月曜日, 10月 12, 2026
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つくばと土浦が中心になる大都市圏 ⑵《吾妻カガミ》222

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茨城県庁(左)とつくば市役所

【コラム・坂本栄】前かすみがうら市長の宮嶋さんが提起した土浦市との合併話を機に、隣接市との合併や県南大都市圏の議論が盛んになっています。それらを読むと、発言者の立ち位置の違い、視野の広さ狭さがよく分かります。今回は、本サイトに最近掲載された記事やコラムを紹介しながら、これらの議論を少し整理してみます。

厳粛なデータ、財政力指数

火付け役、宮嶋さんの合併必要論は明快です。記事「合併ムーブの仕掛け人…」(7月28日掲載)の発言を要約すると、①自市の人口構成は若年層が少ないので今後財政運営が厳しくなる、②土浦市も基本的には同じ構造であり合併で両市の潜在性を引き出せる、③両市合併+アルファで50万都市をつくれば県を引っ張るエンジンになる―と、合併が県南活性化の起爆剤になると主張しています。

元水戸市みとの魅力発信(広報)課長の沼田さんは、国依存の地方財政に疑問を投げ、かすみがうら市が土浦市に、そして坂東市が常総市に合併を働きかける動きに注目しています。コラム「…県内市合併の動き…」(7月28日掲載)によると、基準財政需要額に占める基準財政収入の割合(財政力指数)が、かすみがうら市は0.571(2025年度)、坂東市は0.668(同)と、県内市の平均値0.681(同)を下回ります。

国の財政支援がないと自立は大変ということですから、将来展望が悲観的になり、生活仕事圏である隣接市にアプローチする動機がよく理解できます。国が主導した「平成の大合併」は市町村合併で行政コストを下げるのが目的でしたが、今回の両ケースは市の将来を懸念する市内識者の悲鳴の表現であり、こういった動きに真剣さを感じます。

「市民の声を聞く」首長?

しかし、かすみがうらの新市長、金子さんの合併熱量は前任者よりも低いようです。また、土浦の市長、安藤さんの対応も慎重に見えます。記事「合併めぐり土浦市長…」(8月6日掲載)から引用すると、「(あいさつに来た金子さんの発言は)かすみがうら市民の皆さんの声を聞きたい」であり、「(安藤さんの姿勢は)土浦市民の皆さんの考えを聞きたい」だったそうです。

両市長とも「市民の声を聞きたい」と、自分の判断を避けています。自市の現状と将来に関する豊富なデータ、それらを踏まえて打つ多様な対応策―首長にはこういった情報が用意されています。断片的な情報しか持たない市民の声を聞き、市の存続に関わる判断を下すと公言する市長は無責任です。自分の頭で絞り込んだ方向性を市民に問うのが、首長の正しい作法ではないでしょうか。

独自の絵を描ける政令市

大都市圏について、県知事の大井川さんの構想はクリアです。コラム「…大都市圏構想」(7月20日掲載)で引用したように、記者会見では①一定人口規模の都市には利便性が集積する、②自立的に人口を集める規模は最低でも50万人、③茨城の大きな課題の一つは同規模の都市が存在しないこと、④TX延伸を機につくばと土浦が中心となる大都市圏の形成が望ましい、⑤必要ならば政令市(人口要件50万以上)を設けたらよい―と述べています。

しかし、つくば市長の五十嵐さんは、緩やかな大都市圏はすでに存在していると主張し、政令市形成には消極的です。6町村合併で誕生した現市のマネジメントに精一杯で、50万都市を視野に入れる余裕がないのでしょう。また、市民の現状満足度が高いと読み、ポピュリズム「つくばファースト(最優先)」を貫きたいようです。

コラム「…『独立』を考える」(6月15日掲載)で述べたように、私は大都市圏の形成には強い力を持つ政令市が必要と考えています。つくば市も、国による研究学園都市建設、県主導の新鉄道敷設という都市コンセプトがなければ実現しませんでした。つくば市は国と県が整えた基盤の上に存在する「付与された」自治体にすぎず、次のステップを展望するのであれば、新しい「絵」を描ける行政体が必要になります。(経済ジャーナリスト)

土浦の花火100年の紡ぎ ⑻【見上げてごらん】55

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土浦の花火オフィシャルカレンダー2026の表紙と8月の暦

【コラム・小泉裕司】日本全国には、花火の競技大会が小規模なものを含めると数十あるといわれ、優勝者に文部科学大臣賞や国土交通大臣賞などが授与される大会もある。その中でも、花火競技大会賞の最高位とされる内閣総理大臣賞が授与されるのは、秋田県大仙市の「大曲の花火」と土浦の全国花火競技大会の2大会だけである。2000年から両大会に同賞が授与されている。

今回は、25年以上前に「土浦の花火」の運営に携わった湯原洋一氏(元土浦市教育部長)のインタビューを中心に、大曲と土浦のつながりを紹介したい。湯原氏は退職後も地元ケーブルテレビなどの中継解説に出演し、「土浦の花火」の魅力を伝えてきた一人だ。

インタビューに答える湯原洋一氏(筆者撮影)

内閣総理大臣賞授与の裏話

「大曲と土浦のつながりを語る上で、真っ先に浮かぶのが内閣総理大臣賞です」。湯原氏によると、2000年8月、「大曲の花火」に内閣総理大臣賞が授与されるとの情報が、大曲商工会議所の小西龍一氏から土浦市にもたらされたという。

小西氏は約40年にわたり「大曲の花火」の運営に携わり、県外からの観客がまだ少なかったころには、観客を呼び込もうとキャラバン隊を結成して東奔西走した。開催当日は打ち上げ現場との連絡役を務めるなど、大会を陰から支えた人物であった。当時の口癖は「土浦に追いつけ、追い越せ」。

情報が伝わると、当時土浦市産業部長で「花火太郎」の愛称で親しまれていた菅沢秀男氏をリーダーに、「土浦の花火にも内閣総理大臣賞を」と、当時の通商産業省(現経済産業省)に働きかけた。しかし、「賞は1カ所にしか出せない」と、なかなか認められなかったとのこと。

そこで。小西氏が国に対し「大曲と土浦の両方に内閣総理大臣賞を出してもらえないか」と申し入れたのだという。

小西氏には、そうする理由があった。1961年、土浦火工の北島義一氏の尽力により、土浦で通商産業大臣賞が授与されることになった。その後、北島氏の後押しもあり、1964年から「大曲の花火」にも同賞が授与されるようになったのである。

その経緯を知る小西氏は、「大曲が通商産業大臣賞をもらえるようになったときの恩を、仇(あだ)で返すようなことはできない」と国に働きかけたという。

時を超える花火の絆

こうして、かつて土浦から大曲に贈られた「恩」が、時を超えて大曲から土浦へ返された。両者の花火文化の発展に懸ける思いが、2000年の内閣総理大臣賞の両大会への授与につながったのである。

大曲から土浦へ、土浦から大曲へ。競い合いながらも、互いに学び、支え合ってきた両大会。その絆が、今日の日本の花火文化を支えてきたのかもしれない。

湯原氏は最後にこう語った。「両大会の関係者の皆様には、将来にわたって交流を深めていただき、全国の花火ファンの皆さま方から愛される両大会の運営に努めていただくことを心から願っています」。本日はこれにて打ち留めー!(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

<参考文献など>
「大曲の花火 100年の魅力」(秋田魁新報社、2010年)
「花火と土浦」(土浦市、2018年)
「土浦と大曲の友情物語」(コージーセレクション、2023年製作)
※青字部をクリックするとYouTube動画が見られます。

1年間難民生活を送り38度線を越えた【語り継ぐ 戦後81年】4

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河合弘子さん

つくば市 河合弘子さん(91)

つくば市茎崎地区に住む河合弘子さん(91)は、1935(昭和10)年、京都府舞鶴市で生まれた。小学1年の時、一家で満州国に渡り、終戦から1年間、朝鮮半島で難民生活を送った。その後、38度線を歩いて超え、故郷に戻った。

父親は市役所職員で、母親は学校教員だった。父親が満州国(中国東北部)に赴任、太平洋戦争が始まる前年の1940年、父母と5歳の弘子さん、二つ下の妹の4人で満州国に渡った。

満州国最大の都市、奉天(現在は瀋陽)にあった日本軍の部隊の官舎に入り、翌1941年4月、日本人向けの奉天在満国民学校(小学校)1年生に入学した。

官舎があったのは、かつての清朝の首都、盛京を囲んだ城郭、奉天城の東側で、通りは、一方に、日本軍の部隊や満鉄、飛行場などが並んでいて、通りの向かい側に日本人の官舎と民間住宅、満州の集落などが並んでいた。

官舎は部隊の真ん前にあり、建物は、中庭を囲むように配置されていた。父親は軍事物資の輸送の仕事に携わり、母親は弘子さんが入学した国民学校の教員を務めた。家には、クーニャンと呼ばれた住み込みのお手伝いさんがいて、全部世話をしてくれた。

学校に入学した時から授業は教育勅語の暗唱ばかりだった。学校の敷地は広く、グラウンドの端には、行軍してきた兵隊が野営する場所があった。昼休みだけ、兵隊となわとびをしたり、鬼ごっこをしたり、童謡を一緒に歌ったりして遊んだ。ある日、1年生だった弘子さんを膝に抱いた兵隊が、歌いながら涙を流していた。兵隊さんは強いと思い込んで大きくなったので不思議だった。当時はなぜ泣いているのか分からなかったが、家族を置いて子供を残して出征したのではないかと思う。

奉天駅に集まり列車に乗った

1945年8月の早朝、日にちは覚えてないが、日本人の部隊関係者の家族は全員、奉天駅に集合するよう言われた。家を出る時、近所の友達にあいさつすらさせてもらえなかった。駅で父親と別れ、母親と弘子さんと妹、満州で生まれた4歳の弟の4人で臨時列車に乗った。列車は女性と子供ばかりで、各車両の前後に2人の兵隊が付いた。

どれくらい走ったか覚えてないが、列車が突然止まり、そのまま2時間ぐらい車内で待った。子供心にものすごく長く感じた。「日本が負けた」と言っているのを聞いた。そこは、朝鮮半島北部の平壌(ピョンヤン)だった。

夕方まで待ったが列車が動かないので、兵隊に誘導されて全員、列車から降り、駅の近くの学校の体育館に入った。日本人が通っていた学校だと言われたが、だれ一人いなかった。列車が何両編成で、何人乗っていたかわからないが、夏だったので体育館は蒸し暑く、足の踏み場もないくらいだった。夜には、白米のおにぎりとおつゆが出た。

体育館で過ごして3日目。全員、外に出なさいと言われ、起立して玉音放送を聞いた。座り込むお母さんや泣くお母さんもあった。昭和天皇の声が雑音と混じって聞こえ、弘子さんには何も分からなかった。

8月9日、満州国や朝鮮半島にソ連軍(当時)が侵攻し、駐留していた関東軍は敗走した。「奉天をいつ出たかは覚えてないが、体育館で3日過ごしたので、学校に着いたのは8月12日かと思う。後で考えれば、日本の敗戦が近いことをすでに分かっていて、女性と子供だけを先に日本に帰す列車に乗せたと思う」と振り返る。

シラミやチフスがまん延

学校の体育館は暑く、水道はあったが、風呂はなく、手を洗うことも十分にできなかった。1週間か10日ぐらいでシラミや発疹チフスがまん延し、大勢が高熱にうなされた。薬は無く、水で冷やすだけ。弘子さんも1週間ぐらい高熱にうなされ、うわごとを言い続けた。

大勢の女性と子供が亡くなり、死体をむしろに巻いて、職員用玄関の先のコンクリートの上に積んでいった。だんだん腐ってきて、汁が落ちるようになり、悪臭でいられなくなって、学校を出た。

髪を切り顔に炭を塗って寝た

2カ所目に行ったのは、ちょっといなかの方の日本企業の社宅だった。畳2畳にかまどと風呂場があり、8~10人ぐらいずつ分散して入った。奉天を出て初めて、手足を伸ばして眠ることができた。

何日かたった夜、ソ連兵が、朝鮮人の通訳を伴い、銃を持って入ってきた。通訳に「全員起きて立て」「並べ」と言われ、ソ連兵は銃を向けながら、見た感じがいい女性を連れて出た。薄暗い電球の下で銃が黒光りし、ソ連兵の目が緑色だったので余計に怖かった。朝になって、帰ってきた人もいたが、帰ってこなかった人もいた。

あくる日すぐ、付き添っていた兵隊に髪を切られ、鍋やかまどの炭を顔に塗って寝た。その後も5~6回、ソ連兵に入られ、いられなくなって、社宅を出た。

朝市が終わるのを待ってコメ粒を拾った

平壌市中の繁華街に出ると、ソ連兵は来なくなった。弘子さんの家族は飲食店の倉庫の2階に置いてもらった。8畳間に押し入れが一つあって、1畳に4~5人寝たので、50人近くの女性と子供がいたと思う。妹と弟が横になったらもう寝る隙間はなく、母親と弘子さんはほとんど座ったまま寝た。

平壌の市中には大洞江という大きな川が流れていて、奉天を出て初めて、水浴びができた。満州を出て初めてお風呂に入った気分だった。

奉天から一緒だった兵隊は、民間人の服に着替えていたが、ずっと付き添ってくれ、最初は食事なども手配してくれた。しかし食事情がだんだん悪くなり、ものを拾いに行くようになった。

市中には広い野原があって、毎朝、朝市が立ち、むしろを敷いた上にいろいろなものが並ぶ。升(ます)で量り売りをしているので、コメやコーリャンがこぼれていたり、野菜が落ちていたりした。弘子さんら子供たちは毎朝、朝市に行き、市が終わるのを待って、地面に落ちたコメ粒やコーリャン粒を拾った。お腹がすいた妹は、帰りに拾ったものを食べてしまうので、よくけんかした。市場では、朝鮮の人から「ちょっとおいで」と声を掛けられ、キムチをのせたご飯を食べさせてくれたこともあった。ありがたかった。

飲食店の倉庫には水道がなくて、朝起きて、水を汲みに行くのが日課だった。小さい子はビール瓶2本、9歳の弘子さんは3本抱えて、50メートルくらい離れた水道に水を汲みに行った。その後は、近くの豆腐屋におからが捨ててあるので、おからを取りに行って、コーリャンの粒が入った朝食のおつゆにおからを入れてもらった。おからが水分を吸ってふくらみ、腹持ちがよかった。

その後、大洞江に水浴びに行って、お昼を食べて昼寝する。夜になると飲食店の裏戸に行き、「何かあったらください」と頼んで回り、お客さんが残した残飯をもらった。「今は乞食と言う言葉は使わないけれど、そういう生活をして過ごしてきた」と弘子さんは振り返る。

1945年11月、4番目の男の子が生まれた。鹿児島出身の産婆さんがいて、母親はその人のところに行って出産したが、栄養失調ですぐに亡くなった。満州で生まれた3番目の弟も、5歳だった1946年2月、栄養失調で亡くなった。お腹がふくれて、目が落ち込んで、肌がどす黒くなっていた。

死んだ人を埋めにいくという話を聞いて、朝鮮の人に案内してもらい、遺体をトラックに乗せて、大きな深い穴に遺体を投げ捨てて埋めてもらった。葬式も出せず、手を合わて拝んだだけだった。

前の人の服を持って絶対に離すな

そんな生活が1年続いた1946年8月の早朝、奉天からずっと付き添ってくれていた兵隊から、急に「ご飯が済んだら皆で出発する」と言われ、倉庫を出た。とにかく朝早かった。いなか道を半日ぐらい歩いたころ、途中、雨水をためているところがあって、雨水を飲んで渇きをいやした。

駅ではなかったが、農村地帯の野原の真ん中にトロッコがあった。トロッコに乗って走り、着いた先が、38度線の山だった。当時38度線を境に、北側をソ連、南側を米国が占領していた。山のふもとは田畑が広がり、遠くに農家が見えた。田んぼのところどころに、刈り取った稲を置くわら小屋が建っていて、夕方まで、何人かずつに分かれて隠れた。

夕方ごろ、指揮を執っていた兵隊が隠れていた小屋にきて「今から38度線を逃げるから、前の人の服を持って絶対に離すな」「声を出したらいけない。もし聞こえたら銃殺される」「歩けなくなった人や子供がいたら置いて逃げるように」と言われた。

隠れている小屋から赤土の山が見えて、登っていく道が見えた。赤土を掘ってあるから道はところどころ崩れていた。弘子さんは、その横の田んぼのあぜ道を抜けて山に入った。けもの道を登り、とにかく前の人の服を離さないようにした。途中、泣いてしゃがんでいる子がいても目を背けて横を向くだけ。一言も声を掛けず通り過ぎた。

戦争はただ悲惨さだけが残る

暗いうちに山を下り、明け方までに38度線を越えた。やれやれと思ったが、着いた途端、置いてきた子供を探しにさっと引き返した母親もいた。近くの寺で1週間ほど泊めてもらった後、仁川(インチョン)に行った。仁川には大勢の日本人がいて、大きな貨物船に乗って帰国した。船底だったで、エンジンの音がうるさくて油臭くて船酔いしたのを覚えている。

博多港に着いて、貨物列車に乗り、父の実家がある舞鶴に戻った。貨物列車は屋根があって外が見られなかった。舞鶴の駅に着くと夜で、40分ぐらい歩いて、父の実家に戻った。

奉天駅で別れた父親は、2年遅れて帰国した。戦時中、仲良くしていた中国人の何軒かの家にかくまってもらい、逃げ回って生き延びたと聞いた。

帰国後、祖父が亡くなり、父親は実家の農業を継いだ。母親は舞鶴の中学校教員になり、定年まで務めた。

弘子さんは京都の学校を出た後、幼稚園の先生になり、23歳で教員の夫と結婚した。子育ての後、12年間、保育所に勤めた。夫が86歳で亡くなり、舞鶴で一人で暮らしていたが、88歳のとき息子夫婦が住むつくば市に転居してきた。

「戦争は何も残らない。ただ悲惨さだけが残る」と語り、「今の状況を見ると、ものすごく不安に感じる。戦争だけは反対し、平和の道をたどってほしい」と話す。(鈴木宏子)

終わり

霞ケ浦、3回戦進出【高校野球’26】

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霞ケ浦ナインに声援を送る生徒、保護者たち=阿見町、霞ケ浦高校

甲子園で開催中の第108回全国高校野球選手権は2回戦が行われ、茨城代表の霞ケ浦は鳴門渦潮(徳島)と対戦、5ー1で勝ち2年振りの3回戦進出を決めた。 
霞ケ浦は大会前の目標に掲げた甲子園での2勝を見事に達成、新たな歴史を刻み、初となる2度目の校歌を合唱した。

阿見町青宿の霞ケ浦高校では9日の1回戦に続きパブリックビューイングが開催された。生徒、保護者、卒業生ら約70人が会場に駆けつけ、スクリーン上の甲子園で活躍する選手達に向かい、メガホンを叩きながら熱い声援を送った。

藤本珠奈さん(3年)は「同級生たちが活躍する姿を見て鳥肌が立ちすごく良かった。3回戦も頑張って欲しい。」と笑顔で話した。ソフトテニス部の吉井翼さん(3年)は「先制点を取ってからピンチもあったが、バックがしっかり守り全員野球で勝って良かった。次もチーム一願となって勝ち進んで欲しい」とエールを送った。

スクリーンの前で試合を見守る生徒、保護者たち

鳴門渦潮 000100000 1
霞 ヶ 浦 01400000× 5 

霞ヶ浦は2回2死2塁のチャンスに、鳴門渦潮のエース西村大輝から野口空真がセンター前にタイムリーを放ち先制。3回には1死から村上聖、佐藤大亜、西野結太の3連打で満塁とすると、続く菊地勇一が今大会初ヒットとなる3塁打で3点を追加した。さらに渡辺航太の犠牲フライで1点を追加しリードを広げた。

霞ケ浦先発の小林将大は5回を投げ、鳴門渦潮打線を3安打1失点に抑えた。6回からはエース稲山幸汰がマウンドに上がり、走者を出すも要所を抑え、無失点できり抜けた。霞ケ浦は投打がかみ合い3回戦進出を決めた。

3回戦は16日の第4試合にベスト8進出を掛けて横浜(神奈川)と対戦する。(高橋浩一)

オオタカとハシボソガラスの記憶《鳥撮り三昧》16

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オオタカ(筆者撮影)

【コラム・海老原信一】暑い日が続き、自称元気者のつもりでいるのだが、鳥を見に行く「勇気」が出てこない日々になっている。とはいえ、思い切って「オオヨシキリを見に行こう」と出かけたものの、肝心のオオヨシキリがヨシから出てこない。子育ても一区切りついたころなのに…。鳥もやはり「暑いのは苦手なのか」と勘ぐってみる。

そんなことで、今回はオオタカとハシボソガラスの記憶をたどってみた。現在、筑波山南側を下妻市に抜けるバイパスが出来ているが、その工事が途中で止まっていたころの話。バイパス沿いに寺具という地域があり、道路は田畑に囲まれた中を通っている。その一隅に車を止め、機材を肩にして農道を歩き回っていた。

カラスの声が聞こえたので、そちらを見ると複数羽のハシボソガラスが上下に反転しながら騒ぎ立てていた。以前にも似た状況に遭遇したことを思い出し、直感的に「ある状況」を想起した。そこまではちょっと距離があるが、暑さと機材の重さで吹き出す汗もなんのその、走り出した。

田んぼの中の草地の中央近くに、オオタカが一羽。その足先の爪に捕らえられたハシボソガラスはかなり啄(ついば)まれていた。それでも仲間のカラスたちはオオタカに威嚇を繰り返していた。オオタカの方も屈することなく、捕らえた獲物を放棄することはしなかった。

まだ無謀ができた当時

攻防がしばらく続いたが、やがてカラスたちは諦め、飛び去って行き、オオタカも獲物の重さに耐えるように飛んで、近くのやぶの中に消えていった。目撃した光景での興奮が冷めてくると、それまで消えていた汗が急激に噴き出してきた。ともかく日陰のある所まで行こうと、遠慮なく照り付けるお日様の下を歩く。

そんなとき目に入ったのが、田んぼへ水を引く灌漑(かんがい)用導水管。あらかたは地中に埋設しているが、所々地上に出ており、空気を抜く弁がついている。よく見ると、管の中を流れる水に冷やされた空気が、水滴となって管の周りに付き、水滴は氷のように輝いていた。

周囲にチラッと視線を走らせ、冷たく光る配管に抱きつく。シャツを通して染みてくる水滴に生き返った感ありだった。熱中症という言葉を聞くことがなかったころとはいえ、「夢中になる」とはこういうことか。バイパスを通るたびに導水管を眺めては、鳥よりも「まだ無謀ができた当時」を懐かしんでいる。(写真家)

広島の焼け野が原を駆け回った【語り継ぐ 戦後81年】3

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中川静香さん

つくば市 中川静香さん(89)

広島出身の中川静香さん(89)は、つくば市みどりの地区に住む。二・二六事件が発生した1936年、原爆ドームから1.8キロほどの広島市的場町で生まれた。原爆が投下された1945年8月6日は、父親の実家がある瀬戸内海の能美島に一家で疎開していて無事だった。

1911(明治44)年生まれの父親は、小学5年か6年のころ、仕事に就くため、能美島から広島市にきた。仕事の手伝いをしていた時、大きな氷が落ちてきて左足を切断した。その後、義足や義手など補装具をつくる店に丁稚奉公した。やがて独立し、七軒長屋で補装具店を開いた。

長女の静香さんは七軒長屋で生まれ、1、2年生までは広島市内の段原国民学校(小学校)に通った。同小学校は8月6日の原爆投下時、木造校舎が爆風で押しつぶされ、下敷きになった子供たちを救出できないまま猛火に包まれた。後に悲劇の学校といわれるようになる。

一人で叔父の家に疎開

2年生の終わり、静香さんは学校から、子どもは疎開した方がいいので集団疎開か個人疎開かどちらかを選ぶよう言われ、父の実家がある能美島の沖村(現在は江田島市)に疎開することになった。

一人で疎開することになり、広島市に迎えに来た父の兄に当たる叔父に連れられて沖村に向かった。能美島の中村(現在は中町)という船着場に船が着いて、そこから先はずっと歩いた。「まだかね、まだかね」と言いいながら歩いたのを覚えている。

母親は大分県出身。1942(昭和17)年に6歳下の妹が生まれた。静香さんが疎開した後、母親は出産のため妹を連れて実家の大分に里帰りした。1945(昭和20)年7月に弟が生まれ、母親は、妹と生まれたばかりの弟を連れて父の実家にきた。父親も後からやってきた。当時、弟のためのミルクは無く、コメをすりこぎで擦って水で薄め、沸かして弟に飲ませた。「昭和20年生まれの弟には何もなかった」と静香さんはいう。

叔父の家では「家族の人数が多いものだから、遠慮しながら小さくなって過ごした」。能美島ではサツマイモがいっぱい栽培され、食事は、米粒が少しと、サツマイモばかりだった。海軍の造船所が集積し、当時、東洋一の軍港と呼ばれた呉の街が空襲を受け、夜、呉の空が真っ赤に焼けていたのを覚えている。

キノコ雲が見えた

1945年8月6日朝、家の廊下に座っていた時、ピカッと光ったように感じ、やがてキノコ雲が見えた。小学3年だったが、当時は何も分からなかった。その後、「ピカドンが落ちて、やけどで皮膚がはがれた幽霊みたいな人が、船着場に大勢着いた」という噂を聞いた。島だから村に病院もなかった。島で被爆者に直接会ったことはないが、逃げてきたんだと思った。ひどいことばかりで、当時は何も思わなかったし、思う暇もなかった。

原爆投下から2、3日後、七軒長屋に残してきた商売道具がどうなったか心配し、父親が的場町に見に出掛けた。すぐに帰ってきたが、戻った父親は広島市の様子を何も話さなかった。

8月15日は夏休みだったのに、皆、国民学校に集められ、運動場で玉音放送を聞いた。

中心部に向かって歩くにつれ焼け野が原だった

父親は、これ以上、兄の世話になるのがしのびないと、その後もたびたび広島市に行き、バラックの家を建てた。薄っぺらな木の板で囲った小屋で。終戦から1年数カ月後の1946年秋、一家で広島市に戻った。船で広島市の宇品(うじな)に着き、そこから皆で数キロを歩いた。宇品には建物がちょっとずつ残っていたが、広島市の中心部に向かうにつれて建物はなくなり、焼け野が原だった。

父親が建てたバラックは爆心地から1.5キロほどの日赤病院そばのにあった。日赤以外、建物はなかった。当時、病院はがらんとしていて、妹と2人、日赤病院の庭を駆け回ったり、なわとびをしたりして遊んだ。やがて静香さんと妹の2人はたびたび鼻血が出るようになり、その後何十年間も鼻血に悩まされた。当時は放射能に関する知識もなかった。「ピカドン、ピカドンというだけで、放射能の被害など意識してなかった。当時の子供たちは皆、ほったらかしだった」と振り返る。

当時、ピンク色のコーリャンが配給されたが食べ物は足りず、近所のおばさんからヤミ米を買った。おばさんは田舎に行って仕入れた物を、着物と引き換えに高く売った。食べ物には苦労し、焼け跡の土地に野菜を植えて飢えをしのいだ。

広島市に戻ってからは、千田小学校の4年生に転入した。原爆で児童41人と教師3人が犠牲になった小学校で、教室に窓ガラスがなくて、紙か何かがガラスの代わりに貼られていた。運動場の真ん中には麦畑がつくられていて、運動会では麦畑の周囲を走った。学校の講堂は、焼けて赤茶けた鉄骨だけが残っていた。運動場にガラスの破片がころがっていて、子供たちがガラスを拾う時間が設けられた。学校の教科書は薄っぺらだったが、黒塗りでいっぱいだった。

1948(昭和23)年、一番下の弟が生まれ、きょうだいは4人になった。生活はいっぱいいっぱいで、父も母も子供たちを養うのに一生懸命だった。

世の中が落ち着いたころ。父の補装具店に病院から注文が入り、コルセットなどをつくるようになった。原爆で建物の下敷きになり、けがをして手足を失った人などが父の店をたずねてきた。長女の静香さんは学校に通いながら父親の仕事を手伝った。補装具の型をとるため、ガーゼに石膏の粉を付けるのが静香さんの仕事だった。

学校には行っていたが、父や母の手伝いで勉強する暇もなかった。中学生になり、6歳下の妹が小学校に入学した時は、忙しい父母に代わって、妹の父兄会に参加したり、成績表をもらいに行ったりした。

「歴史に学ばないのか」

静香さんは短大を卒業後、短大の化学室の助手などを務め、その後、結婚。2022年に、娘が暮らすつくば市に転居するまで広島で暮らしてきた。

父親はずっと原爆手帳をもらわずにきたが、原爆投下後、2週間以内に爆心地から2キロ以内に入った人は「入市被爆」と認定され、原爆手帳がもらえると聞き、戦後何十年か経って、原爆手帳を申請した。静香さんが父の手続きを手伝い、86歳で亡くなる10年くらい前に原爆手帳をもらった。亡くなった時、津川貞夫という父の名前は原爆死没者名簿に載り、慰霊碑(広島平和都市記念碑)に奉納された。申請時、静香さんは「戦争するのはいけない」と父の申請書に書き添えた。父親以外の家族は原爆手帳交付の対象にはならなかった。

戦後、静香さんは、核兵器廃絶を求める署名活動など平和運動に関わるなどした。今の世の中については「戦前の軍国主義の時代を知っているので、武器種出規制の緩和やスパイ防止法の動きなどを見ると、ピンとくる。歴史に学ばないのか、歴史は繰り返すのかと悲しくなる」と話す。(鈴木宏子)

授業中も空襲警報鳴り防空壕に避難【語り継ぐ 戦後81年】2

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飯田節子さん

つくば市 飯田節子さん(92)

つくば市神郡に住む飯田節子さん(92)は、江戸時代から続く飯田石材店の養子となり育った。節子さんの終戦は小学5年の時だった。

兄も養子だったが、ニューギニアで戦死した。連合国軍との間で1942年から終戦の日まで続いた「ニューギニアの戦い」では、日本兵15~20万人が動員され、生還したのは1~2万人といわれる。

戦時中、節子さんが通った田井国民学校(旧田井小学校)では、校庭を耕し農作業などをした。授業中でも空襲警報が鳴り、みんなで防空頭巾をかぶり、学校の裏にある防空壕まで避難するという日々が続いた。近くの山林に戦闘機が落下したことも覚えている。

都会から疎開に来た子も多くいた。農家の子供は比較的ひもじい思いはしなかったが、ご飯はイモを混ぜたものだった。疎開していた子供の中にはお弁当に、おじやを持って来ていた子もいた。

節子さんの家の近くにある普門寺には、若い兵隊さんが泊まっていて、家族が時々お世話に行ったそうだ。子供だった節子さんも時折、兵隊さんの姿を見た。節子さんの自宅に写真が残されており、兵隊さんはまだ少年の顔をしている。戦死した人も多数いたと聞いた。

普門寺にいた若い日本兵を含む当時の写真

戦中の混乱期でも子供の無事と健康を祈る行事が行われていて、終戦の日の8月15日、節子さんは、数え年13歳を迎えた子供が詣でる「十三詣り」の行事で、東海村にある村松虚空蔵尊を訪れていた。虚空蔵尊で玉音放送を聞き、同行した大人から戦争が終わったことを教えてもらった。

兄が戦死したことにより、家族に遺族年金が入るはずだったが、養子の兄は正式に飯田家の戸籍に入っていなかったため遺族年金が入らず、裁判を経て受給に至ったという苦労もあった。当時、戦死者が出た家には必ず支給される生活物資も入らなかったという。

その後、節子さんは石材店の後継者となり、お婿さんをもらい、家業を守ってきた。

1954(昭和29)年3月には、節子さんの夫、藤蔵さんらが中心となって、飯田家の菩提寺でもある普門寺入り口付近に戦没者慰霊碑を建てた。「殉国慰霊碑」と刻み、田井地区(当時の田井村)の戦没者を悼んだ。碑の裏には200人に及ぶ戦没者の名前を、日中戦争と太平洋戦争に分けて刻んだ。

普門寺入り口にある戦没者慰霊碑。200人に及ぶ戦没者の名前が刻まれている

「たくさんいた遺族も少なくなって、今は慰霊碑を管理する家が2軒しかいなくなった」と節子さんは嘆く。

「戦争は遠い昔になってしまったが、当時を知るものが伝えていかなければみんなが忘れてしまう。平和な時代がずっと続くとよい」と語る。(榎田智司)

ナシの出荷最盛期 JA水郷つくば 選果場設備を一新 

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梨選果場の様子。搬入されたナシを1個1個、表面の傷などを確認しながらコンベアに乗せていく

JA水郷つくば梨選果場(千代田地区、かすみがうら市中佐谷)で、ナシ「幸水」の出荷が最盛期を迎えている。同JA管内の千代田、出島(かすみがうら市)、新治(土浦市)地区は県内有数のナシの産地。管内に三つの選果場があったが老朽化していたことから1カ所に統合した。統合した千代田地区の選果場は今年から最新の設備にリニューアルし、大規模化と効率化を図った。今年の年間出荷量は約1000トンに達する見込み。

選果機一式を入れ替え

階級・等級ごとに仕分けされた箱が流れてくる

リニューアルの目玉は選果機一式の入れ替え。光センサーの導入により糖度計測と内部品質(熟度や変質の有無)の評価が可能になり、外部センサーでは階級(果実の大きさ)や形の良さを角度を変えながらカメラで判定する。昨年までは選果員が人の目で見分けていたが、機械化により処理速度が約1.5倍に向上、高品質で食味の良いナシを市場に提供できるようになった。等級は秀、優、無印の3段階に加え、糖度12度以上などの要件を満たしたものは特秀として出荷、生産者の収入増にもつながっている。

ナシの出荷は盛夏の時季と重なるため、施設内の高温化も問題となっていた。そこで鋼板による屋根の二重化に加え、ダクトで冷気を供給するスポットクーラーも導入。選果員の熱中症リスクを下げるとともに、ナシの鮮度維持にも役立っている。

選果員の頭上にスポットクーラーのダクトが伸びる

ナシを詰めた箱を閉じる作業も自動化された。1箱1箱に貼られるシールには出荷時間やQRコードが打刻され、商品が生産者の手から消費者の手に渡るまでをたどれるトレーサビリティー(追跡可能性)システムを実現している。

「今年は肥大良好で甘い」

リニューアル後の操業開始は今年7月23日。現在は幸水を10キロ箱で1日に約1500~2000ケース出荷しており、この状況が8月20日ごろまで続く。入れ替わるように8月18日からは豊水の出荷が始まり、こちらは9月中旬まで。この2つが全体の6~7割を占める主力品種だ。その後はあきづき、恵水、新高、にっこりと続く。

選果場の外観

恵水は県が開発した新品種。大玉で食べ応えがあり、酸味が少なく奥深い甘みがある。2013年に栽培開始され、同選果場がある千代田地区ではここ10年ほどで取扱量を伸ばしてきた。今年は統合の効果もあり約1500ケースが見込まれているが、まだまだ稀少な品種だという。

同選果場の出荷先は北海道から静岡までの東日本一円。関西方面からも要望はあるが関東市場の需要に応えるため断っている。地元では、JA水郷つくばの各直売所で販売している。

旬のナシをアピールするJA水郷つくばの茅場さん

JA水郷つくば梨選果場担当の茅場直之さんは「今年はカメムシなどの被害もほとんどなく、おいしいナシが育った。天候は晴れを基調に雨も適度にあったため、肥大良好で甘みも乗っている。今が旬のナシをぜひお楽しみください」と話している。(池田充雄)

モンロ一、イ一ストウッド、半魚人《映画探偵団》103

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イラストは筆者

【コラム・冠木新市】「今度の映画探偵団のイラストで私は、モンロ一、クリント・イ一ストウッド、半魚人のどれを描くと思うか」とAIに聞いたら、即座に「半魚人です」と当てられ、驚いた。私の気配を読んだようだ。現在、マリリン・モンロ一生誕100周年を記念し、AIを使って詩劇サスペンス「つくばセンタービルの事件簿Ⅱ/マリリン・モンロ一は生きている」を準備中である。

センタービルには、モンロ一の身体の曲線をかたどったモンロ一カ一ブが組み込まれている。設計者の磯崎新がなぜ組み込んだのか、語りと歌と踊りで解き明かそうとするものだ。2022年の「つくばセンタービル謎解きツアー」、2024年の「つくばセンタービルの事件簿/パルテノンは燃えているか」に続く、シリーズ第3弾である。

「大アマゾンの半魚人」

モンロ一の話し方を取り入れマカロニ・ウェスタン「荒野の用心棒」(1964)でスターになったのが、クリント・イ一ストウッドである。初めはわからなかったが、彼のあのゆっくりとした話し方は、モンロ一からきていると知り、2人の大スターに特別な愛着を持った。2人にはもう一つ共通するものがある。

モンロ一は、日本への新婚旅行から帰国したあと、「七年目の浮気」(1955)に主演する。主人公のCMガ一ルが映画館から出て来て、地下鉄の通風孔で白いスカ一トがふわり舞うシ一ン。有名な場面だが、主人公がその前に見ていた映画はゴシックホラー「大アマゾンの半魚人」(1954)なのだ。ビリー・ワイルダー監督は、当時大ヒットしていた映画を物語に活用し水のイメージを組み込んだ。

「…半魚人」の翌年には、続編「半魚人の逆襲」(1955、日本未公開)が作られた。この作品でデビューしたのが、イ一ストウッドである。モンロ一とイ一ストウッドとは、半魚人シリーズで奇妙なつながりを持っている。だからか、センタービルを眺めるとモンロ一とイ一ストウッドと半魚人が思い浮かぶ。

半魚人シリーズは3部作で、「半魚人我等の中を征く」(1956、日本未公開)まである。半魚人が科学者に手術され、人間に利用される悲劇だそうだ。

特撮の聖地つくばセンタービル

特撮の聖地つくばセンタービルで、「仮面ライダー」は数々の改造人間と戦ってきた。だから、センタービルに半魚人が現れてもおかしくはない。水の精ダフネの彫刻、月桂樹があるセンタービルは、水があふれる場所だ。広場には、霞ケ浦と桜川もデザインされている。桜川には河童伝説が残されているから、河童を半魚人と見れば、センタービルはぴったりの場所ではないか。

モンロ一は金髪でおばかなキャラというイメ一ジは、すでに過去のものとなっている。30数年前につくばに来たころは、センタービルにモンロ一のイメ一ジがあるのを冷やかに見る女性がいたが、それも古くなったと思う。研究学園都市のシンボルと言われたセンタービルは、モンロ一とともにイメージチェンジされるのだ。

人間や科学の犠牲になった半魚人をどう見るか? モンロ一は受け入れられたが、半魚人はまだ時間がかかるかもしれない。そうそう、AIは、安易に使うと生命力が奪われますよと教えてくれた。だから、イベントにAIを使うのはほどほどにするつもりだ。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

<お話 つくつくつくばの七不思議・つくばセンタービルの事件簿Ⅱ>
・日時:8月29日(土)午後1〜3時
・場所:カピオ小会議室2、参加費無料
・主催:一般社団法人スマイルアップ推進委員会

自宅に負傷した日本兵がかつぎこまれた【語り継ぐ 戦後81年】1

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飯田猷子さん

つくば市 飯田猷子さん(92)

筑波山麓のつくば市神郡に住む飯田猷子(みちこ)さん(92)の終戦は、小学6年の時だった。「戦争には良い思い出がなく、つらいことばかりなので、あまり話したくはない」と言いながらも、80年前を振り返ってくれた。

猷子さんは、室町時代から伝わる、和紙で贈り物を包む礼儀作法「折形(おりがた)礼法」の指導者で、「日本の折形歳時記 礼の心」などの著書がある。

81年前、筑波山麓の上空にはかなりの戦闘機が行き交った。空中戦を繰り返す戦闘機の様子も見られた。筑波山は飛行機にとっては目印なので、かなりの頻度でやってきたのではないかという。近隣の作谷には、落下傘やグライダーを用いて敵地に進むグライダー訓練基地だった西筑波陸軍飛行場があった。

ラジオで空襲警報が鳴ると、各家庭にある防空壕に身を寄せた。辺りが静かになると防空壕から出てくる。1時間ぐらい防空壕に身をひそめていたという。幸い神郡周辺に爆撃はなく家屋に被害はなかったが、近くの山林に戦闘機が墜落する事件があった。村人たちは米兵だと思い、竹やりを持って集まった。ところが、戦闘機に乗っていたのは日本兵。みんなで助け、当時、祖父が区長だったこともあり、猷子さんが住む飯田家にかつぎ込んだ。猷子さんは血だらけの兵士を見てとても怖かったと振り返る。兵士はその後、作谷にあった施設にかつぎこまれ手当てを受け、助かった。後に歩けるようになり、白い患者服を着たままお礼に来たという。

猷子さんは1933(昭和8)年、東京都北多摩(現在 東久留米市)の寺の長女として生まれるが、母の実家だった神郡に2歳で預けられた。その後、猷子さんの叔父にあたる飯田家の長男、次男が中国北部で戦死、3男も入隊したのち病気になり、戦後自宅で亡くなった。飯田家に男子の後継者がいなくなり、猷子さんは祖父母に育てられながら、飯田家の後継者となった。

1945(昭和20)年、戦況がひどくなるころは、通っていた田井国民学校(田井小学校、2018年に廃校)でも授業が少なくなり、サツマイモ作りなど農作業ばかりしていた。「当時の子供は食べるものも食べていないので力も出ず、くわなどの農具がうまく扱えず大変だった」。収穫前に、終戦を迎えた。

8月15日は、自宅で玉音放送を聞いた。意味はわからなかったが戦争が終わったことを知った。うれしいとか、悔しいとか、そういう感情はなかった。子供たちの間では、戦争が終わったのだから、勉強しなくても済むんじゃないかという噂も広がった。ただ「空襲警報もなくなり、戦争から解放されたのはうれしかったと思う」と語る。

猷子さんはその後、土浦の土浦二高に進学、自転車で常陸北条駅まで行き、旧筑波鉄道で通った。北条の坂がつらかった。大学に行きたかったが祖父母の反対で行けず東京洋裁学校をへて、大手電機メーカーに就職、社長秘書として2年勤め、大変勉強になったという。東京にいた4年間は、母親がいる東久留米から通った。

神郡の飯田家で生きていくことを納得し、つくばに戻り23歳で結婚。飯田家を守っていくことになる。一度東京に出たという体験が、田舎と東京の両方を知るという経験になり、田舎の良さや自然のありがたさがわかってとても良かったという。自然が好きで、日本アルプスなどの山を歩いた。「この年齢でも足腰が丈夫なのは若い頃山を歩いて鍛えておいたから」だともいう。

世界各地で今も戦争が続く世の中については「人間の欲望がある限り戦争はなくならない。欲望は人間の力の源でもあるから戦争をなくすのはとても難しい。小さなコミュニティでさえ、争いを起こす、人が争うのは必然のような気がするので、戦争がなくなる世の中は来ないのではないか」と話した。

今は本を読んだり、詩を書いたりして、ゆったりしたときを過ごしている。(榎田智司)

最終話《続・平熱日記》195

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】ちょうど24年前、大工の弟と2人でここに家を建てた。その時に内壁に使った漆喰(しっくい)が余ったので、それを木っ端に塗って絵を描いてみた。それから古いハエたたきを見つけて、その朽ちかけた金網に漆喰を塗って最初に描いたのは、小さな木彫りの馬の絵。その絵は手製の額に入れられて今も手元にある。

「平熱日記」と題してその小さな絵を発表したのが今から16年前。その4年後、タブロイド判「常陽新聞」に同じタイトルのエッセイを寄稿し始めた。新聞休刊後は、タイトルを「続・平熱日記」に変え、WEB版「NEWSつくば」に掲載してきた。これまでにざっと350話ほど。

近く「平熱日記」を出版

今年の初め、千曲市にあるアートコクーンみらいの上沢さんから「平熱日記」を本にしてみないかというメールが来た。文章もさることながら、毎回自筆の絵を載せ、それも長い間続いているのがいい、と。そう言われると、「飽きもせずに続いているもんだ」と思わないではないが、毎朝小さな絵を描き、日々の些事(さじ)を言葉でつづることは性に合っていた。

正直うれしかったが、どこか他人事のように感じた。確かに前からそういった声はないではなかったが、「それほどのもんでもない」と本人は思っていた。ところが、彼女はあっという間に立派な企画書を作り(彼女は物書きからスタート)、出版社に話を持ち掛けてくれた。紆余(うよ)曲折はあったものの、本になる算段はついた。

そこで、「続・平熱日記」となってからの200話近くから、約90話を抜粋することとなった。70話前後までの作品画像は、デジカメでWEB用に撮ったので印刷には耐えられそうもない。そこで出版を機に撮りなおすことにした。すでに現物がないものは、仕方なく別の絵の画像に差し替えることにした。

コーヒーの花が咲きましたよ!

その作業をほぼ終えた日のこと。NEWSつくばから、同メディアが配信開始から10年になるのを機に、コラムなどの顔ぶれを一新したいと言ってきた。この知らせに私は不思議な偶然を感じた。この夏からしばらく、故郷山口に帰って暮らしてみようと考えていた矢先だったからだ。私は何の未練もなく「続・平熱日記」を終えることにした。それから、このコラム「最終話」を出版される本の「まえがき」にすることを思いついた。

山口に発つ1週間前、スマホに着信が…。「コーヒーの花が咲きましたよ!」。カミさんが生前大切にしていた人の背丈もあるコーヒーの木。その後、わが子のように面倒を見てくれた「サイトウコーヒー」のマスターのやや興奮気味の声だった。送られてきてた、4年越しに咲いた星のような白いコーヒーの花の画像に「いってらっしゃい」と言われているような気がした。

コラム最後の絵は家の扉を描くことにした。家族や友人が出入りした扉。カミさんと結婚パーティーをした、今はなき東京芸大の大浦食堂からもらってきた扉の絵。(画家)

霞ケ浦、中京に勝利し2回戦へ【高校野球’26】

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好プレーに皆が一斉にメガホンを叩く=阿見町の霞ケ浦高校


甲子園球場で開催中の第108回全国高校野球選手権大会は9日の第4試合、県代表の霞ケ浦が中京(岐阜)と対戦、6-3で勝利し2回戦に勝ち進んだ。阿見町青宿の霞ケ浦高校ではパブリックビューイングが催され、生徒、保護者、OB・OGら約70人がスクリーンに向かって声援を送った。

霞ケ浦は一昨年の智弁和歌山戦に続く甲子園で2度目の初戦突破。快挙は母校で観戦応援するクラスメートたちにも勇気を与えた。サッカー部3年の濱田晋吾さんは「彼らの活躍が、自分たちも頑張らなくてはと思う原動力になった。次は自分たちがみんなを(全国選手権大会の舞台となる)国立競技場へ連れていきたい」と意気込み、同じく稲葉涼太さんは「普段クラスでは明るく元気な野球部員たちが、スクリーンの向こうで真剣な表情で戦っているのを見て感動した」と話した。

第108回全国高校野球選手権大会 1回戦(9日、甲子園球場)
霞ケ浦 001022100 6
中 京 100000200 3

霞ケ浦が中京のエースでU-18日本代表候補の鈴木悠悟投手を打ち崩した。3回表、7番・菊地勇一が四球と盗塁で二塁へ進み、9番・相田歩希の左中間への安打で生還。5回にも相田の右前打や2番・村上聖の左翼線二塁打などで2点を追加し、流れをたぐり寄せた。

6回には、それまで精密にコースへ投げ分けていた鈴木の制球が乱れ、2死一・二塁の好機。ここで8番DH(指名打者)野口空真の中前打と相田の右前打で2点を獲得した。相田はこの試合3安打2打点の活躍。7回には中京の2番手投手・西岡海心に対し、村上の中前打と盗塁から犠打、四球で1死一・三塁とし、5番代打・小磯陽希の内野ゴロで1点を追加した。

霞ケ浦の先発は小林将大。高橋祐二監督は「最低でも打者一巡、良ければ5回まで」との目論見で送り出したというが、大きく曲がるスライダーとキレの良いストレートで次々と相手打線をほんろう。初回こそ野手が打球を足に当てる不運もあり1点を失うものの、その後は凡打の山を築いた。7回には相手打線もタイミングが合ってきて1点を奪われるが、この回途中からエース稲山幸汰がマウンドを引き継ぎ、中京の追撃をかわした。

霞ケ浦の2回戦は14日、第2試合で鳴門渦潮(徳島)と対戦する。試合開始は午後4時の予定。

「倭文織」をご存じですか《邑から日本を見る》197

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「倭文織考」の表紙(左)と裏表紙。写真は筆者

【コラム・先﨑千尋】本コラムをお読みの皆さんは「倭文織」のことをご存じだろうか。私たちは「しづおり」と言っている。「倭文」だけだと、「しどり」、「しずり」、「しとり」、「しつ」などと読んでいる。

倭文織は、藤布、葛布、科布(しなふ)、からむし織などと同じく、山野に自生する植物(楮=こうぞ=など)を素材とした自然布の一つなのだが、いろいろな文献には残っていても現物が存在しないので、どのような織物なのかが分からず、幻の織物とされてきた。

私は35年前の瓜連(現那珂市)町長のとき、この復元に取り組んだ。私の町は奈良時代には「倭文郷(静織郷、しどりのさと)」と言われていた。713年に編まれた『常陸国風土記』久慈郡の条には「郡の西十里に静織の里あり。上古の時、綾を織る機を知る人あらざりき。時にこの村に初めて織りき。因りて名づく」とある。

また、同町にある常陸二宮静神社には、織物の神様・建葉槌命(たけはつちのみこと)がまつられており、織物関係者の信仰が篤(あつ)い。

倭文織を生産する専門的技術者は倭文部(しとりべ)と呼ばれていた。その一人、倭文部加良麻呂は、防人(さきもり)として北九州に派遣され、そのときに詠んだ長歌が『万葉集』に残っている。

私はこのような歴史遺産をよみがえらせようと考え、県の助成を受け、倭文織のルーツ調査を始め、復元のために、原料となる楮の栽培、織る機を購入、技術者を養成した。瓜連小学校には全国初の「しづ織クラブ」も誕生。織物が好きな人たちはグループ「手しごと」を組織し、現在に至っている。

倭文の名を冠した神社は全国に14社あり、関東、山陰、近畿に多い。地名だけだとさらに多く、北は岩手県にまで残っている。苗字が倭文という人もいる。あまり知られていないが、静岡という地名も「しづはた」に由来する。

この織物については、『日本書紀』『万葉集』『古語拾遺』『延喜式』『常陸国風土記』などに記載されており、特に平安時代の『延喜式』には頻繁に登場する。しかし、その素材についての記述はない。

「倭文織」の文献を1冊にまとめて刊行

私はこの時から、倭文織や自然布、古代布などの文献を集めるため全国各地を訪ねた。それが600余になったので、これをまとめるのが自分の使命と考え、5年前に書き始めた。今回やっとそれがまとまり、A4判112ページの『倭文織考』を自費出版した。

その内容は、我が国の倭文織に関する明治以降の研究史、静、倭文、志鳥などの地名、神社名と人名、建葉槌命と関わりのある香香背男(かがせお)、倭文織に関する最近の動向、文献リストなど。これまで目に触れられなかった江戸時代末期の松浦道輔の『倭文考』も、翻刻収録した。表紙は、江戸時代初期に書かれた「常陸名所図屏風」から採った。

本書は非売品。国会図書館と県内の主な図書館、博物館にあるので、関心のある方はそちらで読んでほしい。

最後に。私の筆力が最近衰え、切れ味が鈍くなったので、このコラムは今回でおしまい。長い間のご愛読に深謝。さらば。(元瓜連町長)

県の対応に変化 つくばの県立高問題《竹林亭日乗》43

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桜川の青木堰(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】7月21日、つくばエリアの県立高不足の解決を求め、つくば市選出の山本県議、うの県議、ヘイズ県議が見守る中、つくば市の小森谷市議会副議長、松本副市長、松本総務部長らの参加のもと、総勢13人で柳橋県教育長に9回目の要望書を提出した(7月21日付)。

副市長からは、地域の子ども急増、小中学校の建設状況、県立竹園高学級増への市支援などについて説明。副議長からは市議会の意見や市民の声が紹介され、県議からは県執行部に不足問題を解決するよう要求してもらった。県側も、山口学校教育部長が「貴重な声として受けとめたい」と懇談の最後まで同席した。また、海老沢高校教育課長、片見改革推進室長らも出席し、ていねいで率直な意見交換ができた。今回はこの対話で感じた新しい可能性について報告したい。

懇談では、生徒・保護者の願いが県担当者の心に届き、県執行部内に大きな変化が生まれているのが分かった。つくばエリアの県立高不足の実状が県に伝わり、解決の土台ができてきたと思う。懇談では、つくば市の人口は県内1位となったが、このままでは県立高不足がさらに悪化すると県資料で説明、「水戸市の水準は求めていない。せめて県平均並みにしてほしい」と県の決断を促した。

そして、つくばエリアの県立高不足解決には、まず2019年改革プランの積み残しを解消するために、竹園高校の学級増を求めた。また、現在県が作成中の2027年改革プラン(2027~33年)で、つくばエリアの県立高定員を県平均水準にするよう求めた。つくばエリアの問題点を県が理解し対応すれば、この地域の人口・生徒増を県の発展に生かすことができる。

「迷い」から「見直し」に

今まで県のつくばエリアの県立高不足対策には迷いがあった。それを簡単にまとめると、以下のような流れになる。

▽2022年11月の県議会:教育長「進路選択に影響が出ないように計画を示す」と、前向き答弁。

▽2024年10月の県試算:「2030年に3学級増必要」と「土浦・牛久・下妻を加えた拡大つくばエリアを設定すれば学級増は必要ない」と、2つの矛盾した試算を発表。

▽2025年の高校審議会:「入学者数と募集学級数の展望」で、生徒が増えているつくばエリアの学級数を2033年には57学級に逆に削減するとの展望を提示。

生徒増の中でつくばエリアの学級減という不自然な2025年「展望」に対しては、懇談の場で事実に基づいて質問したところ、県は事前に検討した上で「見直し」を明言した。県の対応は、今までの「迷い」から「見直し」に転換したと思う。これは改善の一歩であり、評価したい。県議・市議・市執行部「オールつくば」の願いが通じたのではないか。

この姿勢転換の延長上で、現在作成中の2027年改革プランで、つくばエリアの県立高定員を県平均水準まで引き上げるよう改善してほしい。私たちは今後も市民の多くの声を県に伝えていきたい。(元高校教師、つくば市の小中学校の高校進学を考える会 代表)

先端技術の社会実装支援へ つくば市がファンド創設

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つくばスーパーサイエンスシティファンド設立に当たり、第1号の連携協定機関となった筑波大学との連携協定書を示す(左から)筑波大の加藤光保プロボスト、五十嵐立青つくば市長、つくばスーパーサイエンスシティ構想全体統括者の鈴木健嗣筑波大教授

「地方は収益化に課題」

自動運転バスや遠隔医療など、先端的な技術やサービスを社会実装する「つくばスーパーサイエンスシティ構想」の取り組みを、実証実験に終わらせることなく社会実装につなげようと、五十嵐立青つくば市長は7日開かれた定例記者会見で、新たなファンド(基金)を6日付で創設したと発表した。

つくばスーパーサイエンスシティファンドという名称で、最大9割の税負担軽減を受けることができる企業版ふるさと納税を活用して、市外に本社がある企業などから新たな寄付を募る。寄付金は、6割を市の社会実装事業に活用し、4割を大学や研究機関に補助金として交付する。

背景には「郊外型スマートシティではマネタイズ(収益化)の課題がある」と同市の小田切美穂政策イノベーション部長は説明する。都心部では、カーシェアリングやシェアサイクルなどのシェアモビリティは単独で収益化できているのに対し、地方では自動運転バスも構造的に赤字が見込まれている。同サイエンスシティ構想の全体統括者を務める鈴木健嗣筑波大教授は「地方のスマートシティは、実証実験で終わってしまうもの、補助金が切れたら終わってしまうものなど苦戦している」と話し、小田切部長は「つくばは大学や国立系研究機関が集積しているのが最大の強みなので、連携しながらマネタイズの課題を克服していこう」という試みになると説明する。

4割の交付対象となる大学や研究機関については、同市と連携協定を締結した上で、市に事業提案してもらい、市が地方創生の効果などを審査した上で補助金として交付する。さらに連携協定を締結した大学や研究機関は、市と連携して寄付の募集を行う。企業にとっては、大学などに直接寄付する場合の税負担の軽減効果は約3割なのに対し、つくば市の企業版ふるさと納税を活用すると最大6割の税額控除を受けられるため、併せて、企業の税負担が最大9割軽減される。

五十嵐市長は「企業にとってもメリットが大きいので、社会実装を進めたいと思っている企業にメッセージが届き、先端技術やサービスの社会実装を社会課題の解決につなげていきたい」と話した。ファンドの目標金額については「目標は設定していないが、昨年度はスーパーサイエンスシティに関する企業版ふるさと納税が3件、計1350万円あった。ファンドを創設したので今年度はその金額を上回っていただければ」と述べた。

4割の交付対象となる第1号の連携機関に筑波大学が決定し、連携協定の締結が行われたことが併せて発表された。(鈴木宏子)

「気持ちが世捨て人だった」ときに考えたこと《ハチドリ暮らし》64

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写真は筆者

【コラム・山口京子】抗がん剤治療中、「気持ちが世捨て人だった」ときに思ったことがありました。自分は直にいなくなるけれど、子どもや孫たちの暮らしは続いていく。これからの暮らしはどうなるのかしら…と。とりあえず、現在を捉えるにあたって、三つのことが頭に浮かびました。

文化なき文明、不公正な法律…

一つは「文化なき文明」。確かに文化は存在しますが、ここの文明には文化が見えない…。この文明は地下資源に依存しており、大量の生産・消費・廃棄・汚染システムは強力です。「便利で楽」は、私たちが自ら求めたものでしょうか? それとも、どこか別のところからやってきたものでしょうか? 足るを知ることが大事と言われますが、消費の場面では買わせる広告があふれています。

二つ目は「借金(債務)が成長の燃料」というシステム。多くの国々が巨額の借金を抱えています。これまでは機能したとしても、これからどうなるのか?インフレ・金利上昇・増税が不可避なのか?と。金利が上昇すれば債務返済に負担が課されます。歳出構造が変わってしまうのでは? インフレでお金の価値が目減りすれば、実質的に家計から政府へ所得が移転されると指摘されています。

三つめは「不公正な法律」が成立しているという疑念です。表向き法律は国民のためと言いながら、実際は反対のことが起きているのでは? 改正労働者派遣法は働く人の立場を低下させたのではないか? この法律は個人よりも市場の利益優先では? 「法律ができて、それで利益を得る人と、損を被る人はだれなのか、調べることが大事だ」と、ある本に書かれていました。

自立・自給・自尊がつながる暮らし

そもそも、国会が国民の代表機関であり得ているのかと、疑問視する専門家もいます。戦後の米国との関係、勝共連合との関係はどうなのか? また、「主権者は国民ではなく市場である」という説もあります。AIの覇権競争はどうなるのでしょう? 防衛費アップや武器輸出でGDPが上ると言いますが、そういうGDPとは何なのでしょう?

今の時代は大きな転換期だと言われます。自立・自給・自尊がつながりあった暮らしのかたちができないものか―次のシステムを考えています。(消費生活アドバイザー)

筑波大生が夏休みの宿題応援 小学生ら絵画や書道に挑戦

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直接絵を描いて子供たちにアドバイスする筑波大生(右)

夏休み中の小学生が、筑波大で芸術を学ぶ大学生らのアドバイスを受けながら、夏休みの宿題の絵画や書道に挑戦するイベント「夏休み宿題応援」が7日、つくば市二の宮のギャラリー、スタジオ’Sで催された。ギャラリーを運営する関彰商事(本社 筑西市・つくば市、関正樹社長)と筑波大による取り組みで、この日は午前9時半からと11時から書道教室、午後1時からと3時から絵画教室が開かれ、つくば市や近隣地域から小学生計約70人が参加した。今年は前日の6日に筑西市でも同様のイベントが開かれ、小学生約40人が参加した。

スタジオ’Sで午後1時から始まった絵画教室には保護者に付き添われた17人の小学生が参加し、それぞれが、ポスターコンクールに出展する製作途中の「防犯」「交通安全」などの作品を持ち寄った。講師になったのは筑波大芸術専門学群の大学生と大学院生の計5人。小学生らは五つのテーブルに分かれて作品を広げ、大学生らが、下書きの描き方、構図の作り方、絵の具の塗り方などを、それぞれの進行状況をみながらアドバイスした。

「夏休み宿題応援」イベントの様子=つくば市二の宮、スタジオ’S

牛久市から参加した小学5年の上田ももなさんは、昨年出展した交通安全のポスターを持参して参加した。「今年はもっとうまく描いて入選したい」と意気込みを話し、大学生から、下書きの構図を変えることをアドバイスされ、早速描き直していた。つくば市立東小2年の子どもの付き添いで参加した母親の二階堂里万子さんは「普段はユーチューブなどを参考にしながら子供に教えているので、専門的に学ぶ大学生から教えてもらえるのはとてもありがたい」と話していた。

講師を務めた筑波大大学院生の稲田来瞳(くるみ)さんは「子供たちに教えるのはとても難しいが、何を伝えたいのかを思って描くことや、自分だったらこんな風に描くだろうと想像して指導した」と語った。

当日は県つくば美術館のスタッフが、トイレットペーパーの芯を使った作品などを持参して参加し、同美術館で15日に開催される、とび出すカード作りのイベント「つくぞう つくるぞう!」や、火~金曜の午後と日曜・祝日の午前中に開催中の、だれでも自由に創作活動ができる「つく美でつくり場」などを紹介をした。

県つくば美術館のスタッフも参加し、同館の企画を紹介などした

書道と絵画を対象とした今回の企画は、2016年からスタジオ’Sと筑波大が毎年開催している子ども向け企画「キッズアート体験」の中で好評だった二つの科目に特化し、18年から独立した形で始まった。20年からは県近代美術館も協力している。

関彰商事広報の石井雅也さんは「『夏休み宿題応援』は好評で、人気が高く、すぐに定員いっぱいになる」とし「今後も同様の企画を続けていきたい」と話した。(榎田智司)

水草の進化と不思議を紹介 見て、触って、学べる企画展 筑波実験植物園

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企画展を紹介する筑波実験植物園の田中法生さん

水面に浮く水草は、なぜ沈まないのか。なぜ、大きさも形も異なる、さまざまな葉があるのか―。水草を見て、触って、その不思議を学べる企画展「水草―水辺を生きる多彩なかたち」が7日、つくば市天久保の国立科学博物館 筑波実験植物園(遊川知久園長)で始まった。会場には、水草を美しく配置した水槽をはじめ、様々な水草を実際に触ることができるタッチプール、顕微鏡をのぞいて小さな水草や食虫植物を観察するコーナーなどが並ぶ。夏休みの子どもたちが、水辺の植物を身近に感じられる展示だ。絶滅危惧種に指定されている希少種や南米アマゾン地方に生育するものなど、同園が栽培、保全する約250種の水草を見ることができる。会期は16日まで。

押して分かる、浮く仕組み

「触ってみてください。ここに空気をためることで、水に浮くことができるんですよ」

展示会場の一つ、研修展示館の入り口に設けられた幅約3メートルのプールで、水面に浮かぶ多年生の水草・ホテイアオイを手に、同園研究員で展示責任者の田中法生さん(56)が話す。

研修展示館前に置かれたプールに浮かぶ水草について説明する田中さん

葉の付け根にある膨らんだ部分を指で押すと、内部に空気をためる空洞があることが分かる。空気をためるものや、水をはじく表面を持つものなど、水面に浮かぶ仕組みは植物によって異なるという。同じプールには複数の種類の水草が浮かんでいる。子どもたちは実際に触りながら、それぞれの硬さや形、浮き方の違いを比べることができる。

世界には約2800種の水草がある。同園は世界の水草の約1割にあたる約160種類、国内種に限っては約5割に当たる約120種を栽培・保全している。

大きさも形もさまざま

同園で水草をテーマにした企画展が開かれるのは2024年以来、2年ぶり。今回は、水草が持つ多様な「かたち」に焦点を当てた。

水草の中には、長さが最大7メートルにもなる細長い葉をつけるものや、直径が2メートルほどになる大きな皿のような葉を持つものがある一方で、一つの植物体がわずか0.5ミリほどしかないものもある。会場には、パイナップルのような硬く鋭い葉が特徴で、その独特な姿から「浮き草の異端児」とも呼ばれるストラティオテスや、同園が日本で初めて長期栽培と開花に成功した「オッテリア・メセンテリウム」、つくば市と協力して市内での自生を確認したクロホシクサなど、希少な水草も間近で観察できる。

研修展示館2階には、絶滅危惧種などの希少種が展示されている

水草は水に「戻った」植物

水草が持つ多彩な形の背景には、水中から陸上へ進出し、再び水辺へ戻ってきた植物の長い歴史がある。植物の祖先は水中で誕生し、およそ5億年前に陸上に進出した。その後、陸上でさまざまな姿に進化した植物の一部が、再び水中や水辺で暮らすようになった。それが現在の水草だという。水草には、バラやイモ、イネなど、陸上で身近に見られる植物の仲間も数多く含まれている。

「陸上植物から水草が誕生した出来事は、進化の歴史の中で一度だけではない」と田中さんは言う。DNAを用いた研究で植物の系統樹をたどると、陸上から水中への進出は、進化の歴史の中で約200回起きたと考えられている。数億年前に水中へ入った植物もあれば、比較的最近になって水辺で暮らすようになったものもあるという。

異なる祖先を持つ植物が別々に水中に進出したため、水草はもともと異なる形を受け継いでいる。一方、祖先が違っていても、同じ水中環境に適応するうちに、似た形になることもある。例えば、水の抵抗を受けにくくするために葉が細くなったり、水中から二酸化炭素などを取り込みやすくするために、葉が細かく枝分かれしたりする。「祖先が違うために形が異なる一方で、同じ環境に適応した結果、形が似ることもある。この二つが組み合わさることで、水草の複雑で多様な形が生まれている」と田中さんは説明する。

日本の水草、約4割が絶滅の危機

展示では、水草を取り巻く厳しい状況も紹介する。日本に生育する約270種の水草のうち、約43%が絶滅の危機にあるとされる。水質の変化や湿地の開発に加え、水田やため池の管理方法が変わったことも、水草が減少する原因になっている。

多くの水草は、かつて川が氾濫する場所に生育していた。堤防の整備などによって氾濫する場所が減ると、水田やため池が水草の新たな生育場所になった。しかし近年は、除草剤の使用や農業の効率化、ため池の利用減少などにより、水草が暮らせる場所が再び減っている。アメリカザリガニなどの外来生物に食べられたり、生育地を荒らされたりする問題も深刻だという。企画展では、茨城県やつくば市内に残る希少な水草を展示し、身近な水辺でも植物の減少が進んでいることを伝える。

まずは水草を好きになって

会場では、顕微鏡を使って食虫植物も観察できる。葉についた小さな袋に餌となる生き物が近づくと、入り口が開き、一瞬で吸い込む。タイミングが合えば、水中の食虫植物が獲物を捕らえる瞬間を見ることができる。また、世界で最も小さな花をつける体長0.5ミリ程のミジンコウキクサの、肉眼では気付きにくい花を拡大映像や模型を手掛かりに探すコーナーもある。

顕微鏡をのぞきながら食虫水草に餌をやることができる

田中さんは水草の魅力について「植物全体の中では少数派だが、形や生き方の多様性はものすごい」と語り、「実際に水草を触ったり、観察したりして、いろいろな水草があることをまず知ってもらいたい。たくさんの水草があることで、水辺の生態系が成り立っている。そんなことにも思いをはせながら、水草を好きになってほしい」と話す。(柴田大輔)

◆同展は、つくば市天久保4-1-1 国立科学博物館 筑波実験植物園で開催。開園時間は午前9時から午後5時、入園は午後4時半まで。入園料は一般320円、高校生以下と65歳以上、障害者などは無料。会期は8月16日(日)まで、会期中は休園日なし。教育棟ではプロのアクアリウム レイアウターによる水草水草が展示されている。

◆15日午後1時半からは、研修展示館3階のセミナー室では、高校生以上を対象とした、田中法生さんによる講座「植物研究最前線『水草のかたちの謎』」が開かれる。定員30人、事前予約制。詳細は、同園ホームページへ。

合併めぐり土浦市長「かすみがうら新市長の検証見守りたい」

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定例記者会見で話す安藤真理子土浦市長=6日、土浦市役所

かすみがうら市との合併について、土浦市の安藤真理子市長は6日開かれた定例記者会見で、7月のかすみがうら市長選で無投票当選した金子敏明新市長が先月28日、土浦市の市長室に就任のあいさつに訪れた際、金子市長から「かすみがうら市内部で精査し、改めて検証していく」との話があったことを明らかにした。安藤市長は「元々かすみがうら市からの提案なので、新市長がどう検証していくかを見守りたい」などと話した。

両市の合併をめぐっては、かすみがうら市議会で6月16日、両市の合併協議・検討の場設置を求める決議が全会一致で可決されたのを受けて(6月11日付)、かすみがうら市の宮嶋謙市長(当時)と来栖丈治市議会議長が翌17日、土浦市役所を訪れ、同市の安藤市長と勝田達也市議会議長に、合併に向けた協議・検討の場の設置を求める要請書と要望書をそれぞれ提出した(6月17日付)。提出を受けた土浦市の安藤市長は7月6日、かすみがうら市で7月12日告示の市長選が行われることから「新しい市長がどのような考えなのか見極めたい」などと話していた。

6日の会見で安藤市長は、就任あいさつ時の金子新市長の発言について「(かすみがうら市の)議員の皆さんは全員賛成だが、市民の皆さんの声を聞きたいということだった。(新市長が)検証していくということであれば、それを見ていきたい」と話した。宮嶋前市長と金子新市長との間の姿勢の変化については「私がコメントする立場にない」とした。

一方、市町村合併について安藤市長自身の考えを問われると「市民が、合併して良かったと思う合併ならいいと思う」と話し、「平成の大合併についても、いいこともあるし課題もあり、検証していく必要がある。合併特例債のようなものがあれば合併が進むかもしれないが(特例債は)終了している」などと話した。その上で、かすみがうら市との合併については「(土浦市内の)各地区に出向いて市民の皆さんと話す機会があるので、市民の皆さんの考えを聞きたい」などと話すにとどめた。

50万都市圏は広域連携が現実的

大井川和彦知事が県議会6月定例会で、高橋直子県議(いばらき自民党、土浦市選出)の一般質問に答え「TXの土浦延伸は、つくば・土浦地域がより密接に連携し、人口50万人規模以上の都市圏を生み出す大きなチャンスになる」などと答弁したことについても質問が出て(7月20日付)、安藤市長は「50万都市圏については(市町村合併というよりも)まずは意識をもって広域連携をしていきましょうというのが現実的ではないか」などと述べ、「50万都市圏のためにまず一番必要なことがTXの土浦延伸だと思う」と強調した。(鈴木宏子)

広島・長崎の原爆パネル展開催 土浦市民ギャラリー【戦後81年】

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5日から始まった「ヒロシマ・ナガサキ原爆パネル展」=土浦市民ギャラリー

広島・長崎の原爆被害の実相を多くの市民に知ってもらおうと「ヒロシマ・ナガサキ原爆パネル展」(土浦市主催)が5日から、土浦駅西口前の土浦市民ギャラリーで始まった。原爆投下直後の広島、長崎の街の様子や放射線被害の実情などを紹介した写真パネル30点と、戦争を知らない若い世代に向けて、16の問いで構成された「核兵器と戦争に関する16の問い」のパネル17点の計47点が展示されている。会場では、被爆直後の広島の映像と被爆者の証言、被爆体験を語り継ぐ取り組みなどを紹介した広島平和記念資料館制作の動画「ヒロシマ 被爆者からの伝言」が上映されている。

同市は1988年に非核平和都市を宣言し、93年から毎年、原爆パネル展を開催している。翌94年からは、8月6日に広島市で催される平和記念式典に、中学生と市民代表を派遣している。今年も原爆パネル展の開催と併せて、市内8校の中学生16人と市民代表2人など計21人を広島平和使節団として5日から7日まで広島に派遣している。

会場の様子

原爆パネル展は、全国の非核平和宣言都市でつくる日本非核宣言自治体協議会(事務局・長崎市平和推進課)からパネルを借り受け、展示している。原爆投下直後の街の様子については、燃え残りの火がくすぶる爆心地から500メートルの広島市中心部の写真や、臨時救護所に収容された負傷者の写真などが展示されている。米国が、広島と長崎に原爆を投下した理由については「投下により戦争を終結できれば、戦後、ソ連(当時)の影響が広がるのを避けられ、膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できる」からだったなどと説明している。

「16の問い」は、「あなたに思い出したくない辛い過去はあるか」「核兵器廃絶は実現できるか」などの問いについて「正解はないが、あなたの答えを探してほしい」と呼び掛け、核兵器廃絶の取り組みについて「人々の声が、核兵器を禁止する新しいルール『核兵器禁止条約』をつくった」などと紹介している。

同展を主催する同市総務課は「会場にお越しいただいて、平和の大切さや戦争の恐ろしさ、核兵器使用の悲惨さなどについて考えるきっかけにしていただければ」と話し、来場を呼び掛けている。(鈴木宏子)

◆同展は16日まで、土浦市大和町1-1 アルカス土浦1階、土浦市民ギャラリーで開催。入場無料。開館時間は午前10時~午後6時。月曜休館。