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《吾妻カガミ》6 ペーパー社会で助かる

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー6

 日本車規制

藤本:そのほか、どんな大きな案件が。

坂本:2番目は自動車問題です。今、日本の車は米市場でかなりのシェアを持っています。2割とか3割。昔は、フォード、GM、クライスラー、これら米3社がシェアを抑えていました。日本やドイツの車は多くありませんでした。

ところが、日本車は燃費がよいということで、ホンダ、日産、トヨタなどが1970年代後半、シェアを拡げました。このままいったら米の自動車産業が潰れてしまうと、70年代後半から、日本車輸入を規制する動きが出てきた。私がワシントンに行ったころ、その機運が強まりました。

議会に、日本車を規制する法案が毎日のように提出される。米国は、役人が法案をつくるのではなく、議員が法案をつくります。利害が絡んだ議員が、日本車のシェアを何パーセント以下にせよといった法案をガンガン出すわけです。

ですから、議会のプレスギャラリーをチェックすることが日課になりました。その記事が日本の夕刊にデカデカ載りますからね。

藤本:貿易摩擦ですね。

坂本:自動車摩擦です。結局、米側の輸入規制ではなく、日本が自主的に輸出を規制することで話がつきました。自由貿易主義の米国が保護貿易に傾斜するのは恰好悪いということで、日本側の自主アクションになったわけです。通産省が水面下で交渉、決着しました。自動車の輸出減は日本経済の一大事ですから、ワシントン特派員にとっては活躍の場。これが2つ目です。

民主党→共和党

 斉藤:1980年、大統領が民主党から共和党に代わりました。

坂本:民主党のカーター大統領から共和党のレーガン大統領に代わりました。米国では民主党と共和党の間で政権が行ったり来たりしますが、政権が変わると政策もガラッと変わる。

日本でも自民党から民主党に代わったとき、政策が変わりましたけれど、あの比ではない。役人の幹部クラスも総入れ替え。政策の中身も大きく変わる。

大統領が共和党に移ったことで、貿易政策がどうなるか、金融政策がどうなるか、原子力政策がどうなるか、世界中が注視します。この取材は大変でした。これらがパッケージでなく、安全保障、貿易政策、経済政策など、分野別のペーパーで発表されます。

その前に、内容の片鱗でも書かなければなりません。ワシントン担当の勝負所です。緊張を強いられ、えらく疲れました。(笑)

平時は役所回り

藤本:ニューヨークにも支局はあったのですか。

坂本:NYの方が人数は多い。NYの経済は何をやるかというと、米企業の取材が中心になります。証券・為替・金融マーケットもNYの担当です。経済以外では、米国全体の社会部的な記事―流行とか事件とか―はNYが担当していました。

時事の場合、ほかに、ロサンゼルス、サンフランシスコにも各1人置いていました。経済でいえば、ワシントンは財政とか貿易とか金融とかの政策分野がカバー範囲になります。

大きな案件がない平時のルーティンは、財務省、商務省、商務省、FRB―日本の日銀に相当する中央銀行―といった経済関係の役所・機関を回り、広報担当に「何か面白いいことありますかー」と御用聞きすることでした。これは日本でも同じですね。(笑)

米国はペーパー社会ですから、偉い人の発言、イベントの説明、記者会見の詳細など、なんでも文字に起こして配布します。ヒアリングに難があった私には好都合でした。ただ、役所を回り、財務省近くの支局に戻ると、紙袋は資料でいっぱい。それらに目を通し、どれを記事にするか選択するのは大変でしたが。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》5 米政府の危機管理に感心

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー5

ワシントンでも一番下

藤本:ワシントン赴任は1979年8月ですから、30歳ちょっとで。

坂本:べらぼう若いですね。朝日、読売、毎日の3大紙、それから時事通信、共同通信―この5社は、ワシントン特派員の構成がほぼ同じでした。つまり、各社ほぼ4人体制でした。日経、サンケイは2~3人だったと思います。

支局長は各社、国際畑の人です。特派員をいくつも経験した人が支局長。それから、国際畑の中堅記者、政治畑の中堅記者、経済畑の中堅記者というのが、5社の基本陣容でした。NHK、中日新聞はその半分ぐらいで、国際畑と政治畑の組み合わせが多かったようです。

私は4人体制の経済担当です。読売、朝日、共同、毎日の経済担当は年齢が5~10上の、30代後半~40代のベテランでした。政治担当も国際担当も大体そうだったと思います。なぜかというと、当時「上がりのコース」と言っていたのですけれど、ワシントン特派員は、記者をやってきて、現場最後のポストというのが一般的でした。

ワシントンの仕事が終わると、本社に戻って偉くなるのです。編集局の各部次長、つまりデスクになるというのが各社の人事の流れでした。

他社の経済担当に比べると、私は若い。皆さん、経験を積んでいるわけですから、そういう中でどうやるか苦労しました。特派員は各社を代表して来ています。若いということでハンディをもらうわけにはいかない。先輩方が10の仕事をするのであれば、私は15も20もやらないと追い付かない。

ホメイニの革命

斉藤:取材面ではどんなことがあったのですか。

坂本:大きな事件や案件が3つ4つありました。赴任直後の1979年、イランで革命が起こった。それまでイランは、パーレビーという米国と仲のよい王様が支配していました。それを、イスラム教のトップ、ホメイニ師が倒して政権を握った。

そのとき、米大使館員を大使館内に閉じ込め、人質に取ってしまった。これは米国にとって大変な屈辱。結局、失敗しましたが、米軍部隊による米館員奪還作戦も実行しました。

イランは大産油国ですから、この革命で石油市場が混乱。産油国は石油で儲かったドルを世界中で運用していますから、金融市場も大変でした。産油国は、米国、日本、欧州などの企業株や国債に投資してしますが、イランのオイルマネーも数百億ドル、米国市場に投資されていました。革命後、ホメイニはそれらを売却すると宣言したのです。

イラン資産を凍結

多額の株や国債が売られれば証券市場が大混乱に陥る。イランの動きに、ホワイトハウスと財務省が急きょ協議、イランが保有する株や国債の売却を禁じる命令が出されました。売り注文が出ても、それを扱う米国の証券会社は言うことを聞くなと。これで在米資産は凍結され、国際金融への衝撃がブロックされました。

あのとき、安全保障の観点からの資産凍結がなければ、世界は不況に陥ったと思います。この危機管理を見て、さすが米政府と思ったものでした。米国は、安全保障=軍事と市場=経済をセットとして考えていたわけです。私の中でも、趣味の軍事と仕事の経済がクロスした瞬間でした。(笑)

イランの発表は、ワシントン時間の未明でした。東京からバージニア州マクリーンの自宅に「えらいことだ。すぐカバーしろ」と電話が入り、早朝からホワイトハウスと財務省をカバー。それから1週間ぐらい、凍結令の関連記事を書きまくりました。

苦労したのは、財務省が発表する文書をどう記事にするか。法令ですから、ピリオッドがない、読点ばかりです。日本の外国為替管理法の類で、読んでもよく分からない。大蔵省から来ている大使館員の説明も要領を得ず、日経の特派員と解釈を合わせて送稿したものでした。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

初秋に桜? はしゃいで反省

コスモス(秋桜)

桜といえば春を代表する花だが、9月末、桜の花が数輪咲いた。場所は土浦市大岩田の自宅庭。昨年3月、2~3㍍の苗木を注文、造園屋に植えてもらった山桜の若木。昨年4月は数輪、今春はそれなりの花を付けたが、まさか初秋に咲くとは…。

異常気象のせいか、吉兆かとコメントを付け、フェースブック(FB)に写真を載せたところ、「いいね!」「超いいね!」が並び、大ヒット。でも、冷静な「お友だち」もおり、「四季桜ではないか」との指摘が。四季桜?

Wikipediaで調べると、「狂い咲きでない状態で年2回開花」「4月上旬ごろ、10月末ごろ、開花する」「花は薄く淡い紅花」「エドヒガシとマメザクラの交雑種」と説明されている。「四季桜」(栃木県宇都宮酒造)という銘柄の日本酒まであることも知った。

植物にあまり関心がなかった私。「人が犬に噛みついた」級のニュースだと、FBに出して恥をかいたわけだが、その威力を知る機会にもなった。フェイク・ニュース(嘘記事)をチェックしてもらえる場にもなると。

FBは、名前、誕生日、出身校、勤務先、趣味など、個人情報を公開するほど、友だちが集まる仕掛け。友だちの友だちまで紹介してくれるから、輪はどんどん拡がる。あまり拡げると、日々のやりとりが大変なので、OKを出すのは抑え気味にしている。

もともとFBは、大学の同級生が情報を交換するためのソフトだった。これは便利だと世界に拡がり、ビジネス化され、ネット時代の優良企業になった。何だ、それはと、ソフトをダウンロードしたのは、同社がNYに上場したときだった。

FBなどを動かす場=インターネットが拡がったのは1990年代後半。そのころ、ネットは若い人のツールで、メカに弱いシルバーは敬遠すると言われていた。私は逆に、インターネットはシルバーのツールになると思ったが、予想は的中した。

300人超のお友だちは、地域の方々のほか、大学の友だち、記者時代の知り合いも多い。FBを使うと、彼らと毎日コンタクトできる。自宅で繋がるから、動くのが苦手なシルバーにはピッタリ。文字だけでなく、写真や動画まで使える。

桜花をアップしてから4日後、狭い庭に1本のコスモスが花を付けているのを発見した。「秋の桜」と、はしゃいだ反省を込め、ニュースでも何でもない「秋桜」を「秋の桜」との対比(言葉遊び)でアップしたところ、こちらも「いいね!」。

地域どころか、Google Mapsでは点のような庭のことも、ニュースになる? それが全国、世界に発信される。女房が秋桜の花を2輪カット、トイレの一輪差しに。世界はますます絞られる。(坂本 栄)

《吾妻カガミ》4 入社8年で4分野を担当

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー4

 経済でもよかった

藤本:雑用係のあと、取材の現場に出たのですか。

坂本:デスク補助という名の雑用係のあと、入社2年目に、大蔵省のクラブ「財政研究会」に配属されました。ここでは、主計局の防衛主計官を担当、防衛関係予算や中期防衛計画を取材しました。個人的な専門分野だったから楽しかった。政治部でなく、経済部でもよかったと。(笑)

5人クラブの一番下端で1年半やって、次は自動車クラブに回りました。トヨタとか日産とかホンダなど、自動車メーカーが取材対象です。

藤本:自動車クラブというものがあるのですか。

坂本:そう。そこに2年ぐらいいました。そのときは、自動車業界のほか、航空機・軍需産業も取材対象に含めてもらいました。三菱重工、川崎重工、石川島播磨重工、富士重工などです。それぞれ分野は違いますが、これらメーカーは飛行機、タンク、艦艇などをつくっていました。

戦闘機工場や潜水艦造船所の取材もあって、ここも楽しかった。富士重の場合は自動車も飛行機もつくっていましたから、新宿駅前の本社にはよく通いました。

そのあと運輸省クラブに2年ぐらい。今、建設省と合併して国交省になりましたが、当時は別々でした。タンカー建造ブームのころで、私はここで造船と海運を担当しました。大型タンカー建造ドック―当時は100万㌧ドックと言っていました―取材のため、北海道から九州まで造船各社の大型ドックを見て回りました。

一番下は外国為替

そのあと日銀クラブに回され、2年いました。入社8年間で、大蔵省、自動車・兵器、造船・海運、日銀の4分野を担当したことになります。それぞれ2年ぐらいのローテーションですね。あとで話しますが、日銀の次はワシントンに行ってくれと。

斎藤:日銀といういと何か難しそうですが、どんな取材をしたのですか。

坂本:日銀では国際金融、外国為替問題を担当しました。外為というのは変動相場制ですよね。毎日、1ドルいくらとレートが変わる。私が担当したとき、相場が物凄く動いて、円高方向に大きく振れました。1ドル200円台だったものが、180円ぐらいまで。その後200円台に戻りましたけれど、円高に円高にと動いたころです。

当時は、自動車、船舶、家電といった輸出産業が日本の基幹産業で、これらが日本経済を支えていました。円高は輸出にとっては採算上好ましくない。利益を確保するためには、輸出先市場で値段を上げなくてはなりませんから。そうすると競争力が落ちる。輸出企業にとっては大変なことで、経済界は大騒ぎでした。

メディアの方も「大変だ、大変だ」と、毎日のように、外為記事が紙面では大きなスペースを占めました。

市場介入で特ダネ

 当時、時事の日銀クラブは4人でした。私はここでも一番下、割り当てられた分野は為替市場と国際金融でした。日銀で一番大事なのは金融政策の取材です。これは一番上のベテラン記者、キャップがやる。都銀など民間銀行を担当するのが二番手、三番目手の先輩たち。

そのころ国際金融は経済ではマイナーでしたから、一番下は為替を中心に国際金融をやれと。ところが、円高、円高で外為が大きなテーマになり、下っ端の私が特ダネを出す大チャンスに恵まれました。

日銀のあと、ワシントンに行かされますが、社は「あいつは国際金融が得意そうだから米国に出そう」と思ったようです。あのとき日銀にいなければ、ワシントンに行く機会はあったとしても、もっと後だったでしょう。

その特ダネ―日米通貨当局が市場介入協定を締結―の後追い記事が日経や読売の一面に載り、社長賞を貰いました。軍事を勉強するために「New York Times」とか「News Week」を読んでいましたから、読む方の英語はあまり問題ありませんでした。話したり聞いたりはダメでしたが。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》3 雑用の教育効果は大きい

早大政経学・土屋ゼミ・インタビュー3

電話で原稿取り

齋藤:時事の経済部はどのような新人教育をしていましたか。

坂本:教育はメディア各社によって違うと思いますが、時事は政治部も経済部も社会部も、入社1年目は雑用係です。当時はワープロもないし、インターネットもないわけですから、急ぎの原稿は電話で来ます。

先輩記者の電話送稿を聞き取り、それを原稿用紙に書き写す。それが新人の主な仕事でした。電話で送るほど急がないものは、各記者、属している記者クラブで書く。編集庶務係がオートバイに乗って各クラブを回り、出来上がった原稿を集めて来る。

FAXもインターネットもありませんから、物理的に原稿を集めて来るか、電話で吹き込んでもらうしかありません。大蔵省で予算発表があるときは、詳細で分厚い資料が出る。デスクはそれを早く見たいから「坂本、取って来い」「はい」と、役所に走る。(笑)

雑用の教育効果は大です。電話で1日に何本も原稿を取りますから、書き方を覚えます。先輩の原稿を書き写すわけですから、用字、用語も覚えます。間違えると怒られるから、用字、用語、原稿の書き方を懸命に覚えます。

馬鹿か!勉強しろ!

経済部は当時、50人ぐらいの組織で、記者クラブに40人ぐらい張り付いていました。どのクラブのだれか、声で分かります。雑用をすることで、経済関係の記者クラブ―大蔵省、外務省、通産省、農水省、日本銀行、商工会議所、経団連のクラブとか―は20ぐらいありましたが、クラブがある役所・組織がどんな仕事をしているのかも覚えます。

雑用をやる中で、経済部がカバーしていることが理解できる。教科書で覚えるのではなく、雑用をやりながら覚える。雑用はそういう意味で大事ですね。

左手で電話を持ち、来年度予算額は云々と、右手で原稿を取るわけです。財政用語が分からなければ書き取れない。「それ何ですか」と聞くと「馬鹿か」と怒られる。書き取りを間違うと、デスクから「勉強しろ」と怒鳴られる。

藤本:最初は取材に行くことはないということですか。

坂本:全くありませんでした。やらせてもらえない。せいぜい、記者クラブに原稿とか資料を取りに行くとき、何をしているのか様子を見るぐらい。書かせてもらえませんでした。

広範な取材ネット

齋藤:経済部は何人ぐらいいたのですか。

坂本:部長を入れて50人ぐらい。送ってきた原稿を直すデスクが5、6人。入社1年目の同級雑用係がもう1人いましたが、彼は早稲田の政経でした。あと、弁当手配や庶務的なことをやる人が1人。記者から名刺を作ってくれと言われると、そのおばさんが総務部に頼みに行く。

藤本:その方は記者ではないわけですね。

坂本:ずっと雑用係。そういう人、部長、デスク、雑用係2人、合わせると10人ぐらい。残りは出先のクラブに配置されていました。霞が関だけでも、大蔵省(今の財務省)、農水省、通産省(経済産業省)、外務省、運輸省(総務省)、建設省(国交省)などです。

今はなくなったけれど、経済企画庁という役所もありました。こういった役所のほか、日銀、自動車、電気、百貨店、エネルギー、重工業など、産業界のクラブもある。財界担当のクラブもありました。なんだかんだ入れると20ぐらいあったのではないか。

そういったクラブに記者が張り付いているわけです。少ないところは1人、多いところは3人とか4人とか。そこを拠点に担当分野をカバーするわけです。そういった広範な取材ネットワークがありましたから、記者の活動を支える雑用係は絶対必要でした。飲みに連れて行ってもらえる恩典もありましたが。(笑)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

《吾妻カガミ》2 政治国際希望なのに経済

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー2

卒論は「戦略論」

藤本:授業とかゼミでは、どんな関係の勉強を。

坂本:一橋の場合、1、2年は教養課程で、ドイツ語とかフランス語とか、第二語学でクラスを分けていました。3、4年の専門課程になると、どこかゼミを選ばなければならない。前期のクラスみたいなものです。

私は、政治学のゼミを初めて持った藤原彰先生―当時は講師から助教授になったばかりでした―のところに入りました。ゼミの同窓は14人でした。

藤原先生は岩波新書の「昭和史」、山川出版の「軍事史」といった本を出していました。軍事史の専門家です。元々、陸軍士官学校卒の将校でした。幼年学校を出て士官学校に入った生粋の軍人。中国では尉官として部隊を率いていたそうです。戦後、東大史学科に入り直し、他の大学を経て一橋に来られ、私が3年になったときゼミを持ったのです。

軍事に関心がありましたから、これは面白そうだと藤原ゼミに入りました。卒論は「戦略論」です。英国にリッデルハートという戦史家がおり、「戦略論」を書いています。元々軍人で、「第2次世界大戦史」も出しています。当時、彼の「戦略論」は翻訳されておらず、丸善書店で取り寄せ読みました。

卒論としては安易でしたが、この本の主要部を翻訳、兵書の古典とその戦略論を比較、コメントを付けてまとめたのが卒論の「戦略論」です。(笑)

軍事卒論は戦後初

斎藤:卒論としては珍しい分野ですが、一橋には軍事関係の卒論がほかにも。

坂本:一橋の場合、卒論は図書館に保存されていますから今でも読めます。提出してから調べたのですが、先の大戦のあと、軍事に関する卒論を出したのは私が初めてでした。

日本は戦争に負けたこともあり、戦後、軍事論はタブー視されていたこともあったと思います。憲法9条問題もあり、今も日本の軍事リテラシーは低い状況が続いています。テレビのコメンテーターの話を聞いていると、小学生レベルです。国際水準からほど遠い。(笑)

戦前、一橋にも戦争関連の卒論はたくさんありました。日本は米国相手に総力戦をやっていたわけですから、管理された経済システムが必要でした。国の資源を戦争遂行に配分しないといけない。経済政策的観点からの卒論は、戦前、戦中、結構ありました。

杉並の久住さん

藤本:1970年に卒業、時事通信に入社しましたが。

坂本:大学時代、軍事関係の知識を得ようと、いろいろな人に話を聞きに行きました。政治評論家とか軍事評論家とか。そういった方に、大学祭の講演に来てもらったこともあります。

その中に、軍事評論家の久住忠男さんという方がおりました。旧海軍佐官で、当時、時事通信が発行していた外交週刊誌「世界週報」に寄稿していました。それを読み、久住さんの杉並のお宅によくうかがいました。「こんなリポート書きました。どうでしょうか」と。

そういうこともあり、時事というのは面白そうだなと。でも久住さんには、時事を受けますから推薦してくださいとは言わないで受けました。関心があったのは軍事ですから、配属は政治部とか外信部―社によって外報部とか国際部とも言います―を希望していたのですが、人事部長が「一橋は経済だろう」と、経済部に回したようです。

人事は組織で決めるものだから、仕方ありません。久住さんに事前にお願いして、当時の社長に「あいつは政治部とか外信部がいいぞ」と言ってもらえば、その通りになったでしょう。でも、そういう裏工作はしませんでした。(笑) (続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【坂本栄NEWSつくば理事長】

 

《吾妻カガミ》1 大学では軍事問題を専攻

はじめに

NPO法人NEWSつくば理事長・坂本栄はこのサイトで不定期コラム「吾妻カガミ」を担当します。「吾妻」は筑波学院大の住所です。キャンパスの大「カガミ」に映った地域と内外の諸相についてコメントする。この2つのワードを合わせコラム名にしました。

まず、早稲田大政経学部土屋礼子ゼミから受けたインタビューの書き起こしを15回に分けて掲載します。このゼミは新聞・通信・テレビの記者OBにインタビュー、報告書を作っています。2016年版の第36章(私の箇所)を分割、加筆修正、連載に仕上げました。

報告書「ジャーナリスト・メディア関係者 個人史聞き取り調査プロジェクト Oral History Project of Journalism and Media 第6回調査」(482頁)では、経済記者だった39人のシニアが対象になりました。報道の世界では知られた方ばかりですが、なぜか私もその1人に指名されました。

コラムの出だしは、日本経済新聞の「私の履歴書」風になりますが、メディアの構造、編集の現場、メディア経営の現実、私の来し方などを知る一助になればと思います。少し自己PRもあるかも知れません。ご容赦ください。

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー1

実学でない学部

齋藤:茨城県土浦市で生まれ、高校を卒業したあと、一橋大に入学していますが。

坂本:1浪ですけれど、家があまり裕福でなかったので、授業料が安い国公立というのが選んだ理由のひとつです。それから東京に行きたいという思いが強かったこと。そうすると、東大、一橋、東京外語、教育大(現筑波大)、都立大などに絞られます。

過去の問題を見て、一橋の問題が一番好みに合っていました。トリッキーでなく、英語で言えば、1パラぐらいの英文を和文に、和文を英文に訳しなさいとか、素直でした。数学が得手でなかったので、その配点が高い他大学に比べると、やさしいかなと。試験問題が自分に合っているということで選びました。

一橋の学部は今も昔も、経済、商学、法学、社会学の4つだけ。今、学部の定員は昔の倍ぐらいになっていると思いますが、当時の社会学部は70人ぐらい。経済とか商学とか法学は、就職を意識した実学のイメージがありました。社会はそれが少しボヤッとしていていいかなと、この学部を選びました。(笑)

藤本:受験期にはジャーナリズムに関心があったわけではないのですね。

坂本:全くありませんでした。政治とか歴史には関心がありましたが、ジャーナリズムは考えていなかった。

沖縄の米軍基地

齋藤:大学では軍事を専攻したそうですが、そのきっかけは。

坂本:大学のころ、政治問題で大きかったのは沖縄返還。戻ったのは1972年ですが、どう返還されるのか、学生時代(1966~70年)の政治テーマでした。今も基地問題はあるけれど、当時の沖縄は米国の施政権下ですから、今とは比べものにならない。

地図を見ると、沖縄は米軍にとって使い勝手のよい島です。沖縄を中心に円を描くと、中国、日本、朝鮮半島、東南アジアの主なところがカバーされます。米軍の視点から、沖縄基地がどれだけ必要とされているのか調べたのが、軍事に関心を持つきっかけでした。

なかなか返さないだろうと思っていましたが、結局、基地は残す形で返ってきました。軍事視点の米国と政治視点の日本の利害を足して二で割った形かな。基地は残るわけですから、米軍にとってみれば機能としての沖縄は変わっていない。現在の沖縄問題の原点です。

ベトナム・中東戦争

 2番目はベトナム戦争。この戦争は、米軍という正規軍と、ベトナムのゲリラ部隊の戦いです。ゲリラと言っても、中国で日本軍と戦った毛沢東軍とは違いますが、この戦争の形、正規軍と非正規軍の戦いに関心を持ったわけです。

3番目は中東戦争。今、中東はグチャグチャになっていますが、当時の関心は、イスラエルを周辺のアラブ国がいかに潰すかということでした。イスラエルとエジプトが何度か戦い、大学のころも両国の戦争がありました。砂漠だから、タンクとか飛行機で攻め、領土を奪い合う、一昔前の戦争に似た戦争です。結果的には、イスラエルが勝ち、領土を拡げましたが。

戦争の基本は地上戦です。中東戦争は第2次大戦の20数年あとですが、地上戦がどう戦われるのか、米週刊誌ニューズウィーク、英専門誌サーバイバルなどを取り寄せて調べました。このテーマも含め、戦争関係の論文をいくつか書き、自分が主宰していた軍事同人誌に載せました。

クラウゼヴィッツ、孫子など兵学の古典のほか、毛沢東の遊撃戦論、キッシンジャーの核戦略論など、理論的な本も読み込みました。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区、早稲田大学早稲田キャンパス)

【さかもと・さかえ】土浦一高卒。1970年一橋大社会学部卒、時事通信入社。ワシントン特派員、証券部長、経済部長、解説委員などを経て、2003年退社。同年から10年間、旧常陽新聞新社社長•会長•顧問。現在、時事通信•茨城地域アドバイザー。そのほか、茨城キリスト教大学経営学部講師、NPO法人NEWSつくば理事長。土浦市出身、同市在住。71歳。