《ひょうたんの眼》11 明治の維新政府がつけた府県名

「藩ヲ廃シ県ヲ置ク」明治4年(1871)7月14日に発せられた廃藩置県の詔。この時、全国で3府302県あった=国立公文書館デジタルアーカイブから(一部)

【コラム・高橋恵一】大化の改新で制定された国郡制が1000年以上続き、幕末まで68国で推移してきたが、明治新政府の廃藩置県により、明治4(1871)年7月14日、府県が登場し、明治9(1876)年までには、45府県にまとまり、その後、北海道と沖縄県が加わり、東京府が東京都になって、現在の47都道府県に至っている。

新しく制定された、府県は、府県域の中核になる町(都市)に府県庁を置き、原則、県庁所在地の地名を府県名にした。興味深いのは、この「原則」に当てはまらない府県名であり、県庁所在地である。

熊本県の県庁所在地は熊本市で、江戸時代の雄藩・細川家54万石の熊本城に政庁を置き、地域の政治経済の中心的な町の名称が県名になっている。大名の城は、旧藩の政庁としての機能をそなえていたので、県の事務所にするには都合がよかった。

地名は、そこに暮らす住民のアイディンティティでもあるが、その地域以外の人々に判ってもらう意味も大きいので、歴史や街の規模、地域の要衝であることが求められる。県名も同様なので、伝統的な政治経済の中核地、具体には幕藩時代の大きな城下町に県庁が置かれ、県の名前になるのが望ましい。熊本県はセオリー通りの県名、県庁所在地になった。

沖縄県を除く九州地方は、7県がそうなっており、中国地方も5県中4県、東北地方も、中部地方も同じ傾向だ。四国は、4県の内、高知県と徳島県の2県だが、愛媛県の松山市と香川県の高松市も大藩の城下町ではある。

幕府の権威を削ぐため意地悪

しかし、関東地方は、少し様相が違う。県庁所在地と県名が一致するのは千葉県のみ(平成になって、埼玉県が「さいたま市」になったが…)。群馬県、栃木県、茨城県は中核的な城下町、つまり大藩の政庁があった町に、県庁を置いたが、県庁所在地の都市名と県名が異なる(高崎と前橋の争いはひとまず置いて)。埼玉県の中核藩は川越、神奈川県は小田原、千葉県は佐倉だ。新興の横浜市が小田原にとって代わるのは了としても、佐倉と川越は、地域を代表する地名と実質的な政庁の地位を奪われたことになる。

徳川時代から薩長の明治政府になった時の権力闘争が、都道府県の名称、県庁の所在都市の制定に大きく影響した。恣意的に、行われた。徳川幕府の権威を削ぐために、意地悪な知恵を絞ったのだ。

四国の愛媛県はなぜ松山県ではなかったのか。香川県はなぜ高松県ではなかったのか。松山藩は、大譜代大名の松平氏、高松藩は水戸黄門につながる親藩だった。中国地方の島根県、松江藩も将軍家につながる親藩の松平家であった。

九州の有力藩であった小倉は、県庁どころか、もともとの藩領の豊前の国が分割されてしまった。長州の四境戦争で高杉晋作軍と戦火を交えたのが、小倉藩だった。

井伊直弼の彦根藩は、譜代大名最大の35万石から10万石も減らされた上、県庁は大津市になり、県名もいにしえの飛鳥時代を彷彿させる滋賀県になった。徳川時代を代表する金沢と名古屋は、県庁所在地であっても金沢県や名古屋県にはしなかった。

ちなみに、薩長土肥、長州の山口県、土佐の高知県、肥前の佐賀県、薩摩の鹿児島県は、典型的な県庁所在地と県名で推移しており、薩長に協力的だった広島藩、岡山藩、福岡藩、熊本藩などもすんなりとそのまま新制の県になっている。

もっとも、明治9年、10年は佐賀の乱と西南戦争の年であり、鹿児島県と佐賀県は、県域のまとめ方に時間がかかったようだが、最終的に対面を保った。

悪影響を残す恣意的な政治政策

半面、地域のプライドを傷つけられたのは、無理やり戊辰戦争に追いやられて敗れた会津藩を始めとする奥羽越列藩同盟の地方だ。早々と新政府軍に恭順の態度を取った秋田藩は、秋田市県庁の秋田県となったが、会津藩は、23万石から下北半島の斗南3万石に厳封され、県庁は3万石の福島藩の福島において福島県となった。県内には、会津若松の他にも、岩城平や二本松もあったが、とりわけ小藩の県庁所在地になった。

山形県には、上杉氏の米沢藩15万石と酒井氏の庄内藩17万石があったが、会津とともに強力な抵抗戦をした庄内藩と列藩同盟の代表格だった米沢を外し、5万石の山形に県庁を置き山形県となった。

列藩同盟の盟主で、戦闘を避け、何とか平和にまとめようとした伊達氏62万5千石の仙台藩は、28万石に厳封され、仙台に県庁は残ったが、県名は宮城県となった。同じく南部氏の盛岡藩も県庁は置かれたが、岩手県になり、弘前は、青森に県庁を置き、青森県になった。新潟県も、河合継之助の長岡藩ではなく、新潟市が県庁になった。

明治の府県制は、旧国60余州から新しい名称に衣替えしたもので、さらに地方の中心地まで移してしまった場合は、住民も戸惑ったに違いない。府県制を敷いても、旧国名を廃止したわけではなかったので、「神奈川県相模国三浦郡横須賀町」のような用い方もしたようで、古い文書には、よくある表記だ。

しかし、100年以上も経つと、慣れてしまい、今さら、水戸県、宇都宮県、松本県、姫路県と変えられても、混乱してしまいそうだが、当時の薩長閥の政府の傲慢さが鼻につく。その傲慢さは、現代まで続いているような錯覚に陥る昨今である。

政治政策の恣意的な施行は、後々まで悪影響を引きずる。地名だけでなく、あらゆる分野で、充分に先見性を磨く必要があり、政治や公務に携わる人には、厳しく求められるものだ。目先の安易な落としどころを選んで、得意になっている輩は、現代にこそ多いのではないか。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)