木曜日, 4月 24, 2025
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《ひょうたんの眼》22 浄土の景 バンディ・アミール

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筑波山から鹿島神宮方向の日の出を望む

【コラム・高橋恵一】筑波山から東を眺(なが)めると、夏至の朝の日の出の位置に大洗磯前(いそさき)神社があり、冬至の朝の日の出の位置は鹿島神宮になるそうだ。それは、常陸国の国府からの方角でもある。人は、遠くの眺めに、多くの感情を馳(は)せ、膨大な想像を巡らせる。

京都の清水の舞台から眺める西山連峰(にしやまれんぽう)の夕景は、赤い落日に山並みの黒いシルエットを映し、限りない寂しさを醸(かも)し出すとともに、何かに救いを求めたくなるのだろう。夕景の向こうに西方浄土(さいほうじょうど)を観るのだそうだ。極楽浄土とも言い、人々の心の安らぐところであろう。

ところで、地図愛好家からすると、西方浄土は、どこにあるのだろう? 空海や最澄は中国を目指し、三蔵法師と孫悟空はシルクロードを西に向かった。

西洋のヨーロッパキリスト教社会は、異文化社会への畏怖(いふ)と、エルサレムやその先にある天国へのあこがれみたいなものが存在し、東方に天国を想像し、シルクロードを東に進む。マルコポーロは、ベネチアから東方に旅し、中国に至って、黄金の国ジャパンを記録した。東西の交わる場所が、シルクロードの十字路アフガニスタンとその周辺の地域である。

パミール高原とヒンズークシ山脈の中

1970年代。NHKの紀行番組で、アフガニスタンの乾燥した岩山に透明な水が湧き出し、豊かに水を蓄(たくわ)えている湖が紹介された。草木が1本も無いのに、美しい水があふれだしている湖。バンディ・アミールと紹介された。私は、映像の神秘さに惹(ひ)かれるとともに、そここそが、浄土であり天国なのではないかと考えたが、当時手に入る地図では、どこにあるかわからなかった。

パミール高原とヒンズークシ山脈の中だろう。バンディ・アミール川が渓谷を流れる資料があったが、インド洋に流れているのか、中央アジアのアラル海に繋(つな)がるのかわからない。しかし、いつかはシルクロードを旅し、浄土の湖を訪れるのだと思っていた。

1979年、ソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻した。抵抗勢力をアメリカが支援(加担)し、10年後にソ連が撤退したら、抵抗勢力の力が強くなり、親米勢力を凌駕(りょうが)して、もう50年も戦争状態が続いているのだ。

ソ連侵攻の直前。青少年の国際交流事業で、アジアの青年が茨城県を訪れ、アフガニスタン大統領の息子も鉾田市の農業青年宅に宿泊した。いい奴だったのに、クーデターで大統領とともに処刑されてしまったらしい。バンディ・アミールの近くにあるバーミアンの仏像も爆破されてしまった。

今になって、バンディ・アミールの位置がわかったのだが、かの地がいつ平和になるのだろう。訪れることは出来ないのだろう。(地図愛好家)

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《県南の食生活》7 保存食への思い 多様な食材を楽しむ

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【コラム・古家晴美】秋から初冬にかけては、旬を迎える食べものが沢山ありますが、今回はあえて季節はずれの食べものについてご紹介します。

現在は加工技術が進み、多くの食材が冷凍・真空パック、フリーズドライなどで、いつでも入手できます。ビニールパック入りの輸入物の水煮のタケノコを店頭でよく見かけますが、県南でタケノコ(孟宗竹=もうそうちく)が採れるのは4~5月ごろです。阿見町大室では、タケノコを今でも塩漬け保存し、活用している方がいらっしゃいます。

塩漬けには、手間がかかります。皮をむいたタケノコを茹(ゆ)で、塩をまぶして重石(おもし)を載せ、水分を出します。最初は毎日、塩をまぶし直し、タケノコから出てくる水分が少なくなってきたら、日にちの間隔を空け、完全に水が出なくなるまで10回ほど繰り返します。そうすると写真のように平たく潰(つぶ)れます。

それをさらに本漬けします。桶に塩と、塩をまぶしタケノコを交互に敷き詰め、一番上は密封し、重石を載せます。食べる時に水につけて塩抜きすると、タケノコは膨らんで大きくなります。これをうま煮やレンコン、しいたけ、人参と混ぜご飯などにします。薄切りにして甘辛く炒め、最後にごま油で香り付けたメンマ風に仕上げるとお孫さんも喜んでお弁当に持って行くとのこと。

夏に収穫されたキュウリは、同様に仮漬けしてから、塩ぐるみにしてトウガラシをたっぷり入れ本漬けすると1年は持ちます。冬になって人が集まる時には、塩抜きしてから少しの酢と調味料で軽く煮て、お茶請けに持って行くそうです。

収穫物を無駄にせず使いまわす

また晩夏に採れる赤じその実はざるにあけ、上から大量の塩を振る「ざる漬け」にし、完全に水分を抜くと常温保存できます。これをご飯や漬物に散らし香りを楽しみます。ちなみに、青じその葉はよく使われますが、実は大きすぎて食感もよくないことから塩漬けには不向きのため、もっぱら赤じその実が使われます。

冷蔵庫がない時代でも、保存食の知恵、そして何よりも「手間」によって、これだけ多様な食材を楽しむことができました。「他に食べるものも冷蔵庫もなかったから、必要に迫られ仕方なかったのよ」とおっしゃいます。

確かにそのような事情があったでしょう。また、季節はずれのものを食べる楽しみもあったでしょう。しかし、正直なところ、保存食に想像以上の多くの手間がかけられてきたことに圧倒されます。保存食とは、そもそも大量に収穫されたものを無駄にせず、使いまわしていくために工夫されたものです。

食べる必要、楽しみと共に、大切に育て収穫された食材を無駄にしたくないと言う食べものへの思いが、ここまで手間のかかる作業の後押しをしたのではないか、と思うのは私だけでしょうか。(筑波学院大学教授)

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《続・平熱日記》50 鼻毛 どうしても左右均等に切れない

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【コラム・斉藤裕之】「見なさい自然は完璧だ」。ダビンチはそう言ったとか言わないとか。そういう意味ではムダ毛と呼ばれる毛はないはずなのですが。

あまり毛深くない私は、髭剃(ひげそ)りの宣伝なんか見ると、毛深い人は大変なんだろうとお察しますが、それでも鼻毛なんかはそれと関係なく伸びてきます。専用の小さなはさみで切るのですが、どうも左右均等に切れていないような気がして。

というのも、切り終わってしばらくすると、左の鼻の穴の内側上方にかすかな違和感を覚えます。指で触って思い切ってグイっと抜いてみると、丁寧(ていねい)に切ったはずなのに長い毛が。大人の鼻毛ほど可愛げのないものはないですね。ふてぶてしいというか、いけしゃあしゃあと野太く育っていて。

そこで思い当たるのが美術の授業。正円や楕円を描く時に、右利きの人は時計回りの形が膨(ふく)らみ左回りにへこむ傾向があります。描いた図を回転させてみるとよくわかります。要するに、鼻毛が左右均等に切れないのと、円を描いた時の左右非対称との共通の理由はこの右手にあるのではないかと。

例えば陸上競技のトラックが左回りなのは、右の筋肉が強くて自然に左方向に曲がるのだとか。よって、オートバイの事故は曲がりにくい右カーブが多いとか聞いたことがあります。

線の引き方からから、ダビンチは左利きだったことが知られていますが、学校では1クラスには平均2、3人の左利きがいると思います。手足や目、耳や鼻の穴まで利き側があるそうで、確かに風邪をひいて鼻が詰まった時に、左しか詰まっていないのに鼻で息をすることができないことがあって、私の利き鼻の穴は左なんだと実感したことがあります。

これからも右往左往の人生?

それから脳みそにも右と左の役割があって、手の指の組み方で右脳派とか左脳派とか言われたり。また主義主張にも右や左があるなんてことは、何となくみんなが幸せになればいいなあと呑気(のんき)に生きていた私には難しいお話なのですが、ふと原稿を書いていて思ったのは右という漢字の書き順について。

左が横棒からというのに対して、右という字が縦画から始まるのは円を描く時のふくらみとへこみに共通したものを感じます。顔の左右も然り? いずれにしても人間にとって「左右がある」というのは実は不思議な事象なのかもしれません。

18歳で右も左もわからない東京に来て、満員電車なるものに揺られる中、目の前に迫るおじさんの耳に、ごっそりと毛が生えているのを見つけた時の驚き。ところがある日、なんだか耳の穴がごそごそすると思って触ってみると、自分の耳にも毛が生えているのを確認した日のやるせなさ。

多分これからも右往左往しながらの人生。とりあえず左の鼻の穴の毛は左手で切ってみようかと思います。(画家)

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《邑から日本を見る》52 那珂市で夭折の画家の作品展

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盛況だった寺門彦壽の作品展=那珂市古徳「総合センターらぽーる」

【コラム・先﨑千尋】那珂市古徳の「総合センターらぽーる」で17日、戦時中に22歳で亡くなった日本画家、寺門彦壽(てらかど・ひこじゅ)の作品展が開かれた。彦壽は那珂郡静村(現那珂市)出身で、茨城が生んだ日本画の巨匠、横山大観が「天才少年」の折り紙を付けた。昭和16年(1941)、東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)を首席で卒業し、研究科に進んだが、同年6月に徴兵検査を受けた後、盲腸炎で亡くなった。これから画家として世に出ようとした矢先、突然の病魔が彼を襲った。

彦壽の作品は、死後に同窓生が開いた遺作展のあと、長いこと生家の蔵にしまわれたままで、世間に知られることはなかった。

昨年暮、私は同じ寺門姓の洋画家、寺門幸蔵の生家を調べていた。知り合いの直子さんから、「幸蔵はうちではないけれど、叔父の彦壽の絵がある」と言われ、作品を見せてもらった。絵は、小中学校や美術学校時代に描かれたもの数十点が保存されていた。また、日記や下絵、スケッチブック、落款(らっかん)なども数多くあった。

彦壽が遺した絵は、ふるさとの風景や草花、人物画が大半で、優しい色合いと克明な描き方が特徴。同窓生が遺した手記には「水戸中学5年の時に茨城美術展に出品した作品に対して、審査員の横山大観画伯から天才少年の折り紙をつけられた」とある。生家には、大観が彦壽を養子にしたいと訪れた、という話も伝わっている。

蔵から見つかった作品の中には傷みが激しいものもあり、当主の直子さんは今後の管理が難しいと考え、市への寄贈を決めた。そしてすべての作品を旧知の記録写真家、柳下征史さんに撮ってもらい冊子にまとめ、地元の人たちに作品を見てもらおうと考えた。

幸い、瓜連まちづくり委員会が毎年開いている「瓜連ふれいあい祭」の一環として彦壽の作品展を組み入れてもらうことができ、1日限りの作品展が開かれる運びになった。

近くにこんなすごい人がいた

今回展示された作品は、小学校時代に制作された「水辺の少年たち」や新美術展入選の「少女と春」「田端駅風景」など20点と中学時代の習作、スケッチブック、日記など。展覧会当日は開室前から行列ができ、ひっきりなしに見物客が訪れた。市内だけでなく、北茨城市、筑西市、取手市、つくば市などからも大勢の来場者があり、700~800人になったと思われる。

私が最初に彦壽の絵を見たとき、戦没兵士の絵を集めて展示している長野県上田市の無言館を思い出した。そして「こんな素晴らしい作品を埋もれたままにしておくのはもったいない。彦壽も無念の想いだったに違いない。まず地元の人に見てもらい、近くにこんなすごい人がいたということを知ってもらおう」と、那珂市歴史民俗資料館などの協力を得ながら、作品展の準備を進めてきた。

文化勲章を受章した日本画家の東山魁夷や杉山寧は、美術学校で彦壽の少し先輩だった。彦壽が盲腸炎にならなければ、素晴らしい画家になったと思うと、やはり残念でならない。

私の今回の発見はたまたまだったが、どこでも埋もれた「お宝」はあるはずだ。それを見つけるのは、そこに住んでいる人。玉は磨いて光らせたい。そう考えている。(元瓜連町長)

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《食う寝る宇宙》50 宇宙天気インタプリタ提案の旅②

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【コラム・玉置晋】「宇宙天気研究と社会インフラ現場の間には専門知識と機密性の2つの『死の谷』が存在しており、宇宙天気研究が社会インフラ現場に伝わっておらず、現場の情報が研究者に伝わっていない。この橋を渡る『宇宙天気インタプリタ(翻訳者)』が必要です。研究と実務の死の谷を飛び越えていかないと、発展はありません。宇宙天気が当たり前の時代を見据えて土台をつくっていくのが、我々世代の責務です!」と、いくつかの学会で格好つけてきました。

2059年の世界観、月に普通のヒトが住むのはもう少し先の話で、常時、数10人の調査員が滞在する、そう、2019年時点の南極基地のようなイメージ。でも、人類の生活圏は高度100キロに達し、大陸間の移動はサブオービタルフライト(弾道飛行)が主流となり、割高にお金を払えば東京からニューヨークに2時間で到着する。

衛星軌道は数10万の大規模衛星群と数100万の宇宙デブリが過密に飛び交う時代。宇宙状況監視・宇宙交通管理局(通称SSA/STM局)はこれらの交通管制と太陽および地球周辺の宇宙環境監視を行う役割を担う。

宇宙環境監視とはいえ、自分で望遠鏡を覗くわけではなく、衛星の観測データが自動にコンピューターに取り込まれ、人工知能AIが1次評価を行う。宇宙天気に関してAIが特異と判断した場合、「宇宙天気インタプリタ」はその情報を精査する。宇宙天気研究者や宇宙交通管制オペレーターと協議の上、危機と判断したら、宇宙交通の「通行止め」などの勧告を行う。

ある日、太陽の黒点群の異常な発達をAIが検知し、24時間以内のXクラスの太陽フレアの発生確率は99%と表示された。AIを用いた太陽フレア予測は2010年代ごろより急速に発展した。太陽フレア発生の物理メカニズムは非常に複雑で、2059年時点でもその解明には至っていない。代替して、過去の蓄積データを用いた機械学習により、未解明のサイエンスを補完し、宇宙天気は実用に耐えうるものになりつつあるのだ。

宇宙天気エンタメ

僕は上記のような職業ができると想定して活動しております。一方、現在において、宇宙天気で利益を出すにはどうしたらよいか仲間内で議論した結果、エンタメが必要かもしれないとの結論に至りました。

最近では、茨城発の宇宙ベンチャー企業「Yspace」が宇宙天気VRコンテンツを開発しています。僕が研究指導を受けている茨城大野澤研究室(宇宙天気防災)でも科学考証で協力させていただいており、今後が楽しみなコンテンツです。(宇宙天気防災研究者)

※プレスリリース:宇宙天気×エンタメで宇宙天気が知名度アップし、応援してくれるヒトが増えるといいなあと期待しています。

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《地域包括ケア》48 後期高齢者に医療・介護連携ノートを

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在宅医療と在宅介護の説明書

【コラム・室生勝】病院の救急医がいま抱えている問題に、救急医療で危機を脱した患者の身体機能の低下がある。数日間の絶食で咬(か)む・飲み込みの咀嚼(そしゃく)・嚥下(えんげ)をしないため、あるいは病気の悪化のため、咀嚼・嚥下機能が失われる状態になる。また、安静で下肢筋力が衰え歩行困難になったり、認知機能が低下したりすることだ。

在宅の高齢者が肺炎で通常の救急搬送で一般病棟に入院した場合も、咀嚼・嚥下機能の低下、歩行障害、認知症が始まったりすることがある。特に75歳以上にみられるという。その対策として、病気の治療と並行して、早めに口腔(こうくう)リハビリや坐位・起立訓練などが実施されている。

私は診療所医時代、在宅患者の病状が悪化し、在宅医療が困難になって入院を病院に依頼する場合、「早めの入院、早めの退院」をお願いした。その理由は入院で下肢筋力などの低下を避けるためであった。

在宅医療を行っている診療所医には、在宅療養支援診療所(在支診)の設置基準の一つ「緊急時に在宅での療養を行っている患者が入院できる病床を常に確保していること」とあるように、いざというときに入院できるベッドが必要である。それに対応してくれる「在宅療養支援病院」はつくば市にはない。

「在宅療養支援病院」と同じ役割をもつ「地域包括ケア病床」がある病院は、つくば市にある。同病床は、急性期病棟で治療を終えた患者が介護施設へ移れない、あるいは在宅復帰できないときに受け入れる病棟で、在宅医療中や施設入所している高齢者の緊急時の受け入れも行っている。

在宅医療主治医は在宅患者の緊急時あるいは重症化したときの入院依頼時に「診療情報提供書」を病院医に届ける。その提供書には最近の病状と治療内容を書くスペースしかなく、患者がいままで罹(かか)った病気、生活習慣(喫煙、飲酒、味覚の嗜好など)、性格、家族関係、介護状況などを記載するところがない。

診療情報提供書に書き切れない情報を、前回コラムに書いた「連絡ノート」に患者や家族が普段から書き入れておき、入院するときに持参し、治療や患者とのコミュニケーションに役立ててもらいたい。認知症がある場合には病院看護に大いに役立つ。

サイズを大きくし記載項目を多く

連絡ノートは在宅の高齢者に関わる多職種(医師、歯科医、薬剤師、訪問看護師、リハビリ職、デイサービスやデイケアの職員および訪問介護のヘルパー、ケアマネジャーなど)が連携するため、またサービス提供時に高齢者の様子を他の職種に伝える連携ノートとして使用されていた。

しかし、診療所受診や通所サービス(デイサービスやデイケア)を利用する際に持参し、高齢者の状態をサービス提供者に記載してもらっていないようだ。医療機関同士の連携にも使用されていない。病院の救急医は、救急車で来院する高齢者の医療情報を「お薬手帳」から得ているようだ。

つくば市は多職種連携のため、A5版のビニール製、名刺大ポケットがあるルーズリーフ形式の「医療・介護連携ノート」を作成したが、サイズをもう少し大きくし、記載項目を増やす必要がある。高齢者が通院、通所サービス、短期入所の際に持参し、医療者や介護職からケアチームへの情報提供や本人・家族へのメッセージを記載する利用法があってよい。

市は後期高齢者に「医療・介護連携ノート」を提供してはどうだろうか。今まで罹った病気、治療中の病気と薬、罹っている診療所医や検査を受けた病院名、リビングウィル、かかりつけ医の協力でアドバンスケアプランニングを書いておけば、緊急入院する場合も救急医は大変参考になる。(高齢者サロン主宰)

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《宍塚の里山》51 今年の「収穫祭」は11月24日

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昨年の収穫祭の様子

【コラム・及川ひろみ】秋は里山の収穫シーズン。今年も「収穫祭」を11月24日に行います。黒米(くろごめ)入りの餅(もち)をついて、野菜たっぷりの「ぬっぺ汁」、カボチャ蒸しパン、くるみ餅、大学芋(だいがくいも)。竹馬やゲンコなど昔の遊び、若者や子どもに人気のスラッグライン、木の実を使った工作、わら細工。琴や尺八、竹笛の演奏―。食べる、遊ぶ、作る、鑑賞など、盛りだくさんの祭りです。

会場の中央には、地元の方々が集まるテントを設けています。宍塚にお住まいであるにもかかわらず、収穫祭が年1度の再会の日となっている方もおられ、収穫祭のメニューを囲み、笑い声が絶えない一角です。

庭の大きな柚子(ゆず)の樹、そのうち一本は会の樹だよと、毎年たくさんの柚子を提供くださる方。かりん、瓢箪(ひょうたん)、キウイ、ハヤトウリ、サトイモなどありがたい差し入れもいろいろ。

毎年、自然農田んぼ塾で活動をしている、土浦第四中学校科学部,キャンエコ(法政大学キャンパスエコロジーフォーラム)、筑波学院大生、竹園高校国際科の学生たちは昨年、コーラスを披露してくれましたが、今年はお茶を立ててくれることになりました。

中学生は日ごろ「竹」に関する調査活動をしていることから、参加者の食器、皿、椀、箸を竹で作ります。参加者には食器を持参することを伝えていますが、昨年は中学生が50人分以上の食器セットを作ってくれました。

学校で「金融」を勉強していることから、今年、20名以上の部員たちは、竹食器を作るだけでなく、竹を使った販売物をつくるそうです。キャンエコは、毎年20~40名が餅つき、かぼちゃの蒸しパン、大学芋づくりなどの活動をしますが、今年はどのような活動を希望するのかまだ分かりません。

学生は自主的に参加 貴重な体験に

自主的に参加することで責任感がわき、より貴重な体験になることを期待しています。筑波学院大学からは、今年は1年生8人が参加を希望。収穫祭当日は、8時から準備を開始、片付け終えるのは15時ごろ。近隣に住む彼らは最初から最後まで活動します。

会員が大量の道具を軽トラで堤防に運びますが、それを指定されたブースに運び、テントを張り、祭りが始まると、代わる代わる餅をつき、こね、ちぎり、指導を受けながら活動します。これらを通して、さまざまな人から手際よく活動することも学びます。

子どもたちも大活躍するのが収穫祭。「受付はこちらです」など、参加者に大声で伝え、餅や汁、当日のメニューを各ブースの担当者に運ぶなど、できることはいくらでもあります。

収穫祭までの準備も、大勢で手分けをして行います。薪(まき)は林の活動で得た材を2年間乾燥させ、ダイコン、サツマイモ、サトイモなどの食材は前日までに担当者が配り、当日に備えます。今年も天気に恵まれますよう、祈っています。どうぞ皆さまご参加ください。(宍塚の自然と歴史の会代表)

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《ご飯は世界を救う》17 パン屋さん「ピジョンポスト」

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つくば市研究学園のパン屋「ピジョンポスト」のメニュー

【コラム・川浪せつ子】「ピジョンポスト」という名前のパン屋さんを知ったのは、5~6年前。建築士会女性部会の忘年会だったと思います。いろいろな方とおしゃべりし、「最近こんな仕事をした」という話を聞くのも楽しみの一つ。造園を専門にやっている建築士さんから「研究学園の住宅地の中のパン屋さんのお庭をやったよ。ぜひ行ってみて」。

2月に入って、近くに行く用事があったのですが、分かりにくい場所。おまけに雪が降ってきてしまうし、電話をしてみました。すると「今日は定休日です。でもせっかく来てくださったから、その場所で待っていて下さい。いま行きます」。雪が積もるほどの中、店主さんが来てくれ、パンを下さいました。雪の寒い日、心がホッコリ。その後、数回おうかがいしましたが、ここ数年ご無沙汰していました。

今年に入り、ある方から「ピジョンポストさんで、(川浪さんの)絵ハガキを販売してくれるとうれしいなぁ」。というのは、つくば市役所近くの某所で販売をしていたことがあり、その方はよく買ってくださっていたのでした。いろいろ事情もあり、数年前にハガキの販売は終了していました。

私の絵ハガキも販売しています

ここのところ、ピジョンポストさんにはご無沙汰なのに…と思いつつ、訪ねました。とりあえず、久しぶりにパンをいただこうと思って、店内のテーブルでコーヒーも頼み、食していました。不思議ですね、ポカ~ンと店主さんと私2人の時間が。久々なので、お訪ねしていない負い目というか遠慮がありましたが、なんだか神様が渡し船を出してくださったような感じになりました。

そこで思い切って絵ハガキの販売のお願いを、切り出しました。それはちょうどお盆前。そして店主さんのご厚意で、11月から絵ハガキを販売してくださることに。今はクリスマスの絵が中心で、あとは筑波山周辺の絵です。

絵ハガキの販売は、ほかに、つくば駅改札近くの「つくば良い品」という筑波山周辺の銘菓など販売しているお店と、荒川沖駅前の喫茶店「カフェ・ド・コトブキ」です。1枚でも売れると、私のモチベーションがアップします。お近くに行かれましたらお寄りくださいね。(イラストレーター)

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《くずかごの唄》50 老人性うつ病からの脱却 その2

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【コラム・奥井登美子】「立派な老人性うつ病です。入院中の安全のために両手を縛らせていただきました」。舅(しゅうと)を診断した老人精神科の専門医の言葉は、私に重すぎた。

舅はとても手先の器用な人で、「死にたい」と言い出すと、紐(ひも)状のものを探し出しては首に巻き付けてしまう。それより危険なのが「タバコ」。タバコはないのにマッチやライターを探してきて火を付けてしまう。

親類や近所の人に舅のボケ(認知症という言葉も当時は用語としてなくて、全部ひっくるめてボケと表現していた)を隠して欲しいと、姑(しゅうとめ)から厳しく言われていたので、彼らは舅の病気を知らない。

知っていても対応できる病気ではない。親類が来ると仏壇に線香をお供えして帰る。仏壇の周りをくまなく探すと、マッチやライターが出てくるのだ。何回ボヤ騒ぎを起こしたかわからない。布団の下の畳まで燃やしてしまったこともある。

病院ではベッドの柵(さく)に両手を縛られて安全が守られていたけれど、家で、私が舅の両手を縛ったりしたら、隣近所、親類が大変なことになってしまう。事故を起こさない覚悟を決め、昼間は誰かしらに側にいてもらったが、子育てと、薬局と、夜中の介護で、丸4年間、私は身体がいくつあっても足りない毎日だった。

幸福感を強調する作戦

親子だから、亭主も性格が舅に似て、くそ真面目で律儀な人である。テレビのニュースは暗い話題が多くて見たくないという。私は亭主を老人性うつ病にだけはしたくないと、相手に気づかれないように、それとなく早くから対策を立てるようにした。

われわれの育った時代と今、何が違うかというと、「幸福感」が違う。何を幸せと感じるか、私は「幸せ感」を強調する作戦に出ることにした。まず食べ物から…。

「私は小学生のころ、白いご飯が食べられるだけで、とても幸せだったわ」

「僕は、それに生卵があれば何もいらなかったよ」

「今日のご飯は、いただいた新米なの。でもおかずは、買い物に行く時間がなくて、あり合わせのものばかり。ごめんね」

「新米なら、味噌汁だけでもいいよ」

「茨城は、野菜が美味しいから助かるわ。タケちゃん(私の弟で食通)たち東京の人はこんな野菜の贅沢できないものね」(随筆家、薬剤師)

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《法律かけこみ寺》12 かけこみ寺大変 弁護費用の値段は?

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土浦市神龍寺(本文とは関係ありません)

【コラム・浦本弘海】そこなおまえさん、何をそんなに悩んでおる? ああワシか、ワシはこの寺の住職で弘海と申す者。まあ行列のできない法律相談所や弁護士ドット・コマナイやヤッホー頭陀袋(ずだぶくろ)のような悩みの相談に乗っておる者と思えばよい。

なに? 法律の悩み、それはお困りじゃな。これもなにかの縁というもの。愚僧でよければ聞かせてごらん。

なんと、弁護士に相談する費用が気になると、それはもっともじゃ。相談もなにも先立つものは心配になろう。

訴訟までに至らない法律相談の場合、30分ごとに5000円がひとつの目安になる。最初の30分は無料という法律事務所も珍しくない。

弁護士の報酬というのは、かつては弁護士会が基準を定めておって、個々の法律事務所による違いはなかった。しかし、弁護士報酬が自由化され、いまは事務所によって報酬の基準が異なる。この点は注意が必要じゃ。

ちなみに、各事務所の報酬基準は事務所に備え置くことになっておる。

ところで、いまでも弁護士会が定めた基準を用いている法律事務所は多い。じゃから、かつての基準は一応の目安になる。この基準に照らして弁護士費用を説明しよう。

請求訴訟:着手金+成功報酬

たとえば訴訟について、相手方に100万円請求する場合を例に挙げる。弁護士費用は、着手金といって結果にかかわらず発生する部分と、報酬金という成功報酬部分に分かれる。

100万円を請求する場合でみると、着手金が10万円、報酬金が(100万円の請求が認められた場合で)16万円の合計26万円となる(税別)。

なに、難しい計算はネットで調べられる。ここではkeisanサイトをお勧めしておく。用途に応じてもう少し細かく知りたい場合は、日本弁護士連合会サイトに「市民のための弁護士報酬ガイド」というのが掲載されている。少しは参考になったかな。

法律相談は、各自治体が専門家と提携して無料の法律相談会を実施している場合があるし、法テラスにも無料法律相談制度や費用立替制度がある。

なんでも「法テラス」というのは、法律によってトラブル解決へと進む道を指し示すことで、相談する人々のもやもやとした心に光を「照らす」場という意味を込めた造語と聞く。これ仏法の「光明遍照(こうみょうへんじょう)」にも通じるところ。

どうか悩みが解決しますように。(弁護士)

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《吾妻カガミ》68 新旧土浦市長の政治と経済のセンス

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土浦市役所

【コラム・坂本栄】秋の土浦市長選挙では、16年の実績を掲げ継続を訴えた中川清さんが、変革の必要を前面に押し出した安藤真理子さんに敗れました。結果は本サイトの記事「新人の安藤氏が現職の中川氏を破る」(11月10日掲載)をご覧ください。中川さんの敗因はいろいろ挙げられますが、一言でいえば、市民に長過ぎると思われたからでしょう。

私は、経営のセンスを市政に生かし、土浦改造計画に取り組んだ中川さんの実績を評価、中川市政に合格点を付けたいと思います。長い間お疲れ様でした。中川さんの口癖は「私は政治家でないから…」でしたが、市民の感情に想いが至らなかった政治のセンスは残念でした。

逆に、変化と女性であることを強調した安藤さんの政治センスはなかなかでした。高いリスクを覚悟して、3段跳び(市議→県議→市長)に挑んだセンスに拍手を送ります。当選おめでとうございます。ただ市民への公約束集は場当たりのところが多く、整合性に欠けるところが気になります。

将来投資と財源不足

安藤さんは「市の財源不足は拡大の一途をたどっており、…… 、危機的な財政状況にある」と、中川市政を批判しました。数字は確かにその通りです。詳しくは本サイトの記事「財政不足額が毎年10億円超 5年後に基金枯渇」(10月27日掲載)をご覧ください。

しかし財源不足は、中川市政の実績(市庁舎移転、2大病院支援、図書館移転、新市営斎場整備、市民会館改装、市民球場改装などなど)を表とすれば、その裏で生じたものです。経済の言葉で言えば、設備投資のための借り入れ増によって発生したものです。企業が法人の生存のために投資するように、市が投資をしないとあとで困るのは市民です。

問題は赤字がマネージャブル(管理可能)かどうかです。そうするために、中川さんは行財政改革を掲げ、不評を承知で職員と冗費(じょうひ)を削りました。細かな支出カットを積み上げながら、将来のための投資を続けたわけです。経済のセンスです。

公約は手かせ足かせ 

安藤さんは、税収増のために自分の足で企業を誘致すると公約しました。公約の肝(きも)ですが、これには問題があります。中川市政下で工業団地は完売になり、工場を誘致する区画はもうありません。公約実現には用地造成が必要です。つまりおカネがかかる投資が必要になります。でも中川さんが公約した湖畔へのリゾート企業誘致は引き継いでください。

市民に受ける公約を並べても許されるのが選挙かもしれませんが、首長になると、選挙での約束は手かせ足かせになります。政治とは厄介(やっかい)なものです。

私はコラム「土浦の市街地をつくり変える仕事」(9月16日掲載)で、市長選は無投票になりそうだと書きました。しかしそうはならず(ジャーナリスト落第!)、久しぶりに選挙らしい選挙になりました。この読み間違いを反省、これからは安藤市政をしっかりウォッチしていきます。(経済ジャーナリスト)

➡坂本栄の過去のコラムはこちら

《沃野一望》10 間宮林蔵の5 晩年

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つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

日本国探索の密命を帯びて来日したドイツ人医官シーボルトへ日本地図を与えた張本人だと、幕府天文方高橋景保(たかはし・かげやす)を密告した廉で間宮林蔵は、学者のみならず町人からも警戒され疎(うと)まれた。

林蔵はひとり、不遇の生活を余儀なくされた。そのような林蔵に、勘定奉行川路聖謨(かわじ・としあきあら)が新たな役目を与えた。聖謨の後ろ盾には、老中大久保忠実(おおくぼ・ただみ)がおり、大久保もまた林蔵の活躍の場を模索していた。

川路聖謨は林蔵へ、内密糺方(ないみつただしかた)を命じた。林蔵がカラフト探検の際に足を踏み入れた韃靼(だったん)での見聞記『東韃紀行(とうたつきこう)』を読み、林蔵の探偵としての資質、情報収集能力を見抜いていた。その能力を活用し、隠密として全国各地へ潜入し情報を集めてこいと命じた。

林蔵は、受けて立った。乞食(こじき)に姿を変え、あるいは俳人になりすまし、また経師屋(きょうじや)の弟子となって大名の城中へ潜入し、城内の見取り図を作成したりした。

隠密活動を行う林蔵を、より積極的に活用しようとしたひとりの藩主がいた。水戸藩九代藩主徳川斉昭(とくがわ・なりあき)。斉昭は幕政の改革を図り海外情勢を洞察し攘夷論を展開、内政にあたっては、水戸藩の手による蝦夷地経営を目論んだ。

その計画実現のため斉昭は、間宮林蔵の知識と経験と行動力に着目した。腹心の藤田東湖(ふじた・とうこ)を林蔵のもとへ遣わし、蝦夷地経営の助力を要請する。

川路聖謨の命で隠密生活を送っていた林蔵であったが、水戸藩からの誘いは、積年の宿願を成就させる役回りであった。喜んで水戸藩の力になろうと決意する。水戸藩は、林蔵の故郷の常陸国である。

「手伝い女」りきに看取られ死去

しかし、巡り合わせの悪さが、斉昭や林蔵の行く手を塞ぐ。

老中水野忠邦(みずの・ただくに)は、蝦夷地全島を松前氏に委ねる処置をとり、水戸藩の蝦夷地経営計画を葬り去る。そればかりか、七か条の推門状(すいもんじょう)を水戸藩邸に下し、さまざまな難癖をつけ、ついには、気随驕慢(きずいきょうまん)、制度無視の罪名のもとに、「致仕謹慎(ちしきんしん)」を斉昭に命じた。斉昭は幕政の表舞台から追放された。

また林蔵は、旺盛な意欲と裏腹に、湿毒(しつどく)の病が重篤(じゅうとく)となり水戸藩の要請に応えられない身体になっていた。歩行困難になってしまった林蔵に、活躍の場はなかった。

林蔵は生涯、妻帯しなかったが、病床を「手伝い女」りきが面倒をみた。りきは、常陸国筑波郡狸淵村(むじなぶちむら)の、林蔵の名目的養子先飯沼家から遣わされた女だった。林蔵はりきと、筑波山の見える故郷を語りあい、激動の人生で味わったことのない安らぎを覚えた。林蔵はりきに、手の平の火傷(やけど)の痕の意味を語った。

筑波山立身岩の鬼神との約束を胸に秘め、弘化元年(1844)りきひとりに看取られ、間宮林蔵は波乱の生涯を閉じた。(作家)

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《続・気軽にSOS》49 「就労支援事業所を利用しています」

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【コラム・浅井和幸】ある男性から相談がありました。それは下記のようなものでした。

ご無沙汰しております。覚えていますか? 以前、そちらの相談室でお世話になったAです。今は、就労支援事業所でお世話になっており、毎日通っていて、それなりに給料もいただいています。

順調にいっているとも感じていて、以前より、楽しいと感じる時間も増えてきました。ですが、その事業所の人間関係や将来のこと、病状のことでネガティブになり、苦しいことも出てきました。

その事業所にカウンセラーがいるのですが、どのように相談してよいか分かりません。忙しそうにしていて、私の些細(ささい)な悩みで時間をとってしまうのが申し訳ないと感じてしまうこともあります。

それでも苦しくて、その事業所に通い続けられなくなってしまう怖さもあります。どのようにすればよいか分からなくて、さらに苦しくなっています。

遠慮せずに相談することが大切

物事に対して、Aさんはネガティブに考えを巡らせてしまう癖があります。考えすぎると、相手の考えを推測しているのか、相手が本当にそう考えているのかも区別がつかなくなり、前に進めなくなるタイプです。私は、下記のように回答しました。このようなことは、多くの方が抱えている悩みだと思いますので、参考になれば幸いです。

ご無沙汰しています。今、就労支援の事業所に通われていること、一時期の辛くて動けなかった時に比べて、楽しい時間を多く感じられるようになっているのですね。たくさん努力をされたのだと思います。本当によかったと思います。

そうは言っても、相手に気を使いすぎて、自分の辛さの相談が後回しになってしまうのですね。Aさんは、取り繕(つくろ)うのが上手くて、周りから見ると「あまり辛そうに見えない」と感じさせてしまうことが多いのだと思います。笑顔も出て、元気そうにみられがちなのでしょう。

福祉事業所のカウンセラーは、相談を受けるためにいるのですから、遠慮せずに相談することが大切です。些細なことで相談しすぎかなと感じるときは、そのこともカウンセラーと話をするとよいです。声をかけ辛いということであれば、定期的に相談できるように計画に組み込んでもらうのもよいでしょう。

もちろん、カウンセラーでなくとも、管理者でもサービス管理責任者でも指導員でも、相性の合う人に相談できるとよいですね。事業所によって対応は違うでしょうから、対応してもらえるかどうかも相談してみてください。

そして、今いる事業所だけでなく、相談支援事業所の相談支援専門員や、役所の障害福祉課、保健所や精神保健福祉センターなどに相談することも考えられます。

浅井心理相談室や、かすみがうら市とつくば市で毎月行っている、なんでもかんでも相談も、気軽にご利用ください。(精神保健福祉士)

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《霞ケ浦 折々の眺望》11 小堀進 霞ケ浦の水彩画家

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【コラム・沼澤篤】画学生は水彩画を入門として画才に目覚め、美大や画塾を経て、アクリル画、日本画(岩絵具)、洋画(油彩)などに挑む。一方、趣味の絵画教室や絵手紙教室では、気軽に描ける水彩画の人気が根強い。実は水彩画は奥が深い。水彩画の可能性を追求した画家が潮来出身の小堀進(1904~1975)である。

彼は大正11年(1922)に千葉県立佐原中学を卒業、美術教師の職を得たが、画業に専念すべく上京。文展入選を果たすが、戦争が激化。潮来へ疎開。戦後再上京、日展評議員などを歴任。昭和45年(1970)、霞ケ浦湖畔の天王崎から浮島方向を描いた「初秋」により日本芸術院賞受賞。水彩画家として初めて日本芸術院会員に推挙。昭和50年(1975)71歳で逝去。平成3年(1991)潮来町名誉町民。

経歴は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のようだが、戦中戦後の耐乏時代に画家として生きることは易くなかっただろう。随筆で「作品は自分をかくせない世界だけに、人間としての完成が作品を左右すると思う時、上手な画家よりはよき人間としての勉強が優先するものと考えている」と述懐している。彼にとって水彩画は、人間性を高めることだった。

小堀進は霞ケ浦を多く描いた。どの作品も、刻々と変化する雲の色や形、空の色、水の色、植生帯(しょくせいたい)の色、対岸の浮島や遠望の筑波山を描きながら、心象を表現している。カメラではなく水彩を借りて、自分が感じた心の中の風景をできるだけ再現したいという願いが伝わってくる。

岸辺に寄せる波や植生帯をリアルに描いているように見えるが、科学者の冷徹な観察眼ではなく、自身の心を表現している。しかし彼は、非現実的な理想の風景美を追求したのではない。霞ケ浦は、季節、時刻、天候が変わると、まさに彼の作品にほぼ近い風景を見せる。彼は、自分が描きたい風景に邂逅(かいこう)するまで、霞ケ浦に何度も通った。

湖水の色を忠実に再現

「朝陽」(1955)では、天王崎の朝の霞ヶ浦と対岸の風景を描いた。朝の光が波に反射して輝き、湖全体が晴々(せいせい)と微笑しているようだ。一方「霞ケ浦」(1957)では、雨雲が上空を覆い、雨足がレースのカーテンのように垂れ、湖水は濃緑であるが暗くない。実際に梅雨時の霞ヶ浦ではこのようになる。

「霞ケ浦夕映え」(1966)では、湖水が薄紫を帯びた桃色で、波は無く、水墨画のように雲が表現されている。「霞ケ浦」(1967)では、日の入り直後、暮れ残る浅葱(あさぎ)色の空と茜(あかね)色の残照が雲の切れ目から覗き、湖水は植物プランクトン(藍藻類・らんそうるい)の大発生を思わせる濃緑に藍色が混じる色で描かれている。

晩年の「霞ケ浦」(1973)で、湖水はエメラルドブルーに、遺作の「虹」(1974)では、暗緑に描かれており、折しも湖水の極度の富栄養化で、アオコが大発生していた時期である。アオコが発生すると湖水は太陽光をエメラルドブルーに、翳(かげ)った水域では暗緑に反射する。

小堀進は湖水の色を忠実に再現していた。亡くなる前年まで霞ケ浦を描き続けた画家は、美しかった湖水を汚して恥じない人間の罪をどう思っていたのだろうか。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)

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《映画探偵団》25 新民謡「土浦音頭」を歌った名妓君香

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【コラム・冠木新市】桜川流域には、昭和初期(5年か8年)に作られた「土浦音頭」なる新民謡が残っている。3年前、「土浦音頭」を題材に宴劇「桜川芸者学校/水の守り人」の上演を考えていた時、「土浦音頭」のことを土浦で聞いてみたが、知っている人は皆無に近かった。そんな中、つちうら古書倶楽部で、楽譜、レコードなどの資料を探すうちに、「茶の間の土浦五十年史」(市村壮雄一著)と出会った。

「土浦音頭」は、地元の歌を作りたいと考えていた芸者見番(けんばん)頭取、桜井留吉が組合幹部に相談し企画したものだ。作詞は茨城県を代表する詩人横瀬夜雨(よこせ・やう)、作曲は若手の弘田竜太郎(ひろた・りゅうたろう)に依頼した。SPレコードに歌を吹き込んだのは、君香という芸者だった。

君香ら7人の芸者衆は、高島屋で仕立てたそろいの着物をきて、若柳吉兵衛(わかやぎ・きちべえ)振付の舞いと歌を「桜まつり」の日に初披露した。

常磐津と清元と長唄を融合させたような4番まである優雅な曲(8分ぐらいの長さ)は好評だったという。それから、東京上野不忍池の水上音楽堂、三越ホール、松坂屋ホール、郷土民芸大会や、全国物産共進会アトラクションなどに次々出演し、評判を博した。

芸者ワカサギ売りかつぎ屋

だが、その後の経過をみると、東京での芸術的評価に比べて、地元での人気はいまひとつだったのではないかと私は考える。高尚すぎたのだと思う。しかし、歌を吹き込んだ君香という芸者の人生には興味深いものがある。

名妓(めいぎ)と言われた君香は、金のある旦那は虫が好かず、惚(ほ)れるのは文無しのやくざものばかり。好きな男に金をつぎこみ、とうとう3人の子持ちの砂利取り労働者と一緒になる。君香は周囲の反対を押しきり、芸者を廃業してしまう。それから姿も一変し、生わかさぎ売りの行商をするが、「あの名妓が…」といった同情も手伝ってよく売れたという。

日華事変が激しくなると、今度はかつぎ屋として、ヤミ米を背負って東京へ運ぶ毎日。結局、無理がたたり、胸の病いにおかされる。夫は出仕事、子供たちは世話をしてくれず、君香は掘っ立て小屋で1人床についた。

そんな君香の病状を風のたよりで知った、かっての芸者仲間が、救済の義援金を募り予想外の金を集める。けれども見舞いの手筈(てはず)を整えた時、君香は桜咲く季節に亡くなってしまう。35日後の昭和18年(1943)5月7日、神竜寺で開かれた法要には70人近い芸者仲間が集まったという。君香がいかに仲間から愛されていたかの証しである。

五社英雄監督の『陽楼』

そんな君香のイメージから、私は五社英雄監督の『陽暉楼(ようきろう)』(1983)を思い出した。主人公の桃若(池上季実子)が、お座敷で舞いながら少女時代を回想する。父親の勝造(緒形拳)が12歳の娘を芸者にするため、陽暉楼の門前に立つ。勝造は「この門をくぐったらお前は玄人(くろうと)ぜよ。玄人のお人好しはバカも同じぜよ」と教える。

一級の芸を身につけた桃若は女将や客に媚(こ)びない女性だったが、銀行頭取の御曹司と恋に落ち妊娠してしまう。桃若は本気だったが、相手は遊びでしかなかった。その後出産し、無理がたたり結核で亡くなる。

五社監督は悲しい女の運命を描こうとしているのではない。客商売の建て前組織の中で、本音で生きようとして浮き上がる女の葛藤(かっとう)を描いているのだ。桃若は玄人のお人好しとして生きた。

私は、君香が芸者を廃業した理由は、「土浦音頭」を理解する地元の客があまりにも少ないことに失望したからではないかと考えているのだが、思い込みが過ぎるだろうか。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

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《土着通信部》34 これからが旬の味覚の寒烏

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冬場に大群をつくるカラス=かすみがうら市新治、2017年撮影

【コラム・相澤冬樹】土浦から石岡や茨城空港方面へ車を走らすとき、かすみがうら市新治の間道をよく利用する。大きな養豚場があるせいか、寒い季節になるとカラスの群れが次第に大きくなって数百羽の大集団を形成している。

やはりここに群れを作っているトンビと、日がな追いかけっこを繰り広げているのがおもしろく、車を停める。制空権を握るべくカラスの群れが殺気立って鋭く切れ込むと、トンビの一群は円弧を描きながら空高くに舞い上がる。追い立てられている様子だが、あしらっているようにも見えて、あきずに見物してしまう。

寒烏(からす)に興味を覚えたのは、ここ数年のことだ。7-8年前、ひたちなか市で開かれた「ブラックバードの会」なる催しに招かれた知人が、寒烏料理を食べてきたという土産話を持ってきた。以来、冬場のカラスが気になって仕方がない。

料理学校の調理師が考案したカラス料理のフルコースが振る舞われたそうだ。うまかったというのだが、にわかには信じがたい。その知人も3年前に亡くなり、会が今も続いているかは確認できずにいる。

俳句をたしなんだ知人によれば、寒烏は新年の季語、味覚の旬も冬場らしい。なんでも、寒烏を食するのには訳があって、ひたちなか市の特産品である「干し芋」と結びついている。カラスの狩猟期間は秋から冬にかけてと決まっていて、この時期は収穫の終わったイモ畑に飛来し、我が物顔で畑に山積みされた葉や茎をたらふく食っている。雑食性を忘れ、草食になるため、肉から臭いが消え、刺し身(カルパッチョ)でもいけるのだそうだ。

烏と鴉と雅、いずれもカラス

漢字でカラスは多くの人が烏と書くが、俳句では「鴉」を用いるのが一般的と聞いた。けれど「鴉」一語では季語とはならず、「鴉の巣」(春)、「鴉の子」(夏)と組み合わせて使うという。

よくみると、この字、「牙」と「鳥」から成っている。してみると鳥の古形である「隹」(ふるとり)を「牙」と組み合わせた「雅」もまた、カラスのことではないか。漢和辞典に当たってみると、ビンゴだった。

烏と鴉と雅、いずれもカラスだが、その使い分けまでを書いた辞典はない。漢語で、神に仕える巫女が踊る朝廷の美しい様子を「夏(カ)」という。「夏」は「なつ」の意味だが、もともとは「美しい様子」、「美しい詩」を意味する。「雅」は「夏」と音が似ていたため、「雅」に「美しい様子」、「美しい詩」の意味が出来た(風船あられの漢字ブログ)そうだ。

都市ゴミをあさるなどして、今日ではすっかり嫌われもののカラスだが、古来わが国の形象文化のド真ん中に位置づけられる鳥類であった。烏の濡れ羽色という表現や八咫烏(やたがらす、サッカー日本代表のエンブレム)に象徴されるよう、美や畏怖(いふ)の対象とされてきた。食えない話である。(ライター)

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《続・平熱日記》49 おにぎり おむすび にぎりめし

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【コラム・斉藤裕之】どこかに出かけたとき、2人分の食事を頼むと食べきれず、かといって…。そんなときには道の駅のおにぎり。おにぎりといえば思い出す2人。

人が食べる姿に初めて感動を覚えたのは、勝新太郎演じる座頭市。おもむろに懐から取り出した握り飯を一心不乱にかぶりつく、いやむしゃぶりつく。食欲という本能と、コメが口から喉元を通る刹那(せつな)の満足感。まさに至高の瞬間の演技。これが正しいにぎりめしの食い方!と直感しました。

勝手な解釈ですが、コンビニで売っているのは「おにぎり」、おいなりさんと並んで売られているやつは「おむすび」、市さんの食べるやつは「にぎりめし」です。

もう1人は裸の大将こと山下清。ドラマの中では、おにぎりを食べるシーンが印象的でしたが、実際はどうだったのか。ちなみに長い間坊主頭で、夏はランニングに半ズボンだった私は、よく清画伯に似ているといわれました。

特におにぎりにこだわりはないのですが、成田に行く途中にあった河内町の農産物直売所にちょこんとあったおにぎりは美味しかったなあ。若干先細りの二等辺三角形、ご飯の量も上品で、特に葉唐辛子が好きでした。移転した新店舗でも売っているそうです。

佐原の道の駅では、銀杏(ぎんなん)や枝豆入りなどいろんな種類のおにぎりがいっぱい並んでいて目移りするほど。どのお宅にもそれぞれのおにぎりがあると思いますが、私の母はかつおぶし専門でした。

日本が誇るファーストフード おにぎり

さて先日訪れた日光。少し色づいた山々、ひんやりとした空気。車を置いて東照宮へ。前回訪れたのはいつだったか。でもなんだか依然と違う雰囲気が。

修復が進んできれいになっているだけではなく、平日というのにものすごい観光客。修学旅行の子供たちや家族連れ。それから御多分にもれず多くの外国人。ちょうどラグビーワールドカップも開催中とあって、見覚えあるチームカラーのジャケットを着た外国人も。世界遺産を初詣よろしく列になって拝観。

当たり前ですが、ここは山の中。長い石段を登って休憩。また登って休んで。参道から駐車場に戻るころには足がガクガク。日ごろの運動不足を再認識して、「日光は見たのでしばらくは結構」。

来年のオリンピックには、この何倍もの外国人がいらっしゃる予定とか。例えば日光なんかで、美味しいおにぎりなんかお手軽で喜ばれるんじゃないですかねえ。帰り際に立ち寄った道に駅の手作り漬物が美味しかった。こういうのを具にしてね。オリンピックは日本の誇るファーストフード・おにぎりでおもてなし。

あ、外食ですけど、食べ残すのが申しわけないので、最近はタッパーを持参するようにしているんですよ。昔、母がそうしていたのが嫌でしたけど。(画家)

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《邑から日本を見る》51 嗚呼、首里城炎上!

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飯野農夫也氏の版画「憩い」

【コラム・先﨑千尋】先日、テレビをつけたら火事の情景が映っていた。沖縄県那覇市の首里城が炎上している。まるで地獄絵を見ているようだ。とっさに、木村武山の「阿房劫火(あぼうごうか)」が頭に浮かんだ。明治40年(1907)の作。2000年前に書かれた司馬遷の歴史書「史記」から題材を求めたという作品だ。今回の首里城と同じように、城が激しく燃えている絵だ。この絵を見たとき、こうした火事が現実に起きるとは考えもしなかった。

今月1日付の現地の新聞は、「首里城炎上 沖縄の象徴崩落」「崩れる正殿に悲鳴 心の支え失った」「沖縄の魂焼けた」などと、関係者や近くの住民が深い衝撃を受けたことを伝えている。

東京の新聞も、「本土の住人にとっても、胸を締め付けられるような光景だった。沖縄県民が受けた衝撃と悲嘆は計り知れない」(朝日1日付社説)、「炎を上げて燃える建物に胸がつぶれる思いがした。沖縄の人々のショックと喪失感は想像にあまりある」(毎日1日付社説)などと書いている。

首里城は、15世紀から19世紀まで約450年にわたって琉球を統治し、日本や中国と交流し、アジア各国との海洋貿易で栄えた琉球王国の王城だった。高台に建つ壮麗な城は、国王の居所であり、政治や祭礼、文化・芸術の拠点だった。日本本土とは別の道を歩んだ琉球の歴史そのもの、沖縄文化の象徴であり、まさに沖縄の人たちの心のよりどころだった。

戦前は正殿などが国宝に指定されたが、アジア太平洋戦争末期に米軍の激しい攻撃によって破壊されてしまった。戦後、30年かけて主要な建物が復元され、首里城跡などは世界遺産に登録されている。私も一昨年に拝観したが、今では280万人の旅行者が訪れている。

かつて琉球王国があった沖縄

琉球王国はもともと明朝中国と冊封(さくほう)・朝貢(ちょうこう)関係にあり、中継貿易を行っていた。江戸時代に入ってすぐの1609年、薩摩藩は首里城を攻略して事実上の支配下に置いた。しかし中国との関係も続いていたので、二重の属国であったが、琉球王府は維持されていた。幕末の1850年代に、琉球王国は米・仏・蘭と条約を結んでいることからわかるように、一つの国家だった。

それが暗転するのは明治になってから。明治政府は武力を背景にしながら、1872年から数年かけて琉球王国を琉球藩にし、廃藩置県により沖縄県とし、王国を崩壊させた。この経過は琉球処分と言われているが、まさに琉球は処分されたのだ。

政府高官は「尖閣諸島は日本固有の領土である」と言っているが、沖縄本島を含めて日本の領土にしたのはたかだか150年前のことであり、とても「固有の領土」などと言えるものではない。沖縄県民の声を無視して進めている辺野古への新基地建設をめぐっての政府の対応を見れば、支配者層は、沖縄はなお属国か植民地だと考えていることがわかる。

今回の首里城炎上は残念で悲しいけれども、多くの日本人に、かつて琉球王国があったことを知る機会になればと願う。(元瓜連町長)

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《食う寝る宇宙》49 宇宙天気インタプリタ提案の旅 ①

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【コラム・玉置晋】以下、宇宙に深く関連する職場での雑談です。「宇宙天気って、昔から重要だ、重要だ!というけれど、一向に食えんな!」「人間の想像力には限界があって、実際に不幸な出来事を体験しなければ、ニーズは生まれないだろうね」。極めつきは「君はあと20~30年遅く生まれるべきだったね」。トホホ…。

宇宙天気というのは、「社会インフラに影響を与える宇宙環境変動」です。といっても何のこっちゃですよね。僕たちは毎日「おてんと(天道)様」を気にして生きています。お天道様というのは「太陽に畏敬と親しみをこめて言う語」と辞書にあります。

太陽は世界中で古代より神格化され、太陽神として祀(まつ)られています。日本では天照大神(アマテラスオオカミ)が太陽神ですね。神様ですから、人智を越えたパワーを持っています。太陽表面での爆発現象「太陽フレア」の威力は、人類が生み出した最強最悪の武器である水素爆弾10万~1億個分の爆発エネルギーに相当するといわれています。

2012年には、最強レベルの太陽フレアが発生しましたが、発生場所が地球と反対側の太陽の裏側でした。あと2週間発生が早ければ、地球の正面で爆発がおき、地球はその直撃を受けていたことでしょう。世界中の電力・通信網が影響を受け、文明が後退する恐れすらあった危機でした。

天照大神の匙加減で救われた?

米コロラド大学の先生の論文「2012年7月の太陽放出現象を極端宇宙イベントと定義」(※)によると、「もしガスの塊(かたまり)が地球方向に放出されていたならば、19時間で地球周辺に到達し、1852年に発生した観測史上最大の宇宙天気イベント『キャリントンイベント』を上回る磁気嵐が発生した可能性があった。われわれは、このような極端宇宙天気現象が電力網のような技術システムへ与える影響について、早急に議論すべきである」とあります。

つまり、天照大神のわずかな匙(さじ)加減により、われらの社会インフラはことなきを得たのです。

幸い、7年前は何事もなかった。そして、今も社会的な対策はみられない(一部の研究プロジェクトは動いていますが)。雑談で出てきた「人間の想像力には限界があって、実際に不幸な出来事を体験しなければニーズは生まれないだろうね」は、的(まと)を得たコメントなのかなあと思います。

僕は少しでもこの状況に抗(あらが)いたいと思います。「宇宙天気インタプリタ」という構想を提案する旅に出ます。―つづく―(宇宙天気防災研究者)

※ D,N,Baker.; X,Li.; A,Pulkkinen.; C,M,Ngwira.; M,L,Mays.; A,B,Galvin. A major solar eruptive event in July 2012: Defining extreme space weather scenarios. SPACE WEATHER. 2013, vol.11, p.585-591. doi:10.1002/swe.20097.

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《地域包括ケア》47 家族の看取り 冷静に対処して

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【コラム・室生勝】9月14日のコラムで、「24時間、往診と看取りをするのが在支診(在宅療養支援診療所)の設置基準にあり、できるだけ対応すべきである」と書いたが、「看取りの対応」は入っていないとサロンで指摘された。厚労省の設置基準には「24時間365日体制で往診が可能」「看取り等の実績を定期的に厚労省へ報告している」とあるので、私は開業医当時から「依頼があれば往診し、看取る、すなわち臨終に立ち会う」のが基準と理解していた。

緊急に往診依頼があっても患家に着いた時には、すでに患者が亡くなっていることの方が多く、「看取る」を「臨終に立ち会う」とすると、全ての場合に臨終に立ち会えない。だから厚労省は「看取り」を設置基準に入れなかったのではないか。

「看取り」は三省堂の大辞林によると、「病人のそばにいて世話をする。また、死期まで見守る、看病すること」とある。看取りを家族が行い、家族が不安であれば看護師が支えるのが自然な流れであろう。家族は患者の呼吸が止まった時を死亡時刻と判断してよく、医師が死亡を確認する時に伝えればよい。

医師から患者の余命があと1カ月と家族に告げられたら、医師や訪問看護師から死期が近くなったら見られる症状について学ぶ。4月27日のコラムに書いた「死の準備教育」を受けることである。患者本人も家族も「最期は自宅で」と望んでいる場合は必ず学んでほしい。

家族は本人が苦しそうにしている時や最期の時に慌てて救急車を呼んだりしては、お互いの想いが台無しになってしまう。どういう状況になっても家族は冷静に対処するように心がけてほしい。何かあった場合はまず訪問看護師やかかりつけ医に連絡することである。

後期高齢者は「連絡ノート」の用意を

看護師や医師に電話で連絡すれば、救急車が必要なら指示してくれる。慌てて救急車を呼ぶと、本人が延命処置を希望しないとリビングウィル(生前意思表示)していても、それを見せないと救急隊員は懸命に患者を助けようとする。呼吸が止まっていて心肺停止と判断した場合も、蘇生(そせい)術を行いながら病院へ搬送する。

かかりつけ医が病院医である場合は、臨終が迫り病院へ連絡しても往診はしてくれず、救急車で来院するよう指示される。「最期は自宅で」という想いをかなえられなくなる。9月28日のコラムの「かかりつけ診療所医と病院専門医の主治医2人制」は、このような時にかかりつけ診療所医が対処してくれる。

救急車にお世話になる場合はほかにもある。後期高齢者で狭心症(きょうしんしょう)や心筋梗塞(しんきんこうそく)にかかったことがあったり、高血圧、高コレステロール血症、糖尿病などの持病で通院治療している人は、心筋梗塞や脳梗塞・脳出血の突然の発症もあり得るし、たちくらみやつまづきで転倒し外傷や骨折する場合である。

後期高齢者になったら「連絡ノート」を用意し、今までかかった病気、今治療中の病気と薬、かかっている診療所医や検査を受けた病院名、リビングウィルなどを書いておく。ノートの表紙には、病院主治医や検査を受けた病院の名称を大きく書いておき、救急隊にすぐ渡せるようにしておく。診療時間外の救急担当医もノートを見て、患者本人の意向に沿った治療をしてくれるだろう。

在宅医療の診療所医と病院医の関係は、退院時、患者および家族に病院担当医、担当看護師、在宅主治医、ケアマネジャーなどが行う「退院時共同指導」で連携が定着しつつあるが、病院救急医との連携は弱い。各病院の救急医と在支診の医師たちが一堂に会し、連携について話し合うべきだ。(高齢者サロン主宰)

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