月曜日, 4月 21, 2025
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《続・気軽にSOS》23 不謹慎? だけどおめでとう

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コラム・浅井和幸】とてもまじめな方たちは、自分が傷つきたくないだけでなく、人を傷つけたくない、間違いを起こしたくないという気持ちが強くなりがちです。それが過ぎると、一度のミスが、まるで致命傷であるかのようにおびえ、避けるようになります。

相談を受けていると、人を傷つけたり、ミスをしたりしないためにはどうすれば良いか? もし、人を傷つけたらどうすれば良いか? という質問を受けることがあります。まずは、お互いを知りあうこと、そして、その場での相手の気持ちを知るため、コミュニケーションをとることが大切です。

もし間違いを起こしてしまったら、もちろん、時と場合、その程度によりますが、まずは自分に非があるのであれば、謝ることが大切であると伝えます。謝っても許してくれないような敵は、相手にしないとか、徹底的に戦うなどの方法があるかもしれません。むしろ、敵の意見を聞くよりも、自分の見方や好きな人、尊敬する人の意見や価値観を大切にしましょうと伝えます。

上記に出した、おびえや避ける思考、行動は、不謹慎や自粛という考え方になり、時には、攻撃に使われるようになります。東日本大震災の時に、このような大変つらい思いをしている人がいる状態での楽しみは不謹慎だ。だから、花見で酒を飲むのは自粛しようと、被災者をおもんばかることが起こりました。

よく想像することが大切だといわれますが、現実を見ずに考えるだけで花見を自粛することが、むしろ酒を買ってほしいという被災者の気持ちを無視することにもつながりました。

喜びも悲しみも全てがある世界

ある知り合いの祝いの日に、ある国でのテロがあったことを出して、「こんな日に喜ぶことは不謹慎だけど、おめでとう。」という言葉を送った例がありました。不幸なことが起きていない日というものは、悲しいことですがないのです。まじめも過ぎると、おめでとうですら、真っすぐに言えなくなってしまいます。

どのようなことでも、全世界、全人類を考慮したら、不謹慎にすることが出来ます。「青空がきれいだなぁ」は、視覚障害者や、風邪やけがで外に出られない人に対して不謹慎。「結婚おめでとう」は、結婚もできずに亡くなった方に対して不謹慎。「このケーキ美味しいね」は、甘いものが食べられずに苦しんでいる人に対して不謹慎。「あ~、よく寝た」は、不眠症の方に対して不謹慎。

何も、わざわざ苦しんでいる方の前で、大げさに喜べと言っているわけではありません。喜びも、悲しみも、楽しさも、苦しさも、全てがあるこの世界。それぞれが支えあい、励ましあい、快も不快も分かち合える、それもできる部分でということ。

何の落ち度もなく振舞うことはできません。失敗をしながらも、より良い生活を目指すことが大切なのではないかと思います。といっても、この文章すら、誰かを傷つけている可能性はあります。不謹慎な文章は、この辺で終わりにします。(精神保健福祉士)

《泳げる霞ヶ浦へ》11 ただ今、世界湖沼会議に参加中!

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学生ポスターセッション

【コラム・霞ヶ浦市民協会】現在、10月17日午前2時過ぎ。だるい足を持て余しながら睡魔と闘っている。14日の学生会議をプレに、15~19日を会期とする第17回世界湖沼会議が、つくば国際会議場にて進行中。1995年の第6回に続き、再びこの会議を茨城県に招致しようと県に要望した「言い出しっぺ」の当協会メンバーは、発表と視聴で日参中だ。

会場付近の駐車場は早朝に即満車。仕方なく遠方に置き、ふだん履かぬヒールで歩いた。昔はもっと高いヒールで「颯爽」と仕事をしていたのに、アラ還の波は忖度なく足に打ち寄せる。そういえば、視聴した分科会の会場でも立ちっぱなしだった。

土浦一高のポスターセッション

でも、満員御礼は喜ばしいことである。学生会議と分科会のポスターセッション会場も黒山の人だかりだった。会議には約50の国と地域から4,000人ほどが参加しているから、飛び交う言葉も多重音声だ。整然と並ぶポスター(パネル)の前で発表者が質問などに対応するのだが、感心したのは小中高生たちの受け答え。質問に、相手の目を見て、自分の言葉で返せるというのは、たいしたものだと思う。

このセッションには、「将来の湖沼と流域」に焦点を当てて研究発表したサテライトつちうらの「ハイスクール会議」参加校も出展している。高校生たちの柔軟で斬新な発想にはかなわないが、同時に、現実的で冷静な観察と考察には、我々の活動方針とベクトルが重なるものもある。

人の住む「里」自然が成す「浜」

例えば、水中の有機物を湖外へ出すことによる浄化の方策などは、当協会の「里浜」事業に関連してくる。里浜とは、人の住む「里」と、自然が成す「浜」を合体させた造語だ。里浜は、波が打ち寄せる前浜にできる砂浜であり、かつては漁業や湖水浴場など、人間が利活用することで保たれていた。

砂浜へ打ち上げられるのは流木や植物のみならず、湖水の一部はそのまま砂に浸透しプランクトンなどの有機物がろ過され、やがて分解され無機化する。重要なのは有機物を湖外に出すこと、陸に揚げることである。水中で腐ればそのまま堆積して栄養塩分となってしまう。

砂浜はまた、魚類の産卵場所をも提供する、実に頼もしい存在だ。では、われわれ人間にできることは何か。ひとつは、霞ヶ浦で獲れた魚を食べることである。せっかく漁師が水揚げしても、購入者がいなければ生産と消費の構造は崩れ、結果として漁獲高を下げてしまう。食べる人が増えれば、それだけ有機物が湖外に出る。この循環がとても大事なのだ。

だが、砂浜の良さを言ったところで維持管理ができなければどうしようもない。ゴミや流木などの漂着ゴミを回収し、放置すると群生するアシを定期的に刈り取り、除草し、砂浜を保たなければならない。そして何より、日常的に人が砂地を踏んだりすることが必要。そのためには遊びやスポーツ、観光の場として活用することが望ましい。(霞ヶ浦市民協会 副理事長 髙木節子)

《くずかごの唄》24 第1回湖沼会議のころ 佐賀さんの提言

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【コラム・奥井登美子】1971年、佐賀純一さん(土浦市の開業医・作家)が外国から故郷の土浦に帰ってきてびっくり。霞ケ浦はアオコでぎっしり、漁船もアオコで港から出られないありさま。水道水もアオコ臭くて新米を炊いても臭う。

当時29歳だった佐賀さんは、早速、医者仲間、水道水の臭いで困りきっていた飲食店組合、近所の主婦を集めて「土浦の自然を守る会」を結成し、74年には「いのちの水を守る」キャンペーンを展開。市民が考えた浄化対策を2万人の署名を添えて国と県に提出した。

しかし、国会議員さん、県会議員さんから「水問題は高度に政治的だから市民が口を出してはいけない」「素人が口を出すなんてとんでもない」と、ものすごいお叱りを受けてしまった。

私たちは政治屋さんに期待するのをあきらめて、子供たちに自然の大切さを知ってもらおうと、土団子づくり、泥鰌(どじょう)つかみなど、泥だらけになって発散する「こどもまつり」を企画。亀城公園で開いた催しには、74年に5,000人、75年には7,000人が集まった。今では考えられない子供の数である。

河童のような緑色 ドロリとした湖水

82年には、霞ケ浦周辺の市民団体を誘って「霞ヶ浦をよくする市民連絡会議」結成、霞ケ浦流入河56本、200カ所の水質調査をはじめた。パックテストもない時代。もらってきたビール瓶(びん)で採水したので、事務所の奥井薬局は瓶で足の踏み場がなくなってしまった。

分析をどうするか、アオコの度数を何で表現するか。参加の大学生たちと、毎日検討会を開き、苦労して案を練った。学生として参加した、森保文君、片亀光君、前田恭伸君、大浅野利久君たちは、今、日本各地に散らばって、環境問題の専門家として活躍している。

83年に琵琶湖で開かれた世界湖沼会議プレ会議で、私は「市民の手による市民のための水調査」を報告。翌年の第1回世界湖沼会議では、佐賀さんが「アオコカッパからの提言」と題して、霞ケ浦の水質問題や市民運動を紹介した。

その時、私は霞ケ浦のアオコだらけの水を瓶に入れて持参し、会場の人に嗅いでもらった。その反応はすごかった。湖の水がまるで河童のような緑色。どろりとして、鼻をつく臭いに、会場全体が佐賀さんの話に心底耳を傾けてくれた。

会場の前では、湖が淡水化されれば蜆(しじみ)の危機になると、宍道湖の漁民たちが中心となって蜆汁を配っていた。翌年、私たちは、日本の中の湖沼を知りたいと、宍道湖で開かれた市民の会に参加、宍道湖の実情を知ることになった。(随筆家)

《ご飯は世界を救う》4 しもだて美術館 カフェ・ブリーズ

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【コラム・川浪せつ子】食欲、そして芸術の秋ですね。今は筑西市、かつては下館市と言われていたところに、ステキな美術館があります。「しもだて美術館」。しもだて地域交流センター・アルテリオの3階に、中央公民館とともに併設されています。建物はガラス張りで斬新な建築です。

年間を通し、企画展が数回。今年は7~9月、国際アンデルセン賞受賞の画家・安野光雅さんの絵画展。前期「御所の花」、後期「絵本の世界」、両方とも見に行きました。来年年明けからは、世界中を巡りネコを撮影していて有名な動物写真家・岩合光昭さんの写真展が楽しみです。

アルテリオの1階に、気の利いた「カフェ・ブリーズ」があります。ガラス張りで吹き抜けの空間。解放感があり、マッタリ、ユッタリ時間が流れて行くスペースです。今回は、お昼ご飯を食べました。正直、カフェのご飯って、あまり期待していないのです。だって、カフェだもん。でも、ここのサンドイッチ、本当に美味しかった! パンは、特別にパン屋さんで焼いてもらっているのだそうです。ウンウン。

つくば美術館 企画展やらないの?

それで、思い出すのは「つくば美術館」。数年前から企画展が全くなくなってしまい、現在は貸しギャラリー状態。展示された作品は、全国組織の公募展の茨城支部展とかも多く、素晴らしくはあるのですが…。

かつては、安野光雅さん、500号もの大きな絵を描いている遠藤彰子さん、ほかにも世界的な画家さんの企画展もありました。TXの終点つくば駅から5分もかからない便利な所にあるのに、何で企画展なくなっちゃったのでしょうか?

比べちゃいけないとは思いますが、筑西市より人口、多いのでは? 茨城県の管轄と思います。文化的なつくば市に、企画展、お願いします~。

「しもだて美術館」に話を戻しますと、徒歩5分の所には、下館生まれの天才陶芸家・板谷波山(いたや はざん)の記念館もあります。横の民家は波山の生家です。懐かしさを感じる家屋です。記念館は小さいながらも見ごたえがあります。

食いしん坊の私は、5分間歩く道中に、「メロンぱんじゅう」という和菓子屋さんの「のぼり旗」を見つけ立ち寄りました。昔から続く地域の和菓子屋さん。時代の進化に沿って「メロンパン」と「おまんじゅう」をミックスしたものを作っているのです。見た目、可愛らしく、不思議な感触でした。

実は、もう1つ食べたのです。このサンドイッチを食べた後、今年の酷暑で暑くて暑くて、かき氷を。心と胃袋、大満足の1日でした。(イラストレーター)

《土着通信部》23 土浦狂乱の90年前 芸者の人気投票に沸く

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昭和2年9月の土浦町案内図(南北逆になっている)。桜川と八間通りにはさまれた街区が二業地

【コラム・相沢冬樹】この話には、2人の新聞記者が登場する。中井川浩(1900-1949)と市村壮雄一(1903-1975)である。中井川は戦前に衆議院議員を務め、戦後は阿見町の霞ヶ浦農科大学(茨城大学農学部の前身)理事長を務めた人物だが、元は報知新聞の記者で土浦に転勤後、資本金20万円で興した日刊の夕刊紙が「茨城民報」であった。

「昭和3年6月から7月にかけ土浦芸者の人気投票があった。主催は水戸市泉町に本社、県下各地に支局を持つ日刊紙茨城民報社である」と書いたのが市村壮雄一。「わたしゃわかさぎ、さむらいかたぎ、焼かれながらも二本差し」という粋な文句で、島倉千代子が歌った「土浦小唄」の作詞者という方が通りがいいかもしれない。

昭和3年だから、話は90年前、1928年までさかのぼる。阿見に霞ヶ浦海軍航空隊が開設され、旧土浦町の各所にあった花街が旧栄町の二業地に束ねられる時代である。地方の夕刊紙は風俗情報の発信を担っていた。茨城民報の土浦の後援者は「新聞社の経営を少しでも楽にしたい考えから土浦芸者の人気投票を思いついた」、すなわち紙面の一部を投票用紙にして、新聞を買わせるよう仕向けたのである。紙面には人気投票をあおりたてる記事をバンバン載せた。CDを買わないと“総選挙”に参加できないアイドル商法を1世紀近くも前に先取りしていたわけだ。

「当時、土浦見番に登録されていた芸者は70人以上で、若くて売れっ子の20人近くにはそれぞれパトロンがついていて、お互に一位にしてやろうという野望をもっていた。……二業組合はどこでも新聞を取り、霞ヶ浦海軍航空隊将校たちからも応援金カンパ(があった。)新聞に名前ののっている当の芸者はもちろん、待合の女将や女中までが思い思いに騒ぎまわり、ついに二業指定地は芸者の人気投票に明け暮れ、てんやわんやだった」(市村壮雄一「続・茶の間の土浦五十年史」1968年刊から抜粋)

名妓繚乱 恐慌前夜のあだ花

しまいに新聞社は投票用紙だけを百枚単位で刷り、1枚を新聞1部と同じ代金で売るという手口まで繰り出して「ボロ儲け」したのである。市内の商店もこぞって、副賞の商品提供などでこの狂乱に乗じる1カ月となった。

大正モダニズムが色濃く残り、昭和初期の退廃的で爛熟した世相がうかがえる。多分に土浦がもっとも勢いに乗った時代であった。茨城民報社は翌1929年5月には、いはらき新聞社に合併される。1929年といえば、10月にウォール街の株価暴落から世界恐慌が始まっている。土浦の名妓繚乱もまた、昭和恐慌前夜のあだ花のようなにぎわいであった。

中井川は土浦町議会議員、茨城県議会議員を経て、1932(昭和7)年の衆議院議員総選挙に出馬し当選。4回連続当選を果たした。かたや市村は土浦にとどまり、その後も健筆をふるう。なかでも二業地から丹念に拾い集めた花柳界情報は、興味本位の風俗ネタにとどまらない社会性をもって、貴重な時代の証言となっている。ようやく開架となった土浦市立図書館の郷土資料コーナーで読むことができる。(ブロガー)

《吾妻カガミ》42  市のクレオ改修案に強い違和感

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つくば市役所

【コラム・坂本栄】前回のコラム(吾妻カガミ41回)では、つくば市長五十嵐さんの行政スタイルを取り上げました。要約すると、市民の考えを重視する慎重なスタイルではあるが、クレオ跡への対応については不自然な工作があった、といった内容でした。クレオ跡問題は市のホットな案件になっていますので、今回もこの問題をフォローします。

市当局は、クレオ跡再生プランをまとめ、9月議会最終日の全員協議会に「クレオに関する検討状況について」と題する資料を配りました。なかなかよく整理された討議資料です。

ただ、市が主導して会社を立ち上げ、百貨店とスーパーが入っていた建物を買い取り、商業施設と公共施設が入る複合ビルにリフォームするという構想には、議会から批判的な意見もあったようです。新会社への市出資金だけでも20億円という「絵」ですから、議会の心配も分かります。

市議からどんな意見が出たのか、ニュースつくばの鈴木宏子記者がリポートしています(9月28日掲載)。「全員協議会では『さまざまな課題がある中、なぜクレオを優先するのか』『周辺部にどれだけ波及効果があるのか』『公共性があまりにも少ない』『テナントが埋まらないというリスクはないのか』『拙速に進めるべきでない』などの質問や意見が相次いだ」と。

民業圧迫と特定会社優遇

市のシナリオでは、10月下旬に臨時議会を開いてもらい、出資金20億円を含む補正予算の承認を得て、12月中旬に現所有者の筑波都市整備から土地建物を購入する、となっています。ですから、一連のプロセスでは賛否が噴出することでしょう。

市当局の焦燥(一昔前までの中心地区から賑わいが失われる)はよく理解できますが、市が「旧」中心地区の開発に乗り出す(デベロッパーになる)ことには違和感を覚えます。特に「おやっ」と思ったのは、以下の2点です。

討議資料には、改修後のビルの賃料を、周辺相場(月坪1~2万円程度)の半分(同7,500円程度)にする、と書かれています。周辺には大中小のお店やオフィスが入るビルがたくさんあります。市の息がかかったビルの賃料は、これらの半分ということですから、官による民業圧迫といえます。

また資料には、予想される入居施設も記載されています。それによると、5~6階には地元企業オフィスが入るそうです。市の補足説明では、つくば創業の精密機器会社が1.5フロアー借りるそうですから、特定の民間会社が優遇されることになります。

TXつくば駅周辺の不動産市場秩序を乱し、地元ゆかりの会社を特別扱いにする―先に違和感を覚えると言ったのはこういった点です。つくば市は自由で民主的な市場経済を壊していくのでしょうか(少し大げさな表現?)。(経済ジャーナリスト)

《地域包括ケア》21 ひとり暮らし高齢者の支援を考える

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【コラム・室生勝】掲載図「生活支援・介護予防サービスの提供イメージ」を見ながら、ひとり暮らし後期高齢者の生活支援を考えてみよう。

まず、毎日の食事。歩いて食材の買い物に行ける距離にスーパーがあっても、手に持てる量はせいぜい2~3日分。シルバーカーを使っても4日分で、週2~3回行く必要がある。要支援程度の人なら近距離の買い物は可能だが、要介護1~2になると、訪問介護(ヘルパー)の生活援助に頼らざるを得ない。距離が1km近くあると、訪問介護の標準時間90分が買い物だけで半分使われ、あとの半分で掃除、洗濯、調理などを手伝ってもらわねばならなくなる。

食材の買い物は比較的近くても、衣類になると店は限られ、交通機関が必要となる。バスの停留場が近ければいいが、遠い人はタクシーを利用することになる。乗用車の座席は低く、降車のとき臀部を持ち上げにくい。運転手の手助けがあるのだろうか。

要介護1のケースでは、介護保険の介護タクシーで医療機関、金融機関、スーパーなどへ行く場合、ケアマネジャーよるケアプランがあれば、往復の介助(診療待ち時間は保険対象外)を受けられる。運転手は介護職員初任者研修の資格を持っている。出向いた先の付き添いは、その施設や店で対応すると介護保険では想定している。

図にある「外出支援」は、介護認定を受けていない高齢者や要支援を対象としたサービス。乗用車で送り迎えする移送サービスで、乗り降り介助や歩行時付き添いは含まれてはいるのだろうか。

介護の悩みを話し合える「カフェ」

要支援や要介護の人は、訪問介護で買い物、掃除、洗濯などの支援を受けられるが、介護認定を受けていないひとり暮らし後期高齢者にとっては、スーパーの「移動販売」が歩いて行ける場所に来てほしいだろう。掃除や洗濯も、図にある自治会単位の「家事援助」があると助かる。

図の「食材配達」は生協・コーポが行っている。さらに高齢化が進めば、スーパーも始めるだろう。住民の互助活動としては、食材配達よりも「買い物支援(買い物同行)」が喜ばれるようだ。

図にはないが、「ゴミ出し」でひとり暮らし後期高齢者が困っている場合が多い。遠い集積所に、決められた収集日の朝8時か8時半までに、出さなくてはならないケースだ。これは地域の互助活動で解決できる問題だ。

市町村単位の「介護者支援」は「介護者カフェ」のことだと思う。介護者同士が話し合え、介護の悩みなどを気楽に相談できる場所で、週1回開かれれば行きやすい。認知症の人と家族のためのカフェは、土浦市に3か所、つくば市に4か所あり、月1回開かれているが、一般の家族介護者のためのカフェはない。つくば市では、4月から週1回(火曜)、看護師や鍼灸マッサージ師が対応する介護者カフェ(ケアラーズカフェ※)が始まった。 モデルになるとよい。(高齢者サロン主宰)

※ つくば市市民活動センターホームページ>広報誌アーカイブ広報紙「ぴよ」53号

《食う寝る宇宙》23 2023年 日本人が月旅行に行く!

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【コラム・玉置晋】米国の民間宇宙開発企業Space X社による初の月旅行のチケットを購入したのは、日本人実業家というニュースには驚かされました。地球から出発して月を周回する1週間の旅程とのこと。一緒にアーティストを連れていくそうで、月旅行にインスピレーションを得たアーティストたちが、どのような作品を生み出すのか楽しみですね。

そこで人類の有人月探査の歴史をまとめてみました(参照:ウィキペディア)。

▽1940年代:英国の作家、アーサー・C・クラークが「人類は2000年までに月に到達するだろう」と予言。

▽1959年:ソ連のルナ1号が月の近傍を通過。ルナ2号が月面到達(衝突!)。ルナ3号が月の裏側を撮影。

▽1966年:ルナ9号が月面に軟着陸、ルナ10号が月の周回軌道投入。

▽1968年:米国のアポロ8号が有人で月軌道調査。

▽1969年:米国のアポロ11号が有人で月面着陸。ニール・アームストロング船長の言葉「1人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」。

▽1972年:アポロ17号が最後の有人月面探査。

アポロ17号が月面を離床した1972年12月14日が人類の月滞在の最後です。人類はこの後、月周回軌道はおろか、地球磁気圏の内側、高度400㌔の国際宇宙ステーションより遠くには行っていません。現代の大人としては「費用対効果を鑑みると」というもっともらしい理由を語りたくなりますが、未来の歴史家は許してくれないでしょうね。「20世紀末~21世紀初頭の人類は宇宙に対して臆病であった」と。

太陽フレアによる放射線増が恐い 

少し未来のフィクションです。

2040年、上司「君、ちょっと来週、月面のフォン・ブラウン市にあるアナハイム・エレクトロニクス社から新素材のサンプルをもらってきてくれ」。部下「え!月面ですか?まいったなあ、宇宙天気予報によると、太陽黒点が発達中とあるぞ。嫌だなあ」。

なぜ嫌かというと、命がけだからです。月は地球から38万㌔の距離にあります。地球はコアの対流運動のために磁石のように磁場をもっており、放射線に対して相当のバリアを形成してくれています。このバリアの守備範囲は太陽方向にみて7万㌔ぐらいなので、月が地球の日照側にある場合、もし太陽フレアが発生した場合、バリアの恩恵にあずかれません。

遮蔽(しゃへい)がなければ、致死量に達する放射線を浴びる可能性があります。放射線の遮蔽技術が「命がけでない」月旅行の将来を左右するでしょう。一時的な太陽フレアによる放射線増加に対する防護については、薄いアルミニウムシールドである程度イケルという報告もありますので、悲観はしていません。でも、僕は臆病な人間なので、ちょっと様子をみようかな。(宇宙天気防災研究者)

《宍塚の里山》24 今年の土浦市環境展は湖沼会議の一環

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昨年の土浦市環境展の様子=11月、新治トレーニングセンター

【コラム・及川ひろみ】私たちの会が発足したのは1989年9月。この素晴らしい里山を知ってもらうために、これまで土浦市の公民館祭りや市の文化祭などで環境展を開いてきました。90年には、今はない西友土浦店の5階フロアー約半分のスペースで「どんなところ 宍塚の里山」展を行いました。

2500分の1の地図を基に作った宍塚と天王池の里山の立体模型。四季折々の里山の生き物を180×90㌢の用紙4枚に書いたのぼり。宍塚のチョウや植物の標本や写真。石こうで作ったキツネやタヌキやイタチの足跡。里山の木の実、ハスの実、稲穂の束なども紹介しました。

最近では、フクロウ、ノスリ、カワセミ、コガモ、マガモ、ハシビロガモ、オオバン、バンなどの野鳥のはく製。亀の骨格標本(生きた亀の首の動きを再現したいと、軟骨が固まらないよう毎晩ストレッチを続け、首がぬっと前に出る亀の標本)も展示しました。

2003年には、大池で死んだコハクチョウのくちばしから尾までの骨格と白鳥の翼羽(まさに天使の羽です)の標本を展示しています。死んだハクチョウには外傷がなかったことから、解剖して死因を探りました。脳と筋肉を専門家に送り、死因は鉛中毒であることが判明しました。

この死んだハクチョウをなんとか活かしたいと、解剖して骨格標本を作りました。ゲーム感覚で並べながら、1羽の鳥に仕上げます。骨からは恐竜との関係が推測でき、飛ぶために特化した鳥の構造が学べますが、触れて学んで楽しむ展示を心がけています。

野鳥の愛の深さ 痛ましい姿

大池にやって来たハクチョウ。いつもは3日ほどで池を去りますが、その時は約1カ月逗留(とうりゅう)し、首を垂れて池に浮いていました。いつも2羽でいたハクチョウでしたが、残った1羽は大池の谷津の奥に入り込み、鳴きながら仲間を探し、4日目に飛び去って行きました。

野鳥の愛の深さと痛ましい姿が忘れられません。宍塚に来る前に鉛を飲み込んだものと考えられます。はく製も標本もすべて環境教育用に作成したものです。

今年の土浦市環境展は10月13日(土)、「世界湖沼会議サテライトつちうら」の一環として、県南生涯学習センターで開かれます。タイトルは「関東平野最大級の里山、宍塚の里山保全」です。

1990年、東京から筑波山麓まで、5万分の1の地図を貼り合わせ、土地利用図を作った人がいました。その時に、東京から筑波山麓まで緑の広がりであることが明らかになりました。展示には、田んぼで実った古代米で秋の彩りを添えます。(宍塚の自然と歴史の会代表)

《映画探偵団》12 市のクレオ計画 サスペンス映画の手法

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【コラム・冠木新市】千葉県にある東京デイズニーランドが開園して35年。同じく、つくばセンタービルができて35年。デイズニーランドの祝賀ムードに比べると、センタービルを祝うのはオークラホテルのみと、かなり寂しい状況だ。同じエリアでも、つくば市にとってはクレオ再生が最重要課題のようだ。

市は「広報つくば臨時号」を発行して、急激にクレオへの関与を市民にアピールしてきている。早く関わらないと、今年中に筑波都市整備がクレオを売却し、センター地区内外に建設されるかも知れないマンションも売れなくなると警告を発する。

情報を小出しに、タイムリミットを設け、説明会は短期集中でたたみかける。これはサスペンス映画の手法そのものである。

ふと気付けば、市のキャッチコピーも「つくばホンモノ」から「世界のあしたが見えるまち。TSUKUBA」に。イメージキャラクターの「ツクツク」は姿を見せなくなり、「フックン船長」単独出演となり、「つくばセンター地区」の名称も「つくば中心市街地」に変化した。「つくばセンター地区活性化協議会」も「つくば中心市街地活性化協議会」に変わるのだろうか。

デイズニーの未来型都市

それにしても、「つくば中心市街地まちづくりヴィジョン」の軽さと比較し、「広報つくば臨時号」のクレオ再生にかける市の思いは熱く、落差を感じる。ヴィジョン発表時には市が関与する意思は固まっていたのだろう。あの時、素直に発表すればよかったのにと思う。

NHK『BS世界のドキュメンタリー・ウオルト・デイズニー』(2015)という番組があった。ウオルトは「デイズニーランド」を構想するが、身内やスタッフが猛反対する。で、秘密裡に準備を進める。そして建設資金をTV局から引き出すため、美術係に綿密なイメージ画を急きょ描かせる。

しかし、TV局は遊園地の計画に関心を示さなかった。その後、ウオルトは「デイズニーランド」を実現し、次はフロリダに「エプコット」という実験的未来型都市をつくろうとする。今度もウオルトは大企業の研究所を誘致するため、巨大なイメージ画を描き、プレゼン用の映画を製作するが急死してしまい、計画は幻に終わる。

10数年前、ある大学の先生から「筑波研究学園都市は、デイズニーの未来型都市をモデルにつくられた」という話を聞いた。二の宮の洞峰公園休憩所には、巨大な銅板の研究学園都市の地図が飾ってあるが、なるほどよく似ていると思った。

ただ、「エプコット」の中心は塔のような高層ビルだが、「つくばセンター地区」の中心は空洞と石の塊だ。つくばは東京の北東の方角にあるから、設計の磯崎新が鬼門封じのために空洞と石の塊を設置したのではないか。そんな「つくばセンタービル」に私は愛着を感じる。

さて今後の予測だが、ママさん世代を味方に計画を進める市側と、周辺地区の高齢者の支援を受け反発する市議会議員側と、子育てを終えどっちつかずの市民側との論争が巻き起こるに違いない。何はともあれ、「つくばセンター地区」が活発化してきた。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

《好人余聞》12 「長い経験には説得力があります」 レンコン栽培 浅野廣宗さん

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浅野廣宗さん

【コラム・オダギ秀】人生という旅の途中で出会った人たち、みんな素敵な人たちでした。その方々に伺った話を、覚え書きのようにつづりたいと思っています。

「まったく暮らす世界が違いましたね。価値観が変わってしまったと言うか」

霞ケ浦のほとりで、レンコンを栽培している浅野廣宗さんは、栽培に携わるようになってからの自分の変化を、驚きだったとしみじみ語った。

土浦市は、全国一のレンコン産地。品質の高さと生産量で、他産地を圧倒している。そんな名産地で、浅野さんは、5年前からレンコン栽培を始めた。

地元に生まれ育ち、東京農大の農学部を出た浅野さんは、飼料会社で畜産コンサルタントなどを長年務め、おもに農業の技術指導に関わって来た。

「ずっと技術畑で生きていたんです。こんな場合は、こう対処するといいとか、こうすればもっといい品質になるとか、理論や原則を大切にする生き方だったんです」

そんな浅野さんは、50代の末、それまでの仕事から農家に戻り、レンコン栽培に転進した。

「農業なら夏は楽だろう、なんて気が、少しはあったんでしょうか。でも、暇そうな時も、草取りなどして働かないと、後でひどい目に遭うんです。実際のハス栽培なんて何も知らなかったから、大変でしたよ。いつ、何をすべきか、何をしていいのか分からない。レンコンの種の植え方のような基本的なことでも分からなかった」

自分が栽培したものは可愛い

だから、周りの農家の人たちに教わりまくったそうだ。

「みんな、よく教えてくれました。でもね、俺はこうして30年も40年もやってきたから、って教えてくださるんですが、そのことがそれぞれちがう。長年の経験に基づいているから、説得力があるんですよ。正しいんですよ。それでも、その教えてくださることが、みなそれぞれ違うんです。ボクも困りました」

すると、浅野さんは言われたそうだ。

「30年、40年やってきたけど、一度として、こうすりゃ間違いなくできるなんてことはなかったよ。毎年、気候も水も、種だって違う。これでいいなんてない。毎年毎回、新しいことをやっているんだよ」と。

浅野さんは、経験の大切さを学んでいった。

こんなこともあった。農家の人たちが、自分の作った作物を自分の子どものようだ、と表現するのを、嘘っぽいと、かつては思っていたそうだが、

「でも、今は、その気持ちがよく分かります。自分が栽培したものは、本当に可愛い。自分の子どもみたいです。人生観が変わったかな」

浅野さんは、傍らのハスの茎をそっと手繰り寄せると、辛そうにした。

「見渡す限り緑の葉だったんです。それが、ちょっと台風の風が吹いただけで、すぐこんなに痛んでしまった。自然を相手にする仕事は、本当に大変ですけど、つねに結果が楽しみなんです」(写真家)

《続・平熱日記》23 三原色のわかるオヤジになりたい

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【コラム・斉藤裕之】1人の女の子がおりました。小さいころ誰もが好きなように、この女の子も絵を描くのが大好きでした。しかし、ある日、お母さまが手渡したのはたった3色の絵の具でした。赤、黄、青。女の子はそれを理不尽だとも思いませんでした。だって、その3色であらゆる色を作ることができたから。

やがて、女の子は絵を描くことを仕事にしたいと思い、美術の学校を訪ねます。そして、この少女に担当の先生は驚きます。抜群の描写力もさることながら、迅速かつ完璧に色彩を再現する少女に。これは同僚の美術の先生が体験された実話です。

三原色の話は、授業の中で簡単に触れることはあるのですが、本当に3つの色だけで絵を描く少女の話を聞いて思うところがありました。

例えば着るもの。気が付けばいつも同じものを着ています。平均的なご家庭よりかなり少ない衣類ケースの中身ですが、この際思い切って三原色程度にしてみようと思います。多分、風呂敷ひとつ程度になるのではないかと。

それから食べもの。何となく強迫観念に駆られて、品数を作ったり栄養を考え過ぎたりしがちですが、食事も三原色。ご飯と汁ともうひとつ。三原食で十分。そもそも、1日何種類もの野菜を必要量食べている人などいませんから。

具は3種でも立派な寄せ鍋

以前、ある美術大学の入試で、三原色の絵の具だけで描かせるという出題があったことを思い出しました。理論的には、三原色と白、黒があればすべての色を作ることは可能なのですが、実際には絵の具が物質である以上、例えば水彩絵の具と油絵具とでは色の混ぜ方や発色の具合は異なります。

また、パステルなど、画材によっては混色が難しいものもあります。私も経験がありますが、確かに画材屋さんに行くとずらりと並んだきれいな色の絵の具につい手が出るものです。

でもしばらくすると、いつも使う絵の具はそれほど多くないことに気づきます。私の場合だと、さすがに三原色とまではいきませんが、白黒を含めて10色ほどでしょうか。毎日絵の具をチューブから出しているのに、今さら三原色を考えるとは。まあ、散々な無駄を経験して人はほんの少しわかった気になるのでしょう。

さて、ある人から借りた料理本の「寄せ鍋」というページ。「具は3種でも立派な寄せ鍋となる。鯛、蒲鉾、くわい、それぞれの持ち味をじっくりと楽しめよう」。なんともみやびな三原色。ボロは着てても、こんな三原色のわかるオヤジになりたいものです。(画家)

《邑から日本を見る》25 沖縄の意志を尊重しよう

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】先月30日の沖縄県知事選挙で、「オール沖縄」の玉城デニーさんが8万票という大差で政府与党系の候補を破って初当選した。私は9月10日の本欄で「翁長さんが道筋を付けた沖縄の自己決定権を通すのか、それともヤマト(日本)への迎合を強めるのか」が問われる、と書いた。沖縄の人たちは、見事に米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する民意が揺るぎないことを示してくれた。

今回の知事選は翁長知事の急逝によるもので、建設が進んでいる辺野古沖の工事を「抵抗しても仕方がない。カネをもらった方がいい」と諦めるのかどうかが問われた。また、前回は自主投票だった公明党が、維新や希望の党と一緒に自民党が推す佐喜真さんを強力に支援し、基礎票だけでは佐喜真さんが優位という中での選挙だった。

結果はそうはならなかった。自民公明の両党は、菅官房長官、山口公明党委員長、二階自民党幹事長、小泉進次郎自民党筆頭副幹事長氏らを続々投入し、総力戦で臨んだ。しかし、「辺野古が唯一」を繰り返し、アメ(経済振興策)で思い通りになると考えていた政権与党の訴えは空振り。「政府の言いなりではなく、沖縄のことは沖縄で決める」という強い意志が勝ったのだ。

玉城さんの出自は沖縄ならではだ。米軍統治下の沖縄で、米海兵隊員を父に持ち、母子家庭で育ち、差別も受けてきた。戦後沖縄の歴史を背負った政治家だ。沖縄県以外だったら、知事はおろか国会議員にもなれなかっただろう。

玉城さんの勝因はいくつか挙げられている。翁長さんの「弔い合戦」もその一つだ。でも私は最大の勝因は、やはり普天間基地の辺野古沖への移設問題だったと考えている。玉城さんは一貫して辺野古の工事を認めないと訴えたのに、佐喜真陣営は最後まで移設の是非に触れず、「争点隠し」を通した。共同通信の出口調査では、無党派層の7割以上が玉城支持、自公両党の支持層も4分の1前後が玉城さんに投票した。政権は民意を読み違えた。

今度はヤマトが試される番

この結果について安倍首相は1日、「政府として真摯に受け止め、沖縄振興と基地負担の軽減に努めていく」と述べた。安倍さんの「真摯に」という発言は、これまでに何度も聞いており、またかと思う。彼は、真摯という言葉の意味がわからないらしい。菅官房長官の「粛々と工事を進める」という発言でわかるように、国は今後沖縄県の辺野古埋め立て承認撤回に法的対抗措置を取るようだ。

地元紙「琉球新報」は、1日の社説で「政府は、知事選で示された民意を率直に受け止め、辺野古で進めている建設工事を直ちに中止すべきだ。この期に及んで、なおも新基地を押し付けるというのなら、民主主義国家を名乗る資格はない」と厳しく指摘している。

問題はこれからだ。沖縄では、10月の県議会で辺野古新基地建設についての賛否を問う県民投票条例案が成立する見通しで、沖縄の民意と国の考えがガチンコ勝負になりそうだ。私たちヤマトンチュがどちらに付くのか、今度はこちらが試される番だ。(元瓜連町長)

《猫と暮らせば》5 若い女性が時代を引っ張る

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茶道を体験するインドネシアの女子中学生たち

【コラム・橋立多美】過日取材で、世界の主要な新興国の中で経済成長が際立つインドネシアから研修にやってきた女子中学生8人に会った。彼女たちがつくばで着付けと茶道を体験するというイベントだった。

8人のうち4人がスカーフのような布を頭にかぶっていた。これはイスラム教の女性が頭を覆う布で「ヒジャブ」と言う。同国の90%がイスラム教徒だと聞くが、黒髪を見せている中学生が半数を占めていてヒジャブの着用は強制的ではないらしい。

しつこく着物と帯の購入を勧められる着付け教室に通ったかいあって、なんとか自力で着られることから当日着付けを手伝った。片言の日本語しか通じないが身振り手振りで彼女たちと意思の疎通ができた。

かつてヒジャブは黒い無地の布だったが、今は上記の写真のようにカラフルな色に取って変わり、数枚持っていてその日の洋服に合わせて使うのだという。おしゃれなヒジャブを扱う店や、斬新なヒジャブのコーディネートを指南する雑誌が若者たちに人気で、最近は「ヒジャブ女子」と言われているそうだ。

ファッショナブルなヒジャブ

ヒジャブを付ける手順を見せてもらった。三角に折ったヒジャブをかぶり、額の上の角の長さを指でつまんで確認すると、あごの下で留める。留めるのは待ち針状の細いピン1本。針の先が首に刺さることはないかと聞くと、取巻く女生徒たちははじけるように笑って「ない」と答えた。鏡も見ずに着用に要したのはわずか数秒。5歳になると誰でも自分で付けるという話にうなずけた。

襟足と重ねた襟元が強調される着物。ヒジャブはそこを隠してしまうが、褐色の肌にマッチした鮮やかなヒジャブと彼女たちの若い肢体で日本人では表せない個性的な装いに仕上がった。「これもありだな」と思わせた。

ヒジャブは、イスラム教の聖典コーランの「美しい部分は人に見せぬように」という趣旨の教えに基づく。だが毎日着用するならファッショナブルに楽しくと変わりつつある。そこには宗教上の教えを守りつつ、明るい出口を見つけた女性たちの息吹を感じる。いつの世もどこの国でも若い女性が時代を引っ張るのだ。(ライター)

《続・気軽にSOS》22 苦しむために頑張るの?

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【コラム・浅井和幸】イップスって言葉を聞いたことはあるでしょうか。精神的な原因で思い通りの動きが出来なくなる症状のことです。ゴルフで使われ始めたようで、グリーン上の短いパットで手が震えてしまうなどの症状がプロ選手でもあります。

インターネットで調べると、イチロー選手が、高校野球時代の先輩後輩の人間関係でイップスになり、ボールが投げられなくなったとのことです。イチローの症状が、全く投げられないのか、自分自身だけに感じるギクシャクした感じなのかわかりませんが、確実にあったことです。

私は中学と高校で野球部に所属していました。当時は、練習中は水を飲んではいけない、膝を伸ばして腹筋運動をする、うさぎ跳びをする―という時代です。監督が、竹刀を持っていたり、エラーをすると怒鳴ったり、殴ったりすることが当たり前。サインを見逃すと、三振して来いという指示が出ることもありました。

そうすることで、技術が向上したり、根性がついたり、生活態度がよくなったり、素晴らしい大人になることはほとんどないことを、今なら簡単に証明できます。

生活の中のイップス

圧倒的な力関係の中、暴力で抵抗を抑えることは、思考を奪うことにもなります。その場で根性があるふりはできても、思考停止の状況では自主的なものは育たないのです。

むしろ、怖さから逃げる工夫をし始めてしまい、目立たないように、つまり試合中でも自分のところにボールが飛んで来ないでくれという気持ちが育ちます。うまくなる練習をしているように見えて、実は野球が怖くなる練習を続けているのです。

怒鳴って、自分の思い通り動かそうとしている指導者は、努力すればするほど、選手の上達にはつなげられず、自主性や上手くなる工夫を奪い、イップスを増やしてしまうのです。監督への従順な態度が育っているように見えて、反発も大きくなります。すべての選手がイップスになるのではなく、たまたま伸びる選手もいるから厄介です。

その成功を見て、怒鳴って、ぶん殴ればスポーツがうまくなり、根性がつくと勘違いしてしまう指導者もいるのが現実です。それは、スポーツに限らず、家族、学校、職場の人間関係でも同じです。人前に出るとあがってしまい、言動がギクシャクするのは、生活の中のイップスといえるでしょう。

頑張れば物事は成功するという考え方、頑張るだけで成功するという考え方が、どれほど世間で大切にされていることか。上手くいかないのは頑張っていないからだという思い込み。とても怖いことです。

頑張ることは、悪いことではありません。でも、その方向性が重要であることを、もっと考えるべきです。北海道に行きたいのに、沖縄に向かって頑張って走っても、そこでじっとしているよりも遠ざかってしまいます。

頑張ることで、より目的から遠ざかってしまう可能性を意識して、反省や軌道修正が大切なのです。(精神保健福祉士)

《ことばのおはなし》2 サルスベリのおはなし

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【コラム・山口絹記】「お花見日和だから公園に行こう」。3歳になる娘が不思議なことを言い出した。桜の開花までまだ半年はある。手を引かれるまま公園に行くと、なるほど、赤い花をつけた樹が目に入った。サルスベリだ。

「これは桜ではないのだよ」と言いかけて、やめた。サルスベリも花であることには違いない。なんとも寛容な考え方ではないか。それとも、これが親ばかというものなのだろうか。

ふたりで樹皮のすべすべとした触感を楽しんでいると、脳裏に懐かしい記憶がよみがえった。

以前、台湾人の友人が仕事で日本を訪れた折に、夜の東京を案内したときのことだ。

彼女もわたしも、出会ったときはまだ中学生だった。お互い相手の母語は一切話せず、英語もほとんど話せないため、意思疎通の主な手段は漢字による筆談。そんな頃からの付き合いだ。その彼女が、「何か美味しいものを食べて、それから東京タワーに行きたい」などと流ちょうな英語で話している。

彼女を連れて歩く道すがら、「あの樹は何?」聞かれ足を止めると、サルスベリが花を咲かせていた。

サルスベリの英名も中国名も知らないわたしは『百日紅』と書いて、「サルスベリ、ヒャクジツコウ。百日間、花を咲かせる、猿も滑るほど樹皮がなめらかな樹だ」と、中国語の筆談を交えながら英語で説明した。

筆談は久しぶりだね、とわたしが言うと、彼女はスマートフォンを取り出してなにやら必死に文字を打ち込み、「コレが、ワタシたちの、いつもでした」と、少しおかしな日本語で恥ずかしそうに答えた。Googleの翻訳機能を使ったのだ。

正確な日本語に訂正してあげようとして、良い表現が思い浮かばず、ふたりで笑いながらサルスベリの樹皮をなでた。

借り物の言語だとしても、ことばは便利だ。話しながら、星空を見上げたり、見つめ合うこともできる。もはや筆談を必要としないわたしたちは、ガードレールに腰掛けて、東京タワーを見上げながら色々なことを話した。

家族のこと、互いの国のこと、将来、そして別々に過ごした日々のこと。とりとめのない悲喜こもごもが、様々な言語を内包したわたしたちだけのことばで紡がれる。

彼女の彼氏の愚痴を聞きながら、出会った頃はこんな日が来るとは夢にも思わなかったな、とおかしくなって、ひとり吹き出してしまった。

「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」という彼女の声と、「パパ!ちゃんと聞いて!」という娘の声が重なり、わたしは我に返った。どうやら思い出にうつつを抜かしていたらしい。娘が不満そうな顔をしてわたしを見上げている。

「雲が太陽をぎゅーってしてるのかな」

帰り道、雲に隠れる夕日を見つめながら、娘がつぶやいた。ここにも不思議な日本語を話す女の子がいる。訂正するべきだろうか。

いや、わたしの脳裏をよぎった表現よりも、きみのことばのほうが余程美しい。親ばかと言われても構わない。

わたしは何も言えずに、ただただ夕日を眺めた。(言語研究者)

《くずかごの唄》23 酷夏の後遺症 わけの分からない病気

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【コラム・奥井登美子】日本人が歴史上今まで経験したことのなかったような暑さを体験した私たち。秋になって涼しくなり、ほっとしたとたんに、わけの分からない病気が増えてきたような気がする。

酷暑体験の後遺症。あと何年か経てば、その病気も解明されて、きちんとした病名がつくに違いないのだが、病気ともいえないわけのわからない症候群に、私はあだ名をつけてみることにした。

「声患い」

天気予報で低気圧が近づいてくると、加減が悪くなる人が増えてくる。「低気圧病」。喉が詰まって声が出にくくなる。声わずらいの人も多い。「コエ患いですか?」などと、冗談半分で聞くと、「とんでもない、そんな年ではない。喉が詰まって、声が出しにくいんです」。

「胃もたれ」

「熱中症」という漠然とした病気から派生した後遺症も多い。涼しくなって少しほっとしたトタンに、食欲がなくなって、何も食べたくない、何もしたくなくて、ごろごろしている症状のお年寄りが多い。医者もどうしていいのか解らないらしく、胃腸薬にビタミン剤を入れた処方箋が多い。

「かゆいかゆい病」

男の老人に多い。背中がかゆいと言ってかいてしまう。熱中症でたくさん汗をかいたのに、本人は気がつかない。そのままにしておいて、できたアセモを「孫の手」風の棒でかきむしってしまう。昔はそういう時、孫が来て、可愛い手で優しく背中をかいてくれたらしい。それで背中をかく器具に「孫の手」という名がついた。今の孫は、背中どころか小遣いをもらう時にしか来ない。

「稀勢の里症候群」

「私、お相撲が好きなんですよ。地元でしょう、稀勢の里を応援しているの。負けそうになって勝ったり、勝ちそうになって負けたり。心臓がドキドキしちゃって、見たくて仕方がないのに、心配で見ていられない。心臓に響くんですよ」「テレビを見なければいいのよ」「それが見ないわけにいかないんです」「病名は稀勢の里症候群ですね」(随筆家)

《光の図書館だより》11 来館者50万人達成 長く愛される図書館へ

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土浦市立図書館

【コラム・入沢弘子】新土浦市立図書館は9月30日に来館者50万人を達成しました。昨年11月27日に移転開館以来273日目です。50万人目の土浦市在住の親子には「土浦ブランド認定」のれんこんとグラジオラスを贈呈しました。

当館は94年の間に3度の移転をしましたが、過去の立地場所はいずれも土浦城跡・亀城公園に近い、市民に親しまれている場所でした。今回の移転先は中心市街地活性化の使命を負い、約2キロ離れた駅前でしたので、不安がありましたが、多くの方に来館いただけるようになりひと安心です。

来館者からは「本当にいい図書館だねぇ」と、よく声をかけられます。「お気に召していただけましたか?」とお聞きすると「イメージが変わったねぇ。来やすいよね」「霞ケ浦のコーナーよく出来てるよ。やっぱり土浦はいいね」「本を読まないけど来ちゃったよ。結構知り合いと会うんでね」「ランチマップもらって行ってみましたよ。館長さん全部のお店で食べたんだって?」などの声が聞かれます。

50万人目の小学3年生のお子さんにも感想を聞いてみたところ、「図書館の人が読みたい本のこと教えてくれるからいい」「とてもいい気分になれて大好き!」と話してくれました。

職員とのコミュニケーション

私も土浦に住んでいた小学生時代、図書館が大好きでした。当時は今の博物館の場所で、記者クラブも入居していたため、新聞記者の父と毎日通っていました。司書の女性は「今度はこれなんかどう?」と本を勧めてくれました。その時の1冊は今でも時々読み返します。

蔵書やサービスの充実はもちろんのことですが、土浦の図書館は本を通じて地元への愛着や誇りを感じてもらえること、市民の交流が生まれる場所であることはもちろん、職員とのコミュニケーションを通じて「図書館が大好き」という思い出を残してもらえることも大切にしていきたいと思います。

市民の皆さんにいつまでも愛される図書館づくりは、これからも続きます。(土浦市立図書館館長)

《土着通信部》22 平成に絶滅危惧の二十三夜講

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土浦・小松の三夜様境内にある二十三夜塔(左奥が社殿)

【コラム・相沢冬樹】十五夜から数えて8日目の10月2日は旧暦23日、土浦市内では城北町の月読神社と小松の三夜様の2カ所で、二十三夜講の縁日が催される。共に午前中、講のメンバーが社殿に集って歓談のときを過ごす。十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜などの「月待」は江戸時代全国に広まった風習だが、平成に至って行事はもとより、講の存続じたいが危うくなってきた。それだけに、縁日を毎月続ける土浦のケースが興味深いのだ。

かつての講は集落の戸主や主婦の仲間うちで小集団をつくり、厄病よけ、災難よけ、安産などを願い、斎戒(さいかい)して念仏を唱えた。月待の夜に集うのが習わしとなり、たとえば女たち、特に妊娠適期の主婦たちは女人限定の十九夜講に集った。同様の講には、60日に一度巡ってくる庚申(かのえさる)の晩に旦那衆が集まるお庚申(こうしん)様があり、徹夜になるから「日待」と呼び慣わした。

なかでも熱心に信仰されたのが二十三夜講だった。例外はあるものの、男たちの庚申講、女たちの十九夜講と単純化していくと、二十三夜講は若者のものとなる。小松の三夜様に置かれた小さな石仏群のなかにも二十三夜供養塔があって、小松村の若者講が文化四年(1807)に建てたと刻まれている。

これらの石仏に二十三夜講の隆盛がたどれる。二十三夜塔は、庚申塔(塚)や十九夜塔と同等の数が辻つじに残るのである。土浦市教育委員会「土浦の石仏」(1985年)によれば、市内(旧新治村除く)には36基の二十三夜塔を数えたほか、月読尊の本地仏である勢至菩薩の石仏が13基あった。庚申塔は46基、十九夜塔は10基(如意輪観音像を彫った十九夜講による石仏は25基)である。

居心地のいいたまり場

月待は飲んだり騒いだりする場ではなかったと聞くと、若者たちは深夜に及ぶ月の出をどのように待ったのか気になった。再現の企画をして各地をたずね回ったが、往時の様子を記憶するものは出てこない。土浦2カ所の二十三夜尊も、ともに昭和の半ばまで大いににぎわったとする記録があるが、すべて縁日夜店や花見の人出であって、深夜の月待のことではない。

今日では、さすがに夜更かしは敬遠され、念仏もあげなくなったけれど、お庚申様と十九夜講は形を変えて旧村部には多数が残っている。男どもの飲みニケーションの機会だったり、おしゃべり好きの主婦の娯楽だったりするわけだ。しかし、二十三夜講の影は薄い。つくば市だと、近郷近在から多くの参拝者を集めた月読神社(樋の沢)の衰退が久しく、三夜風呂を設けてにぎわったという勢至堂を持つ解脱寺(小田)も無住となって講は解消された。

二十三夜の月待は明治期以降、急速に存在感を失うのである。度重なる戦争に集団就職、核家族化で、若者の存在が希薄になる地域社会のありようと無関係ではないはずだ。平成の土浦で2つの二十三夜講に集うのは高齢者ばかりになってしまったが、なかなかに居心地のいいたまり場になっている。(ブロガー)

《吾妻カガミ》41 五十嵐市政 決断モードに

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つくば市役所本庁舎

コラム・坂本栄】これまでもクレオ跡地問題を何度か扱いましたが、冠木さんのコラム(映画探偵団11回)に刺激され、今回もこの問題を取り上げます。というのは、つくば市が行ったクレオ再生調査について、冠木さんは「すでに方向性は決定したとの印象を与えかねない、見事な誘導テクニックだ」と指摘しているからです。

つまり、8月前半に実施されたアンケート調査には、何か不自然さが感じられるというわけです。私も市が配った「クレオに関する検討状況について」というタイトルの発表文を一読して、同じことを感じました。何か変というより、調査のテイをなしていません。

期間はわずか2週間。しかも、無作為抽出で市民の考えを聴く形ではなく、意見のある人だけ、Web上で回答して欲しいというやり方です。さらに、判断に必要な材料が与えられていませんから、情報が少ないWeb弱者はどうしたらよいでしょう。

西武百貨店・イオン跡地を「市に何とかしてもらいたい」と思っている一部市民を対象にした、説得力に乏しい調査と言えないでしょうか。その結果は、①サンプル数1,242件②「商業施設」「公共施設」を望んでいる市民が多い③8割が市の関与を望んでいる―というものだったそうです。

拙速調査で方向誘導?

ここまで書いてきたら、市長の五十嵐さんが、クレオ跡を市が関与する形で買い取る構想を議会に示したとの情報が入ってきました。やはり、8月調査は誘導のテクニックだったかと納得すると同時に、やっと決断したかと思ったものです。

五十嵐さんの行政スタイルは、何事も市民の考え方をよく聞いて進める、首長の判断でドンドン進めるのは控える―というものです。前市長の市原さんの失敗(土浦市との合併予備交渉でも総合運動公園案件でも市長主導で進め、結果、市民の理解を得られなかった)を教訓に、組み立てているようです。

このスタイルは研究学園の知的な雰囲気に合っており、スマートだと思います。だとすれば、調査はきちんと行う必要があります。「つくばの怪人」(と私が呼んでいる)冠木さんに「誘導テクニックだ」と言われるようでは、五十嵐スタイルは見せ掛けになってしまうからです。

実は私、市原スタイルが間違っているとは思いません。というのは、首相でも市長でも社長でも、トップには判断に必要な情報がたくさん集まるからです。問題は、豊富な情報に基づいて合理的な決断ができるか、その決断を国民・市民・社員に説得できるか、です(できなければトップ失格です)。

自治体がデベロッパーもやるという決断が合理的とは思いません。経営のリスクを抱えた構想を市民が支持するかどうかも分かりません。でも、その是非は別にして、決断モードに入ったことは評価しています。(経済ジャーナリスト)