【コラム・先﨑千尋】先日、テレビをつけたら火事の情景が映っていた。沖縄県那覇市の首里城が炎上している。まるで地獄絵を見ているようだ。とっさに、木村武山の「阿房劫火(あぼうごうか)」が頭に浮かんだ。明治40年(1907)の作。2000年前に書かれた司馬遷の歴史書「史記」から題材を求めたという作品だ。今回の首里城と同じように、城が激しく燃えている絵だ。この絵を見たとき、こうした火事が現実に起きるとは考えもしなかった。

今月1日付の現地の新聞は、「首里城炎上 沖縄の象徴崩落」「崩れる正殿に悲鳴 心の支え失った」「沖縄の魂焼けた」などと、関係者や近くの住民が深い衝撃を受けたことを伝えている。

東京の新聞も、「本土の住人にとっても、胸を締め付けられるような光景だった。沖縄県民が受けた衝撃と悲嘆は計り知れない」(朝日1日付社説)、「炎を上げて燃える建物に胸がつぶれる思いがした。沖縄の人々のショックと喪失感は想像にあまりある」(毎日1日付社説)などと書いている。

首里城は、15世紀から19世紀まで約450年にわたって琉球を統治し、日本や中国と交流し、アジア各国との海洋貿易で栄えた琉球王国の王城だった。高台に建つ壮麗な城は、国王の居所であり、政治や祭礼、文化・芸術の拠点だった。日本本土とは別の道を歩んだ琉球の歴史そのもの、沖縄文化の象徴であり、まさに沖縄の人たちの心のよりどころだった。

戦前は正殿などが国宝に指定されたが、アジア太平洋戦争末期に米軍の激しい攻撃によって破壊されてしまった。戦後、30年かけて主要な建物が復元され、首里城跡などは世界遺産に登録されている。私も一昨年に拝観したが、今では280万人の旅行者が訪れている。

かつて琉球王国があった沖縄

琉球王国はもともと明朝中国と冊封(さくほう)・朝貢(ちょうこう)関係にあり、中継貿易を行っていた。江戸時代に入ってすぐの1609年、薩摩藩は首里城を攻略して事実上の支配下に置いた。しかし中国との関係も続いていたので、二重の属国であったが、琉球王府は維持されていた。幕末の1850年代に、琉球王国は米・仏・蘭と条約を結んでいることからわかるように、一つの国家だった。

それが暗転するのは明治になってから。明治政府は武力を背景にしながら、1872年から数年かけて琉球王国を琉球藩にし、廃藩置県により沖縄県とし、王国を崩壊させた。この経過は琉球処分と言われているが、まさに琉球は処分されたのだ。

政府高官は「尖閣諸島は日本固有の領土である」と言っているが、沖縄本島を含めて日本の領土にしたのはたかだか150年前のことであり、とても「固有の領土」などと言えるものではない。沖縄県民の声を無視して進めている辺野古への新基地建設をめぐっての政府の対応を見れば、支配者層は、沖縄はなお属国か植民地だと考えていることがわかる。

今回の首里城炎上は残念で悲しいけれども、多くの日本人に、かつて琉球王国があったことを知る機会になればと願う。(元瓜連町長)

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