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《吾妻カガミ》18 幻の副市長 瀧本徹氏を偲ぶ

10数年前に茨城県商工労働部長をしていた瀧本徹さんが、11月上旬亡くなった。56歳だったから、私よりも一回り以上若い。一部全国紙の訃報では主職歴が「元九州経済産業局長」となっていたが、エネルギッシュな経産キャリアだった。合掌。

学園都市の田舎議会

新聞経営を引き受けて土浦に戻ったころ、瀧本さんは県の部長をしていた。仕事の延長でベンチャー育成に強い関心を示し、その芽がころがっているつくばによく来ていた。県庁がある水戸にいる時間よりも、在つくばの方が多かったのではないか。県の部長というよりも市の部長という感じだった。

当時の藤澤順一つくば市長は、彼の思い入れを市政に取り込もうと(もちろん本人も承知)、副市長に迎える人事案を議会に諮った。ところが市議会はこの案を否決、藤澤・瀧本コンビは実現しなかった。藤澤さんの議会工作が十分でなかったこともあっただろうが、学園都市の田舎議会には呆れた。

「つむぎつくば」というNPO法人があった。ベンチャー育成を目的とする組織で、瀧本さんも運営に深く関わっていた。有望な起業家を毎年選び、賞金を与え顕彰していた。私も、放電によるプラズマ現象を利用して焼いた壺「つくば焼」(都賀俊雄氏作)を副賞として出した。作り方にサイエンスを感じたからだ。

ベンチャーの卵たち

表彰式の後のパーティーは楽しかった。起業家の卵たちの飲み会だから、テクノロジーの話が多く興味が尽きない。私の関心はマネージメントにも向けられたが、理系の彼らは一様にこちらの方で苦労していた。

出席者の中に、筑波大発ベンチャーのシンボル的存在、山海嘉之先生(ロボットスーツのCYBERDYNE社長)もいた。大和ハウス工業がまだ出資していなかったころだから、初々しい起業者の一人だった。今やCYBERDYNEは、技術(山海先生)+資本(大和ハウス)によるベンチャーの成功事例になっている。

瀧本さんを慕い行動を共にしていた人たちの中に、花山亘筑波出版会代表もいた。彼には新聞紙面を提供、地域のいろいろな起業家を紹介するコラムを連載してもらった。瀧本さんが愛媛県の松山市長選に出馬したときは(結果は落選)、応援に駆け回った。訃報を知らせてくれたのはその花山さんだ。

常識的に県部長⇒副市長人事は格下げであり、役人の世界ではあまり聞かない。当時の橋本昌知事は思いとどまらせようとしたようだが、瀧本さんはポストや肩書きよりも仕事の面白さを選んだ。血が騒いだのだろう。享年56歳。私が地元に戻った歳であり、やり残したことが随分あったと思う。(坂本 栄)

《郷土史あれこれ》1 つくばには博物館がない!

栗原亮さん

昭和40年代、茨城県内では多くの博物館が建設された。県が設立した県立歴史館、市町村では水戸市立博物館、日立市立博物館、土浦市立博物館、土浦市立考古博物館、かすみがうら市歴史博物館、古河歴史博物館など。そのほか、北茨城市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)、那珂市歴史民俗資料館、龍ケ崎市歴史民俗資料館、稲敷市歴史民俗資料館、八千代町歴史民俗資料館などがある。

博物館は、歴史に関する古文書、古写真、考古資料など様々な資料を保存し、後世に伝えていく役割も持っている。その意味で、過去、現在、未来にわたり、われわれの歴史的体験を大人から子どもまで伝えていく役割を持っている。現在に生きるわれわれは歴史の一コマを生きていくのであり、決して無に過ごしていいわけではない。歴史資料を後世に伝えていくことは、一人一人の生きる責任とでもいうべきものであろう。

歴史資料というと、貴族や武士、庄屋などが保存してきた資料だけではなく、庶民の家にはその家に関する資料が多く残されている。だが、こうした資料に関心が向けられることはなく、家の改築の際に処分され焼却されたりすることが多い。これは歴史教育が政治史や経済史に偏るとか、歴史への関心の低いことが原因であろう。

博物館のある市町村以外に、郷土資料館のある市町村もあるが、その規模は大きくなく、収蔵倉庫も小さく、貧弱なものである。問題なのは、つくば市である。

つくば市は学園都市と言われ、多くの留学生が住み、今や国際都市である。にもかかわらず、博物館は一つもなく、旧谷田部町などに郷土資料館があるのみ。常時公開されているわけではない施設もあり、規模も小さい。つくば市に国立公文書館つくば分館はあるが、歴史資料を保存し公開する施設がないのは、いかがなものであろうか。市議会議員からも、博物館建設を訴える話も聞こえてこない。

江戸時代、つくば市には大名がいた居城(城跡)はなく、いわば在村であり、消費都市江戸を支える農村であった。その関係で武家文書はほとんど残っていないが、多くの村方文書が残っている。昭和40年代、立正大学古文書研究会が桜川流域の江戸時代の古文書調査を行ない、現地の公民館でその内容を公開してきた。この研究会は、村方文書を東京の国文学研究資料館や博物館に移管するのではなく、資料を現地に残し活用するという方針で活動してきた。

その村方文書が危機に晒されている。個人所有だと保存に手が回らず、土蔵が壊れて古文書がダメになる。こうした古文書を博物館に移管し、修復を加え長期保存し、公開していくことを、つくば市の教育委員会や市長、議員の方々に強く訴えたい。(栗原亮)

【くりはら・りょう】土浦一高卒、中央大経済卒。1976~2010年、霞ケ浦高で世界史と日本史を担当。「新治村史」「図説 土浦の歴史」「牛久市史」「八郷町史」の編纂に参画。旧常陽新聞で「江戸時代とは何か」を連載。著書に「忠臣蔵の真実」(常陽新聞新社、2012年)、「近世村落の成立と検地・入会地」(岩田書院、2013年)。土浦市出身・在住。71歳。

《続・気軽にSOS》2 悪い習慣、良い習慣

私は10年ほど前にギターを買い、マイペースに気軽に弾き続けています。それまで、草野球チームに属していたのですが、30歳を超えるぐらいになってくると、試合をする人数が集まらなくなってきました。その後、一生の趣味があると良いなと思っていて、いくつかの候補の中から選んだ趣味が、ギターでした。

半分冗談で、そのうち、高齢者施設に弾きに行けるぐらい上手くなれたらなあと思いながらも、絶対無理だろうなとも思っていました。カラオケに行って歌いながら手拍子をすると、自分だけ手拍子がずれていくというぐらいリズム感がありませんでした。楽器というものは、持って生まれたセンスがある人が出来て、ない人は出来ないものなんだと思っていましたから。

一万時間の法則という話を聞いたことがあるでしょうか?大雑把に言うと、長い時間を費やすと出来るようになるといったところでしょうか。私は、ギターにその数十分の一しか費やせていませんが、高齢者施設や児童施設にギターを持って訪問し、演歌や童謡、アニメの歌を施設の利用者と一緒に歌えるぐらいにはなれました。まだ、下手の横好き程度のレベルなので、もっとうまくなりたいと思っています。

今まで何人も、ギターが弾けるようになれたらいいなと、私に言ってきた方がいます。しかし、その中でギターの練習を始めた人は、ほんの少しです。始めて長続きしない人もいます。しかし、全く始めずに、繰り返し、ギターが弾けるようになればよいなと言っている人もいます。

当たり前ですが、ギターを弾けるようにならなければいけないと、私は考えていません。人はそれぞれで、いろいろな生き方があります。なので、生活の中で優先順位がありますから。趣味でギターを始めるよりも、大切なことを選択して、毎日の生活を送ればよいのです。出来れば、楽しい人生を送ってもらいたいものです。

しかし、やりたくもない事だけど、やらなければいけない事だから、仕方なくやっている事がある。そのせいで忙しいから出来ないと考えているのであれば、勿体ないなと思います。やらなければいけない事と思っていても、本当は、やらなくても良い事をたくさんしているのが私たち人間じゃないかなと考えています。

それが趣味のギターであれば深く考える必要はありません。しかし、健康のためにやせるように医者に言われている、家族のために時間をつくりたい、嫌なことばかり考えないで楽しい事を考えたい、本当にやりたいと思っていることが出来ないなど、深刻なことでさえ何となく忙しいからと後回しにしていないでしょうか。

このような状態が酷く続くときは、心の病になってしまう事さえありますから、本当に心配です。それぞれが思う良い習慣に変えて続けることのヒントを、皆さんと考えていきたいと思います。(浅井 和幸)

《泳げる霞ケ浦へ》1 世界湖沼会議まであと11カ月

2018年10月中旬開催の第17回世界湖沼会議(県など主催)まで、あと1年を切りました。関係者のご苦労は大変なことと思います。私自身も22年前、初めての湖沼会議に向け、企画委員として身も心もぶっ飛ぶような嵐の日々を経験したからです。

閉会時のあの感動から22年。長いようで短い年月でした。3年前、一般社団法人霞ケ浦市民協会の会議で「最近、霞ケ浦の水質や浄化について、市民の意識が少し薄れてきているのではないか。市民協会が発足したころの情熱を復活できないだろうか…」と発言したところ異論がなく、会議再誘致に向け関係先に働きかけようということになりました。

前回、1995年の第6回会議のときには、「市民参加」をキーワードに「世界湖沼会議市民の会」を設立。霞ケ浦への関心を高めるために、交流・啓発を中心とした数多くの事業を寝食忘れる忙しさで実施しました。

私は環境グループ代表として関連の事業をリードしましたが、会議では女性参加の重要性を強く感じました。会議には8200名余もの参加があり、当初の目的を達成できました。

閉会式では「霞ケ浦宣言」が採択されましたが、この宣言は格調が高く、市民グループにとっても大変有意義なものでした。この精神を継承し、市民の英知・情熱を結集する目的で結成されたのが社団法人霞ケ浦市民協会です。

でも22年も経つと、その精神も忘れがちになります。「霞ケ浦の浄化は行政の役目だ」と考える人も多くなった気がします。確かに県は、この会議を機に「霞ケ浦環境科学センター」をつくるとか、「森林湖沼環境税」を制定するとか、多くの施策を実施してきました。特に環境税は、霞ケ浦などを意識してその名称に「湖沼」が入りました。

問題は、「霞ケ浦宣言」の精神に経年劣化がみられ、センターや環境税などの施策についても県民の理解が不足していることです。市民協会は県担当者に会ったとき、①森林湖沼環境税の「見える化」を図るべきだ②湖沼会議再誘致は県民の環境意識啓発に役立つ―と話しました。今度の会議では、市民活動の結果も県が報告するよう伝えてあります。

われわれの努力もあり、橋本昌前知事は再誘致を決断、つくば・土浦地域での第17回世界湖沼会議開催が決まりました。招致運動を進めてきた市民協会には会議を盛会裏に終わらせ、県・国内の湖沼を恥ずかしくない遺産として子孫に残す義務が再び両肩にのしかかっています。(堀越昭・霞ケ浦市民協会初代理事長)

【かすみがうら・しみんきょうかい】1995年の世界湖沼会議で採択された「霞ケ浦宣言」の理念を継承し、「霞ケ浦及び流域環境の浄化・保全及び創造をめざす市民活動を推進し、人と自然が共生できる快適で文化的な地域社会を構築する」ため、翌96年「社団法人霞ケ浦市民協会」として発足。2013年一般社団法人に。

コラム《泳げる霞ケ浦へ》は市民協会のメンバーが輪番で執筆します。

《つくば道》1 「我田引鉄」に想う

塚本一也さん

つくばエスクスプレス(TX)の延伸について、様々な場面で話題に上ることが多くなりました。特に、最近の選挙においては東京駅への延伸よりも県内の延伸について言及する候補者が目立ちます。明確な目標を提示することができれば、県民を勇気づけ、地域活性化のカンフル剤にもなるため、茨城県が人気度ランキング最下位からワンランク上にステップアップするためにも必要不可欠であると思います。しかし、あまりにも荒唐無稽で現実離れしたプランは、かえって専門家や一般市民から「絵にかいた餅」という冷ややかな評価を受けることになります。

例えば延伸を議論する場合に技術的見地から言えば、在来線で130㎞運転を維持するための線形や設備の問題を考慮しなければなりません。また柿岡(石岡市)にある気象庁地磁気観測所に対して影響を与えるため、県南地域では直流電源の鉄道は運行が制限されてきました。そのためTXは高価な交直両用電源を採用していますが、常磐線は快速電車の土浦乗り入れがかなわず、民鉄の進出や電化にも大きな障害要因となってきました。このような条件を理解したうえで、公共交通の将来計画を立てることが一般社会の理解や共感へとつながるのではないかと思います。

近代の茨城県は、鹿島臨海工業地域開発、筑波研究学園都市建設、常陸那珂地区開発などの歴史に残る国家的プロジェクトを実現させてきました。また1980年には国際博覧会としては大阪万博、沖縄海洋博に次ぐ日本で3番目のつくば科学万博を成功させたという実績もあります。それぞれのプロジェクトには、国策として国家の繁栄に貢献するという明確な大義があり、それによって当該地域のみならず、県全体が一丸となり目標に向かって邁進(まいしん)し、関係行政庁の協力も得ることができたのです。

つまりTXの県内延伸を可能にするのは「我田引鉄」ではなく、誰もが納得する大義を確立することにあるのです。例えば、常陸那珂港開港に向けては「海の無い栃木・群馬に港を開く」という大義の下、北関東3県がスクラムを組んで難色を示す運輸省港湾局(当時)を説得したという過去の事例があります。

それに倣えば、TX延伸は常磐線のバイパス機能の付加という役割だけでなく、茨城空港への乗り入れを計画し、首都災害を想定した羽田・成田のバックアップ機関としての機能を主張すべきです。このプランは千葉県内の同一沿線である東葛地域にも多大なメリットをもたらすことになります。さらに震災の復旧以降、国策的な大型インフラプロジェクトの無い水戸・日立・いわきなどの浜通り地区に空港直結・都心への時間短縮という一筋の光明をもたらすのではないでしょうか。(塚本一也)

【つかもと・かずや】1965年つくば市生まれ。土浦一高卒、東北大学工学部卒、筑波大学大学院修了。一級建築士。大曽根タクシー(株)取締役社長。元JR東日本グループリーダー。茨城県ハイヤー・タクシー協会経営研究会会長、つくば市花畑自治会長。著書に「つくばエクスプレス最強のまちづくり」(創英社 三省堂書店)

《くずかごの唄》 2  河童から教えてもらった水のこと②

世界湖沼会議をきっかけにして、私たちは「水郷水都全国会議」を結成し、年に一回現地見学と市民交流をつづけている。土浦の自然を守る会は、以来、河童(かっぱ)と仲良しになり、未来の人類とのつながりを念じて、河童の扮装(ふんそう)をして子どもたちの環境教育に力を入れている。

私の弟の加藤尚武(京都大学名誉教授・環境倫理学)は著書「環境倫理学のすすめ」の中で、「いかなる世代も未来世代の生存可能性を一方的に制約する権限をもたない」と書いている。

ヱルザ自然保護の会の藤原英司さんは、日本の河童伝説の原点は江戸時代にどこの川にもたくさんいたカワウソがモデルだと教えてくれた。カワウソは何年か前、残念ながら日本から絶滅してしまったが、モデルの存在が解ったので、私たちの劇も、カワウソにウソだといわれないように、楽しいものにすることができた。

「河童」のような架空の動物が全国的に存在し、それぞれが個性的に水の問題に深く関わってきた日本の歴史は、外国人たちからみると、かなり面白い存在として興味をもたれた。

世界湖沼会議は、日本の地域をいろいろな国の人に知ってもらい、その人たちから新しい水の知恵をいただく地域起しの会だと私は割り切っている。

現在、WTOでトリインフルエンザの世界的な権威、ケイジ・フクダ氏の父福田実さんは土浦の人。アメリカで、州の医師会会長などもして世界中を飛び回っていらした。学会などで日本に来ると、土浦にお寄りになり、私の車で、霞ケ浦の沖宿あたりの花の咲いた蓮根畑を見に行くのをとても楽しみにしていらした。

「ハス田のこのひろがりは日本一ですね」と私が言ったら、「霞ケ浦の沖宿のあたりの蓮根の風景。これは日本一ではなくて世界一です。世界の人たちに見せたい日本の風景ですよ」。霞ケ浦には世界一の風景もあるのだ。(奥井登美子)

《続・平熱日記》1 ちょっと朝ドラ的な感じで

斉藤裕之さん

お久しぶりでございます。早朝画家の平熱日記、半年ぶりの掲載再開でございます。半年前といいますと、常陽新聞休刊の知らせを受けたころ。行き掛かり上、牛久市在住の友人マヨねえ宅の新築を山口に住む大工の弟が請け負うことになって、私もその手伝いを始めようとしていたところだったと思います。

初めて読んでいただく方に少し丁寧に説明しますと、この友人は体脂肪率40パー越え。つまり体の成分はマヨネーズ。しかも体形がマヨネーズの容器にそっくりなので、マヨねえというニックネームをつけさせていただいた極めて健康体の友人であります。

しかしタイミングというものはあるもので、休刊になってからのこの半年はこの新築工事で忙しく、平熱で日記などしたためている余裕などありませんでした。毎日足場を上り下り、運動部の合宿さながらのような毎日。夏の間、滝のような汗をかき、おかげで筋肉はつくわ、血圧は下がるわ。

完成に向けて家は日々刻々とその姿を変えつつも、今となっては笑い話のような想定外の事態が間々起こります。例えば、弟が丹精込めて刻んだ材を載せたトレーラーが到着した時。道幅が狭いわけではないのですが、トレーラーが長すぎて現場までの角を曲がれないことが判明。

さてどうしたものか。この辺りの話は後で小出しにすることにして、とにもかくにも9月末には無事完成。木の香りのする室内。「住み心地が良くてお風呂も最高!」って、マヨねえが喜んでくれているのを見ると、大変だったこともよき思い出。

ちょうどそのころ、常陽新聞がWEB上で復刊するので、「平熱日記」を再開して欲しいとの連絡があったというわけです。ただでさえ工事でいっぱいいっぱいのこの半年間に、弟一家を含めた斉藤家には何年分かの出来事が次々と起こることとなります。ちょっと朝ドラ的な感じで。

追伸。19日まで、牛久市のタカシサイトウギャラリーにて「平熱日記Vol.7」開催中です。(斉藤 裕之)

【さいとう・ひろゆき】1961年、山口県生まれ。東京芸術大学大学院後期博士課程満期退

《邑から日本を見る》3  先の衆院選で分かったこと

自民党が圧勝した総選挙が終わって3週間。選挙の経過や結果をめぐっての論調が出そろい、何がどうしてどうなった、ということがあらかた分かった。今回はそれらを読んでの私の感想を書く。

まず経過のおさらい。

電撃解散、大義なき解散。いろいろ言われているが、安倍さんは自分なりに計算しつくしての解散だった。民進党がバラバラ、小池東京都知事が国政に入り込みそうだ。北朝鮮の挑発は続いている。森加計問題は収まらない。内閣支持率は落ち込んでいる。解散を先延ばしすれば自民党の議席は確実に減る。今しかない。

しかし、小池さんと民進党の前原さんが突然希望の党を結成し、希望の党が民進党を丸呑みしようとした。そして、小池さんの排除発言で民進党は三つに分裂し、結果は枝野さんが一人で立ち上げた立憲民主党が55議席を獲得し、野党第一党になり、小池、前原の「希望」は「絶望」に変わってしまった。

自民党と公明党の与党は合わせて315議席を獲得し、前回に続いて3分の2超を確保した。「手を合わせて拝みたいくらいの数字だ。希望の党に感謝したい」と自民党の最高幹部が言ったそうだが、安倍さんの思惑通りの結果となった。

次に、今回の選挙で分かったこと。

投票率が53・68%。投票日に台風が日本を襲ったこともあるかもしれないが、とにかく低い。それは、国民の間に「議会制民主主義はもう機能していない」ということが浸透していたということであろう。安倍首相は国会でやりたい放題。総理が立法府の長だと言い、国会で野党の質問にヤジを飛ばし、詭弁を弄し、答弁をはぐらかし、ことが面倒になると強行採決をし、解散し、召集を先送りし、国会が役に立たない機関であると国民に思い込ませてきた。

立法府が「国権の最高機関」としての威信を失えば、行政府が事実上国権の最高機関となり、官邸の発令する政令が法律に代わる。最近の裁判の事例を見れば、司法ですら行政の思うままにコントロールしている。すべてが官邸の意のままに動く効率的な「株式会社」のような統治システム、社会システムとなってしまっている。

若者の多くが自民党支持という背景にも、このシステムが機能していることが挙げられる。若い人たちは「株式会社」のような制度しか経験したことがない。トップが方針を決めて、下の者はそれに従う。小池さんの都民ファーストもまったく同じだ。小池さんは希望の党もそうしようともくろんだが、残念ながら多くの有権者にその意図を見透かされてしまった。それでも「ガラスの天井は破ったけれど、鉄の天井があった」と、自分の責任は棚上げにしてそううそぶく。(先崎 千尋)

《食う寝る宇宙》1 宇宙に恋して宇宙が栄養

玉置晋さん

「あ~、ウチュウが足りねえ」。たぶん、僕にとってウチュウは栄養素の一つなのかもしれません。

はじめまして、玉置晋(たまおき・すすむ)と申します。生まれは水戸、住まいは土浦で、仕事はつくば、とディープな茨城人です。仕事とパラレルワークしながら、2017年4月から放送大学大学院修士課程の学生となり、「宇宙天気」の研究をはじめました。

宇宙天気についてはいずれ語りますが、このコラムでは僕のウチュウへの関わりを中心に、思ったことをゆるく発信していきたいと思います。もしかしたらマニアックなネタを出してしまうかもしれませんが、お許しを。

僕がウチュウを好きになったのは、幼稚園に入るか、そこらだったかな。1980年代初頭ですね(あ~歳がバレるな)。有名なウチュウ研究者でありSF作家、カール・セーガン先生の御著書「COSMOS」を原作とした科学番組が民放テレビで放映され、兄貴がビデオに録画していたのですね。

それを観た僕は「ヤベえ、スケールでかすぎ」と心を奪われたわけです。幼子の世界観など、自分の家から半径100㍍範囲程度ですから、劇薬です。まさに「無限に拡がる大ウチュウ」に口をあんぐり開けて、放心状態になったことを記憶しています.

小学生のころ(1980年代中盤~90年代初頭)は、NHKスペシャル「銀河宇宙オデッセイ」や科学雑誌「ニュートン」、SFアニメ(例えば機動戦士ガンダム)が,主な栄養源でしたね。

ウチュウ関連のビックイベントも多かったです。1986年には76年ぶりのハレー彗星の回帰があり、自宅の庭から目視+双眼鏡で懸命にみましたが、彗星の尾っぽはよくわからなかったですね。丸い雲のかたまりという感じ、と絵日記に書いたと記憶しております。

忘れてはいけないのが「ボイジャー」です。ボイジャーというのはアメリカのNASAが1977年に打上げた2基の惑星探査機です。ミッションは太陽系の外惑星探査です。受験で覚えさせられる惑星「水金地火木土天海冥」(あ、今は冥(冥王星)はないのか)の「木土天海」を近くで観察しようという壮大な目論見でした。

木星通過は1979年で、幼すぎて記憶なし。土星通過は1980~81年で、ギリギリ覚えている(後付けなのか、よくわからない)。明確な栄養源となったのは、ボイジャー2号が1986年に天王星を通過、1989年に海王星を通過…。もはや、昇天です。

僕が過ごした子供時代は、ウチュウに希望あふれる時代で、僕がウチュウに恋に落ちるのは必然的な環境でした。(玉置 晋)

【たまおき・すすむ】東京理科大理工学部物理学科卒。茨城大学大学院理工学研究科地球生命環境科学専攻修了。現在、つくば市で宇宙開発の仕事に従事する傍ら、放送大学大学院生として二足のわらじを楽しむ。茨大理学部でも「宇宙天気防災」のテーマで研究中。水戸市双葉台出身、土浦市宍塚在住。39歳。

《宍塚の里山》2 自然と歴史の会発足のころ②

宍塚大池は3本の谷津をせきとめて造られた広さが3.5haのため池で、上空から見ると「大」字形をしています。いつの時代に造られたのかわかりませんが、江戸時代の古地図には亀池の名で出てきます。大池の水は下流にある谷津田だけでなく、今でも平場の田んぼの耕作に広く利用されている現役のため池で、農林水産省「ため池百選」に選定されています。

池は、雨水と池の周辺の台地から流れ出る湧き水が水源です。大雨のあと、一気に水かさが増すように見えますが、その後かなり長時間水が増え続け、池の周りの林が水を貯えるダムになっていることが分かります。1980年代初頭まで、宍塚は松林が広がっていました。

しかし、里山が利用されなくなったことから、マツノザイセンチュウによる松枯れが広がり、松林がコナラなどの雑木林に変わっていきました。松が多かったころの大池は水面に松がうつり、池が黒々と見え、神秘的に見えました。今はそのころに比べると明るい池になりましたが、大池に初めてやって来た人は、異口同音こんないいところがあったと大層驚きます。

池を一周する道はありません。池の周囲に広い山があることで、貴重な生き物の生存が可能になっていることが調査の結果明らかになっています。

さて、「宍塚の自然と歴史の会」発足2年前(1987年)、宍塚大池を含む一帯に開発計画があることが新聞に載りました。太い道路によって、大池を囲む広い森を分断、住宅地、商業地などに分けられ、新たな街の構想が描かれていました。

そのころ、宍塚大池とその一帯は、地元の方だけでなく、この静かなたたずまいに魅了されていた人々が結構いました。近隣の子ども会、PTA活動などを通してこの場所を知った人々、野鳥のグループなど、知る限りでもかなり多くの人がやって来ていました。

しかし、この開発計画は知る人がほとんどいない中で進められていました。あとで分かったことですが、使っていない土地は「未利用地」といい、開発が当然と考えていた人たちがいて、開発計画は地権者と行政によって進められていたのです。地権者が、使われていない里山の開発を望むことはあり得ると思いますが、行政が開発だけを秘密裏に進めることには疑問を持ちました。

新聞で開発計画を知って間もない1988年、朝日新聞社水戸支社が「茨城の自然百選」の募集を開始しました(同社のグリーンキャンペーンの一環で、茨城県、茨城放送、森林文化協会の協力で、県内外の一般公募で100カ所を選定)。1989年、「茨城の自然百選」(筑波書林)として出版されました。これには県内の自然がほぼまんべんなく紹介されていますが、「宍塚大池」は貴重な「自然」の宝庫として紹介されています。(及川ひろみ)

 

《くずかごの唄》1 河童から教えてもらった水のこと①

奥井登美子さん

1982年から霞ケ浦の56本の流入河川200カ所の、市民の手による水質調査が原田泰さんの発案で始まった。パックテストもない時代で、水の分析と、水質をどう考えるか、考え方の根源が問われる調査であった。東大自主講座の宇井純さんも協力。浅野敏久さん、森保文さん、片亀光さん、前田恭伸さんなど、今、それぞれ環境問題の権威であるが、その頃は可愛い学生であった。

1983年琵琶湖での「世界湖沼会議プレ会議」で、私は霞ケ浦で市民が手さぐりで始めた200カ所の水質調査の報告を行った。

1984年「第1回世界湖沼会議」で、土浦の自然を守る会を発足させた医師の佐賀純一さんが「アオコ河童からの提言」という報告を行った。なぜ河童が登場したかというと、当時の霞ケ浦は通称アオコと呼ぶ淡水プランクトンが大量発生し、土浦市内にまでアオコの腐った臭いが充満していた。

その色が河童に似ていたのと、水質調査で歩いた56本の川にたくさんの個性的な河童がいたことを知ったからである。

私はアオコの実物を第1回世界湖沼会議の会場に展示した。霞ケ浦のアオコの臭いを嗅いだ参加者の反応はすごかった。外国人が2人佐賀さんにくっついて霞ケ浦までアオコを見に来て「おー、ゴット」と叫んだ。

宍道湖の漁民は150人もバスで見学に来た。宍道湖の人にアオコを見せたいので送ってほしいと頼まれ、宍道湖しじみ組合に何回も送った。宍道湖の淡水化が阻止され、シジミが残ったのは霞ケ浦のアオコのおかげである。(奥井登美子)

【おくい・とみこ】1955年東京薬科大卒、薬剤師ではなく油絵修復に従事。58年、奥井薬局の奥井清氏(中外製薬勤務)と結婚、土浦に。1895年創業の老舗薬局を経営する傍ら、霞ケ浦の自然を守る活動などに参加。「水の時代をひらく」(KGP総合研究所)、「柳川堀割りから水を考える」(藤原書店)、「くずかごの唄」Ⅰ~Ⅷ(筑波書林)など著書多数。加藤尚武京大名誉教授は実弟。杉並区出身、土浦市在住。84歳。

≪吾妻カガミ≫17 地方と首都を繋ぐ産学銀

10月下旬、大学時代のゼミ同窓の懇親会があった。1970年卒だから皆70歳を超えている。でもメンバー14人のうち死んだのは弁護士をやっていた1人だけ。中学や高校の同窓会をやると、クラスの10%程度は死去と記されているから、平均よりも生存率が高いのではないか。近況報告では病気や旅行の話が多いが、現役で活躍している奴もいる。

学生を地方に派遣

大手電機会社を退職した後、世田谷区にある私立大の学長をやっているU君。在京大学生の80~90%は首都圏出身という話をしていた。われわれの時代は地方出身が多かった。80~90%が地方出であったような気がする。このシェア逆転は何を意味するのか。首都圏に富が集まり高学歴の再生産が進んでいるということではないか。地方を元気にしないと首都と地方の格差がますます拡がる。

U君の大学は面白い取り組みをしている。学生を地方に派遣し、地域の「いいもの」を探させ、大学に近い自由が丘商店街(目黒区)で販売している。派遣先は函館から石垣島まで全国10数カ所。茨城のかすみがうら市もその一つという。この「産」と「学」の結びつきを応援しているのが筑波銀行。彼は「地方創生には産・学・銀(行)連携が大事」と言う。

この試みは学生にとっても好ましい。首都圏生まれの学生が地方に「いいもの」探しにいくことで田舎のよさを知るきっかけになるからだ。もちろんビジネスセンスを磨くこともできる。

大学がモールも経営

国立大を定年退職したあとも近代史研究を続けているY君。最近、米カリフォルニア州にあるスタンフォード大学に資料探しに行った。「大学の経済学部がショッピングモールを経営しているのには驚いた。日本では大学の店舗経営などありえない。私立大ということもあるのだろうが…」。国立一筋の彼にはショックだったようだ。

歴史資料探しでも、米国の大学の取り組みには驚いたという。彼が訪れたのはスタンフォード大の中にある「フーバー・インスティチュート」。この組織は終戦直後東京にオフィスを置き、戦前戦中のナマ文書を精力的に収集した。その集積が同大の「売り」になっている。

そこで彼が探したのは、満鉄上海事務所が集めた中国共産党情報。結局発見できなかったそうだが、好奇心はまだ旺盛だ。彼の話で感心したのは、大学運営の一環として大型ショッピングセンターも経営しながら、戦争相手国に乗り込んで戦時情報を徹底的に収集する米大学のスタンスだ。

大手商社OBが幹事をした飲み会は、仏料理コース、出席11人でシャンパン、白ワイン、赤ワイン各2本、会費1万3,000円。首都と地方ではこの辺の感覚にも格差があるようだ。(坂本 栄)

《続・気軽にSOS》1 私が髪を伸ばす理由

この3月まで常陽新聞に「気軽にSOS 街の相談屋 上手に悩んで楽しく生きる」を連載させていただきました。週1回を2年半ほど続けることが出来て、とても良い体験ができたと思っています。この度、感じたことや悩み相談をお届けできる機会をNEWSつくばにいただけたことを嬉しく思っています。

半年前の私と、今の私の分かりやすい違いは、髪の長さですね。私は、髪の毛を後ろ側半分だけ伸ばしていて、今、肩甲骨が隠れるぐらいの長さになっています。前から見ると普通の男性の髪形に見えますが、後ろから見ると女性の髪形のような、変てこりんな髪形をしています。

自分でも認識している、変てこりんな髪形。周りの人が変だなと感じるのは当たり前だと思いますが、それでも、私の周りには、変だという人は皆無です。全く困らない状況どころか、いろいろとプラスに働くことがあるぐらいです。

それでも、先日、その髪型を快く感じられないので変えて欲しいという人に出会いました。そんな髪型では周りの人から良く見られないし、相談という仕事をしている以上、マイナスにしか働かないはずだということです。

私自身は、この髪型で損をしたことはありませんよ。むしろ、得をしているぐらいですと実例を出して説明しても、何のために髪を伸ばしているかを説明しても、全く納得してくれませんでした。

この方の意見は私を思って言ってくれたことですし、変な意見ではありません。それどころか、とても常識的な、良識的な意見だと思います。ですが、その常識的で、良識的な感覚が世間にあることが、実は、私が髪を伸ばしている理由にもつながります。

つまり、このような理論です。
1)日本人には、その年代や性別に合った髪型というものがある。サラリーマンらしい髪型、アーティストらしい髪型、ラーメン屋らしい髪型、女性らしい髪型、男性らしい髪型。

2)そして、もちろん子どもらしい髪型というものがある。(余談ですが、私の時代の男子中学生らしい髪型は、坊主頭でした。今では非常識ですか?)

3)「らしい髪型」でないのは、おかしなことである。

4)髪の毛がないのは、子どもらしい髪型でなく、その子どもはおかしい髪型である。

大人の感覚は、子どもに伝わり、そして大人より子供の方が行動化を起こしやすいものです。

髪の毛が無い子どもはいじめられる可能性があるということです。いじめられなくても、髪のない子どもは、自分の姿を恥じ、縮こまっていくことでしょう。

そして、実際に小児がんのため抗がん剤を服用することだったり、他の病気だったりが原因で髪の毛を失ってしまう子供たちが存在します。

その子たちにウィッグを提供する活動、それに髪を寄付するために、私は髪を1年ほど伸ばしているのです。ヘアドネーションというらしく、私は、あともう少しで30㎝を提供できるぐらいに伸びています。

つまり、男の私が長髪であることがおかしいと思う空気があればあるほど、私は髪を伸ばし続け、提供し続けるということでしょう。誰もがおかしいと感じない世界であれば、ヘアドネーションは必要のない世界になるでしょうね。

常識的な、良識的な言動が、もしかしたら偏見を助長し、誰かが傷ついているかもしれないという感覚は大切なことだと思います。(浅井和幸)

【あさい・かずゆき】石岡一高卒。1991年科学技術庁無機材質研究所(総理府事務官)入庁。精神障害者福祉施設勤務を経て、2002年浅井心理相談室開業。NPO法人若年者社会参加支援普及協会アストリンク理事長。NPO法人青少年の自立を支える会シオン副理事長。NPO法人とらい理事。ボランティア活動「浅色の雲の会」主宰。

《宍塚の里山》1 どんなところ?-会発足のころ

及川ひろみさん

里山は、雑木林、谷津田、ため池などからなる身近な自然環境です。人々は里山で薪(まき)や炭、肥料など生活に必要な様々な恵みを受けて、田畑を耕し、1000年以上にわたって暮らしてきました。里山の自然は、持続的に活用されてきた、人と自然の協働作品であると同時に歴史的な文化財です。人の手が加わり続けられてきたことで、里山は原生林以上に多様な生き物が生息し、全絶滅危惧種の1/4が里山に生息すると言われています。

茨城県土浦市宍塚には、ため池、雑木林、谷津田、草原、湿地、昔ながらの小川など、様々な環境が複雑に入り組んだ100haほどの里山があります。1960年ごろまでこの里山では、建材、農具、家具、家財用材を取り、生薬、キノコ、山菜、シジミ、魚、ウナギを採るなど、山、田畑、草地すべてを暮らしに利用していました。しかし、灯油、ガス、電気などエネルギー革命によって人々の暮らしは大きく変わりました。また農業と密接な係りがある里山ですが、里山は大型機械の導入が難しいこと、化学肥料の利用によってそれまで里山に依存していた農業が大きくその姿を変えました。そして里山はその価値が一旦見失われたかのようにみえるようになりました。

しかし本当に里山には価値はないのでしょうか、そう言い切れるのでしょうか。このシリーズでは宍塚の里山とはどんなところなのか、そしてどのような価値が潜み、どのように生かすことが可能なのか、大切なところなのか、考えてゆくものにしたいと思います。

宍塚の里山は1970年ごろから開発計画が幾度もありました。その都度社会状況が整わず、実行されることなく、貴重な里山が残されてきました。

会は助走期間の2年を経、1989年9月、この里山について理解を深め、未来に伝える手段を見出すことを目的に「宍塚の自然と歴史の会」が発足しました。その柱は生物の多様性と、環境を学ぶ場所です。

発足当初毎年宍塚の区長さんを訪問し、「観察会をさせていただきたい」「観察会を行うために散策路の草刈りをさせていただきたい」の2点をお願いしました。散策路は市道ですが、よそから来た者がよかれと勝手気ままに行動することは避けたい、礼節を保つための訪問でした。今も許可を得られたところ以外は入らないことを守っています。東京から50㌔圏に位置する宍塚の里山は交通の便もいいことから、観察会には首都圏から参加される方も加わり和気あいあいと行っています。

宍塚の里山は関東平野有数の広い里山であり、2015年環境省による「生物多様性保全上重要な里地里山」に選定されました。(及川ひろみ)

毎月第2、第4金曜日掲載。

【おいかわ・ひろみ】東京都出身。神奈川県内の小学校教員を務める。1970年代につくば市転居後、「学園都市の自然と親しむ会」などのメンバーとして子連れで近隣の自然を散策。1987年に宍塚地区の開発計画を知り、里山を未来に伝える活動に取り組む。現在、認定NPO法人宍塚の自然と歴史の会理事長。

《吾妻カガミ》16 茨城6区のまばゆい風景

台風襲来と同時進行した衆院選挙(22日)では、FM放送「ラジオつくば」の堀越智也社長に頼まれ、開票番組(21~23時)の解説を担当した。先の県知事選に続く出演で、本業の経済ジャーナリストから政治にもテリトリーを拡げている。つくば地域を対象とした電波ということを念頭に、解説はできるだけ6区に絞り込んだ。以下、そのポイントを活字に起こしてみた。

6区には3新人が立候補したが、国光あやのさん(自民党)と青山やまと君(希望の党)―2候補とも38歳!―のトップ戦いになった。結果は約6,000票の差を付けて国光さんの勝ち。青山君も重複比例で議員になったから、お2人にはおめでとうと言いたい。つくばみらい、つくば、土浦、かすみがうら、石岡から、30代の男女が国政に向かう。県南地域の変化をまばゆく感じる。

獲得票を市別に見ると、かすみがうらと土浦、石岡は青山君が勝ち、あとの2市は国光さんが勝った。ラジオでは「土浦は青山君の出身地であり県議時代の選挙区、かすみがうらは奥さんの出身地」と勝因を解説したが、両市では自民の取り組みが弱かったのではないかとの分析も聞こえてくる。

いわゆる落下傘の国光さんとお会いしたのは今年2月、出馬表明の数日前だった。著名な政治ジャーナリストから「地域の情勢についてレクしてやってくれ」との電話があり、面談した。その際、地元出身の青山君が前回落ちてからコツコツ活動をしているから、次の次を狙うぐらいの覚悟でないと難しいのではないか、と話した。

ほかに、楽ではない理由を2つ挙げた。①茨城の自民は組織活動がいい加減、政権党ということで頼みにしたら間違い②元厚生相の丹羽雄哉氏の後継ということだが、丹羽氏は正直地元では人気がない―。クールな分析だったと思うが、自民、後継、若い、女性―これらが売りと思っていた国光さんは厳しい表情を見せた。

国光さんにとって、出馬表明から半年後の選挙は想定外だったと思う。だが、強い風が吹いた。9月の県知事選で、自民推薦の大井川和彦氏が勝ったからだ。自民党本部から活を入れられた自民県連が知事選に勝利、その勢いで衆院選に臨んだ。

青山君には、民進党の分裂は想定外だったと思う。仮に立憲民主党候補が立った区のように野党連合が成立、古沢喜幸氏(共産党)が降りるようなことになっていれば、小選挙区議員と比例議員は逆になっていたのではないか。一寸先は闇、政治は難しい。(坂本 栄)

《邑から日本を見る》2 原発問題はやはり争点だった 知事選でわかったこと(2)

私は、橋本昌氏が告示日の直前になって、東海第2原発の再稼働に反対するという「豹変」ぶりを見せたことに疑問を感じた。新聞は、橋本氏は8月8日の政見放送の収録で「再稼働を認めない」と言った、と伝えている。支持者への根回しはなかったようだ。再稼働反対の公明票をつなぎとめるためではないか、と見られている。

しかし、結果は橋本氏の期待通りにはならなかった。新聞各紙の出口調査では、投票した人の約6割が原発再稼働反対だった。しかしそのうちの4割の人が大井川氏に投票した。原発再稼働は争点にはならなかったと言える。原発に賛成の立場の連合は逆に反発し、大井川氏に流れたようで、橋本氏は結果としてアブ蜂取らずだった。

鶴田氏の敗因はいくつか挙げられるが、決定的と思えるのは、出馬表明が遅れたことだ。記者会見から告示日まで実質1カ月しかなかった。しかも、民進党、社民党の推薦は得られなかった。野党共闘は茨城の知事選では実現しなかった。

私は、自分の経験も踏まえ、投票の際、政策で選ぶ人は1割くらいしかいない、と考えている。会う、話をする、講演会などで聞いてもらう、靴を何足も履きつぶすほど歩け、人に会え、と言われた。しかし、選挙民すべての人に会ったり話したりはできないので、友人や知人の役割も大きい。あの人の言うことなら信頼できると。自公両党はそれぞれの組織をフル稼働させた。本人(大井川)のことは知らなくとも、あの人が言うのだから、という積み重ねの結果だったのではないか。

では、鶴田氏の出馬は無駄だったのか。そんなことはない。新聞各紙が書いたように、最初はそうではなかったのに、間違いなく東海第2原発の再稼働問題は争点になった。原発反対運動をしてきた市町村議の何人かは橋本氏支持を表明し、鶴田票を取り込む行動に出た。

9月に行われた隣県のいわき市長選では、3人の候補者は東京電力福島第1、第2原発がすぐ近くにあるのに、誰も原発や放射能問題を積極的に触れなかった。結果は現職再選だった。原発銀座と言われる福井県では、県レベルでも市町村レベルでも、原発問題を主要論点とする候補者はこれまでほとんどいなかったと聞いている。

大井川氏は「県民の意思を十分に反映する形で、再稼働の可否を慎重に判断する」と言っているようだが、「茨城県民は原発再稼働に反対」が半数を超えていることを重く受け止めて欲しい。

鶴田氏の功績の二つ目は、「いのち最優先」という、誰もが当たり前だと思うことを前面に押し出したことであろう。「歴代知事は大型開発優先の県政を進めてきて、全国第8位の財政力がありながら、医療や福祉、教育は全国最低クラス、魅力度も最低。それはどうしてなの」というのは、主婦の感覚、庶民の感覚であり、これまでそのようなことが選挙時に話題になることはなかった。最新の報道では、本県は今年も「魅力度」全国最下位だそうだ。

さて、本稿が皆さんの目に触れる時には今回の総選挙の結果が出ている。茨城では実質的な野党共闘が成立しなかった。

事前のメディアは、ほとんどで自公両党が圧勝し、野党では小池東京都知事が率いる希望の党が伸びず、立憲民主党が健闘している、と伝えている。結果はどうか。疑惑隠し、大義が見えない、などと言われてきた。天下取りを狙った小池さんは、安倍政権を倒すと言いながら「排除」を振りかざし、しがらみのない政治を口にしても、おやりになることはしがらみだらけ。一貫性がない。有権者はどう判断するだろうか。

とにかく、政治を変えることができる唯一のチャンスは選挙だ。「台所は必ずしも政治につながらないが、政治は確実に台所につながっている」。ありとあらゆることがテーマ、争点になるのだ。年金、医療、教育など、自分の暮らし、地域の変貌、農業の衰退などをどうするのか。あの人に頼まれたからではなく、自分のアタマで考えたいが、後の祭りか。

次回は今回の選挙結果を取り上げる。(先崎千尋)

 

《吾妻カガミ》15 メディアの国際化は

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー15

勝負の分かれ目

斎藤:メディアが一般企業のようにグローバル化することは可能と。

坂本:時事の証券部長のとき、私が手掛けた電子メディアの競争相手は、日経のQUICK、米国のブルームバーグ、英国のロイターの3社でした。

そのころのことは、文藝春秋の下出進氏のロングインタビューを受け、いろいろ話しました。下出氏は取材先を拡げ、「勝負の分かれ目―メディアの生き残りに賭けた男たちの物語」(講談社、1999年刊、2400円)という本にまとめています。

私は、ブルームバーグとかロイターとか外国勢の日本進出に抵抗、外国メディアの記者クラブ加盟を妨害する悪役として描かれています。古本屋かアマゾンで手に入れば、読んでみてください。(笑)

そのころ、時事もグローバル化するにはどうしたらいいか考え、ブルームバーグ買収を夢想したこともありました。私が時事の社長になっていたら、買収に動いたでしょうね。電通株上場で、大株主の時事と共同には多額の含みがあり、軍資金は十分でした。(笑)

相互補完的な媒体

齋藤:そのあたり、もっと詳しく。

坂本:そのころ、ブルームバーグの社長、マイケル・ブルームバーグ氏が会社を処分し、政界に転出するという噂が流れていました。売り値は2億~3億㌦でしたか。

結局、彼はニューヨーク市長になりましたが、会社は売りませんでした。それどころか、自社の含みを政治資金にし、大統領選に出ようと考えたこともありました。

ブルームバーグ氏は、日本の事業を拡大しようと、よく東京に来ました。パーティや会見で同社のことを聞くと、ビジネスの内容が時事と補完関係にあり、魅力的な会社であることが分かりました。

ブルームバーグは①英語版電子メディアを使い②世界の市場関係者に③経済情報サービスする―ビジネスだけをしておりました。時事は①日本語版電子メディアを使い②国内の市場関係者を相手に③経済情報をサービスする―ビジネスが収益の柱でした。

顧客の電子端末に提供するコンテンツも、データに強い―記事には弱い―ブルームバーグ、記事に強い―データには弱い―時事と、サービスも補完的でした。

旧知の証券会社M&A担当役員と、プレスセンターで飯を食い、時事首脳のGOが出たら仲介してくれるかと聞いたら、「買収がうまく行ったらNYに送り込む社長はいるのか」「考えてなかった。いなければ僕が行くしかないか」―こういったやり取りがありました。彼は今、BMWのバイクに乗って世界中を旅行しています。(笑)

この話を時事の役員に話したら、冗談かと思ったのか大笑いされました。私には妄想癖があるということですかね。この構想、いいポイントを突いていたと思いますが。

自社色に染めないと

要は、日本のメディアが国際化するには、ブランドがある既存の会社を買収するしかないということです。日経のように、「FINANCIAL TIMES」というブランドを買わないと、外に出るのはなかなか難しい。

しかし、日経は「FINANCIAL TIMES」に社長を送り込まず、英社の経営陣を尊重すると言っています。これではダメです。日経の色に染めなければ、多額の資金を投入して買収した意味がありません。この辺は物足りないですね。

藤本・齋藤:なるほど。ありがとうございました。(了)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

あとがき 自己紹介的な「メディアあれこれ」は今回で終わります。「吾妻カガミ」は次回以降、一回完結型になります。はじめにでも触れましたように、地域のこと、(国の)内外のこと、いろいろなテーマを取り上げます。不定期ですが、よろしくお願いします。

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

《吾妻カガミ》14 時代の変遷、多様な視点

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー14

月曜は大学の日

斎藤:新聞への寄稿だけでなく、古巣・時事も手伝っているそうですが。

坂本:時事の方は地域アドバイザーです。これは、先に触れた「常陽懇話会」―事務局が新聞社内にありましたので旧社破綻に伴い解散―会員の約3分の1を、時事の同様の組織「内外情勢調査会」に紹介したことが縁になりました。

内情は全国組織ですが、県内には茨城支部(水戸・日立中心)と県南支部(つくば・土浦中心)の2支部があります。地域新聞の社長・会長・顧問を10年やっていましたから、地元の政治家、経営者、首長とは懇意にしておりました。その財産を活用、古巣の地域業務を手伝っているわけです。

また、2015年春から、茨城キリスト教大という日立市の大学で教えるようになりました。4年前にオープンした経営学部の講師をやってくれないかと、知り合いの理事から誘われ、毎週月曜日の午後、2コマ―国際経済と社会科学―教えています。

昔風の講義ではなく、生徒が興味を持つよう、ナマの話も入れてということでしたので、記者時代の知識、新聞経営の経験をブレンドしています。生徒とのコンタクトだけでなく、若い先生といろいろな話をするのは楽しいですね。日立の飲み屋もいくつか開拓しました。(笑)

官主導→民主導

藤本:最後に大きな話になるのですが、戦後日本の経済ジャーナリズムの問題点は。

坂本:取材33年のうち、前半は高度成長、後半はバブル崩壊でした。前半の日本経済は、官主導と言っていいと思います。後半は、金利自由化や規制緩和に象徴されるように、民主導、市場重視になりました。

官主導時代の取材対象は、通産省、大蔵省、日銀などが代表的なところです。民主導になると、自動車、電機、流通といった産業界、企業の商品開発とか業績、株式・為替・金融といった市場に、取材の力点が移りました。

成長期はどうして官主導だったのか。会社に蓄積がなく、おカネがないから、国が産業界におカネを重点配分する必要があったからです。ところがバブルのころから、企業にも蓄えができ、国の指図をいちいち受けない方がやりやすい―そういう景色に変わりました。

その移行期は、80年代後半から90年前半でしょうか。でも、日本の経済ジャーナリズムは、官主導ノスタルジアから抜け切れていない。もっと、企業・市場志向になる必要があると思います。

米国を見ると、企業の合併とか投資の記事、つまり民の記事が多い。FRBの記事も結構ありますが、これは企業がマーケットを気にしているからです。日本では、役所がこう考えているといった記事がまだ多いような気がします。

英米メディアの目

藤本:グローバル化が進む中、経済ジャーナリズムの役割は。

坂本:今、日本の企業がどんどん外に出ています。こういった企業の動きに比べると、メディアはドメスティックです。市場は「日本の読者」、商品は「日本語の媒体」ですから、仕方ないといえば仕方ないでしょう。

でも日経は、英国の経済紙「FINANCIAL TIMES」を買収、市場や商品を拡げる決断をしました。推測ですが、グローバル視野でメディアビジネスを展開しないと、取材対象でもあり読者でもある、企業のニーズを満たせないと判断したのでしょう。

日経を有料電子版で読んでいますが、「FINANCIAL TIMES」の邦訳記事は有益です。情報の質だけでなく、日本メディアとは違った視点で物事を見ているからです。「THE WALL STREET JOURNAL」の電子版も読んでいますが、米のビジネス界、エスタブリッシュメントの視点を知るのに役立ちます。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

 

《吾妻カガミ》13 地域新聞の経営モデル

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー13

 日刊紙<無料紙

坂本:話が逸れました。常陽新聞の方に戻ります。社長を引き受けたものの、ネットの普及によって、全国紙も地方紙も、日刊紙の将来性はないと思っていました。それなのにどうして引き受けたのかと思うでしょう。私の経営方針は、日刊紙は続けるものの、儲からないから、フリーペーパー(無料紙)を収益の柱にする―というものでした。

斎藤:そのビジネスモデル、もう少し詳しく。

坂本:東京には、地下鉄駅にスタンド置きのフリー紙がありますが、地方では全国紙への折り込み―チラシと同じように―がデリバリーの主な手段になっています。

常陽新聞は県南を対象にしたフリー紙を出していたので、その内容・頁数を充実・拡大させながら、水戸市で出していたフリー紙も強化しました。2004年のつくばエクスプレス(TX)開通に合わせ、沿線を対象とする3つ目のフリー紙も発行しました。

リーマンショック

有料日刊紙の赤字をフリー紙の黒字で埋め、地域のために日刊紙を維持する―というのがビジネスモデルでした。もちろん、日刊紙のブランドがフリー紙の信用にもつながるという、相乗効果も意識しました。社長就任後、新聞業界紙の取材にも、日刊紙中心でなくフリー紙中心でと話していました。

ところが、ミニバブル―時事を辞めた03年を底に株価は回復プロセスに入りました―を想定した経営モデルは、08年のリーマンショックで崩れました。フリー紙は100%広告収入で成り立っていますから、リーマンで景気が悪化、広告はあっという間に蒸発しました。

フリー紙は、ミニバブルを追い風に、マンションなど不動産広告、ショッピングセンターなど小売店広告が主な収入源でしたから、それは最悪でした。

私は、経済は2~3年ダメだなと思い―実際は5年も続きましたが―、フリー紙のうち県南版だけ残し、水戸版は廃刊、TX版は投資分を回収して転売しました。フリー紙中心モデルは困難と判断したわけです。

旧社破綻→新創刊

藤本:常陽新聞の破綻と再発行に至る経緯は。

坂本:一連の再生シナリオを描いて、社長を辞任、地域の有力者に後をお願いしました。でも継続性というものがありますから、2年は会長として残りました。そのあと顧問に退き、経営の第一線から離れました。

ただ、地域の名士の方々、約100人―社長さん、理事長さん、市長さん、議員さん―を会員とする「常陽懇話会」の主宰は続け、月1回、東京の評論家とか地元の有力者を呼んで講演してもらいました。

ところが13年夏、2代あとの社長がついにギブアップ、破産処理をして、新聞社の歴史は終わりました。そこまで悪くなっているとは私も知らず、ビックリでした。日刊紙の読者は減り、フリー紙も不振ということもあり、仕方ないでしょう。

店仕舞から1ヶ月経ったころ、ソフトバンクに10年おられた理系の方が、エリアをつくば市と土浦市に絞り込んで、タブロイド版日刊紙をやりたい、ついては「常陽新聞」の題字を使いたい、と言ってきました。

止めておいた方がいいと言ったのですが、是非にということで、制作、印刷、配送など、会社立ち上げについて助言しました。別の世界にいた方が新聞をやりたいということで、常識にとらわれない経営も面白いかな、と思いました。

その「常陽新聞株式会社」―私が社長をしていたのは「常陽新聞新社」―は、14年2月、常陽新聞を「新創刊」しました。少し協力しなければと、月2回、地域名士へのインタビュー記事を寄稿していますから、記者現役です。(編注:復刊された「常陽新聞」は17年3月末休刊。土屋ゼミ・インタビュー時点では発行中)(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

 

《吾妻カガミ》12 ネット展開で経営と衝突

早大政経・土屋ゼミ・インタビュー12

 アルバイト原稿

藤本:1998年、大阪支社に行かれました。

坂本:大阪赴任中、20世紀から21世紀に移るミレニアムがあり、配信システム=コンピューターの誤作動が起きたらどうするか―これが一つの仕事でした。幸い何事もありませんでしたが。

大阪では支社次長として、経済部、商品部、水産部、社会部、内政部、運動部、写真部などを管理するのが仕事でした。思い出深いのは、和歌山カレー事件ですね。週刊誌やテレビは大騒ぎでした。

藤本:大阪支社の前、解説委員をしていますが。

坂本:新聞社でいうと論説委員ですね。時事は論説記事を配信していないこともあり、論説委員と呼ばないで、解説委員という職名でした。当時、週刊誌「世界週報」「週刊時事」とか、経済関係のニュースレターを発行していましたから、その執筆がメインです。私は、経済、特に国際経済を担当しました。

各社の記者もそうですが、外部の雑誌などからも注文が来ます。比較的時間に余裕がありましたから、週刊誌や月刊誌には随分書きました。いわゆるアル(バイト)ゲン(稿)です。これは楽しかったですね、原稿料も入って来るし。(笑)

通信社→地域紙

藤本:2003年、常陽新聞へ移りました。

坂本:時事を辞め、郷里の土浦に本社があった「常陽新聞」の社長になりました。茨城県には水戸市本社の「茨城新聞」と土浦市本社の「常陽新聞」がありましたが、茨城は県紙、常陽は県南地域紙です。

常陽は1948年創刊ですから、土浦が「県南の商都」と言われたころは経営も順調だったようです。ところが、若い人の新聞離れ、土浦の地盤沈下もあり、苦戦していました。

地方銀行の役員や県庁の幹部から、辞める半年前、地元に戻り社長をやってくれないかという話がありました。いろいろ考えた末、56歳―昔はこの歳が定年でした―になったことでもあり、別の分野、ニュースの卸売り=通信社から、ニュースの小売り=新聞社に転身するのも面白いかと引き受けました。(笑)

ネガティブ要因

実は辞める前の1~2年、経営の方向について私の考えが受け入れられず、悶々としていました。ひとつは、日銀キャップ、経済部デスク、証券部長、経済部長のとき手掛けた電子メディア―金融情報サービスの「MAIN」と証券情報サービスの「PRIME」―のシステム開発体制についてです。

システム更新の際、経営陣は外部開発会社に投げる―アウトソーシングですね―方針を打ち出しました。これに対し私は、通信社のシステムは独自性が強く、外部に任せるには無理があると、自社主導を主張しました。

結局、外のシステム会社に丸投げされましたが、開発に時間がかかり過ぎ、新モデルを出すタイミングを失っただけでなく、投資額も危機水準まで膨らみ、この選択は失敗しました。結果が分かったのは、私が辞めたあとでしたが。(笑)

もうひとつは、通信社としてインターネットをどう使うか―ネット戦略についてです。大阪から戻ったあと、ネットを使ったメディア企画の新部門を任されました。そこで、紙を持たない通信社にとってネットは好機と考え、既存サービス―NTTの専用回線を使った電子サービス―を、ネット上に構築するプランを立てました。

しかし、歴史ある、既存サービス体系を重視する経営陣は反対、ネット化構想だけでなく、組織―メディア事業本部と言いました―も潰されました。こういったこともあり、時事の居心地が悪くなっていたわけです。

システム開発とネット展開の方向性をめぐる、経営陣との衝突。ネガティブ要因ですが、これらも時事を辞め、ローカル紙に移った理由です。(続く)

(インタビュー主担当:藤本耕輔 副担当:齋藤周也、日時:2015年12月4日、場所:東京都新宿区・早稲田キャンパス)

【NEWSつくば理事長・坂本栄】

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