水曜日, 4月 23, 2025
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《ことばのおはなし》11 メガネのおはなし

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【コラム・山口絹記】最近、メガネを新調した。とても調子が良い。

見えなかったものが見えてくる、というのはことばの綾(あや)ではない。画像の粒度が細かくなり、認識できる情報量が増えるのだ。

情報量が増えるのは良いことのように感じる。しかし、メガネ屋でレンズを作ってもらうとき、店員さんによく言われるのは、あまり視力を上げ過ぎると、疲れて具合が悪くなることがあるので、ほどほどにしておいたほうが良いですよ、ということだ。

もともと見えていなかったものが見えるようになることで疲れてしまう、というのは考えてみると不思議なことだ。

そもそも、私たち人間は普段何を見ているのだろう。光だろうか。確かに私たちの網膜(もうまく)には視野内の可視光が投影されている。それをすべて“見た”というのであれば、私たちは歩き慣れた道で、砂粒の一粒一粒を、水たまりにうつった他人の家と、実物との細かな差異を、通り過ぎた車の小さなキズを、すれ違った人の瞳にうつる自分の瞳を“見ている”ことになる。

しかしどうだろう。「今日はここに来るまで電柱が56本あったよ」と話したり、いつも履(は)いている靴には何個のヒモを通すための穴が空いているか覚えていては、日々の生活を送ることすら難しくなってしまう。網膜に投影されたものを情報として処理することと、注意して“見る”ことと、さらにそれを“記憶する”ことは、違うものなのだ。

だから、私たちは一つの手段としてことばを使う。上に記したものの総体は、一言で表現するなら景色だ。カメラの画質も、それをうつすモニターの解像度も日々進歩しているのに、それを“見る”私の処理能力も、“記憶”という儚(はかな)い最終処理結果も一向に進歩しない。私の脳は「景色は景色、全ては記憶する価値なし」と判断して、ときに今来た道を戻ることすらできずに道に迷ったりしている。

思い出は不完全な絵のほうが近い

ところで、以前、私は写真撮影の仕事をしていたことがあるのだが、面白い依頼を受けたことがある。

写真を編集する段階で、いくつかの写真を加工してほしい、というのだ。こんな感じに、と差し出された写真は、露出オーバー(過度に明るい)気味で、画質は少しざらついている。コントラストは強めで、さらにはケラレて(写真の周囲が暗くなっている)いるものだった。

撮影を担当する側としては、できるだけ良い画質で、もちろんケラレた写真など撮らないよう注意をしているので、少々驚いたのだが、なるほど、確かに思い出はこうした不完全な絵のほうが近いのかもしれないと納得したことがあった。ことばも、写真も、必ずしも情報量が多ければよいというわけではないのだろう。

私の裸眼がとらえる景色の情報量も残念なものだが、実は悪いことばかりではない。メガネを外し、霞んだ視界に飛び込んだ、ぼんやりと和らいだ夜のイルミネーションと、連なる車のテールランプ、太陽の光を反射してきらめく海、そうした、ことばにすれば“ただの景色”になってしまう記憶を、私は愛(いと)おしいと思っている。(言語研究者)

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《光の図書館だより》20 新企画・演劇体験講座がスタート

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声に出して戯曲を読んでみませんか?

【コラム・入沢弘子】7月に入りました。お子さんたちはワクワクする時期ですね。当館の「夏休み特集コーナー」では、お子さんたちの知的好奇心を高める本を揃えはじめました。「夏休み子ども講座」では、体験から本に関心を持ってもらう企画を実施。本好きのお子さんがますます増えることを願っています。

大人も日常と違う体験がきっかけで、それまで手に取らなかったジャンルの本に夢中になった、ということはないでしょうか?

当館では、7月から新企画・演劇体験講座「声に出して戯曲を読んでみませんか?」をスタートします。戯曲は演劇の台本の形式で書かれた文学作品。内容の主体となる台詞(せりふ)を、場面や登場人物の容姿や心理を想像しながら読書するのは楽しいものです。この企画は、戯曲を「声に出して読む」というもの。

しかも、演出家を講師にお迎えし、俳優も一緒に参加するというスペシャルな企画です。クジ引きで役を決めるため、「男性のジュリエット」や「高齢女性のロミオ」などが誕生する可能性があるのも一興。

これまで、図書館で実施してきた企画は「おはなし会」や「映画会」など受動的な性質のものでしたが、今回の企画は能動的。しかも参加者が「読む」ことでお話が立体的に展開されます。

「ロミオとジュリエット」「屋上庭園」「青い鳥」

実施に際しては、土浦を拠点に国内外で活躍している劇団「百景社」さんにご協力いただきます。全4回の講座のプログラムは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット(前編・後編)」、岸田國士の「屋上庭園」、メーテルリンクの「青い鳥」。

第1回は7月20日(土)。現在参加者募集中。2回目以降は図書館のウェブサイトでお知らせしてきます。会場も変わります。第3回の「屋上庭園」はアルカス土浦の「屋上庭園」で実施予定。1回のみの参加でもOKです。

あなたも戯曲文学と新しい出会いをしてみませんか? この講座に参加することで、みなさんの興味や関心の新しい扉が開かれることを楽しみにしています。中学生や高校生のご参加もお待ちしています。(土浦市立図書館館長兼市民ギャラリー副館長)

▽演劇体験講座「声に出して戯曲を読んでみませんか?」
・日時:第1回 7月20日(土)午後2時~(2時間程度)
・場所:土浦市立図書館研修室
・内容:「ロミオとジュリエット」(前編)
・対象:中学生以上
・定員:15名
・参加費:無料
・申込先:土浦市立図書館 電話(029-823-4646)または直接カウンターへ

▽第2回8月3日(土)、第3回10月5日(土)、第4回12月8日(日)の予定
▽詳しくはウェブサイト https://www.t-lib.jp/ をご覧ください

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《くずかごの唄》41 どんぐり山の18年② オオムラサキ観察会

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カブトムシのいる林にオオムラサキが寄ってくる=御供文範さん撮影

【コラム・奥井登美子】国蝶のオオムラサキの美しさは特別で、まるで宝石のように深い輝きを持っている蝶だ。一度見たら忘れられない。この美しい蝶を、どんぐり山にどんぐりを植えてくれた、たくさんの子供たちに早く見せてあげたい。

幼虫は榎(えのき)の木で育つので、近くに榎がないと育ってくれない。「榎の木、このあたり、ありますか」。「岡野家の山の裏に、大きな榎があるべよ」。

近所の人に教えてもらった所に、巨大な榎の木があった。木の下に、ウサギの耳のような大きな角を持ったオオムラサキの幼虫が何匹もいて、やっと安心することが出来た。来年の夏に観察会が出来たらいいなと思ったが、子供たちを集めるとなると、その前にマムシとヤマカガシ対策が必要である。

マムシとヤマカガシの扱い方

私は小学生の時に長野県の山奥の村に疎開した。その村では昆虫と蛇は、貴重なたん白質の食料である。最初、私は蛇が怖いといって泣いてしまった。泣くと男の子に生きた蛇を首に入れられてしまう。私は仕方なしに怖くないふりをして蛇取りを覚えた。村全体が南アルプスの傾斜の山地だ。

「マムシは山の低いところしか住めない。高い所はマムシがいないから大丈夫だ」。同級生で蛇に詳しい子がいて丁寧に教えてくれる。

マムシには毒があるので咬(か)まれたら大変。病院へ行ってマムシ血清を打ってもらわなくてはならない。マムシ血清は各市町村に必ず用意してある。

蛇を見つけると、尻尾(しっぽ)をつかまえてぐるぐる回転させる。回転しながら直径10センチくらいの小石を拾う。蛇の頭を道路にたたきつけて、頭の部分に拾った石をぶっつけて殺す。頭からくるりと皮を剥(む)いて、5センチくらいに切り、フライパンに入れてよく炒めて最後に醤油をかける。

ヤマカガシは付き合ってみると、かなり個性的な蛇だ。木に巻きついているから、何をしているのかとぼんやり見ていたら、くるりと角度を変えて私の顔にキスをしようとしたりする。油断をすると何をするかわからない小賢(こざか)しいところがある。困ったことに、ヤマカガシに咬まれると血清がないので、咬まれたらかなり厄介なのだ。

子供たちの集まるオオムラサキ観察会の前に、この2種類の蛇だけはどこかに隔離しなければならない。(随筆家)

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《雑記録》1 筑波メディカルで九死に一生を得た話

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瀧田薫さん

【コラム・瀧田薫】4月26日、私は自宅で倒れ、1昼夜経って気づいた時は筑波メディカルセンター病院(以下メディセンと略)のベッドの上だった。病名は「髄膜炎(ずいまくえん)」。何の兆候もなく、ある日突然病魔はやってきた。今、私は命長らえて、後遺症もなく仕事に復帰している。

ドクターや身内の話では、私の生還は「奇跡」に近いものらしい。せっかく助けられた命である。一患者の立場から、どのような条件と因果に導かれて私は生還したものか検証してみようと思う。後日、誰かの役に立つかもしれない。(なお、メディセンが公表している公益財団法人医療機能評価機構=以下、機構=の評価結果を参照した)

検証1. 救命救急センターの存在

メディセンの救急センターは、いわゆる3次救急患者まで受け入れる最高レベルにある。当然、多様な重疾患を扱った経験の蓄積があり、機構の評価もそれを裏打ちしている。さて、私の場合、待機していてくれた経験豊富な医師による髄膜炎の診断と処置がギリギリ私の救命に成功したということだろう。

この時のスピードが私の生死を分けたと思う。一般論として、患者は搬送先病院で受ける救命措置の質を選択できない。その質が患者の生と死を分けるとすれば、「私の場合は運が良かった」で済ませられる話ではないと思うのだが、どうだろうか?

検証2. 総合診療科ドクターチームの役割

入院した時点で、私の治療は総合診療科の3人のドクター(治療全般を統轄するスーパーバイザー、連動して動く若手のドクター、それに研修医)で構成されるチームに任された。このチームの効用は、患者の治療をしながら、同時に若手医師の教育・訓練が出来るところにあったと思う。実際、若手ドクターと研修医が熱心かつ丁寧(ていねい)に私のケアに当たってくれたのだが、そこには患者に対する責任感だけでなく、治療を通じて学び、経験を積もうとする彼ら自身のインセンティブが働いていたと想像する。

当然、ドクターの熱意は患者に伝わり、患者のドクターに対する信頼感も深まる。私の場合、患者としてこのチームに参加したかのような感覚さえ覚えた。機構がメディセンの「患者本位の医療」に高い評価を与えているのも宜(むべ)なるかな、チーム医療がもたらす安心感と居心地の良さは私という患者にとって何よりのことであった。

検証3. メディセン・システム

メディセンにおいて、医療と教育の複合システムは、医師だけでなく、看護師、理学療法士、作業療法士、介護士、さらに管理栄養士まで、院を構成する全職員をもらさず取り込むネットワークとして貫徹されていたように思う。各パートが、患者1人1人の病態を共通の認識とするためであろう、常に話し合い、調整し合い、スーパーバイザーの指示を仰いだ上で、その日その日の治療方針、手順が患者に示される。それが実に自然な流れとなっている。

私の率直な感想を言えば、ここまで現代の医療は患者本位の進んだものになったのかという驚きがあった。他方、これはメディセンだから実現し得た特別のシステムかもしれないとも思った。いずれにしろ、このシステムを担っている個々の職員の負担が軽いものであるとは到底思えない。患者本位の医療の提供と職員の負担軽減、この一見相反するベクトルの折り合いをどうつけるか、それがメディセンの課題なのかも知れない。

総括

本サイトのコラムニスト坂本栄氏が、土浦・つくば地区の住人は恵まれた医療環境下にあると指摘されているが(4月15日掲載)、私の今回の経験は、この指摘の正しさを追認するものであった。

同時に、メディセンとそれを背後で支えている諸々(もろもろ)の医療機関の連携システムの重みも垣間(かいま)見ることができたと思う。患者本位の病院づくりを志した医療のプロが集まって何ができるかを考える時、メディセンは一つの到達点であると同時にさらなる可能性を示唆しているようにも思う。今後、優れた医療環境の恩恵に浴することができる患者がこの地域を越えて着実に増えていく、そんな未来を夢みたいと思う。(茨城キリスト教大学名誉教授)

【たきた・かおる】1947年生まれ土浦一高卒。1976年、慶応義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。同年、茨城キリスト教学園に入り、茨城キリスト教短期大学学長、茨城キリスト教大学教授、学園常務理事を歴任。2016年、定年退職。現在、同大兼任講師、茨城キリスト教大学名誉教授。中学2年のとき、V.フランクル著「夜と霧」に衝撃を受ける。当時の安保闘争・学生運動になじめず、その反動か「政治学」を志す。土浦市在住。

《吾妻カガミ》59 市民参加が怖い? つくば市の変な議会

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つくば市役所

【コラム・坂本栄】これまで、つくば市と議会の笑える話を何度か取り上げましたが、その類のニュースがまた飛び込んで来ました。つくば市は有力大学や研究機関が集まる学園市ですから、洗練された先進的な市と思われています。ところが、いなかの要素も色濃く残すまちでもあるという話です。

その記事の見出しは「公募はなじまない? 市民委員を削除 つくば市倫理審査会」=6月8日掲載=と「新たな政治倫理審査会委員決まる 公募市民は含まず つくば市」=6月28日掲載=です。靑字のところをクリックして読んでみてください。

ポイントはこういうことです。市当局が、市議の資産報告を審査する委員会に、市民から公募した方を入れようとしたところ、議会が反発。結果、審査委から公募市民を外し、同委は委員の経験がある市民だけで構成されることになった――。つまり、報告の真偽を判断する元資料(預金通帳、納税証明、借用証書など)は一般市民には見せず、チェックできるのは気心の知れた旧知の人たちだけになったそうです。

どうやら、つくばの市議さんは通帳などを一般市民にチェックされるのが怖いようです。何か不都合なことでもあるのでしょうか? 守谷市ではすでに公募市民が資産報告の審査に参加しており、つくばみらい市も近く同じ方式を採用するそうですから、県内TX沿線市の市政透明度を比較すると、つくば市の濁(にご)りが目立ちます。

スマートさに欠ける 看板と現実のズレ

資産審査も含め、各種の検討委員会に公募委員を入れるという考え方は、五十嵐立青市長の選挙公約でした。それが議会にダメと言われたわけで、市民参加型の市政を進める五十嵐さんのショックは大きいと思います。

市と議会のドタバタはこれまでにもありました。西武百貨店閉店後の空きビル活用問題、市施設の指定管理者選定問題などですが、笑える事例がもう一つ追加されたことになります。空きビル問題については「クレオ問題 そして祭りは終わった?」=昨年11月5日掲載=、指定管理者問題については「面白い形で決着 つくばの市施設問題」=3月4日掲載=をご覧ください。

つくば市は広報キャッチコピーに「世界のあしたが見えるまち。 TSUKUBA」を掲げ、世界のモデル市になることを目指しています。ところが、垢(あか)抜けない議会、手際がイマイチの市当局……と、スマートさに欠ける話が多出。この看板と現実のミスマッチ、これも結構笑えます。(経済ジャーナリスト)

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《制作ノート》8 里山に咲く山百合 大輪の白い花

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【コラム・沼尻正芳】紫陽花(アジサイ)が終わると山百合(ヤマユリ)の季節だ。家の庭や近くの林には、山百合が今も自生している。7月になると、山百合は大輪の白い花を咲かせる。20を超える花をつけてしなだれるものや四方に花を配して凜(りん)と立つものなど様々で、それぞれが白い貴婦人のようである。

山百合にはアゲハチョウがよくやってくる。アゲハは山百合の赤い斑点に反応し、それを目印に蜜に入る。ガムシロップ並みの甘い蜜に陶酔した蝶は、花粉をめしべに付ける。山百合は独特の甘い香りを放ちながら日中も夜も昆虫を誘う。

子どもの頃から親しんできた山百合を描いてみたいと思った。里山で木漏れ日を受けて咲く山百合を描くことにした。山百合の花弁には黄色の筋が入り赤褐色の斑点がぎっしり付いていて、その斑点を描くのが難しい。めしべは天に向かい、おしべはクルッと6本リズミカルに並んでいる。巻いて反り返る6枚の花弁も独特である。

花に教えてもらいながら山百合の特徴を表現した。たくさん付けた花の1つを主役にし、脇役の花で絵にリズムをつくる。花の中に蕾(つぼみ)もほしい、葉や全体のバランスを考えたり、花を取捨選択したり、背景や空気感などを工夫しながら描いた。ここ3年、山百合の絵を描いてきた。

山百合の絵を、「二人展」で展示した。元理科の先生が「よく観察しているね」と言ってきた。「山百合の花弁は幅広の3枚が花で、残り3枚は萼(がく)で、そこが描けている」と言う。昔、理科の授業で学んだのかもしれないが、すっかり忘れている。その話を聞きながら、描くものの構造を知ることが大切だと思った。

その後はモチーフや絵の構造を意識し、描く順番を考えながらイメージを膨らませるようになった。見る人の感想や意見に耳を傾け、思い込みを修正して絵の表現が相手に伝わるようにしたいと思った。

「人生の楽しみ」「威厳」「飾らない美」

今、蕾が膨らみ始めた山百合に添え木をしている。今年は、どんな山百合の花に出会えるだろうか。開花が楽しみである。

かつて我が家の周辺には、里山がたくさんあった。そこにたくさんの山百合が咲いていた。山百合は至る所に群生していた。その頃の里山はきれいに掃除されていて絶好の遊び場でもあった。夏になると、山百合の花粉を衣服に付けて家に帰った。百合根もよく食べた。甘く煮た百合根は、ほくほくとしていてとてもおいしかった。

今、里山は減少し、一部の公園や高速道の斜面などで山百合を見かけるだけになった。最近は、山百合を見つける度に、車を止めて観察している。北茨城で見た山百合は、この辺のものより花弁が幅広でよりクネクネしていた。山百合も地域や気候で姿が微妙に違うように感じる。去年の夏は猛暑の影響か早く萎(しお)れる山百合が多かったように思う。

日本原産の山百合は2メートルを超える高さになるものもあり、豪華で華麗なことから「百合の王様」と呼ばれている。花言葉は、「人生の楽しみ」「荘厳」「威厳」「純血」「飾らない美」である。いつまでも里山に白い大きな花を咲かせてほしい。これからも里山の山百合を絵にしていきたいと思う。(画家)

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《宍塚の里山》41 宝石のようなチョウ「ゼフィルス」

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宝石のようなチョウ ゼフィルス

【コラム・及川ひろみ】梅雨の晴れ間、ほんの短い期間、コナラやハンノキなどの樹上で、羽を光らせる美しいシジミチョウの仲間、ゼフィルスと呼ばれる宝石のようなチョウが宍塚の森で見られます。このグループのチョウはあまり花にはやってこないので、目にすることはほとんどありませんが。

ゼフィルスは、樹上性のシジミチョウの仲間を総括して Zephyrus と呼んでいたのが始まりで、語源はギリシャ神話の西風の精、春の訪れを告げる豊穣な風をもたらすという「ゼピュロス」にちなんでいます。日本には25種、宍塚でも6種が確認されています。

今ごろの夕方、コナラの樹上に小さなオレンジ色のチョウがひらひらと飛び始めます。少し休んではまた飛ぶ、消えてはまたチラチラを繰り返します。これはアカシジミです。ハンノキでは、朝の光を浴びて、緑に光り輝くチョウ、ミドリシジミが見られます。

やって来たほかのミドリジジミを目ざとく見つけ、威嚇(いかく)の舞。間もなく縄張りに戻り、じっとよそ者の飛来を待ちます。どのゼフィルスも、それぞれ異なった行動を見せ、チョウが生き抜くドラマの一瞬を垣間見ることができます。

ワクワクの森=ゼフィルスの森

宍塚の里山には「ワクワクの森」と名づけた会所有の森があります。広さ1万2700平方メートル。春には山桜、ヤマツツジの花が美しい雑木林で、宍塚大池の水源林でもあります。この森の名前を決めるとき、会員に名称の募集をしました。

タスキの森、命の森、次世代の森、交流の森、成長の森、創造の森、飛躍の森、誇りの森、和の森、叡智の森、絆の森、学びの森、憩いの森、ふれあいの森、希望の森、わくわくの森、友子さんの森、ゼフィルスの森、わくわく山、もりもり山、もりもりやま、うたゝねの林、平成の森、いかっぺの森、さわやかヤマ、さわやか森、平安の森、木漏れ日の森。計28の名が寄せられました。

どれもなるほどと思う名称でした。「わくわく」は心が沸き立つ未来志向な名であると、僅差ではありましたが、「ワクワクの森」の名が選ばれました。「ゼフィルスの森」も、森に「ゼフィルスをはじめ様々な生き物が生息するように」との願いが捨てがたいと、正式名は「ワクワクの森(ゼフィルスの森)」に決まりました。

かつて里山の森は、伐採、萌芽更新を繰り返し、伐採木や枯れ葉は大切な資源であったことを地元の方から聞き(「聞き書き里山の暮らし―土浦市宍塚の里山を事例に」記載)、2014年から、宍塚の会は、伐採木は薪に、落ち葉はたい肥に活用し、森の一部には生き物がより生息できる場所「エコスタック」もつくりました。

現在では、林床に光が当たる明るい森になりつつあり、ゼフィルスもやって来るようになりました。(宍塚の自然と歴史の会代表)

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《ひょうたんの眼》17 関ケ原の合戦の地を歩いてみた

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笹尾山から関ケ原を望む

【コラム・高橋恵一】初めて関ケ原の合戦の地を歩いてみた。歴史ファン、地図ファンにとって、関ケ原合戦の布陣図ほど魅力的な地図はないだろう。南北1.5キロ、東西500メートル程度のエリアで、石田三成側が鶴翼(かくよく)の陣を敷く西軍8万に、徳川家康の東軍7万5千が対峙する布陣図。明治時代にドイツから招いた陸軍大学校の教官・メッケルが、一目して西軍の勝ちと評したといわれるアレである。

東海道新幹線の窓から、大垣城を右後方に見送ると、この辺が関ケ原だと思う間もなく伊吹山のトンネルに入り、京都に降りる準備を始めることになる。関東、関西という呼称も、古来、越前の愛発の関、美濃の不破の関、伊勢の鈴鹿の関の3つの関所を結んだ線より西を関西と称するが関ケ原の「関」は、伊吹山の麓、美濃の不破の関である。

この地は、中山道が東西に走り、北西から北国街道が合流し、南東からは伊勢街道が合流する交通の要衝であり、現在も、新幹線、高速道路、主要道路が、関ケ原で束ねられる形状の地である。したがって、地政学的には、常に重要視され、古代の壬申の乱も、不破の関を先に抑えた大海皇子(天武天皇)が勝利を収めている。

関ケ原合戦の詳細は、諸説あって、絞り込めないが、もともと「歴史」は、常に勝者が記録するものであり、それだけでは満足できない「判官びいき」が加わって、話は広がり、楽しくなる。関ケ原もその一つだ。

石田三成の陣 笹尾山から一望

西軍8万のうち、南宮山の毛利秀元や長曾我部盛親の約3万は、関ケ原の東方5キロの山腹で待機して参戦せず、小早川秀秋1万5千と脇坂安治等5千は、様子眺めで動かず、午前9時頃の開戦時に参戦していたのは、約3万程度となる。

東軍も、家康の本隊3万は後陣に控え、池田輝政や山内一豊などの1万5千は、南宮山の毛利勢に備えていたので、本戦の主体的参加は、約3万ということになる。

しかし、石田三成の6千、宇喜多秀家の1万7千、福島正則の6千、山内一豊の2千100など、各隊の兵数の根拠は、この時代の大名の動員兵数が、1万石当たり300人とされ、禄高からの推測とみるのが妥当で、実際の兵数はわからない。

午前中の2時間余は、西軍が幾分押し気味だったというが、ほぼ拮抗していたようで、昼頃の小早川隊の東軍参加により、西軍は大谷吉継隊の南側から崩され、1時間も持たずに東軍の圧勝になった。

三成の笹尾山(198メートル)からは、関ケ原が一望できる。眼下の2平方キロ足らずのエリアに約10万以上の兵が、数十隊に別れ、旗指物(はたさしもの)をなびかせながら、戦った様は、黒沢明の映画のシーンを見るようであったろう。

この朝、霧が晴れた瞬間、三成は、眼下の戦場で、徳川軍を三方から押し囲んで殲滅(せんめつ)してから、どのような展開の夢を描いたのだろうか。(地図愛好家)

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《県南の食生活》2 たん貝 昔は霞ケ浦湖岸の日常食

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再現した「貝と切り干し大根の煮物」とたん貝(右下)

【コラム・古家晴美】霞ケ浦湖岸に住む方々が日常食として召し上がってきた湖の幸として、今回は「たん貝」について、主に聞き書きに基づき取り上げてみたいと思います。現在では、ほぼ漁獲・食用がされなくなってしまいましたが、江戸時代から昭和40年ごろまでは、霞ケ浦のどこででも獲れた2枚貝です。

「カラス貝」と呼ばれることもありますが、「たん貝」はイシガイ目イシガイ科の淡水カラス貝(ここで挙げるいわゆる「たん貝」)で、イガイ科のムラサキイガイ(いわゆる「ムール貝」)とは全く関係ありません。この2つはしばしば混同されますが、全く別物です。「たん貝」は霞ケ浦では、夏と秋から冬にかけての2回採取できました。

これからの季節、暑くなると毎日のように、カワ(霞ケ浦)へ水遊びに出た子供たちにとって、たん貝を獲ってくるのは仕事でした。湖岸で、シノダケで釣り上げるのです。この季節は小ぶりのものが多く、貝の脚など硬い部分はたたいて軟らかくしてから家へ持ち帰りました。これを切り干し大根と油で炒め、みそを加えて煮ます。長く煮ると貝の身が硬くなるので、味がしみ込んだところで火を止めます。

しかし、現在、たん貝は入手が難しく、写真にあげた「再現 貝と切り干し大根の煮もの」には、淡水パール養殖場で分けていただいたイケチョウガイを代用しました。イケチョウガイも食用とされていましたが、身はたん貝よりもやや硬いとのことです。

貝殻はボタンに加工 輸出の花形に

これに対して、秋から冬にかけて獲れるたん貝は、もっと大ぶりのもので(30センチに成長するものもある)、岸から50メートルくらい沖で獲れました。この辺りはケダブチと言い、湖底が砂地から泥地にかわる境目で、餌が多かったためか何の魚でもよく獲れました。

たん貝漁には大人の男性が出て、サデ(泥の下を掻く10センチの爪がついた馬鍬=まんが=の形をしたものにアミが付いた漁具。柄には4メートルくらいで軟らかくしなる竹を用いる)で獲るか、淡貝馬鍬(たんかいまんが)を横引きの舟に帆を張ってマンガを曳(ひ)かせて獲っていました。

いずれも泥をふるい落とさねばならない作業があるので、成人男性にとっても重労働でした。冬のたん貝は大きかったので、身を自宅でおかずとして食べる以外に、むき身をゆでて行商に売ることもありました。

また、たん貝の貝殻はボタン工場に売却され、ボタンに加工されました。土浦に1915(大正4)年にボタン工場が設立され、その後、田伏(かすみがうら市)、麻生(行方市)にも設けられました。明治末から昭和30年ごろまで、貝ボタンは輸出産業の花形でした。たん貝は様々な食べ方をされ日常食として親しまれる一方、貝殻は内面の美しい真珠層を利用して貝ボタンに加工され、近代産業の一翼を担ってきたんですね。(筑波学院大学教授)

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《続・平熱日記》40 ログビルダーの弟が茨城でまた仕事

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【コラム・斉藤裕之】ある日、家族にも他の誰にも内緒でただ漠然とログハウスに憧れ、なんのつてもないままカナダに渡った弟。偶然、現地で有名なログビルダーに巡り合い、修業すること数年。その後、子供も生まれ帰国。故郷山口の山を切り開いて、作業小屋や住まいを建てながら、大工の棟梁(とうりょう)について修業。そして、茨城で我が家を手掛けたのが20年近く前。

できるだけ新建材を使わず、シンプルで木を生かした家は住み心地がよく、我が家を訪れる友人にも好評。ついに一昨年、私の友人に頼まれて茨城で2棟目となる新築を手掛けることとなりました。柱や梁(はり)は山口で墨付けや刻みをしてトレーラーで運び、その他の建材は現地で調達。梁や柱を「人形束」という木製の接合部品でつなぎ、「こみ栓」という杭のようなもので留めていく工法は、茨城ではこの1棟だけでしょう。

金物を使わないことなども含め、建築基準をクリアーするのに建築士さんにもご苦労をいただき、無事にかわいらしい平屋が完成しました。施主の友人曰く、「ストレスフリーで本当に住みやすい」とのこと。

話はその家の建築中に遡(さかのぼ)ります。別の友人が実家を改築したいから一度見て欲しいとのことで、弟と出かけました。農村部にある大きな敷地のお宅。一見新しそうに見えた洋風の母屋は入ってみると、震災の影響でしょうか、少し傾いている様子で雨漏りもしています。これはなかなか厄介。

と、母屋の左手には立派な納屋が。入ってみると、それほど使われた様子もなく、太い柱や梁に漆喰(しっくい)壁、深い下屋(げや)や土間が魅力的な物件。弟と私の意見は一致。「母屋は止めてこっちの納屋を住まいにしましょう!」。

母の夕食はいつも残り物だった

というわけで、3度、茨城にやってきた弟。私もたまに手伝うのですが、大事な仕事として、久しぶりに弟のために弁当を作っております。私が一番早く帰宅するので、夕餉(ゆうげ)の支度は私の仕事。弟が加わり、いつもよりにぎやかな食卓。

そこでふと思い出しました。母は家族と一緒にご飯を食べなかったことを。父や私たちが食事を終えた後に、さっさっと1人で食べていました。いわゆる残り物を。そういう時代だったのかなあ、ぐらいに思っていました。

でも先日、弟とかみさんと食卓を囲んでいるときに思ったのです。母は残り物で十分だったのではないかと。実際、今の私は2人が美味しそうに食べるのを見ているのがうれしくもあり、その残りで十分満足なのです。今問題の食品ロスもなくなるし。

さて、毎日現場で汗を流す弟。順調に改築が進んでいるようですが、目下の悩みはたまに様子を見に来る近所の親戚のおじさん方の茨城弁だとか。「なにをはなしよるんかわからんちゃ」。どっちもどっちだっぺよ。(画家)

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《邑から日本を見る》42 映画「ある町の高い煙突」

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】全国上映を前に、14日に水戸市で映画「ある町の高い煙突」を見た。この映画は、同名の新田次郎の小説をもとに、松村克弥監督が撮ったもので、2016年から3年かけて作ったという。同監督の本県関係の映画では「天心」「サクラ花」に続く3作目。

新田次郎の小説のカバーには「富国強兵、お国のため、というスローガンを掲げれば、小さい農村の田畑や農民の利害など簡単に踏みにじられた時代に、煙害撲滅を強く訴え、遂に企業に世界一高い煙突を建てさせた若者たちがいた。足尾や別子の悲劇がなぜこの日立鉱山では繰り返されなかったのか。青年たちの情熱をさわやかに描いた長編小説」とある。

日立鉱山を1905年に操業した久原房之助は外国の技術を導入し、第1次世界大戦を背景にした好景気によって会社は急成長を遂げていった。しかし、同時に亜硫酸ガスによる煙害などの鉱毒による周辺への被害も増えていった。被害は珂北3郡(多賀、久慈、那珂)の4町30カ村に及んだ。私が住んでいる那珂市でも、葉煙草に被害が出たという記録が残っている。

映画の中心舞台である入四間地区は鉱山の西隣。風向きによって「黄色い煙」が地をなめるように這(は)い、集落一帯を襲い、農作物や山林に被害を与えた。

入四間の住民は、弱冠23歳の関右馬允(せき・うまのじょう)を煙害交渉委員長に選び、関は委員長として会社側との補償交渉にあたり、村の再生をめざし、煙害問題解決の闘いに明け暮れた。関の交渉・運動の基本方針は、足尾鉱毒事件のような「鉱毒停止」ではなく、被害に対する損害賠償交渉だった。被害状況を写真に撮り、被害額を調べ上げ、運動も他の地区と連携せず、入四間独自で行った。

煙害対策の決め手 156メートルの大煙突

これに対する会社側の対応も足尾とは違った。金銭補償だけでなく、鉱害に強い苗や杉、桜、クヌギなどの現物補償も行った。オオシマザクラだけでも260万本に達したと言われている。しかし煙害対策の決め手は1914年に完成した高さ155.7メートルの大煙突だった。久原の決断だった。この煙突によって煙害は激減した。この煙突は惜しくも1993年に倒壊し、3分の1になったが、現在も現役で活躍している。

映画は、主役の関根(モデルは関)が「この美しい村は大きく変わるかもしれません」と、ノルウェー人の鉱山技師から告げられる場面から始まる。合格した旧制第一高等学校に入らず、村人の一員として関根は会社側と交渉を続けていく。

映画は、緊迫した会社側との交渉の場面や地区内での対立、淡いロマンスなどで構成され、ロケ地も大子町の旧上岡小学校など見慣れた所があり、2時間10分があっという間に過ぎてしまった。

公害はもともと人間が作り出すものだ。だから、公害問題を解決するには「今だけ、カネだけ、自分だけ」という自分本位の考え方を変えなければならない。水俣、沖縄辺野古、東電福島第1原発、日本原電東海第2原発などに対する昨今のこの国の動きを見ていると、明治時代にもこんな人たちがいたんだということを知ってもらい、多くの人に参考にしてほしいと思う。(元瓜連町長)

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《食う寝る宇宙》40 閑話休題 運動不足解消

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【コラム・玉置晋】最近、携帯電話をガラ携からスマホに替えました。ガラ携仲間からは裏切り者と罵(ののし)られましたが、スマホは便利ですね。最近は、機器を体に装着し、生体データを取得するウェアラブル機器も普及してきました。普段、運動不足の僕を案じて、奥さんが万歩計機能を持った時計を買ってくれて、スマホと同期しています。

米国の運動ガイドラインでは、1週間に計150分の活発な運動を行うことが推奨されているそうです。これを満たすためには、1日に8000~9000歩の歩行が必要な計算になるとのこと。厚生労働省が推進している「健康日本21」では、歩数目標は9000歩(男性)だそうです。

普段の僕の1日の歩数は,犬の散歩込みで2000歩ぐらい。時間にして40分でしょうか。推奨歩数には遠く及びません。なお、国際宇宙ステーションの宇宙飛行士は、微小重量下にあるため、筋力がどんどん衰えてしまいます。彼らはトレットミルやエルゴメータといった運動器具を用いて、毎日2時間の運動をしているそうです。仕事の予定が組み込まれている中で、健康維持のために運動時間が確保されているわけです。

僕は運動に関しては怠惰で、その時間があればパソコンの前に座って、研究時間を確保したい人で、いつも奥さんに怒られます。「食う寝る宇宙」だから仕方ないじゃないかと、声に出す間もなく、奥さんは、僕に運動時間を確保すべく、スポーツイベントに強制応募してくれました。

メロン食べ放題ウォーキング大会 

2019年6月16日、水戸の偕楽園の眼下に広がる千波湖。ここは1周3キロで、水戸市出身の僕は、小中学生のころ部活などで「走らされた」思い出深い所です。その千波湖で「第4回茨城メロンメロンラン」が開催されました。

名前の通り、茨城県が生産量日本一を誇るメロンの祭典で、給水所ならぬ「給メロン所」が設置されます。給メロン所では、県産メロンが食べ放題となっています。

僕が参加したのはランではなく、10キロのウォーキングです。千波湖から偕楽園、アジサイが見ごろの保和苑、水戸市街を通り、復元中の水戸城大手門を観ながら、再び千波湖にゴールするというコースです。

これに参加すれば、水戸の観光名所を一度に巡ることができます。もちろん、万歩計機能を搭載した時計を身に着けて参加しました。結果は2万2000歩。とっても気持ちよかったです。運動ってよいものですね。継続できるかは別の話ですけどね。(宇宙天気防災研究者)

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《地域包括ケア》38 医師と地域住民による複合型「サ高住」

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名古屋市の「南生協よってって横町」

【コラム・室生勝】今回のコラムの写真「南生協よってって横町」は名古屋市の南医療生活協同組合の複合型サ―ビス付き高齢者住宅(サ高住)である。伊勢湾台風(1959年)のとき救援活動にあたった医師たちと地域住民が中心になって創設された。私はその医師たちの1人である4年先輩の活動を約60年間見てきた。

このサ高住はJR東海道線南大高駅前にあり、近くに南生協病院と大型スーパーがある。1階に在宅診療所、ヘルパーおよび訪問看護ステーション、デイケア、小規模多機能居宅介護が、2階にメンタルクリニック、メンタルデイケア、歯科、居宅介護支援事業所(ケアマネ事務所)、はり・きゅう院が、3階はグループホーム18室があり、4~7階がサ高住78室である。

以前紹介した、柏市・都市再生機構・東大高齢社会総合研究機構の3者研究会の構想による柏市豊四季台のサ高住も、在宅医療・看護・介護のサービス拠点として、1階にクリニック、調剤薬局、居宅介護支援事業所、定期巡回・随時対応型訪問介護看護、小規模多機能型居宅介護、グループホームがあり、2~6階に105戸(自立棟33戸、介護棟72戸)配された複合型である。

共に厚労省「地域包括ケアシステムの構築に関する事例集」で紹介されていて、地域包括ケア拠点型サ高住とも言える。併設診療所は地域住民の一般診療だけでなく地域の在宅医療も担っている。

先輩の医師は要介護の奧さんと2人世帯で、奧さんの介護をしながら病院の午前外来診療を週2回、4年間続けてきたが、介護で心身ともに疲れ、2人でサ高住に入居し、終の住処(ついのすみか)と決めた。夫婦部屋が空いてなく、別々の階の1人部屋に入ったが、行き来は自由だ。先輩の部屋はトイレ、洗面所付きの12畳ほどの広さで、ベッド、タンス、書棚、机が置かれていた。

コミュニティースペースもある施設

つくば市長の公約「待機高齢者ゼロに向けた地域密着型特別養護老人ホーム及びサービス付き高齢者向け住宅の整備推進」では、特養ホームについては桜圏域と谷田部東圏域の2地域に整備されるようだが、サ高住に関しては施策が提示されていない。そこで、旧庁舎跡地に40~70戸の中規模サ高住の整備を提案したい。

市が土地を提供し、地域住民が出資者である生活協働組合(生協)あるいは農業後継者のためにJAが建設する方法はどうだろうか。生協は南生協がいい例であり、JAはジェイエイ兵庫六甲福祉会やJA山形市が参考になる。

つくば市のJAには、兼業農家の親のための複合型サ高住を作ってほしい。入所した老親には、診療所、ヘルパーおよび訪問看護ステーション、デイサービス、カフェ兼レストランなどが用意され、24時間いつでも医者か看護師に診てもらえ、近くの知人友人が気軽に来てくれるような施設を。

診療所には、総合診療医で、小児から高齢者、外来から在宅まで幅広く対応するだけでなく、介護・福祉資源とも連携、さらに健康教育・保健行政などの家庭医コース研修を終えた医師を迎えてほしい。筑波大総合診療科が協力してくれるかもしれない。

サ高住の1階に、医療介護サービスのほか、幼児の遊び場、児童館、メタボ改善教室、高齢者サロンなどに使えるコミュニティースペースを設ければ、地域づくりの拠点にもなる。(高齢者サロン主宰)

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《霞ケ浦 折々の眺望》6 霞ケ浦の岸辺で聴きたい音楽

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【コラム・沼澤篤】「霞ケ浦の愛唱歌が欲しい」とは、霞ケ浦の環境問題にも取り組んだ一色史彦氏(古建築研究家)の弁。琵琶湖では「琵琶湖周航の歌」(加藤登紀子)が愛されている。残念だが霞ヶ浦では、人々が口ずさむ歌が少ない。昨年の世界湖沼会議では「かすみがうら讃歌」(きんもくせい)がサテライト会場で歌われ、雰囲気を盛り上げた。この歌は霞ケ浦の魅力を伝える、親しみやすい曲であり、You Tubeで聴ける。

これまで、「霞ケ浦周航歌」(赤根祥道)、「湖沼の伝説」(ピアノ曲:加古隆、世界湖沼会議市民の会委嘱)、「レッツ・クリーンアップ・ザ・レイク」(海老原順)、「君はいつもそばに」(霞ヶ浦市民協会)、「かすみの津頭」(芹沢ひろしとカープファイブ)などが作曲されている。それぞれ素晴らしい曲だが、多くの人が歌うまでには至らない。

生活や業務に忙しい住民が、霞ヶ浦の景色を眺めて感慨に耽(ふけ)る心の余裕を持てず、湖の魅力を十分に感じ取れないのか。アオコ発生、不快臭、死魚やゴミの散乱などの負のイメージが優先するからか。生まれ育った土地で見慣れた霞ケ浦の湖水からは、音楽性が感じられないのか。

しかし、かすみがうら市出身の歌手オニツカサリーさんは、地元のコンサートで自身の作詞作曲による「かすみのうら」を歌い、その魅力や恵みをアピールしている。故郷に帰り、霞ケ浦の美しい景色に癒され、その素晴らしさを伝えようと努める彼女は、私たちのお手本だ。

「真珠採りのタンゴ」「恋はみずいろ」‥‥

湖、河川、海などの景色は洋の東西を問わず、人々を魅了し、美しい楽曲を産んできた。私は霞ケ浦を車で廻(まわ)るとき、CDでラテンの曲を聴く。そのメロディーは広々とした霞ケ浦の風景に溶けこむ。「真珠採りのタンゴ」「碧空」(アルフレッド・ハウゼ)、「マイアミ・ビーチ・ルンバ」(ザビア・クガート)などを聴くと、霞ケ浦が遠い外国の美しい湖に見えてくる。霞ケ浦がこれらの名曲にふさわしい湖になることを夢見る。

ラテンに限らず、「The Shadow of Your Smile~いそしぎのテーマ」(アンディ・ウィリアムズほか)、「恋はみずいろ」(ポール・モーリア)、「渚のアデリーヌ」(リチャード・クレイダーマン)、「ドナウ河のさざ波」(イヴァノビッチ)、「ムーン・リバー」(ヘンリー・マンシーニ)、「スリーピー・ラグーン」(ハリー・ジェームス)、「浪路はるかに」(ビリー・ヴォーン)、「明日に架ける橋」(サイモンとガーファンクル)、「島唄」(夏川りみほか)、「翼をください」(山本潤子)なども、霞ケ浦の景観にお似合いでお奨めだ。

NHK朝ドラ『花子とアン』や『マッサン』で、ヒロインが「広い河の岸辺 ~The Water Is Wide」(スコットランド民謡)を歌うシーンが印象的だった。対岸から嫁いだ女性にとって、霞ケ浦は広い河なのだ。霞ケ浦で良い音楽を聴くことは、歴史、文化、芸術を通して、この湖を大切にする心の育成に不可欠だろう。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)

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《ご飯は世界を救う》12 「グルービー・研究学園店」で打ち上げ

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ナスのラザニアほうれん草

【コラム・川浪せつ子】5月中旬、「LaLaガーデンつくば」にて「水彩イラスト&チョークアート・二人展」を開催しました。たくさんの方々に来訪いただき、不思議な出会いなど、いろいろな体験をさせていただきました。

そして今回、私と一緒に展示会をして下さったSさん、本当にありがとう!という感じで、2人で打ち上げを「グルービー・研究学園店」さんでやりました。「グルービー」は2004年、つくば市の東大通り沿い大角豆(ささげ)交差点近くに開店した人気のお店です。

今回行った研究学園店は2017年オープンということで、2人とも初体験のお店でした。期待を裏切らない外観とインテリアとお料理。平日にかかわらず、大きな店内にたくさんの人。新しい空間って気持ちのいいものですね。

「二人展」 たくさんの出会いがありました

「二人展」にまつわるお話を少し。

実は、私はSさんのことをほとんど知りませんでした。私の出た美大の5年ほど後輩というだけ。ただ彼女の描いている「チョークアート」を拝見して、私の思いとリンクすると思ったのです。(いつも直感で行動の私と)快く一緒にすることを受け入れてくれ、「チョークアートの普及のためだから」と、無料で70人もの方々の「ウェルカムボード作成体験」をしてくれました。それも淡々と。本当に感謝でした。

展示会の数日前、知り合いの「陶芸展」に行きました。そこでお願いして「二人展」の案内ハガキを受け付けに置いていただきました。そしたら、その陶芸展に出展していた女性が来てくださりました。お話ししていると、Z美大を出たとのこと。そして「美大を出たからって、みんな絵が描けると思っているけど、違うんですよね~」。同感。また、なんと私の実家のすぐそばに彼女の実家があることも分かり、お互いビックリ。

大雨が降った日は、あまり人が来ませんでした。夕方近く、私の知り合いAさんが来て、Sさんの知り合いのBさんが来て。偶然に、お2人ともつくば市内で子供に関するお仕事をなさっています。Aさん、Bさん、それぞれの活動をご存じなかったので、その場でお知り合いになることが出来ました。本当に偶然というか、奇跡というかの出来事でした。

用事で留守だったときで、とても残念だったのですが、つくば市内で私が尊敬する方(絵画関係)が3人も来てくださいました。その中のお1人は、上野で開催する全国組織で明治時代から続いている「日本水彩」(第107回)のチケットを持って来てくださったのです。まだまだ発展途上の私、これからも精進したいと思った次第です。

たくさんの方からエールをいただいたのですが、最後に。つくばエクスプレスのつくば駅「つくば良い品」というお店に、つくば市周辺の絵をハガキにしたものを販売させてもらっています。そこのお店の売り子さん、「LaLaガーデンつくば」のヨーグルト屋さんでもお仕事をやってらっしゃったのです。そして、ヨーグルトの飲み物を差し入れしてくれました。「二人展」では、そんなたくさんの不思議な出会いがありました。

皆さんに支えていただいて、心から感謝です。そして、これからも暖かな、人々を楽しく癒すことのできる絵を描いていきたいなぁ、と思っています。(イラストレーター)

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《くずかごの唄》40 どんぐり山の18年① マムシとオオムラサキ

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「どんぐり山で昆虫観察」イベントと現地撮影のオオムラサキ(円内写真)

【コラム・奥井登美子】茨城県の森林保有率は全国でワースト2。東京都よりも悪い。県北には森林があるが、県南の水道水の水源地、霞ヶ浦周辺には森林がほとんどない。森林は「水の浄水器」である。私たちで浄水器の森を造ろうではないかと、岡野静江さんが言い出して、つくば市の森林総合研究所の人たちに相談したのが始まりだった。

岡野さん所有の農地を森林に換えてもらった。2000年8月、森林総研3人、県庁の林務課、霞ヶ浦町(現かすみがうら市)、同町加茂の住民3人、霞ヶ浦市民協会5人で、「どんぐり山」造りの作戦を練る。2000年10月、「どんぐりの里子つくり」130人が参加。翌年4月、100人の人が苗植えに参加してくれた。

すごい、すごい。しかし、植えたのはいいものの、小さな苗が雑草に埋まってしまいピンチに。ご近所の人たちは見るに見かねて除草剤を散布してくれた。市民協会では農薬の勉強会をして、やはり除草剤は止めようということになった。

しかし草抜きは人手がかかる。岡野家の庭に、半分にした竹を何段にも組んだ本格的な流しそうめんの設備をつくり、東京の台東区の子供会にまで呼びかけて50人集め、人の手だけで2002年は4回の草刈りを敢行した。

暑い中、虫に刺されたり、大変だった。何かいい方法はないかと、みんなで何回も議論し、ペーパーマルチをやってみることになった。スーパーのカスミさんから段ボールを大量にもらってきて、苗と苗との間に敷き詰めた。段ボールの届かないところは古新聞紙。森が古い段ボールと新聞紙で埋まって、何やら奇妙な風景が出来てしまった。

木が育つと周囲の生き物が変わる

霞ヶ浦町の人たちはとても親切で、「こんな所に段ボールとは何だっぺ」と言って片付けてくれる人までいて、「除草の手間を省く紙類です、動かさないで下さい」というポスターをべたべた貼り付けた。段ボールの除草は大成功。2~3年で土の中に埋もれてしまうまで雑草取りの役目を十分果たしてくれた。

2003年、「茨城県の自然保護大会」の草刈り実習の場に、どんぐり山が選ばれてうれしかった。しかし、冬も段ボールを敷き詰めていたせいか、段ボールの下が暖かいので気に入ったらしいヤマカガシ君とマムシ君が、何匹も住み処にしていて、びっくり。現地のおじさんが手で何匹か捕まえて採ってくれた。

森林総研の斉藤和彦さん、島田和則さんたちが「木が育つにつれて周りの生き物が変わります。観察すると面白いですよ」と言っていたので、私は、それを実際に見せてくれたマムシ君に感謝したいと思った。2005年、とうとう、夢にまで見た国蝶のオオムラサキが出現。自然は私たちにすばらしいプレゼントをしてくれたのだった。(随筆家)

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《法律かけこみ寺》7 法とはなにか? 誰のために?

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土浦市神龍寺(本文とは関係ありません)

【コラム・浦本弘海】生活にちょっと役立つ(かもしれない)法律マメ知識の提供を目指す本コラムですが、今回はやや趣向を変えて(実在する書籍の)読書案内を。

弁護士として法務コンサルタントをしている関係で、法律関係の研修をさせていただく機会があります。そんなときにまず取り上げ、受講者に問うのが「法とはなにか?」です。

現代日本に暮らしているわれわれにとり、「法」は空気のような当たり前の存在で、改めて「法」のそもそも論を考える機会はないと思います。

そこで法律関係の研修では、受講者がご自身「法」をどう捉えているか確認してもらうことを第一歩としています。受講後のアンケートを拝見すると、他の受講者の発表を聞きながら「法とはなにか?」について考えることに対し、好意的なご意見をいただくことが多いです。

このような法の根っこの部分については法哲学という学問分野があり、比較的最近ではマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房、2010年)が話題になりました。

『誰のために法は生まれた』(木庭顕著)を推薦

今回紹介するのは、木庭顕氏の『誰のために法は生まれた』(朝日出版社、2018年)です。

本書はローマ法を専門とする著者が、中高生のために行った5回の授業の記録がベースになっています。授業は映画(「近松物語」など)を観たり、戯曲(「アンティゴネー」など)を読んだあと、著者と中高生が問答を行う形で進められます。問答が進むなかで、著者の法についての知見が自然と示されていきます。

問答なので軽快に読み進められますが、内容は非常に濃い(そして法律実務家としては耳が痛い)です。たとえば著者は(本来の)法について、(集団から)追い詰められた最後の1人のためにあり、「規律みたいな、ルールみたいなもの」という理解は誤解であると説きます。

「法とはなにか?」という問いに対し、「秩序維持」「規範(ルール)」を挙げる受講者は多く、小職もそう考えています。この点、著者とは対立しますが、あるいはだからこそ、いろいろと考えさせられます。

実のところ「法とはなにか?」に「正解」はなく、ネットで検索しても「答え」は見つかりません。この問いに対する答えは自分自身で考え出すしかないのです。

そして「法とはなにか?」を考えるにあたり、法の機能や目的に着目することも大事ですが、「誰のため」という視点も非常に有効です。本書は「法とはなにか?」を考えるうえできわめて重要な補助線を提供してくれます。

書店でご購入されるもよし、土浦市立図書館に所蔵されておりますのでお借りになるもよし、ご一読をおススメいたします。(弁護士)

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《吾妻カガミ》58 図書館と古書店と新刊店が大集合

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土浦駅ビル「プレイアトレ」内の天狼院書店

【コラム・坂本栄】土浦駅ビルとその周辺が面白いことになっています。霞ケ浦と筑波山を巡るサイクリングロードの拠点となる「自転車のまち」に、図書館、古書店、新刊店が集まる「本のまち」が加わったからです。バイクとブック。なんの関係もありませんが、この動と静に心地よいものを感じます。

駅から歩いて1分の所に、一昨年オープンした土浦市立図書館があります。その先1分の所には、大きな古書店「つちうら古書倶楽部」があります。これだけでも面白いのに、5月末、駅ビル内に新刊書店「天狼院書店」が開店したのです。店主の意気込みについては、本サイトの記事「土浦駅ビル 『モデルつくり全国展開めざす』 体験型書店が意欲」(5月31日掲載)をチェックしてください。

心配性の私は、こんな近くに貸本と古本と新刊の館店が集まって大丈夫かと思ってしまいます。でも図書館長は、お互い連携して駅前を元気にしようと張り切っています。詳しくは館長のコラム「『本』を通じて賑わうまちへ」(6月6日掲載)をご覧ください。

本3兄弟の集合が、本の供給過剰にならないか? 逆に需要喚起につなげられるか? 後日、館長、両店主と議論できればと思います。電器のまち秋葉原、本のまち神保町は後者の好例でしょう。味噌ラーメン、豚骨ラーメン、支那ソバなどの店が隣接していれば、そこにラーメン好きが集まる相乗効果も、後者の例でしょう。

激変した本の流通と読書の形

小中学生のころ、土浦のまちには新刊本屋が何軒もあり、旧水戸街道沿いの白石書店、駅近くの共栄堂にはよく通ったものです。家の本棚には、これらの店で買った本が並んでいました。東京に住んでいたころは(1966~2003年)、神保町の古本屋と大型新刊店をのぞくのが楽しみでした。千代田区立図書館に足を伸ばしたこともあります。

しかし、ネット販売、電子本が普及した現在、本屋に立ち寄ることはまれになりました。今、私の部屋にある新本と古本の9割は「アマゾン」から取り寄せたものですし、ほぼ同じぐらいの数の電子本がクラウド上のライブラリーに収められています。

新聞もそうですが、本もネットの普及によって、流通形態(本屋で買う→宅配で届く)、読書形態(紙の本で読む→タブレットの画面で読む)が大きく変わりました。発注データで私の読書癖を調べ、推奨本(買ってくれそうな本)までメールで送って来る時代です。

本の入手方法や読書スタイルは、まちの本屋時代とは違ったものになりました。しかし、新本や古本を立ち読みし、その場で包んでもらう感触は別ものです。広い空間と機能的な図書館も別ものです。貸本館+古本屋+新刊店が生み出す、非アマゾンの世界、本好きが集まる場所、そして交歓、とても楽しみです。(経済ジャーナリスト)

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《沃野一望》6 小貝川と天明飢饉 間宮林蔵その1

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つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

1881年(明治14年)、フランスの地理学者エリゼ・ルクリュが、先駆的探検により踏破確認された全地球の地理情報を網羅し、『万国地誌』を刊行した。当時では命懸けの探検行をかさねて得られた苦闘の集大成は、既存の地誌に較べ格段に高い精度が評価され、広く普及し各界で重用された。

その第六巻「アジア・ロシア」編に、ひとりの日本人の名が、地名として表記されている。その名は、間宮林蔵。

マミヤの名をヨーロッパへ紹介した人物は、江戸時代にオランダ政府より長崎出島のオランダ商館へ派遣されたドイツ人医師、フォン・シーボルトであった。違法な手段で日本全図を入手した(シーボルト事件といわれた鎖国令違反の闇。一方の主犯格の幕府天文方高橋景保は獄中死)。シーボルトは、カラフトが大陸から切り離された島であることを発見した間宮林蔵の功績を記念し、その海峡を「Mamiya – Seto(マミヤのセト)」と命名した。

間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(現在のつくばみらい市上平柳)に農家の子として、安永四年(1775)に生まれた。現在、復元された生家が、元の場所に資料館として再建されている。平野の彼方に筑波山を望む生家は、暴れ川として知られる小貝川の堤防のすぐ下に位置している。波乱の生涯をたどる林蔵の門出と小貝川という地理条件は、切り離せない関係にある。

幕府役人の下僕に取り立てられた農家の子

農家の子が、幕府の役人の下僕に取り立てられ、やがて下級とはいえ幕府役人となり、カラフト探検を成し遂げる人物になってゆく出世譚(たん)は、紆余(うよ)曲折の連続だった。

幕府役人の村上島之允(むらかみしまのじょう)の下僕として仕えた下積みが風雪の出発点となるが、村上との出会いは、小貝川と関わっている。村上は、幕府から小貝川管理に派遣された役人だった。

林蔵が9歳の天明三年(1783)、浅間山が大噴火し、上州の麓では一村が埋没する大災害が発生した。その秋、火山灰の堆積により川床が上昇し、小貝川を含む利根川流域に洪水が発生している。さらに3年後の天明六年、より深刻な大洪水が利根川全流域を襲った。流域は、大飢饉に見舞われる。林蔵の生まれた上平柳村も、餓死寸前の苦難に襲われた。

浅間山噴火の影響と大洪水、それにともなう飢饉、さらに小貝川流域の管理に派遣された幕府の役人と林蔵の関連についての直接史料は、残っていない。しかし、多重に錯綜(さくそう)するこれらの大激震が、神童とよばれた林蔵の多感な少年時代に計り知れない影響をあたえたことは、想像に難くない。(作家)

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《続・気軽にSOS》39 批判と進展 上司が悪い、会社が悪い…

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【コラム・浅井和幸】太陽はまぶしいから消えてしまった方がいいんだ。そう考えて、太陽が無くなるまで何もしないと考える人は少ないでしょう。どうしてでしょうか? そんな馬鹿なことは考えても意味がないと切って捨てず、あえて考えてみます。

自然に文句を言っていても仕方ないから。待つには太陽の寿命は長いし、太陽を消し去ろうとしても出来るはずがないから。自分がサングラスをかけるなり、曇りの日や夜に動いた方が現実的だから。消えてしまった方がよいと思ったが、太陽が無くなったら、もっと不都合なことが出てくるから。いろいろ考えられますよね。

自然が相手だと文句は少ないのですが、人間が相手だと、何も悪いことをしていない自分は変わる必要はなく、悪い相手や社会が変われ、相手や社会が変わるまで自分は何もしない―と、多くの人が考えるでしょう。

上司が悪い、会社が悪い、親が悪い、子が悪い、支援者が悪い、友人が悪い、社会が悪い。自然は素晴らしい、人間は悪だという考え方もあるらしいですね。自分は何も悪くない、もしくは、自分より悪い奴らが何とかなれと心の中で繰り返します。

論理的に批判し合い、お互い自分の正義や愛の価値観をぶつけ合います。傷つけ合い、疲れてしまい、ついに動けなくなる悪循環になってしまうのです。

ときには自己批判する

批判をすることも必要ですが、ほとんどの人は、自分が動かないことが目的の批判で、それは、むしろ自分が望む変化とは逆になることが多いのですが、いかがでしょうか?「ほら見ろ、自分が言ったように悪くなっただろう」という、悪い予言が得意な占い師になっても、自分の苦しみが増えるだけです。

親の作った料理の味を批判したら、美味しい料理が出てきたでしょうか? 社会に対する不満を言うことで、社会がハイ分かりましたと、批判と逆の状態になってくれるでしょうか? 自分の言動でどのように状況が変化したか、検証することは重要です。

ときには自己批判をする。それが反省に繋がり、次の行動に活かされる。その後、現実はどの様に変化したかを検証する。もちろん、自分の目的が何かを見つめ直すことも必要です。

私たちは聖人ではないですから、愚痴をこぼすことも大切なことです。しかし、その愚痴や批判は、気持ちをスッキリさせたでしょうか。現実世界が変わったかどうかと同じぐらい検証して、役に立ったかを、考えてみることを私はお勧めします。

それでもあなたは、まだ、太陽なんか消えちゃえ、雨なんか一生降るなと、サングラスもかけず、傘もささずに、太陽を見続け、雨に濡れ続けますか?(精神保健福祉士)

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