【コラム・先﨑千尋】この頃は聞かなくなった言葉に「衣食足りて礼節を知る」がある。また、人間の暮らしに最も大事なものは「衣食住」だ。どちらも衣が最初だ。その衣。人が衣をまとうようになったのは約1万年前と言われている。最初は獣や魚の皮、樹皮などだったようだが、わが国では藤、葛(かずら)、麻、榀(しな)、苧麻(からむし)、楮(こうぞ)、芭蕉(ばしょう)などの表皮を糸にし、それで衣類を織った。自然布と呼ばれている。

そうした自然布の一つに楮があり、那珂市静地区で織られていた倭文織(しづおり)もその一つだ。その存在は常陸国風土記、万葉集、日本書紀、延喜式などに記されている。しかし、これが倭文織だという現物が見つかっていないので、今日では「幻の織物」だ。

それを再現しようと、1988年に兵庫県緑町(現南あわじ市)倭文(しとおり)小学校で、子どもたちが手探りで織り始めた。当時瓜連町長だった私はそのことを知り、ゆかりのあるこの地区でも倭文織を復活しようと、町の仕事として取り組んだ。それが今度は岡山県倭文の郷(津山市)に伝播(でんぱ)し、現在は3地区で織られている。

私は「それなら3地区で交流しよう」と長いこと考えてきたが、やっと、この8月に「倭文織WEB交流会」を開くことができた。コロナ禍のため1カ所での交流はかなわず、オンラインを仕掛けたのは那珂市シティプロモーション推進室だ。

交流会では、最初に先﨑光那珂市長が挨拶し、那珂市からは、瓜連小学校教諭の羽金瑛美子さんと市の継承グループ「手しごと」のメンバーが、取組事例を発表した。次いで南あわじ市からは、倭文小学校の服部和幸教頭が、これまでの経過と授業の一環として倭文織体験を実施していること、イベントなどで販売していることを報告された。

津山市からは、倭文織にゆかりのある史跡や歴史の研究についても報告され、子どもたちが倭文織の体験を通して同市の歴史を継承していくことが大事だと強調していた。

さらに私が瓜連町での取り組みの経過を報告した後、織物や衣文化の研究者で倭文織の復元に取り組んでいる帝塚山大学名誉教授の植村和代さんが、これまでの研究成果を報告した。

研究の継続と技術の確立が課題

倭文織が織られていたのは5、6世紀から10世紀頃までとされているが、倭文織に関わってきたと考えられる倭文(読み方はしとり、しずりなど)神社が全国に10数社あり、倭文、志鳥、志土呂、静など、倭文織に由来すると思われる地名や姓も各地に散在している。この織物は神事に使われていたとみられ、神秘的な色合いが濃い。わが国ではこれまでに織物はいろいろ存在したが、倭文織に由来する神社や地名、姓名などが残っていることから、倭文織は特殊なものというのが私の考えだ。

今回の交流会を契機に倭文織の素材や用途などの研究が深まり、ルーツをあきらかにすることや「これが倭文織だ」という技術を確立すること、さらに“織姫”の育成も期待される。(元瓜連町長)