【コラム・斉藤裕之】益子(ましこ)の古道具屋で本を買ってしまった。ミニマルアートの作品のごとく、棚にぽつんと置いてあった分厚い白い本。開くと、オフホワイトのマットな質のページが柔らかいカーブを描く。活版印刷の印字が版画作品のようでもある。表紙に記された著者を見て、もう本は買うまいと決めていたのだが、初めて詩集を買った。

例えば宇宙のことを考えていると、やがて数学や物理学が、哲学や神、そして芸術というものにさえ接近する瞬間があるという。少なくとも、宇宙の始まりから気の遠くなるような時間を経て生まれた目で宇宙をのぞくということは、十分に芸術的な命題になりうる。詩人はそのことに気づいているかのごとく、言葉で宇宙に触れようとする。画家は時々、偶然できた絵具のシミや完璧な五角形の花びらに宇宙の兆しを感じる。

帰宅後、やや慇懃(いんぎん)に本を開く。中学の国語の先生は「詩は『光る言葉』で書いてある」とのたまわれた。まさに「考えるな!感じろ!」か。ハイブローな比喩表現はスルーしながら、でも時折自分が考えていたことや絵を描いていて感じることがズバリ光る言葉で書かれている部分に出会うと、ちょっとドキドキする。

ある日、20歳を超えた娘が哲学の本を読んでいたのを思い出した。およそ似ても似つかない姿に、なぜそんな本を読んでいるのかと問うと、「だって私の考えていることが書いてあるんだもん!」と答えた。この詩集は、もしかすると、私にとってそういう本なのかもしれない。

「面と空間の詩学」

かつてひとりだけ詩人と友になったことがある。ある時、薄っぺらい本を渡され、「これは私の詩集です」と言われた。残念ながら、それはスウェーデン語で書かれていた。だから、いまだにその内容は解らないままだが(スウェーデン語の辞書を手に入れて解読を試みたが挫折した)、当時、まだ若かった彼は十分すぎるほど詩人らしく見えた。

実は彼のパートナー(結婚していたのか否かはわからない)は絵描きで、パリの国際芸術都市にいた折に、お互いに小さな子供がいたのをきっかけに、彼より前に知り合いになった。数年後、彼女は腕白(わんぱく)な息子とともに、50号ほどの絵を持って日本を訪れた。その絵は今も階段を上がったところに架けてある。

あれから20年余り。彼女は今もスウェーデンで高い評価を得ているとのことだが、白いキャンバスに生々しい絵具で一息に描かれた絵を見て、これは彼女の詩だと考えるとまた新鮮なものに見えてきた。

秋の夜長、高級なお菓子をちょっとずつ食べるように、もったいぶって詩集を開く。ふと思い出した。大学の恩師が退官の記念展にまとめられた作品集。そのタイトルこそ「面と空間の詩学」。晩年、静謐(せいひつ)な抽象画面にたどり着かれた先生。いまさらながら、お会いして詩と絵画についてお伺いしたいと思った。(画家)