月曜日, 4月 21, 2025
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《猫と暮らせば》7 「子ども食堂」急増 オープンしたら止めないで

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今年1月にオープンした土浦の子ども食堂の様子。子どもは誰でも利用できる

【コラム・橋立多美】2012年、大田区の八百屋の店主は、知り合いの小学校教諭から「給食のない日はバナナ1本で過ごしている児童がいる」と聞いて涙が止まらなくなった。親が食事を用意できない貧困家庭の子どもたちに食事を提供する子ども食堂を始めた。今や無料または低料金で食事を提供する子ども食堂は全国150カ所に広がり、地域住民や自治体が主体となって取り組んでいる。

その背景には共働きやひとり親世帯の増加による子どもの孤食などの実態や、14年に子どもの貧困対策法が施行し、「日本の子どもの6人に1人が貧困状態にある」との厚労省の調査が追い風となり、増加の流れはさらに加速している。

つくば市は今年度、生育環境によって教育の機会が得られない、または健やかな成長に必要な衣食住が確保されていない子どもの格差を解消するための「こども未来室」を設置。子どもたちの居場所づくりとして、11月1日から子ども食堂補助金の交付団体を募集している。同市は経済的理由で就学が困難な児童・生徒は市内に約1300人いるとしている。

子どもの食事難や孤食に対する問題は、親の就職や離婚状況が深く関連しているため、根本的解決方法を見つけるのが難しい。しかし難しいことは脇に置いて、とにかく目の前の子どもたちにおいしくて温かいご飯を食べてもらおう」と一石を投じているのが子ども食堂なのだ。

ただし、単にお腹を満たすだけでなく、食育に気配りした献立が提供されている。それは経済的にゆとりの無い家庭の子どもは、ゆとりのある家庭の子どもに比べて「野菜」「魚」「果実」を食べる頻度が低く、特に「野菜」は有意差が見られ、菓子パンやカップ麺などのインスタント食品の摂取頻度が高い傾向にあるからだ。

どんな活動も「人・モノ・金」が必要

「広がれ、こども食堂の輪!全国ツアーin茨城」実行委が昨年1~2月に県内16団体を対象に実施した実態調査によると、開催頻度は月に1、2回で時間帯は平日夜が多い。子どもの利用は無料と100円が半々。献立は野菜を使った和洋中とバラエティに富む。資金に余裕がない団体が大半で食材は農協や生協、フードバンク、地域住民からの寄付が頼みの綱のようだ。ちなみにフードバンクは常温で保管できる食材に限られ、基本的に生鮮食料品は取り扱わない。

最近、子ども食堂を運営する某団体が野菜の寄付を呼びかけるチラシを茎崎地区の農家一軒ずつに投げ込んだ。農家の主婦は「人助けは分っているがうちも生活がかかっているし…」と困惑した様子。善意の押し売りはいただけない。家庭菜園で採れた食べきれない野菜を寄付したり、農協が規格外品を提供している例がある。同市でも農協と連携することは可能だろう。

ここからはお叱り覚悟で書く。どんな活動も「人・モノ・金」が必要で、まして子ども食堂は食品衛生やアレルギーなど課題は山積みだ。始めることはできても、持続するのはスタート時よりも困難が伴うだろう。現に場所の問題で閉鎖した子ども食堂がある。大人の都合でオープンしたり止めたりするのは、手に入れた居場所を失い大人への不信感を植え付ける。支える対象が子どもの場合、責務が重いと自覚してほしい。子ども食堂を一過性のブームに終わらせないためにも、関係機関と連携して継続してくれることを願う。(ライター)

《続・気軽にSOS》26 マラソン選手は手を抜いているのか?

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【コラム・浅井和幸】私が理事長をしているNPOがあり、毎月、何ヶ所かでお茶会を開催します。それぞれのお茶会は、問題に対する苦しさや対処の方法の話だけでなく、参加者によって、地域の話、ゲームの話、音楽の話など、特色が出ます。

先日は、あまり外に出ない人、そのような状態の子の親、仕事を続けている人など、幅のある参加者のお茶会がありました。その中で、お客さん相手の仕事をしていて、機械に対するクレームが入る話が出ました。

怒りをぶつけられて、嫌だったろうし、腹も立ったろうし、拒否したいという気持ちもあったと思います。ですが、その参加者は、お客さんが楽しみに来たのに、機械のトラブルで腹が立つのも分かると、理解のある考えでした。短気である私にはない、器の大きさです。

働き始めのころは、怖いと感じたり、理解できないと思ったりすることもあったが、経験を積むごとに、お客さんの気持ちに寄り添えるようになってきたそうです。

しかし、経験を積んだからこその悩みがあると言います。何だろな?と耳を傾けていると、最近、自分が誠実ではない対応をしているのではないかと感じているというのです。誠実でないということは、手を抜いているとも感じると。

お客さんに寄り添って話を受け止めているのに、何が誠実でなく、手を抜いていると感じるか聞いてみました。すると、お客さんの気持ちも分かるので、その話に合わせて返答をすることがある。その返答は、自分では完全にそのように思っていなくても合わせている。

頭の片隅には、お客さんに合わせた方がクレームへの対応時間を短くできるとの思いがある。そのために、自分が思っていることに反する返答することは誠実な対応じゃないし、それは手抜きをしていると感じるということでした。

途中で倒れないようペース配分

いや~、すげ~真面目だなぁ~というのが私の感想です。そして、疲れるだろうなぁというのも、正直な感想になります。それらも伝えつつ、私は次のように言いました。

まず一つは、お客さんが理不尽に怒っているときに、正論で返してしまうと、お互い余計に腹が立ち、余計に時間を使ってしまい、お客さんにとっても損なことだと思う。いつも正面衝突でぶつかることがよいとは言えない。だから、自分の思いを抑えて接客することが誠実ではないとも言い切れない。

お客さんの気持ちに、自分の気持ちを抑えて合わせ、時間を短縮できることが、クレームに手を抜いていると思わなくてもよいと思う。他の仕事もあるのだから、こちらの気持ちや機械の扱い方の全てを理解してもらうために時間を使うことが、手を抜かないこととも言い切れないだろう。

心身共に疲れるまで仕事をすることは誠実なのかもしれないけれど、途中で倒れないようにペース配分が必要なはず。フルマラソンを走る選手は、100㍍で倒れてもよいとすれば、100㍍だけはもっと速く走れるだろう。しかし、フルマラソンを走り切るには、ペースを落とさなければいけない。それは手を抜いているのではなく、目的に合った最速の手段をとっているということでしょ?(精神保健福祉士)

《制作ノート》1 1000枚を超えた「笑顔の似顔絵」

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笑顔の似顔絵展
沼尻正芳さん

【コラム・沼尻正芳】在職中、毎年 卒業生に「笑顔の似顔絵」を贈ってきました。似顔絵は、校長9年間で1000枚を超えました。

新米校長だった私は、毎朝 中学校の校門で生徒たちとあいさつを交わし、学校づくりの夢を巡らせました。「生徒が主役の笑顔あふれる学校をつくりたい。飾り物の校長、偉ぶる校長にはなりたくない。生徒、先生、保護者、地域と協力して夢を実現させたい」。少しずつ、具体的に実行しようと思いました。

修学旅行中の生徒たちはとてもフレンドリーで、一人ひとりに笑顔があふれていました。普段の生活でもこの笑顔をいっぱいにしたい。ふと、この笑顔を描きたいと思いました。笑顔は自信を生み、自らを励ます元になるはずです。一人ひとりの生徒を主役にする「笑顔の似顔絵」を描き、それを卒業へのはなむけにしたい。

3年生は160人。思うはやすし、行うは難しです。私は、毎日生徒たちに声をかけ、名前を覚えました。生徒たちからも声をかけられるようになり、その笑顔に励まされていました。「笑顔の似顔絵」への思いは日毎に強くなりました。

「高い目標を目指そう。夢は一日一日の積み上げで実現させる」と、私は生徒たちに語ってきました。その言葉は、私自身にも向かってきました。「生徒たちと受験勉強を共有する。中学3年間のドラマを思い、合格を祈り、一人ひとりを描こう」。そう決心し、実行するまで8ヶ月かかりました。

ノルマ課し 毎夜・休日正座して

12月になり、カレンダーに1日のノルマを課しました。毎夜・休日と、正座して「笑顔の似顔絵」を描きました。まさに時間との闘い、生徒への思いが試されました。学校では生徒と交流し、家では卒業アルバム用の個人写真を見つめてひたすら描きました。似顔絵がもろ刃の剣になることも考えました。中学生は、自己嫌悪や様々な葛藤(かっとう)を持つ世代です。

この似顔絵が気に入らなければ、似顔絵の笑顔はうそになる。全員を描き終えなければ、卒業式で1枚でも贈ることはできない。1枚1枚に差がでないように気に入るまで描き直し、筆先に全神経を集中させる毎日でした。

校長室で、班ごとに生徒たちと給食を食べ、ほぼ完成した似顔絵を見せて面談し、感想を聞きました。その後、出来た似顔絵は、順に数枚ずつ、校長室前に展示しました。すると、休み時間の度、生徒たちが続々とやってきました。驚いたことには、長く休んでいた生徒も学校に出て来ました。

「笑顔の似顔絵」160枚は、卒業式間近に完成しました。色紙に描いた絵の裏に、担任と一言添えて卒業式で贈りました。似顔絵を手にした生徒たち、一人ひとりが笑顔でした。そっと胸をなで下ろしました。そんな生徒たちの笑顔が、退職するまで「似顔絵」を描き続けてきた原動力になりました。(画家)

【ぬまじり・まさよし】水海道一高卒、武蔵野美術大学卒。千葉県公立中学校で教職に就き、茨城県公立小中学校長を退職後、つくばみらい市公民館長などを歴任。現在(一般社団法人)新極美術協会副理事長。1951年茨城県生まれ、つくばみらい市在住。

《世界に生きる》2 企業で求められる学歴

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筑波学院大学キャンパス

【コラム・大島愼子】「働き方改革」では、制度を論じるよりも、欧米社会と日本の精神文化の違いを理解することが重要である。日本人は役職イコール「地位」と考え、 地位に縛られて自由に発言が出来ない。上意下達、忖度の世界が展開する。欧米社会、特にドイツ人は、役職を「役割」ととらえる。従って、会議では社長も平社員も対等に議論する。

仕事の理解に必要なのが、Job Description (職務記述書)である。ドイツのような専門職社会では、職務内容とそこに示された権限によって給与が決まり、雇用契約が結ばれる。その職位に求められる最低限の内容であり、通常はそれ以上の成果を上げることが求められる。そしてその職位の要件に「学歴」がある。もっともマイスター制度の職人社会はこの限りではない。

私は航空会社の客室乗務員であったが、この職位に大学教育は必要とされない。サービス関連の職業学校に行き、語学力と適性があれば採用される。私の場合は、日本で大学卒の女子の雇用が制限されていた時代であったので外国企業に就職したが、当時6,000名以上の客室乗務員で大学卒は稀であった。

一方、人事、企画、財務など戦略的な内容の仕事につくには、高等教育の学位が必要である。私の知人にスチュワード(男性乗務員)として採用され、通信教育や大学の公開講座を利用して学位を取得し、最終的には機内食会社の社長にのぼりつめた職員がいる。

ある意味では、社内に労働市場があるようなもので、自分の努力で資格や学位を取得すると高い職位につく可能性が広がるのである。日本の場合は、一度就職すると、その後資格や学位を取得しても社内で評価され待遇に反映する制度は無いに等しい。

幹部職はビジネススクール修了者

90年代の半ばに全社的に通知が出た。「本部長以上の役職には、ビジネススクールを修了する必要がある」というものである。今後、管理職の社内募集要項には、学歴の要件が大学卒ではなく、経営学修士(MBA)取得となるという告知である。私が社会人として大学院に行ったのはこの通達の影響である。企業が、上級管理職には実務経験だけでなく、学術的な知見を求める時代になったと理解したからだ。

また、グローバル企業では、アメリカのPh.D取得者の方が、ドイツのDr.の称号よりも高い給与を得るとも聞いた。その後、EU諸国の大学は制度を変更しアメリカ式に統一した。結果的に私は大学教員になり、ドイツの大学で、世界各国から教員を招へいして英語で講座を行う「国際週間」で講義をしている。欧州の大学も、英語で学位が取得できることを宣伝するグローバル時代なのである。(筑波学院大学 学長)

《続・平熱日記》26 南フランスと牛久のワインシャトー

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【コラム・斉藤裕之】フランスのスーパーには300円前後のワインが無数に並べられています。毎日違うワインを1年間飲み続けられるほど。そんな安いワインはいっぱい飲みましたが、特にワインについて造詣が深いわけでもありません。ただラベルを見て、高いワインかどうか少しだけわかります。

もちろん、見た目で印刷が凝っているラベルのものはそれなりの値段だったりしますが、ポイントはどこでビン詰めされたワインかということ。安いワインはある地域ごとに集められてワインにされますが、高いものはシャトーと呼ばれる醸造所ごとにつくられます。ラベルにはそのことが必ず書かれています。例えば「ボルドー地方で詰められたワインです」とか「〇〇シャトー詰めです」とか。

南仏のカマルグという辺りのシャトーを訪ねたことがあります。フランスでもこの辺りでは米作りが盛んで、湿地にいるピンクのフラミンゴの大群に驚いたことを覚えています。ヨーロッパのワインはキリスト教との関係もあって、私達が思っている以上に生活に密着した大切なものです。また、低く育てられたブドウの木の畑はフランスやイタリアの独特の風景をつくっています。

南仏の山あいのある小さな村。宿泊した宿のご主人の運転でロマネスク様式の教会を訪ねました。途中長女がぐずったのでしょう。車を停めたご主人は道端のブドウ畑からいくつかブドウをもぎ取り、長女の口に運んだことが思い出されます。

ショック! 牛久シャトーが営業中止

ところで、日本で最初にできたシャトー。そう牛久シャトーです。誰もが耳を疑いましたが、年内をもってレストランやお土産物売り場の営業をやめるということ。赤字が原因とかなんとか。これからどうする、なんとかならないの―SNS上では大きな話題に。なにせ牛久の目玉ですから。しかし同時に1企業ですから。

以前、牛久駅の西口を「かっぱ口」に、東口を「シャトー口」にしたい、そこで、シャトーの建物を駅の階段などにサインとして使いたいので、デザインしてもらえないか―と依頼されたことがあります。

そのとき問題となったのが、シャトーは1企業であって、それをパブリックなサインとして使うのはいかがなものかと。結局、それ以外の選択肢がないわけで、「シャトー口」のサインは駅の階段に使われています。また、友人がデザインした小型バイクのご当地ナンバーにも、1企業であるシャトーが描かれました。

というわけで、市としてもお困りと思いますが、重要文化財に指定され、ワイン醸造所として日本遺産登録を目指していたシャトー。森とんかつ、いずみニンニク、かこんぴら、まれ天ぷら…。静かに眠る牛久シャトーの復活を信じております。(画家)

《邑から日本を見る》28 その後の東海第2とこれから

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【コラム・先﨑千尋】原子力規制委員会は、9月に日本原電の東海第2原発について新規制基準適合審査に合格したことを決定し、10月から11月にかけて、工事計画と20年延長を認可した。これで規制委による主な審査が終わり、原電がいつ再稼働を表明するのか、地元同意を求めるための協議をいつ始めるのかが焦点となる。

運転再開のためには、地元同意だけでなく、新基準に沿った対策工事が必要だし、30㌔圏内の市町村の避難計画策定が前提となり、ハードルは低くない。対策工事は2年余の時間と1,740億円の費用がかかるとされ、その捻出も容易ではない。

東海第2の再稼働に関しては、これまでに伝えられているように、地元の東海村だけでなく周辺5市との協議が必要になったが、そのうちの1つの自治体が再稼働の了解をしない場合はどうなるのかがあいまいにされてきた。

海野徹那珂市長は10月の記者会見で「市の調査では、住民の多くは再稼働に反対。一斉避難も無理」と再稼働に反対する姿勢を明確にした。これに対して東海村の山田修村長は「新協定は日本原電の発電事業を認めた上での協定」だとし、拒否権を否定する発言をした。

その後、水戸市、日立市、常陸太田市の首長は海野市長と同様の見解を示し、「事前了解の解釈にズレが目立ってきた」(日経11月8日)、「拒否権有無で市村長の認識の違いが表面化」(毎日11月8日)と伝えられる始末。そして、日本原電の和智信隆副社長が「拒否権なんて言葉は協定のどこにもない」と7日の記者会見で述べたため、9日に急きょ6市村の首長が集まり、原電との協議が行われた。

この席で、6市村の首長からは「副社長の発言は傲慢だ。あの発言は許せない」などの意見が相次ぎ、副社長の発言撤回と謝罪を要求した。その上で、「原電から再稼働の表明がないまま、対策工事をなし崩しに進めることはない。1市村でも了解しなければ再稼働はできない」という認識で一致した。

「拒否権」発言で埋まった6市村の溝

6市村間の溝は、思わぬところで原電副社長が「協定に拒否権という言葉はない」と語ったことによって埋まり、山田村長がそれまでの発言を修正した形となった。このことは、同月14日の「原発いらない茨城アクション実行委員会」と山田村長との懇談の席でも確認された。

一方、茨城県は30㌔圏の住民を対象に説明会を開く方針を示し、原子力規制庁の職員が一連の審査の結果について説明するという。18日のひたちなか市長選では大谷明氏が、自民、国民民主、公明、日立製作所、連合などから推薦支持を受けた久須美忍氏を大差で破った。今後、事前了解権をどう判断するかが注目される。

19日には東京地裁が、東京電力が原電の安全対策工事費を援助するのは違法と訴えていた仮処分申請を却下する決定を下した。11月27日の40年運転期限が目前に迫った今週には、原子力規制委員会に対して「東海第2原発の許可、認可への審査請求(異議申立)」が出される。引き続き動向を見守っていこう。

差し当たっては、直近の県議選で誰を選ぶかが問われる。選挙によってしか政治は変えられない。東海第2の再稼働は、他人事ではなく自分の問題なのだ。(元瓜連町長)

《食う寝る宇宙》26 宇宙天気災害から茨城を守る

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【コラム・玉置晋】8月末のある朝、「茨城県が宇宙ビジネス支援に乗り出したぞ」と、LINEでたたき起こされました。たたき起こした犯人は、僕の指導教官である茨城大の野澤恵(のざわ・さとし)先生です。LINEには、ある新聞の1面のキャプチャが貼られておりましたので、眠い目をこすりながら、コンビニに新聞を買いに行きました。

いばらき宇宙ビジネス創造拠点計画

「いばらき宇宙ビジネス創造拠点プロジェクト」の詳細は茨城県庁のホームページを御参照ください。僕には「茨城県、よくぞやった!」「ちょっと待て、早いよ!」という2つの想いが交錯しています。

僕の野心的テーマ「宇宙天気災害から茨城を守る」の発動トリガーはまだ数年先、2020年を目標としていたからです。宇宙天気災害をじっくり学ばなければならない、よし、大学院のドクターコースに行こうかと覚悟を決めていた所で、このニュース。だから「早いよ!」です。

このコラムの末尾に「宇宙天気防災研究者」と書いてくださっていますが、これは、NEWSつくば編集室の御好意なのか、嫌がらせなのか(笑)で、原稿にはいつも「宇宙天気防災研究者(見習い)」と書いております点、ここに記します。

100~1000年に1度の低頻度激甚災害

しかし、「宇宙天気防災」の難点は、この手の災害の特徴として「低頻度激甚災害」なのです。例えば、地震災害の場合は、100年~1000年に1度の頻度で、数十の自治体が壊滅的な被害を受ける規模のものです。100年~1000年に1度の災害に対して、ビジネスを成立させるのは非常に困難です。

昨今、地震保険をはじめとした地震ビジネスが限定的に成立しているのは、我々は東日本大震災や各地で頻発する大地震を経験したからです。一方、宇宙天気災害はどうか?前回の大規模災害は1859年の「キャリントン・イベント」で、もうすでに100年以上前。

今や世界はICTネットワークで結ばれ、生活の中に宇宙技術やサイバー技術が入り込む別次元の時代に突入しています。「悲劇を経験せねば」動かないことは、我々人類の歴史が知るところです。次の宇宙天気災害で、人類ははじめて経験することになります。そして、後悔します。「あの時、準備しておれば」と。

終末世界を説く宗教的な話?

宇宙天気災害は、地球規模の災害となるため、被災しても外国から支援は来ません。さて、ここまでの話の展開で、読者の皆さん、「うさんくさいなあ」と思いません?これ、終末世界を説く宗教的なお話に接近しています。残念ながら、この話の展開ではコンセンサスを得ることは難しいでしょう。

僕は宇宙が好きで、宇宙天気の勉強を始めたからこそ、「これはヤバいぞ」と気づいてしまいましたが、普通は宇宙天気というワードを聞く機会はまずありません。その結果が認知度5%(コラム21参照)です。

というわけで、現時点で、宇宙天気防災をビジネスとして展開するのは、なかなか難しそうだと、事業計画書の作成の筆が止まっているのが現状です。迷える子羊をお助けください。
(宇宙天気防災研究者)

《地域包括ケア》24 お勧めは訪問介護 生活援助と身体介護

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【コラム・室生勝】高齢者の集まりや朝のラジオ体操で顔なじみの近所の後期高齢者の中で、ひとり暮らしが3人、夫婦世帯が7組いる。彼らから時々、保健医療や介護の相談を受けている。そのうちのひとり暮らしの1人が要介護1、2組の夫婦世帯はそれぞれが要介護1と要支援2の夫婦である。

要介護1の3人からは、初めて介護サービスを利用する時に相談を受けた。勧めたのは訪問看護ステーションであった。それぞれの担当ケアマネジャー(介護支援専門員)のケアプランは、通所介護や訪問介護(ホームヘルパー)からなっていた。多くのケアマネジャーはデイサービス(通所介護)かデイケア(通所リハビリ)の通所サービスを、まず勧める。

送迎バスによるデイサービスとデイケアをご存じだと思う。訪問介護にはヘルパーが提供するサービスに掃除・洗濯・調理・買い物といった家事などの「生活援助」と、食事・排せつ・入浴の介助といった「身体介護」がある。

ケアマネジャーが通所サービス(デイサービス、デイケア)をまず勧めるのは、要介護者本人がサービス提供施設に出かけている間、介護者は休養できることと、要介護者が施設で入浴サービスを受けるので、自宅で入浴する必要が無くなり、介護者の負担が減るからである。

訪問介護はヘルパーという他人が自宅に入るので、本人も家族も抵抗感がある。大げさに言えばプライバシーをさらけ出すことになるからだ。まず、通所サービスに慣れてもらって、次に訪問介護や訪問リハビリ、短期入所、訪問看護等を勧めることが通常である。

訪問介護の生活援助を受けられる条件は、要支援1以上の認定を受け、原則として同居の家族がいないことである。ただし、特例の1つの「同居する家族がいても同居の家族も、要介護または要支援認定を受けている」に3組の夫婦は該当していたので問題はなかった。

後期高齢者を支える強い味方

後期高齢者になると、長年の持病、例えば高血圧や骨粗しょう症が引き金になって起こる併発症が起きやすい。高血圧と加齢による動脈硬化で、脳梗塞や心筋梗塞が併発しやすい。つまずいて転んだり、動脈硬化による立ちくらみで転倒し、骨粗しょう症があるため大腿(だいたい)骨頸部(けいぶ)骨折や脊椎の圧迫骨折で入院する場合が多い。経過よく退院できても、自宅でのリハビリを怠ると寝たきりになりやすい。

早朝や夜間に、本人自身や家族が持病の悪化や併発症の兆しに気づき、かかりつけ医に電話しようとも思っても、診察時間外で遠慮してしまう。後期高齢者の場合は、検査や治療が遅れてしまうと、取り返しがつかないときがある。

訪問看護を利用しておれば、事前に予防や起きたときの対応を指導してくれる。しかし、それでも緊急な場合には「緊急時訪問看護」というサービスがあり、電話連絡で夜間でも来てくれるし、電話相談ですむ場合もある。訪問看護ステーションは後期高齢者の在宅ケアを支えてくれる強い味方である。(高齢者サロン主宰)

《宍塚の里山》27 食べる・遊ぶ・作る 里山の収穫祭

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里山収穫祭 「作るコーナー」

【コラム・及川ひろみ】毎年11月第4日曜日(今年は25日)に開催する宍塚の「里山収穫祭」の日が近づいてきました。会にとって1年で一番大きな祭りです。

里山の田んぼで収穫したもち米(赤いもち米も)で餅をつき、里山で作った野菜を中心に大鍋で作る「ぬっぺ汁」(地元のおばあちゃんたちから教わった汁、だしはするめ、サトイモ、ごぼう、大根など野菜は1㌢角に切り、醤油の味がよく染みた逸品)、中高大学生たちが作るクルミ餅、大学芋、カボチャの蒸しパンなどが並ぶ「食べるコーナー」。

竹馬、地元の方に教わった「竹じゃらじゃら」「げんこ」(先を削った50㌢ほどの二股の木を地面に投げ、先に立てた相手のげんこをブッ飛ばす、男の子がはまるゲーム)やお手玉などの「遊ぶコーナー」。しめ縄や赤や青の木の実を飾ったクリスマスリース、木の実クラフトなど「作るコーナー」と、楽しみいっぱいの祭りです。

いぶし銀のような里山の紅葉が池を囲み、シベリアからやって来たたくさんのカモが大池で羽を休め、笛や太鼓、琴、尺八が里山にこだまし、ゆったりとした時の流れを感じるお祭りです。

自然の恵みを味わい 秋を堪能する

「ぬっぺ汁」は、野菜やするめの切り方や味の付け方など、すべてを地元のおばあちゃんたちから教わりました。味がいまいちだとダメ出しが4~5年続き、その後ようやく、これなら合格と太鼓判が出た逸品です。

食器は竹で作った椀(わん)や皿。中学生たちが作ります。遊びは地元の方のようにはうまくいきませんが、子どもは真剣。「げんこ」は毎年ヒーローが生まれます。作るに興じた親子の手には、色とりどりの思い出のリースやしめ縄、木の実細工の作品が握られ、誇らしげに映ります。

会では1990年3月、出入り自由の許可をいただいた林での下草刈りを開始し、5月、その林でクリタケの栽培を始めました。ホダ木からクリタケが収穫できるようになったのは1991年秋からで、収穫したクリタケやムラサキシメジなども入れたキノコ汁の会が収穫祭の前身です。

当時は、キノコ汁、山栗のおこわ、むかご飯がメニュー。60人ほどが楽しんだことが、当時の会報から読み取れます。

現在は、多い時には300人ほどが集まり、秋の収穫を喜び、自然の恵みを味わい、秋を堪能するひと時になっており、楽しみにされている方が大勢おられます。10時半ごろから、宍塚大池の堤防で始まります。(宍塚の自然と歴史の会代表)

▽スタッフ募集中: 一般参加費は1人300円。 スタッフ(8時集合)は参加費無料。

《ひょうたんの眼》11 明治の維新政府がつけた府県名

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「藩ヲ廃シ県ヲ置ク」明治4年(1871)7月14日に発せられた廃藩置県の詔。この時、全国で3府302県あった=国立公文書館デジタルアーカイブから(一部)

【コラム・高橋恵一】大化の改新で制定された国郡制が1000年以上続き、幕末まで68国で推移してきたが、明治新政府の廃藩置県により、明治4(1871)年7月14日、府県が登場し、明治9(1876)年までには、45府県にまとまり、その後、北海道と沖縄県が加わり、東京府が東京都になって、現在の47都道府県に至っている。

新しく制定された、府県は、府県域の中核になる町(都市)に府県庁を置き、原則、県庁所在地の地名を府県名にした。興味深いのは、この「原則」に当てはまらない府県名であり、県庁所在地である。

熊本県の県庁所在地は熊本市で、江戸時代の雄藩・細川家54万石の熊本城に政庁を置き、地域の政治経済の中心的な町の名称が県名になっている。大名の城は、旧藩の政庁としての機能をそなえていたので、県の事務所にするには都合がよかった。

地名は、そこに暮らす住民のアイディンティティでもあるが、その地域以外の人々に判ってもらう意味も大きいので、歴史や街の規模、地域の要衝であることが求められる。県名も同様なので、伝統的な政治経済の中核地、具体には幕藩時代の大きな城下町に県庁が置かれ、県の名前になるのが望ましい。熊本県はセオリー通りの県名、県庁所在地になった。

沖縄県を除く九州地方は、7県がそうなっており、中国地方も5県中4県、東北地方も、中部地方も同じ傾向だ。四国は、4県の内、高知県と徳島県の2県だが、愛媛県の松山市と香川県の高松市も大藩の城下町ではある。

幕府の権威を削ぐため意地悪

しかし、関東地方は、少し様相が違う。県庁所在地と県名が一致するのは千葉県のみ(平成になって、埼玉県が「さいたま市」になったが…)。群馬県、栃木県、茨城県は中核的な城下町、つまり大藩の政庁があった町に、県庁を置いたが、県庁所在地の都市名と県名が異なる(高崎と前橋の争いはひとまず置いて)。埼玉県の中核藩は川越、神奈川県は小田原、千葉県は佐倉だ。新興の横浜市が小田原にとって代わるのは了としても、佐倉と川越は、地域を代表する地名と実質的な政庁の地位を奪われたことになる。

徳川時代から薩長の明治政府になった時の権力闘争が、都道府県の名称、県庁の所在都市の制定に大きく影響した。恣意的に、行われた。徳川幕府の権威を削ぐために、意地悪な知恵を絞ったのだ。

四国の愛媛県はなぜ松山県ではなかったのか。香川県はなぜ高松県ではなかったのか。松山藩は、大譜代大名の松平氏、高松藩は水戸黄門につながる親藩だった。中国地方の島根県、松江藩も将軍家につながる親藩の松平家であった。

九州の有力藩であった小倉は、県庁どころか、もともとの藩領の豊前の国が分割されてしまった。長州の四境戦争で高杉晋作軍と戦火を交えたのが、小倉藩だった。

井伊直弼の彦根藩は、譜代大名最大の35万石から10万石も減らされた上、県庁は大津市になり、県名もいにしえの飛鳥時代を彷彿させる滋賀県になった。徳川時代を代表する金沢と名古屋は、県庁所在地であっても金沢県や名古屋県にはしなかった。

ちなみに、薩長土肥、長州の山口県、土佐の高知県、肥前の佐賀県、薩摩の鹿児島県は、典型的な県庁所在地と県名で推移しており、薩長に協力的だった広島藩、岡山藩、福岡藩、熊本藩などもすんなりとそのまま新制の県になっている。

もっとも、明治9年、10年は佐賀の乱と西南戦争の年であり、鹿児島県と佐賀県は、県域のまとめ方に時間がかかったようだが、最終的に対面を保った。

悪影響を残す恣意的な政治政策

半面、地域のプライドを傷つけられたのは、無理やり戊辰戦争に追いやられて敗れた会津藩を始めとする奥羽越列藩同盟の地方だ。早々と新政府軍に恭順の態度を取った秋田藩は、秋田市県庁の秋田県となったが、会津藩は、23万石から下北半島の斗南3万石に厳封され、県庁は3万石の福島藩の福島において福島県となった。県内には、会津若松の他にも、岩城平や二本松もあったが、とりわけ小藩の県庁所在地になった。

山形県には、上杉氏の米沢藩15万石と酒井氏の庄内藩17万石があったが、会津とともに強力な抵抗戦をした庄内藩と列藩同盟の代表格だった米沢を外し、5万石の山形に県庁を置き山形県となった。

列藩同盟の盟主で、戦闘を避け、何とか平和にまとめようとした伊達氏62万5千石の仙台藩は、28万石に厳封され、仙台に県庁は残ったが、県名は宮城県となった。同じく南部氏の盛岡藩も県庁は置かれたが、岩手県になり、弘前は、青森に県庁を置き、青森県になった。新潟県も、河合継之助の長岡藩ではなく、新潟市が県庁になった。

明治の府県制は、旧国60余州から新しい名称に衣替えしたもので、さらに地方の中心地まで移してしまった場合は、住民も戸惑ったに違いない。府県制を敷いても、旧国名を廃止したわけではなかったので、「神奈川県相模国三浦郡横須賀町」のような用い方もしたようで、古い文書には、よくある表記だ。

しかし、100年以上も経つと、慣れてしまい、今さら、水戸県、宇都宮県、松本県、姫路県と変えられても、混乱してしまいそうだが、当時の薩長閥の政府の傲慢さが鼻につく。その傲慢さは、現代まで続いているような錯覚に陥る昨今である。

政治政策の恣意的な施行は、後々まで悪影響を引きずる。地名だけでなく、あらゆる分野で、充分に先見性を磨く必要があり、政治や公務に携わる人には、厳しく求められるものだ。目先の安易な落としどころを選んで、得意になっている輩は、現代にこそ多いのではないか。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)

《くずかごの唄》26 小さな野鳥の巣 材料はビニールひも

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【コラム・奥井登美子】世界湖沼会議サテライト土浦メイン大会と同じ日に、環境展も行うことになった。環境展は13回目。土浦の自然を守る会は「秋を楽しむ」という大きなテーマを掲げて、松ぼっくりやどんぐりで、子供たちを対象に木の実を使ってアクセサリーづくりをやってきた。

今の子供たちはスマホのゲームに象徴されるように、春夏秋冬の季節の変化、まして木の実などにはあまり目を向けてくれない。

子供たちが木の実、草の実、落ち葉などにも目を向けてほしいと願って、女の子の欲しそうなどんぐりのネックレス、松ぼっくりでつくった鳥のキツツキなどを展示して、その場で、皆でわいわい言いながら作品づくりをやってきた。木の実の楽しさと面白さを、若い世代の人たちに知ってほしい。

私は犬の散歩をかねて亀城公園へ行き、環境展で使うどんぐりを拾ってくる。特に天然記念物の椎の木の下に落ちている小さな小さなどんぐりは、私の宝物だ。何しろ樹齢500年の老木が、子孫を残す目的で、ほんの少しだけ実を落とすのだからすごいと思う。

野獣が変わる 野鳥が変わる 魚も変わる

今年も10月20日、材料にする木の実を拾いに公園に行ってみた。椎の巨木の下に、どんぐりは2~3粒しか落ちていなかったけれど、鳥の巣がブランコの脇のところに落ちていた。モズかカワラヒワか、子供たちでにぎわう所だけに、子供が来ればすぐに踏まれてしまうに違いない。

私はそれを拾って、眺めて、仰天してしまった。口径6㌢、外口径12㌢、厚さ6~8㌢。小さな鳥の巣の材料が、わずかに箒(ほうき)の材料のような繊維が使われているが、それ以外はビニールの紐(ひも)、紐、紐。人工の紐ばかりでできている。

「野鳥の巣が、こんなに人工的になってしまったのですか」「今の若い人たちと、話が合わないけれど、鳥の世界も同じですね」「野獣が変わる。野鳥が変わる。魚も変わる。怖いですね」

たまたま私の所で会合を開いた日本山岳会の人、水郷水都全国会議の人たちに巣を見てもらった。みな口々に、小さな鳥の巣に象徴された野鳥の世界の変わり方をこわがっていた。(随筆家)

《土着通信部》25 常陽新聞アーカイブスの「墓守」

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土浦市真鍋2丁目にあった常陽新聞本社社屋(2013年撮影)

【コラム・相沢冬樹】なにゆえ90年前にさかのぼる土浦の新聞の話(本コラム23)を持ち出したかというと、2013年8月に廃刊となった日刊紙、常陽新聞のことを調べていたからだ。同紙の前身である「豆日刊土浦」は1948(昭和23)年11月1日に創刊されているから、存命ならばちょうど70歳の「古稀」に当たっていた。

なので、昔の記者仲間らに「同窓会」を催そうと呼びかけ、名簿整理などに着手したのが1年前、100人を超す名前が集まったが、連絡を取ると色よい返事はない。故人となったものも多く、この1年の間にも分かっただけで3人が鬼籍に入った。境遇はさまざまで、「死んだ子の年を数えるようなもの」という者の真情も分からないではなかった。

僕はといえば、「墓守」のような場所にいる。なぜか今の職場には、同紙のバックナンバーが金文字で銘の入った分厚いファイルに綴じられて百冊以上、書架に収まっている。同紙がまだ、「茨城日報」といっていた時代の1950(昭和25)年5月1日号に始まり、昭和30年代、40年代が抜けているものの、2007年3月30日号まである。

夕刊紙でタブロイド判だったという「豆日刊―」の創刊第1号は欠けている。紙齢でいうと353号から1953年末の1556号までの後、1972年の8330号にかけて空白があり、以降は2007年3月末の2万602号までがそろう。廃刊は2万2885号だったから、全号の約6割を読むことができる。マイクロフィルム化された同紙は土浦市立図書館で閲覧できるが、その初期の原典はこのバックナンバーに拠っている。

このアーカイブスのなかで仕事をするうち、僕は廃刊で散逸してしまった新聞社発行の書籍の収集も始めて、小冊子サイズの社史(1975年版)なども入手した。それらから、「豆日刊―」はのち「土浦新報」から「茨城日報」と改題、「茨城みやこ新聞」の合併により、初めて「常陽新聞」の名が世に出たのは1950年8月8日だと知った。

GHQ下、新興紙が続々創刊

戦前の日本は都道府県ごとに地方紙が占有する「一県一紙」体制であったが、戦後の民主化を進める連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は新聞及出版用紙割当委員会を設けた。新興紙に対して申請に応じて一律に用紙を割り当てたため、新興紙の創刊ラッシュを招いた。これは用紙の不足から一年足らずで打ち切られたが、その間180の新聞社に用紙が割り当てられ、約400社がふるい落とされた。かくして新聞紙は「権益」となった。貴重品で換金性まであった「紙」の横流し・闇取引の利権市場が各地に生まれたのである。

当時の新聞は、紙や燃料を持ってきた者、あるいは記事を書いたり広告を取ってきた者に、刷り上がった新聞を現物支給するスタイルだった。内外の情報、あるいは活字そのものに飢えていた地方の読者やスポンサーに、各自「紙」を売りさばいて生業とした。そんなビジネスモデルだった。

人口3万人台だった土浦でも、新聞発行は「雨後の竹の子状態」となり、なかで1紙だけ残ったのが常陽新聞だった。土浦・つくばの地域政策、霞ケ浦の水質問題などに健筆を揮(ふる)ったが、2度の経営破綻を経て、65年目に力尽きた。2013年の廃刊なら、戦後創刊の地方紙のなかでは命脈を永らえた方である。そして、新聞の世紀が終わろうとしている。(ブロガー)

《吾妻カガミ》44 クレオ問題は「地方政治」の好教材

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キャンパスの講義棟

【コラム・坂本栄】前回コラム=11月5日=では「クレオ問題」の総括(問題点の指摘とメディアの役割)をしましたが、その展開と結末が「地方政治」講義のよい教材になると思い、今回もこの問題を取り上げます。したがって末尾のカッコ内は、経済ジャーナリスト兼NEWSつくば理事長ではなく、大学講師になります。

市民意識と議員判断にズレ

事例研究の1は、市民の意識調査と議員の投票行動とのズレです。市はアンケート調査を2度行い、市がクレオ再生にコミットした方がよいかどうか、市民の考えを聞きました。その結果は、「市の関与」「市の計画」に賛成の市民が80%超だったと報告されました。

ところが市は、数度の議会全員協議会で「市の関与」「市の計画」「賛成多数」について説明したにもかかわらず(多分、非公式に説得工作をしたにもかかわらず)、「市の計画」について議員の50%超が反対する(議案が否決される)と読み、関連予算案提出を諦めました。

市民の反対は20%以下なのに、議員の反対は50%以上というわけです。このズレは何なのでしょうか。学生には、①市の調査に問題があった(だから議員は信用しなかった)②議員が市民世論を無視した(次の選挙を意識してリアルな判断をした)―これらの片方か両方が考えられると講義します。

さらに「議員=政治家は、平均的あるいは全体的な世論よりも、自分の支援グループ、支援エリア、もっと言えば、議員の何らかの利害を優先するもの」とも補足します。

問題意識を持ち施策を吟味

事例研究の2は、市当局が立案する施策の妥当性についてです。講義では「選挙権がある皆さんは、問題意識を持ってその内容を吟味、おかしな点があれば声を上げなさい」と政治参加を勧めます。

市のクレオ計画のポイントは、市の中心街区にマンションが建つのは好ましくないと判断、建設を阻止するために市が介入する―という組み立てでした。まちづくり会社=第3セクター方式については、成功と失敗の例を挙げ、公と民の関係はどうあるべきか学生に考えさせましょう。(往々にして公はリスクに鈍感とコメントすべきか…)

旧市街区(つくば駅周辺は旧市街区、研究学園駅周辺を新市街区と定義)にマンションが建つことの是非。これは分かりやすく、面白いテーマです。学生にとっては、格好の頭の体操になると思います。

私は議論に1つの視点を提供します。都市は、交通インフラの変化や当初デザインの劣化によって、その役割が変化します。街間競争の相手が出現すればなおさらです。ですから、一時代の姿の思い出(ノスタルジー)に耽(ふけ)ると対応を間違えます、と。「さあ、皆さん、どんどん、意見を出してください」。(大学兼任講師)

《郷土史あれこれ》13 天狗党の乱 信仰的攘夷と自覚的攘夷

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土浦市立博物館

【コラム・栗原亮】「後期水戸学」から出発した天狗党の乱が四分五裂になり、自滅していったことをもって、戦後歴史学では天狗党の評価は一般的には高くない。安政の大獄までは、少なくとも水戸藩は、全国の尊攘運動のリーダーとしての役割を十分にもっていたという評価である。

文久3年(1863)、長州藩尊攘派が朝廷を支配し、天下に号令を下すなど、長州藩尊攘派の力は朝廷を制するに至った。8月18日の政変で長州藩は朝敵となり、一時は薩摩藩と対立したが、慶応2年(1866)に薩長同盟を結び、維新回天の事業を成功させたこと、長州藩尊攘派が「攘夷」から「開国」へ転じたことをもって、戦後歴史学は長州藩尊攘派の動きを高く評価している。

これに対して、水戸藩では天狗党の蜂起を契機にして市川三左衛門らの保守門閥派が権力を握り、敦賀で天狗党が処刑などで処分されたことにより、水戸藩尊攘派は維新回天の事業を遂行することができなかったというのが一般的な見方である。水戸藩尊攘派は、歴史の流れから見れば、歴史に乗り遅れた古い尊攘派であるとする見方は正しいようにも見えるが、はたしてそういう見方でよいのだろうか。

水戸藩尊攘派が極めて原理主義的な考えを持っていたことは、確実である。市井三郎氏の「『明治維新』の哲学」(講談社現代新書、1967年)によれば、水戸藩尊攘派は「信仰的攘夷」であったとしている。確かに水戸尊攘派は敬幕的であり、討幕でなかったことは疑いない。

市井氏は、水戸学は新体制を作り出す「自覚的攘夷」には至らなかったと述べている。しかし歴史というものは単純ではなく、「信仰的攘夷」と「自覚的攘夷」の関係は、行きつ戻りつのジグザク行進(関係)であって、自覚的攘夷は信仰的攘夷を含みつつ展開していったのである。

市井氏のように、水戸学の偏狭性を指摘するのは間違いではないが、水戸の「地政学的」位置からいって、幕府を無視して水戸学がありえなかったように、長州藩尊攘派がその偏狭性を克服しえたのは、江戸から離れていたことや、四国連合艦隊との戦争で実際に攘夷を敢行することによって、実践の中で自覚的攘夷(政治性)を高めていったのである。

その意味で、後期水戸学のみが袋小路に陥っていったのは、何も水戸学に帰せられるばかりでなく、あらゆる哲学や学問にも言えることであり、常に具体的な状況の中で思考をすることを忘れると、イデオロギーと化してしまい、スターリン主義のような怪物に転化する場合もあるのである。(郷土史家)

《泳げる霞ヶ浦》12 世界湖沼会議 開催成功と課題

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第17回世界湖沼会議

【コラム・霞ヶ浦市民協会】長年の夢であった世界湖沼会議が10月、地元で開催されました。われわれの夢が実現しことは大変うれしく、準備に向けた苦労が報われた感じがします。

しかし、この会議には、一部の市民・県民しか関心がなく、残念です。日ごろより、地域の方々は「湖・霞ケ浦」への関心が薄く、関心が他県の観光地に向いているようです。

霞ケ浦に関心が向いていないことが、茨城が都道府県魅力ランキングで最下位になる一因ではないでしょうか。県民が県内の資源に関心を持たなくては、上位に入れません。

県民が「県民愛(ラブ)」を持つには何が必要でしょうか? そこが一番難しいことです。

郷土愛ポイントカードを創設したら?

ひとつの策として、「茨城『郷土愛』ポイントカード」の創設はどうでしょう。可能であれば、大手カード会社と提携したらでしょう。

あるいは、県、県内市町村と共同でカードを創設し、マイナンバーカードに取り込む案はどうでしょう。県内に在住している博学者が英知を出せば、実現可能と思います。

魅力度ランキングのほか、ボランティア活動についても、多分、茨城は後進県ではないでしょうか。悩みは尽きません。

これからも、県民に「霞ケ浦」に関心を持ってもらうために、アイデアを出して行きたいと思います。(霞ヶ浦市民協会 副理事長 和田哲男)

《続・気軽にSOS》25 巨人の肩の上から見ている

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【コラム・浅井和幸】文明の成り立ちだったり、科学の分野であったりで、「巨人の肩の上から見ている」というような表現をされることがあります。それは、先人の業績や研究などを巨人とたとえ、今いる自分がしていること、見えていることは、自分だけの手柄ではないのだという戒めになります。

最近のインターネットの発達で、いろいろなことが簡単に素早く調べることが出来るようになりました。そして、スマートフォンの発達で、さらに手軽に物事を調べることが出来るようになり、自分の知識か他人の知識かの境があいまいになり、それが加速度的に増えています。

情報網の開発が遅れている地域の人であったり、視覚・聴覚障害者などであったりの状況の中で情報を収集しにくいことを指して、情報格差がある、情報弱者であるという表現があります。しかし、昨今、巷(ちまた)で多く使われている、情報弱者、情報強者、ググレカスなどの言葉は、相手が自分より知識が少ないことを揶揄(やゆ)して使われます。

裏返せば、少々の情報を頭にとどめているかどうかで、相手より自分のほうが上であることを証明したという自尊心を持ちたいがための表現です。何かしらのコンプレックスを隠したいという、無意識の防御であり、防御するために相手を攻撃するという表現方法です。

これらのプライド、相手への攻撃は、自分にとっても危険なことです。自分よりも情報を持っていない人とばかり比較して、優越感に浸っている状況になります。

自分の力と錯覚 自分の力を過信

優越感に浸りたいだけだと自覚していればよいですが、ほとんどの場合、ちょっとした情報へのアクセスが、全て自分の力だと錯覚して、自分の力を過信してしまうのです。自分は有能、周りは無能と安心したい心理ですね。

何かの目的のために成長するのではなく、自分より情報を持たない人を見つけて攻撃をすることで、自分が素晴らしいと感じるという循環になっていきます。それは、自分より情報を持っている人、さらに情報処理をしている人には太刀打ちできなくなるのです。

私は、謙虚にいきましょうということではなく、事実、自分に出来ることとできないこと、そして相手の出来ることできないことを把握することが大切であると伝えたいのです。

自分よりも情報量が少なくても、別の部分で素晴らしい能力を持つのが、それぞれの人であると気付くことが、より豊かな人間関係をつくります。それは、自分の生き方も豊かになるということです。

自分が出来ていることは、今の周りの人や過去の人たち、ひいては環境、自然なども含めて自分があることのつながりを感じられることは、きっと次の豊かな生き方に繋がっていくことでしょう。(精神保健福祉士)

《映画探偵団》13 戦いはこれで終わったわけではない

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【コラム・冠木新市】私は驚いた。11月1日付「広報つくば」11月号の1面に、「周辺市街地のまちづくりが始まっています」と載っていたからだ。先月は、10月号が発行された7日後に、全8㌻のクレオ特集「臨時号」が出た。

クレオ購入計画の市民説明会の日程が発表され、3日間で、周辺地区の大穂、茎崎、市役所、筑波で開催されるとあった。さらに、ご意見募集ハガキが印刷されていて、10月16日必着とあった。緊急速報の慌ただしさであった。だから、11月号には続報が載ると想像していたが、どこにも出ていなかった。

私はまた驚いた。11月2日、五十嵐立青市長がクレオ購入を断念したとのニュースが流れたからだ。議会の承認が得られそうにないというのがその理由だった。計画発表から25日後である。8割の市民が賛成する中、当初から反対を表明していた私は、ホッとするよりも、割り切れない思いが残る結果となった。

計画に否定的な市議は、ビラでも作成しハッキリと意見を示すべきだった。様子見はいただけない。また、2年前に総合運動公園建設に反対の声を上げた市民たち(私も反対した)の声が上がらないのも不思議だった。運動公園とクレオ問題は異なるとも言うのだろうか。

クレオ調査費1500万円が消えた。建物調査以前に、クレオ・キュート・モグは一括売却という筑波都市整備の考えを明らかにしておけば、市民の賛成意見も変化しただろう。12月市議会で、今回の問題をどう総括するのか注目しよう。

などなど考えながら、改めて11月号を眺めたら別の思いが湧いた。1面の記事は、クレオ購入計画が決まることを前提に作られた記事ではないのかということだ。だから、次は周辺市街地の番ですとアピールしている。

クレオ計画発表とほぼ同時に、北条、小田、吉沼、大曽根、栄、上郷、谷田部、高見原の「8市街地合同勉強会」を開催したのも、計画を進めるリップサービスではなかったのか。そうした妄想で見ると、<実際に出たアイディアの例><地域共創プラットフォーム><地域共創コンペティション(仮称)の開催>の中で、何かの計画が進行中ではと疑いたくなる。

錦之助の『宮本武蔵/二刀流開眼』

映画とは大半が「リメーク」「シリーズ物」である。私が好きなシリーズ物に東映の『宮本武蔵』5部作(1961~1965)がある。内田吐夢監督が新人脚本家・鈴木尚之を起用し、主演の中村錦之助の成長に合わせ、1年1作で作り上げた。どっしりと腰を据えた制作手法は画面に重厚感を与えていた。

シリーズの第3作『宮本武蔵/二刀流開眼』で、武蔵は、京の名門・吉岡清十郎と対決し、木刀で相手の右腕の骨を砕き、あっさりと勝利する。敗北して門弟たちに抱えられて去る清十郎を見て、武蔵は言う。「俺は勝った。だが、戦いはこれで終わったわけではない。これからだ」と。

ひとつの出来事が終わると、すべてを忘れ去るのが日本人の特徴かも知れない。短期決戦ではなく、『宮本武蔵』シリーズの制作手法に学ぶべき点は多い。気軽に始めた『映画探偵団』の連載も1年が過ぎた。今後は、私も心を改めて真剣に取り組もう。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

《宍塚の里山》26 16年続く 大学生の「キャンエコ」活動

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「キャンエコ」の竹林整備

【コラム・及川ひろみ】法政大人間環境学部の学生が中心になり活動する、「キャンパスエコロジーサークル」(通称キャンエコ)が初めて宍塚に来たのは2002年10月のこと。里山は若者の体験の場であると、サークルに働きかけて実現しました。以来、毎月第4日曜、多い時には30~40人、少なくても10数人、雨や雪にも負けずにやって来ます。

彼らが希望する活動をあらかじめ確認しながら、多様なメニューが彼らを待っています。里山は自然と人が織りなしてきた歴史・文化的な環境です。地元を訪問して話を聞いたり、里山の知恵の再現にチャレンジしたり、活動は多様です。

宍塚由来の大豆「タノクロマメ」を育て、味噌作りも毎年のように行っていますが、最初のころは、まいた大豆が半分ぐらいウサギに食われ、自然の厳しさを体験したこともありました。かつて重要な燃料であった松の根。無駄なく、簡単に掘りあげる方法があると地元の方に聞き、指導を受けながら5本の根を掘り上げたこともありました。

また、蚕(かいこ)の繭(まゆ)をゆで、束ねたはけのような稲わらの先で、5~6個の繭の細い糸を手繰(く)り寄せ、1本の絹糸にして座繰りに巻き取る作業では、金色に輝く絹糸の束が仕上りました。

バイトも蹴って遠くから

宍塚には「キャンエコの森」と名づけた林がありますが、クヌギの植林をした当初は、ウサギに根元を食われ、育つのにずいぶん時間がかかりました。毎年6月彼らが中心になり下草刈りを行っています。

その林には、春、たくさんのジュウニヒトエの花が咲きます。毎月第4日曜がキャンエコの活動日です。10月28日には、ピッザ焼き体験(会にはピッザ釜があります)、外来魚釣り大会(堤防4か所、どの場所が釣れるか、分かれて活動)、果樹園でのミカンの木植え活動を行いました。この日は、法政大30、東京農業大1、キャンエコOB1、計32名が参加しました。

指導は、ピッザ名人と釣り名人の5会員が当たりました。キャンエコの日、昼は応援隊による「森のごちそう」が毎月ふるまわれます。アルバイトも蹴って遠方からやって来る学生たち。交通費の支援はできないけれど、せめておいしい昼を食べてほしいと用意しています。

定番と思われるカレーライスは出たことがありません。毎回、里山らしい工夫されたメニュー。この日はさわやか隊の活動日でもあるので、大勢で昼を楽しんでいます。(宍塚の自然と歴史の会代表)

《続・平熱日記》25 ちびた石鹸 大切に使われた証拠

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個展に出品した3作品

【コラム・斉藤裕之】お風呂では石鹸をお使いですか。我が家では長い間、ボディーソープを使っております。今では当たり前のような液体の石鹸。思い返せば、上京した折は小さな石鹸をカタカタいわせて銭湯に通いましたが、大学のラグビー部では練習後のシャワーに液体石鹸をすでに使っておりました。

そのころから、ほとんど固形石鹸を使ったことはないのに、突然、なぜかこの夏から風呂場にはモーモー石鹸が。特に文句もなく、あえてかみさんに理由を聞くこともなく、私の場合、どうせ坊主頭なのですから、液体だろうが個体だろうが関係なく、垂らすか擦り付けるかの違いだけで、要は泡立てばオッケー。毛穴がどうしたとか栄養がなんとか関係なし。

当たり前ですが、この石鹸、これが日々段々と小さくなる。ちびてくる。「ちびる」? 最近あまり使わないけど、 ググると「禿る」と出てくる。そうか、チビとかハゲと語源は同じか。結果、安心して下さい。「ちびる」は共通語です。

ちびた鉛筆や消しゴム、ちびた靴底。長年使われた箒(ほうき)もちびるし、研いでちびた包丁、ちびた歯ブラシなんてのもありますね。ちびるというのは何かの役に立って摩耗していくということでしょうが、つまり、ちびたものは大切に使われた証拠。「ちびる」には、そんなものに対する思いやりを感じます。

パリ時代 ちびた木炭で描画

さて話は変わって、先日終えた個展に出品してみた3作品。パリに留学していたころ、ベルリンの壁が壊れて東欧からどっと移民が流れてきた時代。セーヌ川を見下ろす国際芸術家村のアトリエで描いたドローイングです。

雲、舟、そして紙を貼り合わせたドローイング作品。ちびた木炭で描いた記憶があります。油画科の学生にとって、描画用木炭は身近な描画材であり、しかも高価なもの。お昼を我慢しても買ったものです。作品には「1993」という日付が記されています。25年前も今も、同じようなものを描き、同じように自問する日々。

それでちびた石鹸ですよ。これを真新しいモーモー石鹸に合体させて使うんですよ。お互い少しだけ緩くしてね。久しぶりにやってみました。昭和ってやつですかね。(画家)

《邑から日本を見る》27 環境自治体会議 なめがた会議

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環境自治体なめがた会議

【コラム・先﨑千尋】先月、茨城県で環境についての会議が2つ開かれた。1つはつくば市で5日間にわたって開かれた世界湖沼会議。50の国と地域から約4000人が参加した大イベントで、地元紙「茨城新聞」はその様子を大々的に報道した。もう1つは、16~17日に行方市で開かれた第26回環境自治体会議。こちらは17日付けのベタ記事だけだったので、多くの人はそのような会議が開かれたことすら知らないようだ。

環境自治体会議は、1992年にブラジルで開かれた国連主催の「地球サミット」と同じ年に北海道池田町で産声をあげ、会員自治体の所在地で開いてきた。「環境問題をグローバル(地球規模)で考え、ローカル(地域の実態に合わせた)に行動しよう」というのが目的だ。本県での開催は古河市、東海村に続いて3回目になる。

今回のテーマは「悠久なる『弐湖の國』の持続可能な地域づくり」。弐湖とは、行方市を囲む霞ケ浦と北浦のことを指す。初日の全体会議では、「流域・水系を意識した持続可能な地域づくり」について話し合われた。地元の鈴木周也市長は「霞ケ浦は流域が広く、農地からの堆肥、畜産の糞尿などによる汚濁された水の流入と生活排水などにより、湖の水質汚濁が進んでいる」と現状を訴えた。

そのために、行方市は「一斉清掃大作戦、レスキュー隊の湖岸清掃活動や、行政と児童生徒との環境学習などにより住民の関心を高め、水質浄化対策を講じている」と、対応策と今後の方向性を示した。

産業振興とよみがえる地域資源

午後は「水環境」「持続可能な開発のための教育」「産業振興とよみがえる地域資源」に分かれ、私は産業振興分科会の司会を務めた。

私の分科会では、行方市の農業に特化した報告を柱に議論した。旧鹿島・行方両郡は、戦前は陸の孤島と呼ばれ、産業は農業しかなく、それも生産性の低い品目しかなかった。それが戦後の経済成長とともに園芸畜産部門が急速に伸び、現在ではわが国有数の園芸地帯になっている。

本県は、鶏卵、甘藷、メロン、ハクサイ、ピーマン、干し芋、ミズナ、チンゲンサイなど全国1位の産出額を誇っている作目が多いが、その中心は鹿行地域だ。行方市はその一翼を担っており、なめがた農協甘藷部会は一昨年に日本農業賞、昨年には天皇杯を受賞し、名実ともに日本一になった。

今、農業の流行語は「6次産業化」。1次(農業)、2次(加工)、3次(流通販売)を掛け合わせ、6次と言っている。農産物に付加価値を付け、流通の収益も取り込もうというのが狙いで、6次産業化は農水省の目玉事業になっている。

行方市では、大学イモの生産販売で8割を占めている白ハト食品工業と連携し、甘藷の加工工場、直売所、体験・交流施設を一緒にした「なめがたファーマーズヴィレッジ」を3年前にオープンさせ、年間30万人近い人を呼び込んでいる。新しい雇用も生まれた。

人が住んでいるところにはなにかしら資源がある。それをどう活かすのか。「よそ者、バカ者、若者、女性」がマチづくりのキーワード。人が動くことからすべてが始まる。私は今回の会議でそのことを学んだ。(元瓜連町長)