金曜日, 12月 27, 2024
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《つくば法律日記》2 日本を支える中小企業

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堀越氏の弁護士事務所があるつくばセンタービル

【コラム・堀越智也】今年1年を振り返ると、世の中に私たち市民に強い影響力を持つトップが代わった年でした。アメリカの大統領、茨城県知事がその代表です。前の年には、東京都知事、つくば市長が代わりました。これらのトップの交代は、今後、私たちの生活に大きな影響を及ぼすことは間違いないと思います。

トップが代わらずにいることは、政治に関して言えば、安定と引き換えに、癒着や停滞を生む可能性があります。逆に、トップが代わることは、変化が期待できるとともに、どう変わるか分からず不安になることもあります。

ある地域では、地方公共団体のトップが代わったことで、前トップを応援していた企業が仕事をもらえなくなり、資金繰りが厳しくなったと聞いたことがあります。

トップが代わっても、代わらなくても、メリット、デメリットの両方あるのです。そうだとすると、企業を経営する立場からすれば、団体のトップが誰であろうと、存続できる体制をつくることが重要であると思います。

日本の企業の99%が中小企業ですが、そのうち10年以上存続する企業は6%に過ぎません。それだけ厳しい企業経営を「4年に1回代わる可能性があるところ」に頼ることは理論的に危険、と考えるのは当然です。

中小企業が99%である以上、日本を支えているのは紛れもなく中小企業です。池井戸潤氏の小説がテレビなどでドラマ化され、中小企業の大切さが描かれていますが、僕も家族と一緒に見ています。

私自身、今年、「ラヂオつくば」という中小企業の社長を勤めることになりました。また、中小企業家同友会での活動や、起業家を育てるイベントの主催を通して、中小企業をサポートできる自分を育てています。

さらに、茨城ロボッツやつくばFCなど、地域のスポーツチームをサポートすることで、地域の活性化にも貢献したいと思っています。そんなスポーツチームも、地元企業のサポートが不可欠です。

地方創生の時代、中小企業の役割は益々重要になるでしょう。来年も、中小企業の支えになれるよう、精進したいと思うクリスマスイヴ。(弁護士)

《続・平熱日記》4 今年のクリスマス

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斉藤裕之さんの作品

【コラム・斉藤裕之】牛久のアトリエカフェ・シシコで一足お先に開かれたクリスマス会。石窯ピザや手作りの料理が並びます。おじさんバンド、シシコカフェオーケストラの演奏に今年は女性フルート奏者とバイオリン女子高生も加わって格調やや高めで宴を盛り上げます。ちなみにこのカフェの名前は猪子(ししこ)町にあるのでSiSiCoと私が付けさせていただきました。

そしてこの会を最後にお別れするのがイメさん。コスタリカから筑波大学に留学しているべっぴんさん。縁あってこのカフェで数年間英語とスペイン語の先生をしてもらいました。とはいえレッスンの半分以上は日本語のおしゃべりでしたが。

実はイメさんは今年の3月に勉強を終えるはずだったのですが論文が間に合わず卒業式にも出られませんでした。カフェのオーナーであるクミさんは是非ともイメさんに袴をはかせてあげたいとご用意されていたのですがそれも叶わず。それでもイメさんは頑張って論文を書き上げて半年余り後に念願の学位を取得。晴れてイメ博士になりました。

そこでつい1週間ばかり前のことですが満を持してクミさんは袴を用意。着せてもらった袴姿のイメ博士、学位証を手に記念撮影。長身のイメさんのためにクミさんは丈を最大限に伸ばしたということ。妙にスタイルのいい袴姿のイメ博士はその後自身の研究の内容を我々に講義してくれました。

博士の専門は世界遺産。残念ながら母国では様々な事情からこの分野での就職は難しいとか。ともかく今年いっぱいで日本を去ることになったイメさんですが一旦コスタリカに戻りその後大学で数学を教える彼氏、ダビッドのいるアメリカに行くとのことでした。

さて宴もたけなわとなった頃イメさんから重大発表。「私、結婚します!」おめでとうイメさんそしてダビッド。現在はビザの申請中だそうですが時おりしもトランプ政権。中米出身の2人にとっては決して芳しい状況とはいえません。

そしてクリスマス当日はというと、子育ても終わった家の中はクリスマス感皆無。まして日本人のクリスマス文化に疑問を感じるひねくれものの私。それでも車の運転中にラジオから流れてくるクリスマスソングには無意識に反応して不覚にも口ずさんでしまいます。しかしながらケーキや鶏を夫婦で食べるのも滑稽なことで、定番の鍋物をいただき聖夜はまさに静夜として何事もなく過ぎていく。(画家)

《邑から日本を見る》6 東海第2原発再稼働を止めよう

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飯野農夫也の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】先月22日、日本原子力発電(原電)はこれまで茨城県と東海村のみに与えられていた東海第2原子力発電所(東海第2)の再稼働や40年を超えて運転する際の「同意権」を原子力所在地首長懇談会(東海村、水戸市、ひたちなか市、日立市、常陸太田市、那珂市の6市村で構成)に拡大する、そのための新協定を結ぶ、と回答した。

その翌々日、原電は原子力規制委員会に最長40年の運転延長の申請をした。今回の申請は、東海第2の再稼働に向けてのことだと考えられるが、原電の村松衛社長は記者会見で「原電の社内でも再稼働の方針を決めたのではない。申請しないと自動的に廃炉になるから」と話し、東海村の山田修村長も「延長申請は安全審査の一環で、再稼働とは直結しないことを確認した」と述べている。

原電が規制委に延長申請を出した24日、県内の市民グループ53団体が共同で原電に対して「運転延長に対する抗議文」を提出し、共産党、社民党、常総生協、東海第2原発を止める会などが申請撤回の申し入れや抗議の声明を発表した。

私はこれまで『常陽新聞』などに東海第2の再稼働について、何度かその危険性を書いてきた。身近な人たちは「いくらなんでも東海第2は政府が動かさないだろう」と言ってきた。でも、今回の原電の一連の動きを見ていると、「まさか」がまさかでなくなると思えてならない。

東海第2を動かすことは何故危険なのか。

東海第2は福島で事故を起こしたものと同型の沸騰水型原発。他の同型の原発は廃炉になったか廃炉が決まっているかで、東海第2が最も古い原発になっている。しかもこれまで機器トラブルがどこよりも飛び抜けて多く、寿命が尽きたと言われている危ない原子炉だ。

さらに東海第2は首都圏100㎞に位置し、事故を起こせばわが国は壊滅的な打撃を受ける。東海村上空の風の7割は東京方面に向かって吹いている。土浦市やつくば市が危ないことは福島第1の事故で証明済みだ。オリンピックの最中に事故が起きたらだれも責任を取れない。北朝鮮が狙い撃ちをすればひとたまりもない。

原電は1800億円もかけて安全対策を講じるようだが、テロ対策等の特定重大事故対策のためにさらに1000億円もかけるとか。元が採れるわけがない。そのツケは私たち国民に回ってくる。避難計画だって、橋本昌前知事ができないと選挙で言っていた。

新協定の締結まで紆余曲折があるようだが、協議の範囲が広まり、周辺の住民がモノを言える場が広がりそうだ。議会や首長の動向が大事なので、多くの人が反対の声を上げること。

伊方原発では広島高裁が停止命令を出した。6市村の住民だけでなく、県内外の人の声と動きが東海第2の再稼働を止められるかどうかの試金石になりそうだ。(元瓜連町長)

《食う寝る宇宙》4 宇宙社会人学生

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【コラム・玉置晋】「宇宙天気とは、太陽を上流とし、地球を下流とする1億5000万kmに及ぶ環境変化を示す。かつてはサイエンスに閉じた世界であったが、2010年前後より宇宙天気の実務利用についての議論が活発になってきた。03年10月に茨城大学の屋上で太陽の巨大黒点を観測していたのは、ついこの間の様に思える。あの日みた黒点で発生した太陽フレアとガスの塊は、地球を直撃し人工衛星を破壊した。あの時、僕は宇宙天気から人工衛星を護ると心に誓った」

「あれから14年後、僕は日本初となる『人工衛星運用現場の宇宙天気アナリスト』」の職域を宣言した。そして、これからは、宇宙天気防災の観点から多様な専門分野、立場の方々の協力が必要である。私は、この協力体制を『宇宙天気防災プロジェクトチーム』と名付けた!」

う~む、我ながらカッコよいぞ、と自己陶酔。上記は、17年12月12日に茨城大学理学部の地球物理学ゼミの学生に対して行った講演の出だしです。

僕は放送大学大学院の修士全科生です。いわゆる修士課程の学生です。05年に茨城大学大学院の修士課程に在籍していた私は在学中に就職し、働きながら1度目の修士号(理学)を頂きました。今は2個目の修士号(学術)に挑戦中です。

放送大学の授業は、TVやラジオ、インターネットで受講しますので、働きながら単位を取得するには最適な大学の一つです。とはいえ、大学院の研究となると、研究テーマに沿った教官につき、マンツーマンで指導を受け、他の学生と議論するために通学します。僕の場合は、「宇宙天気防災」をテーマに研究するにあたり、「太陽物理学」が専門の茨城大学理学部の野澤恵(のざわ・さとし)先生に師事しています。

宇宙天気防災について研究仲間を欲していますので、我こそはと思う方は茨城大学理学部の野澤研究室の門を叩いてください。僕の様に放送大学経由という手もあります。お待ちしております―。我が研究室の宣伝になってしまいました。

社会人学生。世の中ではどの程度いらっしゃるのか分かりませんが、最近は増えているのではないでしょうか。しかし、社会人向けの大学院が開設されている都市部に集中していると思います。我々、茨城の社会人も、負けてはおられません。折しも、働き方改革が叫ばれています。「残業を減らす」ことがその本質ではありません。仕事を効率化し、生み出された時間を自己研鑽に投入することが、その答えの一つだと僕は解釈しています。

来年は社会人の「学びなおし」が、キーワードに挙がってくると予言します。それでは、皆様、よいお年を。(宇宙天気防災研究者)

《地域包括ケア》2 土浦の症例を機に広がった地域ケア活動

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高齢者サロン「ゆうゆう」=TX研究学園駅前

「地域包括ケアシステム」と言う言葉は、1970年代に広島県御調町 (当時)の公立みつぎ総合病院の山口昇院長が医療福祉の連携について述べられたことが始まりである。 脳血管障害で入院した高齢者が入院治療を終え自宅に退院しても、寝たきり状態になって再入院する事例があり、1984年から御調町は在宅医療や看護、福祉の出前、健康指導、さらに町の保健福祉部門を病院内の健康管理センターに統合した。

1984年と言えば、土浦市の国立病院機構霞ケ浦医療センター(当時、国立霞ケ浦病院)整形外科・関寬之医長が提案した在宅医療・在宅ケアの月例「地域医療カンファレンス」が始まった年である。関医長がカンファレンスを考えついたきっかけは山口昇院長と同様で、大腿骨頚部骨折を手術した80歳男性がリハビリで歩行や身の回り動作が一部介助の状態に改善し退院したが、日中は家族が仕事に出るため介護が受けられず寝たきり状態となったことが始まりである。

関医長が市医師会はじめ関係機関に広く呼びかけ、初回のカンファレンスには開業医、市役所の保健師や福祉事務所職員、病院の医師、看護師、理学療法士等の約30名が集まった。それ以降、第1水曜日18時からの月例会は現在も続いている。

当時は、介護保険サービスは無く、土浦市の福祉サービスも限られていた。定期的往診(現在は訪問診療と言うが)をする家庭医を見つけることが難しかった。もちろん訪問看護ステーションは無く、病院の看護師と理学療法士は勤務時間外のボランティアであった。行政の保健師は看護経験が少なく、看護でなく介護指導を担った。公的福祉サービスもホームヘルパーが少なく、ショートステイは費用が高かった。ある地区では地域の数名のボランティアグループが交替で、近くの一人暮らしの閉じこもり高齢者を訪問しておしゃべりから始め、散歩に誘い出し、ついに自分で散歩をする高齢者に変身させていた。

僕も当初から「地域医療カンファレンス」に参加。「地域ケアシステム」について口角泡を飛ばし討論したことが懐かしい。1986年から「地域医療カンファレンス」のメンバーが中心となって、茨城県南部に広く地域ケアシステムを広めようと「県南医療福祉交流会」を毎年開くようになった。

1991年から、つくば市で在宅医療・在宅ケアのカンファレンス「つくば医療福祉事例検討会」が第3金曜日夜、つくば市医師会主催で始まった。これを契機に県内の市郡医師会主催のカンファレンスが広がった。

1994年に茨城県事業として発足した「地域ケア推進事業」はリニューアルされ、昨年3月に「茨城型地域包括ケアシステム推進マニュアル」が発刊された。

茨城には地域ケア活動の歴史があるのに、なぜか発展しない。なにが不足しているのか考えてみたい。(室生勝)

《宍塚の里山》5 林の管理 目指すは明るい里山風景

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ヤマツツジ

利用されていた頃の里山の雑木林はとても明るく、多種多様な植物、昆虫が見られました。人の手が入ることで維持されてきた里山ですが、放置が続いたことで、絶滅危惧種の1/4が里山で確認されるようになりました。里山の絶滅の危機にある生き物を救うのには、かつてのように手を入れることが必要です。どのように手を加えることが望ましいかを、地元の方や里山の研究者から教えていただき、雑木林も手を加えてきました。

里山の林を彩る代表選手はヤマツツジです。里山が新緑に包まれる5月、比較的明るい林に、朱色の花を咲かせます。ヤマツツジが咲く条件は、林に30%以上の光量がある事が必要で、樹冠が葉に覆われると花をつけなくなるとのことで、下草を刈るだけでなく、明るい林の再現を目指しました。使われていた頃の林は樹の高さが今よりずっと低く、また常緑樹も僅かでした。そこで可能な限り樹木の伐採を行っています。また大きく枝を伸ばした常緑樹の下は一年中光が当たらず、暗い森になります。そこで、シラカシ、アラカシ、シロダモなどの常緑樹の伐採を心掛けています。ヒサカキは高木にはなりませんが、数が多い林ではやはり暗い森になります。ヒサカキも除伐しています。

また、夏の花として有名なヤマユリ、木陰などで姿が見えなくても、どこからか百合の香りが漂い、その存在を伝えてくれます。ヤマユリのように、夏に咲く花々は、夏下草刈りを行うと失われます。夏草の花を見るためには、冬季林の下草を刈る事が必須であることを地元の方から教わりました。

宍塚には、専業農家によって昭和22年から冬季の草刈りが続けられてきた場所があります。そこはヤマユリだけでなく絶滅危惧種の宝庫です。以前、(独法)森林総合研究所で里山のことを研究されている方を案内したことがありますが、その場に足を踏み入れた途端、ここは落ち葉掻きが行われていますねと、すぐ見抜かれました。下草刈りと同時に農家が堆肥用にと、毎年刈った草は持ち帰ることが続けられていたのです。地面は柔らかな苔に覆われていますが、この苔こそが下草刈りを継続してきた証なのだそうです。

現在、その農家が行っていたやり方で、会が冬季下草を刈り、落ち葉掻きを行っています。その場所に限らず、冬季草を刈り、落ち葉掻きを行い、多様な野草、昆虫などの生育を助けている林が数カ所あります。しかし、人が通る道路沿いの林は、夏草を刈り、すがすがしい林の散策を楽しんでいただいています。それらの場所も常緑樹の伐採を行い、明るい気持ちの良い場所になっています。(及川ひろみ)

《つくば道》2 いつの頃から?

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つくばセンター広場の夜景

いつの頃からか、つくばの成人式は「荒れる成人式」としてマスコミが注目するような不名誉な称号をいただいてしまいました。今年の成人式では石井国土交通大臣の目の前で暴漢がSPに取り押さえられ、成人式が途中で中止になってしまったという暴挙がありました。私は33年前に成人式を迎えましたが、当時は旧6ケ町村単位で成人式を開催し、プチ同窓会として旧交を温めたように記憶しています。

都市化が進むと犯罪が増え、治安が悪くなる傾向があります。TXの開通以降、それまで地元の私たちが経験したこともないような多様な犯罪が増えているのも事実です。私の会社にも茨城県警だけでなく関東近県や愛知県の警察からも犯罪捜査への協力依頼が来るようになりました。この一連の事象を「仕方のないこと」として片づけてしまって本当にいいのでしょうか。

つくば市の本来のあるべき姿は「研究学園都市」です。いつの頃からか、こちらも「つくばらしさ」を失い東京近郊の住宅地となってしまいました。つくば市から撤退する研究機関やベンチャー企業は増えていますが、つくば市から世界へ飛び出す先端産業はいっこうに育っていません。人口は増えていますが、道路や学校などのインフラ整備に追われ、本来の筑波研究学園都市が取り組むべき課題を見失っているのです。つくば市誕生から30年が経過して、もう一度足元を見つめ直し、「つくばらしさ」とは何かを考え直さなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

例えば犯罪の撲滅や治安の維持についても最新の技術を導入して、抑止したりスピーディーに解決したりすることはできないのでしょうか?また、研究所用地として確保した土地を住宅地として転用したために、渋滞などの新たな問題が発生しているところもあります。無人自動車などを活用した新しい公共交通機関を試験的に走らせるような取り組みはつくば市ではできないのでしょうか?

このような社会問題を科学技術で解決することが、筑波研究学園都市に課せられたミッションであると思います。30年前の科学万博で感動した先端技術は、今日では私たちの日常生活に取り入れられています。あの時の想いをもう一度、思い出してはいかがでしょうか?(塚本一也)

《くずかごの唄》4 天国の藤原英司様へ

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「100万種をこえる動物たちのひとつひとつが個々に織りなす行動の複雑さは、まさに創造を絶するものがあり、その複雑さを知れば知るほどわたしたちは謙虚にならざるをえないであろう。じつに謙虚さこそ、われわれが動物の行動から学びうる大きな教訓であり、同時に、それは動物の行動から何かを学ぼうとする際の基本的な態度でなくてはならない。……この世のあらゆる生命は、生の過程それ自体が多くの謎を秘めた驚異的な行動の連鎖反応である。そして、動物の行動から謙虚さを学んだ者は、必ずすべての生命に対して、深い畏敬の思いを抱くにいたるであろう」(藤原英司さんの著作「動物の行動から何を学ぶか」=講談社現代新書=より)

藤原英司さんが亡くなったというお手紙を奥様からいただいた。つくばにお住まいなのでいつでも会いにいけるという安心感もあって、ついついご無沙汰してしまっていたのを悔やんだ。土浦の自然を守る会の発足当時、藤原さんから実にいろいろなものを教えていただいた。

「野生のエルザシリーズ」の翻訳家として有名だった藤原さんは、実に丹念に動物の行動学に詳しかった。動物をとおして自然のすばらしさを素人の私たちにも丁寧に教えてくださった。文章も格調が高く、「見えるものと、見えないもの」「誤解による大量殺戮」「殺しの連鎖反応」「目に見える過密と目に見えぬ変調」「凍結された過去の重み」などなど、短いタイトルの中に、深い意味をもつ魅力があった。

世界湖沼会議の時、佐賀純一さんがテーマを河童にした。河童という架空の動物が日本中のどこの水辺にも居て、地域によって個性があるのはなぜなのだろうと藤原さんに聞いてみたことがある。「河童カワウソ説」を説明してくれて、江戸時代にどこの川にも居て、人間が泳いでいたりすると、近寄ってきてお尻を触ったりする愛嬌のある動物だったから、日本の各地に定着したのではないかと、教えてくれた。私も安心してカワウソ君から「それはウソだ」と、いわれないようにしようと、子供たちの環境教育の中で「河童ごっこ」を続けてきた。

この間、私が「私が幼い時、ゴキブリは森の虫だった。人間の生活の中にいつのまにか入りこんで、子孫繁栄した頭の良さ、適応力。ゴキブリを尊敬しなさい」と言ったら、若いお母さんからゴキブリなど汚い不潔な虫の話などしないでほしいといわれてしまった。ゴキブリを最初から汚いものと決め付ける女の人たちを相手に、環境教育をどうしたらいいのか、天国の藤原さんにお聞きしたい。(奥井登美子)

《土着通信部》3 名木・古木指定制度の現在㊦

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八坂神社(土浦市真鍋)のケヤキは1993年の指定第1号

土浦市の委嘱を受けた調査員3人が市内をくまなく歩き、樹木100本を選び出す作業は1993年から97年までの5年間行われた。市が名木・古木に指定した後も、3人の樹木調査は続いた。

自然のものだから、枯死や損傷は免れない。宅地開発や道路建設で伐倒される樹木もある。そんなケースを調査で見つけ出し、リストの更新を行った。

3人の中のひとりで現在、同市文化財愛護の会みどりの文化財調査部会長を務める高野敏夫さん(84)は、指定当時の名簿を保管している。20本ずつ樹木の名称、所有者、樹種、樹高など形状をワープロ打ちしたリストである。

名簿1枚目のNo.1~20が、初年度に名木・古木指定された「1期生」オリジナルメンバーだ。イの一番は真鍋・八坂神社のケヤキ(写真)。樹高29m、胸の高さの周囲長は5.61mと計測されていた。

樹木名と所在地を抜き出してみると(表)、すでに20本中3本(白抜きにした)が失われている。6番目「神立のサワラ」は高野さん自身の所有木だったが、道路拡張の際に切り倒された。

こうした欠損のケースで、調査リストにあった樹木から補充分を選び、100本の名簿を入れ替えた。高野さんによれば、この作業は2007年まで続いた。名木・古木の所有者に対する年間5000円の補助金支給も続いていたはずだという。が、打ち切りの経緯の詳細は覚えていない。記録は、土浦市公園街路課にも残されていない。

時期的には土浦市が旧新治村と合併した2006年に前後する。名木・古木指定は旧土浦市の制度である。旧新治村にはなく、合併後の市域に格差が生じることとなる。範囲を広げ新たな対象木を調査するにも、新たな指定にもお金がかかる。見直し、廃止の対象になったはずだ。

当時の市職員を探して尋ねると、「うろ覚えだが所有者には感謝状を出し、打ち切りにしたように思う」と記憶をたどった。

2007年に市の委嘱を解かれた後も、高野さんは文化財愛護の会の活動として樹木調査を続けた。皮肉なことに、旧新治村のエリアを調べることになったのだ。土浦市の「指定要綱」に準拠する形で名木・古木にふさわしいと思える樹木を探した。

まとめ役だった須田直之さんが2010年に他界、残された2人の調査員も80代、高野さんは膝を痛め、思うように山歩きができなくなった。旧新治村は土浦旧市内に比べれば山がちの地形である。

それでもこれまでに、62本の木がリストアップできた。旧市内ではあまり目にすることのないクロガネモチ(小高)、カゴノキ(上坂田)などが確認できたという。

土浦市文化財愛護の会は今年創立40周年で、その記念事業として出版が検討されたが、「会の方にも都合があって」、決定には至らなかった。勝手にスポンサーを探すわけにもいかないらしい。

植物の話だけに、何とか日の目を見せてやりたいと思う次第である。(相沢冬樹)

《吾妻カガミ》20 霞ケ浦を一大リゾート地域に

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霞ケ浦総合公園から三叉沖(みつまたおき)を望む

毎早朝自宅から徒歩10分のところにある霞ケ浦総合公園を散歩する。豆柴犬の運動&トイレと歩数ノルマ稼ぎ(目標1日1万歩!)のためだ。40~50分歩くので豆柴と対話しながらいろいろなことを考える。例えば総合公園に接する霞ケ浦の水質問題とか。来秋の世界湖沼会議についての本ニュースサイト記事も頭を刺激する。

逆水門への疑問

10数年前、国交省の霞ケ浦河川事務所長と湖の水質問題について議論したことがある。アオコが繁殖するほど水質が悪化したのは、利根川との間に逆水門(常陸川水門)を設けて霞ケ浦を溜め池状態にしてしまったからではないか。昔のように太平洋との仕切りをつくらず、海水と淡水を往来させれば自然(海)の力で湖水は浄化されるのではないか。私の論点はこういうことだった。

これに対し所長さんは理路整然と反論した。①昔のように海水が湖に入ってくると干拓地の稲作が塩害を受ける②鹿島地域などの工場で工業用水が取水できなくなる③水位が高い利根川から水が流れ込むと湖の周辺で水害が多発する―と。

③は水門の機能そのものだから論破は難しい(ただ原則開門・非常時閉門にする手はある)。しかし、①と②は農業や工業振興のために自然に手を加えてしまったので元に戻せないということであり、農工振興<自然保持(観光振興?)の視点に立てば説得力は弱くなる。

所長さんの反論に私はこんなことを言ったと記憶している。湖面を埋めてでも農業用地を拡げなければならない時代は終わり、減反が叫ばれている今、①は見直し可能ではないか。海水を淡水化するプラントが中東などで使われている今、②も見直し可能ではないか。つまり産業振興が最優先された戦後昭和の考え方を見直してもいいのではないかと。

自然に任せる浄化

開発計画に基づいて、ある基盤が出来てしまうとそれを元に戻すのは難しい。産業界はその基盤の上にビジネスを展開し、行政は過去の決定を覆すのを嫌うからだ。その形を変えるのは政治の役割だろう。湖面をいじくり回す浄化ではなく、自然に任せる浄化を考える時代になったのではないかと。

散歩の相棒豆柴には「湖がきれいになったら水遊びができるね」「海からシラスウナギがどんどん上がってくれば天然鰻蒲焼きが食べられるね」「汽水湖になったらシジミがとれるね」「湖の周辺が一大リゾートゾーンになったら人がいっぱい来るね」「うちもボートを買って夏は孫たちを呼ぼうか」と話しかけている。(坂本栄)

《郷土史あれこれ》2 歴史資料の現在

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亀城公園に隣接する土浦市立博物館

前回は、博物館がないと様々な歴史資料を見ることができない現状について説明した。県内ではバブル時代に市町村史が作成されている。昭和50年に土浦市では「土浦市史」1冊、「土浦市史民俗編」1冊、「土浦市史編纂資料集」25冊が作られた。この地域の地方史編纂としては早く出来上がったが、その「史料集」に収録されている史料には、現在どこにあるか所在の分からない史料がある。

これは土浦市に限らず、継続事業として「資料集」の発刊が行われていれば、担当の部署がこれまで蒐集した資料の所在を確認し、資料の保管に努めることもできる。しかし、その部署がなくなり、資料の確認も行われず、資料を保管するお宅でも関心がなくなり、焼却やゴミとして扱われてしまうと、その地域に残された貴重な歴史資料が失われてしまうのである。

歴史資料への関心がないのは、大河ドラマの英雄史観や皇国史観による庶民には歴史がないとか、小中学校・高等学校の歴史教育が、考える授業ではなく暗記物にしているとか、様々な影響が考えられる。ここには一人ひとりが歴史に関わっているという意識が全体的に薄いことが挙げられる。そこに難しい問題がある。

最近はやりの、終活とか、断捨離とかの言葉がある。個人の積み重ねてきた人生の総括が「断捨離」となり、個人が持っていた歴史資料が失われていくのは、どうであろうか。個人の遺産といえども、国や地域にとって必要な歴史資料は残し、後世に伝えていかなければならい。

こうした歴史資料を保存し後世に伝えていく施設が、博物館である。「博物館法」には、博物館には学芸員を置かねばならないという規定がある。「学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業についての専門的事項をつかさどる」(博物館法)とあるように、資料の収集、保管、展示を専門に行う専門職員である。

すべての市町村に博物館があり、学芸員が置かれているわけではない。博物館法には、すべての市町村に博物館を置かなければならないという規定はない。博物館を置くことは、その市町村に任されている。博物館がなくても、遺跡の発掘をやる必要性から、考古学関係の学芸員が置かれている市町村もあるが、原始古代から現代にわたる専門の学芸員が置かれている市町村は、茨城県ではほとんどないといっていい。

土浦市では、「博物館」と「上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)」が設置され、10人以上の学芸員がおり、ひじょうに充実している。茨城県で最も必要な学芸員は、近世の古文書を読める学芸員である。村方資料を読めなければ、江戸時代の歴史を知ることができない。今こそ必要なことは、県に残された貴重な遺産である近世の古文書を調査し保管する博物館を設置し、学芸員を置くことが肝要ではないだろうか。(栗原亮)

《続・気軽にSOS》4 知っていること・理解していること

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「ひと・もの・かね」。NPO活動でも出るキーワードで、会社経営などにも必要です。第4の経営資源として「情報」が加えられることがあるそうです。ナレッジマネジメント。情報と知識、形式知と暗黙知という言葉があるらしいので、興味のある方は調べてみると面白いですよ。

法人だけでなく、私たち個々人も同じようなことが当てはまります。私の独自の表現ですが、情報に関して次の2つを講演やNPOの会員、クライエント(相談者)などに伝えることがあります。

① 知っていることと、理解していることは違うんだよ。

② 道具は使いようによっては、良い事にも悪い事にも使えるんだよ。

文章にすると当たり前ですが、わざわざ伝えることが多いという事は、①②の前半と後半を多くの人が同じものと捉えていて苦しくなっているのです。

まずは、①ですが、「知っていること」はテストに出たら答えられるけれど、現実には応えられない、行動できない状況です。「知っていること」を上手く使って、現実に対応できることを「理解していること」として区別した方が良いと私は思っています。

つまり、暴力はいけない、暴飲暴食はいけないとテストでは答えられる、もしくは人には説教できるけれど、実際には暴力も振るうし、暴飲暴食もしてしまう状態。これが、知っているけれど、理解できていない事と私は表現しています。

口では言えるけど、行動できない。「分かっちゃいるけどやめられない」というやつですね。

知っていることを理解するまで、または行動・習慣化するまで練習することが大切であり、そうでないと、学校のテストで先生は褒めてくれるかもしれないけれど、現実世界では苦しみが大きくなりますよと伝えたいのです。

蛇足ですが、人が行動していることにケチをつけて、さも自分の方が偉いという感覚を、知っている気分になっていると表現します。

②は、例えば、心理学とかカウンセリングとかの講座を受けるとか、資格を取るとかします。この知識は道具で、どの様に使うかで結果が全く別物になります。包丁が料理を作ることも、指を切ってけがをすることもあるのと同じです。

ちょっと知識を、すべてだと思って乱用する。今、不幸なのは過去にあった出来事のせいだとか、機能不全の家族だから不幸な人生が決定しているとかと、苦しむための道具として使ってしまう方が多くいます。

自分に使う人もいれば、友人やクライアントに使う人もいます。偉い先生が言っている(書いている)から、それは決定事項だと。

私からお伝えしたいのは、道具は目的のために使う要素の一つにすぎません。偉い先生が書いていることが全てで、それ以外の世界はないと決めつけないでください。よほど意地の悪い文章でなければ、そこに書いてあるのは、良くなるための項目があるはずです。その道具を、楽しむため、幸せのために使いましょう。(浅井和幸)

《泳げる霞ケ浦へ》2 市民が考える湖の未来像は?

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泳げる霞ケ浦市民フェスティバル(2012年)

前回の《泳げる霞ケ浦へ》1では、霞ケ浦市民協会初代理事長の堀越昭さんから、第6回世界湖沼会議(1995年)の後のこと、来年の第17回湖沼会議誘致の経緯について触れていただきました。リレーコラム2番手の私は、霞ケ浦市民協会の目標「泳げる霞ケ浦」を市民協会が言い出した経緯、それから来年の会議で市民が取り組むべき課題について述べたいと思います。

我々は市民の立場で霞ケ浦の浄化やまちづくりに取り組むため、シンポジウムやパネルディスカッションを何度も開催しながら、分かりやすく、取り組みやすい目標(キャッチフレーズ)が必要だと痛感していました。なぜなら、市民が理想とする霞ケ浦のイメージを思い描けない状況では、具体的な取り組みができないからです。

議論の末にメンバーが合意したキャッチフレーズが「泳げる霞ケ浦」でした。特定の動物や植物をシンボルにするのではなく、誰もが思い描ける霞ケ浦の姿を目標にしたわけです。

海の日(7月の第3月曜日)に開催している「泳げる霞ケ浦市民フェスティバル」でも、多くの市民団体や行政機関がこの目標を具体的に発信してくれています。「泳げる霞ケ浦」という言葉が茨城県や国土交通省の発信する文面の中でも頻繁に登場します。このキャッチフレーズを最初に使い出した我々としては大変うれしく思っています。

市民協会は過去何度も遊泳場の水質検査を行いましたが、大腸菌の数や水質などで「泳いでも大丈夫」の地点が複数あります。しかし、透明度や安全面など、次のステップである「泳ぎたくなる霞ケ浦」までには問題が山積みです。

我々市民団体や霞ケ浦で生業を立てている多くの人にとって、理想とする霞ケ浦はどんな霞ケ浦でしょうか?

湖沼会議・本会議の「霞ケ浦セッション」では、霞ケ浦の未来像を議論するプログラムもあります。また、県内5カ所にサテライト会場が設けられます。これらの場で各地域の問題点や取り組みはもちろん、「市民の考える霞ケ浦のグランドデザイン=霞ケ浦の未来像」についても、じっくり話し合っていただければと思います。

湖沼会議の後、参加した市民団体や市民が、研究者、行政機関、企業と知恵を出し合い、霞ケ浦を素晴らしいものにする活動を展開することが、会議の本当の成功といえるのではないでしょうか。参加しない市民、関心のない市民に、「霞ケ浦から受ける恵」を発信していくことが我々の使命といえるでしょう。(一般社団法人霞ヶ浦市民協会理事・吉田薫)

《映画探偵団》2 つくばセンター地区の形

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今回のテーマをイメージしたイラスト

つくばセンター地区活性化のヒントとなる映画を探そうと提案したが、団員たちは見つけられなかった。決して怠けたのではない。「まちを守る」「まちの魅力」を描いた作品は多いが、「まちづくり」となると意外にないのである。私もセンター地区内のレンタルビデオ店でチェックしたが見つからなかった。誰か知っているのなら教えて欲しい。そして団員になってもらいたい。

私は改めてセンター地区内に立つ黒い長方形の地図盤を観察してみた。センター地区内には北から南にかけて様々な建物がある。筑波学院大学。プラネタリウムのあるエキスポセンター。つくば市民ギャラリー。江戸の古民家を移築したさくら民家園。中央図書館とアルスホールとつくば美術館。つくばセンタービルのオークラホテル、吾妻地域交流センター、ラジオつくば、ノバホール、イノベーションプラザ。BiVi。常陽銀行。筑波銀行。カピオホール。国際会議場などなど。

歩いて30分以内の空間に劇場やホールが幾つもあり、いつもイベントが開催されている。私はケーブルテレビACCSの『月刊チラシズム』なる番組を担当し、月2度チラシを紹介している。つくばでは月に約100のイベントがあり、その半数強がセンター地区内で行われている。実に活発な所なのだが、なぜかパッとしない長方形の空間である。

しかしセンター地区の地図盤を眺めていて気がついた。「あ、これはモノリスではないか!」と。50年前の1968年に、スタンリー・キューブリック監督は、33年先の未来を背景にした映画『2001年宇宙の旅』を制作した。33年先の未来をどれだけ想像できるだろうか。現在で言えば、2051年を描くようなものである。今では映画史に燦然と輝く名画も、公開当時は「理由がよく分からない」という声が多数を占めた。高校生だった私の周囲でも見て来た人は皆首をかしげていた。無理もないのだ。物語の説明が一切省略されていたからである。

映画は、古代アフリカの類人猿から始まる。突然、類人猿がわめくと目の前に長方形の黒石板がある。黒石板を見た猿が手にした骨を放り上げると宇宙船にカットは変わる。次に宇宙ステーション、月面基地にある黒石板。さらに木星付近に浮かぶ巨大な黒石板に宇宙飛行士が吸い込まれ、光の洪水を浴びた果ては奇妙に光る室内になる。老いた宇宙飛行士がベッドで死にかけているとその前に黒石板がそそり立っている。飛躍する時空間をつなぐ黒石板モノリスだが、この謎めいた物体の説明も一切ない。

長方形のモノリスとセンター地区が私には重なって見える。活性化を考えるよりも先に、センター地区の長方形の構造を理解すべきではないだろうか。そこに問題解決の鍵が眠っている。改めて思う。長方形のセンター地区の空間は、謎のモノリスなのだ。けれども、この話を団員に語った時、皆首をかしげていた。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(冠木新市)

《好人余聞》2 「褒められて」洋画家・高橋秀さん

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洋画家、高橋秀さん

人生という旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのように綴りたいと思っています。

冬に入り、やわらかな日が、アトリエのガラス窓から射している午後、気さくな画家に会った。油絵の具の香りがするアトリエで、洋画家高橋秀(たかはし・しゅう)さんは、キャンバスにピンクの絵の具を塗っていた。昭和2年生まれ、来月、91歳になる。土浦市在住。

「あれは、ボクが大学を卒業したばかりだったから、高下駄履いて学生服、腰には手ぬぐい下げていたかも知れないなあ。土浦で、佐野道之助先生の展覧会があって、見に行ったんですよ。絵のことなんて、何にもわからないまま。そこで見た絵に、絵っていいなあと思わせられたんですね。画廊閉めるまで佐野先生と話し込んでしまって。それから一緒に祇園町の方まで歩いて行って、また話して」

すると佐野さんは、キミの絵を、1週間後に見せに来なさい、と言ったのだそうだ。

高橋さんは、そのころ、絵なんてまともに描いたことなかったから、土浦小学校の近くの、当時土浦で唯一の画材店で油絵の道具を買い、黄色い山とか好きに塗った絵を描き、佐野さんのところに持って行った。

当時すでに著名だった洋画家の佐野さんは、高橋さんの絵を見ると、高橋さんが初めて描いた、まだろくに乾いていないような絵を、いきなり褒めた。これはいい、と。高橋さんが、絵を描いて生きる人生に、のめり込んだ瞬間だった。「褒められたのが嬉しくて。それから毎週描いて、持って行ったんですよ」

高橋さんの本格的に絵を描く人生が始まった。佐野さんは、高橋さんの絵が、とても気に入ったらしい。高橋さんが個展をすれば、画廊に詰めて「店番」をしてくれたり、展覧会やれとか中央展に出品しろと、高橋さんの職場にまで説得に来てくれたりしたという。

高橋さんはやがて、二科会展で特選になったりして、高い評価を得ることになった。今もバリバリ、来春の個展を目指して制作を続けている。

「絵を描くことは、ボクの人生そのものなんですよ。それは佐野先生に褒められることで始まった。それだけじゃない、画廊に出すと、ボクの、訳が判ってもらえないような絵が、ぜんぶ売れてしまった。これは励みになりましたよ。認められ褒められたから、人生が開けたんです」 (オダギ秀)

《続・平熱日記》3 「鉄萌え」モノづくりの血が騒ぐ

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斉藤裕之さんの作品

小学校の図工室を借りて絵を教えています。集まってくるのは人生の大先輩の方々。その中のおひとり、元大学の先生で言語学者のT氏。絵を描く合間のちょっとした雑談の中にも豊富な経験や幅広い知識が垣間見られ、若い頃に研究のために訪れたヨーロッパの風景を熱心に描かれます。

その方の奥方がこの数年うつ病を患われているとのこと。そこでT氏は奥方の症状をなんとか改善できないものかと、医学書を読んだり講演会に参加したりしたそうです。しかしなかなか難しい。そんな中でも気になったのが「鉄」だそうです。

ある研究によると、人間の感情と鉄分が関係あるそうで、現代人は特に鉄が不足しているということ。これがうつ病などとも因果関係があるのではないかということらしいです。もちろん食事で鉄分を摂ることも大事なのでしょうが、T氏曰く、現代人が鉄と触れ合わなくなったことも大きな要因だそうです。

確かに日々の生活で鉄に触れることは少なくなってきました。鉄の道具を使い五右衛門風呂に入っていた頃に比べ、多くの製品はステンレスやプラスチックという素材に置き変わってしまいました。我が家では友人が打ってくれた鉄の包丁、合羽橋で買った鉄のフライパンなどを使っていますが、普通のご家庭では子供たちが鉄に触れることもほとんどないでしょうね。錆びない包丁やこびりつかないフライパンの方が便利ですから。

思えば小さい頃から鉄には何か惹かれるものがありました。機械の部品や道具など、今も古道具屋で鉄製品を見ると手に取ってしまいます。「鉄萌え」とでもいいますか。鉄には素っ裸で潔い強さを感じます。

さて、先日ある友人のお父上が生前に使っていたという道具類を処分するというので譲り受けました。その方は若い頃板金屋さんをされていたそうで、鉄製の金切り鋏やこて、たがね、やっとこ、コンパスなど、少し錆びてずっしりした存在感のある道具たち。使うことは恐らくないだろうと思っていたところ、一緒にもらった旧仮名遣いの「板金入門」という小冊子をめくっているうちに、血液中の鉄分が反応を起こしてきました。モノづくりの血が騒ぐというやつですかね。(斉藤裕之)

《邑から日本を見る》5 食べ物が左右する私たちの身体

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飯野農夫也の版画「憩い」

牛久在住の長谷山俊郎さんが食べ物と健康に関する3冊目の本を出した。長谷山さんは農水省の研究機関である農業研究センターや農業工学研究所などで地域農業、地域づくり、地域活力などの研究を行ってきた。退職後の2003年、「日本活力研究所」を設立し、食と健康の関係について講演や執筆活動を精力的に行っている。

今回の本のタイトルは「健康を担う『日本の食』 病気を生む『欧米の食』」(農林統計出版)で、「健康はあなたが摂るもので決まる」(素人社)、「食が体をつくる」(素人社)に続く。私は、彼が農水省の研究センター在職中から付き合いがある。

私はこれまで、「人間の身体は食べ物と水から成り立っている。よくない食べ物や水を摂っていれば、病気になるのは当たり前だ。日ごろから気を付けよう」と訴えてきた。

長谷山さんも同じ考えだ。本書によれば、不健康、病気の原因は、私たちが日常摂っている食、特にパンを含む小麦製品、肉類、健康に良いとされてきた牛乳・乳製品などの「洋食」にある。逆に、日本人が昔から摂ってきた米(特に玄米)、植物性食品、味噌醤油、漬物などの発酵食品などが健康を担ってくれる。それらは、体の免疫力と清浄力を高め、病気を追い払い、私たちを健康体にしてくれる。

著者はこのような考えに立ち、洋食の問題を明らかにし、日本の食の見直し、再評価を行っている。

本書の前半では、現代の小麦は品種改良などにより体の臓器や骨、脳に炎症をもたらし、腸の病気、糖尿病、心臓病、高血圧などの現代病を生んでいるとさまざまなデータを使い、警鐘を鳴らしている。

さらに、がんが何故増えているのかに迫る。著者は、がん細胞を増殖させるのは動物性たんぱく質即ち肉と牛乳・乳製品だということを、これまでの研究成果を挙げながら実証する。そして、乳がんや前立腺がんも牛乳が促進するとし、「牛乳神話」からの脱却を呼びかけている。糖尿病や認知症も食の摂り方で防げるともいう。

本書の後半は、どうしたら健康になれるのか、健康を維持するにはどうすればいいのか、何を食べればいいのかに焦点を当てる。

著者は、最近はやりの除菌、殺菌を控える、化学肥料や農薬、添加物の入ったもの、白砂糖、チョコレート、清涼飲料水などを多く摂らないなどの注意が必要だという。

最後に著者は、日本人が米を選び、肉を排除した食の歴史と、みそ、しょうゆ、酢、みりんなどの発酵食品の重要なことを語る。その上で、日本の食の基本は玄米ご飯+みそ汁+漬物+梅干しというシンプルなもの、と結論付けている。多くの人にとっては「目からうろこ」と言える一冊だ。(先﨑千尋)

《食う寝る宇宙》3 キャリントンの日

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イギリス、ロンドン。1859年9月1日。天文学者リチャード・キャリントン卿は太陽の黒点をスケッチしていた時に、黒点の近くに突然明るい光が輝くのを見た。

Carrington,R.C. Description of a Singular Appearance Seen in the Sun on September 1, 1859, Monthly Notice of the Royal Astronomical Society, 20(1859),pp.13-15.

上記は科学者が記録に残した「太陽フレア」観測の最初の論文です。

9月1日から2日にかけて、記録上最大の磁気嵐が発生し、世界各地でオーロラが観測されたそうです。アメリカロッキー山脈では、ゴールドラッシュでアメリカンドリームを夢見る鉱山夫の中には、外があまりにも明るく、朝と勘違いして朝食の支度を始めてしまった人もいるとか。アメリカ北東部では、夜中にもかかわらず、オーロラの明かりで新聞が読めたといった、逸話が残っています。

ボルチモアアメリカン・アンド・コマーシャルアドバタイザー紙の1859年9月3日号によると、「木曜の夜遅くたまたま外に出た人は、再びオーロラを目撃する機会に恵まれた。このオーロラは日曜日夜に見られたものと似ていたが、その光はより明るく色相はより変化に富んで豪華だった。光は明るい雲のように空全体を覆い尽くしていたが、光度の大きい恒星は不明瞭に輝いていた。オーロラの明るさは満月よりも明るかったが何ともいえず柔らかく、全ての物を包み込む繊細さがあった。12時から1時の間に明るさは最大となり、街の静かな通りはこの奇妙な光に包まれ奇観を呈する美しさがあった。ヨーロッパ及び北アメリカ全土の電報システムは停止した。電信用の鉄塔は火花を発し、電報用紙は自然発火した。電源が遮断されているのに送信や受信が可能な電報システムもあった

電報システムは、当時の最新テクノロジーです。初期の電報システムは「ツー・トン・トン」のモールス信号で情報伝達する仕組みで、1850年代には、地球の全周4万㎞に匹敵する電報システム網が北アメリカ、ヨーロッパを中心に完成していました。この電報システムに打撃を与えたのは、キャリントン卿が観測した太陽フレアをはじめとする「宇宙天気現象」でしたが当時は、原因不明でした。

同様の現象は、その後も度々発生し、人々は困惑しましたが、原因を突き止めるには、約20年の歳月を必要とし、1879年にイギリスのウィリアム・エリスが磁気嵐を起因とする地中を流れる電流の影響を示唆するのを待つ必要がありました。その後、対策のために通信システムや電力システムの技術者の頭痛の種となり現在に至ります。

現代社会の通信システムや電力システムへの依存度は当時と大きく異なります。「宇宙天気防災」という考えが必要であり、僕の研究モチベーションの源となっています。(玉置 晋)

《地域包括ケア》1 まず知ることから始めよう

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高齢者サロン「ゆうゆう」=TX研究学園駅前
室生勝さん

厚生労働省は地方自治体、保健福祉医療介護団体、報道機関などに「地域包括ケアシステム」の資料を提供しているが、市町村は住民向けの「市民べんり帳」や「みんなのあんしん介護保険」に「地域包括ケアシステム」の解説をしていない。市のホームページを見ても説明は見当たらない。市の「高齢者福祉計画」では解説されているが、市のホームページを読んでいる市民はごく少ない。

「地域包括ケアシステム」が、国レベルの文書の中で初めて使われたのは、2003年6月に高齢者介護研究会がまとめた報告書「2015年の高齢者介護」である。それ以来、厚労省も地方自治体も十分な説明を住民にしてこなかった。ここ3年前から、厚労省は苦しい介護保険財政対策として、介護度が軽い人たちに介護保険の居宅生活支援サービスを制限し、市町村の責任で「介護予防・日常生活支援総合事業」によるサービスを提供する施策に変更してきた。ここで初めて市町村は市民に対し、「地域包括ケアシステム」を説明し始めた。

厚労省は「地域包括ケアシステム」を「地域の実情に応じて、高齢者が、可能な限り、住み慣れた地域でその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、医療、介護、介護予防、住まい及び自立した日常生活の支援が包括的に確保される体制」と説明している。

私は開業したときから、寝たきり、あるいは寝たきりに近い状態の高齢者に定期的往診をしていた。その大半が農家であり、脳血管障害後遺症、あるいは骨・関節疾患により自分で身の回りのことが出来なくなった人たちであった。入院治療を終え退院してきた人、いつの間にか自宅で寝たきりになった人たちで、その原因は高血圧、糖尿病、農作業と加齢(老い)による骨・関節の変形と骨折後遺症等であった。

高血圧と糖尿病については、村の保健師の協力を得て食生活と日常生活動作改善の指導を行った。患者さんだけでなく家族の意識改革にも努めた。「呼び寄せ老人」の閉じこもりには方言ボランティアをお願いした。

振り返ってみれば、当時から私の頭のなかに「地域包括ケア」が萌芽していたのだと思う。開業医を辞めて8年経過したが、「地域包括ケア」への想いは大きく続いている。このコラムで誰でも参加できる「地域包括ケア」を提言、提案していきたい。(室生勝)

【むろう・まさる】1960年東京医大卒、70年東京医大霞ケ浦病院内科医長。76年つくば市で室生内科医院開業。91年つくば医療福祉事例検討会(月例)を立ちあげる。95年第2回Ciba地域医療賞(現ノルバティス地域医療賞)受賞。2006年室生医院閉院。2000年から、つくば市高齢者保健福祉推進会議委員。現在、高齢者サロン「ゆうゆう」を研究学園駅前で主宰。著書に「地域の中の在宅ケア」(医歯薬出版)、「このまちがすきだから」(STEP)、「僕はあきらめない-町医者の往診30年-」(著・橋立多美、語り・室生勝、那珂書房)など。京都府生まれ、つくば市在住。82歳。

《宍塚の里山》4 里山ボランティア「里山さわやか隊」

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ボランティア「里山さわやか隊」の活動

宍塚に限らず、里山は40~50年前までくまなく利用されていました。薪(まき)や炭、建材、たい肥の材料を得る場所だけでなく、キノコや野草・薬草、また鎌や鍬(くわ)など農機具の部品を作る材料などを得る場所として、その地域で生きるためにはなくてはならない場所でした。

しかしガスや電気などの普及により、そしてまた、農業・暮らしが便利になればなるほど、里山への依存が減り、里山は顧みられないところになりました。人の手が加わり続けてきた里山でしたが、次第に見捨てられてゆきました。

毎年、下草刈り、落ち葉かきが行われていたのは宍塚も同じで、その時、藤などのツル植物を見つければ、「親の仇(かたき)」と切ったと地元の方から聞きました。現在放置された林には藤の太いツルが巻き付き、そういった木は絞殺し状態になり、太い樹木でも立ち枯れます。このようなみすぼらしい林が宍塚ばかりか方々の林で見られました。

宍塚の自然と歴史の会が、地権者から草刈りなど林の管理の許可を得て、下草刈りを始めたのは1990年です。当時、地権者が見ず知らずの一般市民に、林に入って下草を刈ることを許すことなど、皆無の時代。画期的な試みでした。場所は池のほとり、宍塚を散策する人たちが通る林でした。ヤマツツジや山百合が乱れ咲く林にしたいと活動を開始しました。

1980年代初めごろ、県南に広く起こった松枯れが宍塚の林の様相を一変させましたが、この林でも、ふた抱えもある松の倒木が林の林床に縦横無尽に倒れていました。下草刈りは草刈り鎌で、倒木を片付けながらの作業でした。また、これらの作業に加え、隣接する林は孟宗竹が密生する竹林で、容赦なく竹が林に侵入してきていました。そこで侵入してきた約200本の孟宗竹の片づけも同時に行いました。

当時のことが書かれた会の会報「五斗蒔(ごとまき)だより」を見ると、月2回、「雑木林のフレッシュアップ」名で行ったことが記されています。

現在では、ボランティア「里山さわやか隊」の名で、やはり月2回(第2・4日曜日)、活動しています。今では約40人の地権者の了解が得られ、里山内の方々で林の草刈り、樹木の伐採活動を行っています。刈り払い機やチェーンソーを使って作業が行えるのは、労働安全衛生法に基づいた安全講習会で資格を得た人たちです。それ以外の人たちは林の倒木や落枝の片付けを行います。

会の活動には、学生、企業の人たちも参加していますが、彼らには安全を確保しながら、刈った草の片づけ、倒木の片づけなどを行っていただいています。(及川ひろみ)