火曜日, 4月 22, 2025
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《法律かけこみ寺》4 守れよ我が権利、と著作者は言った

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土浦市神龍寺(本文とは関係ありません)

【浦本弘海】生活にちょっと役立つ(かもしれない)法律マメ知識の提供を目指す本コラムも第4回。今回から数回にわたり、小職が弁護士の道へ進むきっかけにもなった著作権を、具体例を交えつつご紹介いたします。

「ネット上の写真をちょっとしたポスターに利用するとき、撮影者(権利者)の許諾(きょだく)は必要かな? 非営利目的なんだけど…」といった質問を受けることがよくあります。著作権や著作権法を意識してのご質問かと思います。

結論的には、撮影者(権利者)の許諾を取った方がよいと考えます。

このコラムをお読みの皆さんであれば、著作権や著作権法という言葉はご存知かと思います。もっとも、漠然としたイメージという方が多いのではないでしょうか。

この理由は、おそらく著作権が人類の歴史では比較的最近、登場した概念であって、他人の物を盗んではいけないとか、約束は守らなければならないといった社会の普遍的なルールと異なり、まだそこまで馴染(なじ)んでいないからだと思います。

ちなみに、著作権法では「著作権」は「(著作権法)第二十一条から第二十八条までに規定する権利」と定義されています。

なんだか堅苦しいと言うか、中身のさっぱり分からない定義ですが、代表的なのが複製権、上演権、公衆送信権、譲渡権、貸与権、翻案権です。これらの権利はその名称から内容がなんとなく想像できるかと思います。

「著作権」は、これらの各権利をまとめた権利のパッケージのことです。結局のところ、皆さんのイメージに近いのではないでしょうか。

「著作権」「著作者人格権」

また、著作権法には「著作権」のほかに「著作者人格権」という権利も登場します。「著作者人格権」は、「(著作権法)次条(18条)第一項、第十九条第一項及び第二十条第一項に規定する権利」と定義されています。

これまた無味乾燥な定義ですが、具体的には公表権(18条)、氏名表示権(19条)、同一性保持権(20条)です。おおまかに言えば、未公表の著作物を公表する権利、公表する場合に著作者名を表示し、またはしない権利、望まない改変は受けない権利です。

「著作権」は財産権なので、動産や不動産のように売ったり、あげたりすることができますが、「著作者人格権」は人格権(名誉などのその人と結びついた権利)なので、売ったり、あげたりすることはできません…実社会ではゴーストライターのように事実上、取り引きされることがあるようですが。

なお、著作権法上の「著作権」を著作財産権や狭義の著作権ということがあります。また、著作権法上の「著作権」と「著作者人格権」を併せて広義の著作権ということがあります。これから数回のコラムで著作権と言った場合は、基本的に著作権法上の「著作権」のこととお考えください。うっとうしいカッコも省略です。

しばらくマジメなお話しが続きますが、きっと実生活のお役に立ちますので、ぜひお付き合いのほどを!(弁護士)

➡浦本弘海氏の過去のコラムはこちら

《吾妻カガミ》52 ビッグニュース 土浦一高も中高一貫

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土浦一高旧本館

【コラム・坂本栄】県内トップの進学校、土浦一高に中学校が併設され、同校は「中高一貫校」になるそうです。移行は2年先ですが、県が2月に発表した県立高大改革、エリアの小学生の父母にとってはビッグニュースだったと思います。土浦一高の中高一貫化は私の持論でもありましたので、この決定に拍手を送ります。

詳しくは本サイトの記事「土浦一、水戸一など10校が中高一貫に 県が県立高校改革プラン」(2月21日掲載)をご覧ください。見出しからも分かりますように、中高一貫が導入されるのは土浦一高だけでなく、県内12ブロックの拠点校(2ブロックは導入済み、新規は10ブロック)になります。

事情通によりますと、当初、対象校は「土浦一、水戸一」に絞り込まれていたそうです。ところが、議論の過程で「自分の出身校も入れろ」といった声が噴出、全域に拡散したとのこと。良いか悪いかは別にして、とても民主的な決定プロセスがあったわけです。

最初のパラグラフで、土浦一高の中高一貫は私の持論と述べましたが、その論旨を「土浦一高進修同窓会会報」(2014年12月1日号)への寄稿から引用します。

「10年前のTX(つくば―秋葉原)開通により、つくばの優秀な中学生は東京の高校も選択できるようになった」「また、県南の私立高校が中高一貫制を採用、優秀生の奪い合いが激化している」「学校としても、こういった地政学的変化、教育システムの進化に対応しないと…」「県立高の制約はあると思うが、土浦一高も中高一貫(全国の優秀生を念頭に寄宿舎も用意)を導入したらどうか」

竹園東>吾妻>手代木>土浦第四>土浦第一

つまり理由は2つです。ひとつは、新鉄道の開通で県南が東京圏に組み込まれ、地域間競争が激化したこと。もうひとつは、官営サービスが民営サービスの挑戦を受け、対応を迫られていること。いずれも教育のシステムだけでなく、他の分野にも見られる現象です。

地域の変わり様は、首都圏という広域はもちろん、土浦とつくばの2市間でも見られます。土浦一高によると、出身中学校別生徒数(現年度の1・2・3年合計)は、竹園東79(★)、吾妻64(★)、手代木47(★)、土浦第四39、土浦第一37、土浦第二37、谷田部東31(★)、並木29(★)の順です。圧倒的につくば市内(★印)が多く、土浦一高でなく「つくば一高」と呼んだ方がよいくらいです。

どちらの市が「偉い」ということではありません。研究学園の誕生によって県南が変わったことを指摘したいのです。ビジネスは言うまでもなく、教育もノスタルジーに浸っているわけにはいきません。強い教育システムをより強くすることで変化に対応する―これが中高一貫必要論の主意です。

東京の高校関係者の皆さん、県南地域の私立・公立中高関係者の皆さん、賢い子がより賢くなるよう、競争してください。そして、地域の塾経営者の皆さん、この新たな教育マーケット(お客様は小学生)はチャンスです。(経済ジャーナリスト)

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《続・気軽にSOS》33 職場復帰のタイミング

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【コラム・浅井和幸】質問:職場での人間関係でうまくいかないことが増え、仕事の内容でもミスが増えて、徐々に体調を崩しました。今、うつ病で休職中です。ちょっとずつ元気になってきましたが、まだ仕事場に戻るのは不安があります。職場復帰のタイミングを教えてください。

回答:大変な思いをされ、それでも職場復帰を考えているのですね。そのタイミングは「ミスをしたり、嫌なことがあったり、不安なことが出てきても、何とかなる」と思えるようになった時と考えるとよいでしょう。職場の受け入れ態勢なども含め、職場復帰にはいろいろな要素が絡んできますので、一つのイメージとして捉えていただければと思います。

うつ病がよくなってくると、自分はもうミスもしないし、前のように何でもできるだろうと感じるようになります。この段階ではまだ復帰は早いと思います。というのも、どのような得意なことでもミスをしたり、嫌な場面にぶつかったりするからです。

体調を崩す前のことを思い返してみてください。嫌なことや不安になることもあったと思います。うつ病で辛いときは、とても不安が大きいと思います。そんな時、うつ病でなければ不安はなくなると考えがちです。しかし、不安な感覚というのは、程度の差こそあれ、誰もが感じる感覚です。

不安も、人間にとっては大切な感覚で、大切な役割があります。不安の役割は別の機会にお伝えするとして、余談ですが、不安な感覚がない病気もあるぐらいです。

復帰プログラムを用意している病院も

話を戻しますと、職場復帰のタイミングである「ミスをしても何とか対処できる」についてですが、この何とかなるというのは、自分で対応してもよいし、同僚や上司などに協力してもらうことも含まれます。時間が解決するものもありです。仕事を手伝ってもらうのか、不安なことの相談に乗ってもらうのか、いろいろ対処法を考えるとよいですね。

もちろん、職場を離れた家庭での家族、趣味の仲間、昔ながらの友人知人に、相談したり、遊びなどで気分転換したりということもよいでしょう。主治医やカウンセラーに協力を仰ぐのもよいですね。

職場が復帰に対して協力的であれば、少々、そのタイミングを早められるかもしれません。週の出勤日数を減らしたり、1日の労働時間を少なめにしたり、慣らし期間を設けていれば、積極的にその制度を利用しましょう。

ちょっとした苦手な人、苦手な作業、苦手な環境への対処の相談をすることもお勧めします。あまり協力的ではない職場に対し、主治医に診断書を書いてもらい配慮を促すという方法も考えられます。

職場復帰プログラムを用意している病院もありますので、主治医と相談してみてください。じっくりと専門的に練習したいと思えば、職業準備支援、ジョブコーチなどをキーワードに様々な支援をしている場がありますので、下にご紹介しておきます。(精神保健福祉士)

独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構茨城支部茨城障害者職業センター

障害者職業・生活支援センター

➡浅井和幸氏の過去のコラムはこちら

《沃野一望》3 松陰交友録「会澤正志斎は空論家」

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つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて。

友との盟約を優先し、長州藩江戸桜田藩邸を脱藩してきた吉田大次郎(のち松陰と名乗る)は、水戸へのメインルート水戸街道を避け水海道へ迂回、ここに宿をとる。翌日は、行く手にそびえたつ筑波山をめざす。道に迷いながらも北条からつくば道をたどり、筑波神社下の筑波宿へ投宿する。

当時筑波宿には、筑波山神社参拝の精進落とし、飯盛女をおく旅籠(はたご)が軒をつらねていた。宿にあがった大次郎にその晩、何があったのか、それは、筑波山にすみつく鬼のみぞ知る謎。大次郎は、血気さかんな二十二歳。

翌日、脱藩の身の上を忘れ、晴れやかに筑波山男体女体の頂を踏む。筑波山からの展望の様子を、この旅を記した「東北遊日記」へ興奮気味の詩でかざっている。昨晩、よほどの欣快事があったのか。

筑波山からは足取り軽く真壁へくだり、さらに足をのばし笠間へはいる。

閑話休題。ずいぶん健脚です。江戸から松戸。松戸から水海道。水海道から筑波宿。筑波宿から筑波山に登り、真壁を経て笠間。すべて、徒歩です。

そして翌日、待望の水戸へ。水戸では、水戸学・尊攘の師たちと会える。この面談こそ、脱藩してまで出立した今回の遊学の本旨だった。

水戸にはいり三日目、水戸学の権威、当時、「新論」などの著書により全国の志士の崇敬を集めていた会澤正志斎との面談が、ようやくにしてかなう。会澤正志斎は、水戸藩藩校弘道館館長。念願の面談のはず、だったが。

「我に軽信の癖あり」

日記に、面談の感想が、いっさい見当たらない。さらに日を変えて面談をかさねるが、語りあったはずの「学」について、やはり一言も残さない。そして数回目の面談後の「東北遊日記」。

「十七日 晴 会澤を訪(と)ふ。会澤を訪ふこと数次なるに卒(おおむ)ね酒を設く。水府(水戸藩)の風、他邦の人に接するに款待(かんたい)甚だ渥(あつ)く、勧然として欣(よろこ)びを交え、心胸を吐露して隠匿する所なし。…」

賢学の師に会った大次郎の感想はつねに、「何を学んだか」ではなく、「どのような態度、どのように応接してくれたか」の、出会いの印象に終始する。その後、「東北遊日記」に会澤は登場しない。「相性」があわなかったか。

松陰はのちに、「我に軽信の癖あり」と自省するが、「それで、かまわないではないか」という自尊心も透けてみえる。出会いの応接印象により、直情的に感激し信用してしまう少年ほどの楽天家。それだけに、切り捨ても早い。それが松陰流の交友だった。

会澤正志斎に対する松陰の後日評。

「紙上の空言、書生の誇る所、烈士の恥(はじ)る所なり」

あなたは所詮(しょせん)、紙上の空論家、われわれ烈士は、それを恥るものです。松陰は大見得をきって会澤と訣別(けつべつ)するが、「軽信」の誹(そし)りは本人の認めるとおりだ。(作家)

➡広田文世氏「沃野一望」の既出分はこちら

《霞ケ浦 折々の眺望》3 霞ケ浦の環境問題 首都と地方の相克

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【コラム・沼澤篤】正月のNHK-TVで「家康、江戸を建てる」という時代劇が放映された。原作は直木賞作家、門井慶喜氏の作品。このドラマでは、江戸市中に井之頭池から上水道水を引く難工事に焦点が当てられた。利根川の瀬替(せがえ)工事を指導した伊奈忠次の事蹟については、あっさりと紹介され、茨城の視聴者として物足りなかった。

秀吉によって関東に追われた家康の入府当時、江戸周辺は利根川水系の氾濫原であり、荒蕪地(こうぶち)だった。家康の命を受けた伊奈氏は江戸湾に流入していた利根川を、中流の栗橋付近で新たな河道を掘り割ることで、その流路変更を目論んだ。新たな掘割は関東ロームの赤土が露出したことから赤堀川と呼ばれた。

この普請では、数十年をかけて次々に関連する流路を整備し、利根川は常総を貫き、銚子で太平洋に出ることになった。江戸期における利根川の瀬替は、後の河川学者によって「利根川東遷」と呼ばれることになった。

その結果、江戸周辺は水害の懸念なく開発が進み、常陸・奥羽からの年貢米を、危険な海路を避けて、霞ケ浦、利根川、江戸川、中川、小名木川、隅田川を経て、日本橋、蔵前まで内川廻りで運搬できるようになった。

他方、常総地方は利根奔流が流れ込み、水害が頻発した。天明三年(1783)の浅間山噴火では噴出物が利根川を流下し、川床が浅くなり、下流部が閉塞し、島や洲が形成され、水郷が出現した。洪水時、霞ケ浦が遊水地化し、土浦城下もたびたび浸水被害を被った。霞ケ浦周辺を含む常総地方は首都発展の「犠牲」となったのである。

「東京中心主義」状況をどう考えるか

明治期には渡良瀬川の鉱毒問題が発生し、汚染水が東京市中の江戸川に流入しないように、内務省が栗橋の分岐点を狭めた。その結果、ますます利根奔流は霞ケ浦地方の水害を引き起こした。戦後、高度成長期、東京五輪誘致時には水不足が顕在化し、霞ケ浦の湖水を東京に引く案が検討された。東京の水不足は利根川や荒川の上流にダム群を築くことで対応した。

さらに、大学や研究機関の移転先として筑波台地が注目され、閣議了解により、その建設が決定された。その大きな理由は霞ケ浦の湖水が水道水源となるからだった。霞ケ浦は研究学園都市建設という、初期の首都機能移転のあおりを受けた。同時に鹿島臨海工業地帯建設では、東京の大企業の移転先となった。これらの時期が常陸川水門建設による淡水化と軌を一にするのは偶然ではない。

現在も首都近傍の農業県として、農畜産物の大量生産を運命づけられている。それは生産地と消費地の単純構図に留まらない。大量の豚ふん、鶏ふんなどの畜産廃棄物を、近隣農家がメロン、イチゴ、サツマイモ、レンコンなどの肥料として農地還元する一方、浸透流出分が浅層地下水、河川水、湖水の水質悪化という環境問題を招いている。

農家はどうすればよいのか。政治、行政、研究者の役割は何か。東京中心主義とも呼ぶべき状況をどう考えるか。首都に宿命的に従属する農業県の構造的難題である。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)

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《映画探偵団》17 「東の桜川」が目覚めるとき

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【コラム冠木新市】旅のカタログ雑誌が送られてきた。もうすぐ桜の季節である。桜紀行の企画がページを飾っている。中でも、お伊勢参り、都をどり、3大名城(姫路城・彦根城・二条城)などと組み合わせた「吉野千本桜」の企画が目を引き、人気振りが伝わってくる。

「西の吉野と東の桜川」と並び称された「東の桜川」はどうか。吉野のヤマザクラは約3万本、桜川は約55万本。筑波山のヤマザクラを加えると圧倒的な数を誇るのに、企画は一つもなく、まるで人気がない。「東の桜川」は眠っているのだ。

このことが『桜川芸者学校』(2016~)の演劇を始めた要因でもある。桜川市、つくば市、土浦市を流れる桜川に残る伝説・民謡・文化を紹介することで、人々の心を刺激しようと思った。

これまで5作上演した。第2章では、茨城県を舞台にした唯一の能、世阿弥作の『桜川』を題材にした。人買いに買われた息子を探して、日向の国から桜川に流れてくる母親を描き、桜咲く時期に息子と再会を果たす、ハッピーエンドの物語である。

このお話を、3.11東日本大震災で息子を亡くした母親が相馬から桜川へと流れて来て、あの世の息子からのメッセージを聞くという物語に仕立てた。

市川崑監督の『犬神家の一族』

この台本を作っていたとき、市川崑監督作品の脚本家・日高真也先生との思い出が蘇った。日高先生によると、『犬神家の一族』(1976)の脚本が完成したとき、プロデューサーの市川喜一氏が読み、「これは『岸壁の母』ですなあー」と感想を述べたという。

『岸壁の母』(1955)は、戦地に行った息子の帰りを舞鶴港で待ち続けた母親の実話を基にした歌で、菊池章子が歌い、1974年には二葉百合子の浪曲調の歌で大ヒットした。

『犬神家の一族』は探偵の金田一耕助を主人公にした横溝正史の推理小説で、犬神家の遺産相続をめぐる連続殺人事件を描いている。この脚本の本質が、プロデューサーの何気ない一言で浮き彫りになった。映画は、戦地に行った息子佐清の帰りを待つ母親松子の姿を描いたものである。

ラスト近くの謎解きのシーンで、松子は本当の息子佐清と再会する。それまでのゴムマスクをかぶった佐清は偽者で、不安気な松子の微妙な表情が描写されている。

その後、何度もテレビ化され、舞台、劇画にもなり、40年を過ぎた現在でも語り継がれる名画となった。戦後に活躍し忘れ去られていた、横溝作品を映画化した角川春樹プロデューサー。オドロオドロしい殺人事件を、母親と息子の愛の物語に演出した市川崑監督。忘れられた作品を掘り下げることで泉となり、新しい流れを作った。

東日本大震災から8年。これまで続いていた3.11のイベントが、桜川市、つくば市、土浦市から消えた。桜川流域には、大震災で避難してきた人たちが暮らしている。「東の桜川」は目覚めのときを待っている。これからも桜川の文化を掘り下げるとともに、同じ思いを抱く人との出会いを信じたい。「東の桜川」が旅のカタログ雑誌に載ることを夢見つつ。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

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《宍塚の里山》34 環境を学び保全する場所・里山

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宍塚大池イナリ谷津。大学生によるヤナギ伐採、湿地再生が進む

【コラム・及川ひろみ】啓蟄(けいちつ)も過ぎ、宍塚ではアカガエルの産卵が最盛期を迎えています。アカガエルは冬でも水がある谷津田のような環境で卵塊を生みますが、今年の初認は2月20日、例年よりかなり遅い産卵でした。その前日、気温が15℃以上もあったことから、一気に産卵が進んだようです。カエルたち、温かな夜を待っていたのですね。

白梅もそのころから一気に開花が進み,シジュウカラもまだ高らかなとはいきませんが、さえずりが聞かれました。フキノトウの開花はそれよりずっと早く、今年の初認は2月5日でした。

アカガエルの産卵、フキノトウの開花、いずれも水が浅くたまった谷津田や湿地環境で見られます。谷津田や湿地は水辺と森をつなぐ環境です。このような場所は、カエルやトンボ、水生昆虫,湿地製植物などの生息場所になり、絶滅危惧動植物の宝庫でもあります。

しかし、湿地や放棄された谷津田はアシ・ガマなどに覆われ、またヤナギ類などが育ちやすいなど、放置すると、瞬(またた)く間に多様な生物が失われます。

林の活動・湿地環境・竹林活動

宍塚の会では、現在4か所の湿地環境保全を行っています。そのうちの1か所は、2010年から県自然博物館と合同で年3回植物調査を行い、どのような管理が望ましいかを専門家を交え話し合い、冬季には湿地の一部の耕耘(こううん)を行っています。

しかし、油断は禁物。ヤナギ類やアシ・ガマなど、湿地で育つ植物の取り除き活動が必要です。これは、里山環境について学ぶ大学生や専門学校生、それに数社企業の応援を得て行っています。湿地だけでなく、里山の環境の要素である森林・草原・池・小川、田畑など、それぞれの環境について調査と保全を継続しています。

これらの活動には、中学生・大学生、企業、行政・研究機関、そして市民、会員、時に小学生も加わっていますが、林の活動が好きな人は林に関する活動を、湿地環境に興味のある人は湿地活動、中学生は竹林活動を継続するなど、興味や関心を大切にしています。

かつて里山は農業・暮らしに深く結び付いていましたが、今では実践を通して環境を学ぶ大切な場になっています。宍塚の里山はこれら多様な環境に恵まれていることから、その役割が大変大きなものになっています。

里山の価値はいったん見失われたかのようでしたが、生物の多様性を補完する場所として、また子どもや若者が環境を学ぶ場所、里山の文化を継承する場所として大切になっています。(宍塚の自然と歴史の会代表)

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《続・平熱日記》 33 バージンロードはロン毛ディスタンス

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【コラム・斉藤裕之】寒いと散髪するのが億劫(おっくう)で、気が付くと坊主頭の毛は指でつまめるほどに伸びました。いつもは3週間に1度のペースで3ミリのワンレングスにしている私の頭を見慣れている友人曰く、「髪が黒いね!」。そうなんですよ。何のケアーもしていないのに、割と黒々とした髪の毛が生えているのです。

「伸ばそうかな」「え?」「実はねえ…」。普通、突然の坊主頭には訳アリ感があります。しかし私のように、10年以上坊主頭の輩(やから)が急に髪を伸ばし始めるのは、それ以上に「なんかあったの?」って聞かれそうですが。

大したことじゃないんですが、1昨年の暮れに無事に嫁に行ってくれた長女夫妻が結婚式をやりたいと。今の時代、結婚観や結婚式の在り様についてはいろいろとあると思います。しかし私もかみさんも、ここは向こうのご両親や娘夫婦のプランに「御意」というのがベスト。

そんな折、遊びに来た娘夫婦に「髪の毛伸ばそうかな」と呟(つぶや)いてみたら、「そうしなよ!」ってうれしそう。やはり、坊主頭より毛があるオヤジの方が少しはマシに見えるのでしょうか。

では、6月まで期間限定で伸ばしましょうということで、人生第3期坊主期終了。10数年ぶりに千円カットへ。そしてシャンプーを買いました。しばらく忘れていた、指の間に泡立つ髪の毛の存在。風呂上がりに見る鏡。引退した高校球児のように少しときめきます。

「髪伸ばした?」って聞かれたら

まあ、私の毛が少し伸びたからといって、何がどうなるわけでもありません。以前から思っていたことですが、絵描きさんは年をとってもフサフサの人が多いような気がします。創造には女性的、母性的な要素があると言われますが、そのせいでしょうか。要するに女々しいのでしょう。

さて、ちょうど学年末で、そろそろ学校も終わり。約1か月後、新年度に再会した私を見て、生徒たちは私の頭の変化に気づくでしょうか。「髪伸ばした?」って聞かれたら、なんて答えましょう。「第3次成長期」とでも答えておきましょうか。

「で、どこでやるの、式は?」「某T国ホテル」「……」

社会の端っこを、世間体など無視してきた私にとって、まさかのシナリオ。まあ、それもありか、私が結婚するわけではありませんから。せめて、イカしたヘアースタイルでバージンロードをエスコートしてやろうじゃあーりませんか。(画家)

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《邑から日本を見る》35 沖縄を返せ!

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】学生時代によく歌われた歌に「沖縄を返せ」があった。

<われらは叫ぶ 沖縄よ われらのものだ 沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ>

この時はまだ沖縄の返還前だから、返せという相手はアメリカだ。今はどうか。

先月24日の辺野古沖新基地建設に対する沖縄県民投票で、投票率が52%を超え、反対票が玉城知事の得票数より多い43万票。反対票が71%を占めた。しかし、政府はその翌日から辺野古沖の埋め立て工事を再開した。今月1日の玉城知事と安倍首相の会談ももの別れに終わった。

この会談で玉城知事は、県民投票の結果を通知し、辺野古埋め立ての中止を要請した。これに対し、安倍首相は「真摯に受け止める」としながら、「普天間の危険性を除去するために辺野古への移設は先送りできない」と冷たく言い放ち、沖縄の民意を無視する態度を貫いた。菅官房長官や岩屋防衛相の発言を聞いていると、投票で反対が多くとも工事は進めることを事前に決め、首相も了解していたという。

ここで、県民投票直後の新聞論調を見てみよう。

全国の新聞の全部を見ているわけではないが、多くの新聞は社説などで、「新基地ノーという民意は示された。沖縄の思いを受け止め、工事は中断すべきだ」と書いている。地元の「沖縄タイムス」は「安倍政権の強引な埋め立て政策が民意によって否定された。工事を進め、力ずくで押しつぶそうとする強硬一辺倒の姿勢に納得できない」(北海道、山形、茨城、東京、毎日、京都、徳島、西日本なども)と書いている。

これに対し「読売」は、投票率が52%だったことをとらえ、「広がり欠く。政府、工事推進へ」と見出しを立て、反対が多数でも影響は限定的だ、と書いた。「産経」は、「外交・安全保障政策は政府の専管事項であり、米軍基地をどこに設けるかは、政府以外には決められない。(移設を)県民の直接の民意だけで左右することはできない」と民意を突き放した。

次に、論点を整理しておこう。

民意を無視した「国策」は、「国と地方公共団体の関係は、上下・主従の関係から対等・平等」とした2000年の地方分権一括法に明らかに反する。では憲法ではどうなのか。憲法学者の小林節慶大名誉教授は「安倍政権には、住民投票の結果に拘束される憲法上の義務がある。政府は建設を断念しなければならない。国策であっても、特定の自治体に適用される特別法は、その自治体の住民投票で過半数の同意が必要で、住民に拒否権がある」と述べている(「東京新聞」など)。

他にも、民意を無視し、工事を強行している現政権に対して、この国は民主主義国と言えるのか、というコメントをたくさん見ることができる。

埋め立て工事が進められている大浦湾には「マヨネーズ並み」と言われる軟弱地盤があり、最も深い所は水深30メートルの海底の下に60メートルの軟弱地盤の層があり、砂の杭7万5000本を打ち込まなければならず、2兆円以上かかるという。しかし、国はその工事にかかる工期や費用を明らかにしていない。

問題は他にもたくさんある。玉城知事の一国二制度という提案もある。今、国に求めることは、工事を中止し、米国政府と代替案を検討することだ。改めて「沖縄を返せ!」

《食う寝る宇宙》33 宇宙天気が社会インフラに与える影響

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【コラム・玉置晋】2019年2月下旬、放送大学大学院卒業式の案内が届きました。僕は宇宙天気災害を研究するために、17年4月研究をスタートしました。実際は15年4月から科目履修生として入学し、単位を取得していましたから、実質4年間を費やしました。費用は約50万円です。

大学での研究発表やら、学会発表で月に1~2日の有給休暇を取得しましたので、職場の理解が必要でしたし、早朝コソコソ研究して安眠を妨害し、奥さんに怒られることもありました。この場を借りて周囲の皆様には御礼申し上げます。

社会人が大学院で研究するとなると、何だかんだで、周囲の応援が必要となります。周囲の人を巻き込む以上、遊びでは済みません。4年の時間+周囲の応援+学費50万円 < 大学院の成果、である必要があります。

研究テーマは「宇宙天気が社会インフラに与える影響に関する研究」とし、2003年以降に発生した宇宙天気災害を調べました。どのような宇宙天気のときに、どのような宇宙天気災害が発生したかという研究です。

宇宙天気災害に関するニュースなんて聞きませんが、調べてみると、最近15年間だけでも、人工衛星の故障、航空機が宇宙放射線の侵入しやすい北極域航路を回避した事例が見つかり、大体どれくらいの嵐だと災害が起きるのかを自分なりに把握できました。今後、この情報が必要とされる時代が来るでしょう。

社会人が大学院に通うとチャンスが

この研究を博士後期課程で継続し、実務で使えるレベルに昇華させていくのが目標です。この件は、無事に奥さんの了承を得ることができました。

放送大学の授業は多彩です。人文科学、社会科学、自然科学から幅広く学ぶことができます。宇宙・地球システムから、精神医学や人的資源管理まで学べました。大学院という所は学問を深く追求する場所ですが、幅広い知見を得ることもできます。

社会人が大学院に通うとチャンスが生まれます。それまでは会社と家庭で閉じた世界から、様々な人たちと交流する機会を得ます。そして研究テーマが名刺代わりとなります。挨拶で、「最近、僕、こういうことやっています」とね。

このコラムを書かせていただいているのも、その一つ。「最近、大学院で宇宙天気を研究しております」と実家のお隣さんと話をしていたら、『NEWSつくば』の理事長さんを紹介していただいた、というのがきっかけ。

少なくとも人生の新たな扉が開いたかな、と思います。奥さんには、成果はもうちょっと待ってくれと頼み込んでいます。(宇宙天気防災研究者)

➡玉置晋氏の過去のコラムはこちら

《地域包括ケア》31 見守りで紡ぐ地域の安心 広げよう見守り活動

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つくば市社協の「地域の絆フォーラム・見守りで紡ぐ地域の安心~広げよう!見守り活動~」

【コラム・室生勝】つくば市社協の「地域の絆フォーラム・見守りで紡ぐ地域の安心~広げよう!見守り活動~」が2月21日開催され、私も地域アドバイザーとして出席した。東京都市大学の板倉杏介准教授の基調講演「つながりがつくる地域、つながりをつくる地域」のあと、2地区と民生委員の見守り活動についてシンポジウムが行われた。参加者は250名、うち76名が民生委員であった。その様子をお伝えしよう。

つくばみらい市と常総市に接する真瀬地区の「真瀬見守る会」では、15区会のうち6区長が「ふれあい相談員」を引き受け、熱心に活動している。本来ならば15区会が共同で実施すべき大地震を想定した避難訓練を、見守る会が率先して行ったのには驚いた。まさしく究極の見守り活動訓練である。

下妻市と隣接した吉沼新地下の見守り活動は、ふれあいサロン「花の会」から始まった。2009年、女性会員27名とボランティア5名から始まったサロンで、13年、見守りが必要と思われる会員4人に対し、同じサロン仲間のふれあい相談員2人が個別訪問する活動を始めた。これから見守り活動を始める地区には、よいモデルである。

3人目のシンポジスト、つくば市民生委員連絡協議会の飯泉孝司会長は「見守り合い、支え合う地域づくりのためにできること」を民生委員の立場から次のように話された。

つくば市民生委員連絡協会長の話

活動上の課題としては、支援を要する人たちの中に民生委員の訪問や関わりを強く拒否する人がいるのは、個人情報保護への関心が高まっていることが背景にあり、民生委員活動に影響を及ぼしている。

高齢者世帯への訪問で、80歳代の親が50歳代の引きこもりの子どもと同居している「8050問題」世帯に遭遇することもある。また、単一ではなく複数の問題を抱えている人たちもいる。民生委員には福祉・医療制度について、最新の知見や情報が求められる。

民生委員活動のために行政に望むこととして、住民の安心安全のために、必要な情報を適切に提供してほしい。行政が民生委員の相談に対応した事例について、可能な範囲で報告してほしい。

民生委員に対応が求められている課題は、孤立や孤独、貧困、虐待、認知症高齢者、悪徳商法被害、災害時要支援など、年々増えている。そのために、さまざまな研修会・勉強会にも参加し、介護・医療の多職種の人たちと緊密に連携したい。

「市役所から来た保健婦です」

飯泉会長の話を聞き、民生委員の訪問を拒否する人に対して、私は保健師の訪問を勧めたい。高齢者は40~50歳代のころ、健診の事後指導を「保健婦」から受けていた。「市役所から来た保健婦です」と声を掛ければ、会ってくれるのではないだろうか。うまくいけば、2~3回は民生委員に保健師が同行すればいい。

多職種の職能団体の研修会・勉強会の中には、民生委員に参考になるプログラムもある。各職能団体に交流を申し入れ、ともに学習してほしい。圏域ケア会議・事例検討会に、同じ圏域の民生委員も出席できれば、多職種の高齢者や障がい者への関わり方、多職種同士の連携を学ぶいい機会になる。つくば市に要請されることをお勧めする。(高齢者サロン主宰)

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《土着通信部》28 春の訪れ「初午」縁日 10日に龍ケ崎女化神社

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狛犬ならぬ狛狐が迎えてくれる初午の女化神社=龍ケ崎市馴馬町

【コラム・相澤冬樹】三夜様(二十三夜尊)で、ご祭神の月読命(ツクヨミノミコト)は男神か女神か、尋ねるものがいる。記紀では性別どころか月読の記述自体、ほとんどない。古事記では伊邪那岐(イザナギ)命が黄泉国から逃げ帰ってみそぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照(アマテラス)大神、鼻から生まれた須佐之男(スサノオ)命とともに三神(三柱の貴子)を成すとされるが、きょうだいの天照、須佐之男に比べ、月読の影はすっかり薄い。

日本書紀では神産みの段で語られるのが唯一の活躍(?)シーンだが、これが何とも残念な登場の仕方なのだ。

「天照大神に命じられ、月読命が保食神(ウケモチノカミ)の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出してもてなした。月読命は『吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい』と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月読命とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである」

穀物の起源として語られる神話ということだが、その役回りを担ったのは保食神にほかならない。こちらは女神であるらしい。五穀豊穣の神といって差しつかえない。

境内には植木市や刃物商らの露店

保食神をまつる神社がご近所にある。10日に豊作祈願の縁日、初午(はつうま)を迎える女化神社(龍ケ崎市馴馬町、青木紀比古宮司)である。江戸時代から初午には門前市をなすにぎわいがあったらしいが、いつごろ始まった行事か尋ねても、宮司は「よく分からない。戦後ずっと続いていることは確か」という。

参道には狛(こま)犬の代わりに狛狐を置き、「女化稲荷」の呼び名もあるほどだから、すっかり稲荷社で、祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)と勘違いしていた。そもそも、狐が女に化けた(女が化けたのではない)伝承が地名のいわれとなっている。神社由緒には次のようにある。

「創建は、永正6年(1509)。往昔は稲荷大明神と称したりと傅(つた)ふ。後年、地名を女化と称するに至り、女化稲荷社と称す。明治2年(1869)、保食神社と改めたれども女化の旧称は世俗に慣通し明治17年(1884)、更に女化神社と改称するに至る」

元は龍ケ崎市の来迎院の守護するところだった。明治の初めの神仏分離で神官を迎え、祭神の保食神を立てた社名にしたが、「女化」の名が捨てがたかった。今日、女化の地名は牛久市に属し、神社のみ龍ケ崎市の飛び地となるに至る、いろいろいわくがありそうだ。

初午は新暦で行うところが多くなったが、女化神社は旧暦2月最初の午の日に行う伝統を貫いてきた。豊作祈願の縁日だから、農事暦的には3月の声を聞いてからがふさわしい。境内には植木市やら刃物商らの露店が並び、春の準備を本格化させる。今年は日曜日に重なり、例年を上回る人出が予想される。春の訪れは女神にこそ告げてほしい。(ブロガー)

◆女化神社(龍ケ崎市馴馬町5379)電話:029-872-2237

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《光の図書館だより》16 アート×ブックの新文化プロジェクト

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【コラム・入沢弘子】絵本は子どもが初めて出会う“アート”。いつまでも心に残る作品や、大人になって改めて良さを感じる作品もあります。お子さんがいらっしゃる方にとって、読み聞かせをした絵本やお子さんのお気に入りの絵本は育児の思い出とともに宝物なのではないでしょうか?

この春、土浦市民ギャラリーと土浦市立図書館の特性を活かした新しい文化プロジェクトとして、絵本をアートの視点から紹介する展覧会を開きます。

「アートとブックが出会う場所―絵本から広がる楽しい世界―」と題した当企画では、ロングセラー絵本の全原画展示や講演会、土浦市出身の絵本作家の作品展示やワークショップ、土浦市在住の絵本研究家の仕掛け絵本コレクション展示、若手アーティストグループの作品展示、土浦市立図書館で人気の絵本展示などを通じて、多くの方に「絵本ワールド」を楽しんでいただきます。

若い芸術家が集うまち土浦

オープニングイベントは、図書館前広場に敷いた巨大な布をキャンバスに見立て、絵の具をつけた裸足を“筆”として、子どもたちに絵を描いてもらう「みんなで!いろどり“あしアート”」を実施します。出来上がった作品は会期中展示し、終了後はブックカバーにして参加者にプレゼントします。絵本作家・小林由季さんのワークショップです。

絵本作家・鈴木永子さんの「ちょっとだけ」の原画全20点の展示と、絵本のモデルになった実在の女の子・もみじちゃんとの交流や絵本誕生秘話などをお話いただくトークショーも見どころのひとつ。筑波大学名誉教授・笹本純さんは、仕掛け絵本をアート作品としてご紹介します。

土浦では、絵画に限らず、演劇、写真、デザイン、音楽など幅広い分野で若手アーティストが活躍しています。歴史ある城下町でありながら、若い芸術家が集うまち・土浦。これを機に、アルカス土浦(アート&カルチャースペースの頭文字から命名)が、若いアーティストの発表の場になってほしいと思います。(土浦市立図書館館長兼市民ギャラリー副館長 入沢弘子)

アートとブックが出会う場所絵本からひろがる楽しい世界

会期 2019年3月21日~5月6日 休館日:月曜(祝日を除く、図書館は第1月曜日開館)

会場 アルカス土浦(土浦市民ギャラリー、土浦市立図書館)

時間 土浦市民ギャラリー:午前10時~午後6時/土浦市立図書館:午前10時~午後8時(平日)、午前10時~午後6時(土日・祝日)

▽オープニングイベント「みんなで!いろどり“あしアート”」

日時:3月21日(木・祝日)①午前10時~②午前11時~

講師:小林由季さん(土浦市出身、絵本作家)

▽ギャラリートーク「知ればさらに楽しくなる、仕掛け絵本の世界」

日時:4月14日(日)・27日(土)午後2時~

講師:笹本純さん(土浦市在住、筑波大学名誉教授)

▽トークショー「もみじちゃんと私」

日時:4月20日(土)午後2時~3時半

講師:鈴木永子さん(水戸市在住、絵本作家)

※問合せ:土浦市立図書館 029‐823‐4646

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《くずかごの唄》33 虎狼利=虎列刺=コレラ

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【コラム・奥井登美子】いのしし年だというのに、山のイノシシから感染したトンコレラで、たくさんの食用の豚がウイルスに感染し、殺されてしまった。テレビのニュースを見て、ものものしい出で立ちの防疫職員の人数の多さに驚いた。

インフルエンザが鳥に感染してトリインフルエンザに変化することなどを考えると、豚コレラもいろいろな動物に感染する可能性もあって、いつ、人間に近づいてくるか、わからないから、予防対策として完璧を期するのもわかる気がする。

日本に初めてコレラが流行したのは、文政5年(1822年)、外国の船が持ってきた病とあって、尊王攘夷にも影響を与えたらしい。京都だけで3000人の死者が出たという。3日でころりと死ぬので、3日コロリがコレラになったらしい。

次の流行は安政5年(1858年)。関西だけでなく全国的に広まり、江戸だけで28万人もの人が亡くなり、お棺が間に合わない有様だったという。1860年まで、3年にわたり流行したらしい。浮世絵の安藤広重もコレラで亡くなっている。

そのころ、ヨーロッパではコレラの流行を止める目的で、下水道の普及を図ったけれど、日本人にはそういう知恵はなかったらしい。

薬の宣伝も兼ねた「はやり病の錦絵」

エーザイの内藤祐次さん(主人の兄・奥井誠一の旧制水戸高校同級生・親友)が創った「内藤記念くすり博物館」発行の「はやり病の錦絵」の本の中にもコレラがたくさん出てくる。

  • 流行時疫異国名コレラ:安政5年
  • 頓ころり病予防薬:江戸時代
  • 流行虎列刺病予防の心得:明治10年
  • 虎列刺病予防法図解:明治10年
  • コレラ病伝染のやまひにて俗二コロリというなり:明治10年
  • 流行悪疫退散の図:明治13年
  • 虎列刺退治の奇薬:明治19年

明治になってからも流行し、薬の宣伝も兼ねた錦絵を作ったらしい。錦絵にはイノシシは出てこない。恐ろしい顔をした虎が出てくる。我家の倉の中からも、明治12年(1880年)のコレラ病予防商儀という書付が出てきた。明治のはじめ、土浦のあたりでもコレラ病が流行ったらしい。(随筆家)

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《吾妻カガミ》51 面白い形で決着 つくばの市施設問題

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つくば市役所

【コラム・坂本栄】つくば市のスポーツ施設の指定管理者問題は面白い展開になりました。最初に市の選定会議が1位に選んだ業者(東京のスポーツ施設運営会社)を議会が否決、2位の業者(地元の清掃品販売・ビル管理会社)の繰り上げかと思っていたら、なんと1位と3位(地元のスポーツ生活支援NPO)が連携、管理者に選ばれたからです。

地元優先に固執する市議の裏をかき、非地元と地元が組んで、地元の看板で非地元が実質受注するという逆転劇。誰が考えたか知りませんが、大変ドラマチックな展開になりました。

議員の一人は「1位+3位」案について、箱(東京の会社)は最初と同じで、上紙(地元のNPO)を変えただけではないかと反対したそうです。でも、サービスの質と地元優先の条件を満たす、この妙案が通りました。それにしても、箱と上紙の例え、なかなか秀逸(しゅういつ)でした。

詳細は、本サイトの記事「【ウェルネスパーク問題】新たな指定管理者決まる 前回1位と3位が組みリベンジ」(2月18日掲載)、議会否決の記事(12月21日掲載)、再公募の記事(1月24日掲載)をご覧ください。一連の市と議会の動きをコメントした私のコラム(1月7日1月21日2月4日各掲載)もどうぞ。

私が疑問視したのは、地元企業優先は高くつくのではないか、それで管理サービスの質が保てるのか、地元保護は企業経営をヤワにする―の3点でした。そして、こんな入札をやっている市と議会を「村役場」と呼びましたが、今回の結果と気が利いた議員発言を聞き、「町役場」に昇格させます。市の地元優先スタンスは不変ですから、より上の格付け(レーティング)は見送ります。

公営プールの苦い思い出

スポーツ施設と言えば、私も民間のクラブに週2~3回通い、有酸素運動+筋肉トレーニング+ストレッチ(ときどきプール)に励んでいます。高齢者の体力維持(私もその1人)、奥様方の体形維持、キッズのスポーツ志向といったニーズもあり、今、スポーツ施設はブームです。競争も激しいようですが、利用者にとってサービス競争は大歓迎です。

記者という仕事柄、ストレス解消と体力維持のために、20代からスポーツ施設を利用してきました。最初は都営のプール、次は区営の体育館、そして民営のクラブです。これらにゴルフも加え(今は休止中。代わりに毎朝柴犬と1時間弱散歩)、体力を維持できました。

こういった施設利用で気になったことがあります。往々にして、公営は民営に比べ使い勝手やサービスがよくないということです。区営の施設は、プールは立派なのにロッカールームが貧弱とアンバランスでした。「1位+3位」業者のサービスがプレゼンテーション通りに実施されるか、監視していきましょう。(経済ジャーナリスト、NEWSつくば理事長)

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《制作ノート》4 かけがえのない家族 ペットを描く

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【コラム・沼尻正芳】我が家の猫(ハナ)は19歳になった。人に例えると、100歳の長寿である。

小学校教頭だった20年前、毎朝、子どもたちと登校してくる野良猫がいた。黒と白のきれいな猫で、学校敷地に住みついてしまった。子どもたちが家に連れ帰っては、学校にまた戻ってきた。校内見回りする私にも、猫はすり寄ってきた。ある日、砂場で用をたしている猫を見た。何とかしなければいけないと思った。

我が家には若いビーグル犬がいて、代々の猫は途絶えていた。家族を説得して、野良猫を連れて帰った。人なつっこい猫だったが、動じない性格で野性的なところがあった。野良猫は犬より態度が上になり、犬の散歩にもついてきた。数カ月後に子猫が生まれた。その1匹にハナと名前をつけた。

猫たちは犬と仲良く共存していたが、よその犬や猫には闘争心をむき出した。そんなとき、ハナはいつも逃げ回っていた。ハナ以外の猫たちはたびたび喧嘩して帰ってきて、その傷が原因で早く亡くなってしまった。

ハナの親兄弟は、りりしい顔のタキシードキャット(黒と白)だった。ハナも黒と白の毛色だが、狸顔、体型は少しずんぐりしている。臆病な性格だが、外にいることが好きで、今も庭を駆け回る。夜は膝の上にやってくる。黒い毛元は真っ白で、ノミがつかない。危険を感じると逃げ回るから、けがも病気もしない。だからハナは長寿なのだろう。高齢になって、ハナの黒い毛色は灰色になってきた。

存在感には光や陰影が欠かせない

私が絵を描いていると、ハナはアトリエに入ってくる。お気に入りの椅子で眠るのが日課だ。ハナはすぐに絵のモデルになった。寝ているときはスケッチして、動いているときは写真を撮って描いた。猫の絵も人物画も、描いた線や形がほんの1ミリずれると、表情や雰囲気が変わってしまう。

猫の耳、目、鼻、口、ひげ、顔も体も毛色も毛並みも、そのバランスは絶妙だ。眠っているハナ、見つめているハナ、ゴロンと転がっているハナ、あくびをしているハナ。ハナの絵は、年々増えていった。

グループ展や個展などで、ハナの絵を展示した。それを見た友人が「自分のペットも絵にして」と言ってきた。預かった写真はどれも愛情に溢(あふ)れていた。写真はフラッシュ撮影が多かった。フラッシュで撮ると、目や陰影が自然でなくなってしまう。リアルな感じや存在感を出すには、光や陰影が欠かせない。友人のペットを描くことで、改めて光と陰影の大切さを教えられたようだ。

その後、以前描いた絵の光や陰影を見直した。加筆し、明暗をより強調してみた。そうすると、目にも顔の表情にも深みがでてきた。主役と背景の関係も、奥行きも微妙に変化してきた。ペットはかけがえのない家族だ。家族の歴史と存在感、命の輝きや体温の温もりが感じられるような作品を描きたいと思う。(画家)

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《続・気軽にSOS》32 世界一自分に合った場所か?

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【コラム・浅井和幸】質問:アルバイトを始めようと考えています。体験もさせてもらった場所なのですが、そこよりも自分に合う場所があるのではないかと考えてしまい一歩が出ません。その場所よりも良い場所があると思いますか?

回答:答えを先に言うと、そこよりも良い職場、条件が自分に合った職場は、確実にこの世界のどこかに存在すると思います。

世界一、自分に合った職場、良い職場でなければ勤めないという、確固たる信念があるのであれば、それは、あなたの生き方なので、それが見つかるまで働かないことを悪いことだと咎(とが)めるつもりはありません。

ですが、世界一の場所を見つける前に、とりあえず、その場所で勤めることをお勧めする理由を、ざっと思いつくままに挙げてみます。

  1. 世界一良い職場を見つけるためには、全ての職場を経験して比べなければ分からないので、それを検証するには膨大な時間がかかる。
  2. しかも、その時の自分の感じ方や経験によっても、条件が変わるので、1つの職場でも何回も検証しなければいけない。検証するには、何百年を費やしても足りないだろう。
  3. そもそも、職場の良い点、悪い点は単純に比較できず、順位を付けられるものではないはずである。
  4. 働き始めたら、一生続けられる、もしくは働き続けなければいけないと考えているのであれば、それは考えが固すぎる。職業選択の自由は当然の権利なので、嫌ならば辞めることもできる。別の職場に挑戦してもよい。

動いて軌道修正しながら進む

一切のミスはしたくない、無駄なことはしたくないと考えるのは、当然のことだと思います。しかし、それを考えすぎてしまって、一歩も動けなくなるのは、勿体(もったい)ないともいます。一歩も動けない状況は、無駄なことをしないことと反してないでしょうか。

無駄かどうかわからないことに対して、動くことによって、結果、無駄なことだったと分かることは、無駄にはならないはずです。失敗は成功の基と言って、次の行動に活かすことが出来るのです。もちろん、怖いから動かないことも、大切な選択肢の1つです。私の価値観としては、動いて軌道修正しながら進んだほうが良いと思いますが、自分自身の好き嫌いなどの価値観を信じて選択してみてください。

これからの人生は、自分自身が選択して動き続けることで、良い方向に変えていくことが出来ます。そのために、試行錯誤、創意工夫を続けられるとよいと思いますよ。(精神保健福祉士)

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《世界に生きる》5 コミュニケ―ションギャップ

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筑波学院大学

【コラム・大島愼子】英語を話すときに、一般的にはLとRの発音を注意するように言われるが、私がアメリカでスピーチの講座を履修したときに言われたのは、語尾のt とdである。アメリカの大学では1年と2年のときに、スピーチの講座が必修であった。詩や脚本を暗唱してプレゼンすること、自分で書いたスピーチを披露すること、およびディベートを必ず行い、教科書は心理学のテキストであった。自分の話を相手にどのように理解させるか、印象づけるかは、心理学の分野なのであろう。

前職の航空会社で、同僚から、待遇改善の要求を上司に提出するので、手紙の文案をチェックしてほしいと依頼されたことがある。日本語の手紙の英訳であり、時候の挨拶に似た文章と、「最近の航空業界の不振は十分理解しており、上司のご苦労を拝察する」という内容で始まっていた。そして「可能ならば給与を改善してほしい。私はこれだけの業務をこなして会社に貢献している」というものであった。

私は、内容の順番が違うと指摘した。待遇改善ならば、「私の日ごろの業務を評価して給与をX%挙げてほしい。私は各々の業績をあげ、会社に貢献している。業界の状況は理解しているが、正当に評価していただくようにお願いする」のようにする、と回答した。結論を先に言うことが重要なのである。

If possible などと言わずに、I would appreciate と、配慮してくれたら感謝すると直接的にいうのである。しかし、これを日本人社会で行うと抵抗がある。

High Context文化とLow Context文化

よく言われるのは、ハイコンテクスト(High Context)文化とローコンテクスト(Low Context)文化である。これは70年代に、文化人類学者エドワード・T・ ホールにより提唱された概念で、国や民族のコミュニケーションスタイルのことである。

日本語は、以心伝心のように、話し手と聞き手の体験や感覚が共有されている文化で、相互理解には、言葉よりも言葉そのものには含まれないボディランゲージや声のトーン、時には話者や著者の地位や立場までも含まれ、ハイコンテクストの代表である。

一方、ローコンテクスト文化は、コミュニケーションがほぼ言語を通じて行われ、文法も明快かつ曖昧さがない文化を指す。北米、西欧がこの文化であり、英語はその筆頭であるとされる。これらの地域では、形式的な言葉や飾り立てた表現は必要なく、問題とその解決策を端的に言語で表現することが好まれる。また、受け手は言語で表現された内容だけを文字通りに理解する傾向がある。

西洋言語の上手下手は、発音よりも相手の思考形態に合う論理展開をすることである。しかし、現在、日本人同士でも世代によりハイコンテクストとローコンテクストの違いがあると感じるのは私だけだろうか。(筑波学院大学 学長)

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《ひょうたんの眼》13 国境はいつまであるのだろうか

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北海道庁(裏門)に掲げられた四島返還の横断幕(資料写真)

【コラム・高橋恵一】「わが国固有の領土」の表現ほど、人々のナショナリズムを鼓舞する言葉はあるまい。しかし、国土は広いほどよいのだろうか? 各国は、15世紀の大航海時代から第2次大戦まで領土拡大に熱心だったが、近年の先進成熟国は、領土や人口の拡大より、国民経済の充実、生活環境の充実を求めるようになってきたのではないか。EUの壮大な取り組みは、世界の新たな趨勢(すうせい)と考えてよいのではないか。地球に国境はいらないのではないか?

周囲を海に囲まれ、永く鎖国を続けていた日本は、国境を意識することは少なかった。しかし、18世紀末になると欧米列強のアジア進出が強まり、アヘン戦争による清国の状態に刺激され、ペリーの黒船来航を経て、1854年に日露和親条約、1875年にロシアと樺太・千島交換条約を結び、1876年に小笠原諸島を領有。琉球(沖縄)は、1879年に日本帰属が確立した。さらに、1891年に硫黄島編入、1898年に南鳥島を編入して、日本の東西南北が固まったと言えよう。

この当時、無人島の尖閣(せんかく)諸島や岩礁の竹島は、どこの帰属か問題にもなっていない。その後、日本は領土の拡大に貪欲に突き進み、敗戦後の1951年のサンフランシスコ条約において、本州、四国、九州、北海道とそれに付属する島を除いて、全ての海外領土を放棄して日清戦争前の元に戻った。

ところで、竹島は島か? 日本海に浮かぶ岩礁で、昔から漁師たちの目印になり、嵐の時の緊急避難などに利用された、コメ1粒採れるところでもない。安全な航行には役に立っても、生産性のある島ではない。領海や経済水域として、あるいは海底資源の可能性があるとしても、採算性があるとすれば、もっと以前から開発されていたろう。お互いに、ナショナリズムをかけて争うだけの価値があるのだろうか?

北方領土は面倒くさい

日中の悩ましい種として、尖閣諸島がある。現在は無人の島で、隣接する石垣島からも漁場としては遠く、燃料代がかかり採算が取れないのだそうだ。台湾からにしても、同様の事情で漁業者には魅力がない。まして、中国本土からは、さらに遠いのだ。竹島と同様に領海や海底資源の要素もあるが、採算が取れる見込みは薄い。もし採算性の可能性があるなら、出資しあって、利益とリスクを分け合えば済む話だ。

石原慎太郎元都知事が煽(あお)って、国際問題化してしまったが、武力衝突が起こって、1人でもけが人が出るようなら、愚かとしか言いようがない。誰も住んでおらず、野菜も果物も栽培できる広さがあるわけでもない。海上航路の目印にもなりそうもない。そっとして置いたらよい小島たちである。

北方領土は面倒くさい。歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)が北海道の一部なのは論を待たず、地理学的に国後(くなしり)・択捉(えとろふ)を千島列島の一部とするのが素直な見方である。サンフランシスコ条約で放棄した「千島」に国後・択捉が含まれるかどうかは、理論的には決着がつかない。しかし、ロシア(旧ソ連)にとっては、2千万人の犠牲者の代償に獲得した戦利品の領土である。

乱暴な言い方だが、日本の領土に戻すには、戦争で取り戻すか、金で買い戻すしかないだろう。歯舞・色丹の昆布や毛ガニは貴重だが、人件費の安いロシア人に獲ってもらった方が、我々は安く食べられるのではないか? 安全が保障されれば人々の往来も自由にできる。元々、アイヌ人の地である。その地を愛する人なら誰が住んでもよいのではないか。

それにしても、国境はいつまであるのだろうか。(元オークラフロンティアホテルつくば社長)

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《ことばのおはなし》7 あなたと私のおはなし

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【コラム・山口絹記】あなたは今、私が書いた文章を読んでいる。これは事実だろう。そして、恐らくパソコンかスマートフォンを使っているのではないだろうか。

いや、もしかすると、私がまだ知らない技術で生み出された、21世紀初頭で言うところの端末のような何かで、この記事にアクセスしているかもしれない。私はすでにあなたの生きる世界には存在しないかもしれない…。妄想はこのくらいにしておこう。

ここからが本題である。

「あなたはあなたの『意志』でこの記事を読むに至ったのだろうか」。文字に起こすと、我ながら偉そうな物言いになってたじろいでしまうのだが、つまり「何か他の目的でWebブラウザを開きませんでしたか?」ということである。

例えば、ブラウザを開くと、おすすめの記事やWebサイトが表示されることが多い(もしかすると「NEWSつくば」と表示されるかもしれない)。さらに、検索窓には直近の入力履歴が表示されたり、「あ」と入力すれば、「明日」「後で」などと予測変換候補が表示される。同時に、「Amazon」「明日の天気」と検索ワード候補が待ち構えている。

「あれ、何を調べるんだっけ? まぁAmazonでも見るか」などという経験はないだろうか。自らの「意識」から立ち上った思いつきをもとに、「意志」をもって何かを調べようと思っても、荒れ狂うことばの大海原を泳ぎ切らなければ、当初の目的に達することができない、ということだ。

私たちの「意識」とはなんだろうか

私たちの「意識」とはなんだろうか。もし、「意識」の一端がことばだったとしたら、あなたの「意志」で外部に出力する途中だったことばが、何かに影響を受けて変化してしまい、当初の「意識」を思い出せなくなってしまったとき、それは一体誰の「意識」で、誰の「意志」なのだろう。

「あなたは、どう思いますか?」

あなたがことばの潮流に流された結果としてこの記事にたどり着いたのだとしたら、そして、あなたにとってこの記事が、波打ち際で偶然見つけた、きらきら光る貝殻のような存在になったとしたら、私はとてもうれしい。

ちなみに、私はこの文章を、原稿用紙に万年筆を使って書いている。より正確に記すならば、メモ帳に書いたことばの寄せ集めを、たまに原稿用紙にまとめ、使えそうなものをコラムの記事として再構築している。

さらに詳細に述べるならば、この記事のもとになったのは、「スマホで何か調べようとしてたんだけど、…なんだったっけ?」というメモだ。

なぜここまでまどろっこしいことをしているかと言えば、あなたに読んでもらう文章は、できる限り私のことばで紡ぎたいと思っているからだ。予測変換には頼りたくない。とはいえ、私のことばも、所詮(しょせん)はどこかの誰かのことばの、借用と引用の寄せ集めでしかないのかもしれない。(言語研究者)

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