【コラム・山口絹記】4月の中頃のことである。

薄暗い古本屋の片隅で古書を物色していた私は、古書の匂いに混じった懐かしい香りに目を上げた。

書棚から、女性が本を抜き取ろうとしているところだった。ああ、香水だったのか。私は一人納得する。女性の顔は、小窓から差し込む光で逆光となってよく見えない。

小窓の外で桜の花びらが舞い散っていた。暗い室内と外のまぶしさのコントラスト。小窓から見える桜吹雪と、手の上でページがはらはらとめくれるたびにきらきら舞うほこりは、暗い室内を額縁とした印象派の絵画のようで、私はただただ見入ってしまう。

私の視線に気がついたのか、女性がこちらを見た。顔は見えないが目が合った気がして、私はあわてて視線を落とす。

本を棚に戻して外に出ると、もう桜の樹はほとんど葉桜で、あれが最後の花吹雪だったようだ。

懐かしい匂いに振り返ったり、きれいな音楽が聞こえて顔を上げたり、そうして見つけた、目を細めてしまうような美しい何かを、誰かと共有できたら、と思うことがある。

ただ、その美しい何か、というのは、手に持った本の重みや、私の記憶と結びついた香りや景色との総体のようなものであって、こうしてことばを連ねても、自分の中ですら復元できないようなものなのだ。

外はまだ寒い。空模様もまだまだ冬が抜けきらない。もうすぐこのあたりの桜は散りきってしまいそうなのに、困ったことだ。

春には春の匂いがある

葉桜を見上げながら、春はいつ来るのだろう、と考えていると、人の気配がしたので振り返った。先ほどの女性である。今度はしっかりと目が合ってしまった。

「春ですね」と大人なあいさつをする女性に対し、私はあろうことか、

「そうですか?」と答えた。

やってしまった。考えていたことが、そのまま口から出てしまった。女性は気まずそうに会釈しながら立ち去っていく。

我ながら致命的な季節感と社会性の欠如である。このような人間には、一般的に春が来ることなどない。困ったことだ。

私はもう一度葉桜を見上げる。桜といえば春だ。「桜」ということばを見聞きするだけでも、日本に生まれ育った者は春を感じることができる。いや、実体のない「春」というものを共有するためには桜の花が都合が良い、というべきだろうか。

しかし、桜がすっかり散ろうとする頃になっても、私の身体は春を感じられていない。私にとって、桜の花が咲く季節は桜の季節であって、冬でも春でもない。

私にとっての季節は、匂いだ。春には春の匂いがある。夏にも夏の匂いがある。秋にも、冬にもそれぞれの匂いがある。桜が咲くことより、セミが鳴くことより、樹木が紅葉することより、雪が降ることよりも、ずっと確かに、季節を感じることができる。

朝、目が覚めて、空気を吸った瞬間に、「あ、春だ」と感じる日がある。それはだいたい、桜が概ね散った後のことだ。いつか私が花粉症になって、鼻水をずるずるするようになったら、私の春はどこへ行くのだろうか。(言語研究者)

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