日曜日, 4月 28, 2024
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《好人余聞》1 「ノーチラス」

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「ノーチラス」のマスターが描いたイラスト
オダギ秀さん

夏休みの暑い日。小学生だったボクは、亀城公園近くの、堀端にあったお船松という大きな松の木の傍でちょっと休んだ。公園の横には、高い石塀で囲われた拘置所があった。その近くを通るのは、子どものボクにはちょっと怖かった。だからその先の図書館を目指していたボクは、一休みしたのだ。

ボクは、その先の、警察署の前の木造二階建ての図書館で、毎日夢中になって、ジュールベルヌの「海底二万哩」を読んでいた。その本は、1870年という古典的なSFなのに、すごい性能の潜水艦が登場して、ワクワクする夢の冒険潜航を続ける話だった。ボクはその潜水艦に夢中になったが、その潜水艦の名前はノーチラスと言った。

そんな日のことを突然思い出したのは、「ノーチラス」という看板を見たからだ。懐かしさに、思わずドアを開けた。ジャズカフェ「ノーチラス」は国道沿いの目立たぬ店で、蝶ネクタイをした穏やかなマスターが、少しボリュームを上げたジャズを流しながら,香り高い珈琲を炒れていた。

「15年ぐらい前でしたか、たまたま阿見町でお昼を食べてる時に、ジャズプレイヤーの生クラリネットを間近で聴いたんです。素晴らしかった、感動しました。はまって通い始めましたよ」 語り始めたマスターの山本哲夫さんは、その頃、家業を継いで忙しく建材の販売をしていた。その彼が、仕事の傍ら、生のジャズにのめり込んでいったと言う。

ところが、そんな山本さんは、4年ほど前、大きな病で倒れ、入退院を繰り返した。「何もできない。コタツに入って、ただじっと、テレビを見て過ごす生活になりました」 参りましたよ、と山本さんは言うが、この、多忙の後に訪れた休息のような時間が、彼に、大きな転機をもたらした。

「何もできずゴロゴロしている私に、妻が、ジャズカフェの図面描いてみたら? って言ったんですよ。えっと思ったけど、図面を引き始めてみたら、これが楽しくて、楽しくて」

奥さんは、彼の気持ちを見抜いていたのだろう。病は辛かったが、病が、夢を実現に向かわせた。「ピアノを置く位置とか、スピーカーをどうするかとか、カフェのこと考えていると楽しくてねえ」

それで、このジャズカフェノーチラスが、2014年5月、オープンしたと言う。お店がオープンすると、彼は早速、ジャズライブもスタートさせた。「毎月、ライブしてます。すると、ジャズなんか聴いたことなかった人がファンになってくれたりして。回を重ねるごとに、順調に定着して行くのが嬉しくて」 山本さんは、たまらないという笑顔を見せた。

「ノーチラスって、オウム貝のことなんです。進化はしないけど、4億5000万年も生き続けている。しかも浮き沈みする仕組みは潜水艦と同じなんです。この店は、私にとっては今、ジュールベルヌの潜水艦、夢を載せてくれるノーチラスみたいなもんです」 山本さんは、艦長のような顔で笑った。

話を聴いていているうちに、ボクの珈琲がちょっと冷めた。でも、クラリネットの音色に包まれた珈琲は、やっぱり美味しかった。(オダギ秀)

▽ジャズカフェ「ノーチラス」:阿見町阿見79 電話029-887-0375

【おだぎ・しゅう】本名は小田木秀一。早稲田大政経卒。写真家。高度な技術に裏付けられたハートフルな写真に定評があり、県下写真界の指導的立場にある。専門はコマーシャルフォト全般およびエディトリアル。㈳日本写真家協会(JPS)会員、㈳日本広告写真家協会(APA)会員。水戸市生まれ、土浦市在住。

山本哲夫さん

《続・平熱日記》2 ちょっと朝ドラ的な感じで②

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斉藤家は明らかに女系家族。親戚の中でも珍しい男兄弟の私と弟。でもって、それぞれに娘2人。小さいころは夏休みの度に帰省して仲良く過ごしていた娘たちも、この10年余りはそれぞれの道を歩み出し会うこともなくなりました。

ところで、牛久で新築を手掛けるために我が家に弟が居候するところから、朝ドラ的な半年が始まるわけですが…。その手伝いを兼ねてしばらくぶりに弟の嫁さんが我が家を訪れたのを皮切りに、次女が就活で滞在し、長女がカナダから一時帰国で泊まるなど懐かしい顔で我が家はにぎわいました。

そして、家の完成も間近に迫ったころ、長く寝たきりだった母が亡くなります。斉藤家が久方ぶりに集まり、これで朝ドラ的な半年が幕を閉じると誰もが思いました。実は40年近く朝ドラを見たことがないのですが、朝ドラの肝は「つづく」ですね。いいところで「つづく」。

さて、母の葬儀も終わり家も無事完成。「おわり」と思いきや、「つづく」の字幕。「パパ、週末の予定は?」長女からのメールです。そんなこと聞かれたことがないのにと、いぶかりながら「特に予定なし」と返すと、「彼氏が挨拶に来たいって」。

週末、お洒落して出かける娘を見て、彼氏がいることはなんとなく分かってはいましたが、まさかの「ご挨拶」ときました。畳に正座、着物の袖に手を入れて腕組みし、緊張の面持ちの父―なんてイメージですが、現れたのはさわやかな好青年。かるーく挨拶をしてからの「結婚します」に「はい、どうぞ」。

近所の洋風居酒屋に場所を移し和やかに会食。朝ドラ的な半年の最終回はワインで乾杯する場面で「おわり」ました。めでたし、めでたし。

さて、やや微熱気味だったこの半年が過ぎ、いつものように犬のフーちゃんと散歩に出かけた折、ふと目に留まった白い花。お茶の花です。柔らかく小さな白い花。ちょいとつまんで持ち描くことにしました。どうやら平熱日記が続けられそうです。(斉藤裕之)

《邑から日本を見る》4 クナッパーさんのこと

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クナッパ―さん宅の縁側に置かれている作品

もみじが美しい晩秋のある日、大子町塙のゲルト・クナッパーギャラリーに行ってきた。ギャラリー開廊10周年を記念する「ゲルト・クナッパーの皿達展」を観たかったから。

クナッパーさんは私や東海村の村上達也前村長と同学年。ドイツで生まれ、アメリカで陶芸を学び、1967年に来日。栃木県益子で文化勲章を受章した浜田庄司らに学び、1975年に大子町に移住した。廃屋同然の庄屋屋敷を買い、膨大な量のカヤを集めて屋根をふき替え、明かり取りの半円窓を造り、和洋折衷の住まいとした。西脇には陶器を焼く登り窯を作り、長屋門も改造してギャラリーに、家畜小屋は工房にした。私が最初に訪れた時、クナッパーさんは屋根に上り、補修をしていたのでびっくりしたことを憶えている。

日本に来る前に世界36か国を回ったという彼は積極的に地域に入り、集落の道普請(みちぶしん)でスコップやツルハシで汗を流し、組内の葬式は夫婦で手伝った。結婚式は羽織袴。5年前に前立腺がんで亡くなったが、葬儀は神式だった。日本が大好きで、日本を愛し、「日本の作家だともドイツの作家だとも思わないが、日本人以上に日本を好きだ」と語っている。

大海原に揺れる波、静かに姿を変化させる砂漠の砂紋を思わせる、ひだのような独自の表現。そのきっかけとなったのは笠間で見た菊の花だと聞いた。菊への感動は、渦や螺旋(らせん)となり、表情をさまざまに変えていく。太陽や貝殻、時には人体のような造形を伴いながら、陶芸からブロンズ、白銅などさまざまな素材を使って増殖していく。

大自然の中から生まれた彼の作品は、来日後まもない1971年の陶芸展で文部大臣賞を、1986年には内閣総理大臣賞を受賞し、ドイツでも功労勲章を受け、駐日ドイツ大使も大子を訪れている。こうして、日本とドイツで不動の地位を得てきた。

作品展は日本国内だけでなく、故郷のドイツをはじめ、世界各国で開かれ、日独、東と西の懸け橋の役割を果たしてきた。その作品はギャラリーで見られるが、大子町の湯の里大橋や月居トンネルの出入り口壁面、やみぞホテルのホールと大浴場、那珂市立図書館、常陸大宮市の済生会病院など各地にある。

問題なのはこれからだ。長屋門に陳列してあった作品は、大半があの3・11の地震で粉々になってしまった。残された広大な屋敷を妻のキエ子さんと2人の娘が守っている。大子町を国の内外に広め、ここから陶芸文化を世界に発信してきたクナッパー邸。これを維持していくのは大変なことだ。公的な機関の支援が欠かせないと改めて考えている。(先崎千尋)

▽ゲルト・クナッパーギャラリー:大子町塙1222 電話0295-72-2011

今回の展示は26日まで。企画展以外は予約制。

《食う寝る宇宙》2 宇宙の防人

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9月6日11時53分(UT)に、活動領域2673(SO9W30)でX9.3フレア(12時2分=UT=に最大、12時10分=UT=に終了)が発生しました』

「なんてこった…」僕はこれから起こりうることへの恐怖と興味により、何とも表現しづらい感情と湧き出るアドレナリンを感じていました。

宇宙天気臨時情報のメールが自宅のパソコンに届いたのは、2017年9月6日21時40分(日本時間)。僕は即座にアメリカの静止気象衛星GOES(Geostationary Operational Environmental Satellite)のデータにアクセスし,太陽からのエックス線の強度トレンドをチェックしました。

「通常の1000倍の太陽フレアが発生した」

発生場所はどこだ?太陽面の中心付近か…。エックス線のトレンドから判断するに、コロナ質量放出現象も伴っているな。地球への直撃コースじゃないか。あと30分で放射線が来る。まずいな…。妻にちょっと出かけて来ると言い残し、人工衛星の運用室へと向かいました。

上記は、限りなくノンフィクションな「フィクション」です。実在の個人,団体とは関係ございません(お察しください)。

この現象はメディアでも大々的に報道されました。しかし、メディアがこの現象を知り、報道されはじめたのは、発生から約17時間後でした。幸い、この時の現象が私たちの生活に影響を及ぼすことは、ほとんどありませんでした。聞こえてくる情報としては、GPSの誤差が通常より大きくなった事、海外の人工衛星で軽微な障害が発生した事くらいです。

少し語弊がある言い方(専門家に怒られる)をしますが、太陽から放出されたガスの塊の「磁場の向き」が偶然、地球が耐放射線バリアを張るのに都合がよかったために救われたのです。怖いのは、影響がほとんどなかったのは「運がよかった」に過ぎない点です。

僕は、宇宙の天気を日々気にしています。「今日は晴れるかな?」「洗濯物は乾くかな?」と同列に「今日も人工衛星は無事かな?」と考えています。

2017年10月に新潟市で開催された第61回宇宙科学技術連合講演会にて、「衛星運用現場の宇宙天気アナリスト」なる職域を宣言して参りました。いわば宇宙の防人(さきもり)です。宇宙天気の新たな時代が始まりますので、「宇宙天気」というワードにご注目を。本コラムでは「宇宙天気」ネタが時々登場します。(玉置 晋)

《つくば法律日記》1 Windows95以降の証拠

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堀越氏の弁護士事務所があるつくばセンタービル
堀越智也さん

最近、某芸能人がポケベルという言葉を使うものだから、ポケベル以降の電子端末の移り変わりを年表のように、だけど、そこはかとなく振り返ってみた。

パソコンOSのWindows95が発売された1995年と言えば、野茂英雄投手がメジャーに渡り活躍した年。秋葉原のキヨスクには「野茂〇勝目」というタブロイド紙の見出しが現れ、日本人の通行人を勇気づけた。キヨスクのすぐ隣には、総武線のホームであるにもかかわらず、Windows95を買おうと行列ができていた。

それが世の中を大きく変える出来事だとは、大学1年の自分には全く分からなかった。その3年後にまだワープロを使っていたのだから。そんな自分も、ポケベルや携帯電話は友人よりも早く使い始めた。別に自慢できることではない。自分だけ茨城という遠方に住んでおり、携帯端末を使って友人との距離を埋めたかったからだ。

初めて買ったJ-phoneの携帯電話は、今の携帯電話に比べてずっと重い上に、通話機能しかなかった。しかないと言っても、電話なのだから通話機能しかないのが当たり前。何度か機種交換をしているうちにメールも送れるようになり、なんて便利な機能かと驚いた。

ほぼ同時期に、パソコンのダイヤルアップ接続が過去のものとなっていき、インターネットを利用するストレスが緩和すると、パソコンのメールを使用する頻度も増えていく。

21世紀に入って、携帯業界の競争の激化とともに、その機能が急速に発達する。その発達の産物のように現れたのがSNSだった。僕の場合、mixiから既にSNSという新たな社会にも居場所をつくった。その後、twitterやFacebookにも住まうことになる。メッセージ機能があり、それなりに利用するが、これらにLINEでのやりとりも加わる。

こうして、人と人の気軽な会話も、重い内容の会話も、消えずに残ることが自然となる。これは、裁判で提出できる証拠が増えることを意味する。今では当たり前のようにメールの履歴が証拠として提出されることになった。以前の弁護士はメールの証拠がなくて大変だったろうと思う一方で、20年後の弁護士は今の僕らに同じく同情するのだろう。

Windows95登場のころから振り返ると、この複雑な世の中を少し整理できるというのは嘘ではなさそうだ。(堀越智也)

【ほりこし・ともや】土浦一高校卒。法政大法学部卒。茨城県弁護士会所属「つくば中央法律事務所」代表弁護士。つくばコミュニティ放送株式会社代表取締役。離婚、相続、中小企業・ベンチャー企業、借金の問題、交通事故、成年後見等民事全般、著作権、刑事事件を主な業務とする。筑波大アソシエイトプロフェッサー、スピードリーディングインストラクター。東京都出身、つくば市在住。42歳。

《宍塚の里山》3 収穫祭&案山子送り

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宍塚の自然と歴史の会主催の収穫祭&かかし送り(2016年)

里山が秋色に包まれる季節になりました。大池には、はるかシベリアからやって来たたくさんのカモたちが羽を休め、林には冬を過ごすために里山にやって来たマヒワやカシラダカなどの小鳥たちが、安住の地にやって来た喜びなのかにぎやかに鳴き交わし、林の梢をせわしなく飛ぶ姿が見られます。

11月26日(日)は、宍塚の自然と歴史の会にとって最大の祭り「収穫祭」の日です。里山で収穫したもち米、マンゲツモチで餅をつき、地元の方に教わったヌッペ(するめをだしにした、地元のおばあちゃんから「合格だっぺ」のお墨付きが出た野菜汁)、里山のクルミを使った柚餅子(土浦4中科学部の生徒達が作っています)、大学芋、焼き芋、カボチャの蒸しパン(法政大の学生たち「キャンパスエコロジーフォーラム」が自然農で栽培)などが「食べるコーナー」並びます。

そのほか、里山の赤や青、黄色の草の実・木の実を飾ったリース、正月飾りなどを創る「クラフトコーナー」。竹馬、お手玉、げんこなどの「里山遊びコーナー」。地元農家の庭にたわわに実った柚や里山で収穫したサトイモなどの「直売コーナー」。そして、祭りを盛り上げる、オカリナ、お琴、太鼓が里山に響きます。

餅つき、ヌッペ、クラフト、遊び、どのコーナーも、ベテランとともに活躍するのが子ども達、若者達です。地元の方が教えてくださる「なわない」。はまる子どもが必ずいて、子どもが作るものを見て、他の子も思わず手をだし、好きなことをゆったりと楽しみ、里の幸を味わうひと時です。

地元の方には一軒ずつ、ご一家用の招待状を届けています。毎年大池がよく見える場所に地元の方用のテントを準備、大勢の方の団らんのひと時になっています。

準備も片づけも、法政大の学生が力を発揮します(彼らは2002年から毎月里山で活動しています)。収穫祭が終わると、間もなく雑木林の木々は葉を落とし、日の光が林床に当たり、小鳥たちの姿も確認しやすくなります。

自然と歴史の会では、3種類の田んぼに関する活動を行っています。親子で春から楽しみ、学んだ「田んぼの学校」、刈り取った稲の脱穀も終わり、田んぼにはかかし達がさびしく立ち並んでいます。頑張って田を、稲を守ったかかしを天に送る行事「かかし送り」(お焚きあげ)を12月初めに行います(今年は9日)。

8月、親子で竹を組み、色とりどりの衣装を着せたかかしに、親子で竹を組み、色とりどりの衣装を着せ、形も思い思いのかかしに、感謝を書いた短冊をつけ燃やします。火の周りでは歌ったり踊ったり、焼きミカン、焼きリンゴ、焼き大根、焼きいも、それに篠竹につけて火にあぶった篠竹もち、マシュマロ…、いろいろ焼いていただきます。初冬の親子の集いです。(及川ひろみ)

▽収穫祭、かかし送り、どなたでも参加できます。

会のホームページhttp://www.kasumigaura.net/ooike/をご覧ください。

《ひょうたんの眼》1  他の尊ぶものを尊ぶ ユネスコ

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高橋恵一さん

文化の日、文化勲章、様々な文化祭、秋空に映える銀杏並木、紅葉と読書、芸術祭とくると、なんとなく誰もが文化人を気取れそうな季節だ。文化といえば、国連教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)もある。

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」で始まるユネスコ憲章は、2度の世界大戦が諸人民の無知と偏見が相手に対する差別と不公正を生み出したことにより可能になったとして、人類の知的及び精神的連帯の上に築く永続する平和を謳っている。憲章は1945年11月に採択され、国連機関として1946年11月4日設立された。日本国憲法公布の翌日になる。

第1次世界大戦の前までは、人々が無差別に戦争に巻き込まれることは少なかった。武器にしても、銃剣、大砲の類で、人間がコントロールしながら使っていた。しかし、第1次大戦中に戦車、毒ガス、飛行機からの爆撃が登場し、武器の破壊力、殺戮力は飛躍的に発達し、新型兵器の脅威を克服できないまま、第2次世界大戦に突入。ロケット、潜水艦、そして原子爆弾が登場し、人間にはコントロール出来なくなり、市民の生活の場が破壊され、無数の一般市民が老若男女の別なく犠牲になってしまった。

コントロールできない以上、次の大戦争で人類が破滅することは明らかであり、破滅を避けるために、国連ができ、ユネスコが設立された。日本国憲法もその流れの中で日本人が手にすることができたといえる。

ユネスコは、政府間の政治的及び経済的取り決めに基づく平和では安心出来ないとして、自らを諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて国際平和と人類の共通の福祉を促進しようとする機関としている。さらに、その目的を実現するための第一に掲げられているのが、諸人民が相互に知り且つ理解することを促進するマスコミの役割への期待である。

我が国は、国連加盟に先んじて、ユネスコへの加盟が認められ、平和を求める心の連帯は、市民運動としても普及した。最近は、世界遺産ばかりが取り上げられ、一流観光地のお墨付きみたいに扱われ、報道されているが、それぞれの「遺産」の地域的、民族的、歴史的存在を理解し尊重することが要であり、他の地域の者が評価できるものではあるまい。「他の尊ぶものを尊ぶ」ユネスコの平和のための活動をどう支持するか。メディアの基本姿勢を問うてみたい。

最近、権力への忖度がやたら目立つ大新聞・TVに対して、「NEWSつくば」が、小なりとは言え、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理の上に立ち、表現の自由を守るメディアとして活動することに期待している。(高橋恵一)

【たかはし・けいいち】土浦一高卒、中央大経済卒。茨城県庁に入り、知事公室長、生活環境部長などを歴任。この間、明野町(現筑西市)、土浦市に助役で出向。県庁退職後、オークラフロンティアホテルつくば社長(2006~11年)、JA茨城県厚生連理事長(11~16年)。現在NPO法人NEWSつくば理事。土浦市生まれ、同市在住。71歳。

《土着通信部》 1 「十王図を読む」を聞く

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相沢冬樹さん

一般財団法人つくば里の文化(根本健一代表)による「近世の仏教絵画里帰り展」が19日まで、つくば市吉瀬で開かれた。つくば文化郷・ギャラリーなが屋門に吉瀬地区ゆかりの仏教絵画10幅などを展示した。これらの絵画はふだん同市の桜歴史民俗資料館に保管されているが、公開の機会がほとんどないことから曝涼を兼ねての里帰り展となった。

ギャラリーのある旧根本家住宅は、2015年に国の有形文化財に登録となり、管理のための財団設立などを経て、文化財として活用する方策が整ってきた。そのお披露目を兼ねての記念事業が同展で、17日には茨城民俗学会長、今瀬文也さんを招いての講演会「十王図を読む」が行われた。

「十王図」は、平安時代の僧、源信が著した『往生要集』に記された地獄や六道の様子が原典。絵画の部分だけ抜き出して掛け軸としたことで、江戸時代以降、民間に広がった。一般には10枚の十王像と地蔵像の1枚で構成され、お寺では盆や供養の後、十王図を掛け、説法に使われた。

吉瀬地区には年代不詳ながら江戸中期に入ってきて、鹿島神社に奉納され、集落の念仏講の席に掛けられてきた。神仏習合である。作者も不詳だが、1枚に2王ずつ配した5幅と地蔵像の組み合わせの掛け軸は、明治と昭和に村民の手で軸装が改められたことが記されている。

十王図じたいは近世社会にはどこにでもあったもので、文化財としての希少価値には欠ける。「それでもこれだけ保存状態のいいのは珍しい」と今瀬さんはいう。大の閻魔(えんま)好きである今瀬さんは「閻魔さんの顔はやっぱり赤くないと」と色彩の鮮やかさをほめるのである。

そう、十王図は閻魔大王はじめ冥界の十王が登場し、忿怒(ふんぬ)の形相で死者の群れを裁く地獄絵だ。罪深い亡者は虫けらのように小さく描かれ、繰り返し地獄の責めを受ける。釘を打たれ、火に焼かれ、痛々しい様が延々と続く。

初七日の秦広王に始まり、七日ごとに初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王と来て、四十九日が泰山王、百ケ日の平等王、一周忌の都市王、三回忌の五道転輪王で十王となる。三途の川や奪衣婆(だつえば)、閻魔帳など地獄模様も織り込んで、生前の行いが地獄の沙汰に通じると殺生や盗み、不倫などを「いましめ」つつ、遺族には回向の大切を説く構図となっている。

冥土で怖い形相で亡者を裁く役目を果たす十王は、実は本地の菩薩様の形を変えた姿であるというのが信心の救いになっている。衆生済度。閻魔王は、地蔵菩薩の化身として考えられており、地蔵像の1幅が十王図と対になる所以ともなっている。

僕なんぞにはなかなか立ち入れない、地域社会の奥深いメンタリティーの根源をのぞき見するようでもある。冥界の王に申し開きは出来ぬから、今のところはすごすごと引き返すしかない。(相沢 冬樹)

▽つくば文化郷:つくば市吉瀬1679-1 電話029-857-3355

【あいざわ・ふゆき】1953年土浦市生まれ。常陽新聞(旧社)に在籍もキャリアは1999年まで。辞めて18年も経つのに周囲も自分も記者扱い・記者気分が抜けない。この間地域政策コンサルタントを経て、現在は地元財団の発行する機関誌でパートタイム編集長を務める。記事はもっぱらブログ「重箱の隅に置けない」に書いている。http://fykai.blog.fc2.com/

《吾妻カガミ》18 幻の副市長 瀧本徹氏を偲ぶ

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都賀俊雄氏作の「つくば焼」

10数年前に茨城県商工労働部長をしていた瀧本徹さんが、11月上旬亡くなった。56歳だったから、私よりも一回り以上若い。一部全国紙の訃報では主職歴が「元九州経済産業局長」となっていたが、エネルギッシュな経産キャリアだった。合掌。

学園都市の田舎議会

新聞経営を引き受けて土浦に戻ったころ、瀧本さんは県の部長をしていた。仕事の延長でベンチャー育成に強い関心を示し、その芽がころがっているつくばによく来ていた。県庁がある水戸にいる時間よりも、在つくばの方が多かったのではないか。県の部長というよりも市の部長という感じだった。

当時の藤澤順一つくば市長は、彼の思い入れを市政に取り込もうと(もちろん本人も承知)、副市長に迎える人事案を議会に諮った。ところが市議会はこの案を否決、藤澤・瀧本コンビは実現しなかった。藤澤さんの議会工作が十分でなかったこともあっただろうが、学園都市の田舎議会には呆れた。

「つむぎつくば」というNPO法人があった。ベンチャー育成を目的とする組織で、瀧本さんも運営に深く関わっていた。有望な起業家を毎年選び、賞金を与え顕彰していた。私も、放電によるプラズマ現象を利用して焼いた壺「つくば焼」(都賀俊雄氏作)を副賞として出した。作り方にサイエンスを感じたからだ。

ベンチャーの卵たち

表彰式の後のパーティーは楽しかった。起業家の卵たちの飲み会だから、テクノロジーの話が多く興味が尽きない。私の関心はマネージメントにも向けられたが、理系の彼らは一様にこちらの方で苦労していた。

出席者の中に、筑波大発ベンチャーのシンボル的存在、山海嘉之先生(ロボットスーツのCYBERDYNE社長)もいた。大和ハウス工業がまだ出資していなかったころだから、初々しい起業者の一人だった。今やCYBERDYNEは、技術(山海先生)+資本(大和ハウス)によるベンチャーの成功事例になっている。

瀧本さんを慕い行動を共にしていた人たちの中に、花山亘筑波出版会代表もいた。彼には新聞紙面を提供、地域のいろいろな起業家を紹介するコラムを連載してもらった。瀧本さんが愛媛県の松山市長選に出馬したときは(結果は落選)、応援に駆け回った。訃報を知らせてくれたのはその花山さんだ。

常識的に県部長⇒副市長人事は格下げであり、役人の世界ではあまり聞かない。当時の橋本昌知事は思いとどまらせようとしたようだが、瀧本さんはポストや肩書きよりも仕事の面白さを選んだ。血が騒いだのだろう。享年56歳。私が地元に戻った歳であり、やり残したことが随分あったと思う。(坂本 栄)

《郷土史あれこれ》1 つくばには博物館がない!

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つくば市に隣接する土浦市の博物館
栗原亮さん

昭和40年代、茨城県内では多くの博物館が建設された。県が設立した県立歴史館、市町村では水戸市立博物館、日立市立博物館、土浦市立博物館、土浦市立考古博物館、かすみがうら市歴史博物館、古河歴史博物館など。そのほか、北茨城市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)、那珂市歴史民俗資料館、龍ケ崎市歴史民俗資料館、稲敷市歴史民俗資料館、八千代町歴史民俗資料館などがある。

博物館は、歴史に関する古文書、古写真、考古資料など様々な資料を保存し、後世に伝えていく役割も持っている。その意味で、過去、現在、未来にわたり、われわれの歴史的体験を大人から子どもまで伝えていく役割を持っている。現在に生きるわれわれは歴史の一コマを生きていくのであり、決して無に過ごしていいわけではない。歴史資料を後世に伝えていくことは、一人一人の生きる責任とでもいうべきものであろう。

歴史資料というと、貴族や武士、庄屋などが保存してきた資料だけではなく、庶民の家にはその家に関する資料が多く残されている。だが、こうした資料に関心が向けられることはなく、家の改築の際に処分され焼却されたりすることが多い。これは歴史教育が政治史や経済史に偏るとか、歴史への関心の低いことが原因であろう。

博物館のある市町村以外に、郷土資料館のある市町村もあるが、その規模は大きくなく、収蔵倉庫も小さく、貧弱なものである。問題なのは、つくば市である。

つくば市は学園都市と言われ、多くの留学生が住み、今や国際都市である。にもかかわらず、博物館は一つもなく、旧谷田部町などに郷土資料館があるのみ。常時公開されているわけではない施設もあり、規模も小さい。つくば市に国立公文書館つくば分館はあるが、歴史資料を保存し公開する施設がないのは、いかがなものであろうか。市議会議員からも、博物館建設を訴える話も聞こえてこない。

江戸時代、つくば市には大名がいた居城(城跡)はなく、いわば在村であり、消費都市江戸を支える農村であった。その関係で武家文書はほとんど残っていないが、多くの村方文書が残っている。昭和40年代、立正大学古文書研究会が桜川流域の江戸時代の古文書調査を行ない、現地の公民館でその内容を公開してきた。この研究会は、村方文書を東京の国文学研究資料館や博物館に移管するのではなく、資料を現地に残し活用するという方針で活動してきた。

その村方文書が危機に晒されている。個人所有だと保存に手が回らず、土蔵が壊れて古文書がダメになる。こうした古文書を博物館に移管し、修復を加え長期保存し、公開していくことを、つくば市の教育委員会や市長、議員の方々に強く訴えたい。(栗原亮)

【くりはら・りょう】土浦一高卒、中央大経済卒。1976~2010年、霞ケ浦高で世界史と日本史を担当。「新治村史」「図説 土浦の歴史」「牛久市史」「八郷町史」の編纂に参画。旧常陽新聞で「江戸時代とは何か」を連載。著書に「忠臣蔵の真実」(常陽新聞新社、2012年)、「近世村落の成立と検地・入会地」(岩田書院、2013年)。土浦市出身・在住。71歳。

《続・気軽にSOS》2 悪い習慣、良い習慣

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私は10年ほど前にギターを買い、マイペースに気軽に弾き続けています。それまで、草野球チームに属していたのですが、30歳を超えるぐらいになってくると、試合をする人数が集まらなくなってきました。その後、一生の趣味があると良いなと思っていて、いくつかの候補の中から選んだ趣味が、ギターでした。

半分冗談で、そのうち、高齢者施設に弾きに行けるぐらい上手くなれたらなあと思いながらも、絶対無理だろうなとも思っていました。カラオケに行って歌いながら手拍子をすると、自分だけ手拍子がずれていくというぐらいリズム感がありませんでした。楽器というものは、持って生まれたセンスがある人が出来て、ない人は出来ないものなんだと思っていましたから。

一万時間の法則という話を聞いたことがあるでしょうか?大雑把に言うと、長い時間を費やすと出来るようになるといったところでしょうか。私は、ギターにその数十分の一しか費やせていませんが、高齢者施設や児童施設にギターを持って訪問し、演歌や童謡、アニメの歌を施設の利用者と一緒に歌えるぐらいにはなれました。まだ、下手の横好き程度のレベルなので、もっとうまくなりたいと思っています。

今まで何人も、ギターが弾けるようになれたらいいなと、私に言ってきた方がいます。しかし、その中でギターの練習を始めた人は、ほんの少しです。始めて長続きしない人もいます。しかし、全く始めずに、繰り返し、ギターが弾けるようになればよいなと言っている人もいます。

当たり前ですが、ギターを弾けるようにならなければいけないと、私は考えていません。人はそれぞれで、いろいろな生き方があります。なので、生活の中で優先順位がありますから。趣味でギターを始めるよりも、大切なことを選択して、毎日の生活を送ればよいのです。出来れば、楽しい人生を送ってもらいたいものです。

しかし、やりたくもない事だけど、やらなければいけない事だから、仕方なくやっている事がある。そのせいで忙しいから出来ないと考えているのであれば、勿体ないなと思います。やらなければいけない事と思っていても、本当は、やらなくても良い事をたくさんしているのが私たち人間じゃないかなと考えています。

それが趣味のギターであれば深く考える必要はありません。しかし、健康のためにやせるように医者に言われている、家族のために時間をつくりたい、嫌なことばかり考えないで楽しい事を考えたい、本当にやりたいと思っていることが出来ないなど、深刻なことでさえ何となく忙しいからと後回しにしていないでしょうか。

このような状態が酷く続くときは、心の病になってしまう事さえありますから、本当に心配です。それぞれが思う良い習慣に変えて続けることのヒントを、皆さんと考えていきたいと思います。(浅井 和幸)

《泳げる霞ケ浦へ》1 世界湖沼会議まであと11カ月

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泳げる霞ケ浦市民フェスティバル(2007年)

2018年10月中旬開催の第17回世界湖沼会議(県など主催)まで、あと1年を切りました。関係者のご苦労は大変なことと思います。私自身も22年前、初めての湖沼会議に向け、企画委員として身も心もぶっ飛ぶような嵐の日々を経験したからです。

閉会時のあの感動から22年。長いようで短い年月でした。3年前、一般社団法人霞ケ浦市民協会の会議で「最近、霞ケ浦の水質や浄化について、市民の意識が少し薄れてきているのではないか。市民協会が発足したころの情熱を復活できないだろうか…」と発言したところ異論がなく、会議再誘致に向け関係先に働きかけようということになりました。

前回、1995年の第6回会議のときには、「市民参加」をキーワードに「世界湖沼会議市民の会」を設立。霞ケ浦への関心を高めるために、交流・啓発を中心とした数多くの事業を寝食忘れる忙しさで実施しました。

私は環境グループ代表として関連の事業をリードしましたが、会議では女性参加の重要性を強く感じました。会議には8200名余もの参加があり、当初の目的を達成できました。

閉会式では「霞ケ浦宣言」が採択されましたが、この宣言は格調が高く、市民グループにとっても大変有意義なものでした。この精神を継承し、市民の英知・情熱を結集する目的で結成されたのが社団法人霞ケ浦市民協会です。

でも22年も経つと、その精神も忘れがちになります。「霞ケ浦の浄化は行政の役目だ」と考える人も多くなった気がします。確かに県は、この会議を機に「霞ケ浦環境科学センター」をつくるとか、「森林湖沼環境税」を制定するとか、多くの施策を実施してきました。特に環境税は、霞ケ浦などを意識してその名称に「湖沼」が入りました。

問題は、「霞ケ浦宣言」の精神に経年劣化がみられ、センターや環境税などの施策についても県民の理解が不足していることです。市民協会は県担当者に会ったとき、①森林湖沼環境税の「見える化」を図るべきだ②湖沼会議再誘致は県民の環境意識啓発に役立つ―と話しました。今度の会議では、市民活動の結果も県が報告するよう伝えてあります。

われわれの努力もあり、橋本昌前知事は再誘致を決断、つくば・土浦地域での第17回世界湖沼会議開催が決まりました。招致運動を進めてきた市民協会には会議を盛会裏に終わらせ、県・国内の湖沼を恥ずかしくない遺産として子孫に残す義務が再び両肩にのしかかっています。(堀越昭・霞ケ浦市民協会初代理事長)

【かすみがうら・しみんきょうかい】1995年の世界湖沼会議で採択された「霞ケ浦宣言」の理念を継承し、「霞ケ浦及び流域環境の浄化・保全及び創造をめざす市民活動を推進し、人と自然が共生できる快適で文化的な地域社会を構築する」ため、翌96年「社団法人霞ケ浦市民協会」として発足。2013年一般社団法人に。

コラム《泳げる霞ケ浦へ》は市民協会のメンバーが輪番で執筆します。

《つくば道》1 「我田引鉄」に想う

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塚本一也さん

つくばエスクスプレス(TX)の延伸について、様々な場面で話題に上ることが多くなりました。特に、最近の選挙においては東京駅への延伸よりも県内の延伸について言及する候補者が目立ちます。明確な目標を提示することができれば、県民を勇気づけ、地域活性化のカンフル剤にもなるため、茨城県が人気度ランキング最下位からワンランク上にステップアップするためにも必要不可欠であると思います。しかし、あまりにも荒唐無稽で現実離れしたプランは、かえって専門家や一般市民から「絵にかいた餅」という冷ややかな評価を受けることになります。

例えば延伸を議論する場合に技術的見地から言えば、在来線で130㎞運転を維持するための線形や設備の問題を考慮しなければなりません。また柿岡(石岡市)にある気象庁地磁気観測所に対して影響を与えるため、県南地域では直流電源の鉄道は運行が制限されてきました。そのためTXは高価な交直両用電源を採用していますが、常磐線は快速電車の土浦乗り入れがかなわず、民鉄の進出や電化にも大きな障害要因となってきました。このような条件を理解したうえで、公共交通の将来計画を立てることが一般社会の理解や共感へとつながるのではないかと思います。

近代の茨城県は、鹿島臨海工業地域開発、筑波研究学園都市建設、常陸那珂地区開発などの歴史に残る国家的プロジェクトを実現させてきました。また1980年には国際博覧会としては大阪万博、沖縄海洋博に次ぐ日本で3番目のつくば科学万博を成功させたという実績もあります。それぞれのプロジェクトには、国策として国家の繁栄に貢献するという明確な大義があり、それによって当該地域のみならず、県全体が一丸となり目標に向かって邁進(まいしん)し、関係行政庁の協力も得ることができたのです。

つまりTXの県内延伸を可能にするのは「我田引鉄」ではなく、誰もが納得する大義を確立することにあるのです。例えば、常陸那珂港開港に向けては「海の無い栃木・群馬に港を開く」という大義の下、北関東3県がスクラムを組んで難色を示す運輸省港湾局(当時)を説得したという過去の事例があります。

それに倣えば、TX延伸は常磐線のバイパス機能の付加という役割だけでなく、茨城空港への乗り入れを計画し、首都災害を想定した羽田・成田のバックアップ機関としての機能を主張すべきです。このプランは千葉県内の同一沿線である東葛地域にも多大なメリットをもたらすことになります。さらに震災の復旧以降、国策的な大型インフラプロジェクトの無い水戸・日立・いわきなどの浜通り地区に空港直結・都心への時間短縮という一筋の光明をもたらすのではないでしょうか。(塚本一也)

【つかもと・かずや】1965年つくば市生まれ。土浦一高卒、東北大学工学部卒、筑波大学大学院修了。一級建築士。大曽根タクシー(株)取締役社長。元JR東日本グループリーダー。茨城県ハイヤー・タクシー協会経営研究会会長、つくば市花畑自治会長。著書に「つくばエクスプレス最強のまちづくり」(創英社 三省堂書店)

《くずかごの唄》 2  河童から教えてもらった水のこと②

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世界湖沼会議をきっかけにして、私たちは「水郷水都全国会議」を結成し、年に一回現地見学と市民交流をつづけている。土浦の自然を守る会は、以来、河童(かっぱ)と仲良しになり、未来の人類とのつながりを念じて、河童の扮装(ふんそう)をして子どもたちの環境教育に力を入れている。

私の弟の加藤尚武(京都大学名誉教授・環境倫理学)は著書「環境倫理学のすすめ」の中で、「いかなる世代も未来世代の生存可能性を一方的に制約する権限をもたない」と書いている。

ヱルザ自然保護の会の藤原英司さんは、日本の河童伝説の原点は江戸時代にどこの川にもたくさんいたカワウソがモデルだと教えてくれた。カワウソは何年か前、残念ながら日本から絶滅してしまったが、モデルの存在が解ったので、私たちの劇も、カワウソにウソだといわれないように、楽しいものにすることができた。

「河童」のような架空の動物が全国的に存在し、それぞれが個性的に水の問題に深く関わってきた日本の歴史は、外国人たちからみると、かなり面白い存在として興味をもたれた。

世界湖沼会議は、日本の地域をいろいろな国の人に知ってもらい、その人たちから新しい水の知恵をいただく地域起しの会だと私は割り切っている。

現在、WTOでトリインフルエンザの世界的な権威、ケイジ・フクダ氏の父福田実さんは土浦の人。アメリカで、州の医師会会長などもして世界中を飛び回っていらした。学会などで日本に来ると、土浦にお寄りになり、私の車で、霞ケ浦の沖宿あたりの花の咲いた蓮根畑を見に行くのをとても楽しみにしていらした。

「ハス田のこのひろがりは日本一ですね」と私が言ったら、「霞ケ浦の沖宿のあたりの蓮根の風景。これは日本一ではなくて世界一です。世界の人たちに見せたい日本の風景ですよ」。霞ケ浦には世界一の風景もあるのだ。(奥井登美子)

《続・平熱日記》1 ちょっと朝ドラ的な感じで

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斉藤裕之さん

お久しぶりでございます。早朝画家の平熱日記、半年ぶりの掲載再開でございます。半年前といいますと、常陽新聞休刊の知らせを受けたころ。行き掛かり上、牛久市在住の友人マヨねえ宅の新築を山口に住む大工の弟が請け負うことになって、私もその手伝いを始めようとしていたところだったと思います。

初めて読んでいただく方に少し丁寧に説明しますと、この友人は体脂肪率40パー越え。つまり体の成分はマヨネーズ。しかも体形がマヨネーズの容器にそっくりなので、マヨねえというニックネームをつけさせていただいた極めて健康体の友人であります。

しかしタイミングというものはあるもので、休刊になってからのこの半年はこの新築工事で忙しく、平熱で日記などしたためている余裕などありませんでした。毎日足場を上り下り、運動部の合宿さながらのような毎日。夏の間、滝のような汗をかき、おかげで筋肉はつくわ、血圧は下がるわ。

完成に向けて家は日々刻々とその姿を変えつつも、今となっては笑い話のような想定外の事態が間々起こります。例えば、弟が丹精込めて刻んだ材を載せたトレーラーが到着した時。道幅が狭いわけではないのですが、トレーラーが長すぎて現場までの角を曲がれないことが判明。

さてどうしたものか。この辺りの話は後で小出しにすることにして、とにもかくにも9月末には無事完成。木の香りのする室内。「住み心地が良くてお風呂も最高!」って、マヨねえが喜んでくれているのを見ると、大変だったこともよき思い出。

ちょうどそのころ、常陽新聞がWEB上で復刊するので、「平熱日記」を再開して欲しいとの連絡があったというわけです。ただでさえ工事でいっぱいいっぱいのこの半年間に、弟一家を含めた斉藤家には何年分かの出来事が次々と起こることとなります。ちょっと朝ドラ的な感じで。

追伸。19日まで、牛久市のタカシサイトウギャラリーにて「平熱日記Vol.7」開催中です。(斉藤 裕之)

【さいとう・ひろゆき】1961年、山口県生まれ。東京芸術大学大学院後期博士課程満期退

《邑から日本を見る》3  先の衆院選で分かったこと

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自民党が圧勝した総選挙が終わって3週間。選挙の経過や結果をめぐっての論調が出そろい、何がどうしてどうなった、ということがあらかた分かった。今回はそれらを読んでの私の感想を書く。

まず経過のおさらい。

電撃解散、大義なき解散。いろいろ言われているが、安倍さんは自分なりに計算しつくしての解散だった。民進党がバラバラ、小池東京都知事が国政に入り込みそうだ。北朝鮮の挑発は続いている。森加計問題は収まらない。内閣支持率は落ち込んでいる。解散を先延ばしすれば自民党の議席は確実に減る。今しかない。

しかし、小池さんと民進党の前原さんが突然希望の党を結成し、希望の党が民進党を丸呑みしようとした。そして、小池さんの排除発言で民進党は三つに分裂し、結果は枝野さんが一人で立ち上げた立憲民主党が55議席を獲得し、野党第一党になり、小池、前原の「希望」は「絶望」に変わってしまった。

自民党と公明党の与党は合わせて315議席を獲得し、前回に続いて3分の2超を確保した。「手を合わせて拝みたいくらいの数字だ。希望の党に感謝したい」と自民党の最高幹部が言ったそうだが、安倍さんの思惑通りの結果となった。

次に、今回の選挙で分かったこと。

投票率が53・68%。投票日に台風が日本を襲ったこともあるかもしれないが、とにかく低い。それは、国民の間に「議会制民主主義はもう機能していない」ということが浸透していたということであろう。安倍首相は国会でやりたい放題。総理が立法府の長だと言い、国会で野党の質問にヤジを飛ばし、詭弁を弄し、答弁をはぐらかし、ことが面倒になると強行採決をし、解散し、召集を先送りし、国会が役に立たない機関であると国民に思い込ませてきた。

立法府が「国権の最高機関」としての威信を失えば、行政府が事実上国権の最高機関となり、官邸の発令する政令が法律に代わる。最近の裁判の事例を見れば、司法ですら行政の思うままにコントロールしている。すべてが官邸の意のままに動く効率的な「株式会社」のような統治システム、社会システムとなってしまっている。

若者の多くが自民党支持という背景にも、このシステムが機能していることが挙げられる。若い人たちは「株式会社」のような制度しか経験したことがない。トップが方針を決めて、下の者はそれに従う。小池さんの都民ファーストもまったく同じだ。小池さんは希望の党もそうしようともくろんだが、残念ながら多くの有権者にその意図を見透かされてしまった。それでも「ガラスの天井は破ったけれど、鉄の天井があった」と、自分の責任は棚上げにしてそううそぶく。(先崎 千尋)

《食う寝る宇宙》1 宇宙に恋して宇宙が栄養

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玉置晋さん

「あ~、ウチュウが足りねえ」。たぶん、僕にとってウチュウは栄養素の一つなのかもしれません。

はじめまして、玉置晋(たまおき・すすむ)と申します。生まれは水戸、住まいは土浦で、仕事はつくば、とディープな茨城人です。仕事とパラレルワークしながら、2017年4月から放送大学大学院修士課程の学生となり、「宇宙天気」の研究をはじめました。

宇宙天気についてはいずれ語りますが、このコラムでは僕のウチュウへの関わりを中心に、思ったことをゆるく発信していきたいと思います。もしかしたらマニアックなネタを出してしまうかもしれませんが、お許しを。

僕がウチュウを好きになったのは、幼稚園に入るか、そこらだったかな。1980年代初頭ですね(あ~歳がバレるな)。有名なウチュウ研究者でありSF作家、カール・セーガン先生の御著書「COSMOS」を原作とした科学番組が民放テレビで放映され、兄貴がビデオに録画していたのですね。

それを観た僕は「ヤベえ、スケールでかすぎ」と心を奪われたわけです。幼子の世界観など、自分の家から半径100㍍範囲程度ですから、劇薬です。まさに「無限に拡がる大ウチュウ」に口をあんぐり開けて、放心状態になったことを記憶しています.

小学生のころ(1980年代中盤~90年代初頭)は、NHKスペシャル「銀河宇宙オデッセイ」や科学雑誌「ニュートン」、SFアニメ(例えば機動戦士ガンダム)が,主な栄養源でしたね。

ウチュウ関連のビックイベントも多かったです。1986年には76年ぶりのハレー彗星の回帰があり、自宅の庭から目視+双眼鏡で懸命にみましたが、彗星の尾っぽはよくわからなかったですね。丸い雲のかたまりという感じ、と絵日記に書いたと記憶しております。

忘れてはいけないのが「ボイジャー」です。ボイジャーというのはアメリカのNASAが1977年に打上げた2基の惑星探査機です。ミッションは太陽系の外惑星探査です。受験で覚えさせられる惑星「水金地火木土天海冥」(あ、今は冥(冥王星)はないのか)の「木土天海」を近くで観察しようという壮大な目論見でした。

木星通過は1979年で、幼すぎて記憶なし。土星通過は1980~81年で、ギリギリ覚えている(後付けなのか、よくわからない)。明確な栄養源となったのは、ボイジャー2号が1986年に天王星を通過、1989年に海王星を通過…。もはや、昇天です。

僕が過ごした子供時代は、ウチュウに希望あふれる時代で、僕がウチュウに恋に落ちるのは必然的な環境でした。(玉置 晋)

【たまおき・すすむ】東京理科大理工学部物理学科卒。茨城大学大学院理工学研究科地球生命環境科学専攻修了。現在、つくば市で宇宙開発の仕事に従事する傍ら、放送大学大学院生として二足のわらじを楽しむ。茨大理学部でも「宇宙天気防災」のテーマで研究中。水戸市双葉台出身、土浦市宍塚在住。39歳。

《宍塚の里山》2 自然と歴史の会発足のころ②

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1989年の宍塚大池。亀の甲と呼ばれる林にはアカマツが僅かに残り、池の正面の柳がまだ小さい

宍塚大池は3本の谷津をせきとめて造られた広さが3.5haのため池で、上空から見ると「大」字形をしています。いつの時代に造られたのかわかりませんが、江戸時代の古地図には亀池の名で出てきます。大池の水は下流にある谷津田だけでなく、今でも平場の田んぼの耕作に広く利用されている現役のため池で、農林水産省「ため池百選」に選定されています。

池は、雨水と池の周辺の台地から流れ出る湧き水が水源です。大雨のあと、一気に水かさが増すように見えますが、その後かなり長時間水が増え続け、池の周りの林が水を貯えるダムになっていることが分かります。1980年代初頭まで、宍塚は松林が広がっていました。

しかし、里山が利用されなくなったことから、マツノザイセンチュウによる松枯れが広がり、松林がコナラなどの雑木林に変わっていきました。松が多かったころの大池は水面に松がうつり、池が黒々と見え、神秘的に見えました。今はそのころに比べると明るい池になりましたが、大池に初めてやって来た人は、異口同音こんないいところがあったと大層驚きます。

池を一周する道はありません。池の周囲に広い山があることで、貴重な生き物の生存が可能になっていることが調査の結果明らかになっています。

さて、「宍塚の自然と歴史の会」発足2年前(1987年)、宍塚大池を含む一帯に開発計画があることが新聞に載りました。太い道路によって、大池を囲む広い森を分断、住宅地、商業地などに分けられ、新たな街の構想が描かれていました。

そのころ、宍塚大池とその一帯は、地元の方だけでなく、この静かなたたずまいに魅了されていた人々が結構いました。近隣の子ども会、PTA活動などを通してこの場所を知った人々、野鳥のグループなど、知る限りでもかなり多くの人がやって来ていました。

しかし、この開発計画は知る人がほとんどいない中で進められていました。あとで分かったことですが、使っていない土地は「未利用地」といい、開発が当然と考えていた人たちがいて、開発計画は地権者と行政によって進められていたのです。地権者が、使われていない里山の開発を望むことはあり得ると思いますが、行政が開発だけを秘密裏に進めることには疑問を持ちました。

新聞で開発計画を知って間もない1988年、朝日新聞社水戸支社が「茨城の自然百選」の募集を開始しました(同社のグリーンキャンペーンの一環で、茨城県、茨城放送、森林文化協会の協力で、県内外の一般公募で100カ所を選定)。1989年、「茨城の自然百選」(筑波書林)として出版されました。これには県内の自然がほぼまんべんなく紹介されていますが、「宍塚大池」は貴重な「自然」の宝庫として紹介されています。(及川ひろみ)

 

《くずかごの唄》1 河童から教えてもらった水のこと①

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奥井登美子さん

1982年から霞ケ浦の56本の流入河川200カ所の、市民の手による水質調査が原田泰さんの発案で始まった。パックテストもない時代で、水の分析と、水質をどう考えるか、考え方の根源が問われる調査であった。東大自主講座の宇井純さんも協力。浅野敏久さん、森保文さん、片亀光さん、前田恭伸さんなど、今、それぞれ環境問題の権威であるが、その頃は可愛い学生であった。

1983年琵琶湖での「世界湖沼会議プレ会議」で、私は霞ケ浦で市民が手さぐりで始めた200カ所の水質調査の報告を行った。

1984年「第1回世界湖沼会議」で、土浦の自然を守る会を発足させた医師の佐賀純一さんが「アオコ河童からの提言」という報告を行った。なぜ河童が登場したかというと、当時の霞ケ浦は通称アオコと呼ぶ淡水プランクトンが大量発生し、土浦市内にまでアオコの腐った臭いが充満していた。

その色が河童に似ていたのと、水質調査で歩いた56本の川にたくさんの個性的な河童がいたことを知ったからである。

私はアオコの実物を第1回世界湖沼会議の会場に展示した。霞ケ浦のアオコの臭いを嗅いだ参加者の反応はすごかった。外国人が2人佐賀さんにくっついて霞ケ浦までアオコを見に来て「おー、ゴット」と叫んだ。

宍道湖の漁民は150人もバスで見学に来た。宍道湖の人にアオコを見せたいので送ってほしいと頼まれ、宍道湖しじみ組合に何回も送った。宍道湖の淡水化が阻止され、シジミが残ったのは霞ケ浦のアオコのおかげである。(奥井登美子)

【おくい・とみこ】1955年東京薬科大卒、薬剤師ではなく油絵修復に従事。58年、奥井薬局の奥井清氏(中外製薬勤務)と結婚、土浦に。1895年創業の老舗薬局を経営する傍ら、霞ケ浦の自然を守る活動などに参加。「水の時代をひらく」(KGP総合研究所)、「柳川堀割りから水を考える」(藤原書店)、「くずかごの唄」Ⅰ~Ⅷ(筑波書林)など著書多数。加藤尚武京大名誉教授は実弟。杉並区出身、土浦市在住。84歳。

≪吾妻カガミ≫17 地方と首都を繋ぐ産学銀

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10月下旬、大学時代のゼミ同窓の懇親会があった。1970年卒だから皆70歳を超えている。でもメンバー14人のうち死んだのは弁護士をやっていた1人だけ。中学や高校の同窓会をやると、クラスの10%程度は死去と記されているから、平均よりも生存率が高いのではないか。近況報告では病気や旅行の話が多いが、現役で活躍している奴もいる。

学生を地方に派遣

大手電機会社を退職した後、世田谷区にある私立大の学長をやっているU君。在京大学生の80~90%は首都圏出身という話をしていた。われわれの時代は地方出身が多かった。80~90%が地方出であったような気がする。このシェア逆転は何を意味するのか。首都圏に富が集まり高学歴の再生産が進んでいるということではないか。地方を元気にしないと首都と地方の格差がますます拡がる。

U君の大学は面白い取り組みをしている。学生を地方に派遣し、地域の「いいもの」を探させ、大学に近い自由が丘商店街(目黒区)で販売している。派遣先は函館から石垣島まで全国10数カ所。茨城のかすみがうら市もその一つという。この「産」と「学」の結びつきを応援しているのが筑波銀行。彼は「地方創生には産・学・銀(行)連携が大事」と言う。

この試みは学生にとっても好ましい。首都圏生まれの学生が地方に「いいもの」探しにいくことで田舎のよさを知るきっかけになるからだ。もちろんビジネスセンスを磨くこともできる。

大学がモールも経営

国立大を定年退職したあとも近代史研究を続けているY君。最近、米カリフォルニア州にあるスタンフォード大学に資料探しに行った。「大学の経済学部がショッピングモールを経営しているのには驚いた。日本では大学の店舗経営などありえない。私立大ということもあるのだろうが…」。国立一筋の彼にはショックだったようだ。

歴史資料探しでも、米国の大学の取り組みには驚いたという。彼が訪れたのはスタンフォード大の中にある「フーバー・インスティチュート」。この組織は終戦直後東京にオフィスを置き、戦前戦中のナマ文書を精力的に収集した。その集積が同大の「売り」になっている。

そこで彼が探したのは、満鉄上海事務所が集めた中国共産党情報。結局発見できなかったそうだが、好奇心はまだ旺盛だ。彼の話で感心したのは、大学運営の一環として大型ショッピングセンターも経営しながら、戦争相手国に乗り込んで戦時情報を徹底的に収集する米大学のスタンスだ。

大手商社OBが幹事をした飲み会は、仏料理コース、出席11人でシャンパン、白ワイン、赤ワイン各2本、会費1万3,000円。首都と地方ではこの辺の感覚にも格差があるようだ。(坂本 栄)