日曜日, 5月 12, 2024
ホーム ブログ ページ 107

《つくば道》2 いつの頃から?

0
つくばセンター広場の夜景

いつの頃からか、つくばの成人式は「荒れる成人式」としてマスコミが注目するような不名誉な称号をいただいてしまいました。今年の成人式では石井国土交通大臣の目の前で暴漢がSPに取り押さえられ、成人式が途中で中止になってしまったという暴挙がありました。私は33年前に成人式を迎えましたが、当時は旧6ケ町村単位で成人式を開催し、プチ同窓会として旧交を温めたように記憶しています。

都市化が進むと犯罪が増え、治安が悪くなる傾向があります。TXの開通以降、それまで地元の私たちが経験したこともないような多様な犯罪が増えているのも事実です。私の会社にも茨城県警だけでなく関東近県や愛知県の警察からも犯罪捜査への協力依頼が来るようになりました。この一連の事象を「仕方のないこと」として片づけてしまって本当にいいのでしょうか。

つくば市の本来のあるべき姿は「研究学園都市」です。いつの頃からか、こちらも「つくばらしさ」を失い東京近郊の住宅地となってしまいました。つくば市から撤退する研究機関やベンチャー企業は増えていますが、つくば市から世界へ飛び出す先端産業はいっこうに育っていません。人口は増えていますが、道路や学校などのインフラ整備に追われ、本来の筑波研究学園都市が取り組むべき課題を見失っているのです。つくば市誕生から30年が経過して、もう一度足元を見つめ直し、「つくばらしさ」とは何かを考え直さなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

例えば犯罪の撲滅や治安の維持についても最新の技術を導入して、抑止したりスピーディーに解決したりすることはできないのでしょうか?また、研究所用地として確保した土地を住宅地として転用したために、渋滞などの新たな問題が発生しているところもあります。無人自動車などを活用した新しい公共交通機関を試験的に走らせるような取り組みはつくば市ではできないのでしょうか?

このような社会問題を科学技術で解決することが、筑波研究学園都市に課せられたミッションであると思います。30年前の科学万博で感動した先端技術は、今日では私たちの日常生活に取り入れられています。あの時の想いをもう一度、思い出してはいかがでしょうか?(塚本一也)

《くずかごの唄》4 天国の藤原英司様へ

0

「100万種をこえる動物たちのひとつひとつが個々に織りなす行動の複雑さは、まさに創造を絶するものがあり、その複雑さを知れば知るほどわたしたちは謙虚にならざるをえないであろう。じつに謙虚さこそ、われわれが動物の行動から学びうる大きな教訓であり、同時に、それは動物の行動から何かを学ぼうとする際の基本的な態度でなくてはならない。……この世のあらゆる生命は、生の過程それ自体が多くの謎を秘めた驚異的な行動の連鎖反応である。そして、動物の行動から謙虚さを学んだ者は、必ずすべての生命に対して、深い畏敬の思いを抱くにいたるであろう」(藤原英司さんの著作「動物の行動から何を学ぶか」=講談社現代新書=より)

藤原英司さんが亡くなったというお手紙を奥様からいただいた。つくばにお住まいなのでいつでも会いにいけるという安心感もあって、ついついご無沙汰してしまっていたのを悔やんだ。土浦の自然を守る会の発足当時、藤原さんから実にいろいろなものを教えていただいた。

「野生のエルザシリーズ」の翻訳家として有名だった藤原さんは、実に丹念に動物の行動学に詳しかった。動物をとおして自然のすばらしさを素人の私たちにも丁寧に教えてくださった。文章も格調が高く、「見えるものと、見えないもの」「誤解による大量殺戮」「殺しの連鎖反応」「目に見える過密と目に見えぬ変調」「凍結された過去の重み」などなど、短いタイトルの中に、深い意味をもつ魅力があった。

世界湖沼会議の時、佐賀純一さんがテーマを河童にした。河童という架空の動物が日本中のどこの水辺にも居て、地域によって個性があるのはなぜなのだろうと藤原さんに聞いてみたことがある。「河童カワウソ説」を説明してくれて、江戸時代にどこの川にも居て、人間が泳いでいたりすると、近寄ってきてお尻を触ったりする愛嬌のある動物だったから、日本の各地に定着したのではないかと、教えてくれた。私も安心してカワウソ君から「それはウソだ」と、いわれないようにしようと、子供たちの環境教育の中で「河童ごっこ」を続けてきた。

この間、私が「私が幼い時、ゴキブリは森の虫だった。人間の生活の中にいつのまにか入りこんで、子孫繁栄した頭の良さ、適応力。ゴキブリを尊敬しなさい」と言ったら、若いお母さんからゴキブリなど汚い不潔な虫の話などしないでほしいといわれてしまった。ゴキブリを最初から汚いものと決め付ける女の人たちを相手に、環境教育をどうしたらいいのか、天国の藤原さんにお聞きしたい。(奥井登美子)

《土着通信部》3 名木・古木指定制度の現在㊦

0
八坂神社(土浦市真鍋)のケヤキは1993年の指定第1号

土浦市の委嘱を受けた調査員3人が市内をくまなく歩き、樹木100本を選び出す作業は1993年から97年までの5年間行われた。市が名木・古木に指定した後も、3人の樹木調査は続いた。

自然のものだから、枯死や損傷は免れない。宅地開発や道路建設で伐倒される樹木もある。そんなケースを調査で見つけ出し、リストの更新を行った。

3人の中のひとりで現在、同市文化財愛護の会みどりの文化財調査部会長を務める高野敏夫さん(84)は、指定当時の名簿を保管している。20本ずつ樹木の名称、所有者、樹種、樹高など形状をワープロ打ちしたリストである。

名簿1枚目のNo.1~20が、初年度に名木・古木指定された「1期生」オリジナルメンバーだ。イの一番は真鍋・八坂神社のケヤキ(写真)。樹高29m、胸の高さの周囲長は5.61mと計測されていた。

樹木名と所在地を抜き出してみると(表)、すでに20本中3本(白抜きにした)が失われている。6番目「神立のサワラ」は高野さん自身の所有木だったが、道路拡張の際に切り倒された。

こうした欠損のケースで、調査リストにあった樹木から補充分を選び、100本の名簿を入れ替えた。高野さんによれば、この作業は2007年まで続いた。名木・古木の所有者に対する年間5000円の補助金支給も続いていたはずだという。が、打ち切りの経緯の詳細は覚えていない。記録は、土浦市公園街路課にも残されていない。

時期的には土浦市が旧新治村と合併した2006年に前後する。名木・古木指定は旧土浦市の制度である。旧新治村にはなく、合併後の市域に格差が生じることとなる。範囲を広げ新たな対象木を調査するにも、新たな指定にもお金がかかる。見直し、廃止の対象になったはずだ。

当時の市職員を探して尋ねると、「うろ覚えだが所有者には感謝状を出し、打ち切りにしたように思う」と記憶をたどった。

2007年に市の委嘱を解かれた後も、高野さんは文化財愛護の会の活動として樹木調査を続けた。皮肉なことに、旧新治村のエリアを調べることになったのだ。土浦市の「指定要綱」に準拠する形で名木・古木にふさわしいと思える樹木を探した。

まとめ役だった須田直之さんが2010年に他界、残された2人の調査員も80代、高野さんは膝を痛め、思うように山歩きができなくなった。旧新治村は土浦旧市内に比べれば山がちの地形である。

それでもこれまでに、62本の木がリストアップできた。旧市内ではあまり目にすることのないクロガネモチ(小高)、カゴノキ(上坂田)などが確認できたという。

土浦市文化財愛護の会は今年創立40周年で、その記念事業として出版が検討されたが、「会の方にも都合があって」、決定には至らなかった。勝手にスポンサーを探すわけにもいかないらしい。

植物の話だけに、何とか日の目を見せてやりたいと思う次第である。(相沢冬樹)

《吾妻カガミ》20 霞ケ浦を一大リゾート地域に

0
霞ケ浦総合公園から三叉沖(みつまたおき)を望む

毎早朝自宅から徒歩10分のところにある霞ケ浦総合公園を散歩する。豆柴犬の運動&トイレと歩数ノルマ稼ぎ(目標1日1万歩!)のためだ。40~50分歩くので豆柴と対話しながらいろいろなことを考える。例えば総合公園に接する霞ケ浦の水質問題とか。来秋の世界湖沼会議についての本ニュースサイト記事も頭を刺激する。

逆水門への疑問

10数年前、国交省の霞ケ浦河川事務所長と湖の水質問題について議論したことがある。アオコが繁殖するほど水質が悪化したのは、利根川との間に逆水門(常陸川水門)を設けて霞ケ浦を溜め池状態にしてしまったからではないか。昔のように太平洋との仕切りをつくらず、海水と淡水を往来させれば自然(海)の力で湖水は浄化されるのではないか。私の論点はこういうことだった。

これに対し所長さんは理路整然と反論した。①昔のように海水が湖に入ってくると干拓地の稲作が塩害を受ける②鹿島地域などの工場で工業用水が取水できなくなる③水位が高い利根川から水が流れ込むと湖の周辺で水害が多発する―と。

③は水門の機能そのものだから論破は難しい(ただ原則開門・非常時閉門にする手はある)。しかし、①と②は農業や工業振興のために自然に手を加えてしまったので元に戻せないということであり、農工振興<自然保持(観光振興?)の視点に立てば説得力は弱くなる。

所長さんの反論に私はこんなことを言ったと記憶している。湖面を埋めてでも農業用地を拡げなければならない時代は終わり、減反が叫ばれている今、①は見直し可能ではないか。海水を淡水化するプラントが中東などで使われている今、②も見直し可能ではないか。つまり産業振興が最優先された戦後昭和の考え方を見直してもいいのではないかと。

自然に任せる浄化

開発計画に基づいて、ある基盤が出来てしまうとそれを元に戻すのは難しい。産業界はその基盤の上にビジネスを展開し、行政は過去の決定を覆すのを嫌うからだ。その形を変えるのは政治の役割だろう。湖面をいじくり回す浄化ではなく、自然に任せる浄化を考える時代になったのではないかと。

散歩の相棒豆柴には「湖がきれいになったら水遊びができるね」「海からシラスウナギがどんどん上がってくれば天然鰻蒲焼きが食べられるね」「汽水湖になったらシジミがとれるね」「湖の周辺が一大リゾートゾーンになったら人がいっぱい来るね」「うちもボートを買って夏は孫たちを呼ぼうか」と話しかけている。(坂本栄)

《郷土史あれこれ》2 歴史資料の現在

0
亀城公園に隣接する土浦市立博物館

前回は、博物館がないと様々な歴史資料を見ることができない現状について説明した。県内ではバブル時代に市町村史が作成されている。昭和50年に土浦市では「土浦市史」1冊、「土浦市史民俗編」1冊、「土浦市史編纂資料集」25冊が作られた。この地域の地方史編纂としては早く出来上がったが、その「史料集」に収録されている史料には、現在どこにあるか所在の分からない史料がある。

これは土浦市に限らず、継続事業として「資料集」の発刊が行われていれば、担当の部署がこれまで蒐集した資料の所在を確認し、資料の保管に努めることもできる。しかし、その部署がなくなり、資料の確認も行われず、資料を保管するお宅でも関心がなくなり、焼却やゴミとして扱われてしまうと、その地域に残された貴重な歴史資料が失われてしまうのである。

歴史資料への関心がないのは、大河ドラマの英雄史観や皇国史観による庶民には歴史がないとか、小中学校・高等学校の歴史教育が、考える授業ではなく暗記物にしているとか、様々な影響が考えられる。ここには一人ひとりが歴史に関わっているという意識が全体的に薄いことが挙げられる。そこに難しい問題がある。

最近はやりの、終活とか、断捨離とかの言葉がある。個人の積み重ねてきた人生の総括が「断捨離」となり、個人が持っていた歴史資料が失われていくのは、どうであろうか。個人の遺産といえども、国や地域にとって必要な歴史資料は残し、後世に伝えていかなければならい。

こうした歴史資料を保存し後世に伝えていく施設が、博物館である。「博物館法」には、博物館には学芸員を置かねばならないという規定がある。「学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業についての専門的事項をつかさどる」(博物館法)とあるように、資料の収集、保管、展示を専門に行う専門職員である。

すべての市町村に博物館があり、学芸員が置かれているわけではない。博物館法には、すべての市町村に博物館を置かなければならないという規定はない。博物館を置くことは、その市町村に任されている。博物館がなくても、遺跡の発掘をやる必要性から、考古学関係の学芸員が置かれている市町村もあるが、原始古代から現代にわたる専門の学芸員が置かれている市町村は、茨城県ではほとんどないといっていい。

土浦市では、「博物館」と「上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)」が設置され、10人以上の学芸員がおり、ひじょうに充実している。茨城県で最も必要な学芸員は、近世の古文書を読める学芸員である。村方資料を読めなければ、江戸時代の歴史を知ることができない。今こそ必要なことは、県に残された貴重な遺産である近世の古文書を調査し保管する博物館を設置し、学芸員を置くことが肝要ではないだろうか。(栗原亮)

《続・気軽にSOS》4 知っていること・理解していること

0

「ひと・もの・かね」。NPO活動でも出るキーワードで、会社経営などにも必要です。第4の経営資源として「情報」が加えられることがあるそうです。ナレッジマネジメント。情報と知識、形式知と暗黙知という言葉があるらしいので、興味のある方は調べてみると面白いですよ。

法人だけでなく、私たち個々人も同じようなことが当てはまります。私の独自の表現ですが、情報に関して次の2つを講演やNPOの会員、クライエント(相談者)などに伝えることがあります。

① 知っていることと、理解していることは違うんだよ。

② 道具は使いようによっては、良い事にも悪い事にも使えるんだよ。

文章にすると当たり前ですが、わざわざ伝えることが多いという事は、①②の前半と後半を多くの人が同じものと捉えていて苦しくなっているのです。

まずは、①ですが、「知っていること」はテストに出たら答えられるけれど、現実には応えられない、行動できない状況です。「知っていること」を上手く使って、現実に対応できることを「理解していること」として区別した方が良いと私は思っています。

つまり、暴力はいけない、暴飲暴食はいけないとテストでは答えられる、もしくは人には説教できるけれど、実際には暴力も振るうし、暴飲暴食もしてしまう状態。これが、知っているけれど、理解できていない事と私は表現しています。

口では言えるけど、行動できない。「分かっちゃいるけどやめられない」というやつですね。

知っていることを理解するまで、または行動・習慣化するまで練習することが大切であり、そうでないと、学校のテストで先生は褒めてくれるかもしれないけれど、現実世界では苦しみが大きくなりますよと伝えたいのです。

蛇足ですが、人が行動していることにケチをつけて、さも自分の方が偉いという感覚を、知っている気分になっていると表現します。

②は、例えば、心理学とかカウンセリングとかの講座を受けるとか、資格を取るとかします。この知識は道具で、どの様に使うかで結果が全く別物になります。包丁が料理を作ることも、指を切ってけがをすることもあるのと同じです。

ちょっと知識を、すべてだと思って乱用する。今、不幸なのは過去にあった出来事のせいだとか、機能不全の家族だから不幸な人生が決定しているとかと、苦しむための道具として使ってしまう方が多くいます。

自分に使う人もいれば、友人やクライアントに使う人もいます。偉い先生が言っている(書いている)から、それは決定事項だと。

私からお伝えしたいのは、道具は目的のために使う要素の一つにすぎません。偉い先生が書いていることが全てで、それ以外の世界はないと決めつけないでください。よほど意地の悪い文章でなければ、そこに書いてあるのは、良くなるための項目があるはずです。その道具を、楽しむため、幸せのために使いましょう。(浅井和幸)

《泳げる霞ケ浦へ》2 市民が考える湖の未来像は?

0
泳げる霞ケ浦市民フェスティバル(2012年)

前回の《泳げる霞ケ浦へ》1では、霞ケ浦市民協会初代理事長の堀越昭さんから、第6回世界湖沼会議(1995年)の後のこと、来年の第17回湖沼会議誘致の経緯について触れていただきました。リレーコラム2番手の私は、霞ケ浦市民協会の目標「泳げる霞ケ浦」を市民協会が言い出した経緯、それから来年の会議で市民が取り組むべき課題について述べたいと思います。

我々は市民の立場で霞ケ浦の浄化やまちづくりに取り組むため、シンポジウムやパネルディスカッションを何度も開催しながら、分かりやすく、取り組みやすい目標(キャッチフレーズ)が必要だと痛感していました。なぜなら、市民が理想とする霞ケ浦のイメージを思い描けない状況では、具体的な取り組みができないからです。

議論の末にメンバーが合意したキャッチフレーズが「泳げる霞ケ浦」でした。特定の動物や植物をシンボルにするのではなく、誰もが思い描ける霞ケ浦の姿を目標にしたわけです。

海の日(7月の第3月曜日)に開催している「泳げる霞ケ浦市民フェスティバル」でも、多くの市民団体や行政機関がこの目標を具体的に発信してくれています。「泳げる霞ケ浦」という言葉が茨城県や国土交通省の発信する文面の中でも頻繁に登場します。このキャッチフレーズを最初に使い出した我々としては大変うれしく思っています。

市民協会は過去何度も遊泳場の水質検査を行いましたが、大腸菌の数や水質などで「泳いでも大丈夫」の地点が複数あります。しかし、透明度や安全面など、次のステップである「泳ぎたくなる霞ケ浦」までには問題が山積みです。

我々市民団体や霞ケ浦で生業を立てている多くの人にとって、理想とする霞ケ浦はどんな霞ケ浦でしょうか?

湖沼会議・本会議の「霞ケ浦セッション」では、霞ケ浦の未来像を議論するプログラムもあります。また、県内5カ所にサテライト会場が設けられます。これらの場で各地域の問題点や取り組みはもちろん、「市民の考える霞ケ浦のグランドデザイン=霞ケ浦の未来像」についても、じっくり話し合っていただければと思います。

湖沼会議の後、参加した市民団体や市民が、研究者、行政機関、企業と知恵を出し合い、霞ケ浦を素晴らしいものにする活動を展開することが、会議の本当の成功といえるのではないでしょうか。参加しない市民、関心のない市民に、「霞ケ浦から受ける恵」を発信していくことが我々の使命といえるでしょう。(一般社団法人霞ヶ浦市民協会理事・吉田薫)

《映画探偵団》2 つくばセンター地区の形

0
今回のテーマをイメージしたイラスト

つくばセンター地区活性化のヒントとなる映画を探そうと提案したが、団員たちは見つけられなかった。決して怠けたのではない。「まちを守る」「まちの魅力」を描いた作品は多いが、「まちづくり」となると意外にないのである。私もセンター地区内のレンタルビデオ店でチェックしたが見つからなかった。誰か知っているのなら教えて欲しい。そして団員になってもらいたい。

私は改めてセンター地区内に立つ黒い長方形の地図盤を観察してみた。センター地区内には北から南にかけて様々な建物がある。筑波学院大学。プラネタリウムのあるエキスポセンター。つくば市民ギャラリー。江戸の古民家を移築したさくら民家園。中央図書館とアルスホールとつくば美術館。つくばセンタービルのオークラホテル、吾妻地域交流センター、ラジオつくば、ノバホール、イノベーションプラザ。BiVi。常陽銀行。筑波銀行。カピオホール。国際会議場などなど。

歩いて30分以内の空間に劇場やホールが幾つもあり、いつもイベントが開催されている。私はケーブルテレビACCSの『月刊チラシズム』なる番組を担当し、月2度チラシを紹介している。つくばでは月に約100のイベントがあり、その半数強がセンター地区内で行われている。実に活発な所なのだが、なぜかパッとしない長方形の空間である。

しかしセンター地区の地図盤を眺めていて気がついた。「あ、これはモノリスではないか!」と。50年前の1968年に、スタンリー・キューブリック監督は、33年先の未来を背景にした映画『2001年宇宙の旅』を制作した。33年先の未来をどれだけ想像できるだろうか。現在で言えば、2051年を描くようなものである。今では映画史に燦然と輝く名画も、公開当時は「理由がよく分からない」という声が多数を占めた。高校生だった私の周囲でも見て来た人は皆首をかしげていた。無理もないのだ。物語の説明が一切省略されていたからである。

映画は、古代アフリカの類人猿から始まる。突然、類人猿がわめくと目の前に長方形の黒石板がある。黒石板を見た猿が手にした骨を放り上げると宇宙船にカットは変わる。次に宇宙ステーション、月面基地にある黒石板。さらに木星付近に浮かぶ巨大な黒石板に宇宙飛行士が吸い込まれ、光の洪水を浴びた果ては奇妙に光る室内になる。老いた宇宙飛行士がベッドで死にかけているとその前に黒石板がそそり立っている。飛躍する時空間をつなぐ黒石板モノリスだが、この謎めいた物体の説明も一切ない。

長方形のモノリスとセンター地区が私には重なって見える。活性化を考えるよりも先に、センター地区の長方形の構造を理解すべきではないだろうか。そこに問題解決の鍵が眠っている。改めて思う。長方形のセンター地区の空間は、謎のモノリスなのだ。けれども、この話を団員に語った時、皆首をかしげていた。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(冠木新市)

《好人余聞》2 「褒められて」洋画家・高橋秀さん

0
洋画家、高橋秀さん

人生という旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのように綴りたいと思っています。

冬に入り、やわらかな日が、アトリエのガラス窓から射している午後、気さくな画家に会った。油絵の具の香りがするアトリエで、洋画家高橋秀(たかはし・しゅう)さんは、キャンバスにピンクの絵の具を塗っていた。昭和2年生まれ、来月、91歳になる。土浦市在住。

「あれは、ボクが大学を卒業したばかりだったから、高下駄履いて学生服、腰には手ぬぐい下げていたかも知れないなあ。土浦で、佐野道之助先生の展覧会があって、見に行ったんですよ。絵のことなんて、何にもわからないまま。そこで見た絵に、絵っていいなあと思わせられたんですね。画廊閉めるまで佐野先生と話し込んでしまって。それから一緒に祇園町の方まで歩いて行って、また話して」

すると佐野さんは、キミの絵を、1週間後に見せに来なさい、と言ったのだそうだ。

高橋さんは、そのころ、絵なんてまともに描いたことなかったから、土浦小学校の近くの、当時土浦で唯一の画材店で油絵の道具を買い、黄色い山とか好きに塗った絵を描き、佐野さんのところに持って行った。

当時すでに著名だった洋画家の佐野さんは、高橋さんの絵を見ると、高橋さんが初めて描いた、まだろくに乾いていないような絵を、いきなり褒めた。これはいい、と。高橋さんが、絵を描いて生きる人生に、のめり込んだ瞬間だった。「褒められたのが嬉しくて。それから毎週描いて、持って行ったんですよ」

高橋さんの本格的に絵を描く人生が始まった。佐野さんは、高橋さんの絵が、とても気に入ったらしい。高橋さんが個展をすれば、画廊に詰めて「店番」をしてくれたり、展覧会やれとか中央展に出品しろと、高橋さんの職場にまで説得に来てくれたりしたという。

高橋さんはやがて、二科会展で特選になったりして、高い評価を得ることになった。今もバリバリ、来春の個展を目指して制作を続けている。

「絵を描くことは、ボクの人生そのものなんですよ。それは佐野先生に褒められることで始まった。それだけじゃない、画廊に出すと、ボクの、訳が判ってもらえないような絵が、ぜんぶ売れてしまった。これは励みになりましたよ。認められ褒められたから、人生が開けたんです」 (オダギ秀)

《続・平熱日記》3 「鉄萌え」モノづくりの血が騒ぐ

0
斉藤裕之さんの作品

小学校の図工室を借りて絵を教えています。集まってくるのは人生の大先輩の方々。その中のおひとり、元大学の先生で言語学者のT氏。絵を描く合間のちょっとした雑談の中にも豊富な経験や幅広い知識が垣間見られ、若い頃に研究のために訪れたヨーロッパの風景を熱心に描かれます。

その方の奥方がこの数年うつ病を患われているとのこと。そこでT氏は奥方の症状をなんとか改善できないものかと、医学書を読んだり講演会に参加したりしたそうです。しかしなかなか難しい。そんな中でも気になったのが「鉄」だそうです。

ある研究によると、人間の感情と鉄分が関係あるそうで、現代人は特に鉄が不足しているということ。これがうつ病などとも因果関係があるのではないかということらしいです。もちろん食事で鉄分を摂ることも大事なのでしょうが、T氏曰く、現代人が鉄と触れ合わなくなったことも大きな要因だそうです。

確かに日々の生活で鉄に触れることは少なくなってきました。鉄の道具を使い五右衛門風呂に入っていた頃に比べ、多くの製品はステンレスやプラスチックという素材に置き変わってしまいました。我が家では友人が打ってくれた鉄の包丁、合羽橋で買った鉄のフライパンなどを使っていますが、普通のご家庭では子供たちが鉄に触れることもほとんどないでしょうね。錆びない包丁やこびりつかないフライパンの方が便利ですから。

思えば小さい頃から鉄には何か惹かれるものがありました。機械の部品や道具など、今も古道具屋で鉄製品を見ると手に取ってしまいます。「鉄萌え」とでもいいますか。鉄には素っ裸で潔い強さを感じます。

さて、先日ある友人のお父上が生前に使っていたという道具類を処分するというので譲り受けました。その方は若い頃板金屋さんをされていたそうで、鉄製の金切り鋏やこて、たがね、やっとこ、コンパスなど、少し錆びてずっしりした存在感のある道具たち。使うことは恐らくないだろうと思っていたところ、一緒にもらった旧仮名遣いの「板金入門」という小冊子をめくっているうちに、血液中の鉄分が反応を起こしてきました。モノづくりの血が騒ぐというやつですかね。(斉藤裕之)

《邑から日本を見る》5 食べ物が左右する私たちの身体

0
飯野農夫也の版画「憩い」

牛久在住の長谷山俊郎さんが食べ物と健康に関する3冊目の本を出した。長谷山さんは農水省の研究機関である農業研究センターや農業工学研究所などで地域農業、地域づくり、地域活力などの研究を行ってきた。退職後の2003年、「日本活力研究所」を設立し、食と健康の関係について講演や執筆活動を精力的に行っている。

今回の本のタイトルは「健康を担う『日本の食』 病気を生む『欧米の食』」(農林統計出版)で、「健康はあなたが摂るもので決まる」(素人社)、「食が体をつくる」(素人社)に続く。私は、彼が農水省の研究センター在職中から付き合いがある。

私はこれまで、「人間の身体は食べ物と水から成り立っている。よくない食べ物や水を摂っていれば、病気になるのは当たり前だ。日ごろから気を付けよう」と訴えてきた。

長谷山さんも同じ考えだ。本書によれば、不健康、病気の原因は、私たちが日常摂っている食、特にパンを含む小麦製品、肉類、健康に良いとされてきた牛乳・乳製品などの「洋食」にある。逆に、日本人が昔から摂ってきた米(特に玄米)、植物性食品、味噌醤油、漬物などの発酵食品などが健康を担ってくれる。それらは、体の免疫力と清浄力を高め、病気を追い払い、私たちを健康体にしてくれる。

著者はこのような考えに立ち、洋食の問題を明らかにし、日本の食の見直し、再評価を行っている。

本書の前半では、現代の小麦は品種改良などにより体の臓器や骨、脳に炎症をもたらし、腸の病気、糖尿病、心臓病、高血圧などの現代病を生んでいるとさまざまなデータを使い、警鐘を鳴らしている。

さらに、がんが何故増えているのかに迫る。著者は、がん細胞を増殖させるのは動物性たんぱく質即ち肉と牛乳・乳製品だということを、これまでの研究成果を挙げながら実証する。そして、乳がんや前立腺がんも牛乳が促進するとし、「牛乳神話」からの脱却を呼びかけている。糖尿病や認知症も食の摂り方で防げるともいう。

本書の後半は、どうしたら健康になれるのか、健康を維持するにはどうすればいいのか、何を食べればいいのかに焦点を当てる。

著者は、最近はやりの除菌、殺菌を控える、化学肥料や農薬、添加物の入ったもの、白砂糖、チョコレート、清涼飲料水などを多く摂らないなどの注意が必要だという。

最後に著者は、日本人が米を選び、肉を排除した食の歴史と、みそ、しょうゆ、酢、みりんなどの発酵食品の重要なことを語る。その上で、日本の食の基本は玄米ご飯+みそ汁+漬物+梅干しというシンプルなもの、と結論付けている。多くの人にとっては「目からうろこ」と言える一冊だ。(先﨑千尋)

《食う寝る宇宙》3 キャリントンの日

0

イギリス、ロンドン。1859年9月1日。天文学者リチャード・キャリントン卿は太陽の黒点をスケッチしていた時に、黒点の近くに突然明るい光が輝くのを見た。

Carrington,R.C. Description of a Singular Appearance Seen in the Sun on September 1, 1859, Monthly Notice of the Royal Astronomical Society, 20(1859),pp.13-15.

上記は科学者が記録に残した「太陽フレア」観測の最初の論文です。

9月1日から2日にかけて、記録上最大の磁気嵐が発生し、世界各地でオーロラが観測されたそうです。アメリカロッキー山脈では、ゴールドラッシュでアメリカンドリームを夢見る鉱山夫の中には、外があまりにも明るく、朝と勘違いして朝食の支度を始めてしまった人もいるとか。アメリカ北東部では、夜中にもかかわらず、オーロラの明かりで新聞が読めたといった、逸話が残っています。

ボルチモアアメリカン・アンド・コマーシャルアドバタイザー紙の1859年9月3日号によると、「木曜の夜遅くたまたま外に出た人は、再びオーロラを目撃する機会に恵まれた。このオーロラは日曜日夜に見られたものと似ていたが、その光はより明るく色相はより変化に富んで豪華だった。光は明るい雲のように空全体を覆い尽くしていたが、光度の大きい恒星は不明瞭に輝いていた。オーロラの明るさは満月よりも明るかったが何ともいえず柔らかく、全ての物を包み込む繊細さがあった。12時から1時の間に明るさは最大となり、街の静かな通りはこの奇妙な光に包まれ奇観を呈する美しさがあった。ヨーロッパ及び北アメリカ全土の電報システムは停止した。電信用の鉄塔は火花を発し、電報用紙は自然発火した。電源が遮断されているのに送信や受信が可能な電報システムもあった

電報システムは、当時の最新テクノロジーです。初期の電報システムは「ツー・トン・トン」のモールス信号で情報伝達する仕組みで、1850年代には、地球の全周4万㎞に匹敵する電報システム網が北アメリカ、ヨーロッパを中心に完成していました。この電報システムに打撃を与えたのは、キャリントン卿が観測した太陽フレアをはじめとする「宇宙天気現象」でしたが当時は、原因不明でした。

同様の現象は、その後も度々発生し、人々は困惑しましたが、原因を突き止めるには、約20年の歳月を必要とし、1879年にイギリスのウィリアム・エリスが磁気嵐を起因とする地中を流れる電流の影響を示唆するのを待つ必要がありました。その後、対策のために通信システムや電力システムの技術者の頭痛の種となり現在に至ります。

現代社会の通信システムや電力システムへの依存度は当時と大きく異なります。「宇宙天気防災」という考えが必要であり、僕の研究モチベーションの源となっています。(玉置 晋)

《地域包括ケア》1 まず知ることから始めよう

0
高齢者サロン「ゆうゆう」=TX研究学園駅前
室生勝さん

厚生労働省は地方自治体、保健福祉医療介護団体、報道機関などに「地域包括ケアシステム」の資料を提供しているが、市町村は住民向けの「市民べんり帳」や「みんなのあんしん介護保険」に「地域包括ケアシステム」の解説をしていない。市のホームページを見ても説明は見当たらない。市の「高齢者福祉計画」では解説されているが、市のホームページを読んでいる市民はごく少ない。

「地域包括ケアシステム」が、国レベルの文書の中で初めて使われたのは、2003年6月に高齢者介護研究会がまとめた報告書「2015年の高齢者介護」である。それ以来、厚労省も地方自治体も十分な説明を住民にしてこなかった。ここ3年前から、厚労省は苦しい介護保険財政対策として、介護度が軽い人たちに介護保険の居宅生活支援サービスを制限し、市町村の責任で「介護予防・日常生活支援総合事業」によるサービスを提供する施策に変更してきた。ここで初めて市町村は市民に対し、「地域包括ケアシステム」を説明し始めた。

厚労省は「地域包括ケアシステム」を「地域の実情に応じて、高齢者が、可能な限り、住み慣れた地域でその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、医療、介護、介護予防、住まい及び自立した日常生活の支援が包括的に確保される体制」と説明している。

私は開業したときから、寝たきり、あるいは寝たきりに近い状態の高齢者に定期的往診をしていた。その大半が農家であり、脳血管障害後遺症、あるいは骨・関節疾患により自分で身の回りのことが出来なくなった人たちであった。入院治療を終え退院してきた人、いつの間にか自宅で寝たきりになった人たちで、その原因は高血圧、糖尿病、農作業と加齢(老い)による骨・関節の変形と骨折後遺症等であった。

高血圧と糖尿病については、村の保健師の協力を得て食生活と日常生活動作改善の指導を行った。患者さんだけでなく家族の意識改革にも努めた。「呼び寄せ老人」の閉じこもりには方言ボランティアをお願いした。

振り返ってみれば、当時から私の頭のなかに「地域包括ケア」が萌芽していたのだと思う。開業医を辞めて8年経過したが、「地域包括ケア」への想いは大きく続いている。このコラムで誰でも参加できる「地域包括ケア」を提言、提案していきたい。(室生勝)

【むろう・まさる】1960年東京医大卒、70年東京医大霞ケ浦病院内科医長。76年つくば市で室生内科医院開業。91年つくば医療福祉事例検討会(月例)を立ちあげる。95年第2回Ciba地域医療賞(現ノルバティス地域医療賞)受賞。2006年室生医院閉院。2000年から、つくば市高齢者保健福祉推進会議委員。現在、高齢者サロン「ゆうゆう」を研究学園駅前で主宰。著書に「地域の中の在宅ケア」(医歯薬出版)、「このまちがすきだから」(STEP)、「僕はあきらめない-町医者の往診30年-」(著・橋立多美、語り・室生勝、那珂書房)など。京都府生まれ、つくば市在住。82歳。

《宍塚の里山》4 里山ボランティア「里山さわやか隊」

0
ボランティア「里山さわやか隊」の活動

宍塚に限らず、里山は40~50年前までくまなく利用されていました。薪(まき)や炭、建材、たい肥の材料を得る場所だけでなく、キノコや野草・薬草、また鎌や鍬(くわ)など農機具の部品を作る材料などを得る場所として、その地域で生きるためにはなくてはならない場所でした。

しかしガスや電気などの普及により、そしてまた、農業・暮らしが便利になればなるほど、里山への依存が減り、里山は顧みられないところになりました。人の手が加わり続けてきた里山でしたが、次第に見捨てられてゆきました。

毎年、下草刈り、落ち葉かきが行われていたのは宍塚も同じで、その時、藤などのツル植物を見つければ、「親の仇(かたき)」と切ったと地元の方から聞きました。現在放置された林には藤の太いツルが巻き付き、そういった木は絞殺し状態になり、太い樹木でも立ち枯れます。このようなみすぼらしい林が宍塚ばかりか方々の林で見られました。

宍塚の自然と歴史の会が、地権者から草刈りなど林の管理の許可を得て、下草刈りを始めたのは1990年です。当時、地権者が見ず知らずの一般市民に、林に入って下草を刈ることを許すことなど、皆無の時代。画期的な試みでした。場所は池のほとり、宍塚を散策する人たちが通る林でした。ヤマツツジや山百合が乱れ咲く林にしたいと活動を開始しました。

1980年代初めごろ、県南に広く起こった松枯れが宍塚の林の様相を一変させましたが、この林でも、ふた抱えもある松の倒木が林の林床に縦横無尽に倒れていました。下草刈りは草刈り鎌で、倒木を片付けながらの作業でした。また、これらの作業に加え、隣接する林は孟宗竹が密生する竹林で、容赦なく竹が林に侵入してきていました。そこで侵入してきた約200本の孟宗竹の片づけも同時に行いました。

当時のことが書かれた会の会報「五斗蒔(ごとまき)だより」を見ると、月2回、「雑木林のフレッシュアップ」名で行ったことが記されています。

現在では、ボランティア「里山さわやか隊」の名で、やはり月2回(第2・4日曜日)、活動しています。今では約40人の地権者の了解が得られ、里山内の方々で林の草刈り、樹木の伐採活動を行っています。刈り払い機やチェーンソーを使って作業が行えるのは、労働安全衛生法に基づいた安全講習会で資格を得た人たちです。それ以外の人たちは林の倒木や落枝の片付けを行います。

会の活動には、学生、企業の人たちも参加していますが、彼らには安全を確保しながら、刈った草の片づけ、倒木の片づけなどを行っていただいています。(及川ひろみ)

《光の図書館だより》1 Our story starts here. 

0
土浦市立図書館
入沢弘子館長

また、光が降ってきた。足元を照らす光の帯に視線を移し、たどった先は天井近くの窓。雲が早く流れている。青空が広がっていく。思い悩んでいたことが吹っ切れた。光輝燦然(こうきさんぜん)。この光とともに前へ進んでいこう。この場所から、新しい物語が始まろうとしています。

土浦市立図書館は、1927年生まれの今年93歳の図書館。土浦の長い歴史を刻んできた図書館が、今年11月27日に土浦駅前に移転開館しました。

初めは、今の筑波銀行本店の場所にあった土浦町役場内に開館。開館翌年の1928年には、第1回の土浦花火大会が実施されました。ツェッペリン号が飛来した翌昭和5年には、現在の常陽銀行土浦支店の場所にあった元霞ケ浦航空隊下士官集会所に移転。1969年に現在の土浦博物館の場所に、73年には文京町に移転しました。

新図書館の必要性は21年前の1996年から審議され、2006年に建設が決定。リーマンショックと東日本大震災の影響による2度の事業中断を経て、ついに完成したものです。

新図書館への引越しと開館準備には3カ月を要しました。段ボール約9000箱分の本の搬入と書架への配架。約35万冊の書籍や資料へのICタグ貼り付け。修理が必要な書籍や約1000冊の紙芝居の修理。蔵書を管理するパソコンシステムの導入と動作や利用法の確認。書棚や家具備品類の納入。

さらに、新しい設備とこれまでの4倍の面積のフロアに対応するための職員の配置や訓練。駅前に立地することからの危機管理対策―などなど。休日返上で夜遅くまで作業する職員と、約50名の市民の配架ボランティアのおかげで、ついに開館日を迎えることができました。

11月27日午前10時、入口前に並んだ約100名の方が次々に入館。「うわ~、明るい!」感嘆の声をあげながら、エントランスの吹き抜けから差し込む外光を見上げる来館者の方々。ここは、光の図書館。これから、この新しい場所でたくさんの物語が生まれていきます。(入沢弘子)

【いりさわ・ひろこ】1962年、福島県喜多方市生まれ。1969~76年、新聞記者だった父の転勤で土浦市に住まう。約30年の博報堂勤務のあと、つくば市任期付職員として広報・プロモーションを統括。2017年4月、土浦市立図書館長(公募)に着任。

《くずかごの唄》3 交通事故ボウシ・転倒ボウシ作戦

0

茨城県は、老人の交通事故件数が多いらしい。

田んぼに水を引く。上の田、中間の田、下の田。それぞれの持ち主がいて、どの田にも公平に水が流れるようにしなければならない。茨城には今も、田んぼの「農村の文化」が残っていると思う。みんなと一緒に何か行うのにかけては誰も上手だが、一人で行動すること、目立つことが嫌われる。

お年寄りの服装を見ても、皆と同じ色、形にしないと気がすまない。黒や灰色ばかり。少し明るい色の上着がほしいと思って、洋服屋さんを探したが、どこも同じ黒い色ばかりだった。

黒い服を着て、冬の夕方、薄暗い道路を、信号を無視して渡ってしまう。これでは交通事故が起らないわけがない。どうしたらいいだろう? 交通事故ボウシ、転倒ボウシをかねて、帽子の飾りを造ってみよう。

昔、イタリアの貴族は、競って、帽子の飾りにお金をかけたらしい。私も貴族の一人になったつもりでいる。お金はかけられないが、時間とアイデアをかけてみよう。昔、亭主が着けていた派手なネクタイ。沖縄の人から頂いた貝殻。トリの羽。着物の端切れ。少し、明るく、反射して見える雑多なものを集めてきて、「帽子飾り」を造ってみた。

90歳の誕生日を迎えた友には、亀城公園の樹齢500歳のシイの実を拾ってきて、リボンに貼り付けてプレゼントした。私はいま真心こめて、「転倒ボウシ」を願いながら、古ネクタイにどんぐりを貼り付けている。(奥井登美子)

《土着通信部》2 名木・古木指定制度の現在 ㊤

0
鹿島神社(土浦市右籾)のムクロジ。実は熟れて落果を待っている

土浦市右籾の鹿島神社にムクロジの木がある。銀杏によく似た実をつける。寒くなると実は乾燥し、ベール状の皮殻をまとって落果する。中には黒い種子が入っていて羽根突きの球―羽子(はご)になる。

頼まれてバス停「右籾神社前」付近まで実を拾いにいった。巨木はすでに葉を落とし、果実は飴色に色づいていた。直下のごみ集積場に落ちた実の大半は踏みつぶされていたが、枝の高みにはまだ多くが残っていた。

無事な落果を探して根元付近を見やると、「鹿島神社のムクロジ」は土浦市指定の名木・古木であることを示す銘板が目にとまる。1996年に指定された第54号で、樹高22m、胸高周2.01mと記されている。

銘板を最後まで読むと「所有者に断ってから見学してください」と土浦市からの断り書き、十分に観察してから気がついた。こんな屋外で、しかも天下の公道沿い、所有者は右籾町の「宮本某」と書いてあるが連絡先の記載はない。

右籾にはもうひとつ、日先(ひのさき)神社がある。神職はたしかミヤモトさんと言ったはずだ。関係先ならば、実の採集を断わろうと思って社務所を訪ねた。はたしてミヤモトさんは鹿島神社の管理も兼ねていた。

日先神社はご神木のスギをはじめ巨木だらけで、ここにも土浦市指定名木・古木があった。第2号(1994年指定)「日先神社のクヌギ」は、樹高26m、胸高周3.3mと形状が記録されている。樹齢までは分からないが、周囲の杉木立を圧するような威容を誇っている。

しかし大ぶりになり過ぎた枝の一部が落下している。神社では他にツネ、キャラボクが同様の指定を受けていたが、指定から約20年経ち、ツネはすでに枯死し、キャラボクも危機的状況にあった。

いったい名木・古木の指定制度とは何なのだろう。ミヤモトさんは指定の特典はないという。

土浦市が条例で、名木・古木指定要綱を制定したのは1993年のことである。国、県、市の天然記念物に指定されている樹木や公園や学校などの公共管理分は除き、民間・在野のものに限って「名木・古木」を選定し、所有者の申請に基づいて指定する制度、所有者には適正な管理を条件に1本当たり年間5000円の補助金を交付した。

まれな樹種を対象とし、推定樹齢が100年以上あり、樹姿に格調があることなどが要件で、市は選定のための調査を民間人3人に委嘱した。高校の生物教師だったり造園業を営んだりで植物に精通する顔ぶれ、いずれも当時60代だった。調査員は毎年20本ずつ、5年をかけて100本を選び、以降は保存状態を見ながら、対象木の入れ替えなどを担うことになった。

その制度がいつの間にか休眠状態になっていた。条例じたいは廃止になっていないが、当局に問い合わせると「運用の記録がない」といい、指定した木々の台帳すら残ってなかった。(次回=12月19日掲載に続く)(相沢冬樹)

《吾妻カガミ》19 地域メディアが持つ抑止力

0

NEWSつくばスタートから2カ月。全国紙、地方紙、業界紙、ヤフーなど多くのメディアで取り上げていただいた。NPO+地域+ネット。このユニークな組み合わせに興味が持たれたのではないか。筑波大学新聞からも取材を受け、インタビュー記事が第338号(11月発行)に掲載されている。

さすが筑波大学の新聞、記者の問題意識も高い。「記者の目」では、私が「地域メディアの存在が行政の不正への抑止力になる、と力説した」と書かれている。地域メディアの役割について、私は安全保障概念のイメージで説明したところ、正確に理解していただいた。

こちらが強力な反撃兵器を持っていれば相手は報復を恐れて攻撃を思いとどまる。こうした抑止力の概念は軍事分野では常識。メディアの役割として指摘したかったのは、メディアなどのモニター役が存在しないと、税金で仕事をしている「公」が放縦になるということだ。メディアは恐れられる存在でなければならない。

北朝鮮の抑止力(少し脇道)

この原稿を書いている最中、北朝鮮が2カ月半振りにミサイル発射実験をしたとのニュースが飛び込んできた。そのミサイルは米本土をカバーする、ICBM(大陸間弾道弾)の能力を持つという。すでに原爆も開発(弾頭に搭載できる?潜水艦搭載ミサイルも開発?)したというから、対韓を意識した通常兵力に加え、対米を想定した核抑止力も持つに至った。

北朝鮮の本音、国民の困窮、米日韓中の困惑は別にして、北朝鮮のドンは抜け目がない。内政問題は置くとして、国際政治、安全保障の分野では、欧米のリーダーを混乱に陥れているからだ。

国民の生活を犠牲にし、こういった枠組みをつくったからには、ドンは核弾頭と運搬手段の開発を続行することはあっても、放棄することはない。米日韓中としては、短期的には刺客を養う、中期的にはクーデターを画策する、長期的には経済の崩壊を促す―工作に力点を移すべきだろう。ドンの愚かな側面(強権政治、経済軽視)を突くしかない。

編集作業の基本2

話が逸れてしまったが、筑波大新聞の記事に間違いが二つあったことを指摘しておきたい。ひとつは私の経歴記述。「時事通信社元ワシントン支局長、元経済部長」ではなく、「…元ワシントン特派員、元経済部長」。

もうひとつ。「市長は白紙撤回となった総合運動公園の建設事業の『検証』など未だ公約の多くは達成されていない」と述べたと記されているが、検証作業はもう済んでいる。達成されていないのは用地の活用とか処分の方法。言い方が不味かったのかも知れない。でも、地域の問題にも通暁するメディアとして、問題の経緯は押さえておいて欲しい。(坂本 栄)

▽筑波大学新聞はPDF化されており、同大HPでも読むことができます。

第338号URL: http://www.tsukuba.ac.jp/public/newspaper/pdf-pr/338.pdf

▽Yahoo!の記事は同サイトの「news HACK」欄で読むことができます。

記事URL:https://news.yahoo.co.jp/newshack/media_watch/news_tsukuba.html

《続・気軽にSOS》3 同じ間違いはしたくないと

0

同じ間違いをしたくないと、多くの方が考えているでしょう。それでも同じ間違いは繰り返すものです。それは、そのような結果を生む、同じ条件、同じ生活習慣があるからです。原則、人間は同じ間違いを繰り返すものだという前提で考える方が妥当だと私は考えています。

同じことをしていることに気づくことが、同じ間違いを繰り返さないことの第一歩です。「自分は、同じ間違いは繰り返さない」と豪語している人は要注意です。自分自身が、同じ間違いを繰り返していることにすら気づいていない可能性が高いからです。

気づいていなければ、改善のしようがありません。自分に何の落ち度もないのに、周りと衝突してばかりだとか、自分ばかりが割に合わないことが多いと感じている人は、同じ間違いを繰り返している可能性大ですから、自分の癖、行動習慣を見直すことをお勧めします。

一般的には、一つの原因が一つの結果を生むと捉えられがちです。しかし、何かしらの結果が生まれるのは、一つの原因で生まれる訳ではありません。環境や周りの人の言動、そして、自分自身の言動や考え方、捉え方、体の調子などが複合的な事柄から結果は生まれてきます。

自分は悪くないのだから、悪いやつが変わればいいと、環境が良くなるのを待つのも一つの方法だと思います。しかし、良い悪いは別にして、結果を変えたいと思えば、変えられるところから、自分から変えた方が、結果は早く変わりやすいのです。

私は、物事を変えたいのであれば、次のことを実践するように伝えています。

1.後悔→2.反省→3.計画→4.行動→1に戻る

1の後悔で、行動したことのまずかったことを確認します。後悔はしない方が良いというのが一般的ですが、後悔が深い方が次の行動のばねになります。しかし、ここにとどまり続けることはつらいことですので、日々、苦しいと感じている人は早く2以降を実践してください。

2の反省で、行動したことの良いところを考えます。

そして、3計画して、4行動して、また1後悔しての繰り返しをするのです。

当たり前にしていそうですが、多くの人は行動したことへの振り返りが無く、後悔を繰り返すだけ、もしくは、行動への微調整をせずに、ひとつの行動を良かった、悪かったと大雑把に切って捨ててしまうものです。

それだと、結果、自分の習慣のまま、同じ言動を繰り返してしまうものなのです。疲労がたまっていると、さらに今までと同じことをしてしまいます。一気に大きく変えようと、きっかけばかりを求めがちですが、小さな些細な変化の積み重ねが大切です。誰かと少し関係をよくしたければ、ちょっとだけ明るめにあいさつをするでも良いでしょう。

どんな言動にも、良いところと悪いところの両面が含まれています。それに気づくことで、自分には、未来を変える力があると信じて、動いていけるようになることが、自分の目的の場所に近づく大きな力になるものなのです。(浅井和幸)

《映画探偵団》1  映画で問題解決を図る

0

江戸川乱歩の少年探偵団シリーズは、第1作が『怪人二十面相』、第2作が『少年探偵団』で、小説からラジオドラマ、そして映画化もされ、私も夢中になった。その影響は現在も続いているようだ。「映画探偵団」なるチームを結成、活動しているからだ。

拠点は、「NEWSつくば」編集室がある筑波学院大内のフランス料理店「グルマン」。隔週土曜日の午前、『芸者文化史』を講義したあと、午後1時から3時まで会合を開く。団員は7名で、私はリーダー役をつとめる映画探偵だ。

活動といっても、お茶を飲み何の役にも立たない映画の話を交わすに過ぎない。例えば、石原裕次郎が大スタアとなった『嵐を呼ぶ男』(昭和32年)の併映作品(当時の映画館は2本立て)は『燃える肉体』だが、主演は五浦(北茨城市)出身の筑波久子で、大ヒットは彼女の功績大、といった話題。

翌年の主演作『狂った関係』では、生まれ故郷の大津港が舞台となり、彼女の実家五浦観光ホテルが映し出された。これは、まち興し地域映画のルーツと言えないか、など他愛のない話をしている。

映画探偵を自称する私の持論は3つある。①人生は1本の映画である②あらゆる問題解決のヒントは映画に隠されている③未来はすでに映画の中で予告されている―というものだ。

つくばセンター地区も

先日、団員から「つくばセンター地区」の話題が出された。TXの研究学園駅周辺と比べ、つくば駅のあるセンター地区の衰退が著しいというものだった。東西南北の大通りに囲まれた長方形のセンター地区にある駅周辺は、デパートの西武が撤退、オークラホテルとノバホールの間にあるセンタービルは空き店舗が多い。つまり活性化していない。

その証明として、つくば市都市計画部学園地区市街地振興室とか、つくばセンター地区活性化推進協議会なる組織が存在する。いろいろと工夫をこらしているようだが、いまひとつ成果が上がっていないようである。駅前ビルのBiViでは中心地区活性化のワークショップが開かれている。

「なんとかならないものでしょうかね」と、センター地区内のマンションに住む団員はつぶやいた。続けて「活推化のヒントとなる映画はないのですかね」と聞いてきた。私は「うーむ」と、よくシナリオに出てくるセリフを唸った。これは「あらゆる問題解決のヒントは映画に隠されている」という持論に対しての挑戦に等しい。

こういう時にはどう振る舞うか。『仁義なき戦い』(昭和48年)の山守親分(金子信男)の姿が思い浮かんだ。親分は責任を子分に押しつけるのである。「それでは今後、皆で、センター地区活推化案につながる映画をさがしましょう」と。今後は、役に立つ映画の話し合いの場になりそうだ。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(冠木新市)

▼12月の会合は2日と16日に開きます。

【かぶき・しんいち】脚本家、アートプロデューサー。TV映画フィルム編集助手を経て、映画監督市川崑に師事。1991年、角川映画15周年記念「天河伝説殺人事件」で脚本家デビュー。以後、ゲーム『ダークハンター』(コーエー)、映画『マヌケ先生』(大林宣彦総監督)、舞台『奥様は化け猫』(瀬川昌治演出)など。2008年から活動をつくばに移し、ラジオ『ロボットナース』、TV『サイコドン』、宴劇『桜川芸者学校』を制作。著書に『ゴジラ・デイズ』(集英社)、『映画「極道の妻たち」ノ美学』(近代映画社)など。福島県生まれ、つくば市在住。