火曜日, 4月 22, 2025
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《宍塚の里山》39 淡水シジミ 里山の小川にも生息

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マシジミ(資料写真)

【コラム・及川ひろみ】茨城町の涸沼(ひぬま)は汽水湖で、シジミ、ヤマトシジミが名産ですが、実は里山にもシジミが生息しています。淡水域に生息するシジミ、マシジミが小川にいます(いました)。以前、地元の人から、40~50年前の宍塚大池からの小川にはシジミがいて、よく食べたとの話を聞き、小川の底をザルで探ったのは1990年ごろのことでした。すると、普段見慣れた黒いシジミとは違った、緑色がかったシジミがたくさん採れ、びっくり。

一晩水にさらし砂を吐かせ、食べてみました。甘みがある美味しいシジミでした。大池から流れ出るこの小川の底は砂地です。里山からの山砂が流れ出たもので、宍塚大池の底も砂地です。貝は入・出水管を上に、貝の下部からは白色の足を延ばし、砂の中に立つような形でプランクトンを捕らえていますが、川底が砂地でなければ生息できないのです。

さてマシジミをよく見ると、表面に年輪を思わせるしわが見られますが、年に数本のしわを作りながら、寿命は3年ほどと言われています。

ところで、上高津貝塚に展示された紀元前4000年の縄文時代の貝塚の貝層を見ると、最も多く見られる貝がヤマトシジミです。当時から、重要な食材であったことがうかがわれます。江戸時代、「シジミ売り、黄色なら高く売り」という川柳がありました。顔色などが黄疸(おうだん)ぽく見える人には高く売るという意味です。シジミに多く含まれるオルニチンは肝機能低下、黄疸などの人が用いるサプリメントですが、その機能性成分は早くから知られていたのですね。

厄介なタイワンシジミに入れ替わる?

さて、宍塚のシジミ、どうやら最近では外来種であるタイワンシジミに入れ替わってしまったようです。2010年10月、貝類(カタツムリも含まれます)の観察会を行ったとき、講師の千葉県立中央博物館黒住耐二さんから、宍塚のシジミはタイワンシジミだと考えられるとの指摘を受けました。

そのころ、すでに各地のマシジミがタイワンシジミに置き換わっていると聞きました。タイワンシジミは精子側の遺伝子のみが遺伝する(雄性発生)という大変厄介な生き物で、また生命力、繁殖力も大変強く、生息域の拡大もすさまじいと聞きました。

マシジミへの遺伝子汚染も問題で、近く特定外来生物に指定されるだろうとの話もあります。またマシジミと比べると、うまみがなく、人気がないとも聞きます。ひところ、宍塚の小川では貝採り用の道具(ジョレン)持参でシジミを採る人もいましたが、最近は見かけません。(宍塚の自然と歴史の会代表)

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《県南の食生活》1 イサザアミ 県南地域の食生活の断片

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再現したドンドン焼きとイサザ塩辛の炒り付け
古家晴美さん

【コラム・古家晴美】鮮やかな新緑に包まれたゴールデンウイーク。田んぼには、まだ植えつけられたばかりのか細い苗が整然と並んでいる。

かすみがうら市牛渡では、「へいさんぼう」という御田植神事が、現在も5月5日に行われている。男女の性の営みを神前で擬似的に披露し、稲の豊作を祈る行事だ。市の無形文化財に指定されている。一方、現在もこの日に湖岸では、集落の漁師が集い、水神祭りを行っている。田も畑も湖も、これから本格的な食糧生産・漁獲の季節に入る。

初回に取り上げるのは、イサザアミ。地域によりコマセ・イサザなど様々な呼び名がある。アミ目アミ科の甲殻類。体長5~10ミリ。一見、ごく小さなエビを思わせる体形だが、ハサミを持っていない。佃煮でおなじみかもしれない。主な漁期は春だ。

霞ケ浦北岸(かすみがうら市)側の人は、南岸(稲敷市から美浦村、阿見町、土浦市にかけての対岸)を、南岸の人は北岸を「ムコーバ」と呼んできた。かすみがうら市牛渡のある漁師は、昭和30年頃まで船に自転車を載せ対岸に渡り、煮干しや塩辛に加工したイサザを自転車で行商した。

南岸では、定置網でエビやゴロを主に漁獲し、イサザをあまり獲っていなかったからだと言う。霞ケ浦のどこでもよく採れたタン貝(カラスガイ)の殻にアミの塩辛を載せ、汁気がなくなるまで炭火で炒りつけるのが最も美味しいとのこと。

生シャジャは3年前の傷も膿み出す

かつて浮島(現稲敷市)でも、この時期に麻生(現行方市)から売りに来た生のシャジャ(イサザアミ)を大量に買い、大きなタン貝を鍋代わりにしてそこで塩味で炒りつけ、田植えでの疲れを癒した。滋養がある「生しゃじゃは3年前の傷も膿(う)み出す」と言われたとの記録がある。(『茨城の食事』)

一方、南岸の阿見町大室では、コマセ(イサザアミ)を入れたドンドン焼きをこの時期に作り、農作業の合間や子供のおやつに出した。これは釜揚げのコマセをうどん粉で溶いて焼いたもので、しょうゆやソースを塗って食べた。

鉄製の厚手の平釜に薄くなたね油を引いて生地を流し、下から薪をくべながら火力を高めると鍋が高温になり、あっという間にきれいに焼けた。この辺りでは、水田の裏作に菜種(アブラナ)を栽培しており、それを油屋へ持って行くと、なたね油1斗缶と交換してくれた。油で焼くと香ばしくておいしかったと言う。

ぜいたくな食材ではないが、それぞれの季節の恵みを取り込み、そこにささやかな喜びを感じてきた県南地域の食生活の断片を紹介していきたいと思う。(筑波学院大学教授)

【ふるいえ・はるみ】筑波大学第2学群比較文化学類卒、同大学院博士課程歴史人類学研究科単位取得満期退学。筑波学院大学経営情報学部教授。専門は民俗学・生活文化。神奈川県生まれ。

《法律かけこみ寺》6 フリーなブギにしてくれ 今回も著作権の話

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土浦市神龍寺(本文とは関係ありません)

【コラム・浦本弘海】今回も著作権法のお話です。前回、前々回と、他人が撮った写真や住宅地図は著作物と考えた方が無難であり、著作物を著作権者に無断でコピーなどして使っちゃダメ!という(ある意味)常識的な結論に落ち着きました。

ところで、「それはそれ、この写真、フリー素材なんだけど、パンフレットに使って大丈夫かな」というご質問を受けることもあります。そこで今回は「フリー素材利用上の注意点」について取り上げます。

この「フリー」という言葉が厄介で、どのような使い方でも無償(フリー)かつ自由(フリー)に使えるとは限りません。利用規約などによる制限があることがほとんどです(これ大事)。

利用規約によくあるのが、個人利用に限り無償とか非商用利用であれば無償というもの。「フリー」という言葉につられ商用利用したところ、後でがっちり請求されたという話も聞きます。
フリー素材ごとに利用規約が異なるため、利用方法に照らしつつ利用規約を地道にチェックする必要があります。注意点は、利用規約のチェックに尽きます。

新聞記事や公的機関のホームページ画像の、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などへの投稿についてもご相談を受けることがあります。これらも著作物と考えた方が無難です。

もっとも、写り込み(写真撮影などの際、背景に著作物であるキャラクターなど写り込んでしまうこと)や引用に該当すれば、著作権者の許諾は原則不要です(それぞれ著作権法30条の2、32条)。この点、(たまたま写り込んでしまうことを想定した)写り込みの規定は基本的に該当しないと思われます。

引用については認められる場合もあると思います。ただし、引用の条文は「公正な慣行に合致」「報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内」と抽象的で、専門家でも判断に迷う場合があります。安易に「引用だからセーフ」と考えない方がよいです。

店の料理写真のSNS投稿は?

(自分で撮影した)飲食店の料理写真をSNSなどへ投稿するのはどうなの、というご質問も受けます。

これは料理そのものの著作権と料理写真の著作権を分ける必要があります。料理写真の著作権は、ご自身で撮影されたのであれば、ご自身に帰属します。

しかし、料理そのものに著作権が生じる場合は、料理写真は二次的著作物(2条1項11号)になるため、料理写真を自由に利用することはできません(料理の著作権に対する侵害になり得る)。

そこで、料理そのものに著作権が生じるかですが、絵画と同視できる(見た目が)独創的料理であれば、著作権が生じる余地があります。しかし、このようなケースは稀(まれ)でしょう。一般論としては、料理そのものに著作権は生じません。

もっとも、料理そのものに著作権が生じないとしても、飲食店の料理を撮影してSNSなどへ投稿する場合、マナーの点からも、お店の方の了解を得た方がよいです。

3回にわたり、マジメなお話が続きましたが、実生活のお役に立ちますので、頭の片隅にご記憶いただけると幸いです!(弁護士)

➡浦本弘海さんの過去のコラムはこちら

《吾妻カガミ》56 運動公園用地売却 つくば市が要項を修正

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つくば市役所

【コラム・坂本栄】前回のコラム(5月6日掲載)で扱った総合運動公園問題で、つくば市は早々と用地売却要項を修正しました。私が「おやっと思った」と疑念を呈した箇所でしたので、今回もこの問題を取り上げます。市にとっては単純なミスかも知れませんが、神(本質)は細部に宿ると言います。改めて、何か変だなと思った点を整理しておきます。

市は4月26日、前市長時代に頓挫(とんざ)した総合運動公園計画の用地について、「高エネ研南側未利用地事業提案募集」というタイトルの処分要領を公表しました。ところが、大型連休明けの5月10日、その肝(きも)とも言うべきところを「修正します」と言ってきたのです。

具体的には、「お受けできない提案」と断っていた3事業=①市に経費負担が発生する事業、②住宅系用途が含まれた事業、③大型の百貨店や総合スーパーなどの小売店が含まれた事業=について、「市と協議が必要な提案」に言い換えました。分かりやすく言えば、これらの事業も門前払いはしません、でも応接間に入れるかどうかは、ざっと話を聞いてから(否定的に)判断します、といったところでしょうか。

私は前回コラムで、戸建てやマンションなどの住宅団地(②のこと)、ショッピングモールの類い(③のこと)の提案は受け付けないということは、どこか誘致したい事業体があるのではないか、と指摘しました。どうやら、似たような疑問が市に寄せられ、表現を変えたようです。

何か奇妙な用地処分手続き

以上は市の迷走の経緯ですが、「お受けできない提案」でも「市との協議が必要な提案」でも、市のやり方には2つの問題があると思います。ひとつは、市の土地を買いたいと考えている事業体を絞ろうとしていることです。

5年前、市がUR(都市再生機構)から買った用地の値段は66億円でした。現市長は、土地は市で使わないと決めたわけですから、その負担を消すためにも、できるだけ高く売らなければなりません(①では追加負担はしないと言っています!)。それには多くの事業体に競わせた方がよいのに、あの業種は要協議、この業種も要協議と入札のハードルを高くしています。不思議なことです。

もうひとつは、歓迎しない業種を列挙しているのは、意中(本命)の事業体を誘導するテクニックではないかということです。この手続きには何か裏があるのでしょうか? なぜ住宅系と大型小売り系には乗り気でないのか、その理由が明示されていないのも不思議です。

総面積46ヘクタールの市有地の払い下げともなると、「どこが」「いくらで」「どうするのか」に、市民は注目しています。市は売却手続きの第1幕で、関心を刺激する話題を提供してくれました。(経済ジャーナリスト)

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《沃野一望》5 松陰、小塚っ原へ埋葬のこと

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つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて。

JR常磐線で土浦から上野へ向かい南千住駅を発車するとすぐ、車窓左手後方に大きな石造地蔵菩薩の赤茶けた背中(東日本大震災で上半身が落ちてしまったが、篤志家の計らいですっかり修復された)が一瞬見える。

江戸時代、伝馬町の刑場で斬首された罪人を埋葬した(といっても、乱暴に穴を掘って遺体を放りこむ惨たらしい扱いだったらしいが)小塚っ原(こづかっぱら)の跡地に建立された供養のお地蔵さんである。露座姿は、東京都心(江戸城)に背を向けている。

長州藩に吉田松陰という「軽信の癖」のある若い藩士がいた。明治新政府を支えた多くの人材を輩出した「松下村塾」を主宰したところから、教育者と位置づけられるが、彼に系統だった教育思想書はない。あるのは、自らの行動そのものだった。義侠心からの軽挙が、尊皇攘夷を標榜する志士たちの魂を揺さぶり、幕末激動期の英雄に祭りあげられた。しかし、「軽信の癖」の徒に、ドロドロした現実の時代を動かす政治力はなかった。

黒船への乗船を目論み下田から小舟を漕ぎ出し、あえなく黒船側に拒絶された(黒船側にこそ、微妙な段階にさしかかっている日米交渉の障害となるややこしい邪魔者を追い返す、したたかな政治判断が働いた)。松陰は、鎖国禁令違反で投獄される。安政の大獄とよばれる、江戸幕府開国派による尊皇攘夷志士抹殺裁判で松陰は、伝馬町の白州へ引き出された。

江戸に背を向ける大きな地蔵菩薩

「おまえは、黒船に乗りこんで米国へ渡ろうとしたな。それが果たせず、おまえの野望は潰えてしまったわけだ」「ちがう。僕(松陰は、一人称を僕と称した)は、もっと大きな計画を練っていた。老中間部詮勝(まなべかつあき)を暗殺し、開国政策の頓挫(とんざ)を狙った」「何をっ」

幕府側が把握していなかった暗殺計画を、堂々と誇らしげにさえ披瀝(ひれき)された裁判官は、激怒した。もともと死罪に該当しないはずの松陰に、報復の斬首刑が言い渡される。即刻、首をはねられ小塚っ原へ投げ捨てられた。凶報に接した高杉晋作、伊藤博文(彼らは松下村塾生)たちが遺体を掘りおこし、現在の世田谷松陰神社の地へねんごろに埋葬した。

享年二十九。小塚っ原跡地に、大きな地蔵菩薩が、江戸に背を向け建立されている。常磐線の下り方向(常陸国方向)を見つめる視線の先は、松陰二十一歳の思いでの地、筑波山かもしれない。(作家)

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《続・気軽にSOS》37 良くしていくこと

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【コラム・浅井和幸】自分の給料が良くないのは、景気が悪いせいだ。コミュニケーションが下手なのは、親の育て方が悪かったからだ。今、気分が悪いのは、朝の占いが悪かったからだ。自分がこんなに苦しいのは、自分の能力がないからだ。

私たちは、日々、嫌なことから逃れるために、原因を探して対処しようとします。苦しさにはまっている時は、さらに、漠然とした原因探しに没頭し、改善する行動を避けます。

悪循環になっているときは、さらに正しいことをすればよいと、事態が悪い方向に向かう行動を繰り返してしまうこともあります。宿題をやれと言っても宿題をしないので、宿題をやれと怒鳴るというような行動を取りがちですね。

以前、悪人が作る料理でも美味しいかもしれないし、善人でも病気になるかもしれないというコラムを書きました。悪いことをすると悪いことが起こる、良いことをすると良いことが起こるという、固定観念は危ないということです。

Aという地点に行きたいとき、Bという状況にしたいとき、それに反する悪いことを削除しようと、私たちは努力することが多いものです。

それをしてはいけないということではありませんが、それで上手くいかないときは、A地点に行くためにプラスになること、B状況に近づけるために有利な要素を増やすことを考えて行動することが大切です。

何か不都合なことが起きたときに、何が悪いのかと考えることと、どう良くしていくかと考えることでは、全く別物であると捉えた方がよいでしょう。究極的に考えられれば同じなのですが、そこまで突き詰めて考えられない私たち凡人は、この2つは別物の考え方、アプローチであることを前提にとらえたほうがよいのです。

希望の達成に出来ることを試す

好ましくない状況が変わるまで待つ、我慢するというのも、一つの方法ではあります。しかし、少しでも自分の目的に沿うような要素を、自分の言動で加えていくことの方が目的に近づきやすくなるのは当然のことです。

曖昧で動かしがたい悪い原因を考えて、全く行動を起こさないということは、苦しさの持続を手助けしているようなものです。苦しみの緩和や希望の達成に対し、できるだけ具体的に、些細(ささい)なことでも出来ることを試すことをお勧めします。

何が良い行動かは、試してみないと、そう簡単に未来の予測は出来ません。試して検証して、また試して検証してと、微調整をくり返し、想像ではなく事実、現状をできるだけとらえていくことです。

苦しみにはまり込んでいる自分は、いったい何で悩んでいるのか、希望は何かをもう一度考え直してみてください。出来ることは些細な簡単なことです。難しいと考えるのであれば、それは、専門家に相談を繰り返すという行動を試しましょう。(精神保健福祉士)

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《霞ケ浦 折々の眺望》5 風葬―沖縄の風習と霞ケ浦傍の遺跡

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【コラム・沼澤篤】話題の映画「洗骨」(照屋年之監督)を鑑賞した。この映画は沖縄の風葬をテーマに、美しい海、家族の絆、心の交流、そして生と死を、リアリズムと感性の平衡を保ちながら描いた名作。ラストでは、厳かな洗骨儀式の最中、参列した臨月の娘が産気づき、浜辺の出産シーンとなった。エンディングで名曲「童神」(わらびがみ)が流れる。見事な生と死の輪廻。

かつてカンヌ映画祭で今村昌平監督がパルムドールを取った「楢山節考」「うなぎ」、さらに米国アカデミー賞外国語映画賞受賞の「おくりびと」(滝田洋二郎監督)、今も世界的に評価が高い名画「東京物語」(小津安二郎監督)を彷彿(ほうふつ)とさせ、日本映画の伝統を受け継ぐ作品といえる。沖縄の人々の原初的で楽天的な笑いと涙が織りなす物語の中に、ユーモアと自然の光景が散りばめられ、どの場面も見逃せない展開に引き込まれた。

葬儀の日、夫にとって愛しい妻、息子と娘にとって大切な母の遺体を木棺に入れ、海辺の横穴墓に納める。4年後に開棺し、骨をきれいに洗い改葬する。美しかった妻(母)が髑髏(どくろ)となって目の前に現れる現実。戸惑いながらも家族はそれを慈しんで受け入れる。現代の沖縄でも、風葬を継承する離島があるという。

かすみがうら市崎浜の横穴古墳群

「霞ケ浦」と関連して連想したのは、かすみがうら市崎浜の横穴古墳群(筑波山地域ジオパークのジオサイト指定)である。この遺跡は約1400年前(古墳時代後期)に成立した。当時内海だった霞ケ浦傍の崖のカキ化石層を横に掘って洞窟(玄室)とし、死者の台座を備えた横穴墓である。

崎浜の地名の通り、当時は横穴墓のすぐ下は海水が寄せる浜であった。人々は近親者の遺体を一定期間、横穴墓に納め、白骨化した遺骸を霞ケ浦の水で洗浄し、改葬したのであろうか。当時は仏教的死生観が浸透していなかった可能性があるが、霞ケ浦は死者が行く彼岸の世界と考えられていたのかもしれない。

夕刻、崎浜から眺める鏡のような湖面は錦に輝き、亡き人をしのぶ心を癒し、静謐(せいひつ)な浄土を想起させたのであろうか。奈良時代に成立した常陸国風土記には、当地は常世国ではないかとの記述がある。

沖縄や奄美には「ニライカナイ信仰」が伝わる。海の彼方にニライカナイ(浄土世界)があり、新しい命はそこから此岸の現世に誕生し、死者は彼岸へ還ると信じられた。信じることで死の悲しみ、生の苦しさが慰められた。

かつて,霞ケ浦でも同様の信仰があり、霞ケ浦を大切にした素朴な人々が暮らしたであろうと想像することは難くない。霞ケ浦の再生にとって、祖先のように、湖を祈りと信仰の対象として眺め、水神、水天宮、弁才天を祭る気持ちを尊重することが、地域社会が目指す方向の一つであろう。科学、技術、経済、効率、政策、合理主義だけでなく、歴史、文化、生命を尊重する平衡感覚が大切なのである。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)

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《くずかごの唄》38 世界的視野で語る感染症対策

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結婚式で、父の実さん(後列右から4人目)に抱かれる2歳くらいのケイジ・フクダさん。実さんの隣が妻の道子さん。前列右端は中村万作牧師。右下カラー写真は5月13日の講演会で再会した筆者の奥井登美子さん(左)とケイジ・フクダさん

【コラム・奧井登美子】5月13日、水戸プラザホテルで、ケイジ・フクダさんの医療関係者と自治体関係者向けの講演会があった。テーマは「国際的な感染症の課題と今後の取り組み」。

ケイジ(敬二)さんは土浦市の生まれ。米バーモント大学で医師になり、アトランタの疾病予防管理センターで感染症を研究し、世界保健機構(WHO)でインフルエンザ対策を担当した、感染症の世界的なプロである。WHOのマーガレット・チャン氏の関係で、現在は香港大学教授として活躍している。

ケイジさんの父、実さんは土浦の沖宿の生まれで、九州大学の医学部麻酔科の陣内教授の下で研究。米国に渡ってからも、人柄を買われて州医師会長をするなど、国際的に活躍していた。

母親の道子さんは、土浦フレンド教会の中村万作牧師の娘で、医者として土浦協同病院に勤務していたこともある。福田家の兄弟2人と中村家の姉妹2人は、偶然仲良く結婚。私たちは親戚として、親しい友人として、この4人と付き合っていた。

ケイジ・フクダさん とても懐かしい人

道子さんは、よく私にお手紙をくださった。実さんは道子さんが亡くなった後も、学会などで日本に来ると、霞ケ浦の風景を懐かしく思い、茨城の言葉が聞きたくて、必ず土浦に寄られた。そして、私の車で沖宿の福田家の墓参りをし、歩崎あたりを散策するのが習いになっていた。

ケイジさんの弟、クリストファーも時々土浦に遊びに来て、うちの娘と筑波山に登ったりしていたが、ケイジさんは、家族が米国に行く前の、幼い時にお会いして以来である。

ケイジさんの祖父の中村万作牧師は、長い間、奥井家の精神的支柱であった。戦中も戦後も、自分を失わない人間として強い精神を貫いた人。父親の実さんは、国際人でありながらとても優しい細やかな人だった。

通訳を通してケイジさんの講演を聞きながら、感染症の内容の深刻さ、世界的流行時代への対策など、大きな問題に挑む一途な姿勢を感じる一方、途上国の住民に対する優しさを感じて、涙が出そうになってしまった。

成人してから初めてお会いした人なのに、何かとても懐かしい人なのである。祖父と父母の大きさと優しさを、一つの身体の中に持っている人。そう考えて、私はケイジさんと堅い握手をしたのだった。(随筆家)

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《ご飯は世界を救う》11 「ツクバパンケーキ88カフェ」

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ツクバパンケーキ88カフェ

【コラム・川浪せつ子】半年余りランチを掲載させていただいていますが、今回はスイーツ。そして、今までの中で一番お値段が高いもの。と言っても、2000円しませんが。

毎回、ランチのお値段、1000円が一つの目安です、私の場合。もちろん、お友達との集まりや行事のときは、ちょっとは張り込みますよ。でも、貧乏性なんです。息子が大きくなったとき、「お母さんは150円の飲み物も買ってくれなかったね」。

そうなんです。息子のスポーツクラブのときも、いつもたくさん沸かしている麦茶を、空いたペットボトルに入れて、持たせていました。3人もの男の子、大食いで、人並み外れてでっかくて、倹約せずに育てられるとは思いませんでした。その時の習慣(?)が、染みついて…。

そんな私ですので、1500円近いパンケーキ、しり込みしていたのです。コーヒーも頼むと、2000円近くするし。それが、ここ「ツクバパンケーキ88カフェ」さん(つくば市竹園、デイズタウン内)は、昨年末にできたばかりでPRということもあり、半額セールの折り込み広告が入っていました。「やったね!」ということでユックリ描きたいし、お一人様で「スイーツスケッチ」でした。

コーヒー飲みながら味わうステキな時間

スィーツを、1人でコーヒー飲みながら、本も読んだりして、のんびりと味わう。なんてステキな時間でしょ♪ でもこのパンケーキ、あまりの大きさで、一気には食べられませんでした。コレはね、それでもプレーンなのです。

イチゴやラズベリーのついた方が、絵も見栄えがするのですが、こちらは半額でないし、だいぶお高くなります。プレーンでもスゴク満足。そうするとね、絵も美味しそうに良くなるのです。

おケチの話をしましたので、ついでに。飲食店のクーポン、割引券、ポイントカードなど、しっかり貯めて、いつもバックに入れています。20~30円安くなったとしても、今日1日がとっても良い日だったような気分に。

画材屋さんに行ったら、1本1000円近くする絵の具や、本屋さんでは「絵の本屋」「写真集」お高くても迷わず買ってしまったりするんですけどね。でも、やっぱりスーパーや八百屋さんでは、見切り品に行ってしまう私です。

そんなことが続いている毎日、連れ合いから言われてしまいました。「いつも値段ばっかり気にして。食事に行っても、一番に値段で決めているじゃないか。もうこれから何年生きられるか分からないんだから、自分が一番食べたいものにしたら? それから、安いものじゃなくて、値段の高いものはそれなりに、やっぱり理由があって価値があるんだよ。いい加減にソレ、分かった方がいいよ!」。

「はいはい。そうですね」「ダメだ、こりゃ」。私だって、出すときには出すんです。たぶん。(イラストレーター)

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《続・平熱日記》37 パンチパーマ 宇宙もクルクル

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【コラム・斉藤裕之】このところの5月3日は、牛久市にある澤田茶園で「新茶摘みとピザの会」。今年も好天に恵まれ多くの人が訪れ、茶畑では八十八夜の新茶摘み。用意したピザも大好評のうちに無事にイベント終了。夕方からは、手伝ってくれたジミーちゃん(日本人です)宅で、「お疲れさん会」へと流れ込みました。

実はこのジミーちゃん、40も半ばを過ぎた誰もが認める正しいやもめだったのですが、この茶摘みの会で知り合ったハルちゃんと電撃結婚。新居は大工であるハルちゃんのお父上の渾身(こんしん)の作。料理は、玄人はだしのジミーちゃんの担当。とくれば、酒も進み宴もたけなわとなったころ、話題はひょんなことから仏像に。

さすが牛久というかお膝元というか、仏像や仏教についてうんちくが披露される中、「実は俺はその昔、大仏って呼ばれていてさあ…」と私。

高校を卒業していよいよ上京するとなった時のこと。小さいころからお世話になっていた坂本理髪店のおじさんが「斉藤君、東京に行くのを祝っておじさんがサービスしてあげよう」ってことで、かけてもらったのが当時流行っていた?パンチパーマ。「ありがとう。わしも頑張るけえ」って意気揚々と上京して間もなく、付いたあだ名が「大仏」。この話で一同爆笑。

さらに、「斉藤君、これで2、3カ月はバッチリじゃ」という坂本のおじさんの太鼓判と相反して、先の丸まったまま根本だけ伸びていく髪の毛はちょうど蕨(わらび)かぜんまいのようになってしまったというエピソードに、腹を抱えて笑われてしまいました。

ちょうど10数年ぶりに坊主頭を止めて髪を伸ばし始めた私でしたので、一層話も盛り上がったのでしょう。

うんこはなぜとぐろを巻くのか?

いささか罰当たりな話ですが、螺髪(らほつ)と呼ばれる仏様の御髪(おぐし)は文字通り螺旋(らせん)構造。「人の体、自然、宇宙全ては螺旋でできている。例えば、うんこはなぜとぐろを巻くのか?」。これは芸大の生物学の故三木茂教授の名物授業。

また思い出すのは、フランスで長女と仲良くしてくれたアルジェリアの作家の子供達、アメルとナディア。イスラム教徒の姉妹の髪の毛は、見事な螺旋状でほんとにクルクル。一方、デューラーの描くキリストもクルクルパーマ。つまり、3大宗教のルーツもお茶の葉も蕨もぜんまいも、つまり、宇宙は螺旋のクルクルなのです。

時間や思考も螺旋状? それらが交わる瞬間を運命とか奇遇とか言うんでしょうか。奇しくも、この日、かみさんが次女の働く美容院へわざわざ髪を切りに行きました。なんとその店は、パンチパーマの私が東京に来て初めての日々を過ごした先輩のマンションのすぐ近く。かみさんはクルクルパーマではなく、緩やかなカールで帰宅しました。(画家)

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《邑から日本を見る》39 東海第2の原電説明会に出席

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】東海村の東海第2原発の再稼働を目指している日本原子力発電(以下原電)は、4月23日の東海村を皮切りに状況説明会を開いている。私は8日の那珂市での説明会に出席した。原電の説明会はこれまでに何度も開かれているが、東海第2の運転に必要な一連の審査に合格し、原電が再稼働を目指す方針を表明してからは初めて。

説明会は那珂市中央公民館で開かれ、約60人が参加した。原電が、8年前の東京電力福島第1原発事故の原因、教訓を踏まえ、東海第2原発の安全性向上対策を紹介し、その後約1時間、参加者からの質疑が行われた。

私は「原電は安全性を強調するが、原発の運転にはヒューマンエラーや想定外の事故が起こり得る。原子力規制庁は、東海第2は新規制基準に合格したということであって、100%安全を保証するものではない、と言っている。今回の説明でも、万が一の災害対策を講じると言っている。もし事故を起こしたら、誰が責任をとるのか。そもそも責任をとれるのか」と聞いた。

これに対し、原電側は「事故を起こしてはならないという決意で、責任を持って取り組んでいく」といった発言のあと、渋々と、責任は原電の社長にあることを認めた。先の原子力規制庁の説明会では、責任問題については回答を拒否していた。

「人間は原発をコントロールできない」

私の他に手を挙げる人が多くあり、最後は時間を理由に打ち切られてしまった。会場で出た質問、意見などから幾つかを紹介する。

▽原発はクリーンエネルギーだと言っているが、実際には発電量の3割しか利用できず、残 りは海に放出し、海水を温めている。地球温暖化の一因ではないか。

▽わが国はどこも地震の巣だ。地震は人間の力では封じ込められない。

▽福島の事故から8年経ったが、原発がなくとも電力不足にはなっていない。国も再生可能エネルギーにシフトしてきている。

▽原発は一番コストが安いと言っているが、事故処理や使用済み燃料の処理、廃炉などに莫大なカネがかかり、安くない。

▽人間は原発をコントロールできない。40年経過し、最も危険な東海第2を動かし、国民、住民に巨大なリスクを負わせることは承服できない。

▽安全対策の費用はどこから出るのか。主婦の感覚では、膨大な借金は返せないのではない かと心配だ。

▽事故を起こさないという精神論ではダメだ。原発の時代は終わった。最大の安全対策は、運転しない、再稼働させないことだ。

前に紹介した茨城大学の「地域社会と原子力に関するアンケート調査」では、地域住民の6~7割は「原子力規制委員会など専門家の判断は信頼できない」と考えていることが分かっている。今回の質問や意見を聞いていて、そのことが確認できた。テロ対策や避難計画など、この日は説明も質問も出なかった課題がまだ多く残されている。

原電は今後も説明会を、原発30キロ圏内の14市町村と小美玉市で開く予定でいる。(元瓜連町長)

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《映画探偵団》19 夢想権之助とアラン・ドロン

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【コラム・冠木新市】令和元年5月から、『桜川文化圏構想』なる講座を筑波学院大学コミュニティカレッジで始める。桜川市、つくば市、土浦市を流れる桜川に残る歴史・伝説・民謡を語る内容だ。世阿弥作の能「桜川」、二宮尊徳が作った「青木堰」など9つの話をする中の一つに、神道夢想流杖術の流祖「夢想権之助」があり、これが難物である。

私が夢想権之助を知ったのは10数年前だった。当初は、名前の印象から「眠狂四郎」と同じく、小説の架空のキャラクターだと思っていた。ところが後から、本当に存在した人物と分かり驚いた。権之助は江戸時代初期の剣客、宮本武蔵と試合をするが、二天一流十文字留に敗れる。

しかし、その後修業を積み、2度目の挑戦で勝利する(引き分けの説もあり)。これが事実なら、佐々木小次郎をしのぎ、映画、TV、舞台の主人公となって活躍して当然なのに、ほとんど知られることのない剣客なのだ。

この人物の資料は少なく、生没不明。本名は山本勝吉、または平野権兵衛といったようだ。権之助は名前の通り、夢と縁がある。武蔵に敗れた後、筑前(福岡県)の宝満山にこもる。ある日、夢の中に童子が現れ、「丸木をもって水月を知れ」(意味不明)の神託を受ける。そして「刀槍は人を殺し傷つけるものゆえに望みにたらず」と、剣を捨て杖術をあみ出す。この杖術が筑前黒田藩に伝わり、下級武士が学ぶ捕手術となり、現代に受け継がれている。

ところで、生没不明の権之助の顕彰碑が桜川市役所真壁庁舎敷地内に建っている。2014年11月に権之助生誕の地として建立された。どうやら、常陸国城主真壁氏幹の家臣・桜井大隈守の弟子だったことから、真壁出身となったようだ。権之助は若いころカブキ者で、乱暴者だったとの説もあるが、それは表向きで実は地道な男だったとの説もあり、結局は想像力で補うしかない人物なのだ。

杖術の祖と「サムライ」

フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソー著の『孤独な散歩者の夢想』に「嘘をついても、自分にも他人にも得にもならず損にもならない場合には、それは嘘でなく、作り話である」との一節がある。武蔵に敗れ、山ごもりをして杖術を考案した権之助を想像すると、ジャン・ピエール・メルビル監督、アラン・ドロン主演の『サムライ』(1967)の冒頭シーンが思い浮かぶ。

ガラーンとした薄暗い室内の中央に鳥かごが置かれ、一羽の小鳥が「ピッピッ」と鳴いている。ベッドで休んでいた男が煙草に火を付ける。煙が流れると、画面右端に小さく白文字が出る。「サムライの孤独ほど深いものはない さらに深い孤独があるとすれば―ジャングルに生きるトラのそれだけだ ≪武士道≫より」。

もっともらしい引用文のようだが、これはメルビル監督の創作した言葉である。ベッドの男はドロンで、一匹狼の殺し屋。これから仕事に出掛けるとの想定だ。

夢想―孤独―サムライ。私は『サムライ』のドロン役に夢想権之助をイメージする。そして、あまり人気のない「桜川」と「夢想権之助」がオーバーラップする。6月の講座で権之助を語る際には、フィクションを加えるつもりである。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

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《地域包括ケア》35 在宅緩和ケア かかりつけ医の役割

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在宅医療・介護連携の推進=厚労省資料から

【コラム・室生勝】前回の家族の看(み)取りについてのコラムは言葉足らずであった。家族だけで看取る場合は、呼吸の完全停止の確認を時間をかけて行い、それを死亡時刻とする。医師は深夜の臨終に立ち会わなくてもよく、出来るだけ早く死亡確認を行えばよいと考えている。

認知症の終末期は、一般に後期高齢者の最期の症状と変わらないが、アルツハイマー型認知症や脳血管性認知症の末期には、けいれん発作が見られることがある。いまにも死にそうな状態に見えるが、数分でおさまることが多い。何回も繰り返すようなら、けいれん止めの座薬も必要である。

末期がんでは、亡くなる1~2カ月前になると食欲は低下し、ベッドで過ごす時間が多くなる。下肢筋力が弱くなって、歩行は一部介助となり、見た目にも衰弱し、死が間近であることが分かるようになる。身の置き所のない体のだるさ、吐き気・嘔吐(おうと)、便秘はつらく、末期になると3分の2以上の人が痛みで苦しむ。

痛み、倦怠(けんたい)感などの身体症状だけでなく、落ち込みや悲しみなどの精神的な苦痛、迫り来る死への恐怖なども患者を苦しめる。これらの身体的、精神的苦痛をできるだけ取り除き、自分らしい生活を送れるように支えるのが緩和ケアである。

在宅緩和ケアは、定期的に通院する病院の担当医師以上に、かかりつけ医が大きな役割を担っている。がん発症以前から一般的な病気の治療や健診を受けていた患者にとって、かかりつけ医は患者の日常生活や家族の様子をよく知る医師であり、相談にも応じてくれる。

在宅医療と介護サービスマップ

「つくば市在宅医療と介護のサービスマップ」を見ると、緩和ケアの一部である「疼痛(とうつう)緩和」を実施する診療所は51カ所中26カ所である。疼痛緩和の薬剤の進歩はめざましく、研修会もたびたび行われている。

このマップから分かるように、疼痛緩和のほか、「自宅で受けることができる機器の管理や対応」として、「褥瘡(じょくそう)」「膀胱(ぼうこう)留置カテーテル」「在宅酸素」「点滴」は、51診療所の3分の2が対応してくれる。胃ろうを含む「経管(けいかん)栄養」は、約半数の診療所が管理できるとしているが、「中心静脈栄養」「人工肛門」「人工膀胱」は3分の1以下、「人工呼吸器」は8診療所と少ない。

外来診療をせず、在宅医療を専門にしている医師は5人おり、在宅医療機器管理にも精通している。診療所46カ所も機器管理が可能な在宅医療を行っているが、複数の診療所が得意な機器管理で協力し合うグループ化と、在宅医療専門医との連携が望まれる。

在宅医療を行っている医師にとっては、訪問看護師は頼りになるパートナーである。定期的に訪問し、患者の訴えを聴き、表情や皮膚の観察、脈や血圧の測定、家族への介護指導などを行う。24時間体制の電話相談や緊急時訪問もしてくれる。緩和ケアでは、患者や家族の苦しさや悩みを聴き、心のケアを担っている。

2035年には団塊世代が80歳以上の死亡平均年齢となり、「多死時代」を迎える。つくば市でも看取りの場としての病院や施設は足りなくなり、在宅看取りが増えるだろう。市医師会は、2035年問題に備える体制づくりを進めてほしい。(高齢者サロン主宰)

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《宍塚の里山》38 渡り鳥の鷹「サシバ」 里山で営巣

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里山のサシバ

【コラム・及川ひろみ】渡り鳥である鷹(たか)「サシバ」は4月、宍塚の里山にやって来ます。そして、谷津田に近い林に営巣(えいそう)し、カエルやヘビを狩り、雛(ひな)を育てます。捕らえたヘビを脚にブラリとたらして飛ぶ姿や、大きなウシガエルを木々の上すれすれに運ぶのを見ることもあります。ピックウィー、ピックウィーと鳴きながら低空を飛ぶ姿は、この時期ならではの里山の風物詩です。

30年ほど前までは、複数の営巣が見られました。耕作が行いにくい谷津田は、農家の高齢化に伴い、そのころから耕作放棄が一気に進み、サシバの餌であるカエル、そしてカエルを餌とするヘビが減少、また放棄地では葦(あし)など背の高い植物に覆われ、餌を狩るのも難しくなりました。

このようなことは、サシバが営巣する所で広く起こりました。それまで馬糞鷹(ばふんだか)と揶揄(やゆ)されるほど数多く見られたサシバですが、今や絶滅危惧種(レッドデータ種)になってしまいました。

宍塚の会では1990年から、サシバの繁殖状態を調査、複数の番(つがい)の繁殖を確認していました。NHKの番組「生き物地球紀行」の中の「サシバ」は、宍塚の里山を舞台に営巣・育雛の様子を撮影したもので、1996年放映されました。

しかし、その後、宍塚では繁殖が確実には行えなくなりました。会では1990年から毎年、春先に産卵するアカガエルの卵塊数を数えていましたが、次第に谷津田の休耕が広がり、97年ごろから卵塊数が激減、同時にサシバは営巣するものの、巣立ちが確認できなかったのです。

9~10月初旬、群れて西へ

会ではこの状況を憂い、地権者の協力を得て、99年から休耕地になった田んぼの復田活動を本格化させました。当時、復田は大変難しいことで、収穫したコメと同量のコメを開発途上国へ援助米として送ることが条件でした。無農薬で栽培する貴重なコメを援助米にするのは忍び難く、収穫量に見合うコメを地元農家から買い入れ、援助米にしました。

耕作機もない中、大勢が手をつなぎ足踏みをしながら耕す、人力耕耘(こううん)を行ったり、田に大きな稲文字「サシバの里」やサシバ、カエルなどの絵を、黒米、赤米、緑米などの色の付いた米で描く「田んぼアート」など、楽しみながらの稲づくりでした。

田んぼの復田と同時に、カエル、ドジョウの産卵用ビオトープや湿地の整備を行い、カエルの産卵場所を確保した結果、卵塊数は一時の6倍になり、今では複数の営巣が確認できるようになりました。今年のアカガエルの卵塊数は昨年よりかなり多いと、調査者は言っています。雛は無事育つことでしょう。

9月から10月初旬にかけて、サシバは群れて西へと旅立ちます。行く先は沖縄、フィリピン、インドネシアなどで、暖かな地で冬を過ごします。(宍塚の自然と歴史の会代表)

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《食う寝る宇宙》 37 ヤンチャな生徒に人気があった父

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【コラム・玉置晋】僕の父は県立高校の教員でした。戦後間もなく東北大学理学部を出て、宮城県や福島県の高校で教えて、最終的に茨城県に落ち着いたらしいです。県立高校の教員が越県することは、大変イレギュラーと思いますが、父はやってのけた。若いころは突出して優秀で、有力者の支援があったのではないかと推定されます。

若くして、ある進学校の校長に抜擢される話もあったようですが、定年まで現場の先生を通したのは、何らかの信念があったか、何かをやらかしたか(少なくともハレンチなことをする人ではないことは断言)なのでしょうね。本人が墓場まで持っていってしまったので、真実が明かされることはありません。

そういった背景もあり、進学校ではなく、比較的ヤンチャな生徒さんが多い学校に赴任することが多かったようです。どういうわけか、父は、ヤンチャな生徒さんの心をつかみ、絶大な人気がありました。

あるとき父に連れられて、ある高校の最寄り駅に降り立つと、50名近くの「リーゼント」「モヒカン」「パンチパーマ」が整列していました。そして、「先生、息子さん、おはようございます!」と挨拶されました。完全に漫画の世界です。

そんな皆さんは、卒業後、「先生がいなければ卒業できず、今の自分はありませんでした」と毎年挨拶に来てくれる、茨城を代表するシェフ。父を見かけて、「先生~」と挨拶のために電車を減速してしまう、電車の運転手さんもいましたね(もう時効ですよね)。今や皆さん、茨城の重鎮になっておられます。

「お父さんからの宇宙研究手形」

大学生のとき、地球や宇宙の勉強を死ぬほどやりたくて、岩波講座「地球惑星科学」(全14巻)を大学の図書館から何度も借りて読んでいました。名著ゆえ、手元に欲しかったのですが、5万円近くかかり、貧乏学生にはとても買えない。

父に手紙で相談したところ、なんと、その購入代金を送ってくれた。そして、同封されていたルーズリーフには「お父さんからの研究手形」と一言書かれていました。このときの体系的な勉強は、今取り組んでいる宇宙天気防災研究の原点になっています。

この手形をもらってから20年。父の存命中には間に合いませんでしたが、いつか、お返ししなければと思います。だから、僕は「食う寝る宇宙」を真摯(しんし)に続けます。(宇宙天気防災研究者)

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《土着通信部》30 広がる「五月晴れ」 誤用の指摘はうるさいか

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5月の空にこいのぼりを探してもなかなか見つからない

【コラム・相澤冬樹】五月(さつき)晴れは五月雨(さみだれ)の晴れ間のこと。入梅後、旧暦五月(6月)に入ってから使う表現だ――と誤用をたしなめる。校閲仕事の習い性で、テレビのレポーターらが5月の行楽日和を「五月晴れ」というのが気になって仕方がない。連休中、複数の局で耳にするとなおさらだった。

辞書には「①さみだれの晴れ間、②五月の空の晴れわたること」(広辞苑)とある。さみだれにこだわらなければ、特に旧暦と断っていないから、今の時節に五月晴れを使っても構わないようにみえる。俳句の季語ならともかく、日常会話の範囲なら目くじらを立てることではないかもしれない。

ちょっと調べてみると、NHK放送文化研究所のサイトに「放送現場・視聴者の疑問」を扱うコラムがあり、「五月晴れ」の使い方に触れている。

  • 「五月」(サツキ)は旧暦・陰暦の呼称です。「旧暦5月(今の6月)が梅雨のころにあたるところから、もともと「五月晴れ」は「梅雨の晴れ間」「梅雨の合間の晴天」を指しました。ところが、時がたつにつれ誤って「新暦の5月の晴れ」の意味でも使われるようになり、この誤用が定着しました。(メディア研究部・放送用語 豊島秀雄)

これが書かれたのが2002年のことだから、多分、誤用定着の分水嶺がこの頃だったのだろう。言語表現の誤用に神経をとがらせ、最後まで慎重派のはずのNHKが「定着した」と折れてしまえば、もはや怖いものはない。各局「錦の御旗」に押し立てて、みんなで渡るだけである。

今ではもっと進んで「五月(ごがつ)晴れ」という読み方まであるらしい。たしかに新人アナあたりが使いそうだ。さすがに「ごがつばれ」では国語辞典に載っていなかったが、ウィキペディアには「ごがつばれと読む場合は、新暦5月の晴れの日を指す。5月半ばごろに大陸から流れてきた高気圧によって、晴天が続く」との記述がある。

なるほど、「ごがつばれ」を新暦5月に使えば、「さつきばれ」を旧暦五月に戻せる。一見合理的に見えるが、定着はしないだろう。言葉は生きものだから、計算通りには運ばない。こんな言い回しの揚げ足をいちいちとっていたら、即座に「うるせーな」と言い返されそうだ。

そうそう、「五月蠅い」と書いて「うるさい」と読む。あの蠅(ハエ)も、暖かくなって活動が盛んになる夏場のハエのこと。俳句の季語にいう、五月蠅(さばえ)である。今どきは陰暦五月―新暦6月まで待たずとも、早々にコバエが発生して結構うるさい。気候変動のせいか、新暦と陰暦の5月の季節感が随分と入り交じってきてしまっている。(ブロガー)

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《吾妻カガミ》55 つくばの政治テーマ 総合運動公園問題

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つくば市役所

【コラム・坂本栄】つくば市にとっては重いテーマ「総合運動公園問題」について、五十嵐立青市長はやっと処理方針を公表しました。市原健一前市長がぶち上げた総事業費370億円(うち土地代66億円)の大プロジェクト。市民の反対に遭って白紙撤回に追い込まれ、市原さんが4選出馬を諦める一因になった案件です。

逆に五十嵐さんにとっては、反対運動をテコに市長選に臨み、当選の主因になった案件です。ということは、この問題の処理を誤ると市民のブーイングが起きるでしょうから、厄介な政治テーマと言えます。

処理のポイントは、本サイトの記事「総合運動公園用地売却へ 事業提案の公募開始 つくば市」(4月26日掲載)をご覧ください。用地に関心がある業者さんは、市HPの「高エネ研南側未利用地の事業提案を募集します」をチェックしてください。

募集要項を読むと、土地処分のプロセスが2段構えになっており、市の慎重な姿勢が伝わってきます。まず、事業提案(46ヘクタールの土地をどう使うか)を募集、気に入った利用計画を採用したあと、利活用する事業者(土地買い取り業者)を選ぶという段取りです。市としては、お荷物の土地は手放すが、買い手の使途には口を出すというわけです。

おやっと思ったのは、受け付けを拒む提案もあると断っていることです。住宅系用途(戸建てやマンションなどの住宅団地?)、それから大規模な百貨店・総合スーパー(ショッピングモールの類い?)はご遠慮ください、と。どこか誘導したい事業体があるのでしょうか?

万博やTX並みの大プロジェクト

市原さんが総合運動公園計画を公表したとき、私は「なかなか面白いプランだ」と思いました。つくば市の歴史の中では、科学万博(1985年)、TX開通(2005年)に並ぶような大プロジェクトだったからです。

施設は、公式陸上競技場、総合体育館、ラグビー兼サッカー場で構成され、今年の茨城国体、来年の東京五輪での活用も想定されていました。スポーツ施設が集積する水戸市に比べ、つくば市は東京に近いという地の利もあり、両イベントのあと、プロスポーツの誘致も期待できました。

ほぼ同時に、市原さんは土浦市との合併を提案、茨城初の中核市(当時の要件は人口30万以上)を誕生させ、県の臍(へそ)をつくばに移す構想もぶち上げました。運動公園計画は、「県都」を県央から県南に移す企(たくら)みとセットだったのです。

しかし、運動公園計画も隣接市との合併構想も、市民の反対(前者は住民投票で81%が否、後者も市民調査で85%が否)で潰(つい)えました。前向きの話でも後ろ向きの話でも、首長のセンスと政治力(特に市民を説得する力)が大事だと思うこのごろです。(経済ジャーナリスト)

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《ON THE ROAD》 2  日常の時間を忘れ ノンビリ過ごす

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【コラム・石井康之】今回は土浦駅前から霞ケ浦方面を中心に書きたいと思う。これから気候がよくなると、あちこちでイベントが開かれる。1~2日の期間限定で、イベントの入場スタンプをもらうと、そこに何度でも入れるというのはどうだろう? 野球場を使ったグルメ祭り、野球場で横になり見ることができる花火―プロジェクションマッピングも出来そうだ。

駅からさほど離れない霞ケ浦の水辺に、食材、釣り道具、ビーチマットなどをケータリングできるキャンプ場があってもいい。夏の間だけ、ビーチのように砂を人工的に入れてもよい。海外でも、街中の川をビーチ風に砂を入れ、お店などがつくられていた。

イベントは、野球場、図書館の屋外部分、映画館、街のライブハウスなどで開いたらどうか。開催時間を分散させて、いろいろなイベントを体験してもらう。

例えば、朝はロードバイクで霞ケ浦周辺を走り、昼はグルメフェスティバルに行き、疲れたらテントで少し休む。夕方から、野外ライブや花火を楽しむ。船上パーティーもありではないか? 日常の時間を忘れ、ノンビリ時間を過ごすというコンセプト。

表現は「点」「線」「面」

駅前付近のお店にもアイデアを出してもらい、スタンプラリーに参加してもらう。それから、サイクリングをメインに来る人たちのために、「道の駅」のような休憩所をオープンエアーな空間でつくる。

例えば、荷物輸送のコンテナを何個か使い、アート風に仕上げたお店やレジデンス。アーチストを募集し、日常とは異なる文化環境で作品(お店)を制作してもらう。アイデアを公募して作品化するのも面白い。店の時間帯や曜日も自由に選べ、シェア出来るようなイメージ。

最近は「もの」より「こと」を売る時代。すべてのことにありえるのは、「点」での表現だけではなく「線」へ、そして「面」になることが大切と思う。(ファッションデザイナー)

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《続・気軽にSOS》36 なんでもかんでも相談

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【コラム・浅井和幸】毎月、つくば市とかすみがうら市で、各1回ずつ相談会を開催しています。名前の通り、なんでもかんでも相談をお受けし、そこから次の一歩を一緒に探すという趣旨で開催しています。現実的な悩み解決策を提示する場ということです。

精神保健福祉士、行政書士、社会保険労務士、ケアマネジャー、保育士、司法書士、弁護士など、主に国家資格を持つ有志がボランティアで集まり、どのような悩みにも対応する合同での相談会です。各相談員には、些細(ささい)な、日常の引っ掛かりでも、真剣に対応して次の一歩を提示するよう伝えています。

例えば、明日の彼女の誕生日に何をプレゼントしたらよいか? というような悩みでも対応するということです。

といっても、相談に来られる方は、かなり重く辛い悩みが多いものです。遺産相続で骨肉の争いになりそうだとか、住む場所を出ていかなければいけないとか、近所の方から嫌がらせを受けているとか、10年ひきこもっている子どもを抱えているとか、暴力を受けていて家に帰るのも怖いとか、障害者支援や年金の利用方法が分からないとか、です。

相談は無料 予約も不要

かすみがうら市内で開催している、なんでもかんでも相談会は、2019年5月で98回目を迎えます(つくば市の方は9回目になります)。かすみがうら市や社会福祉協議会の広報もあり、2018年度は100件を超える相談を受けしました。

相談するために、かすみがうら市の相談会会場のやまゆり館や、つくば市会場の筑波銀行つくば副都心支店を訪れる皆さんのお住まいは様々で、県外からも訪れます。相談会を訪れる方は、相談が出来る場所がないこともあるでしょうし、場所はあったけれど相談員との相性が合わなかったという方もいます。

相談は無料で予約の必要もありません(法律相談は要予約です)。もし何か悩みがあれば、「なんでもかんでも相談」「なんでもかんでも相談つくば」で検索してみてください。小さな一歩を積み重ねることで、大きな山も乗り越えることが出来るものです。(精神保健福祉士)

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《ことばのおはなし》9 桜のおはなし

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【コラム・山口絹記】4月の中頃のことである。

薄暗い古本屋の片隅で古書を物色していた私は、古書の匂いに混じった懐かしい香りに目を上げた。

書棚から、女性が本を抜き取ろうとしているところだった。ああ、香水だったのか。私は一人納得する。女性の顔は、小窓から差し込む光で逆光となってよく見えない。

小窓の外で桜の花びらが舞い散っていた。暗い室内と外のまぶしさのコントラスト。小窓から見える桜吹雪と、手の上でページがはらはらとめくれるたびにきらきら舞うほこりは、暗い室内を額縁とした印象派の絵画のようで、私はただただ見入ってしまう。

私の視線に気がついたのか、女性がこちらを見た。顔は見えないが目が合った気がして、私はあわてて視線を落とす。

本を棚に戻して外に出ると、もう桜の樹はほとんど葉桜で、あれが最後の花吹雪だったようだ。

懐かしい匂いに振り返ったり、きれいな音楽が聞こえて顔を上げたり、そうして見つけた、目を細めてしまうような美しい何かを、誰かと共有できたら、と思うことがある。

ただ、その美しい何か、というのは、手に持った本の重みや、私の記憶と結びついた香りや景色との総体のようなものであって、こうしてことばを連ねても、自分の中ですら復元できないようなものなのだ。

外はまだ寒い。空模様もまだまだ冬が抜けきらない。もうすぐこのあたりの桜は散りきってしまいそうなのに、困ったことだ。

春には春の匂いがある

葉桜を見上げながら、春はいつ来るのだろう、と考えていると、人の気配がしたので振り返った。先ほどの女性である。今度はしっかりと目が合ってしまった。

「春ですね」と大人なあいさつをする女性に対し、私はあろうことか、

「そうですか?」と答えた。

やってしまった。考えていたことが、そのまま口から出てしまった。女性は気まずそうに会釈しながら立ち去っていく。

我ながら致命的な季節感と社会性の欠如である。このような人間には、一般的に春が来ることなどない。困ったことだ。

私はもう一度葉桜を見上げる。桜といえば春だ。「桜」ということばを見聞きするだけでも、日本に生まれ育った者は春を感じることができる。いや、実体のない「春」というものを共有するためには桜の花が都合が良い、というべきだろうか。

しかし、桜がすっかり散ろうとする頃になっても、私の身体は春を感じられていない。私にとって、桜の花が咲く季節は桜の季節であって、冬でも春でもない。

私にとっての季節は、匂いだ。春には春の匂いがある。夏にも夏の匂いがある。秋にも、冬にもそれぞれの匂いがある。桜が咲くことより、セミが鳴くことより、樹木が紅葉することより、雪が降ることよりも、ずっと確かに、季節を感じることができる。

朝、目が覚めて、空気を吸った瞬間に、「あ、春だ」と感じる日がある。それはだいたい、桜が概ね散った後のことだ。いつか私が花粉症になって、鼻水をずるずるするようになったら、私の春はどこへ行くのだろうか。(言語研究者)

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