火曜日, 4月 22, 2025
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《映画探偵団》18 りんりんロードと桜川

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【コラム・冠木新市】自転車によるまちおこしが、桜川市、つくば市、土浦市で進められている。3月30日には、サイクリング施設「りんりんポート土浦」が川口にオープン。「つくば霞ヶ浦りんりんロード」(180キロ)の拠点になる。しかし私には、旧筑波鉄道の岩瀬~土浦間の廃線跡地を活用した「つくばりんりんロード」(40キロ)の方がなじみ深い。

筑波鉄道は1918年に開業し1987年に廃業。廃業の年に誕生したつくば市と「りんりんロード」の歴史は重なる。また、ほぼ並行して流れる一級河川・桜川(63キロ)にも、まちおこしならぬ、村おこしの歴史が眠っている。

天保4年(1833)、旗本の川副氏から村おこしの依頼を受けた農政指導者の二宮尊徳は、常陸国真壁郡青木村の桜川を初めて視察する。桜川は両岸も水底も灰のような細かな砂のため、堤防が壊れ、水田は水没。どの家も耕作できず衣食に欠乏、破産して流浪の民となる者もいて荒廃していた。

二宮は村を訪れる前に名主の説明を聞き、荒廃は用水の科(とが)ではなく、苦労を嫌う村人の怠惰に起因すると見抜く。そして、大火事のもとになる茅を刈らせて買い取り、村の社寺や民家の屋根をふきかえ、村人の奮起を促した。

その後青木村に入り、堤防工事に着手、奇想天外な方法を用い、わずか10日間で青木堰(せき)を完成させた。

クリストファー・ノーラン監督の『バットマン』

私が二宮尊徳に興味を抱いたのは、父を亡くした40数年前、書店で偶然手にした本がきっかけである。それまでは、柴を背負い本を読む少年像から、小柄で善良な人物と思い込んでいた。

ところが実際は、身長182センチ、体重94キロとプロレスラー並の体格。また、一農民でありながら士分に取り立てられたため、村の再生では侍と百姓から組織的なイジメに遭っていた。無理もない。二宮は100~200年先を見据えた計画を練り、「小を積んで大を為す」の哲学で行動した。日本人離れした人物であったからだ。

二宮は各地から村おこしを頼まれ、何度も断るが、結局次々と引き受けたのは何故か。私は、二宮が少年のころ、小田原の酒匂川の洪水で田畑が流出、両親の病死、一家離散を経験しているからだと思う。

滅多に昔のことは語らなかったという二宮だが、両親のことに話が及んだときは、体を震わせ落涙したそうだ。二宮は災害や貧困に苦しむ村人の姿に、自分の少年時代を重ねていたのかもしれない。

そんな二宮尊徳とクリストファー・ノーラン監督の『バットマン』3部作(2005~2012)の主人公ブルース・ウェインの姿が重なる。ウェインは腐敗したゴッサム・シティーで好き勝手に振る舞う犯罪者や市民たち、そんなゴッサムを滅ぼそうとする影の同盟に対し、バットマンに変装して戦いを挑む。バットマンの原点は、暴漢によって両親を殺害されたブルースの少年時代のトラウマにあった。

「りんりんロード」をツーリングファッションで颯爽(さっそう)と走る人々は、バットマンを連想させる。彼らも少年少女のころ、両親の助けを借り自転車の乗り方を教わったことだろう。まちおこしとは、親が子を想い子が親に感謝する心から生まれてくるのに違いない。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

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《続・平熱日記》35 実家と有名人① 「まんぷく」の福田君

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【コラム・斉藤裕之】いよいよ山口の実家を処分するということになり、かみさんと帰省。実家は築45年の鉄筋コンクリート製ときたから、壊すにもチト厄介。しかし、何年か前には県内3位の地価となった便利な住宅地。上物があってもすぐに売れるとのこと。ここは親父の先見の明に素直に感謝して。

目的のひとつは、家業の名残として唯一残された活版印刷機の救出。何10年ぶりに見る黒々とした鋳物の雄姿。名刺やはがきを印刷する輪転機という代物。150キロはあろうかと思われる昭和の遺物を、弟と2人でなんとか軽トラに積み込みました。

大方のものはすでに処分してあったのですが、残された箪笥(たんす)の中や押し入れを最終チェック。母の花器や着物、父の蔵書など価値はわかりませんが、とりあえずさよなら。花や茶の湯を愛した母と物書きだった父。大工と絵描きになった息子たちのルーツをちょっぴり感じました。

結局、小さな段ボールひとつと、かみさんとの結婚式のアルバムをぎりぎりの判定で救出。これは、来たる長女の結婚式の折に家族で見て大笑いするためのネタです。

「コロンバン」のきれいなお姉さん

ところで、実家の2軒隣には「コロンバン」という大変流行っている喫茶店がありまして。話は私が中学生のときですから、かれこれ45年も前。そのころ、2階は2世帯ほどが暮らせるアパートとして貸しておりました。そのひとつに、このコロンバンの娘さんが住むことになりました。

とても若くきれいなお姉さんで英語を教えてくれるというので、中学の同級生数人が集まりました。おかげで、私は英語が好きになり成績もアップ。何を隠そう、そのときに机を並べて一緒に習っていたのが、「龍馬伝」「ヒーロー」や「まんぷく」で今や超売れっ子の脚本家・福田靖君。

記憶というのは面白いもので、弟が覚えているのは自宅にて坊主にしていた福田君。頭を半分刈ったところでバリカンが壊れてしまい、キカイダーのような頭でうちにバリカンを借りに来たそうで。私の中の福田君は勉強も運動もよくできるイケメンでした。

さて、片付けが一段落ついたところで、コロンバンでお茶にすることに。店内は相変わらずの満席。帰り際に、実家を手放す話をカウンターの中にいた先生の妹さんにすると、「姉は随分前、胃がんのため43の若さで亡くなりました」と。福田君の活躍の話やら先生の近況をお伺いできたらと思っていましたが…。

気を取り直して、車で30分の中国山地の山間にある弟の家まで。印刷機を小屋にしまうのが一苦労でしたが、電源を入れてみようとスイッチオン。「ガッチャン」とローラーが動いたときは、その重厚なアナログ感に弟と感動。実際に活版印刷を試みるかどうかは次世代に託すとして、とりあえずミッションコンプリート。(画家)

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《ON THE ROAD》1 春の雨と風の音 ゆったりとした時間

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石井康之さん

【コラム・石井康之】夜中に聞こえる雨音と風の音は、ゆっくりと春の訪れを感じさせる。2年ほど前から何度となく来ている荒川沖の知人の家は、居心地がよく、気が付くと月に何度か来るようになっている。東京の生活とは違い、ゆっくりと過ごせる時間は、何年か前まで、朝方までデザインをしていた私には考えられない自由な時間だ。

朝は鳥の声で目が覚め、竹林もあり、星もきれいだ。たまにはヤモリやフクロウも来る。最近もいろんなところを探索しているが、今回は土浦の駅前のことを私的な感想で話したい。

最近、最も気に入っているのが、土浦駅前の図書館である。1階の広々としたエントランスと圧迫感がまるでない各階の空間。ウッドデッキ風の階段は足にも優しく、とても歩きやすい。ちょっとしたコミュニティースペースといえる。

駅からは雨に当たらず、2階の入り口から出入りもできる。ギャラリーもあるし、晴れた日には小さなイベントが出来そうな屋上まである。先日まで、20世紀を代表する戦場カメラマン、ロバート・キャパの写真展もしていた。

この空間は待ち合わせ場所や打ち合わせ場所としても利用出来るだろう。白で統一され透明感があり、死角部分が少ないのもとてもよい。夕日もきれいだ。

土浦駅周辺のこと いろいろな提案

たまに旅行に行き、東京と同じような店や建物を見ると、見る気が薄れるときがある。仕事や休暇で海外に行ったときなども、同じように感じることがある。どこにいっても変わらない街並み。そこにはワクワクした気持ちが薄い。

図書館にプラスするとしたら、食事が出来るレストランやお茶が飲める場所があればよいと思う。地元で取れた地産地消的なものが並んだらどうだろうか? 牛久にあるワイナリーのようなレストランや、古くからある街で有名なレストランとか。

駅の1階部分にある大きなロードバイクショップも、素晴らしい空間だと思う。上の階には、ロードバイクも持ち込めるホテルも出来る予定だとか。

逆側の駅出口の先には、霞ケ浦のマリーナがある。毎週土曜日、マリーナ側の通路をマルシェにするのはどうだろうか? 地元直産の市場。霞ケ浦でのナイトクルーズはどうだろうか? 屋形船ぐらいの船の中で食事ができたらばと、妄想が進んでしまう。

駅前を見て必要だと感じるのは、案内標識の充実と主要経路のエスコートゾーン設置だ。誰が見てもわかりやすくすることは、とても大切ではないだろうか? ほかにも、駅前の壁に省エネを利用したプロジェクションマッピングを設置して案内表示するとか。(ファッションデザイナー)

【いしい やすゆき】ファッションデザイナー、オブジェアーティスト。桑沢デザイン研究所卒。1987年、パルコオブジェ展で「やまもと寛斎賞」受賞。97年より、東京コレクションのほか、パリ、ミラノ、ニューヨークで作品を発表。内外有名アーチストの衣装も手掛ける。東京デザイナーズウイークでオブジェ製作。建築雑誌で特集が組まれる。東京在住。

《邑から日本を見る》 37 元号狂騒曲のバカさ加減

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】いくらエイプリルフールだからといって、「改元祭」というバカ騒ぎ、空騒ぎがあっていいものだろうか。天皇が退位する、新しい元号に変える。それは事実だから、淡々と伝えればいいことだ。

しかし、1日のテレビ・ラジオは安倍官邸にメディアジャックされ、翌日の新聞はあの東京新聞も含めて1面はすべて新元号制定の記事で埋められた。2面以下にも、その説明、解説、座談会など「令和」オンパレード。高揚した安倍首相は記者会見だけでなく、あちこちのテレビ局に出演した。

私は、一連の動きを見ていて、安倍さんが天皇制、国家を私物化し、皇室を政治利用したと考えている。オレが決めたとアピールし、自分の政権浮揚につなげたいという安倍さんの思いだけが走り、報道機関はそのことをほぼ無批判に垂れ流し、「国民的イベント」の演出に力を貸した。

今回の元号は、1979年に成立した元号法に基づき、政府が決めた初の元号となった。元号法により、元号の決定権が天皇から政府に移された。政府が識者に依頼して挙げられた候補の中から、ノーベル賞受賞者、直木賞作家などの有識者の懇談会の意見を聞き、閣議を開き、衆参両院の正副議長からも意見聴取を行い、決定した。

しかし、これまでに伝えられる情報によれば、「令和」は選定作業が最終段階を迎えた3月中旬以降に候補名に追加されたという。安倍首相がこだわっていた国書由来にしたかったようだ。令和と決定したその日に談話を発表し、その後の記者会見でも、典拠、新元号選定、次の世代への呼びかけなど、どうみても安倍さんの「出来レース」であったとしか思えない。

令和の出典とされた万葉集の大伴旅人の序文は、中国古典の孫引きだという指摘もあり、それによれば、安倍政権とそっくりな不正と忖度官僚の跋扈を嘆いた中国の役人の言葉が元ネタだとか。何をかいわんやである。

私は原則として元号は使わない

米ニューヨークタイムス、英BBCなどは令和を「order and peace」と訳したそうだ。orderは命令という意味であり、両院の副議長からも「令は命令するという意。上から目線だ」と、不快感が出されたという。

私もこの言葉を聞いたとき、命令、号令、令達、政令、省令という言葉を思い浮かべた。令の字源は「人がひざまずいて神意を聴くさま」(大漢語林)だそうだ。和は争わないこと。お前たち国民は政府に楯突くな。安倍さんが、私たち国民にそう命令しているような気がしてならない。

私は原則として元号は使わない。モノを書く時に、「大正7年の人の年齢はいくつか、日本国憲法が施行されたのは昭和22年だが、何年前のことか」などを調べるのに、手帳にある年号・年齢・西暦早見表」を見て計算しなければならない。江戸時代以前のことだと、日本史年表を引っ張り出す。不便極まりないのだ。

そもそも、民主主義の国家であるわが国が、どうして天皇制に由来する元号を使うのか。元号は、もともとは中国で統治者が正しい時を人民に知らせることによって支配する正当性を示す政治的な道具だった。皇帝が人民の時間を支配するのだ。それが日本に渡来し、今日まで続いている。

今回、その是非を巡っての議論や国民の意見を聞くこともなかったことを考えると、この国は民主主義の国家ではない。私は安倍さんに私自身の時間を縛られたくない。私はそう考えている。こんなことを書くと不敬罪、反逆罪で捕まえられるかな。(元瓜連町長)

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《続・気軽にSOS》34 見えなくなる「リストカット」

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【コラム・浅井和幸】良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるという考え方は間違いだよ。まずい料理を作った人が悪人とは限らないし、がんになることは悪い人間だからではないよ、という文章を1年ほど前に書きました。

私たちは一つの原因が一つの結果に結びつくと単純化して考えやすいものです。ゲームは「悪者」だからと禁止したくなるし、いじめだけが原因で不登校になると考えたくなるし、陰口を言われている人は何か悪いことをした人だと決めつけたくなるものです。

自分とはそれほど関係ないことを単純化して考えることは、必要なことではあります。あまり関わりはないのですから、深く考えても時間の無駄で、もっと優先順位の高いことに時間も労力もかけた方がよいでしょう。

しかし、自分にとってかなり重要度、優先度が高い事柄も、原因と結果を1対1で単純に結びつけてしまいやすいものです。それが地域や国だったら大変なことですよね。

スズメとイナゴ オオカミとシカ

県内でも農作物が食い荒らされる獣害の問題があり、獣害対策サポーターを育成するなど対策が考えられています。ある国では、農作物がスズメに食べられ損害が出ることの対策として、スズメを大量に駆除しました。結果、今までスズメが食べていたイナゴなどの虫が大量発生し、農家は大打撃を受けることになり、海外からスズメを輸入することとなりました。

別の話では、オオカミを退治すれば、人間がシカを多く狩り食せると思ったけれど、シカに病気が蔓延し、減ってしまった例もあるそうです。オオカミは弱ったシカを食べていたようです。生態系は微妙なバランスで出来ているので、オオカミがいなくなりシカが増えすぎて困ることもありますから、難しい問題ですね。

トライアル・アンド・エラー

単純に原因と結果を決めつけると危険であるということですが、人間に話を戻すと、例えば、リストカット(自傷行為)。精神的なストレスや身体的な疲労が原因で、自傷を繰り返す例があります。とても痛々しいことで、すぐにやめさせたいと思うのが親心です。自分の子どもに「そんなことを2度とするな」と、怒ってしまいたくなる気持ちも分かります。

その後、パッと見た感じではリストカットをしなくなった様子で、親御さんは「やっぱり、きつくしかりつけて正解だった」と考えますが、実は見えにくい腕や足を切りつけているというケースもあります。

単純に考えちゃだめだと、身動き取れない状態になることはお勧めしませんが、それと同じぐらい、目の前で起きていることを受け入れずに、単純に考えての言動は危険です。物事がどのようなときに、自分がどのような言動をしたら、物事はどの様に変わったか、丁寧にみるようにすることが大切です。トライアル・アンド・エラーが大切ということです。(精神保健福祉士)

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《ことばのおはなし》8 金曜日5限と髭のおはなし

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【コラム・山口絹記】授業終わりのチャイムが鳴ると、先生が言った。「来週は山口さんに講義してもらいましょう」。最前列に座ったままノートをとっていた僕は、教壇に立つ先生を見上げながら、思わず「は?」と聞き返した。

10年以上前、私がまだ大学に入学したばかりの春のことである。

その講義は金曜日の5限にあった。講義初日、現れた先生は、ピシッとアイロンのかかったシャツに、ベージュのパンツとベスト、そして髭(ひげ)。教壇に立つと、懐中時計を取り出して机に置いた。

「この講義を受講しているのは残念ながら3人だけです。でも、ひとりでも聞いてくれる人がいるなら、僕は講義をしたいと思います」。先生はそう言った。

すぐに脱線して寄り道ばかりの講義に、僕は夢中になった。キリスト教、アメリカ史、農業、資本主義、戦争、讃美歌。質問をするたびに新しい世界が広がった。

ある日、先生が言った。「来週の先生はあなただ。今日の続きを、1時間講義してください」。僕は混乱しながら、閉館間際の図書館に走った。借りられるだけの本を借りて、必死に読みあさった。大学に入学して、まだレポートも書いたことがなかった僕が、レジュメをまとめ、講義の構成を考えた。

「知る」ことと「学ぶ」ことは違う

1週間後、僕は教壇に立った。調べたことの全てを教室にぶちまけながら、1時間講義をした。視線で先生に助けを求めても、先生は微笑むだけで何も言ってくれない。講義の内容はしっかりと調べてきたはずなのに、話が続かない。広がらない。いつもの先生の講義とは全く違う。しかし、原因がわからない。しどろもどろの1時間。受講者からの質問は1つもなかった。

僕がすっかりしょげて立ち尽くしていると、先生は言った。「いい講義でした。楽しかった。講義を受けたのは久々です」。僕は何も言えなかった。「講義をするって、意外と難しいでしょう? 知っているだけじゃ講義はできないんですよね。だから、僕も学び続けています」

僕は先生のことばに、頭をガツンと殴られた気がした。”知る”ことと”学ぶ”ことは違うのだ。19歳の僕は、そのことを、実感を伴って思い知らされた。

僕は、講義のための情報をかき集めていただけだったのだ。講義という課題を遂行するためだけに”知る”ことに必死になり、”学ぶ”ことを忘れていたのだ。質問がなかったのも当然だ。僕自身が問いを立てることもなく、情報を垂れ流していただけだったのだから。

僕はその講義で、大学生活初めてのレポートを書いた。先生は僕の書いたレポートを読んで、大学のレポートの書き方というものを一から教えてくれた。「すぐに書き直してください。再提出したものを評価しましょう」と先生は言いながら、少し楽しそうだった。

講義の成績はAだった。「Sはそう簡単にあげられませんからね」と先生は言った。

あれから10年以上たった。今でも先生とはたまに連絡を取る。私は学び続けている。これは恐らく、先生のせい、いや、おかげなのだ。(言語研究者)

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《光の図書館だより》17 新番組「つちうらカルちゃんねる」開始

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【コラム・入沢弘子】新元号「令和」の発表とともに新年度がスタートしました。4月は多くの方のライフステージが変わる、転機の月でもあるでしょう。昨年5月から毎週お届けしていた“世界初の公共図書館TV”「つちうら図書館ちゃんねる」も、本日4日放送分から「つちうらカルちゃんねる」にタイトルを変え、大幅リニューアルします。

新番組は、土浦市内にある4つの文化施設(市立博物館、考古資料館、市民ギャラリー、市立図書館)の企画展やイベントなどの情報をお届けするものです。自治体の文化施設が連携して情報番組を発信! ほかの市には例がない試みと思います。

市立博物館は土浦城址(亀城公園)に隣接する施設です。「霞ケ浦に育まれた人々のくらし」をテーマに、市の歴史と文化が季節ごとに入れ替えて展示されます。県内には鹿島神宮と市立博物館にしかない国宝工芸品の短刀のほか、重要文化財4口、重要美術品6口を含む土浦藩土屋家の刀剣83口が所蔵され、「大名土屋家の文化」コーナで順番に展示されます。

考古資料館は、国指定史跡上高津貝塚と共に構成され、5ヘクタールの広さ。上高津貝塚の出土品、武者塚古墳出土の国指定重要文化財、縄文時代の衣食住の様子、筑波山地域ジオパークの概要などが展示されています。貝塚は広大な芝生広場で、親子連れで楽しめます。

歴史と文化は土浦のプライスレスな魅力

市民ギャラリーは本格的な美術ギャラリー。市民が芸術に触れ、自分の作品を発表し、芸術文化活動を身近に感じてもらうための場所です。これまで、クロード・モネの作品を含む県近代美術館移動美術館や、ひと月で8000人超の来場者があった「ロバート・キャパ展」などの企画展がありました。現在は「アートとブックが出会う場所」を開催中です。

そして駅前の市立図書館ですが、まちのにぎわい創出も使命として開館してから本日4日で438日目。これまで78万人の方にお越しいただいた滞在型の図書館です。

歴史と文化は土浦のプライスレスな魅力。「つちうらカルちゃんねる」では、その魅力の一部を4館リレー形式でお伝えしていきます。ぜひご覧ください。(土浦市立図書館館長兼市民ギャラリー副館長)

「つちうら図書館ちゃんねる」を見るには:

・「Vチャンネルいばらき」(https://www.youtube.com/vchannelibaraki)にアクセス

・放送は毎週木曜日 午後3時から15分間

・Vチャンネルいばらき「サテライトスタジオ505」で公開放送

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《くずかごの唄》35 高齢者へ薬の飲み方説明会

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【コラム・奥井登美子】高齢になると、ほとんどの人が何かしらの薬を飲んでいるが、かかりつけの医者が勧める薬だから飲んでいるという人が多くて、薬の内容をよく理解して飲んでいる人は半分ぐらいしかいないと思う。

薬剤師会でも、薬の飲み方説明会を「ベストライフ事業」と名前をつけて、パンフレットなどを用意してくれている。

今は、「町内の老人会」というとしかられてしまう。どこの老人会も、洒落(しゃれ)たカタカナ用語のグループ名のついた会になってしまっているのだ。私は頼まれると、なぜかうれしくなって「薬の飲み方説明会」に、のこのこと出かけていく。その時、何年間も我が家の庭の水まきに使って、くたくたになったゴムホースを必ず持参する。

「これ、なんでしょう」「ゴムホース」「よれよれに折れてしまって、中に黒いゴミの粕(かす)がへばりついていますね。皆さん方の血管はもうこのゴムホースに近いのです」

皆、えっ、という顔をしてホースを見る。つかさず、昔、誰かからもらった「目詰まりした血管の模型」とすりかえて、血管の中にたまった汚れと、汚れのために狭くなってしまった血管を広げるのに、どんな努力が必要か。目で見た形で説明をしていく。

血圧降下剤は「24時間勤務」

「1日1回、血圧降下剤を飲んでいる人、この中にいますか」。はい、はい、ハイ。半分以上の人が手を上げる。

「このお薬は24時間勤務で、血液中の薬の濃度を一定にして、血管を広げて血圧を安定させているのです。12時間でやめたら困るでしょう。24時間勤務の仕掛けを、薬の錠剤の中につくらなければならないのです」

私は自分で創った錠剤の形の見本を広げてみせる。薬のコーティング。成分は同じでもコーティングの仕方によって、血液中の濃度が変わってしまうのだ。ジェネリックは成分が同じと宣伝しているけれど、コーティングの説明はしてくれない。私は「24時間勤務」の難しさを強調するしかない。(随筆家、薬剤師)

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《吾妻カガミ》53 コラムニスト昼食会を開きました

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レストランと学生食堂がある建物=筑波学院大学

【コラム・坂本栄】3月下旬、NEWSつくばの編集室がある筑波学院大内のレストラ ンで、コラムニスト昼食会を開きました。当サイトのコラム欄には、各方面で活躍している(していた)20氏に寄稿いただいております。サイトでは知っていてもお会いすることは希(まれ)ということで、ランチを伴にしながら懇談しました。

出席いただいたのは、高橋さん(元オークラフロンティアホテルつくば社長)、大島さん(筑波学院大学長)、堀越さん(弁護士)、冠木さん(脚本家)、浦本さん(弁護士)、川浪さん(イラストレーター)、山口さん(言語研究者)、広田さん(作家)、先崎さん(元瓜連町長)、浅井さん(精神保健福祉士)の10氏(プロフィールはコラムニスト紹介に掲載)。

各氏には、自己紹介のあと、コラムへの思いを話してもらいました。皆さんには、各氏のコラムの「バックグラウンド」を理解していただけたと思います。いずれシンポジウムとか講演会などをNEWSつくばが主催、読者とコラムニストの交流会を開くことも考えています。

J:COMにニュース・コンテンツを提供

昼食会では我々の当面のプランについても説明しました。以下、そのポイントを再録しておきます。

一昨年秋の発足から1年半。NEWSつくばはネット発信を軸としながら、地域の他メディアとの連携も図ってきました。例えば、FM放送「ラヂオつくば」、ネットテレビ「Vチャンネル茨城」の番組をサポートするために、スタッフライターが出向き、情報番組の解説や司会を担当しています。

こういった連携は、NPOメディアとして、地域紙で培った取材力・編集力を生かし、地域の情報環境づくりに貢献する―との方針に基づくものです。新年度からは、上記のメディアのほか、県南地域をカバーするケーブルテレビ局「J:COM茨城」の番組制作もお手伝いすることになりました。

具体的には、同局の「デイリーニュース」に、写真+活字+動画+音声で構成されるニュース・コンテンツを提供します。現在、5月スタートに向けて準備を進めています。本サイトの読者の皆さまは、J:COM茨城の「コミュニティ・チャンネル」のニュース番組もご覧になり、幾重にも地域の動きをチェックされることをお勧めします。

NEWSつくばはネット新聞(写真+活字)として発足しましたが、J:COM茨城との連携を機に、放送コンテンツ(+動画+音声)制作にもウイングを拡げます。つまり、取材力・編集力をエンジンとし、本サイトを主発信源としながら、放送メディアとの連携を進め、その表現の仕方を学び、ネットメディアとして発信力を強めます。

ネットの可能性については、本コラム25「新聞部数10年で2割減  10年後は?」(2018年219日掲載)でも触れました。チェックいただければと思います。(NEWSつくば理事長)

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《土着通信部》29 春の御座替祭から六所大祭へ 神の山の4月

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六所皇大神宮春の例祭「六所大祭」(昨年4月10日撮影=つくば市臼井)

【コラム・相沢冬樹】4月1日は筑波山神社の春の御座替(おざがわり)祭、昨年は11月1日の秋の御座替を前に宮司の解任騒ぎが広がる中での開催となったが、今回はどうか。本稿を書いている時点で、辞任した宮司の後任は決まっていない。

春と秋の御座替祭は筑波山最大のお祭りで、本宮と里宮との間で御神体を交換する。この春でいえば、男体山と女体山の本殿で神衣(かむい)を新しいものと取り替える衣替え神事の「神衣祭(かんみそさい)」が朝9時30分から始まり、神衣を乗せた神輿(みこし)が山を下り中腹の拝殿まで行列を組んで渡御する「神幸祭(じんこうさい)」が午後2時過ぎに行われる段取りである。

山登りの隊列は平安調の山吹色の装束に彩られ、神官や巫女(みこ)の立ち居振る舞いも古式ゆかしい、と言いたいところだが、この形式が定まったのはそんな昔のことではない。かつては夏至と冬至に行われたといい、明治の初めには里宮は別の神社にあった。

筑波山南麓の山中、つくば市臼井にある六所皇大神宮。今は神社ではない。山の斜面に沿う石段に2基の鳥居を構えているが、社殿はなく、神社跡地を整備した霊跡地ということである。かつてこの地に所在した六所神社は、神武天皇4年(紀元前657年!)創建と伝わる。

しかし、六所神社は明治政府の小社合祀(ごうし)の政策により廃社の憂き目にあった。やはり山麓の神郡地区にある蚕影(こかげ)神社に合祀となり、氏子の大半は筑波神社に編入され、明治の末には社殿などが壊された。霊跡縁起には「輪換の美を極めたる社殿を始め寶庫(ほうこ)随神門及び其他を破壊し遂に此畏(ここかしこ)き霊跡は荒廃に帰したり」と書かれている。

この惨状を見かねたのが大正時代、峰行(ほうぎょう)で筑波山を訪れた高木福太郎氏。立ち上げた宗教法人、奣照(おうしょう)修徳会で、霊跡地としての復興を提唱、整備保存活動を行うようになった。

復興整備は大正4年(1915)までに成就し、翌年から地元の六所集落と合同で春の例祭「六所大祭」が始まった。地元区長らは「受け入れがたい明治の廃社だったが、40戸ほどの集落ではどうにもならなかった。復興して100年続けてこれたのは修徳会のおかげと思っている」と感謝を述べる。今年も4月10日に六所大祭が行われ、全国から信者が集まる。翌11日、東京・田端の修徳会本部で行われるのが「神御衣祭(かんみそさい)」。御座替祭の原型がここにたどりついたというわけだ。

六所のいわれに二つの説

山自体が御神体の筑波山には神社が多い。筑波山神社の摂社になっている安座常(あざとこ)神社、小原木神社、渡神社、稲村神社の4柱に、男体山の筑波男大神、女体山の筑波女大神の2柱を加え、6柱を祭ったのが六所神社とされるが、これには異論もある。

六所大祭を執り行う青木宗道氏によれば、「大化改新のころ、ここに国府を置こうとしたことがあった。久慈、那珂、多賀、茨城、新治、筑波の6郡を治めることから、六所の名がついた」そうだ。とかく神様の山の人事は難しい。

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《制作ノート》5 生徒たちの共同制作 大きなモザイク壁画

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共同制作した絵画と壁画。松戸市立栗ヶ沢中のモザイク壁画㊨と設置場所=左下、つくばみらい市立伊奈東中の絵画=左上

【コラム・沼尻正芳】つくばみらい市の伊奈東中学校に大きな絵が飾られている。絵は、毎年、美術部の生徒たちが共同で制作している。その絵は学校や地域の楽しみにもなっている。作品完成までにはいろいろ苦労もあることだろう。

ずいぶん前の話だが、教師4年目で中学3年生を担任していたとき、大きなモザイク壁画を生徒たちと共同制作したことがある。

学校に、階段と壁を持つ立体的な門があった。全校生徒が通る校門で、階段下にコンクリートむき出しの大きな壁があった。壁が殺風景で何かほしい、生徒や学校を元気にする壁画があるといいなと思っていた。学年やPTAで卒業記念品が議題になったとき、「校門壁面に3年生全員で壁画をつくって、卒業記念品にしてはどうだろうか」と投げかけてみた。会議の中で「構想の原案づくり」を任された。

生徒たちにも授業の中で聞いてみた。3年生は8学級、346人いたが、反応は様々だった。「チャレンジするなら、沢山の課題を乗り越える覚悟が必要だ。学年が一つにならないとできない。君たちにそれができるだろうか」。生徒たちは、徐々に意欲を見せ始めた。

その構想案を、学年会議やPTA会議、職員会議で提案した。「本当にできるのか」。不安や疑問、反対もあったが、最終的に承認された。「これは学年の、いや学校のチャレンジだ」。壁画の原画制作を3学年美術の夏休み宿題にし、本気で取り組むように呼びかけた。

2学期が始まり、授業で1人1人が原画を発表した。学級代表の原画を選び、学年40点が壁画の原画候補になった。それを校内に展示し、全員で審査投票、1枚の原画(S君のもの)を選んだ。そのテーマは「求める」だった。

「人は何かを求めなければならない。誰でも何かをほしがらなければと思う。常に何かを求めてやまない。僕はそんな人間を描いた」と、テーマ設定の理由に書かれていた。その原画の構成や配色を、学級の各班でさらに検討、吟味した。S君の原画は学年全員共同制作壁画の原画になった。

学校や地域に生かされる美術作品

10月に入って、実行委員会を組織した。実行委員が原画を原寸大(3メートル×3.5メートル)に拡大した。その上に、学級ごと全員で本格グラスモザイクタイルを置いていった。授業が進むにつれ、タイルの割り方、置き方に工夫がでてきた。次第に、配色も点描画のように彩りが豊かになってきた。

出来上がったタイルの上に紙を貼り、それをブロックに分割して校門に運んだ。保護者が組んでくれた足場に上り、タイルブロックを接着剤で固定した。タイルに貼った紙をはがし、タイルが落ちたところは一つ一つはめ込んだ。隙間を目地セメントで埋め、最後にモザイク壁画を全員で磨き上げた。卒業記念共同制作モザイク壁画はついに完成した。

受験期の3年生346人が、不安や困難を乗り越えて卒業記念品を完成させた。完成までの6カ月、学年が一つになった。生徒たちは、協力と団結力を手にした。PTAも先生たちも不安だっただろうが、見守り、応援してくれた。この体験は心に残り、一つの感動を生んだ。時代も教育も変わり、今このような共同制作の授業は不可能になった。

モザイク壁画は松戸市の栗ヶ沢中学校にある。先日それを見に行ってきた。校門は古くなり傷んでいたが、43年を経た壁画は健在だった。

共同制作は簡単にはできない。伊奈東中学校の大きな絵も生徒たちが共同で制作している。それが学校の伝統になってきた。作品は校舎を彩り、学校に潤いを持たせている。このような作品や活動が大切にされる学校は心豊かな学校だと思う。学校や地域や生活の中に美術の作品や活動が生かされ、それが大切にされることを願っている。(画家)

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《ひょうたんの眼》14 人口減少をゆとりの生活へ

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3月のボケの花

【コラム・高橋恵一】統一地方選挙だ。市長候補者や町会議員候補者は、人口減少の危機を訴えて、少子化を転じる施策や、町のにぎわい策を掲げるが、日本全体で、長期的に減るのだから、限りある食料を奪い合うようなものだ。

日本の人口は、2010年に既にピーク(1億2806万人)を過ぎて減少に転じ、2029年に1億2000万人を切り、46年後の2065年に8808万人、2100年は4771万人と推計されている。さらに激減して、2200年を850万人とする予測値もある。

一方、国連推計の日本人口は、2065年が9954万人、2100年が8453万人。地球人口は、2010年の69億人が、2100年には91億人になるとしている。国連では、その後200年の間に安定期になり、2300年の地球人口を90億人、日本も1億人で大台を回復すると推計している。

人口減少を嘆く人たちには、団塊の世代から文句がある。幼いときは、食料不足と子沢山で迷惑がられ、就職すると高度成長期で、まさに企業戦士として働き、退職したら、100年安心年金なんて嘘。超高齢化と社会保障、介護と医療など、「問題」と「対策」のオンパレードだ。

人口の年齢構成の偏(かたよ)りで、生産年齢人口比率が高く続く時代を「人口のボーナス期」というが、日本は、この「富」を蓄積すべき時代を、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどと浮かれ、浪費に費やしてしまった。

膨大な国債のために、社会保障改革などという言葉でごまかして、社会保障費を削減する「改悪」をしそうだ。国家の財政破綻を放ってはおけないが、全ての国民の安寧(あんねい)を保証できないのであれば、何のための政治であり、なんのための国家なのだ。

人口減を異常に心配するな

人口減少対策として、子どもを増やそうとするのが少子化対策だ。動機が不純過ぎないか。かつて、戦争中に多くの若者を出征させ、補充のため「産めよ、増やせよ」と言ったが、物資不足で、育児の人手もなく、敵の攻撃の危険さえもある時だった。今の時代と同じではないか。生まれてくる人や、産み育てる人が優先されていない。

人口減少を異常に心配する必要はない。人口1億なら、1億人の総力で1億人が暮らせる稼ぎをすればよい。8000万人で1億3000万人分の稼ぎをしなくてはならないと考えるから、無理が出る。人口が半分になったら、銀行もデパートも半分にすればよい。売り上げが半分になるのだから、従業員も半分。応募者も半分になる。需要が減るのだから、供給も減らさなければ、バランスが取れない。

社長が半数になっても、人口における社長数の割合は変わらない。狭いといわれる日本の国土は、人口密度が半分になって、住宅の1軒当たりの敷地面積が広くなり、駐車場料金も下がり、道路渋滞もなくなる。人口減少は、何10年もかかって変化するのだから、じっくり取り組めばよい。

人口や面積の大きさを競うのではなく、1人1人の国民生活の豊かさ、幸せ度を誇れる地域づくり、国造りに、政治家も、学者も、マスコミも知恵を絞るべきだ。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)

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《世界に生きる》6 外国人となり痛みが解る

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筑波学院大学

【コラム・大島愼子イチローの引退会見はさすがに名言がたくさんあったが、「外国人になって人の痛みを想像できるようになった」という言葉が特に印象に残った。

偉大な野球選手と自分を比べるのは恐縮であるが、私が初めて外国人になったのは19歳のとき、アメリカでの留学生活である。60年代後半であるから、敗戦国から来た可哀そうな日本人には親切にしようという、慈善に近い対応を受けた。

「日本人はパンを食べるのか?」などと聞かれることもある。我々にはアメリカの情報は沢山あったが、私が生活した中西部のアメリカ人には、日本はまったく知られていなかった。

次に外国人になったのは、ドイツの航空会社に勤務してからである。フランクフルトの街を歩くと、「看護婦か?」とよく聞かれた。70年代には韓国が渡航自由化されていなかったため、多くの韓国人女性が看護婦の資格で西ドイツの病院に勤務していたからである。

当時の西ドイツはすでに労働人口が減少しており、トルコやアラブから労働者が流入していた。フランスの街を歩くと、「中国人か?」と声をかけられたものである。しかしこれは単に周囲の人たちが好奇心をもって声をかけてきているだけで、外国人として差別されたというわけではない。

国籍で考えさせられたことは多い

外国企業に勤務していても、国籍で差別されたことはないが、考えさせられたことは多い。例えば、80年代後半に世界規模で支社の代表が集まる国際会議がハンブルクで開催され、ドイツ有数の企業トップの講演が行われた。

ドレスナー銀行の頭取は、世界のベスト20の銀行ランクに日本の銀行が多数入っていることは由々しき事態だ、と話した。BMWの副社長は、日本で車を販売するときは、高額にしてサンルーフやオーデイオなどすべて搭載しないと売れないと話した。ドイツでは車は移動手段であるから、ごくシンプルな装備で、他の機能はオプションであるから、マーケットの違いを話したわけであるが、両者の発言が日本に好意的なものとは思えなかった。

1000名近くのドイツ企業の従業員を集めての会議であるから、講演者は、そこに日本人がいるなどとは考えもしなかったであろう。だが、私の席の近くの人たちは私の国籍がわかっていたので、「ドイツ語はニュアンスが難しいので悪口のように聞こえたかもしれないが、別に悪意はない」などと解説するので、ますます苦々しい発言なのだと確信したくらいである。

外国人という表現で最も印象に残っているのは、90年代にドイツでネオナチがトルコ人を迫害した事件のときである。ルフトハンザドイツ航空は、その行為を批判し、「我々航空会社は世界中の地域で外国人である。その地域の協力を得てサービスしている。ドイツ国内で外国人に被害を与えることは断じて許さない」という内容の広告を展開した。イチローの発言は、これに通じるものなのだろうか。(筑波学院大学長)

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《続・平熱日記》34 キャッシュレス? ビットコイン?

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【コラム・斉藤裕之】随分前、友人がJRの特急券をスマホじゃないと買えないとか苦労したとか言っていたが、知らないうちに世の中がキャッシュレスの方向に向かっているといいますか、外堀を埋められているといいますか。カードやスマホでの決済が当たり前の時代になっています。

さて、まれに語感の似た言葉があって、例えば英語の「bit」と「ちょびっと」あるいは「ちびっと」かな。そして、よくわからないのがビットコイン。

特にわかろうとも思っていないのですが、仮想通貨と訳されるのはお金? そして長らく新聞を読んでいますが、一切目を通したことがないのが株式ページ。私の人生にほんのわずかでも関わらない「投資」や「株」という言葉。

どうやら、世界のお金は私が知る由(よし)もないところで、誰かがぐるぐる回しているようです。年金で株の運用とか。とにかく、汗水流して働かなくても金が儲かるとか、まさに仮想空間での金のやり取りはいかがなものか。先日も年寄り相手の投資詐欺なんかありましたが、若い人向けの「ニーサ」とかよくわかんないけど、どうなんでしょうか。

キャッシュレスな私

思い出すのは、こたつの天板の上で10円玉や100円玉を10枚ずつ重ねて並べる風景。日々の生活でたまる小銭なのでしょう。親父の号令でおもむろに始まる儀式? 結構な量の小銭を私と弟が並べる係で、合計額がわかると「ご苦労」という感じで片付けられます。恐らく、通帳へコツコツと積み立てられたのでしょう。子供ながらに、とてもリアルにお金を感じる瞬間。

今はレジで財布に指を突っ込み、小銭を一つずつ取り出すシニアに、「はよせー」と心の中で呟く私ですが、お釣りを計算したり、小銭をつまみ出すというのは、ボケ防止にもなるのかと。家のバリアフリーと一緒で、段差がある方が足腰を使うのと同じ理論。

そもそも、小銭入れの必要性を初めて感じたのは消費税なるものができてから。うまいこと貧乏人から税金を巻き上げるシステムにならされてしまいましたが、いつのまにか今度はカード入れが必要になって、ここにきて小銭入れさえも必要なくなる?

増税分の消費税をポイントで還元? これまた、うまいことやられている感があります。来るキャッシュレス時代。コンビニで「カードは大丈夫ですか」って聞かれるたびに、その奇妙な日本語とポイント、カード制度に苛立つ私。もともと金など持ってないキャッシュレスな私だからでしょうか。(画家)

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《邑から日本を見る》36 東海第2の再稼働判断は住民投票で

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】「日本原子力発電東海第2発電所の再稼働は住民投票によって判断すべき、避難計画の策定は困難」。茨城大学人文社会科学部の渋谷敦史教授らの調査グループは先月、「地域社会と原子力に関するアンケート2018」の結果を公表した。

同グループは、東京電力福島第1原発の事故前の2010年から、東海村、日立市、ひたちなか市、那珂市の住民を対象にこのアンケートを実施してきており、昨年12月に実施した結果をまとめたもの。対象者は4,000人、有効回答率は24%だった。

これによると、原子力施設に対する安心度は、「安心、まあ安心」が24%、「不安、少し不安」が65%と、3分の2は不安を抱いている。東海第2の再稼働については、「なるべく早く再稼働」8.8%、「地震・津波などに備えた耐震・防潮対策を徹底するまで運転再開するべきでない」28.1%、「再稼働は凍結し、東海第2原発の今後について地域で白紙から議論すべき」8.1%、「現在の老朽化した原子炉に代わる新型炉を新設する」6.7%、「運転を停止したまま廃炉に向けて準備し、原子炉の新増設はしない」45.9%であった。

東海第2の20年延長については、「危険はない」「保守点検を適切に行い、慎重に運転すれば危険はない」が合わせて3割、「保守点検を適切に行い、慎重に運転しても危険がある」が60%という結果だった。

廃炉を求める声が多数-茨大調査

この2つから、東海第2の廃炉を求める声がこれまでの調査と同じく、最大多数の意見となっていることがわかる。那珂市では廃炉を求める意見が2年前より8%増え、東海村でも慎重に運転しても危険という意見が53%と半数を超え、ひたちなか市では67%と3分の2に達している。

東海第2の再稼働については、昨年3月に地元6市村と新協定を結び、地元自治体の同意、事前了解が必要になった。その判断についてアンケートでは、「首長の判断」5%、「議会と首長の判断」10%、「住民投票と住民アンケート」49.4%、「県民投票」24.3%と、住民・県民が直接意思表示する方法を望む人が7割を超えていることが分かった。

原発事故が発生した時を想定した避難計画については、「十分可能」が20.9%、「かなり難しい」が59.4%で、多くの人は、市町村による避難計画の策定は難しいと考えている。2016年以降、東海村をはじめとして避難計画策定作業が目標通りに進んでいないことが背景にあろう。

自由意見でも、避難計画策定よりも、避難の必要性を生み出すような原発を止めるべき、廃炉にすべき、という意見がかなり出されている。「福島第1原発事故の問題が解決していないのに、さらに原発を再稼働させることが信じられない」「避難計画を考慮しなければならない危険があるのなら、再稼働はすべきではない」など。

このほか、調査結果から、専門家や国、裁判所の判断は信用できないなど興味深い結果が読み取れる。この内容は、同大人文社会科学部市民共創教育研究センターのホームページで公開されている。(元瓜連町長)

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《食う寝る宇宙》34 宇宙で腰痛は治るのか?

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【コラム・玉置晋】大学院も一段落し、仕事もどういうわけか長期休暇だし、「さあ、どうしたものか?」と思った矢先、腰をやられました。これまで、基本、パソコンの前での座り仕事で、トイレに行く以外は立たない生活でした。さらに、最近は修士論文の作成にかまけて、ジムに行くのもサボっておりました。僕の腹筋、背筋は弱っていたのですね。

「ぐうぁ!」という何だかよくわからない、うめき声を上げて、崩れ落ちる僕。修士論文では、宇宙天気に対する社会インフラの脆弱性を訴えていたのですが、脆弱なのは僕の腰でした。

奥さんは出勤してしまったし、家には僕とワンコ2匹。ワンコたちは主人の窮地に何をしたかというと、顔をベロベロなめてくれました。「お願い、今はヤメテ!」。トイレに行くにもはっていく有様で、手すりに寄りかかりどうにか立ち上がると、「ああ、僕の質量に重力加速度=9.8m/s2がかかっているのね」と、重力に魂を縛られていることを痛感します。

僕は今週のコラムのネタを考えようにも、頭の中には腰痛しか思い浮かばない有様です。重力がなければ、僕は幸せなのだろうか。調べてみると、そうでもないらしいです。JAXAのホームページによると、「宇宙では椎間板が膨らみ座高が伸びるため脊椎や馬尾が伸展され腰痛が発生する」(古川聡宇宙飛行士の「宇宙医学にチャレンジ!」)とあります。

さらに骨や筋肉が衰えますので、地球に帰還したときは腰痛がさらに悪化するそうで、宇宙に逃げても僕は幸せにはなれないらしいです。

宇宙天気データをみるのが僕の日課

仕方がないので、布団に寝ながら日課である宇宙天気のデータをみていると、久しぶりに太陽フレアが起きていることに気づきました。3月8日のお昼ごろ、爆発の規模は小さかったのですが、ガスの塊「CME:コロナ質量放出」が地球に飛んでくる厄介なタイプ。

念のため、近しい衛星運用の関係者に知らせしました。とはいっても、彼らにできることはほとんどないことも知っています。でも、トラブルが発生した場合の要因分析のためには重要な情報となります。

ガスの塊は3月12日の夕方、地球周辺に到達しました。幸い、今回は嵐にはならなかったようです。ガスの塊がやってくるまで、影響が大きいのか小さいのかよくわからないし、腰痛も簡単には治らないのが、21世紀初頭の脆(ぜい)弱な人類のレベルなのです。とりあえず、腰痛が落ち着いたら、またジムに通おうと思います。(宇宙天気防災研究者)

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《地域包括ケア》32 自己健康管理のための介護予防サロン

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つくば市内で開かれている在宅介護者支援カフェの様子

【コラム・室生勝】私が主宰する高齢者サロンは来月には5年目に入る。この1年間の参加者は60名を越すが、月2回以上の常連は43名である。男性12名、女性31名で、60代3名、70代19名、80代21名、90代1名。ボランティアは臨床心理士1名(50代女性)、ピアノ伴奏者2名(50代、70代)である。

一昨年5月のコラムに介護予防のことを書いたが、このサロンは、自己健康管理を主目的とした介護予防サロンであり、社協の「ふれあいサロン」と少し異なる。高齢者(特に後期高齢者)の健康管理は、青壮年層の月単位の健康チェックとは違い、週単位のチェックが必要である。

精神的健康管理も支えている。1年前からサロンに参加した臨床心理士と世話人7人の中の民生委員2人が主になって、悩んでいる人の相談相手になっている。精神的負担を抱えてサロンに来て救われた人も手伝っている。関わる人たちは悩める人の個人情報を漏らさぬよう心がけている。

身体的健康管理については、高齢者の内科疾患を繰り返し学んでいるが、整形外科疾患は脊椎・関節・筋肉の障害の学習だけでなく、参加者個々の身体状況に応じた運動指導も心がけている。最期を迎えるまで下半身の力を維持したい。来年度からは運動指導のボランティアの手を借りるつもりだ。

同郷・方言は「癒やし」の力に

この3カ月間は、寒さだけでなく、インフルエンザを恐れて外出を控えた人が多かった。その結果、閉じこもり気味になり、運動不足で食欲低下と睡眠不良をきたす人があった。後期高齢者では、これらの状態からフレイル(虚弱)に陥りやすい。閉じこもり(うつ状態)→食欲低下→体重減少→下肢筋力低下→運動不足→閉じこもり→食欲低下と、悪い方へ渦巻き状に進みやすい。

寒くてもサロンに来ていた90歳代の1人暮らしの女性Mさん(息子夫婦世帯が市内在住)がいる。サロンではよくおしゃべりし、私が体調を訊(き)いても、「おかげさまで何とか生活していますよ」と笑顔で答えた。しかし家に帰れば、ボランティアの臨床心理士に寂しいと電話をかけていた。

担当民生委員に時々の訪問を依頼したが、2~3週間ごとでは寂しさは癒やされなかったようだ。3月半ばに、私が親しくしている40歳代男性の鍼灸マッサージ師KさんがMさんの隣接県出身であるので、時々訪問してくれないかと頼んでみた。Mさんに方言の癒(い)やし効果を期待したからである。故郷と決別した高齢者には、方言が大きな力を発揮することを30年前に経験している。

Kさんは早速、Mさんに私から依頼があったと電話をかけ、自己紹介後に「Mさんは僕の大叔母と同姓同名です。漢字は違うかもしれませんが」と方言で話したところ、快活な声で返事してくれたと報告があった。Mさんに電話でKさんの感想を聞いたところ、近々会うのを楽しみにしていると喜んでいた。

後期高齢者にはサロン以外の日常的な支えが必要である。1人暮らしや高齢者だけの世帯には担当の民生委員がいるので、地域の民生委員にはサロン見学をお願いしている。これからは、介護保険サービスを利用している高齢者については、担当ケアマネジャー、主治医、サービス提供者たちと連携していきたい。(高齢者サロン主宰)

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《宍塚の里山》35 宍塚大豆を栽培・加工するクラブ

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野良クラブの大豆畑

【コラム・及川ひろみ】「宍塚にはうまい大豆『タノクロマメ』がある、食いに来るか」の言葉に、地元のAさんを訪ねたのは2002年のこと。手のひらに載せられた煮豆は普通の大豆より一回り大きく、口にするとほんのり甘く、確かにうまい。

だだちゃ豆など、その土地その土地でおいしい大豆はあるが、この大豆も引けを取らないおいしさで、宍塚の特産にしたいほど。栽培に必要な量をAさんにいただき、グループ「野良クラブ」を立ち上げ、宍塚特産大豆の栽培を開始しました。

野良クラブは、味噌や納豆など大豆加工まで目指すグループです。しかし、里山の中では、芽が出る前から鳥に、成長してからはノウサギに食われ、鳥・ウサギ避けの囲いなど手間ヒマのかかるものでした。

大豆も虫が付きやすい作物ですが、それを避ける栽培法を教えてくださったのは、地元の農家Sさん。味噌にするなら蒔(ま)くのは6月末、育てるのは田の縁、しかも水はけがよい所と教えてくれました。

そんな土地を貸してくださる方も現れ、地元の方々のご指導、協力のありがたさが身に染みました。それ以来、大豆栽培を続けています。一昨年からは、地元の方の協力で宍塚の畑の一等地での栽培が始まり、そこがメーンの栽培地になりました。(会が出版した「続 聞き書き里山の暮らし」によると、耕土が深く排水性がよく、1メートル掘っても水が出ない貴重な場所です)

最近は味噌作りと煮豆用

味噌作りは、最初の年はSさんの台所で、レッスンワンから手ほどきを受けましたが、数年は思うような味になりませんでした。でも、今では地元の方々からお褒めの言葉をいただくほど、宍塚の大豆本来のうまさが生きた味噌ができるようになりました。麹(こうじ)用の米は会の田んぼ塾の米、麹づくりは地元の麹屋さんに依頼しており、塩以外は地産地消の味噌です。

手間ヒマかけ、1~2年寝かせた味噌を販売するなどもったいと、野良クラブのメンバー。蔵出しした味噌は、日ごろお世話になっている地元40~50軒に配るほか、汗水流しボランティアに励む会の人たちにもプレゼント。毎月第4日曜日開催の「森のごちそう」やイベントでも使っています。

納豆や豆腐作りなども手がけましたが、最近はもっぱら味噌と煮豆用です。メンバーのリーダーKさんは、このうまい宍塚の大豆を地元の方が栽培されることを何よりも願い、活動を続けています。(宍塚の自然と歴史の会 代表)

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《ご飯は世界を救う》9 日本人に合った中華「栄花林」

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中華料理「栄花林」

【コラム・川浪せつ子】中華料理「栄花林」さん(つくば市手代木)は、今年で創立20年だそうです。中華料理でありながら、なんとなく和食に通じる感じがあり、地域の皆さんに愛されています。

以前、このお店の向かい側の4階建ての団地に10年ほど住んでいました。東京から嫁いで来た37年前。窓からは畑と田んぼしか見えず、都内に仕事で週1~2回通っていたにもかかわらず、知り合いもいず、孤独感がいっぱいでした。騒々しい都会から来た私は、カルチャーショックならぬ、ネイチャーショックでした。

やっと授かった息子の育児は思いのほか大変。団地前にマッサージ院が出来たので行きました。そしたら、今度はその横にオシャレなカフェが。ここがのちに、カフェ→天ぷら屋→「栄花林」さんとなりました。

カフェや天ぷら屋が長くは続かなかったわけは、いろいろあると思います。そんな中、「栄花林」さんが20年も続いているのは、あまり高くない、日本人に合った中華料理ではないでしょうか。ここのオーナーシェフは、大きなホテルで修行を積まれた方だったそうです。筋金入りなのですね。続けるということは簡単ではないと思います。そんな「栄花林」さんにエールを送りたいです。

毎日が違う毎日

どうにか20歳過ぎから、建築の完成予想図の仕事を続けています。仕事について悩んだときがありました。「私は才能というより職人肌だ」。そう思い選んだのですが、不妊治療、知った人もいず、北側の4畳半の仕事部屋で毎日毎日。「やめてしまおうか」と何度も思いました。

「八百屋さんは何で毎日毎日八百屋さんをやれるのだろう?」。連れ合い「それはね、毎日同じ八百屋でなくて、違う八百屋だからじゃない?」。

毎日同じように見えるけど、日々努力、観察していると毎日が違うということだと。まさに目からうろこでした。「私はなぜ仕事をしたいのか」を突き詰めると、「いろいろな人に会えるから」だったのです。いろいろな人に会うことで様々なことを知り、仕事を通じて人生が広がり深くなっていくのだと思いました。それが仕事とかかわり続けることが出来た私の秘訣でした。

才能豊かな親友の無念

かつて私は美術大学の短大に通っていました。美大の時Mちゃん、Uちゃんと親友になりました。Mちゃんは専攻科に1年残り、最大手のジュエリーの会社に就職しました。そして、「世界パールコンテスト」でグランプリを取るのです。しかし、運命の神様はときどき酷なことをなさるのです。グランプリの表彰日がお葬式に。交通事故でした。

Uちゃんは特別優秀で、短大から4大へ編入、卒業制作は大学買い上げになりました。ですが、彼女は体が弱かったのです。素晴らしいデザインを多々生み出しましたが、闘病の末50代で天に召されました。

2人の才能豊かな親友の無念。そして何よりも辛いのは、彼女たちのご両親がまだ健全だったことです。続けるということが簡単でないこと。彼女たちがまだ創作活動を続けることが出来たなら、どんな作品を残してくれていただろうか。残してくれた、指輪とネックレスを見ながら今も思うのです。(イラストレーター)

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《くずかごの唄》34 高校生に霞ケ浦の未来を期待する

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【コラム・奥井登美子】昨年当地で開かれた世界湖沼会議で、土浦の自然を守る会は土浦のサテライト会議と、つくばのポスター発表に参加した。私はハイスクール会議に行くことができず、とても残念であった。

若い人たちが何を発表したか気になっていたが、先月開かれた霞ヶ浦市民協会主催のシンポジウム「世代をつなぐ環境活動の問題点」で、市村和男氏、黒田久雄氏からハイスクール会議の報告を聞き、少し安心した。今後、高校生の環境問題への関心を、どう日常生活と結びつけていくか。

地球環境のオゾン層、海水温度などが、直接、災害や健康被害としてのしかかってくる時代。若い人たちが、50年後100年後の地球をどんな形で残すのか、気になってしまうのである。

学生時代の体験は一生を支配

1983年に開かれた世界湖沼会議のプレ会議(琵琶湖)で、私は「霞ケ浦流入56河川の市民の手による水質調査」について発表した。

この調査には、1982年=202カ所・167人、83年=229カ所・130人が参加した。調査は学生たちに団長役をまかせ、産業技術総合研究所の原田泰さんがまとめ役になり、奥井薬局に事務所を置いた。

お金がないので、酒屋さんから寄付してもらったビールの空き瓶を採水瓶にした。このため、奥井薬局は足の踏み場もないほど瓶だらけになってしまった。7回目の調査(786カ所)には320人が参加した。このときの団長は筑波大学生の麓尚仁君だった。

パックテストもない時代で、分析をどうするか、参加した子供たちが怪我をしないようにするにはどうしたらいいか―など、夜中までビール瓶の間に座り込んで議論をした。

汗だらけになり、子供たちに水の汲み方を指導し、霞ケ浦流域を駆けずり回った。麓君のほかの団長役を務めた学生たち、筑波大の片亀光君、静岡大の前田恭伸君、森保文君、広島大の浅野敏久君らは、今、全国に散らばって、環境問題の専門家として活躍している。

彼らの論文や著書を読んで感心するのは、その幅の広さ、志の豊かさである。高校生、大学生のときの体験はその人の一生を支配する。昨年の湖沼会議に参加した高校生に霞ケ浦の未来を期待したい。(随筆家)

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