水曜日, 4月 23, 2025
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《ことばのおはなし》13 私のおはなし②

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【コラム・山口絹記】何かを思い出すという行為は、深い海にボンベ無しであてもなく潜るのに似ている。濁っているときは何も見えないし、海底まで見渡せるときもある。基本的には息が続くところまでしか潜れないし、あともう少しと手を伸ばしても、届かないときは届かない。

私はときどき、そんなふうに思う。

12月が近づいた、私が緊急入院することになる1週間前のある日。家族3人の夕食中、妻のことばに何か返そうとして、私は違和感を覚えた。自分が何を言おうとしたのか、わからなくなってしまったのだ。

ふと台所に置かれている長ネギを見て私は固まった。その味や調理方法もわかるのに、名前がわからないのだ。そういえば、今何の話をしていたんだっけ?

「どうしたの?」妻が怪訝(けげん)な顔でこちらを見ている。机の上に視線を戻す。食卓に並ぶものすべて、一つも名前がわからない。何か言おうとするも、「あれ、なんだっけ、どうしよう」と特に意味のないことばがこぼれ落ちる。

耳から入ることばは理解できるのに、何かを意識的に言おうとすると、途端(とたん)に頭の中にもやが広がって訳がわからなくなった。時計を見る。18時5分前。数字、時刻は理解できる。床に落ちていた広告の文字も理解できた。しかし口に出して読むことはできない。

その症状はちょうど1分ほど続いた。

すぐに回復した私は「今話せなくなって、ものの名前もわからなくなった」と妻に話しながら、脳裏に失語という単語が思い浮かんだ。歴史上の人物の名前が思い出せないとか、先週の夕飯のメニューが思い出せないというのとは明らかに違う。長ネギ、みそ汁、コップなどという単語が同時に思い出せないのは、疲れがたまっているくらいのことでは説明がつかない。

脳出血だろうか。頭痛やしびれはない。脳腫瘍(のうしゅよう)かあるいは若年性Alzheimer病? そんなことを考えていると、脳外科で長年看護師をしていた妻も同じようなことを考えたのだろう。身体、動く? 右手、動く? と尋ねてくる。

私は「大丈夫、動くよ、疲れてるのかな」と右手が動くのを見せながら、病院に連れていくかを考え始めている妻を無理やり止めた。

日記に不自然な誤字脱字

その夜、家族が寝静まったあとに、日課であるオンライン英会話はキャンセルして、過去の日記を読み返した。前日の日記に、不自然な誤字脱字が見つかった。この2カ月間で誤字脱字はそこだけだ。やはり、おかしい。

先程の症状も継続時間はわずか1分。つまり今までもただ気が付かなかっただけで起こっていた可能性は大いにある。

しかし、なにぶん過去に失語になったことなどなかったので、これが失語かと自分に問うてみても自信がない。誰かに相談したいところだが、会社の上司に「年とってくると長ネギ見ても名前が出てこないことってありますかね?」などと質問した日には、おそらく趣を異にした問題が身に降りかかるだろう。

いずれにせよ、よく食べて寝ておけば治る類(たぐい)のものではなさそうだった。私は2週間を期限に注意深く自身を観察することにした。-次回に続く-(言語研究者)

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《光の図書館だより》22 「100万人達成」という通過点

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100万人達成の電子掲示板の脇で本を手に取る来場者=土浦市立図書館

【コラム・入沢弘子】土浦市立図書館は、8月23日(金)に100万人目の来館者をお迎えしました。100万人目は市内の小学4年生の佐久本蓮くん。中川清市長から、土浦ブランド認定品「飯村牛」のローストビーフと、市のイメージキャラクター「つちまる」のぬいぐるみを記念品として贈呈。拍手が沸(わ)き起こり、「おめでとう!」と声が掛かりました。

蓮くんは本が大好きで、学校図書館だけではなく当館にもよく訪れ、たくさん本を借りているそうです。「この図書館のどこが好き?」と聞くと、「(冒険ファンタジーの)マジック・ツリーハウスがある場所」と答えてくれました。一緒に来ていたお母さんは「前の図書館から利用していましたが、新しい図書館はゆっくり座れて、飲食ができる場所があるのも気に入っています」とのこと。

「すごいよね」「うれしくなっちゃってさ」

当館の移転開館は、市の総合計画の中心市街地の整備事業「土浦駅北地区の図書館を核とした再開発事業」に位置付けられていました。リーマン・ショックや東日本大震災で2度の計画変更を余儀なくされ、長い年月をかけて実現しました。

2017年11月末の開館日、何時間も並んで入館した皆さんが口々に、「おめでとう、本当によかったねぇ」「やっと出来たね、待ってたよ」と声を掛けてくれました。100万人達成後も、館内を歩く私に「100万人だって? すごいよね」「いやぁ、うれしくなっちゃってさ」と、我がことのように喜んでくださいます。

図書館があることで、多くの方が駅前に足を運び、周辺の経済活動が盛んになること、図書館に来ることでうれしく感じたり、元気になることも、当館に与えられた使命だと思います。

100万人達成は通過点。さらに市民に愛され、誇りに感じていただける図書館へ―これからもチャレンジは続きます。(土浦市立図書館長・市民ギャラリー副館長・市広報マネージャー)

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《くずかごの唄》45 黄金虫とはゴキブリのこと

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指で指しているのは奥井さんが捕獲したチャバネゴキブリの卵鞘(らんしょう)

【コラム・奥井登美子】茨城県の誇る童謡詩人野口雨情の詩、

シャボン玉 飛んだ

屋根まで飛んだ

屋根まで飛んで 壊れて消えた

シャボン玉 消えた

飛ばずに消えた

うまれてすぐに

こわれて 消えた

は、雨情が幼い娘を亡くしたときに書いた詩で、そう思うとなにか切ない。

彼の詩は中山晋平の作曲とともに、大正時代、全国の子供たちの心をつかんだ。「コガネムシ」の唄もはやった。

黄金虫は 金持ちだ

金蔵建てた 蔵建てた

子供に水あめなめさせた

ここに出てくる黄金虫(こがねむし)は、現代の虫用語ではゴキブリのことである。

ゴキブリを尊敬しなければならない

私たちの幼いころ、ゴキブリは黄金虫とか油虫と呼んでいた。森にしかいない虫で、森の下草の中にすぐに隠れる。その早いこと早いこと、まるでスポーツ選手のようだ。いつも7~8種類はいたようだが、そのうちクロゴキブリとチャバネゴキブリだけが、「ゴキブリ革命」を興(おこ)して人間の台所に侵入してしまった。

ゴキブリの産業革命である。それが何時(いつ)ごろだったのか。ゴキブリの歴史学者に聞いてみないとわからないが、1950(昭和25)年以後である。戦後のどさくさにまぎれて台所に侵入したゴキブリは、驚異的な発展を遂げて子孫を繁栄させている。

足の速さとともに適応力も天才的だったのである。今でもどんぐり山に行くと、革命に乗り遅れたたくさんの森のゴキブリを見ることができる。家庭に進出した虫の適応力のすごさ。私たちはゴキブリを尊敬しなければならない。(随筆家)

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《雑記録》3 「戦争をしないための新・軍事学」というタイトル

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【コラム・瀧田薫】2019年9月号の「中央公論」は、「戦争をしないための新・軍事学」と銘打った特集を組んだ。一昔前であれば、「きな臭い過激なタイトル」として、それなりに耳目を引いたかもしれない。しかし今では、戦争を論じ、軍事を語るについて、昔とはまるで環境が違っていて、タブーというものがないかのような状況だ。編集者としては、米中、日韓の衝突といった時事的な背景もあり、「今月号の特集タイトルは売れそうだ」との予想を立てたかもしれないが、期待外れに終わるだろう。

ともあれ、この特集号は総じて面白い内容でまとめてあり、雑誌の編集としては成功していると思う。とりわけ、特集冒頭の鼎談(ていだん)「徴兵制を議論せずに、平和は語れない」(刈部直氏、三浦瑠理氏、渡辺靖氏)と佐藤優氏の対談「若者は本当に保守化しているのか」(相手は古谷経衡氏)、それに牧野邦明氏の論説「高橋亀吉と石橋湛山から戦争回避の方法を探る」、以上の3本は今の日本の状況を考える上で一読の価値がある内容だと思う。

冒頭の鼎談と佐藤氏の対談は、実は同じテーマ「今どきの若者と教育」を扱っている。ただし、それぞれ話題にしている「教育」の目指す方向はまさに真逆といっていい。前者においては、特に三浦瑠理氏において際だっているが、「個人よりも国家に優先的価値が与えられた論理構造」のなかで若者と(公)教育の問題が語られる。これに対して、後者においては、特に佐藤氏において、「天下国家を論じない若者とその教育」が語られている。

合理性に基づき政策を実行する制度設計

そこで、この鼎談と対談とを比較しながら合わせ読みしてみると、国家あるいは政府の側では、「徴兵制」すなわち「若者の動員」をどう実現するか、そのための教育方法まで含めて現実の課題として検討されているのに対し、肝心の若者の側はその事実にまったく気づいておらず、佐藤氏の言う「生活保守」に閉じこもっている現状が浮き彫りになる。

佐藤氏によれば、日本の若者は、厳しい環境に萎縮し、内側にばかり向かい、与件のなかで何ができるかばかり考えるようになっているという。当然、政治には無関心あるいは政治的に無色であり、権力の側からすれば、操作し易い対象と見なされる。佐藤氏はこうした若者の現状を憂えて、「歴史に学ぶ」事の大切さを説く。

ちなみに、牧野邦明氏の論説「高橋亀吉と石橋湛山から戦争回避の方法を探る」は、石橋湛山の事績を通して、国家レベルの意思決定のあるべき形を論じている。石橋は戦時中、勇敢にも、「国家を繁栄に導くのは、目の前の損得だけで物事を判断する合理性ではなく、広範かつ長期に渡る視点からの合理性である」と言い、こうした合理性に基づいて政策を実行するような制度を設計することの大切さを繰り返し説いたという。佐藤氏であれば、こうした内容の論説こそ、学生向けの歴史教育の教材に相応しいと言うだろう。(茨城キリスト教大学名誉教授)

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《吾妻カガミ》63 懸案問題処理に見る つくば市のスタイル

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つくば市役所

【コラム・坂本栄】つくば市の総合運動公園予定地跡の活用計画が、8月19日公表されました(記事も同日掲載)。といっても市が策定したものではなく、公募に応じた1企業が出してきた案です。これを市当局が採用、社名を伏せて公表しました。この問題、五十嵐立青市長にとっては「ホットな政治案件」のはずですが、処理手続きはとてもクールです。

市議会に説明された案は、45ヘクタールの土地のうち、調整池と道路整備に7ヘクタール使い、残りの35パーセントを大規模商業施設、59パーセントを物流倉庫施設、6パーセントを老健施設に使うという、まとまった土地を小分けする計画でした。

商業施設も、大手ショッピングモール、スーパー、飲食店、ホームセンターなどを誘致する―と月並みで、前市長時代に企画立案→白紙撤回された運動公園計画(主な施設は公認陸上競技場、総合体育館、ラグビー兼サッカー場)のようなインパクトはありません。

また、提案企業が土地を買い取り、すぐ開発に入るのかと思っていたら、手続きはまだ続くようです。市民説明会、不動産鑑定(提案社は40億円~と想定)は当然としても、土地売却は別途入札を行うとのこと。処理のプロセスは用心深く組み立てられています。

まだ続く政治テーマ「総合運動公園」

来年秋に市長1期目を終える五十嵐さんは、この問題の処理ではリスクを避けたいと思っているのでしょう。このコラム55「つくばの政治テーマ 総合運動公園問題」(5月6日掲載)でも触れましたように、「(前市長の)市原さんが4選出馬を諦める一因になった」「五十嵐さんにとっては、反対運動をテコに市長選に臨み、当選の主因になった」案件ですから、気持ちは分かります。

この種の計画は、まちの将来像を描き、豊富な情報も持つ市が策定しなければならないのに、公募の形で民間に投げたのは、出来上がった計画への批判を恐れたからでしょうか? それとも、市が策定したTXつくば駅前再生プランが頓挫(とんざ)したため、自信を失ったのでしょうか?

市有地処理では、土地利用計画と土地売却額がポイントになりますが、後者については、五十嵐さんの責任は軽いと思います。66億円でUR(都市再生機構)から購入したものが、先の想定通り40億台でしか売れなかったとしても(差損は20数億)、買ったのは前市長だからです。

でも、2016年秋の選挙中、五十嵐さんは土地をURに買い戻させると「公約」していましたので、政治的な責任は残ります(選挙後に解約は契約上無理と判明!)。この問題の処理が終わる今年末まで、市の対応をウオッチしていきましょう。(経済ジャーナリスト)

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《ON THE ROAD》4 荒川沖と大子町で過ごした夏

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【コラム・石井康之】最近の朝はとても早く目が覚める(5時いや4時半もある)。荒川沖の知人の家に来ると、朝からやりたいことが山ほどある。先日も網戸の張り替え、竹の伐採、庭の草むしりもした。根が深い雑草は、鍬(くわ)で根から切り込む。

作業は午前中の涼しい時間から始めるが、Tシャツはすぐに汗でびしょびしょになってしまう。タオルもTシャツも何枚あっても足りない。しかし、朝食は近くの畑で採れるものをすぐいただける。

近所の知人の親せきなどが、新鮮な野菜をたくさん持ってくるという。ただ家の周りには見たこともないような虫がたくさんいるため、よくホームセンターに薬を買いに行く。何年か前だと、海外や国内の展示会のスケジュールだけで日々が過ぎていた。余裕もなく…。

最近は、近くの荒川沖のスーパーにもパン屋にも行く。すし屋や飲み屋の人に話し掛けられるようにもなった。私は海外へ展示会で行ったとき、出掛けて留守になっている知人宅に泊まることが多いが、そこで食材調達を自分でしていたときに似た感じがする。

たまに道を歩いていると、見知らぬ人から「こんにちは」と声を掛けられたりもする。こんな些細(ささい)なことがとても新鮮で、大切な気がする。これは私だけではないと思いたい。今度は東京でも近所の人に自分からあいさつをしようと思う。

古いものを残しつつリノベーション

先日は県北・大子町の花火と灯篭(とうろう)流しを見に行き、とても懐かしい気分になった。多分、昔、家族や友達と見たときの思い出とリンクしたのだろう。花火が始まるまでの夜店の探索(たんさく)、これは幾つになっても変わらない。

大子の花火は、川沿い、橋の上、商店街からはもちろん、ひな祭りに人形を飾る百段階段の上からも見られる。送り盆の時の花火は、故人があの世へ帰れるようにする合図ともいわれ、神聖なものだ。

大子町には、毎年何万人も花火を見る人が来ていて、リノベーションして感じのよいカフェ・蔵・洋品店・学校などが点在しているが、昔そのものを残したような建物もある。新しいだけの建物も悪くはないが、古いものを残しつつ、リノベしていくのも大事な気がする。

この町は交通手段がよくはないと思うが、不思議な魅力を感じた。小さなまちでもアイデア次第で素敵なまちに変われると、私は考える。今週からトルコに10日ぐらい旅をする。日本とは違う文化に触れられるのはとても楽しみだ。(ファッションデザイナー)

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《制作ノート》10 富士山を描く 自分なりに表現

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【コラム・沼尻正芳】昨年の夏、朝焼けする富士山を見に行った。富士吉田市の宿を午前3時に出て、自衛隊北富士演習場に車で向かった。演習場の中はまだ真っ暗闇で富士山を臨めるところを探していると、いくつかの光が見える場所があった。光を頼りにしてそこに到着すると、カメラを持った人たちが集まっていた。

夜明け前の北富士演習場は防寒着が必要なほどで、寒さに震えながら日の出を待った。少しずつ空が明るんできて、富士山のシルエットがはっきりと見えてきた。その日は運よく快晴、富士山が徐々に赤くなってきた。太陽の光をいっぱいに受けて、やがて山も草原もすべてが赤く染まった。初めて見た赤富士に心が躍(おど)った。この赤富士を絵にしたいと思った。

私はここ数年、筑波山を描いてきた。富士山もいつかは絵にしたいと思っていたが、富士山を描くのはまだ先だと考えていた。赤富士に出会ったことで、その考えが一変した。そういえば、西の富士、東の筑波という言葉がある。奈良時代に編纂(へんさん)された常陸国風土記には、富士山と筑波山の伝説がある。

「祖先である神が諸国の神々を訪ねて回ったとき、富士山に着いて日が暮れてしまった。泊めてほしいと富士山の神に頼むと断られた。祖先の神は悲しんで『私はおまえの親なのに、おまえの住む山は冬も夏も雪に覆われ寒くて人が登れない山になるだろう』と言った。先祖の神はそれから筑波山に登り、泊めてほしいと頼んだ。筑波山の神は食事を用意し、優しくしてくれたので先祖の神は喜んだ。そして、『筑波山には人が集まり、神とともに食べたり飲んだりできる豊かな山になるだろう』と歌をうたった」

通俗的にならないよう工夫

日本を象徴する世界遺産の富士山とふるさとの筑波山。日本百名山の中で標高日本一の富士山と標高が最も低い筑波山。筑波山からは富士山を望めるが、富士山から筑波山は見えるのだろうか。富士山と筑波山を対等に語ることは身びいき過ぎると思うが、東の筑波山と西の富士山を併せて描いていくのもよいかもしれない。

家に帰って赤富士の構想を練り、初めて富士山を油彩で描いた、朝焼けで真っ赤に染まった赤富士は数日で仕上がってしまった。筑波山の絵はいつも悪戦苦闘して描いてきたが、赤富士の絵はなぜかすんなりと出来てしまった。その後、さらに夏の富士山を描いた。次は、雪をまとった冬の富士山も描こう。

冬になって、わくわくして富士山巡りに出かけた。富士五湖からの富士山、忍野村から臨む富士山、雪化粧の富士山は実に美しい。感動的だった。富士山はやはり雪が最高に似合う。流れる雲に時々顔を隠すこともあったが、変化する雲もとても魅力的だ。

富士山は多くの画家が絵にしているが、一目で富士と分かる。日本で一番の絵になる山だろう。だからこそ、富士山は通俗的にならないように表現を工夫していかなればならないと思った。本物の富士山の迫力にはただただ圧倒されるが、自分なりの富士山を表現したい。富士山も筑波山も、自分らしい表現を目指して、これからも共に描いていこうと思う。(画家)

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《ライズ学園日記》1 「学校に行きたくない」にどう応えるか

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【コラム・小野村哲】「学校に行きたくない」という子に、私はいつもこう答える。

「プラスになると思えば行ったら。けれど、自分のためにならないと思うんだったら無理して行かなくたっていいんだよ。学校のために君がいるんじゃなくて、君のために学校があるんだから」

すると周囲の大人からは、「そんなことを言われたら困る。それで本当に行かなくなったらどうしてくれるんですか」「まずは学校に足が向くように、背中を押してくれませんか」などと、言われたりする。もちろんその気持ちもよくわかるが、ここで考えたいのは「困る」のも「背中を押す」のも、主語が子どもたちでなくなっていることだ。

「まずは学校に…」というのもどうだろう? 例えば風邪で熱があるときは「まずはよく休んで…」となるのに、心が疲れるなどした子にはなぜ「まずは学校に…」ということになるのだろう? 「明日こそは行かなきゃ…」と自分を追い詰めていたり、「学校にいけない自分はダメだ」と自信をなくしたりしている子もいる。そんな子に「まずは学校に」という姿勢で接するのは、根本から違っていないだろうか?

もし「学校に行きたくない」という子がいたら、まずは「何か話したいことがあったら聞かせて」と、寄り添うことから始めてはどうだろう? もちろん近づきすぎはダメだし、「どうしたの? 何があったの?」と問い詰めるのもNG。自分でも自分が理解できずにイライラしていることもあり、大人になってから、「あのときは自分でもよくわからなかったけど…」というのもよくある話だ。

まずはかたわらに座って、ゆっくりと自身の呼吸を整えてみる。もしそれが難しかったら、「ごめんね。少しドキドキしているから、少し時間をもらってもいい」としてもいい。思いを受け止めようとしていることが伝わるだけでも、安心して落ち着くこともある。

不登校という選択 マイナスだけでない

学校に通うということは、当然のこと、常識かもしれない。しかし常識が正しいと限らないことは、これまた常識だ。ライト兄弟は、当時の物理学の権威が「空気より重い機械は空を飛ぶことはできない」とした常識を、わずか数年後に打ち破った。世界的権威が「イエス」といえば「イエス」、「ノー」といえば「ノー」という発想では、飛行機が空を飛ぶこともなかったわけだ。

ましてやAI時代に突入した今、時代はますますスピードを上げて変化している。子どもたちが戸惑うのも当然だ。もしも思いを隠し続けていたら…と考えれば、「よく言ってくれたね」と、伝えてもいいかもしれない。

学校に行けば授業が受けられる。しかし、家にいる間は好きな本がたくさん読める。これもプラスかもしれない。こうしてその子なりの学びができれば、不登校という選択もあながちマイナス面ばかりとはかぎらない。不登校それ自体は、問題ではない。問題は、それによって自信を失ってしまうことだと思う。(つくば市教育委員)

【おのむら・さとし】39歳で公立中学校を退職した後、つくば市内で不登校や学習につまずきがちな子どもたちのための「ライズ学園」を立ち上げる。県内外で、子育て・英語教育・LD(学習障害)などについて講演活動も行う。NPO法人「リヴォルヴ学校教育研究所」元理事長、つくば市教育委員。59歳、東京都板橋区出身。

 

《県南の食生活》4 霞ケ浦の代表的な魚 公魚(ワカサギ)

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再現してみたワカサギの煮干しづくり

【コラム・古家晴美】霞ケ浦の代表的な魚といえば、まず初めに挙げられるのがワカサギです。茨城県では禁漁期間を除いた7~12月を中心に漁を行っています。シシャモと同じキュウリウオ科の体長約15センチの淡水魚で、寿命は約1年、1~2月に水深1メートルの砂地に産卵します。霞ケ浦名産の焼きワカサギは、3代将軍家光に献上されて以降、江戸時代を通して公儀御用(こうぎごよう)魚とされたので、「公魚」の字があてられました。

現在のワカサギは、小型機船を使用した1人で操業する底曳網(そこびきあみ=トロール網)か、定置網(ていちあみ)で漁獲されています。しかし、昭和30年代までは、このような小規模な漁と同時に、大規模な漁も行われていました。江戸時代に考案された「大徳網(だいとくあみ)」と言う網の長さが1000メートルに及ぶ大型の網を使用し、網元を中心に曳(ひ)き子が30~40人雇われ、行われていたのです。

夕方になると、これらの曳き子たちを乗せた船は、漁場(対岸の場合もありました)まで行き、その領域を網で取り囲みました。ワカサギ漁は夜間操業なので、地曳き(じびき、湖岸から網を曳き寄せる)あるいは船曳き(ふなびき=沖曳き:船から網を曳き寄せる)で、1回3時間かけて、1晩に3回網を曳き揚げ、早朝に戻ってきたと言います。

漁から戻り陸揚げされたワカサギを選別するのは、非常に手間のかかる作業で、女性が担当しました。小さいワカサギを塩茹(しおゆ)でし、天日(てんぴ)で干しますが、雨に当たると商品としての価値が落ちてしまうので、急な雨の時は総出で取り込まねばなりませんでした。

煮干し 焼きワカサギ 焼き浸し…

ご存知のように、ワカサギの「煮干(にぼ)し」は、ご飯のおかずやおやつ、おつまみなどの食用が中心で、カタクチイワシ煮干しのようにダシ汁を取ることが主な目的ではありません。冷蔵設備が整い、塩分控えめの健康志向が強くなってきてからは、現在のようなソフトなタイプの要冷蔵品となりましたが、それ以前は、日持ちがするように、より塩分濃度が高い乾燥させた煮干しが製造されていました。

日常、食卓に上るのは、このような煮干しに醤油をかけたものが中心で、このほかに、大きめのワカサギを数尾並べて串刺(くしざ)し・生干(なまぼ)しにしたものを焼いた「焼きワカサギ」が冬のご馳走でした。さらに、これを昆布巻きの芯(しん)にしたり、乾燥させてダシを取ることもあったとのことです。また、天ぷらや焼いてから煮る焼き浸(びた)し、醤油の煮つけ、夏には骨を抜いた生のものを泥酢(どろず)につけて食べました。

漁家では、煮干しを作る際に、ゆで汁に浮いて来たワカサギ油を採って揚げ物などに使ったり、農家の野菜と物々交換しましたが、魚臭いということで、あまり評判は良くなかったようです。(筑波学院大学教授)

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《続・平熱日記》44 夏休み読書感想文「親父の日記を読んで」

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【コラム・斉藤裕之】日ごろの行いが悪いのか、日帰りの施術(せじゅつ)では尿管の石は破壊されず再度入院。今度は尿管からステントを入れてと相成りました。施術自体は1時間ほどだそうですが、入院は3日間。ということで、暇つぶしとしてあるものをお供に入院することにしました。

それは親父の日記。この春、山口の実家を片付けた折に持ち帰ったもの。ちょうど親父が結婚した年と、私が生まれた年の2冊。

記されているのは、天候、起床・就寝時間、食べたもの、仕事のこと、裕之君として登場する生まれたばかりの私の様子など。その当時、親父は地方新聞の記者?をしていたと思うのですが、広告取りに行っていたのか、毎日何軒かの飲食店を巡り、昼間からビールを何本飲んだとか、何件ハシゴしたとかの毎日。2日に1度は2日酔いという記述。

ということは、毎日、酔っているということ? またその現場いうか、飲食店、居酒屋、スナック、時計屋、すし屋などは、私が小学校から新聞を配っていたお馴染(なじ)みの店ばかり。記憶として嗅覚は長く残るそうですが、当時の店構えはもちろん、お燗(かん)の匂いやおでんの香りを鮮明に覚えていて、そこで一杯やっている親父の姿は容易に想像できます。

それから、今とは違って大分ゆるい日常の描写。雨が降っているから出社しないとか、3日にあけず釣りに行ったり、若き日の叔父や叔母が頻繁(ひんぱん)に遊びに来ていたりとか。勤務中には将棋、夜は隣のおばちゃんと花札三昧―。

また、この日記から私が初めて髪を切った日が判明。隣の爺(じい)さんが鷹(たか)を飼っていたという記憶が正しかったこと、扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れやすいのは親父からの遺伝であることも確認できました。

それから、風呂を焚(た)くこと、入浴のことが記されていて、1日のとても重要な行事だったことがわかりました。

この日記もいつか娘たちが読む?

さて無事に施術も終わり、退院するとともに強烈な暑さの毎日がやってきたわけですが、夏休みの間は子どものお絵かき教室もお休み。「工作やお絵かきの宿題は自分でやりなさい」ということ。最近、お絵描き教室や、へたをすると公の講座が夏休みの宿題をお手伝いするというおバカぶり。

極(きわ)めつけは、先日本屋さんで見かけた「読書感想文の書き方」という本。いっそ、この本の感想を書いてみるのもいいのかなと。というか、そもそも夏休みに、宿題は――特に自由研究とか工作とか――いらないでしょう。なんで小学生が貯金箱作るの?

というわけで、今回は夏休みの読書感想文「親父の日記を読んで」というオチになりそうですが、この「平熱日記」もいつか娘たちが読む日がくるのでしょうか? そのためではありませんが、来年は夏休みの宿題として、自分で製本でもしてみようかと思います。(画家)

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《邑から日本を見る》46 元東電・木村氏の記事に戦慄!

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】「福島第一原発は津波の前に壊れた」という『文藝春秋』9月号の記事を読んで、私は戦慄を覚えた。元東京電力社員の木村俊雄さんという、炉心の専門家が実名で告発している。

東電はこれまで、「地震の後に来た津波により、非常用ディーゼル発電機、配電盤、バッテリーなど重要な施設が被害を受け、非常用を含めたすべての電源が使用できなくなり、原子力を冷却する機能を失った。この結果、炉心溶融とそれに続く水素爆発による原子炉建屋の破損などにつながり、環境への重大な放射能物質の放出に至った」と説明してきた。津波で電源を喪失し、冷却機能を失ってメルトダウンが起こり、重大事故が発生した、ということだ。

「メルトダウンの原因が地震ではなく津波だったら、津波対策を施せば、安全に再稼働できる」という結論になる。これをもとに、2013年に国の原子力規制委員会は「新規制基準」を決め、これにより川内や玄海、大飯原発などが再稼働になった。東海第2原発もまだ動いていないが、同様に昨年許可されている。

福島の事故を受けて、国会、政府、民間、東電がそれぞれ事故調査委員会を立ち上げ、膨大な報告書を出している。しかし木村さんは「いずれも事故原因の究明として不十分」だったという。いずれも、炉心の状態を示すデータが不可欠なのに、それを見ていないからだ。

福島第1 は地震動で燃料破損していた?

木村さんは、東電社内でも数少ない炉心のエキスパート。現場での「叩き上げ」の人だ。東電にデータの開示を求め、これを分析して驚いた。過度現象記録装置、飛行機でいえばフライトレコーダーやボイスレコーダーのようなデータを見たら、地震発生後わずか1分30秒後に炉心を冷やす水の流れがストップしたことがわかった。

津波の第1波が到達したのは地震の41分後だから、そのはるか前に炉心は危機的状況に陥っていたのだ。「想定外の津波によりメルトダウンした」という東電の主張が根底から崩れることになる。しかし、4つの事故調のメンバーは、このデータを見ていなかった。東電が調査委にデータを開示していなかったから。

木村さんはさらに、東電の企業体質も無視できないという。原発の事故後に過度現象記録装置のデータを隠蔽していたが、それ以前にも都合の悪いことは隠す体質だった。データの書き換えも行っていたなどの事例を挙げている。

炉心のエキスパートであった木村さんは、最後に「原発にはそもそも無理がある。長年現場経験を積んできた実感で、『私は反原発』」と言い切る。

そして、原発を動かすなら「事故を教訓に十分な安全基準を設けることが最重要。しかし、その根拠となるべき事故原因の究明すらなされていない」「津波が想定外の規模だったかどうか以前に、地震動で燃料破損していた可能性が極めて高い」「耐震対策には膨大な費用がかかり、現実的には原発はいっさい稼働できなくなる。この問題は決して過去の話ではない」と、東電や国の動きに警鐘を鳴らしている。

私は、この木村さんの勇気ある発言をもとに、国の原子力政策は根本から考え直すべき、と考えている。(元瓜連町長)

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《ひょうたんの眼》19 第1次世界大戦から101年経って

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テッポウユリ

【コラム・高橋恵一】アニメ制作の京都アニメーションのスタジオビルがガソリン放火され、35人も犠牲になり、1カ月経っても未だ生死の境をさまよっている方がおられるという悲惨な事件が起きた。

74年前の広島では、京都事件の4千倍の犠牲者を出した原爆が落とされた。放火した犯人も、原爆の発射ボタンを押した兵士も、具体に「どの個人」を殺傷するかを知らないまま、殺人スイッチを押したことになる。

京都では、出火直後に消火作業にかかり、被害者の救済治療にもあたったが、各個人を判別するのに数日間かかるほど、被害者の損傷はひどかったようだ。広島では、人の影しか残らないほどの熱線で焼かれ、消火も救済治療の体制もなく、おまけに放射能の影響で後遺症も残すという、想像を絶する地獄のような被害が生じた。どちらの場合も、被害者にとっては理不尽で、納得のゆくものではない。

戦争で相手を個人として認識しないまま、殺したり殺されたりする現象は、武器の大型化、高性能化から可能になった。それは、第1次世界大戦からであろう。ナポレオン戦争までは、戦場を「見学」することさえあって、戦闘にかかわらない一般人に積極的に危害を加えることも基本的にはなかった。

しかし、第1次大戦では、高性能化した機関銃、大砲が使われ、地雷も、飛行機も、戦車も、潜水艦も、毒ガスも登場し、4年半の戦争期間中に、その破壊力も飛躍的に高度化して、一般人も巻き込まれた。大戦終了後、このような戦争が続けば人類は滅亡してしまうと多くの人が考え、いわゆる「最終戦争」として、軍縮条約や国際連盟も発足、世界平和が訪れるかと期待された。この最終戦争、第1次大戦が終わったのが1918年。今年はその年から101年目になる。

「ゲルニカ・重慶・広島」

しかし、人類は30年も経たないうちに、第2次大戦に突入してしまった。第1次大戦の経験から、戦争は総力戦であり、戦闘員や軍組織だけを攻撃するのではなく、戦力の基盤である産業施設、さらに生産を支える民間人の生活する都市までもが攻撃対象にされるようになった。

「ゲルニカ・重慶・広島」という言葉がある。無防備の一般市民を無差別に殺戮した爆撃であり、被害者が、2千人⇒2万人⇒20万人(当時)と、4年ごとに10倍になった。戦争が非人道的な行為に慣れて、攻撃が際限なく拡大した悪魔の行為を糾弾する言葉である。ゲルニカや重慶の延長にドレスデンや広島・長崎があり、原爆投下を擁護する考えもある。しかし、被害者の大部分は非戦闘員の一般市民であり、理不尽な死に至ったことに差異はない。

最近、当局の情報漏れで、NATO(北大西洋条約機構)にICBM(大陸間弾道ミサイル)が150基配備されていることがわかった。ロシアでは、核実験の失敗による放射能汚染の情報もあった。武器の高度化は際限なく続き、京都事件の4千倍をはるかに上回る威力の核爆弾が開発され、それを地球の隅々まで運べるミサイルもある。

いざという時の備えだと言いながら、発射ボタンを押し間違えれば、人の住む都市が消滅してしまう。京都事件の無限大の倍数の人間が、理不尽で納得できない死の危険にさらされているのだ。最終戦争から101年目になっても。(地図愛好家)

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《地域包括ケア》42 往診してくれる主治医を選ぶには?

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「つくば市在宅医療と介護のサービスマップ」と「もしバナゲーム」のカード

【コラム・室生勝】前回(8月10日)、前々回(7月27日)取り上げた「もしバナゲーム」では、最後に各自が手元のカード5枚中、最も重要な3枚を選び、選んだ理由を話し、それぞれの考え方を学び合う。その中で、「家で最期を迎える」「信頼できる主治医がいる」を選んだ人が、主治医が病院医師なので往診してくれない、どうしたらいいのか、と参加者に相談した。みんなからは、主治医を、在宅医療してくれる診療所医師に替えるしかないと言われた。

家で看(み)取りをしてくれる診療所医師はどこにいるのか、いい主治医(かかりつけ医)を見つけるにはどうしたらよいのか、とサロンみんなの話し合いに進んだ。私は、つくば市医師会ホームページの「在宅医療・介護拠点のかかりつけ医Q&A」を紹介した。

かかりつけ医を選ぶ目安は、①いつでも親身に相談に乗ってくれる②病気や医療に関する情報をよく知っていて必要なときには専門医や医療機関を紹介できる③病気だけでなく暮らしについても理解してくれて頼りになる④必要なときは往診や訪問診療など在宅医療もしてくれる―などになる。

こういったかかりつけ医を探すには、「つくば市在宅医療と介護のサービスマップ」(在宅医療介護マップ)が参考になる。今年2月改訂された冊子には、新しく「在宅療養支援診療所(在支診)」が掲載されている。その基準としては、24時間連絡を受ける医師または看護職員がおり、24時間往診と訪問看護の体制があり、在宅療養患者の緊急入院を受入れ、看取りもする診療所と書いてある。

機能強化型在支診は、「単独型」はその診療所単独で常勤医師3名以上、過去1年間の緊急の往診実績5件以上、過去1年間の看取り実績2件以上―が要件で、「連携型」は複数の診療所が連携する場合になる。

役に立つ「在宅医療介護マップ」

「もしバナゲーム」の参加者の中に、すでに訪問看護サービス(主治医の指示書が必要)を利用している人が2人いた。それぞれ診療所医師と病院医師であり、両医師とも往診も訪問診療もしないし、看取りもしないことに、2人は「在宅医療介護マップ」を見て気づいた。

そこで私はその内容を説明した。往診しない在支診が2カ所、機能強化型在支診が6カ所中5カ所あった。往診しない在支診はあり得ない。往診を訪問診療と見なしているのではないか。急変あるいは重症化しやすい患者さんに、毎日電話で病状を聴き、依頼があれば訪問しているのだろう。

機能強化型在支診6カ所のうち2カ所は外来診療もしているが、4カ所は原則外来診療をしない在宅医療専門診療所であり、その範囲は隣接市町村にまで及ぶ。これでは緊急性がある往診には応じきれない。この4カ所は協議して市内の在宅医療を担当する範囲を決めれば、おたがい遠距離運転の負担が減るのではないか。

「在宅医療介護マップ」でもう1点気づいたのは、「看取りの対応」をしない在支診が25在支診中4カ所あった。看取りが在支診の設備基準であるのを忘れているのだろうか。看取りは臨終の短時間介護を意味するのでなく、死亡することが数時間~数日以内に予測される場合の臨終まで見守ることと思う。

臨終に立ち会う最期の看取りに対応できる在支診はほとんどない。訪問看護ステーションの協力を得ているのが現状であろう。サロンでは最期の看取りを家族ですることを勧めている。(高齢者サロン主宰)

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《宍塚の里山》45 「エコ・カレッジ」で環境活動者を養成

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「茨城エコ・カレッジ2019」のちらし

【及川ひろみ】環境問題に興味を持ち、環境保全活動を実践するリーダーを養成するために、茨城県と茨城大学の共催で、6月29日~9月7日、「エコ・カレッジ」が行なわれています。地球、地域、生活空間の問題や対応策などについて、大学教員による講義と環境団体などのフィールドワークを通して、楽しく学び考えることを目的にしたものです。

今年の窓口は、茨大研究・社会連携部社会連携課が担当、受講生を101名受け入れました。座学は茨大地球変動適応化学研究機関のスタッフや教授らが講師を務め、循環型社会地域資源、生物多様性(なぜ生物は絶滅するのか)、再生可能エネルギー、河川湖沼流域の生活者として考える環境問題、気候変動影響と対策・緩和策、循環型社会地域資源(SDGs)―などについて学べます。

このほか、霞ケ浦に生息する生物群集の長期変化と理由、環境と災害、適応と防災、茨城県を対象とした環境保全のためのセンシング技術(低酸素社会環境経済)など、地域問題の講義も受けることができます。

カレッジの対象は県内に在住、通勤、通学している人です。締め切り前に、受け入れを打ち切らざるを得ないほど人気の企画になりました。高齢の参加者が多数を占めることになると、目的に反(そ)れるのではと危惧しましたが、高校生が4割を占め、リーダー養成の役割を果たすものになりました。

宍塚の会でフィールドワーク

宍塚の会もフィールドワークを受け入れることになり、①宍塚の生物多様性を求める活動について室内学習を行い、その後、大池の生態系を釣り・定置網で捕獲する生き物を通して学ぶ活動、②里山の森林保全を体験し、保全の方法、生物多様性を目指す森林の保全について学ぶ活動―を引き受けました。

大池での生態系観察には21人が参加、外来魚ブルーギルを釣り、解剖しました。以前行った室内学習では、ブルーギルの胃内容調査の結果、フナの稚魚(ちぎょ)、貝、さまざまな昆虫が見られました。1匹のヤゴの胃から5匹のトンボのヤゴが出てきたこともありました。今回の観察会では、こういった事例も紹介、胃の内容物を観察し、外来魚の影響を確認しました。(宍塚の自然と歴史の会代表)

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《食う寝る宇宙》44 宇宙ファミリーと長野の天文台へ①

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【コラム・玉置晋】前回のコラム(8月8日掲載)で紹介した「地球近傍天体」が地球に接近していた7月末に、友人家族から長野県の野辺山に行こうとお誘いを受けました。野辺山には、国立天文台野辺山宇宙電波観測所という、日本の宇宙電波観測の拠点があります。

マサヒロ父さん、サチコ母さん、小学生のユズノ、ソメノ、ブンタは、宇宙が大好きなファミリーです。サチコ母さんによると、ユズノは、このコラムを読んで、宇宙天気研究者・エンジニアを目指しているとのこと。将来の共同研究者の夢を育む責務が僕に生じたわけです。責任重大です。

お誘いをうけてからLINEのトークを確認したところ、「日帰りで野辺山に行く」と書いてあるぞ。行けるのかい? 僕が住む茨城から野辺山高原まで、大分遠いという印象を持っていました。

大学生のころ、実習に参加するために野辺山に行ったことがあったのですが、朝出発して到着したのは夕方だったような、と不安を覚え、地図サイトでチェック。車で250キロ、3時間と出ていたので、一安心。電車で行ったとしても、特急を使えば4時間とのことです。

大学生のころは、車もお金もなかったので、普通電車に乗って、寄り道しながら野辺山に向かったのでしょう。とはいえ、3時間の行程なので、それなりに早起きしないといけないなあと覚悟しておりましたが、そこにサチコ母さんから「ごめん、午前3時に集合」との連絡。

「甲斐の国の武将は?」「武田真治!」

当日、あくびが止まらない中、午前2時に家を出発して、宇宙ファミリーのおうちに到着。マサヒロ父さんが手を振って迎えてくれ、子供たちもスタンバイOKで大はしゃぎ。サチコ母さんは、朝ごはんのおむすびを握っています。

マサヒロ父さんの運転する車に乗り込み出発。圏央道を通って中央道に入り、上信越自動車道を経て、野辺山高原へと向かいます。

僕の隣にはブンタが座り、近況報告やら、お気に入りのキャラクターについて熱心に語ってくれる。ときおり変顔をする。とにかく面白い子どもです。「〇〇県の県庁所在地はど~こだ?」。旅のはじめからテンション高めで、クイズ大会をしておりました。

途中、山梨県のサービスエリアで休憩。「甲斐の国の武将といえば?」。ソメノ「武田真治!」。ソメノよ、違うぞ。それは筋肉体操のお兄さんだ。このように、ほのぼのとした旅のはじまりでした。2時間後に僕は死にかけることを、このときはまだ知らない…。(宇宙天気防災研究者)

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《くずかごの唄》44 痛い 痒い 虫さされの人体実験

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チャドクガ

【コラム・奥井登美子】「きのう庭の草刈りをしました。腕が赤いブツブツで、痒(かゆ)くて痒くて眠れませんでした」「先生はチャドク蛾(が)に刺されたのでは…」

「チャドク峨って何ですか?」「庭にツバキかサザンカの木がありますか? 葉の裏に北朝鮮の兵隊みたいに、キチンと整列した毛虫がいませんでしたか?」

私は、我が家の庭で撮った毛虫の写真を見せる。小さなツバキの葉の裏に、北朝鮮の兵隊のように毛虫が整然と隊列を作って、30匹くらいが並んでいる。

「小さい毛虫で、毛も見えないくらい細いのですが、皮膚に刺さったら抜けない。ものすごく痒いです」「こんな痒いのは初めてです」

毛が皮膚に刺さったときの顕微鏡写真を見たことがあるが、先が二股(ふたまた)に開いて抜けなくなる。私は急いで処方箋に書いてある内服薬の抗アレルギー剤と、ステロイドの軟膏(なんこう)を調剤してお渡しした。ベテランの医者はこういうとき、副作用として少し眠くなる抗アレルギー剤を、寝る前に服用するように処方する。

自分の腕に乗せて動きを観察

我が家の庭は、野鳥も虫もムシできないから、いろいろな虫がいる。刺されたときにどの虫がどの程度痛いのか、痒いのか、知っておく必要があると思った私は、蜂以外のいろいろな毛虫と芋虫を、自分の腕に乗せて彼らの動きを観察してみた。

意外だったのはダニ類。小さくて目に見えないほどのダニが、血を吸うとドンドン大きくなっていく。そのときは痛くも痒くもないのに、2~3日経ってから痒くなってくる。ダニは大小さまざまで、30種くらいは散歩の道端にいるというから、案外、ドクターもわからない痒さの曲者(くせもの)かも知れない。

イラガの毛虫は葉の裏にいて、葉と同じ色をしている。刺されると飛び上がるほど痛い。ムカデは痛くないが、皮膚が赤く腫(は)れて痒い。

植木屋さんに聞いた茶毒峨(ちゃどくが)の治療は、毛の刺さったところにお塩を揉(も)んで15分したら水で洗い流すだけだった。とても合理的な治療法だと思う。(随筆家)

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《法律駆け込み寺》9 隣の家とのトラブルにどう対処するか

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土浦市神龍寺。本文とは関係ありません

【コラム・浦本弘海】「もしもし、お久しぶり、弘海くん元気?」。「はい、おかげさまで」と私。遠縁の親戚からの電話、うれしい知らせならよいのですが、この職業を選んでからは…。

「聞いているよ、弁護士になったんだって? それで、相談というか聞いてほしいことがあるんだけど―」。はい、分かってます。遠縁の親戚が特段の事情もなく電話をかけませんよね…。

この手の電話、前は苦手だったのですが、このコラムを執筆するようになり、ネタに困ってからは大歓迎になりました。

「ほうほう、それでご相談というのは?」。今月のコラムもそろそろ締め切り。聞く方にも力が入ります(本コラムはフィクションであり、実在する事件などとは一切関係ありません。念のため)。

「それがね―」。相談というのは、隣の家の木の枝が自分の敷地まで伸びてきて困っているという、隣人関係のトラブルのようです。

前々回のコラム(6月18日掲載)で、法律関係の研修をするとき、受講者に「法とはなにか?」を問うというお話をしました。法は機能の面で捉えますと、紛争を未然に防ぐ機能と紛争が生じた場合に解決する機能があります。

そして、私法(私人間の関係を規律する法)の一般的なルールを定めた法律が民法です。

今回の相談は私人間のトラブルですので、この民法が解決のよりどころとなります(民法は2017年に大改正され、改正民法は2020年4月1日から施行されますが、今回ご紹介する条文に変更はありません)。

「家を買うな、隣人を買え」

そこで民法を確認してみると、相隣(そうりん)関係(隣りあった土地の間の法律関係)のルールが規定されています。今回のトラブルに役立ちそうな条文をみてみましょう。

<竹木の枝の切除及び根の切取り>

233条1項 隣地の竹木の枝が境界線を越えるときは、その竹木の所有者に、その枝を切除させることができる。

233条2項 隣地の竹木の根が境界線を越えるときは、その根を切り取ることができる。

簡単に言えば、法的には①枝は切ってもらえる(が自分では切れない)、②根は自分で切れることになります。

ただし、根は自分で切れるといっても、根を(相手に無断で)切って竹木を枯らしてしまった場合、権利の濫用(らんよう)として損害賠償責任を負うことがありますので要注意。平凡ではありますが、法的に解決する場合も相手と話し合うことは大切です(相隣関係のトラブルは人間関係にトラブルの「根」があることが多く、話し合いで解決するのが難しいことは往々にありますが…)。

今回の相談についても、この条文(枝は切ってもらえる)を紹介し、「まずは(民法の条文を用意しつつ)話し合いをしてみては」と勧めました。第3回のコラムで取り上げましたが、ロシアのことわざに「家を買うな、隣人を買え」とあるのは納得です。

相隣関係は209条から238条に規定されていますので、隣人関係のトラブルで気になったことがあれば、ぜひご一読を。(弁護士)

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《吾妻カガミ》62 残暑御見舞 今秋からヤフーでも発信!

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8月中旬の稲穂=土浦市大岩田

【コラム・坂本栄】残暑お見舞い申し上げます。夏とはこんなに暑かったのかと思う日々、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。正月のあいさつ(1月1日掲載)にならい、本サイトの近況と当面のプランについて報告致します。

このサイトを覗(のぞ)きに来られる読者は着実に増え、先月の閲覧数は立ち上げ時(2017年10月)の約6倍になりました。つくばと土浦を中心とする茨城県南の話題を取り上げるという、NEWSつくばのコンセプトが受け入れられつつある証左(しょうさ)ではないでしょうか。

本サイトの収入モデルについては、前回コラム「NEWSつくばに全国紙が注目」(8月5日掲載)でも触れましたが、今秋、これまでの4本柱(1大口寄付 2小口寄付 3バナー広告 4地域メディアへの素材提供)に加え、5本目の柱を立てます。日本を代表するネットニュース・プラットフォーム「Yahoo!ニュース」への記事提供(11月上旬開始)です。

4本目と5本目の柱は、収入ソースであると共に、ニュース発信の追加チャンネルでもあります。NEWSつくばは、自らのサイトのほか、CATVなどの地域メディアや全国ベースのニュースサイトでも地域ニュースを発信していきます。

地域ニュースを全国の読者へも

本サイトのこれまでの編集方針は、「常陽新聞」のそれを引き継ぎ、地域のニュースを地域の読者へ、というものでした。届け先が限られるペーパー媒体と違い、ネット媒体へはどこからでもアクセスできますから、ヤフーへのニュース提供を機に、編集方針を「地域のニュースを地域および全国の読者へ」に改めます。

でも取材活動が大きく変わることはありません。変わると言えば「記者はヤフー経由の発信も念頭に置いて…」ということでしょうか。また取材を受ける方には「この話題がヤフー経由でも…」と意識していただければと思います。編集面ではこの程度の変化ですが、発信力はこれまでとはかなり違ったものになります。

実は、本サイトの読者が「地方区」だけでないことは、閲覧分析で承知していました。つくば、土浦、水戸といった県内だけでなく、新宿(7月は全アクセス数の11パーセント)、千代田(同10パーセント)、横浜(同6パーセント)、大阪(同6パーセント)などからもアクセスがあり、すでに「全国区」のサイトになっていたからです。

こういったデータから、多くの方が学園都市つくば・文化都市土浦に強い興味を持っていることが分かります。ヤフーへのニュース提供によって、本サイトの全国向け発信力は今まで以上に強化されます。(NEWSつくば理事長)

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《沃野一望》8 間宮林蔵その3 カラフト探検

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つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

寛政11年(1799)、幕府は松平忠明(ただあきら)ら5人を蝦夷地御用掛(えぞち・ごようがかり)に任命し、北方経営重視の姿勢を明確に打ち出した。忠明は、配下の一人に村上島之允(しまのじょう)を選び、島之允は下僕(げぼく)の間宮林蔵を蝦夷へ随行させた。

林蔵は蝦夷へ渡ると、島之允と袂(たもと)を分かちアイヌ人の協力を得て独自に現地調査に精励(せいれい)、択捉島では会所経営に奔走した。

松平忠明は、択捉島での活躍を含め林蔵の現地活動を評価し、独自に活動できるように普請役雇(ぶしんやくやとい)へと登用する。林蔵はついに、最下級ながら念願の、幕府役人への階段を踏み出すことになった。

役人となった林蔵に、新たな任務が待っていた。

文化5年(1808)、松平忠明は、調役下役松田伝十郎と普請役雇間宮林蔵のふたりに、蝦夷のさらに北方に位置するカラフトの調査探検を命じた。

カラフトは当時、大陸から離れた島なのか、大陸と地続きの半島なのかさえ不明の地だった。

役人階段のトゲの痛み

松田伝十郎と間宮林蔵は、蝦夷最北端宗谷からカラフト南端シラヌシへ渡った。ここで松田は、上司の権限を振りかざし、林蔵へカラフト東岸オホーツク海側の北上を命じ、自身は西岸北上の経路を選んだ。

林蔵は不本意ながらも命に従い東岸を北上するが、オホーツク海の激浪(げきろう)に拒まれ断念、カラフト中央を陸路横断し西岸へ出て、松田伝十郎と合流した。

合流した2人は、西岸のノテトまで到達するが、松田の「ここまでで、充分に目的達成だ」の独断により彼の地より引き返してしまった。

林蔵に憤懣(ふんまん)が鬱積(うっせき)する。ノテトで帰ってきてしまっては、カラフトが島か半島か検証できない。松田への諫言(れんげん)は聞きいれられなかった。

林蔵は松前へ帰り、松平忠明へ上申した。

「もういちど、是非とも単独でカラフトへ行かせてください」

有名な(戦前の尋常小学校国語読本でとりあげられた)林蔵の第2次カラフト探検は、忠明の快諾により実現された。

林蔵は、現地アイヌ人のサポートを得て、カラフト北端ナニオーへ辿(たど)りつき、さらに陸路を進み、オホーツク海の激浪と再会した。しみじみと林蔵は、カラフトが島である景色を、自身の眼に焼き付けた。

これらの探検とその報告により林蔵は、御普請役に昇進、筑波山立身岩での鬼神(きしん)との盟約を、さらに一段、果たしていった。

しかし一方で、役人の世界の暗闘を思い知らされた。松田伝十郎との確執は、役人階段の棘(とげ)の痛みを林蔵に、厳しく刻印した。(作家)

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《続・気軽にSOS》43 向いている? 向いてない?

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【コラム・浅井和幸】人は、上手く事が運ばないと、そのことに対して「自分は向いていないから」と考えて、「自分に向いているもの」を探すふりをするものです。探しているふりをすれば、「自分に向いていない」ことから目をそらすことが出来るし、出来ないのは「そもそも出来ないことをしている」からだ、自分のせいではない―と、短期的には気持ちが癒(いや)されるからです。

あえて「探すふり」と表現したのは、現在進行形で行っていることに対し「向いていない」と感じて口にしている人のほとんどは、「向いている」を探す行動を起こさないからです。むしろ、「向いていない」探しを積極的に行って、現在の場所から動かないのが、人間の悲しい性(さが)ともいえるでしょう。

今の仕事は自分には向いていない、楽器を弾くことは自分に向いていない、パソコンで作業をするのは自分に向いていない、料理は自分に向いていない、スポーツは自分に向いていない、コミュニケーションに自分は向いていない、絵を描くことに自分は向いていない…。

上記のように、生活の中で、生きていく中で何か上手くいかないことがあれば、「向いていない」で片付けることが出来ます。そして、「向いていない」が口癖になっている人は、「向いてない」ままに、「向いてないこと」を続けることを選択します。

初心者が上級者より下手なのは当然

悩み相談で「向いていない」ことの話を聞いていくと、ほとんどの場合は、「楽しみを見つけられない」ことと「技術などが未熟である」ことに行きつきます。もっと簡単な言葉で切ってしまうと、「ちょっと上手くいかない」ことと「初心者である」ことに行きつきます。

物事を長年続けようが、知識や技術を積み重ねなければ初心者と言えるでしょう。初心者が、上級者より上手く物事を運べないのは当然のことですよね。

パソコンをほとんど触ったことがないままで、パソコンが苦手だという人に出会うことはあるのではないでしょうか? パラリンピックに出場する方たちは、ほとんどがスポーツに向いていない部分を持っている人たちではないでしょうか?

子どものころ、ある楽器の体験会に行ったが、(素人の)父親のように上手く弾けずに悔しくて続けていたら、いつの間にプロになっていた楽器奏者がいることを信じられますか?

物事が上手くいかないのは、向いていないからだと、そのままを選択する。自分に向いている別のものを選択する。自分に向いていないものの中に、楽しみを見つけ、上達して、自分に向いているように工夫する道を選択する。

「向いてない」のは仕方ないからと考えを止めて諦めずに、意識して自分の意思で選択してみてはいかがでしょうか?(精神保健福祉士)

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