【コラム・相沢冬樹】この話には、2人の新聞記者が登場する。中井川浩(1900-1949)と市村壮雄一(1903-1975)である。中井川は戦前に衆議院議員を務め、戦後は阿見町の霞ヶ浦農科大学(茨城大学農学部の前身)理事長を務めた人物だが、元は報知新聞の記者で土浦に転勤後、資本金20万円で興した日刊の夕刊紙が「茨城民報」であった。

「昭和3年6月から7月にかけ土浦芸者の人気投票があった。主催は水戸市泉町に本社、県下各地に支局を持つ日刊紙茨城民報社である」と書いたのが市村壮雄一。「わたしゃわかさぎ、さむらいかたぎ、焼かれながらも二本差し」という粋な文句で、島倉千代子が歌った「土浦小唄」の作詞者という方が通りがいいかもしれない。

昭和3年だから、話は90年前、1928年までさかのぼる。阿見に霞ヶ浦海軍航空隊が開設され、旧土浦町の各所にあった花街が旧栄町の二業地に束ねられる時代である。地方の夕刊紙は風俗情報の発信を担っていた。茨城民報の土浦の後援者は「新聞社の経営を少しでも楽にしたい考えから土浦芸者の人気投票を思いついた」、すなわち紙面の一部を投票用紙にして、新聞を買わせるよう仕向けたのである。紙面には人気投票をあおりたてる記事をバンバン載せた。CDを買わないと“総選挙”に参加できないアイドル商法を1世紀近くも前に先取りしていたわけだ。

「当時、土浦見番に登録されていた芸者は70人以上で、若くて売れっ子の20人近くにはそれぞれパトロンがついていて、お互に一位にしてやろうという野望をもっていた。……二業組合はどこでも新聞を取り、霞ヶ浦海軍航空隊将校たちからも応援金カンパ(があった。)新聞に名前ののっている当の芸者はもちろん、待合の女将や女中までが思い思いに騒ぎまわり、ついに二業指定地は芸者の人気投票に明け暮れ、てんやわんやだった」(市村壮雄一「続・茶の間の土浦五十年史」1968年刊から抜粋)

名妓繚乱 恐慌前夜のあだ花

しまいに新聞社は投票用紙だけを百枚単位で刷り、1枚を新聞1部と同じ代金で売るという手口まで繰り出して「ボロ儲け」したのである。市内の商店もこぞって、副賞の商品提供などでこの狂乱に乗じる1カ月となった。

大正モダニズムが色濃く残り、昭和初期の退廃的で爛熟した世相がうかがえる。多分に土浦がもっとも勢いに乗った時代であった。茨城民報社は翌1929年5月には、いはらき新聞社に合併される。1929年といえば、10月にウォール街の株価暴落から世界恐慌が始まっている。土浦の名妓繚乱もまた、昭和恐慌前夜のあだ花のようなにぎわいであった。

中井川は土浦町議会議員、茨城県議会議員を経て、1932(昭和7)年の衆議院議員総選挙に出馬し当選。4回連続当選を果たした。かたや市村は土浦にとどまり、その後も健筆をふるう。なかでも二業地から丹念に拾い集めた花柳界情報は、興味本位の風俗ネタにとどまらない社会性をもって、貴重な時代の証言となっている。ようやく開架となった土浦市立図書館の郷土資料コーナーで読むことができる。(ブロガー)