【コラム・秋元昭臣】下高津小学校への通学は、「あきおみちゃん、学校へイーきましょ」の声で始まりました。今のように親が出ることもなく、田んぼや畑の中を仲間同士で登下校するのは楽しいものでした。菜の花を摘んだり、チョウチョを追いかけたり。麦の穂を友だちの袖に奥に入れてしまうイタズラはしましたが、イジメではなく遊びでした。

このころ、大人はハーモニカを吹いてましたが、子供は麦笛を吹いていました。花見は親に連れられて桜川に行き、土手に座ってたくさんの貸しボートを眺め、お弁当を食べました。これがボートとの出会いです。

エビガニの穴を掘ったり、農作業する牛を見たり、散った桜の花びらで首飾りを作ったり。毒があると知らず、学校裏のお寺に青梅を盗みに行き見つかり、廊下に立たされたり。しかし、花祭りにはお寺さんに甘茶を振る舞ってもらい、秋はイチョウの大木から落ちた実を土に埋め、冬にたき火で焼いて食べました。

夏になると、田んぼにはホタルが飛び交い、捕まえて蚊帳の中に入れて楽しみました。大人と一緒に夜の田んぼに行き、カーバイトランプを灯した「ドジョウぶち」では、眠っているドジョウを串刺にし、カーバイトの匂いと、くねるドジョウに興奮しました。エビガニ、ドジョウ、釣った魚、食用ガエルが、たんぱく源として食された時代です。

泳ぎと言ってもプールなどなく、ガキ大将に連れられ、ため池「高津池」に行き、親にばれないようにパンツを脱いで水遊びをしました。雑木林の「ターザンごっこ」では、木から木へ渡り歩き、ロープにぶら下がって遊びました。転落やケガもありましたが、今と違い、「落ちたほうがドジ」の一言。問題にはならない時代でした。

霞ケ浦にあった大岩田水泳場

土浦駅の転車台(蒸気機関車の向きを変える装置)や貨車の連結代え、土浦港の船の荷揚げ作業、造船所の船大工さんなどが見たくて、片道40分以上かけ、仲間と駅周辺に出かけました。汽車が大好きで、通過する汽車に手を振ると機関士が汽笛を鳴らしてくれ、煙の匂いを胸一杯吸い込みました。汽車が来るかどうか、線路に耳を当て聴いたものです。

このころ、霞ケ浦の土浦沿岸に大岩田水泳場はありましたが、子供会では、水郷汽船の「さつき」(250人乗りの大型旅客船)に乗り、浮島水泳場(現稲敷市)に行きました。2時間かけて霞ケ浦を横断することが、どれほど楽しかったことか。土浦で一番の豊島百貨店には、水郷汽船の船長服や船長帽が展示されており、憧れたものでした。

夏休みのラジオ体操は、自宅前の広場までコードを伸ばしたラジオを聞いて行い、幼い兄弟も参加して、人数も多く和やかなものでした。

夏休みには、松林にムシロを敷いてちゃぶ台を置き、仲間と宿題をして遊びました。大洗や磯浜など海水浴場には、地区をあげて目印になる旗を立てて行きました。当時、大洗には竜宮城の形をした小さな水族館があり、真夏の太陽に透けて見える波、そして大海原は非日常の世界でした。(ラクスマリーナ前専務)

  • 【あきもと・あきおみ】土浦一高卒。明治大工学部卒、京成電鉄系列のホテル会社に入社。奥那須、千葉、水戸、犬吠埼、白浜、土浦などのホテルに勤務。土浦京成ホテル閉鎖にともない、2008年からラクスマリーナ(株主は土浦市)専務。遊覧船運航、霞ケ浦湖上体験スクール、小型ヨット体験、ボート教室、足湯浴場、サイクリング事業などを展開。 2021年4月退職。1942年生まれ、土浦市在住。