【コラム・山口絹記】「お花見日和だから公園に行こう」。3歳になる娘が不思議なことを言い出した。桜の開花までまだ半年はある。手を引かれるまま公園に行くと、なるほど、赤い花をつけた樹が目に入った。サルスベリだ。

「これは桜ではないのだよ」と言いかけて、やめた。サルスベリも花であることには違いない。なんとも寛容な考え方ではないか。それとも、これが親ばかというものなのだろうか。

ふたりで樹皮のすべすべとした触感を楽しんでいると、脳裏に懐かしい記憶がよみがえった。

以前、台湾人の友人が仕事で日本を訪れた折に、夜の東京を案内したときのことだ。

彼女もわたしも、出会ったときはまだ中学生だった。お互い相手の母語は一切話せず、英語もほとんど話せないため、意思疎通の主な手段は漢字による筆談。そんな頃からの付き合いだ。その彼女が、「何か美味しいものを食べて、それから東京タワーに行きたい」などと流ちょうな英語で話している。

彼女を連れて歩く道すがら、「あの樹は何?」聞かれ足を止めると、サルスベリが花を咲かせていた。

サルスベリの英名も中国名も知らないわたしは『百日紅』と書いて、「サルスベリ、ヒャクジツコウ。百日間、花を咲かせる、猿も滑るほど樹皮がなめらかな樹だ」と、中国語の筆談を交えながら英語で説明した。

筆談は久しぶりだね、とわたしが言うと、彼女はスマートフォンを取り出してなにやら必死に文字を打ち込み、「コレが、ワタシたちの、いつもでした」と、少しおかしな日本語で恥ずかしそうに答えた。Googleの翻訳機能を使ったのだ。

正確な日本語に訂正してあげようとして、良い表現が思い浮かばず、ふたりで笑いながらサルスベリの樹皮をなでた。

借り物の言語だとしても、ことばは便利だ。話しながら、星空を見上げたり、見つめ合うこともできる。もはや筆談を必要としないわたしたちは、ガードレールに腰掛けて、東京タワーを見上げながら色々なことを話した。

家族のこと、互いの国のこと、将来、そして別々に過ごした日々のこと。とりとめのない悲喜こもごもが、様々な言語を内包したわたしたちだけのことばで紡がれる。

彼女の彼氏の愚痴を聞きながら、出会った頃はこんな日が来るとは夢にも思わなかったな、とおかしくなって、ひとり吹き出してしまった。

「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」という彼女の声と、「パパ!ちゃんと聞いて!」という娘の声が重なり、わたしは我に返った。どうやら思い出にうつつを抜かしていたらしい。娘が不満そうな顔をしてわたしを見上げている。

「雲が太陽をぎゅーってしてるのかな」

帰り道、雲に隠れる夕日を見つめながら、娘がつぶやいた。ここにも不思議な日本語を話す女の子がいる。訂正するべきだろうか。

いや、わたしの脳裏をよぎった表現よりも、きみのことばのほうが余程美しい。親ばかと言われても構わない。

わたしは何も言えずに、ただただ夕日を眺めた。(言語研究者)