【コラム・高橋恵一】初めて関ケ原の合戦の地を歩いてみた。歴史ファン、地図ファンにとって、関ケ原合戦の布陣図ほど魅力的な地図はないだろう。南北1.5キロ、東西500メートル程度のエリアで、石田三成側が鶴翼(かくよく)の陣を敷く西軍8万に、徳川家康の東軍7万5千が対峙する布陣図。明治時代にドイツから招いた陸軍大学校の教官・メッケルが、一目して西軍の勝ちと評したといわれるアレである。

東海道新幹線の窓から、大垣城を右後方に見送ると、この辺が関ケ原だと思う間もなく伊吹山のトンネルに入り、京都に降りる準備を始めることになる。関東、関西という呼称も、古来、越前の愛発の関、美濃の不破の関、伊勢の鈴鹿の関の3つの関所を結んだ線より西を関西と称するが関ケ原の「関」は、伊吹山の麓、美濃の不破の関である。

この地は、中山道が東西に走り、北西から北国街道が合流し、南東からは伊勢街道が合流する交通の要衝であり、現在も、新幹線、高速道路、主要道路が、関ケ原で束ねられる形状の地である。したがって、地政学的には、常に重要視され、古代の壬申の乱も、不破の関を先に抑えた大海皇子(天武天皇)が勝利を収めている。

関ケ原合戦の詳細は、諸説あって、絞り込めないが、もともと「歴史」は、常に勝者が記録するものであり、それだけでは満足できない「判官びいき」が加わって、話は広がり、楽しくなる。関ケ原もその一つだ。

石田三成の陣 笹尾山から一望

西軍8万のうち、南宮山の毛利秀元や長曾我部盛親の約3万は、関ケ原の東方5キロの山腹で待機して参戦せず、小早川秀秋1万5千と脇坂安治等5千は、様子眺めで動かず、午前9時頃の開戦時に参戦していたのは、約3万程度となる。

東軍も、家康の本隊3万は後陣に控え、池田輝政や山内一豊などの1万5千は、南宮山の毛利勢に備えていたので、本戦の主体的参加は、約3万ということになる。

しかし、石田三成の6千、宇喜多秀家の1万7千、福島正則の6千、山内一豊の2千100など、各隊の兵数の根拠は、この時代の大名の動員兵数が、1万石当たり300人とされ、禄高からの推測とみるのが妥当で、実際の兵数はわからない。

午前中の2時間余は、西軍が幾分押し気味だったというが、ほぼ拮抗していたようで、昼頃の小早川隊の東軍参加により、西軍は大谷吉継隊の南側から崩され、1時間も持たずに東軍の圧勝になった。

三成の笹尾山(198メートル)からは、関ケ原が一望できる。眼下の2平方キロ足らずのエリアに約10万以上の兵が、数十隊に別れ、旗指物(はたさしもの)をなびかせながら、戦った様は、黒沢明の映画のシーンを見るようであったろう。

この朝、霧が晴れた瞬間、三成は、眼下の戦場で、徳川軍を三方から押し囲んで殲滅(せんめつ)してから、どのような展開の夢を描いたのだろうか。(地図愛好家)

➡高橋惠一さんの過去のコラムはこちら