【コラム・相沢冬樹】なにゆえ90年前にさかのぼる土浦の新聞の話(本コラム23)を持ち出したかというと、2013年8月に廃刊となった日刊紙、常陽新聞のことを調べていたからだ。同紙の前身である「豆日刊土浦」は1948(昭和23)年11月1日に創刊されているから、存命ならばちょうど70歳の「古稀」に当たっていた。

なので、昔の記者仲間らに「同窓会」を催そうと呼びかけ、名簿整理などに着手したのが1年前、100人を超す名前が集まったが、連絡を取ると色よい返事はない。故人となったものも多く、この1年の間にも分かっただけで3人が鬼籍に入った。境遇はさまざまで、「死んだ子の年を数えるようなもの」という者の真情も分からないではなかった。

僕はといえば、「墓守」のような場所にいる。なぜか今の職場には、同紙のバックナンバーが金文字で銘の入った分厚いファイルに綴じられて百冊以上、書架に収まっている。同紙がまだ、「茨城日報」といっていた時代の1950(昭和25)年5月1日号に始まり、昭和30年代、40年代が抜けているものの、2007年3月30日号まである。

夕刊紙でタブロイド判だったという「豆日刊―」の創刊第1号は欠けている。紙齢でいうと353号から1953年末の1556号までの後、1972年の8330号にかけて空白があり、以降は2007年3月末の2万602号までがそろう。廃刊は2万2885号だったから、全号の約6割を読むことができる。マイクロフィルム化された同紙は土浦市立図書館で閲覧できるが、その初期の原典はこのバックナンバーに拠っている。

このアーカイブスのなかで仕事をするうち、僕は廃刊で散逸してしまった新聞社発行の書籍の収集も始めて、小冊子サイズの社史(1975年版)なども入手した。それらから、「豆日刊―」はのち「土浦新報」から「茨城日報」と改題、「茨城みやこ新聞」の合併により、初めて「常陽新聞」の名が世に出たのは1950年8月8日だと知った。

GHQ下、新興紙が続々創刊

戦前の日本は都道府県ごとに地方紙が占有する「一県一紙」体制であったが、戦後の民主化を進める連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は新聞及出版用紙割当委員会を設けた。新興紙に対して申請に応じて一律に用紙を割り当てたため、新興紙の創刊ラッシュを招いた。これは用紙の不足から一年足らずで打ち切られたが、その間180の新聞社に用紙が割り当てられ、約400社がふるい落とされた。かくして新聞紙は「権益」となった。貴重品で換金性まであった「紙」の横流し・闇取引の利権市場が各地に生まれたのである。

当時の新聞は、紙や燃料を持ってきた者、あるいは記事を書いたり広告を取ってきた者に、刷り上がった新聞を現物支給するスタイルだった。内外の情報、あるいは活字そのものに飢えていた地方の読者やスポンサーに、各自「紙」を売りさばいて生業とした。そんなビジネスモデルだった。

人口3万人台だった土浦でも、新聞発行は「雨後の竹の子状態」となり、なかで1紙だけ残ったのが常陽新聞だった。土浦・つくばの地域政策、霞ケ浦の水質問題などに健筆を揮(ふる)ったが、2度の経営破綻を経て、65年目に力尽きた。2013年の廃刊なら、戦後創刊の地方紙のなかでは命脈を永らえた方である。そして、新聞の世紀が終わろうとしている。(ブロガー)