【コラム・玉置晋】僕の父は県立高校の教員でした。戦後間もなく東北大学理学部を出て、宮城県や福島県の高校で教えて、最終的に茨城県に落ち着いたらしいです。県立高校の教員が越県することは、大変イレギュラーと思いますが、父はやってのけた。若いころは突出して優秀で、有力者の支援があったのではないかと推定されます。

若くして、ある進学校の校長に抜擢される話もあったようですが、定年まで現場の先生を通したのは、何らかの信念があったか、何かをやらかしたか(少なくともハレンチなことをする人ではないことは断言)なのでしょうね。本人が墓場まで持っていってしまったので、真実が明かされることはありません。

そういった背景もあり、進学校ではなく、比較的ヤンチャな生徒さんが多い学校に赴任することが多かったようです。どういうわけか、父は、ヤンチャな生徒さんの心をつかみ、絶大な人気がありました。

あるとき父に連れられて、ある高校の最寄り駅に降り立つと、50名近くの「リーゼント」「モヒカン」「パンチパーマ」が整列していました。そして、「先生、息子さん、おはようございます!」と挨拶されました。完全に漫画の世界です。

そんな皆さんは、卒業後、「先生がいなければ卒業できず、今の自分はありませんでした」と毎年挨拶に来てくれる、茨城を代表するシェフ。父を見かけて、「先生~」と挨拶のために電車を減速してしまう、電車の運転手さんもいましたね(もう時効ですよね)。今や皆さん、茨城の重鎮になっておられます。

「お父さんからの宇宙研究手形」

大学生のとき、地球や宇宙の勉強を死ぬほどやりたくて、岩波講座「地球惑星科学」(全14巻)を大学の図書館から何度も借りて読んでいました。名著ゆえ、手元に欲しかったのですが、5万円近くかかり、貧乏学生にはとても買えない。

父に手紙で相談したところ、なんと、その購入代金を送ってくれた。そして、同封されていたルーズリーフには「お父さんからの研究手形」と一言書かれていました。このときの体系的な勉強は、今取り組んでいる宇宙天気防災研究の原点になっています。

この手形をもらってから20年。父の存命中には間に合いませんでしたが、いつか、お返ししなければと思います。だから、僕は「食う寝る宇宙」を真摯(しんし)に続けます。(宇宙天気防災研究者)

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