【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて。

JR常磐線で土浦から上野へ向かい南千住駅を発車するとすぐ、車窓左手後方に大きな石造地蔵菩薩の赤茶けた背中(東日本大震災で上半身が落ちてしまったが、篤志家の計らいですっかり修復された)が一瞬見える。

江戸時代、伝馬町の刑場で斬首された罪人を埋葬した(といっても、乱暴に穴を掘って遺体を放りこむ惨たらしい扱いだったらしいが)小塚っ原(こづかっぱら)の跡地に建立された供養のお地蔵さんである。露座姿は、東京都心(江戸城)に背を向けている。

長州藩に吉田松陰という「軽信の癖」のある若い藩士がいた。明治新政府を支えた多くの人材を輩出した「松下村塾」を主宰したところから、教育者と位置づけられるが、彼に系統だった教育思想書はない。あるのは、自らの行動そのものだった。義侠心からの軽挙が、尊皇攘夷を標榜する志士たちの魂を揺さぶり、幕末激動期の英雄に祭りあげられた。しかし、「軽信の癖」の徒に、ドロドロした現実の時代を動かす政治力はなかった。

黒船への乗船を目論み下田から小舟を漕ぎ出し、あえなく黒船側に拒絶された(黒船側にこそ、微妙な段階にさしかかっている日米交渉の障害となるややこしい邪魔者を追い返す、したたかな政治判断が働いた)。松陰は、鎖国禁令違反で投獄される。安政の大獄とよばれる、江戸幕府開国派による尊皇攘夷志士抹殺裁判で松陰は、伝馬町の白州へ引き出された。

江戸に背を向ける大きな地蔵菩薩

「おまえは、黒船に乗りこんで米国へ渡ろうとしたな。それが果たせず、おまえの野望は潰えてしまったわけだ」「ちがう。僕(松陰は、一人称を僕と称した)は、もっと大きな計画を練っていた。老中間部詮勝(まなべかつあき)を暗殺し、開国政策の頓挫(とんざ)を狙った」「何をっ」

幕府側が把握していなかった暗殺計画を、堂々と誇らしげにさえ披瀝(ひれき)された裁判官は、激怒した。もともと死罪に該当しないはずの松陰に、報復の斬首刑が言い渡される。即刻、首をはねられ小塚っ原へ投げ捨てられた。凶報に接した高杉晋作、伊藤博文(彼らは松下村塾生)たちが遺体を掘りおこし、現在の世田谷松陰神社の地へねんごろに埋葬した。

享年二十九。小塚っ原跡地に、大きな地蔵菩薩が、江戸に背を向け建立されている。常磐線の下り方向(常陸国方向)を見つめる視線の先は、松陰二十一歳の思いでの地、筑波山かもしれない。(作家)

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