たい反応ばかり。「いいと思ってるのは自分だけなのか…」と、気持ちは落ち込んだ。

転機は2018年、初めて出展した海外のブックフェア。場所はドイツのベルリンだった。「僕が好きな日本の作家の作品を持って行った。日本では冷たい反応ばかりだったけど、ドイツのお客さんは『こんなのあるんだ!』って喜んでくれた。いいと思っていたのは僕だけじゃない。世界のどこかに同じ思いを持つ人がいる」。その経験は、大滝さんの考え方を変えた。「理解されない人を説得するより、価値観を共有できる人と出会えばいい。それならできると思った」

取り扱う写真集を確認する大滝さん

うれしいのは「本が売れたとき」

大滝さんが扱う作品は、すでに広く活躍している作家もいれば、無名の作り手の作品もある。「僕が光を当てたいなんて、相手が有名な方だったらおこがましい話。ただ、作った本を誰も見てくれない作家がいて、でも僕がいいと思ったら伝えたい。この作品がいいんだよって言うだけ。お前は間違ってない、って伝えたい」

大滝さんにとって一番うれしいのは「本が売れたとき」だ。「自分と同じように『いい』と思ってくれる人がいるなんて、ぜいたくすぎる喜びでしょ。ノリが合う人と、作品を通じて少しずつ、つながっていく。こんな喜びはない」

8月、土浦で巡回展

8月1日と2日、土浦市で開かれる「土浦キララまつり2026」に合わせて、同市中央のイベントスペース「がばんクリエイティブルーム」で、ジンの巡回展「フロットサム ジンズ ツアー(flotsam ZINES tour 2026)」を開く。東京・杉並区の写真集専門書店「フロットサム ブックス(flotsam books)」が企画し、2022年から続くこの巡回展は今回で4回目。青森から福岡まで、5カ月かけて全国18カ所を巡る大規模なツアーだ。大滝さんは、このうち茨城会場の運営を担う。過去2回、水戸で開催してきた。

近年「ジンが流行っている」とメディアで取り上げられることはあっても、大滝さんの実感としては、あくまで「クラスに1人、2人」にすぎない。「好きな人はいるけど、バラバラにいる。だから、イベントがあれば、1日や2日、無理してでも来てくれる。初対面でもウェルカムです。変に敷居を感じないで、興味があったら来てほしい」。大滝さんは「世界各地で孤独に生まれた作品と、その作品を待っている誰かが出会う場所をつくりたい」という。(柴田大輔)

◆ジンの巡回展「フロットサム ジンズ ツアー(flotsam ZINES tour)2026」の茨城巡回展は8月1日(土)、2日(日)、土浦市中央1-13-52のがばんクリエイティブルーム1階で、1日が午後1時~6時、2日が午前10時~午後6時まで。入場無料。詳細はクレバスの公式サイトへ。

涼しさを演出するタペストリー つくば駅前の商業施設に展示

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受賞した千葉千鶴さん(左)と田村理帆さん。後ろのタペストリーは千葉さんの「夕暮れ」

日本国際学園大の学生がデザイン

涼しさを演出する試みとして、日本国際学園大学(つくば市吾妻)の学生がデザインした幅6メートル、高さ2.7メートルの大型タペストリーの展示が28日から、つくば駅前の商業施設、トナリエMOG(モグ)1階のプラザ・パフォーマンス・ギャラリーで始まった。

つくば都市交通センターと同大が2015年から連携して実施している取り組みで、両者による「タペストリーアートコンペティション」で優秀賞を受賞した2作品を9月8日まで交互に展示する。今年応募があった同大学生の7作品の中から、現地での投票用紙による投票(計28票)と、ウェブでの投票(計163票)、さらに選考会による審査で2作品が選ばれた。

28日から8月18日まで展示されるのは、同大経営情報学部ビジネスデザイン学科2年、千葉千鶴さん(19)の「夕暮れ」。入道雲とヒマワリが夕日に照らされている風景をイメージし、暖色を多く使い、ノスタルジックな田舎の風景が思い起こされるような雰囲気を意識した。千葉さんは「祖母のいる行方市の田舎を思い浮かべながら描いた。受賞はとてもうれしい。絵を描くのが好きで、デジタルで描く。将来もそんな仕事がしたい」と話す。

展示が始まった千葉千鶴さんの「夕暮れ」

8月18日から9月8日まで展示されるのは同大同学科3年、田村理帆さん(20)の「きらめく夏の記憶」。花火大会、海水浴、スイカ割り、夏祭りなどの夏の思い出をシャボン玉に詰め込み、水面に浮かべた作品だ。田村さんは「受賞はびっくりしたが、選んでもらってとてもうれしい。テーマの通り、この場所が涼しくなるようなイメージをして描いた」と話す。将来はデザインに関わる仕事をしたいという。

田村理帆さんの「きらめく夏の記憶」のデザイン画

コンペの審査委員長を務めた都市交通センターの関俊介理事長は「受賞した作品はそれぞれ構成がすばらしく、またデザイン性に優れている。見に来た方を楽しませてくれるものと考えている」と述べた。

同大の高嶋啓教授は「学生たちは日々、自分のために描き続けていると思うが、誰かがそこに来て、涼しい気持ちになればいいな、というような作品作りをするのは、社会と関わる意味でも素晴らしい体験ではないか」と話した。(榎田智司)

◆「TUTCタペストリーアートコンペティション」優秀賞受賞作品による大型タペストリー展は、つくば市吾妻1-6-1 トナリエつくばスクエア トナリエMOG1階プラザ・パフォーマンス・ギャラリーで9月8日(火)まで開催。千葉千鶴さんによる「夕暮れ」は7月28日(火)から8月18日(火)まで、田村理帆さんによる「きらめく夏の記憶」は8月18日(火)から9月8日(月)まで展示される。入場無料。

世代をつなぐコミュニケーションの本質《安全の窓》2

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イラストは筆者がAIで作成2

【コラム・佐々木哲美】近年、多くの企業でコミュニケーション研修や外部講師による教育が盛んになっています。年配者にコーチングを学ばせ、マンツーマンで若手を育てようとする試みもあります。背景には、後継者育成や技術継承が進まず、「社内では教えにくい」「外部に頼りたい」という空気があります。しかし現場では、若い人に話しても反応が薄く、思いが届かないという声が絶えません。本来コミュニケーションは双方でつくるものですが、これら研修では「教える側が変わりなさい」と語られることが多く、違和感を覚えます。

世代間ギャップを生んだ時代の変化

昭和の現場では上下関係が明確で、経験者の言葉は自然と重みを持っていました。しかし1990年代以降、成果主義やIT化が進み、年齢と権威は結びつかなくなりました。2000年代には若者の情報量が逆転し、2010年代にはパワハラ概念が広がり、強く言うことがリスクとなりました。こうした変化が、「教える側だけが変わるべき」という偏った風潮を生んだのです。

一方、若者は危険体験が乏しく、長い説明を処理する力が育ちにくい環境で育っています。スマホ文化で短い情報に慣れ、SNSでは沈黙が安全。正解を当てる教育で育ち、自分の意見を持つ訓練も十分ではありません。つまり、若者が「聞かない」のではなく、「聞きづらい時代」なのです。このギャップは安全にも直結し、危険の重みを知らない若者と、伝わらない疲れを抱える年長者の組み合わせです。

年長者も若者も心に痛みを抱える

年長者が若者と関わりたくない背景には、伝わらない疲れ、反論への不安、パワハラへの恐れ、価値観の違い、自分の衰えを見せたくない気持ちがあります。若者の沈黙に、「自分の役割は終わったのでは」という喪失感を生むことさえあります。

元巨人軍監督の家庭内トラブルで、娘が大人に相談できずAIに頼った事例は、若者が身近な大人に悩みを打ち明けにくい社会の象徴です。さらに、関係機関が“機械的に判断”したことで、当事者の心情が置き去りになりました。職場でも同じ構造が起きており、双方が孤立すれば、安全文化は崩れてしまいます。

歩み寄り型コミュニケーション

解決の鍵は、どちらか一方が変わることではありません。教える側は短く具体的に伝え、否定せず補いながら若者に合わせて工夫し、教わる側は主体的に学び質問し、失敗を共有し経験を尊重して自分の言葉で考えることです。双方が歩み寄ることで、安全につながる学び合いが生まれます。年長者の経験は若者にとって“安全を守る宝”です。その宝を受け取りやすい形にして渡すことが技術継承の第一歩です。

外部講師の活用も手段の一つですが、最終的に現場を守るのは、現場で働く人同士の信頼と歩み寄りです。互いを尊重する姿勢こそ、安全文化を次の世代へつなぐ力になるのです。(労働安全コンサルタント)

合併ムーブの仕掛け人 前かすみがうら市長・宮嶋謙さん【キーパーソン】

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宮嶋謙さん

かすみがうら市長と同議会議長が、土浦市長と同議会議長に合併協議と検討の場を設けるよう求める要請書と要望書を提出(6月17日付)してから1カ月半。両市合併に向け全市議を「合併賛成」にリードした前市長の宮嶋謙さんに、任期最終日の22日夕、土浦との合併が必要と強く思うようになった理由を聞いた。合併話よりも驚いたのは、自分が中心になって政治団体を立ち上げ、2年後の参院選に全国区候補を立てるという政治構想だった。

市の人口構成はコマのような形

今後の政治活動の話にインタビュー時間を割いたこともあり、合併話に当てる時間は予定の半分ぐらいになった。

「かすみがうら市の人口構成は、団塊の世代(1947~1949年生まれ)の膨らみが大きいので全体がコマのような形になっている。若い層の割合がこれから減っていく構成であり、将来のことを考えると、財政的にもこの市は持ちますか?ということ。土浦市も基本的に同じ形だから安心してはいられない。合併して魅力的な市になれば若い層が集まるようになり、新市のポテンシャルは両市の『合計』以上のものになる」

「合併のメリットは事務効率化などによる経費減らしだけでない。土浦市は土地開発をしたくてもその余地が少ない。逆にかすみがうら市にはたくさんある。かすみがうらは農産物の大生産地であり、土浦はそれらの大消費地。両市には補完性があり、合併すれば広域での地産地消も実現する」

県南に永続的な自立都市が必要

合併の利点は両市が抱える問題の解決だけでなく、県や国が抱える問題の解決にもつながると言う。政治団体の立ち上げが頭にあったのか、こちらの方にも力が入った。

「東京首都圏との近さ、TX延伸効果などを考えれば、県南のポテンシャルはとても高い。このエリアに人口50万以上の行政体をつくり、『エンジン』として機能させれば、県南への投資を内外から呼び込める。そうして経済の好循環が生まれれば、県南エリアが県全体をけん引できるようになる」

「東京に人口が集中しているのは若い層が地方の将来に不安を感じているからだ。安心して住めるまちを地方につくれば、東京一極集中で生じる問題も解決できる。県南はその最適地であり、県南に永続的な自立都市を実現させることが望ましい。標語風に問えば、『人が逃げるまち』か『人が集まるまち』かだが、後者のために全精力を傾けたい」

次の参院選で全国区候補を擁立

市長退任と同時に立ち上げた政治団体について聞いたところ、名称は「自由と調和」、政治的な立ち位置は「保守とリベラルの真ん中」と言う。近くつくば市竹園に事務所を設け、8月中旬に水戸市内で記者会見を開く。

「自民は2月の衆院選で票を稼いで暴走。野党勢はバラバラあるいは消滅。既存政党には頼れないので新しく立ち上げる。政策としては、憲法9条に自衛隊の存在を明記、株式配当や売却益課税は一律20%でなく累進制を導入、消費税のうち食料品は恒久無税に―などを掲げる」

「今秋の茨城県議選や来春の統一地方選では、我々の候補を立てるか他の候補を推薦する。次の参院選を最初の国政ターゲットに設定し、全国比例で1議席=100万票を取りたい。実現すれば『自由と調和』は国政政党に変身する」

【みやじま・けん】1984年、明治学院大中退、印刷関連会社に就職。その後、出版社などに勤務、フリー編集者としても活動。宮嶋みどりさんと結婚し宮嶋姓に。2010年、かすみがうら市長選で義父の光昭氏が当選。自らは同市議を2期務めたあと、22年の市長選で当選。26年7月、任期満了により退任。埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ、62歳。かすみがうら市在住。

【インタビュー後記】無投票で宮嶋後継市長になった金子敏明さんは、合併は選択肢の一つとしながらも、これまでの経緯などを精査したいと、合併への熱量は宮嶋さんよりも低い。合併による財政負担を懸念してか、土浦市長の安藤真理子さんも慎重なスタンス。ただ、自市の生き残りを考えれば、金子さんは「最期の市長」として名を残した方がよい。また、県南大都市形成を見据え、「つくば市との交渉力」を確保するため、安藤さんには賢い戦略(合併による人口拡大)が求められる。(経済ジャーナリスト、坂本栄)

東京一極集中と県内市合併の動き《水戸っぽの眼》15

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データセンターなどの建設が進む元総合運動公園用地(写真は筆者)

【コラム・沼田誠】先日、友人から誘われ、ある勉強会に足を運んだ。テーマは「地方創生と一極集中の諸問題」、講師は明治大学の田中秀明教授だった。講演の前半では、地方創生で掲げられた「東京圏への人口流入抑制」が達成できていないことを検証、後半は足元の制度に矛先が向けられた。

地方交付税や補助金の多くは、いまだに人口増を前提とした量的拡大モデルのままで、施設整備でも国が事業費の半分以上を肩代わりする仕組みが残っている。例えば、水戸市の新市民会館は、合併特例債などの活用により、市の実質負担は92億円。事業費192億円に対する負担割合は約48%に留まっている。

田中教授は、これが単なる財政の問題ではなく、補助金や規制を通じて国(総務省)が地方をコントロールし、地方が財政的に国に依存し続ける構造でもあると指摘。だから、抜本改革は進みにくいと見立てた。この講演を聞きながら、私は6月に県内で相次いだ2つの市町村合併のニュースを思い出していた。

平均よりも低い財政力指数

一つは坂東市。坂東市議会は6月11日、常総市との合併に向けた決議を可決した。坂東市は、平成の大合併で境町が住民投票の末に協議離脱するという経緯を経て、岩井市と猿島町が合併してできた自治体だ。今も同じ県議選挙区(坂東市、五霞町、境町)にあるが、あえて選挙区が異なる、しかし市民の通勤先の29%を占める常総市に合併を申し入れている。

もう一つはかすみがうら市。同市議会も、土浦市との合併協議を求める要望書を可決し、6月17日に提出した。平成の大合併では、当初、土浦市、霞ケ浦町、千代田町、新治村の4自治体で合併協議会が立ち上げられたが、新設・編入を巡って対立し解散。2005年に霞ケ浦町と千代田町が合併して、かすみがうら市が誕生した。今回は、過去に決裂した土浦市に合併を申し入れているわけだ。

両市に共通するのは、財政力指数(基準財政収入額を基準財政需要額で割った数値、2025年度)が県内市平均(0.681)を下回っていることだ(坂東市0.668、かすみがうら市0.571)。

つまり、坂東市、かすみがうら市の動きは、財政を身の丈に合わせるための「自衛」だとも言えるだろう。先の田中教授は、多くの自治体が交付税・補助金への依存によって財政的に自立できていないことが、地方創生が掲げた「東京一極集中の受け皿」に十分なり切れていない一因だと指摘していた。

かすみがうら市の宮嶋謙市長が合併要望の中で「東京の人口一極集中是正のためにも、県南は大きな受け皿になれる」と語ったのは、まさにこの「受け皿」たろうとする表明と読める。ただし、財政力指数0.571という単独の体力で行くには心もとない。だからこそ合併という手段で、その「受け皿」としての規模を確保しようとしているのだろう。

いかに「身の丈」を見極めるか

10年前、つくば市民は、総合運動公園の整備計画に、住民投票で8割の反対票を突きつけた側の経験を持つ。あの用地はいま、データセンターなどに姿を変えつつあるが、排熱が住環境に悪影響を与えることを知り、地元では危惧の声が上がっている。「賢く縮む」も「拡大しすぎない」も、言うほど簡単ではない。「『身の丈』をどう見極めるか」という問いに、私たちはまだ完全には答えられていない。

かつて総合運動公園として計画され、2015年の住民投票で白紙撤回された同用地は、2022年に外資系物流不動産会社に110億円で一括売却され、今はデータセンターなどの建設が進んでいる。取得費68億円を回収した後に残る売却益42億円は、買戻特約の期限が来る2032年まで、公社の定期預金で留保され、市の予算には組み入れられない。(元水戸市みとの魅力発信課長)

ギャルから学ぶ、最高にエネルギッシュな夏《マンガサプリ》9

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写真は筆者

【コラム・瀬尾梨絵】ギラギラと照りつける太陽、渋谷の交差点を埋め尽くす人々、どこまでも突き抜けるような青空。今回は、そんな夏の情景を思い浮かべる時に無性に読み返したくなる作品、藤井みほな先生による「GALS!」(集英社、初版1999年出版、10巻完結)をご紹介したい。初版が出版されたあの頃といえば、ミレニアムの足音が聞こえる、まさに夏のような熱気を持った、誰もが無敵の時代。平成初期に子ども時代を過ごした世代にとって、本作は、単なるマンガという枠組みを超えた憧れの集合体だった。

この作品の主人公、寿蘭(ことぶき らん)は、私たちの記憶の中に鮮烈に焼き付いている。渋谷を愛し、愛された最強のギャル。彼女の魅力は、何といっても「自分という存在を誰よりも信じている」その強さにある。正義感が強く、曲がったことが大嫌いで、自分の信念に従って迷いなく生きるその姿は周囲を巻き込み、時にはトラブルすらも爽快に解決していくパワーに満ちていた。

そして今、2026年という時代に、あえてこの作品を手に取ってほしい。ガングロ、ルーズソックス、派手なヘアスタイル。当時は今よりもずっとエネルギッシュな独自のストリートカルチャーがあふれており、それらは単なる流行ではなく、自分たちのアイデンティティを主張するための武器でもあった。蘭たちが闊歩(かっぽ)するセンター街の描写を見ていると、当時の騒がしい雑踏や肌を焼く夏の太陽、そして何者かになれると信じて疑わなかったあの頃特有の高揚感がよみがえってくる。

世界では1990年代後半から2000年代初頭のカルチャーである「Y2K」リバイバルがトレンドの中心となり、あの時代をリアルタイムで知らない若い世代も、当時のエッジの効いたファッションに新たな価値を見出している。しかし、本作の神髄は外見だけではない。ギャルたちが私たちに教えてくれるのは、単なる流行の形ではなく、自分らしくあること、そして何より仲間と笑い合うことの尊さという時代を超えたマインドだ。

友情、家族、進路、恋

大人になると、どうしても社会のルールや周囲の視線を気にしすぎてしまうことがあるが、そんな時、蘭の「私の生き方は、私が決める」という潔いメッセージは、現代を生きる私たちの心に驚くほどまっすぐに突き刺さる。友情、家族、進路、そして恋。

蘭たちがぶつかる壁は、実は今の私たちにとっても普遍的な悩みの形をしており、だからこそ今読み返しても全く色あせず、むしろあの頃よりも深く心に響く言葉に出会うことができる。何度読み返しても、読み終えた時に感じる、あの突き抜けるような爽快感。それは、蘭たちが悩みながらも常に前を向き、友情を信じ、自分の足で人生を切り開いていく強さから来ている。

ぜひ夏の暑さを吹き飛ばし、明日へのエネルギーをチャージしてくれる極上の読後感を味わって欲しい。この作品を読んでいたかつての子どもたちも、そして初めて読む世代にも、現代に通じる「最高にアツい生き方」を感じられるはずだ。(牛肉惣菜店主)

中国の歴史と人材・知恵に向き合うには?《文京町便り》54

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】第2次天安門事件(1989年6月)後の90年代初頭、鄧小平が外交・安全保障関係組織に発したとされる「24字戦略」(6つの四文字熟語)の中では、4番目の「韜光養晦」(とうこうようかい=力を隠して周りを油断させ、その間に力を蓄える)が人口に膾炙(かいしゃ)している。

それ以来、中国外交のこの基本路線は、江沢民、胡錦涛らの後継政権に引き継がれてきた、と私は見ていた。中国政治に疎いこともあり、「大国・礼節の国」中国の最高権力者には節度と余裕はあるのだと、その低姿勢ぶりに感心したものである。

ところが事態はそうは単純ではなく、この韜光養晦路線は、文字通り、一朝事ある時までの偽装だったようだ。事実、2008年の北京オリンピックの成功や、同年のリーマン・ショック後の世界経済低迷を中国経済が下支えしたことで、中国内の国粋主義的ナショナリズムが覚醒された。

2009年7月、日本に対中親和・対米離反の民主党政権が登場したとみるや、10年9月には、尖閣諸島周辺の領海で、中国漁船が海保巡視船に意図的に衝突する事案が発生した。尖閣諸島はその後、当時の石原都知事の購入宣言(12年4月)を受けて国有化された。そして同年11月には、胡錦濤国家主席が中国共産党第18回代表大会で「中国は海洋強国になる」と宣言するに至った。

こうした準備段階を経て、2013年3月に跡を継いだ習近平は、対外的には慎重な鄧小平路線をかなぐり捨て、中華思想満載の「中国の夢」の実現を掲げ、「一帯一路」戦略を進め、果ては「戦狼外交」を展開している。こうした攻撃的な外交スタイルは、3期目に入って政権基盤の固まった習近平体制になってから展開され始めたというより、中国の伝統的な対外発信のスタイルと見たほうがいい。

大戦中には宋美齢が反日演説

1933年2月に国際連盟からの脱退を表明した松岡洋右・主席全権(後に外相)のスピーチと、太平洋戦争中(1943年)に全米各地で演説した宋美齢(中華民国総統・蒋介石の夫人)のスピーチは、全く対照的である。ファナティックな松岡演説は当時の日本国民の多くには胸のすく思いだったようだが、対外的には日本の選択肢を狭め、外交的孤立(ナチス・ドイツとの運命共同体)をもたらした。

これ対して宋美齢演説は、対日批判を見事な英語で展開し、米国の対日批判感情を引き上げ、日本への圧力をさらに高める効果があった。その時点でのそれぞれの国内的な評価は双方とも同等かもしれないが、国際的なインパクトおよびその後の影響は比較にならない。

歴史と人材・知恵の宝庫、中国を相手にするときは、当面の対処だけではなく、中期的な視点と影響を見据えて取り組まなくてはならない、と自戒したい。(専修大学名誉教授)

霞ケ浦が優勝、決勝で常総学院を倒す【高校野球茨城’26】

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校歌を斉唱し、応援席へ駆け出す霞ケ浦ナイン(撮影/高橋浩一、池田充雄)

第108回全国高等学校野球選手権茨城大会は最終日の25日、ノーブルホームスタジアム水戸で決勝戦が行われ、霞ケ浦が常総学院を9-7で破り、2年ぶり4回目の優勝を飾った。同校は8月5日から兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開催される全国大会に出場する。

25日 決勝戦 ノーブルホームスタジアム水戸
霞 ケ 浦 001141110 9
常総学院 000020500 7

終盤、追い上げる常総学院を霞ケ浦が突き放した。「茨城の高校野球を牽引してきた常総学院を破って甲子園へ行くという願いを達成できてうれしい。常総は決勝では負けないという印象があったが、3度目の挑戦で勝てたのは感慨深い」と霞ケ浦の高橋祐二監督。

3回表霞ケ浦1死一・二塁、加藤の中前打で菊地が生還、1点を先制

霞ケ浦の先制点は3回。先頭の7番・菊地勇一が常総学院の先発・高橋幸聖から中前打を放ち、8番・渡邉航太の犠打と9番・相田歩希の死球で1死一・二塁、1番・加藤龍の中前打で生還した。4回には5番・秋山櫻介、6番・野口空真、菊地の3連打で1点を追加した。

4回表霞ケ浦1死一・二塁、菊地の右前二塁打で1点を追加

5回には常総学院の2番手・箕輪蒼を攻め立てた。先頭の村上が右中間へ二塁打を放ち、3番・佐藤大亜の犠打は箕輪が野選(フィルダースチョイス)、4番・西野結太は死球で無死満塁。2死後、菊地の右前打で2点を加え、渡邉の左翼線二塁打でさらに2点を加えた。

5回表霞ケ浦2死満塁、菊地の右前打で2者生還。2人目の西野(左)が雄叫びを上げる
5回表霞ケ浦2死一・二塁、渡邉が左翼線に二塁打を放ち秋山、菊地の2者生還

霞ケ浦の先発投手は準決勝に続き小林将大。1、2回は順調に抑えたが3回、2四球で1死一・二塁としたところで稲山幸汰に交代。「調子は悪くなかったのでもう少し引っ張りたかったが、安打ではなく四球で出した走者だったので替えた」と高橋監督。このピンチを稲山はたった1球で三ゴロ併殺に切り抜けた。

常総学院の反撃は5回。1番・水口煌太朗の中前打、2番・荒生結太の内野安打、3番・吉澤颯大の内野安打で1死満塁、4番・幸田元希の中前打で2点を返した。7回には4安打と1四球で2点を加えなおも2死満塁、ここで水口の三ゴロは一塁への悪送球を呼び一挙3点を追加した。

5回裏常総学院1死満塁、幸田の中前打で水口(背番号6)、荒生の2者生還
7回裏常総学院1死満塁、佐藤の右前打で1点を追加

この時点でスコアは8-7とわずか1点差。次の得点が流れを大きく左右する。ここで大事な仕事を果たしたのが霞ケ浦の菊地だ。8回表2死二塁の場面、常総学院の4人目、坂本篤睦から中前打を放ち1点を追加。カウント2-2からの5球目、やや内寄りのカーブを捉えた。「まっすぐを狙っていたが、カウントを取りに来たのは2球ともカーブだったので、狙わずに来た球を打った。少し詰まったが飛んだコースが良かった。稲山がねばり強く投げていたので、楽にしてやろうと思った」と菊地の振り返り。菊地はこの日5打数4安打4打点の活躍。「もともとポテンシャルは高いが気持ちが前に出てこない選手だった。一度メンバーから外すことで奮起を促した。今日大活躍してくれてうれしい」と高橋監督。

7回表霞ケ浦1死満塁、村上のスクイズで1点追加

次はいよいよ甲子園。霞ケ浦は一昨年の大会で初の1勝を挙げた。今年はそれを上回る成績を目標にしているという。「いままで通り、目の前の一つ一つの試合に集中し、守備からリズムをつくって全員野球でやっていく」と村上主将は意気込む。(池田充雄)

試合終了、マウンドに集まり歓喜の霞ケ浦ナイン

素人の私が竹細工の指導員に《宍塚の里山》138

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写真は筆者

【コラム・松島忠久】神奈川県川崎市多摩区の生田緑地に、1967年に開園した野外博物館「川崎市立日本民家園」があります。私の母、祖母ともに農村出身で、家はもちろん古い農家作りでしたので、古民家を集めた民家園にはしょっちゅう出入りしていました。

1972年、近隣の古老が講師となり、民具作り講座(わら細工、機織り、竹細工)が民家園で開かれ、私はわら細工に参加しました。講座終了後、「これらの技術は今廃れているが、ある時期は多くの庶民がやっていた仕事だ。何とかこれを残そうではないか」ということになり、幾人かの同志が発起人となり、翌年「民具製作技術保存会(略称 民技会)」を立ち上げました。

初期の会員は30人ぐらい。ところが、多くの人がわら細工(一部は機織り希望)で、竹細工希望者はゼロということもあり、竹細工の講師(本職は籠屋さん)が寂しそうな顔をしていました。そこで私は「ここで竹細工を始めれば1対1で教われるぞ」と考え、竹細工を教わることにしました。

ここで言う竹細工とは竹トンボや竹馬作りではなく、本格的な籠(かご)や笊(ざる)編みです。先生が用意した材料で籠を編むのは簡単ですが、その材料を用意するのが大難関。籠屋に弟子入りして毎日練習をしても、自在に裂けるようになるまで3年かかるということでした。

でも竹細工グループは私1人。サボることはできず、家でも練習して、2年後には午前中に下準備「竹拵(そろ)え」が終わり、午後から「籠編み」をし、何とか1人で籠が作れるようになりました。さらに数年して、初心者が会員に教えるようになり、数年前まで続きました。

「民具の作り方」シリーズを出版

半世紀以上経った今、民技会の会員数は100人弱。うち竹細工グループは約40人と最大グループになり、多くの人が私よりうまく作れるようになっています。その間、各地の古老から聞き取りをし、「民具の作り方」シリーズとして50冊以上の本を出版し、今では民技会は全国の民具関係者に知られるようになりました。

1987年、勤務していた研究所のつくば移転に伴い、私はつくばに単身赴任しました。その後、「宍塚の自然と歴史の会」を知って入会しましたが、毎日曜日には指導のため、川崎に行かねばならなかったこともあり、宍塚の会の方は長い間、幽霊会員でした。

同会がある土浦市は霞ケ浦に面しており、実用品を作る籠屋さんが何人か健在だったので、定年後に教わろうと思いましたが、高齢などのため次々と廃業しました。私が定年を迎えた1995年には、教えられるのは私1人となり、あちこちの公民館から講師依頼が来るという異常事態となりました。

70歳代まではなんとか応じていましたが、手先の力が無くなり、80歳で竹細工をやめました。現在、近隣で竹細工を生業としている人は2人の女性のみとなっています。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

黄色い花の絨毯 霧ケ峰・車山《鳥撮り三昧》15

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ノビタキ幼鳥(筆者撮影)

【コラム・海老原信一】20数年前、長野県に住む娘の誘いで、母、妻、息子、娘、私の5人で霧ケ峰の車山を訪れた。そのとき、頂上のロープウエイ駅で下車したら、目の前に見たことのない黄色い花が広がっていた。背丈の低い草地の斜面を埋める「黄色い絨毯(じゅうたん)」だった。

圧倒されて見入っていると、絨毯の中に出ている岩の上で、軽やかにさえずる小鳥を発見。黄色い花はニッコウキスゲ(ゼンテイカ)、小鳥はビンズイと分かったが、まさか毎年、ここを訪れることになるとは…。

その後も黄色い花を思い描き、記憶だけを頼りに車を走らせた。ナビを持たないドライブで目的地に着いたときは、妙な達成感がある。そこには黄色い花畑が広がり、ビンズイだけでなく、カッコウ、オオジシギ、ホオアカ、ノビタキ、ウグイス、アオジ、コヨシキリなどが迎えてくれた。

グライダーの滑空場もあり、パイロットたちは鳥とは違う「飛ぶ楽しさ」も見せてくれた。彼らは一様に日焼けをしていて、「上空は日焼けしやすいんです」と、楽しそうだった

シーズンを避け、のんびり鳥撮り

通い続けるうち、ある変化に気付いた。黄色い絨毯の広がりが狭くなっている。そのうち、草原に電気柵が据えられようになった。花が鹿の食害で減っており、柵は予防策ということ。ここでも生態系バランスが崩れている。でも、電気柵は冬期入り前に取り外され、黄色い絨毯は順調に復活しているようだ。

通い始めのころはそれほどでもなかった「鳥見・撮影」人が、花が減少し始めたころから目立つようになった。それがどうも気になった私は、黄色い花の季節を避けるようになっていた。花の季節は鳥たちの繁殖期と重なり、花を取り込んだ撮影は巣に出入りする鳥たちに圧力を掛ける。このことも撮影を避ける一因になった。

シーズンを避けると花は少なくなるが、人の数も少なくなり、のんびりと鳥を見て鳥たちの表情を楽しめるよさがある。そんなスタイルが私には合っているようで、飽きることなく鳥撮りが続いている。(写真家)