《沃野一望》8 間宮林蔵その3 カラフト探検

つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

寛政11年(1799)、幕府は松平忠明(ただあきら)ら5人を蝦夷地御用掛(えぞち・ごようがかり)に任命し、北方経営重視の姿勢を明確に打ち出した。忠明は、配下の一人に村上島之允(しまのじょう)を選び、島之允は下僕(げぼく)の間宮林蔵を蝦夷へ随行させた。

林蔵は蝦夷へ渡ると、島之允と袂(たもと)を分かちアイヌ人の協力を得て独自に現地調査に精励(せいれい)、択捉島では会所経営に奔走した。

松平忠明は、択捉島での活躍を含め林蔵の現地活動を評価し、独自に活動できるように普請役雇(ぶしんやくやとい)へと登用する。林蔵はついに、最下級ながら念願の、幕府役人への階段を踏み出すことになった。

役人となった林蔵に、新たな任務が待っていた。

文化5年(1808)、松平忠明は、調役下役松田伝十郎と普請役雇間宮林蔵のふたりに、蝦夷のさらに北方に位置するカラフトの調査探検を命じた。

カラフトは当時、大陸から離れた島なのか、大陸と地続きの半島なのかさえ不明の地だった。

役人階段のトゲの痛み

松田伝十郎と間宮林蔵は、蝦夷最北端宗谷からカラフト南端シラヌシへ渡った。ここで松田は、上司の権限を振りかざし、林蔵へカラフト東岸オホーツク海側の北上を命じ、自身は西岸北上の経路を選んだ。

林蔵は不本意ながらも命に従い東岸を北上するが、オホーツク海の激浪(げきろう)に拒まれ断念、カラフト中央を陸路横断し西岸へ出て、松田伝十郎と合流した。

合流した2人は、西岸のノテトまで到達するが、松田の「ここまでで、充分に目的達成だ」の独断により彼の地より引き返してしまった。

林蔵に憤懣(ふんまん)が鬱積(うっせき)する。ノテトで帰ってきてしまっては、カラフトが島か半島か検証できない。松田への諫言(れんげん)は聞きいれられなかった。

林蔵は松前へ帰り、松平忠明へ上申した。

「もういちど、是非とも単独でカラフトへ行かせてください」

有名な(戦前の尋常小学校国語読本でとりあげられた)林蔵の第2次カラフト探検は、忠明の快諾により実現された。

林蔵は、現地アイヌ人のサポートを得て、カラフト北端ナニオーへ辿(たど)りつき、さらに陸路を進み、オホーツク海の激浪と再会した。しみじみと林蔵は、カラフトが島である景色を、自身の眼に焼き付けた。

これらの探検とその報告により林蔵は、御普請役に昇進、筑波山立身岩での鬼神(きしん)との盟約を、さらに一段、果たしていった。

しかし一方で、役人の世界の暗闘を思い知らされた。松田伝十郎との確執は、役人階段の棘(とげ)の痛みを林蔵に、厳しく刻印した。(作家)

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