木曜日, 4月 25, 2024
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グローバリゼーションに新ルール 《雑記録》30

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【コラム・瀧田薫】ダニ・ロドリック氏が「グローバリゼーション・バラドクス(The Globalization Paradox)」(2011年)を出版してから、今年でちょうど10年になります。この間、「グローバリゼーション」に関する論文・著作が数多く発表・発行される中で、この本の存在感はまだ失われていません。

この書物が発行された当時、著者は世界経済の「政治的トリレンマ」(民主主義、国家主権、グローバリゼーション)を同時にバランスよく追求することは不可能で、旗色の悪くなった国家主権と民主主義を守るために、グローバリゼーションをある程度制限することもやむを得ないと主張しました。

この主張を経済学の観点から見れば、いわゆる新自由主義的論理が市場と政府は対立関係にあると考えるのに対して、金融、労働、社会保障など、国家がコントロールする諸制度が補完しない限り、あるいは政府による再分配やマクロ経済管理が機能しない限り、市場はうまく回らず、秩序あるいは社会的安定も確保できないとする考え方と言えるでしょう。

政治学においても、国家の統治能力の向上なしに持続的な経済発展は望めないとの見方が有力ですし、ロドリック氏の考えは正鵠(せいこく)を射たものと思われます。

主権国家が新たな規制枠を用意

ちなみに、10月13日、主要20カ国・地域(G20)が、先に経済開発協力機構(OECD)がまとめた新しい国際課税ルールについて支持を表明しました。

内容は、法人税の国際的な課税最低税率を15パーセントとするほか、巨大IT多国籍企業を対象にした「デジタル課税」を導入することです。なお、G20は2023年の新ルール導入に向け各国それぞれに努力するよう求めています。

この新ルールは歴史的と評されていますが、その理由は2つあります。1つは、1980年代から続いてきた法人税率引き下げ競争の方向性を逆転させようとしていること、もう1つはGAFAM(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル、マイクロソフト)に代表される巨大多国籍企業への課税強化の機運を高めたことです。

これらの企業は、これまで国際的な租税回避策により利益をためこんできました。今回のルールが導入されれば、主権国家の公的サービスが財源確保に向けて大きく前進します。つまり、主権国家の側がグローバル化に対する新たな規制枠を用意することで、大きくなりすぎた富の格差を是正する分配政策への道を開いたということです。

ただし、2023年に新ルールが導入できるかどうか、懸念材料もあります。たとえば、来年のアメリカ中間選挙で、バイデン与党が大敗するとの予想があります。そうなると、アメリカにおいて新ルールの導入はまず実現しません。トランプ前大統領の「アメリカ第一主義」の復活です。

現在、バイデン政権の支持率は低迷し、与党民主党のコントロールさえままならないとの報道もあります。結局、グローバル化とアメリカの国家主権、それにアメリカの民主主義、この3要素が織りなすトリレンマに、まだしばらく付き合うしかなさそうです。(茨城キリスト教大学名誉教授)

市民グループがつくば市長を追撃 《吾妻カガミ》121

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】今年5月に市民グループから「センタービル再生事業」の進め方がおかしいと指摘された五十嵐つくば市長。今度は「1期目退職金22円」はおかしいとその政治スタンスが追及されています。センタービル問題(監査請求→住民訴訟)に続く退職金問題(監査請求)。五十嵐さんの周辺がまた騒々しくなってきました。

22円市長は624万円を賠償せよ!

市に対する新たな監査請求は、五十嵐さんが2016年の市長選挙で掲げた公約「市長特権の退職金廃止」をめぐるものです。実際は、退職金ゼロは制度上無理と分かり、議会で特例条例を通してもらい(2020年9月18日)、最少額の22円を受け取りました。市民グループ(代表=酒井泉さん)は「自分を犠牲にして市民のために尽くす市長」像を市民の間に広げることを狙った選挙戦術と批判。公職選挙法上も問題があると主張しています。

退職金問題の監査を求めて、市に出された文書(11月16日付)のポイントはいくつかあります。その内容を紹介する前に、議論になっている数字を押さえておきます。退職金受け取りに備えて市が自治体職員退職金プール組合に払い込んだ金額=624万円、規定による1期分の市長退職金=2040万円―です。

ポイント1は、市長は22円しか受け取らず、市が払い込んだ624万円はムダになったのだから、市は市長に624万円の損害賠償を求めよ―。その2は、退職金制度では2040万円もらえることになっていたのに、受け取らなかったのだから、市は退職金プール組合に払い込んだ624万円を返してもらえ―。その3は、そもそも22円条例が問題なのだから、市は同条例が違法であることを認めよ―。いずれも面白い視点です。

順番が逆になりましたが、ポイント3の違法性は、公職の候補者は寄付行為をしてはいけないとしている公選法199条3に照らして、22円退職金は市に対する寄付(金額は624万円マイナス22円)に当たるから違法だ、という主張です。監査結果はどうなるでしょう? センタービル問題の方は、コラム113「五十嵐つくば市長 今度は被告席に」(8月16日掲載)をご覧ください。

つくば市民は市長に軽く見られた?

この問題についてはコラム91「つくば市長の退職金辞退に違和感」(2020年10月5日掲載)でも取り上げ、「五十嵐さんは選挙での『受け』を意識して、2016年の市長選で市長退職金廃止を公約、20年の市長選を前に公約を実行に移したのでしょう。廃止公約が市長選ではプラスに働き、公約を守らないとマイナスに作用すると判断したようです」と指摘しました。言い方は違いますが、市民グループの先の受け止め方と同じです。

退職金辞退は一種のポピュリズム(大衆迎合的な政治スタンス)であり、つくば市民は五十嵐さんから軽く見られたのではないでしょうか?

ある市長からこんな話を聞きました。五十嵐さんが22円退職金について記者発表(2020年6月5日)する直前、SNSの県南市長情報交換欄にその旨通告があったが、他の市長からは「賛」はもちろん「否」のコメントも出ず、白けムードが漂ったというのです。皆さん、対抗馬にこんな公約を出されたら、施策を競うべき選挙が歪(ゆが)んでしまうと思ったようです。(経済ジャーナリスト)

やっかいな「完璧主義」《続・気軽にSOS》98

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【コラム・浅井和幸】心理相談をしていて、頻繁に出てくる自己評価に「完璧主義」というものがあります。「自分が苦しいのは完璧主義だからです。それが悪いのは分かっているのですが、やめられないんです」という感じですね。

きっと元気なころは、完璧に仕上がるようにやり抜こうという強い意志で、様々な物事に対処してきたのでしょう。そして、それがうまく機能していた。しかし、そうそう完璧に物事をやり遂げられることが続くとは限りません。

そのうち、完璧じゃなくても物事を先に進めなければいけない場面に出くわすでしょう。それは、締め切りなのか、体力なのか、技術なのか、認識なのか―何かしら有限の壁にぶつかります。

何とかできる範囲で仕上げようと、適当なところで切り上げられればよいのですが、できないと心身ともに疲労が蓄積されていきます。その疲労のため、完璧にやり遂げようではなく、完璧にできないのであればやらないという考えや行動につながります。心身のストッパーが効いて、考えや行動ができなくなる状態です。

「なんとかなるさ」「適当に行こう」

それを、さらに無理して動いたり考えたり、完璧を目指すと、疲労は限界を超えます。過ぎた完璧主義は、オーバーワークになりやすいといえるでしょう。そうすると、心身にダメージを負い、適応障害やうつ病などの病を発症するかもしれません。

オーバーワークを一要因としてパニック障害となり、パニック発作を起こすかもしれません。パニック発作には、動悸(どうき)、手足の震え、発汗、息苦しさ、吐き気などが生じ、時には死んでしまうかもしれないという恐怖に襲われることもあります。

これらはある特定の場面で起こることがあり、人によって、飛行機に乗ること、車の運転をすること、テスト、舞台やプレゼンなどで緊張する場面で起こります。

それが繰り返されると、その場面を思い起こすことで発作が出ることもあります。明日仕事で飛行機に乗らなければいけないと考えるだけで、動悸が激しくなり、過呼吸を起こし、死んでしまうのではないかという恐怖に包まれるという状態です。

これらは自分1人で直そうと思えば思うほど、症状が悪化しやすいものです。適切な薬物療法と精神療法を受けるようにしてください。1000人に6~9人の人がパニック障害になるともいわれていますので、珍しい病気ではありません。

恥ずかしがらず、そして怖がり過ぎずに、病院や保健所、精神保健福祉センターなどに相談してみてください。茨城県には無料相談所があります。パニック障害は厚労省のページが分かりやすいと思います。

そして、次の呪文を唱えてみてください。「大丈夫、なんとかなるさ」「大したことない、適当に行こう」。(精神保健福祉士)

小春日和は「小野の里山」散歩 《ポタリング日記》3

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小町の館(左)とそば焼酎「土浦小町」

【コラム・入沢弘子】畑の小道に自転車を止めて山の稜線(りょうせん)を眺めていると、パラグライダーの鮮やかなキャノピーが降りてきました。黄金色に輝くイチョウの大木。枯れ葉色の田畑でひときわ鮮やかな枝に残る柿の朱色。時間の流れがゆっくりと感じられます。土浦市小野地区は、小野小町伝説の残る地域。なだらかな山に囲まれた日本の原風景のような眺めです。

車は観光施設「小町の館」に止め、トランクから愛車「BROMPTOM(ブロンプトン)」を取り出します。館でいただいた周辺案内マップを片手に出発です。まずは先ほど見えた大イチョウを目指しましょう。

大きな水車の横の道をハイキング姿の方々に混ざって進みます。木の下にはたくさんの石碑がありました。文字や仏像が彫られたものが並んでいます。高い石に記されたのは十九夜塔の文字。道に戻り、腰掛石・朝日峠展望公園の看板に沿って進みます。木道で沢を渡ると石が現れました。小野小町が山越えの途中でひと休みしたと言われる腰掛石。三段の階段状の平坦な石は座り心地がよさそうです。

一気に坂を下り集落沿いの道を進むと、また石碑が目につきました。二十三夜塔と記されています。道の奥に見える拝殿に近づくと、日枝(ひえ)神社でした。どうやら裏口から入ってしまったようです。以前に流鏑馬(やぶさめ)を見に来たことを思い出しました。日枝神社の流鏑馬は長い参道で行われます。満開の桜の下、鮮やかな衣装で白馬に跨る射手。走りながらではなく、立ち止まって射る姿も印象的でした。

そば焼酎「土浦小町」を購入

次は坂東三十三観音第26番札所の清瀧寺(きよたきじ)を目指します。県道199号を筑波山方面に渡り、分かれ道を清滝寺の看板方向へ行くと大きな石碑が現れました。大きくカーブする道の右側に石碑群。文字を刻んだものに加え、仏像も見られます。風化して丸みを帯びて優しい表情。薄暗い坂を上っていくと、重厚感のある山門が見えてきました。

自転車を止め石段を上ります。静寂の中で本堂に参拝。大師堂の弘法大師石像は浸食もなく、はっきりとしたお顔立ちです。戻る途中に見つけた、翠巌山向上庵(すいがんさんこうじょうあん)の石碑方向に細い坂道を行くと古い石段が出現。檀家以外の入山は遠慮くださいとの貼り紙があり、引き返します。

小町の館に戻り、そば焼酎「土浦小町」を購入。今年初めて土浦市産の常陸秋そばで醸造され、新そばの時期に発売になったばかりだそうです。石仏が気になったので調べてみたら、「土浦の石仏-新治地区編-」の図録が市立博物館と考古資料館で販売されていることが分かり、帰りがけに入手しました。

2014年発行の図録によると、小野を含む新治地区には682基の石仏が確認されたそうです。石仏の所在がわかる地区別の地図や形状の説明や写真も掲載されています。来年は、新治の里の石仏を訪ねるポタリングもいいかもしれません。

焼酎のお湯割りのグラスからは、ふくよかな香りが立ちのぼっています。仏像の穏やかなお顔が思い出され、ふわっと、温かい気持ちになってきました。(広報コンサルタント)

外国語を学ぶコツ⑥ 《ことばのおはなし》40

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コラム・山口絹記】「ところで、前回予告した通り、今回は発話における言語的な正しさ、なんてものについて話すていくンですが。まずはぢめに、あんた、この記事読んでンじゃん、今。それ、日本語を使用すること、可能ってことっしょ。ま、ネイティブなンだから全然すごいもなーんともないですネ」

コラム記事としては不適切な文章を書いてみたのだが、いかがだろう。国語学や日本語学の知識を動員するまでもない。おかしな日本語だ。文法的におかしい、語彙(ごい)の使い方が誤っている。TPOを考慮すればありえない言葉遣いだ。しかし、大まかな意味と意図は伝わってしまっているのではないだろうか。

さて、前置きが長くなったが本題に入る。

私を含めた多くの言語学習者にとって、正しい文法、正しい発音、というあいまいな概念は、発話する勇気をそぐ大きな要因になっている。しかし、上にも書いた通り、かなりおかしな言葉遣いでも相手に大まかな意味と意図を伝えるのには十分であることが多い。

今回の連載における目標はあくまで英語の上達だ。だからあえて言い切ろう。言語における「正しさ」という基準がもしも存在するとしたら、それは唯一「意図が伝わるかどうか」だけだ。

念のため断っておくが、「意味」が伝われば何でもよい、ということではない。先に書いた「意図」には、表面上の「意味」だけでなく、仲良くなりたい、理解しあいたい、などの意思も含まれるととらえていただきたい。

相手に敬意を示すためには、どうすれば失礼な物言いができるかを知っておいた方がよいし、好意を示したければ、敵意を示す方法を知っておいた方が身のためだ。さらに難解なことに、人間というのは、お互いの理解や親睦を深めるために、あえてナンセンスで誤った情報や常識を、誤ったものとして共有することを求める性質を持つ。いわゆる、冗談、ジョークというものだ。

意図を伝えるために最善を尽くす

こういったことを一番効率よく学ぶ方法こそが、今までの連載でも述べてきた、英単語の多義性や歴史、文化などを学ぶことなのだが、どちらかと言えば、机上でいくら学習しても十分でないと知ることの方がよほど大切だ。

正しいと言われる表現さえしていれば問題が起こらないなら、誰だって苦労はしない。売り言葉に買い言葉をしたことのない者はいないだろう。そのいさかいの原因は、果たして文法上の問題だっただろうか。違うだろう。母語ですらしょせんその程度なのだから、外国語を特別扱いする必要などないことは自明である。

何より大切なのは、「意図を伝えるために、どこまでも最善を尽くす」ということに他ならない。一言で伝わらなければ、時間をかけて、場合によっては一生すら賭して、辛抱強くことばを重ねる。これは母語でも同じである。いかがだろう。私の意図は伝わっているだろうか。

四の五の言わずに話し始めよう。ということだ。(言語研究者)

吾妻鑑に見る常陸守護、八田知家 《ひょうたんの眼》43

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庭のモミジ

【コラム・高橋恵一】都道府県魅力度最下位・茨城県の地元ひいきの立場からすると、鎌倉時代から戦国末期まで、筑波地方を支配した小田氏の祖、八田知家(はった・ともいえ)の知名度を上げる必要があると思う。

知家の茨城での評価は、出自不明で旧来の支配者、大掾多気(だいじょうたけ)氏をだまして領地を奪ったなどとする評価がつきまとっている。知家の親は、宇都宮座主(ざす)の八田宗綱(むねつな)で、領域南端の五行川と小貝川が合流する手前(旧下館市)の「八田」に居館(きょかん)を置き本拠の地としていた。

源義朝(みなもとのよしとも)が下野守(しもつけのかみ)であったこともあり、八田宗綱や小山政光(おやま・まさみつ)と源義朝とのつながりは深く、小山政光の妻(寒河尼=さむかわのあま=八田知家の姉)は、頼朝の乳母になっており、知家は、保元の乱で源義朝に従って少年武者として戦闘に参加している。頼朝(よりとも)の挙兵に、小山一族や宇都宮一族がいち早く駆け付け、頼朝から信頼される御家人となった。宇都宮・八田氏一族と小山氏一族は連携して、鎌倉幕府を支える強力な勢力を保った。

頼朝は、富士川の戦いに勝利すると、まず、関東を抑えることを優先した。当時、常陸国は平氏の知行国であり、大掾多気氏を本宗(ほんそう)とする常陸平氏一族と那珂川以北を治める佐竹氏は、平家の家人として頼朝追討の指示を受けており、反頼朝あるいは日和見の立場にあった。

頼朝は、常陸国の国府まで出向いて、佐竹氏を降伏させ、鎌倉への帰途に「八田館」に立ち寄った。吾妻鑑(あずまかがみ)には、「小栗重成(おぐり・しげなり)の小栗御厨(おぐりのみくりや)の八田の館」とあるが、御厨の荘官が小栗氏であり、御厨エリアの中にある八田氏の舘を指していると読むのではないか。小栗氏は小栗に館を持っており、極めて近い八田に別の舘を持たないであろう。源頼朝が立ち寄ったのは信頼度の高い八田氏の居館とするのが自然だろう。

奥州攻めの東海道大将軍に

佐竹攻めの3カ月後に志田義広(しだ・よしひろ)の乱がおこり、小山一族が主体となり、八田知家も戦功を挙げた。志田義広の旧領の内、知家は、信太荘(しだのしょう)、南野荘を与えられ、国府を挟んだ南郡の地は、下河辺氏(小山朝政=おやま・ともまさ=の弟)に与えられた。

南野荘西端に小田があり、知家は、ここに居館を構えた。常陸平氏は、奥州藤原氏とのつながりも深かったので、下河辺(益戸=ますど)氏が国府を望む志築に居館を構えたことと併せ、頼朝政権が常陸国府、鹿島社と下野国府、小山一族の拠点、旧常陸平氏の本拠地をつなぐ交通路の拠点を抑えたということであろう。

知家は、奥州攻めの東海道大将軍となり、大掾多気氏を含む常陸の武士を率いて参戦した。また、知家は常陸の国の守護職にもなっているが、大掾多気氏との関係は、緊張が続いていた。有名な曽我兄弟の仇討の時、頼朝警護の動員がかかり、多気義幹(たけ・よしもと)は、うその動員と思い込んで参陣せず、謀反を疑われて没落した。知家の陰謀とされるが、事態の日数からすると、多気義幹の失態と考えられる。

鎌倉幕府が確立する過程で、知家の京の作法に通じた見識は、頼朝に頼られる存在であり、軍事面だけでなく、大江広元(おおえのひろもと)や三善康信(みよしのやすのぶ)などと共に幕政の中枢に存在した。知家の後も嫡子知重(ともしげ)、養子中條家長(ちゅうじょう・いえなが)、小山政光の子、結城朝光(ゆうき・ともみつ)などが幕政に参画し、主要な御家人が、北条氏などとの確執で滅ぼされた中で、政権の中枢にあり続けたのだ。(地図好きの土浦人)

黄色いイチョウ、翡翠色のぎんなん 《土着通信部》47

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11月の終わり、銀杏シーズンも終わり。つくば銀杏生産組合石岡圃場で櫻井和伯さん

【コラム・相澤冬樹】銀杏を「いちょう」と読めば街路樹、「ぎんなん」と読めば農作物になる。前者はほぼ雄(オス)の木が並木を作り、後者は雌(メス)の木が畑に植わっている。雌雄異種といい、公園や社寺の古木は雌雄入り乱れる(?)形だ。イチョウ栽培歴30年、農事組合法人、つくば銀杏生産組合(石岡市半田)代表の櫻井和伯さん(66)にウンチクを含め語ってもらった。

組合名にある銀杏は「ぎんなん」。櫻井さんが土浦、石岡の圃(ほ)場で栽培しているのは久寿、喜平などの接種済銀杏樹木(接ぎ木で繁殖した雌木)で、販売もしている。これまでに県内外に1万本近くを植えてきた。かたや自宅わきの加工場で生産しているのは「実」の方、食用の部分は種子の中にあり、厳密に言えば「胚乳」という。9月半ばになると櫻井さんの植えた銀杏畑から、栽培農家が果肉を削いだ銀杏の種子を持ち込んでくるので、蒸して殻を割り「実」を取り出した上で選果する。

加工後の色合いが特徴的。「翡翠銀杏(ひすいぎんなん)」と呼んで商標登録している。最上級ランクの「特選翡翠」は鮮やかなグリーンをしている。黄味が加わるほどに「翡翠(ライトグリーン)」「シャトルルーズイエロー」と並ぶラインアップ。分かりやすいたとえでいうと「枝豆から大豆への色合いの変化に似ている」、味は未熟感に好みが分かれるが「まろやかさ」が身上という。

蒸して冷凍保存で緑色を保つ翡翠銀杏

鮮やかなグリーンや未熟感にはわけがある。ぎんなんは実が青いうちに、落果を待たずに収穫してしまうのだ。機械で一気に実を落とす。今年の場合で9月18日ごろから摘み取りが始まり、特選翡翠は最初の10日間が勝負、次の10日間だとライトグリーンになってしまう。手早く収穫し、蒸す加工で黄化にストップをかけ、冷凍保管して出荷を待つ形だ。

市場出荷はしておらず、スーパーや小売店では購入できない。櫻井さんによれば「固有名称は勘弁してほしいが、高級ホテル、レストランを中心に取り引きしている」そうだ。翡翠銀杏は素揚げや天ぷら料理などで提供されているという。高級食材だ。

時代が昭和から平成に切り替わる1990年頃、櫻井さんは公園の植栽や街路樹用にイチョウの苗木を栽培して販売する事業から始め、農事組合法人は2002年ごろに立ち上げた。雄木から雌木への転換で、2008年いち早くぎんなん生産のJGAP認証を取り付け、総合衛生管理のHACCP(ハサップ)実施施設認定や県の6次産業化(総合化事業計画)認定も取得してきた。

ぎんなんは近年、栽培面積、生産量とも頭打ち(全国の栽培面積662ヘクタール、収穫量835トン、出荷量632トン=2018年特産果樹生産動態等調査)。中国産の輸入量が増えて価格も低迷している。そのなかで生産組合は独自路線を貫く。今季、県内30数件の栽培農家から実が持ち込まれ、約15トンが生産できたそう。「ぎんなんは年ごとの収量の差があまりなく、豊作の年は実が小さく、不作の年は実が大きさがカバーする。今年は前者だった」

櫻井さんは最近、栃木県内にも銀杏の木を植えている。イチョウに黄葉前線があるようにぎんなんも結実時期が北上するから、茨城県産の後に収穫時期を迎える栃木県産が入ってくる形をとれば、翡翠銀杏の生産期間が延びる。「次は新潟県だな」、さらなる生産拡大を狙っている。

土浦一高付属中の人材育成 《令和楽学ラボ》16

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土浦一高付属中の学習風景

【コラム・川上美智子】今年度より中高一貫校となった土浦第一高等学校付属中学校を先日、視察しました。土浦一高は、卒業生の皆様であればよくご存知のように、県南の最難関県立高校であり、このほど設立された付属中も同様に、難関受験を突破した生徒が集う学び舎(や)です。

学校案内には、勉学にいそしみ、友と交流し、高い志と社会の規範となる、自負・自尊・矜持(きょうじ)の「ノブレス・オブリージュ(地位の高い人の義務)の精神」をもって学校生活を送ることが掲げられ、付属中の教育にもこの精神と、目の前のことに全力で挑戦する「一高スタイル」の追求、すなわち6年間を通じて日々の授業、部活動、学校行事をとことんやり抜くことを求めています。

さらに、卒業後、これからの社会が今よりも幸せになるため、日本のどこかで、世界のどこかで、自分が「役立っている」「支えている」「貢献している」と、自ら確信を持てる人材に育つことを願うとしています。

中澤斉(ひとし)校長先生からは、次世代で活躍する礎(いしずえ)をつくるGLP[グローバルラーナーズ(広い視野で学ぶ人)プロジェクト ]の特色ある取り組みについてご説明いただきました。GLPは「知とつながる」「人とつながる」「社会とつながる」の3つの構成から成ります。

「知とつながる」の1つは通常より10分長い60分授業とし、生徒相互で授業内容を振り返る「ピア・レビュータイム」を設け、思考力・判断力・表現力の強化を図るものであり、もう1つは「+English(プラスイングリッシュ)」で全ての教科で自分の考えを英語で表現する英語の発信力を磨くものであります。

「人とつながる」は、生徒主体、生徒が主役の交流活動で、グループで企画する修学旅行や水戸一高付属中との『土水交歓会』などが予定されています。「社会とつながる」は、卒業生との『土一ネットワーク』を活用した探究活動で、プレ海外探究のための国内英語キャンプや、探究活動総まとめの卒業研究発表会のプレゼンなどが企画されています。

授業を楽しむ余裕の生徒

4月に入学したばかりの中学1年生の授業を見学させていただきましたが、社会の授業では、生徒も先生も一体となってICT(情報通信技術)を駆使してグループごとの熱気あふれる真剣な取り組みに、そして英語の授業では短期間の間に立派に英語で自分を表現できるようになった生徒たちの姿に、人材育成の神髄を見た思いがしました。

それでいて、授業を楽しんでいる生徒の余裕の姿も見ることができました。多分野への学びのモチベーションを上げ、学びの質改善に取り組む先生方の熱意にも圧倒されました。

校舎は今までの高等学校の教室をそのまま使用しているため、きれいとは言い難いのが残念でしたが、茨城の全ての子どもたちにこのような学びの機会を与えることができたなら、もっともっと子どもたちの未来は明るくなるだろうなと強く感じました。

最後に、国の重要文化財である旧校舎を見学させていただき、創立124年の歴史の重みも実感し、充実した視察の時間となりました。(茨城県教育委員、茨城キリスト教大学名誉教授)

オッチャンは、芸術家だ 《写真だいすき》2

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【コラム・オダギ秀】そこらへんをただ歩き回っていると、「隣のオッチャン、ハイカイが始まったぜ」なんて言われる。だけど、カメラを持っていると、徘徊(はいかい)でなく、「おっ、おじさん、芸術づいてきたなあ」なんて言われる。

写真を撮るということは、思い出を記録するとか、何かの証明にするとか、その効用を言うことは多い。だけど、写真というかカメラのいいことっていうのは、そんなことだけでなく、もっともっとある。

感性が磨かれ、若くなる

たとえば。少しでもいい写真が撮れないかと、ちょっとしたブラブラ歩きでも、辺りを見回し、おっ、こんな季節になったか、きれいな花が咲いとるなあ、とか、今日の天気は今の季節らしくない、などと、季節感が鋭くなり、それまでは通り過ぎていたものにも眼が向くようになり、感性や気持ちが豊かになる。

たとえば。歩いていると、ほほ~この建物も古くなったな、とか、あれ?ここはこんなに変わってしまったよ、あんな人がいたっけなあ、どうしているかなあ、などと、時の流れや歴史などに興味を深められる。

たとえば。現役を離れたりしていると、どうしても世界が広がり難くなるが、写真を撮る新たな仲間と知り合ったり、興味を持ったり持たれたりすることが多くなり、自然に世界が広がっていく。

たとえば。通りがかりの家の庭にきれいな花が咲いていたり、小さな子が遊んでいたりに出会ってカメラを向けて褒めたりすると、若いママと親しく話せるようになったりする。

たとえば。撮った、できのいい写真をプレゼントしたりすると、すごく喜ばれ、思いがけず、いいことした気分に即なれる。年配になると、気分のいいことしたと思えることなんて、そうザラにはないのに。

たとえば。カメラを持って、いい被写体がないかとウロウロ歩くことで、感性が磨かれ若くなり、体が鍛えられ、心が生き生き元気になる。

たとえば。気に入った写真が一枚撮れるごとに貼っていくアルバムなんか作っていると、そのアルバムに写真が増えるのが楽しみになり、大げさに言うと、目標のある人生の生きがいになる。やがて写真展でも開こうかなんて気持ちが湧いたら、もうワクワクしてたまらないのだ。

「うわぁ、大きなカメラ」

このように、写真を撮る効用は、たくさんある。あなたも、カメラを持って、出かけてみませんか。もっとも、時代は変わっているという経験を先日した。

公園を散歩していたら向こうから5歳くらいの元気な子が来る。で、いつも腰のポーチに入れている小さなコンパクトデジカメを向けた。アマゾンで3,500円で買った中古の小さなカメラだ。それを見たその子がいきなり言った。「うわぁ、大きなカメラ」。そんな時代だ。(写真家、土浦写真家協会会長)

環境省の「自然共生区域」に期待 《宍塚の里山》83

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宍塚大池(左)と竹の粉砕作業

【コラム・佐々木哲美】認定NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」は、1989年の設立以来、緑豊かな宍塚の里山を次の世代に引き継ぎたいと活動してきました。私も30年間携わっていますが、振り返ってみると、保全活動が続けられたのは次の3点に集約されます。

1つは、宍塚里山それ自体の魅力です。ここに来ると、何かホッとする空間があります。2つ目は、多くの仲間に恵まれていることです。老若男女、様々な経験と知識がある素晴らしい人たちが活動しています。3つ目は、社会正義です。この素晴らしい場所を短期的な視野で開発させてはいけない、という使命感です。

宍塚里山保全の最大の課題は、その大部分が個人所有地だということです。数百人の土地所有者は、収入を生まない土地を抱え税金を払っています。この場所は幾多の開発計画が持ち上がり、頓挫(とんざ)してきた歴史があります。最近でも、太陽光発電所の建設が始まり、事業者の誘いに心が動く所有者の気持ちもわからないではありません。

我々、保全活動団体の最大の欠点はお金がないことです。そのために、里山の価値を多くの方に理解していただくために、地道なボランティア活動をしています。

太陽光発電所や残土処分場は困る

将来的には、法律で公有地化を図り、土地所有者の利益も守る。維持管理は、公社設立や指定管理者制度を採用、雇用の場を提供する。利用方法は、学識経験者にも関わってもらい、学校教育、市民団体、一般市民の活動の場としてもらうーと、私は勝手に妄想しています。

しかし、現在は保全に関わる法律はなく、所有者の意向で利用方法が決まります。そのため、太陽光発電、集合住宅、残土処分場―などに利用される脅威にさらされています。

そんな中で、少し希望が持てる話が持ち上がりました。2021年6月のサミット(主要7カ国首脳会議)で、生物多様性維持のため、2030年までに国土の陸域と海域の30%を保全・保護することで一致しました。これを受け、環境省は同年までに国土の30%以上を国が指定する自然保護区などとする方針「30by30」を示しました。

そのため、環境省は、従来の制度による区域を拡大するとともに、来年度から民間の土地などを生物多様性保全に貢献する場所として認定する「OECM(Other Effective area-based Conservation Measures、自然共生区域)」制度を試行的に導入するとしています。その対象は、寺や神社、企業が所有する山林・里山だけでなく、棚田のような農地も認定対象になり得るとしています。(宍塚の自然と歴史の会 副理事長)

太陽フレアの情報② 《食う寝る宇宙》98

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【コラム・玉置晋】10月29日0時35分に発生した太陽フレアは、「Xクラス」と呼ばれる大規模なものでした。発生後、日本の宇宙天気研究の中核である情報通信研究機構(NICT)から臨時メールが届き、僕はこの大規模太陽フレアの発生を知ったわけです。

すぐさま、人工衛星から得られた太陽の紫外線画像から、爆発の発生場所をチェック。地球から見て、正面よりやや南側の活動領域で発生したことがわかりました。その位置から、地球周辺に影響を及ぼす可能性があるため、情報収集を開始。朝イチで、僕が働く人工衛星運用現場に伝えられるように準備をしました。世界中の研究者がSNS上で情報発信をしていますので、それを参考にしながら。

この時点で、情報発信しているのは研究者など専門家の方々のみです。太陽フレアに伴い、コロナ質量放出(CME)と呼ばれるガスの塊が地球に接近していることは、一般の人は知るよしもありません。最初に報道が出たのは、発生から12時間後のお昼時でした。大手新聞社のウェブニュースに「太陽フレアの発生」と、一般的な影響が掲載されました。この記事がSNS上でシェアされて、ざわつき始めました。

14時15分、NICTからプレスリリースが出て、報道各社が太陽フレア発生を認識。記事が配信され始めました。そして、夕方の各局のニュースでは、「太陽フレア」の発生や電波障害といった影響、翌日に予想されるオーロラの発生などについて解説されました。多く人が太陽フレアの発生を知ったのは発生から約17時間後でした。

CMEは地球南方の宇宙空間を通過

大規模太陽フレアに伴い発生したCMEが地球周辺に到達したのは、10月31日夜でした。ところがこのCMEは、各国の宇宙天気関連機関が出したCME進路予想に反し、地球の南方の宇宙空間を通過していきました。そのため、地球周辺での影響はほとんどみられず、肩透かしでした。

しかし、これで終わりではありませんでした。11月1日、前回より小さい規模でしたが、新たに2発の太陽フレアが発生。それぞれから地球方向にCMEが放たれたのです。(宇宙天気防災研究者)

わらづと納豆作りに挑戦 《県南の食生活》31

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【コラム・古家晴美】前回取り上げた「こも豆腐」に引き続き、今回も藁(わら)を使った食品を作ろうと思う。そこで「納豆」に挑戦した。他県の人から見た「茨城」のイメージとして、納豆は切っても切れないものかもしれない。

蒸し大豆を藁苞(わらづと)に詰め、納豆菌を繁殖させた「糸引き納豆」は日本独自のものだ。それまでは、中国から伝来した「塩辛納豆(浜納豆)」が寺院を中心に作られていた。糸ひき納豆の由来譚(ゆらいだん)は、八幡太郎義家をはじめ諸説あり、その出生は明らかではない。

しかし、江戸中期の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』を見ると、たたいて豆腐と蕪(かぶ)青菜の汁に加え、芥子(けし)を放って食べるとおいしい、と記されている。そして、江戸末期になると、納豆売りの行商が盛んになり、醤油をかけて食べる方法も普及した。

茨城の小粒の納豆が注目されるようになったのは、明治22年(1889年)に水戸線が開通して以降のことだ。販売のための流通手段を獲得した水戸の「天狗納豆」は、現在に至る水戸名物としての地位を確立していく。

なんと納豆の糸が引いているではないか!

総務省の家計調査からも、2016~2020年の都道府県別納豆消費量は、「東高西低」傾向が依然見て取れる。2020年消費量は、東北諸県が上位に食い込み、茨城県は惜しくも5位になった。が、現在でも、納豆好きの県民が多いのではなかろうか。

納豆作りは県内全域で行われてきたが、煮た大豆を藁苞に詰め、発酵する時の寝かせ方は様々なようだ。藁苞を俵に詰めむしろを掛ける、藁苞をもみ殻の中に寝かせる、庭に穴を掘って火を焚いて土を温めてからむしろに包んだ藁苞を入れて土を掛ける―などの工夫が凝らされた。

マンション住まいの筆者には、俵ももみ殻も納屋もなく、先日こたつを処分した後だけに、ハードルの高い作業だった。結局、ひざ下にコの字型に立て掛ける学習用暖房パネルと電子レンジの発酵機能で挑戦した。前者は温度調節に毛布を掛けたり外したりを繰り返したが、結局、安全装置が働き、途中で電源が自動的に切れてしまった。後者は24時間継続して発酵機能を稼働させた。

出来上がった納豆は、匂いと舌で感じる酸味は紛れもなく納豆のものだったが、糸を引くには至らなかったので、成功とはいえない。最後に、藁苞だけでは不安だったので、粉末の納豆菌の力を借りたことを告白せねばならない。1回だけの挑戦だったが、現代人としての己の無力を痛感した。しかし、再度挑戦したい。

と、原稿を書き終わって帰宅したら、なんと納豆の糸が引いているではないか。昼間、暖かかったから、室内に放置したのが功を奏したようだ。やったー。(筑波学院大学教授)

いまどきの遊歩 これからの遊歩《遊民通信》29

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【コラム・田口哲郎】

前略

江戸川乱歩がペンネームの元にしたエドガー・アラン・ポーというアメリカの作家がいます。「黒猫」や「モルグ街の殺人」などの推理小説で知られています。ポーは推理小説以外にも小説を書いています。私がバイブルのように思っている作品があります。「群集の人」です。

ロンドンのとあるカフェにいる語り手は、窓の外にある老人を見つけます。なんとも言えない奇妙な魅力を放つ老人を、語り手は追いかける。老人は当てもなく大都会を歩き回ります。さまよいは延々と続くので、語り手は追跡を諦めるというあらすじです。

何が面白いのかと思われるかもしれませんが、これは街を無目的に歩き回る遊歩者像と人間観察家である遊歩者像をズバリ書いた作品ということで、遊歩愛好家の間では隠れた名作となっています。

題名にもある「群集」は大都市だからこそあるもので、群集では個人が大勢の人に紛れます。田舎では個人は目立って紛れることはない。田園風景に人混みはないし、人が一人一人はっきりと分かりますからね。だから、推理小説は大都市ならではの作品だと言われます。犯人が群集に紛れて逃げることができるからです。

それはさておき、遊歩者を自称する私は群集の一人である老人や語り手を見習って、人間観察や街歩きに励まねばなりません。遊歩者というものは、大都市といういわば一冊の書物のさまざまな物語が繰り広げられる舞台を読み解く者なのですから。

ライブカメラとバーチャル 進化する遊歩

しかし、コロナ禍の昨今、そうそう不要不急なのに、街をうろつくわけにもいきません。そこで、便利な文明の利器が登場します。YouTubeです。

YouTubeには各地のライブカメラチャンネルがあり、それを見れば、世界中の今が映し出されます。我が国が誇る首都、大東京には複数のライブカメラがあります。私がよく見ているのは、渋谷のスクランブル交差点と新宿歌舞伎町のライブカメラです。

渋谷の交差点の角のビル2階にスターバックスカフェがあり、交差点を見下ろしながらコーヒーを飲める絶好の場所があります。でも、茨城から毎日通って、ひねもす群集を眺めるというわけにもいきません。コロナ前は遠い場所だった交差点が、今は自室のテレビに映ります。コーヒーを飲みながら、人波を眺めるのは至福のひとときです。

歌舞伎町は夜が面白い。コロナ禍で「焼け野原」になった歓楽街も、徐々に活気を取り戻しています。紅茶を飲みながら、世知辛い不夜城を行き交う人たちの生き様を垣間見る楽しさはなんともいえません。コロナ禍が大都市を変えようとしています。

Facebookが「メタバース」という巨大な仮想現実空間を構築すると発表しました。将来、大都市はバーチャルに入り込むでしょう。そこを遊歩者が歩き回る日も近いかもしれません。そうすれば遊歩者はリアルとバーチャルを渡り歩くのですね。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

冬の足音 冬支度《続・平熱日記》98

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【コラム・斉藤裕之】春にはタケノコが出なくて、なかなか口に入らなかった。しばらくして、20年間ほとんど花をつけたことがなかった庭のプルーンの木に、小さな白い花が満開となった。夏は道端にアザミが群れをなして咲いていたかと思うと、クズの花をほとんど見かけないまま夏が終わった。秋になって、金木犀(キンモクセイ)は2度もかぐわしい匂いを放ち開花した。

なんとなく草木の異変を気にしつつ、やがて駅前で年末恒例のイルミネーションを設置する季節となった。

いまさらながら、「アマビエ」のオブジェを作るという。どうせなら、牛久なのでカッパの遺伝子を組み込んでみたらどうかという意見が出た。どちらも水の中で暮らしているので相性がいいのか、なかなかキュートな「カッパアマビエちゃん」になった。作ったばかりで気の毒ではあるが、来年はお役御免になっていて欲しいとの願いを込めて、勝手に「トドメちゃん」と呼ぶことにした。

さて、作業を終えて軽トラで帰宅。家の近くの角を曲がると、フェンスいっぱいに薄水色と赤紫の朝顔が上を向いて元気に咲いているのに驚く。もう11月も半ばを過ぎているのに。それから日暮れが早くなったので、足早にハクちゃんの散歩に出かける。すると、今度は足元におびただしい数のドングリが落ちている。

温かいものでも食べよう

「春は訪れ」「夏空は広がり」「秋の気配」、そして「冬の足音」。季節の到来を日本語は実に豊かに表現する。「冬支度」という言葉もいい。

昔の人はこのころの季節になると、漬物をつけたり、柿を干したりして、冬に備えた。英語では「プリペア」という他にないのだろうが、用意や準備とはちょっと違ったニュアンスがある。旅行は準備、旅は支度。外出は準備、お出かけは支度。どうやら支度はひらがなと相性がよさそうだが、今と違って、冬は支度をしなければならない季節だったということだ。

それにしても、「ころころ」ではなく「ゴロゴロ」と落ちているドングリ。恐らく、この辺りだけでなく、あちらこちらのドングリもパラパラと音を立てて落ちているようだ。その上を避けようもなくゴリゴリと踏んで歩く。人も車もドングリをつぶしていく。「全くおかしな年だ!」と言って済ませていいのか。それとも、すでに始まっている天変地異に気づいていながら、知らぬ顔をするのをやめるべき時か。「お池にはまってさあタイヘン…」

見上げると、枯れ葉が舞い木々も冬支度を始めている。ロマンチックにも見えるが、実は新しい芽が役目を終えた葉を追い落としているのだと思うと、わが身と重なり感慨深げになる。日が落ちるとグッと冷えてくる。温かいものでも食べよう。さて夕餉(ゆうげ)の支度をするか。(画家)

いばらき未来会議が1周年集会 《邑から日本を見る》100

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未来会議のパネルディスカッション

【コラム・先﨑千尋】このコラムを書きつづって、今回がちょうど100回になる。いつでも、伝えたいことや書かなければならないことがいくつも頭の中にあり、その中からテーマを選んで、私の思いを読者の皆さんにぶつけてきた。取り上げる課題が何もない時が来ればいいなと思う時もあるが、実際はそうはいかないでいる。今回は、私も関係している「いばらき未来会議」が設立して1年経ち、その集まりで私が話したことなどを伝えたい。

同会議は昨年、県議会で「東海第二原発の再稼働の賛否を問う県民投票条例案」が否決されたのがきっかけで、県内各地の市民団体のネットワークを作ろうと結成された。情報の共有や連携などが目的。

同会議の1周年記念講演会は「農業と原発問題を考える」というテーマで、11月6日に水戸市で開かれた。私の講演のあと、笠間市で「あした有機農園」を主宰する涌井義郎さんも交えたパネルディスカッションがあった。

2011年の東京電力福島第1原発の事故で、多くの福島の人たちは避難生活を余儀なくされ、現在でも原発周辺の人たちはふるさとに戻れないでいる。飯舘村は福島第1原発から30キロ離れており、村民たちは当初、放射能で汚染されていることを知らされずにいた。避難指示が出たのは4月22日。他の人たちが避難を終えたあとだったから、飯舘村の住民たちは条件のよいところを見つけられず、その後の苦しい生活が始まった。

東北は原発の「植民地」

私は講演の最初に「東北地方は、大和朝廷にとっては異民族(エミシ)の住む野蛮なところ。そのために、1000年以上も「征夷大将軍」という官職が置かれ、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を結び、明治政府に抵抗した。戦後は福島や新潟に原発が設置され、電力の『植民地』とされた」と話した。

そして「日本一美しい村」と言われた飯舘村の原発事故後の状況や村の人々の対応に触れ、国が進める「強い農業、もうかる農業、スマート農業」ではなく、原発事故後の地域を守っていくには、阿武隈山系の人たちが営んでいる「農地を守り、老若男女合わせて生きがいを求める小規模農業」こそがふさわしい暮らし方だ、と結んだ。

パネルディスカッションで、涌井さんは、水戸市にある鯉渕学園で有機農業を教えてきた後、笠間市で有機農業を志す人のために「あした有機農園」を開き、これまでに30代から50歳までの15組が独立し、県内で充実した生活をしているという報告をした。涌井さんは、そうした人たちが生産した農産物や加工品を販売するため、一昨年秋に「町の駅笠間宿」内にオーガニックの直売所も開いている。

その後の意見交換では、東海村前村長の村上達也さんが、1999年のJCO事故後、村の総合計画を策定した時、農業を衰退させてはならないと考え、福祉、環境、教育と並んで農業も村の柱の一つに入れたと話し、それを受けて涌井さんは「放射能汚染は最大、最悪の環境破壊だ。地球上のすべての生き物が影響を受ける」と語った。(元瓜連町長)

子どものころ 土浦の遊び ② 《夢実行人》2

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霞ヶ浦大橋の先に沈む夕日

【コラム・秋元昭臣】秋になれば、稲刈りやダダダーというエンジン音に誘われて脱穀作業を見たり、道に伸びた枝から柿を失敬したり。松林では、ハツタケ、アミタケ、たまにはマツタケも見つかり、キノコ取りに夢中になりました。

台風など大風の後には、松林に落ち葉、折れた枝を集めに行くことも子どもの仕事でした。学校に石炭ストーブが導入されると、「ストーブ当番」は火付け用に枝を持って行きました。家庭では、石油コンロが普及するまで、火付け材集めや風呂たきは子どもの仕事でした。

そのほかにも、犬、ニワトリ、ウサギのエサやりがありました。悲しいことに、ニワトリは卵を産まなくなると食卓に上がり、ウサギはウサギ屋に引き取られました。アンゴラウサギは毛を刈って加工してもらい、セーターにしたようです。今と違い、夜は犬を放してしまい、朝方に戻ってきました。

秋には模型飛行機大会があり、「A-1ライトプレーン」を飛ばし、みんなで滞空時間を競い合い、先生の作った大型のグライダーに夢をはせました。

運動会では、登校すると、校門の柱が杉の小枝で囲われ、きれいな緑色になっているのに感激しました。一番の呼び物は、小中高青年団が参加する「部落対抗リレー」で、部落総出の応援に盛り上がりました。なんといっても楽しかったのは、家族で食べる昼の弁当でした。

年の暮れには、父親の実家に親戚が集まり、餅をつき、いとこ同士の交流が楽しかったものです。正月用の桐のげたを履いて走り回り、割ってしまったことは悲しい思い出です。

土浦劇場の「ノンちゃん雲に乗る」

冬は、陽当たりのよい傾斜地に洞窟を掘り、大きな木の上に隠れ家を作り、秘密の基地にしました。

子どもの楽しみは「紙芝居」でした。2本の棒でこねると白くなるアメを買って見るのでしたが、毎回とはいかず、「タダ見」させてもらいました。でも、紙芝居のおじさんはニコニコしながら、何も言いませんでした。

「爆弾」も回ってきました。米やトウモロコシを持って行くと、加熱加圧してふたを開くとき、バーンと大きな音がするものでした。

学校では、教室をぶち抜いて暗幕を張り、映画会を開いてくれました。45分ぐらい歩いて市内の土浦劇場に行き、「ノンちゃん雲に乗る」を見たことはよく覚えています。

テレビ出始めのころは、自転車に乗せられて土浦駅まで行き、街頭テレビでプロレスや相撲を見たものでした。ラジオのドラマに耳を傾けた時期でもありました。

冬になると、朝方、土浦港の船が一斉にエンジンを掛け、その「ポポ・ポン・ポン」という音は子供心に夢を抱かせてくれました。凍った田んぼで、竹を割って先を折り曲げた「竹スケート」を作りもしました。小学生のころ、低い竹馬も作りながら、背丈より高い竹馬に乗っている中学生に憧れました。

今、その場に立って見ると、掌(てのひら)に乗るような広さでしかありませんが、子どもの時は無限の広さを感じた世界でした。決して豊かな生活ではありませんでしたが、子どもなりに好奇心旺盛で、仲間と仲良く、社会格差のない、心豊かな時代だったと思います。(ラクスマリーナ前専務)

最初の一歩か 最後の一歩か 《続・気軽にSOS》97

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【コラム・浅井和幸】先日、多様な専門家や地方公共団体の福祉部署の方が集まるネット会合で、講演する機会をいただきました。NPO法人「アストリンク」の代表として、不登校・ひきこもり・ニート問題への対応をお伝えしました。

会合では、悩んで部屋にこもっている方との話を始めるきっかけについて話しました。それは、ケースによって、単純に家を訪問するということもあるし、何年も訪問した後にちょっとした声掛けがきっかけになることもあります。

言葉にすると当たり前なのですが、誰にでも、どのような関係でも、パッと話ができる万能のきっかけづくりはありません。どのようなことでもきっかけになり得るし、必要なのはきっかけとなり得る要素がそろうことです。

そうはいっても、ノウハウが知りたいですよね。私はそれを「ノウハウ」ではなく、「小手先のテクニック」「やり方の具体例」「カタログ」―と表現します。例えば、手紙を書く、飲み物をメモと一緒に置く、ドア越しに話をする、ノックの仕方や声の大きさを変える―など。これらの方法は、小手先のテクニックと軽視できません。

そのうえで、言葉などがどのように届いたか、反応をよく見て、対応することが大切です。つまり、コミュニケーションを大切にすることで、近づきやすくなると考えています。

小刻みに一歩を進む

話ができない人と話せるきっかけというけれど、それは、山登りでいえば、頂上に着く最後の一歩を教えてほしいという意味と同じで、最後の一歩の話よりも、そこにたどり着くまでの一歩一歩が必要であると伝えました。

私の講演の後、グループに分かれ、普段の活動や私の話の振り返りが行われました。そして、各グループから、どのような話が出たか発表がありました。その一つに、「きっかけ」とか「話をする」ということは最初の一歩だと思っていたけれど、山登りの最後の一歩だということに驚いたという意見がありました。

この感想に、私も衝撃を受けましたし、勉強になりました。なかなかできない「きっかけ」づくりが、はじめの一歩と捉えられやすいのです。はじめの一歩が大きすぎるなぁと私は感じます。「スモールステップ」は福祉や医療でよく使われる言葉で、参加者が皆知っている言葉だと思います。目標を小さく分け、達成しやすい一歩ずつを達成していくという考え方です。

話をすることが難しいのならば、やっぱり大きすぎる一歩です。小刻みに一歩を進む必要があるでしょう。そして、話せるようになるという山を登ることができたのであれば、さらに別の山、高い山に、小さな最初の一歩を刻むことの繰り返しが必要でしょう。(精神保健福祉士)

私の隣にいるのは介助者です 《電動車いすから見た景色》24

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【コラム・川端舞】先日、インフルエンザの予防接種を受けに病院に行った時、同行していた介助者を見て、受付の人が「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。いつものことだったため、特に気にせず、「いいえ。介助者です」と答えたが。

介助者(ヘルパー)と一緒に外出する障害者なら、似たような経験をしている人も多いだろう。介助者と一緒に来ているのに、なぜか家族だと思われてしまう。同行している介助者が私と同年代なのに、「お母さんですか」と言われてしまい、あとで介助者が「私、そんな年齢に見えるのかな」とつぶやいた時は、おかしいような、気まずいような気持ちになる。

なぜ、障害者の外出に同行している人は家族だと思われてしまうのだろう。確かに、介助者と一緒に外出する障害者よりも、家族と外出する障害者の方が多いのは事実かもしれない。しかし、障害者の介助は家族がするのが当たり前だという考え方を多くの人が持っていて、本当は介助者と外出している障害者を見かけても、「きっとそばにいるのは家族なんだろう」と思われてしまうこともあるように感じる。

「介助者と外出するのが当たり前」の社会

障害のない人であれば、たいてい大人になったら、実家を離れて、1人暮らしをしたり、パートナーと一緒に暮らすだろう。親も子育てから卒業し、仕事や趣味に時間を使う。しかし障害者となると、大人になっても親が介助するのが当たり前だと思われてしまう。本来なら、障害者の親になっても、子育てが終わったら、子離れして、親自身の人生を楽しむ権利があるはずなのに。

もちろん、障害者の介助をずっと家族に任せてしまう背景には、介助者という職業の人手不足という問題もあるだろう。しかし、障害のある家族と外出するたびに「ご家族の方ですか?」と言われてしまうと、「やっぱり障害者は家族が介助しないといけないんだ」と思ってしまい、介助を家族以外の人に交代してもらうという選択肢を思いつかなくなってしまうこともあるかもしれない。

私のような障害者が介助者と一緒にどんどん外出し、「ご家族の方ですか?」と言われるたびに「介助者です」と答えることで、家族ではなく介助者と一緒に外出する障害者もいることを多くの人に知ってもらい、「介助が必要な障害者は介助者と外出するのが当たり前」と思ってもらえるような社会をつくっていきたい。(障害当事者)

筑波山の「つつじヶ丘レストハウス」 《ご飯は世界を救う》41

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イラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】久しぶりに、筑波山のつつじヶ丘から女体山に登りました。10月半ば過ぎのよいお天気の日。ロープウエーはコロナ禍だというのに満員電車並み。ちょっとだけですが、山頂まで山登り。山頂も混雑していて、押し合いへし合い状態。ですが、山頂も、中腹からの展望も、ロープウエー行き帰りの風景も、素晴らしいものでした。

ちょうどお昼だったので、ロープウエーの乗り場横の「レストハウス」でランチ。お昼より少し早かったので、お店はあまりお客さんがいません。おいしいかしら?私の好きなメニュー「親子丼」。外食で親子丼を食べたことがないので、チャレンジ。それが!おいしかった~。

11月半ば。今度は男体山の紅葉を見ようと出かけたら、筑波山の入口のかなり手前から車の大渋滞。諦めてUターン。そのあと、市内の「松見公園」「かつらぎ公園」「松代公園」と、紅葉真っ盛りの公園巡り。すべて池があり、紅葉が映り込む姿がステキです。

見晴らしのよい男体山の上で、親子丼を食べる夢はおあずけでしたが、3つの公園の紅葉観賞というプレゼントをもらえました。(イラストレーター)

絵本「うんこはごちそう」 《くずかごの唄》98

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】本屋さんで、「うんこはごちそう」(伊沢正名著、農文協刊)という絵本を見つけ、飛びついて買ってしまった。伊沢さんは、日本一のきのこ写真家である。「きのこ」(山と溪谷社刊)には、日本の1155種類のきのこの写真が収録されている。発行時、その多さが学会でも話題になった。一つ一つが、伊沢流の、個性的な、愛情あふれたきのこの写真なのである。

伊沢さんと最初に会ったのは彼が高校生の時であった。「土浦の自然を守る会」で西丸震哉氏の講演会を行ったことがある。次の日、西丸氏も参加して北筑波稜線(りょうせん)林道予定地の見学会があった。当時、大規模林道開発の波を受け、筑波山上曽峠から北筑波稜線林道が計画され、山の中にコンクリートの立派な道路が造ろうとしていた。開発の前に現地を見てみようと、67人が参加してくれた。

西丸氏は大叔父が島崎藤村で、当時、評論家としても自然保護作家としてもモテモテの人。見学会参加者の中に、現地真壁町に住む目のキラキラした高校生が1人混じっていた。彼を連れてきたオジサンの話によると、町の歯科医院の息子。不登校なので、父親が心配して、西丸先生に学校へ行くよう説得してほしいと言われ、連れてきたのだという。

きのこの仲間になりきって撮影

西丸先生はどんな言葉で説得するのだろうか。私は聞き耳を立てて西丸先生と高校生の会話を聞いていた。

「高校が面白くないのか?」
「ハイ、行きたくありません」
「行きたくないところに行くことないよ。友達はいるの?」
「いません」
「じゃあ、無理して行くことないよ。その代わり、自分のしたいことを一つ、何が何でも一つだけ見つけて、そこへ飛び込んでごらん。面白いよ」

彼が飛び込んだのが、きのこの世界だった。

山の中で撮影しているところを見せてもらったことがある。泥だらけの地面をはって行って、きのこの仲間になりきってしまってから、シャッターを押す。誰もができるという仕事ではないのだ。(随筆家、薬剤師)