【コラム・沼澤篤】画学生は水彩画を入門として画才に目覚め、美大や画塾を経て、アクリル画、日本画(岩絵具)、洋画(油彩)などに挑む。一方、趣味の絵画教室や絵手紙教室では、気軽に描ける水彩画の人気が根強い。実は水彩画は奥が深い。水彩画の可能性を追求した画家が潮来出身の小堀進(1904~1975)である。

彼は大正11年(1922)に千葉県立佐原中学を卒業、美術教師の職を得たが、画業に専念すべく上京。文展入選を果たすが、戦争が激化。潮来へ疎開。戦後再上京、日展評議員などを歴任。昭和45年(1970)、霞ケ浦湖畔の天王崎から浮島方向を描いた「初秋」により日本芸術院賞受賞。水彩画家として初めて日本芸術院会員に推挙。昭和50年(1975)71歳で逝去。平成3年(1991)潮来町名誉町民。

経歴は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のようだが、戦中戦後の耐乏時代に画家として生きることは易くなかっただろう。随筆で「作品は自分をかくせない世界だけに、人間としての完成が作品を左右すると思う時、上手な画家よりはよき人間としての勉強が優先するものと考えている」と述懐している。彼にとって水彩画は、人間性を高めることだった。

小堀進は霞ケ浦を多く描いた。どの作品も、刻々と変化する雲の色や形、空の色、水の色、植生帯(しょくせいたい)の色、対岸の浮島や遠望の筑波山を描きながら、心象を表現している。カメラではなく水彩を借りて、自分が感じた心の中の風景をできるだけ再現したいという願いが伝わってくる。

岸辺に寄せる波や植生帯をリアルに描いているように見えるが、科学者の冷徹な観察眼ではなく、自身の心を表現している。しかし彼は、非現実的な理想の風景美を追求したのではない。霞ケ浦は、季節、時刻、天候が変わると、まさに彼の作品にほぼ近い風景を見せる。彼は、自分が描きたい風景に邂逅(かいこう)するまで、霞ケ浦に何度も通った。

湖水の色を忠実に再現

「朝陽」(1955)では、天王崎の朝の霞ヶ浦と対岸の風景を描いた。朝の光が波に反射して輝き、湖全体が晴々(せいせい)と微笑しているようだ。一方「霞ケ浦」(1957)では、雨雲が上空を覆い、雨足がレースのカーテンのように垂れ、湖水は濃緑であるが暗くない。実際に梅雨時の霞ヶ浦ではこのようになる。

「霞ケ浦夕映え」(1966)では、湖水が薄紫を帯びた桃色で、波は無く、水墨画のように雲が表現されている。「霞ケ浦」(1967)では、日の入り直後、暮れ残る浅葱(あさぎ)色の空と茜(あかね)色の残照が雲の切れ目から覗き、湖水は植物プランクトン(藍藻類・らんそうるい)の大発生を思わせる濃緑に藍色が混じる色で描かれている。

晩年の「霞ケ浦」(1973)で、湖水はエメラルドブルーに、遺作の「虹」(1974)では、暗緑に描かれており、折しも湖水の極度の富栄養化で、アオコが大発生していた時期である。アオコが発生すると湖水は太陽光をエメラルドブルーに、翳(かげ)った水域では暗緑に反射する。

小堀進は湖水の色を忠実に再現していた。亡くなる前年まで霞ケ浦を描き続けた画家は、美しかった湖水を汚して恥じない人間の罪をどう思っていたのだろうか。(霞ヶ浦市民協会研究顧問)

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