《沃野一望》10 間宮林蔵の5 晩年

つくば道

【ノベル・広田文世】

灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼

我(わが)ひめ歌の限りきかせむ  とて。

日本国探索の密命を帯びて来日したドイツ人医官シーボルトへ日本地図を与えた張本人だと、幕府天文方高橋景保(たかはし・かげやす)を密告した廉で間宮林蔵は、学者のみならず町人からも警戒され疎(うと)まれた。

林蔵はひとり、不遇の生活を余儀なくされた。そのような林蔵に、勘定奉行川路聖謨(かわじ・としあきあら)が新たな役目を与えた。聖謨の後ろ盾には、老中大久保忠実(おおくぼ・ただみ)がおり、大久保もまた林蔵の活躍の場を模索していた。

川路聖謨は林蔵へ、内密糺方(ないみつただしかた)を命じた。林蔵がカラフト探検の際に足を踏み入れた韃靼(だったん)での見聞記『東韃紀行(とうたつきこう)』を読み、林蔵の探偵としての資質、情報収集能力を見抜いていた。その能力を活用し、隠密として全国各地へ潜入し情報を集めてこいと命じた。

林蔵は、受けて立った。乞食(こじき)に姿を変え、あるいは俳人になりすまし、また経師屋(きょうじや)の弟子となって大名の城中へ潜入し、城内の見取り図を作成したりした。

隠密活動を行う林蔵を、より積極的に活用しようとしたひとりの藩主がいた。水戸藩九代藩主徳川斉昭(とくがわ・なりあき)。斉昭は幕政の改革を図り海外情勢を洞察し攘夷論を展開、内政にあたっては、水戸藩の手による蝦夷地経営を目論んだ。

その計画実現のため斉昭は、間宮林蔵の知識と経験と行動力に着目した。腹心の藤田東湖(ふじた・とうこ)を林蔵のもとへ遣わし、蝦夷地経営の助力を要請する。

川路聖謨の命で隠密生活を送っていた林蔵であったが、水戸藩からの誘いは、積年の宿願を成就させる役回りであった。喜んで水戸藩の力になろうと決意する。水戸藩は、林蔵の故郷の常陸国である。

「手伝い女」りきに看取られ死去

しかし、巡り合わせの悪さが、斉昭や林蔵の行く手を塞ぐ。

老中水野忠邦(みずの・ただくに)は、蝦夷地全島を松前氏に委ねる処置をとり、水戸藩の蝦夷地経営計画を葬り去る。そればかりか、七か条の推門状(すいもんじょう)を水戸藩邸に下し、さまざまな難癖をつけ、ついには、気随驕慢(きずいきょうまん)、制度無視の罪名のもとに、「致仕謹慎(ちしきんしん)」を斉昭に命じた。斉昭は幕政の表舞台から追放された。

また林蔵は、旺盛な意欲と裏腹に、湿毒(しつどく)の病が重篤(じゅうとく)となり水戸藩の要請に応えられない身体になっていた。歩行困難になってしまった林蔵に、活躍の場はなかった。

林蔵は生涯、妻帯しなかったが、病床を「手伝い女」りきが面倒をみた。りきは、常陸国筑波郡狸淵村(むじなぶちむら)の、林蔵の名目的養子先飯沼家から遣わされた女だった。林蔵はりきと、筑波山の見える故郷を語りあい、激動の人生で味わったことのない安らぎを覚えた。林蔵はりきに、手の平の火傷(やけど)の痕の意味を語った。

筑波山立身岩の鬼神との約束を胸に秘め、弘化元年(1844)りきひとりに看取られ、間宮林蔵は波乱の生涯を閉じた。(作家)

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