《沃野一望》6 小貝川と天明飢饉 間宮林蔵その1

つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

1881年(明治14年)、フランスの地理学者エリゼ・ルクリュが、先駆的探検により踏破確認された全地球の地理情報を網羅し、『万国地誌』を刊行した。当時では命懸けの探検行をかさねて得られた苦闘の集大成は、既存の地誌に較べ格段に高い精度が評価され、広く普及し各界で重用された。

その第六巻「アジア・ロシア」編に、ひとりの日本人の名が、地名として表記されている。その名は、間宮林蔵。

マミヤの名をヨーロッパへ紹介した人物は、江戸時代にオランダ政府より長崎出島のオランダ商館へ派遣されたドイツ人医師、フォン・シーボルトであった。違法な手段で日本全図を入手した(シーボルト事件といわれた鎖国令違反の闇。一方の主犯格の幕府天文方高橋景保は獄中死)。シーボルトは、カラフトが大陸から切り離された島であることを発見した間宮林蔵の功績を記念し、その海峡を「Mamiya – Seto(マミヤのセト)」と命名した。

間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(現在のつくばみらい市上平柳)に農家の子として、安永四年(1775)に生まれた。現在、復元された生家が、元の場所に資料館として再建されている。平野の彼方に筑波山を望む生家は、暴れ川として知られる小貝川の堤防のすぐ下に位置している。波乱の生涯をたどる林蔵の門出と小貝川という地理条件は、切り離せない関係にある。

幕府役人の下僕に取り立てられた農家の子

農家の子が、幕府の役人の下僕に取り立てられ、やがて下級とはいえ幕府役人となり、カラフト探検を成し遂げる人物になってゆく出世譚(たん)は、紆余(うよ)曲折の連続だった。

幕府役人の村上島之允(むらかみしまのじょう)の下僕として仕えた下積みが風雪の出発点となるが、村上との出会いは、小貝川と関わっている。村上は、幕府から小貝川管理に派遣された役人だった。

林蔵が9歳の天明三年(1783)、浅間山が大噴火し、上州の麓では一村が埋没する大災害が発生した。その秋、火山灰の堆積により川床が上昇し、小貝川を含む利根川流域に洪水が発生している。さらに3年後の天明六年、より深刻な大洪水が利根川全流域を襲った。流域は、大飢饉に見舞われる。林蔵の生まれた上平柳村も、餓死寸前の苦難に襲われた。

浅間山噴火の影響と大洪水、それにともなう飢饉、さらに小貝川流域の管理に派遣された幕府の役人と林蔵の関連についての直接史料は、残っていない。しかし、多重に錯綜(さくそう)するこれらの大激震が、神童とよばれた林蔵の多感な少年時代に計り知れない影響をあたえたことは、想像に難くない。(作家)

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