日曜日, 10月 6, 2024
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《続・気軽にSOS》64 低気圧と不安と

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【コラム・浅井和幸】梅雨の真っただ中。じめじめして憂鬱(ゆううつ)な人も増えているのではないでしょうか。古傷が痛んだり、喘息(ぜんそく)がひどくなったりということもあるかも知れません。

私の知り合いにも、これらの症状を持たれている方がいます。ある人は、遠い南の海に台風などが発生して日本に近づいてくるとき、どんどん気圧が低くなっていくとき、心身ともに不安定になって一番苦しいそうです。低気圧や台風が自分の住んでいるところに居座ってしまったら、調子が悪いのは確かだけれど、悪いなりに安定するからまだマシなどと言っていました。

雨が降るときに心身の調子を崩す人たちに上記のことを伝えると、そこまで細かく気にしたことはなかったけれど、そうかも知れないという回答が返ってきます。

雨だろうが低気圧だろうが、関係ない人にとっては、そんなものは気のせいだろう済んでしまうかも知れません。しかし、インターネットで「低気圧不調」や「天気痛」などのワードを検索してみるとよいでしょう。意外と不調に悩まされている方が多いことも分かるかも知れません。実際、大学病院内に「天気痛外来」というものもあります。

さすがにここまでくれば、医学的に、生理学的に、体調に天気が関係してくることは分かりますよね。もちろん、体調に不具合が生じれば、精神的、心理的にも不調をきたしても不思議ではありません。

安心感を得る心理的な対処法

それどころか、身体的なものよりも先に、心理的とか精神的に、脳の反応として低気圧が近づくときに不調が起こっても不思議ではないのです。以前、ケガをしたときに抑うつ状態になることで暴れまわらずにじっとしていて、ケガが治りやすいという効能があるとお伝えしたことがあります。

では、私たち人間の歴史として、天気が悪いときはどのようなときでしょうか。天気が悪いときに、狩りや漁に出かけたり、山菜の採取や田畑の作業に出かけたりしたら、大きな事故に遭う確率が上がるでしょう。足元が悪く滑ったり、がけ崩れなどの災害に遭ったりするかも知れません。そんなときに、膝の故障に気付かなかったら、さらに危険が待ち構えています。

そうならないためには、不安やだるい、やる気のない状態となり、家で待機することで生き延びる機会を増やしてきたのかも知れません。また、天気が悪いときに、自分の心身の調子が悪いことを普段より敏感に察知することで、危険を避けることが出来るかも知れないのです。

現在では様々な危険が社会的に対処されていて、危険回避機能が結果的に過敏と評価を受けることもあるかも知れません。しかし、その機能が悪いものであると捉えるのと、必要なものと捉えて過剰な部分だけ緩和する対処法を探すというのでは、全く違ってくることでしょう。

様々な治療もありますし、心地よい安心感を得るような心理的な対処法も考えられます。ダメだと自分を責めずに、まずは何か好きな飲み物を飲んで、リラックスすることから始めてみてはいかがでしょうか。(精神保健福祉士)

《くずかごの唄》64 スペイン風邪の恐怖

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【コラム・奥井登美子】大正8年(1919年)、日本で大流行したインフルエンザ、いわゆる「スペイン風邪」と、今度の新型コロナが、同じような規模になるのではないかと、歴史的な注目が集まっている。

スペイン風邪は土浦でも流行し、奥井の祖父も第2波の大正8年2月、53歳で亡くなっている。父親の死で、アメリカの大学に進学する夢を挫折させられた姑(しゅうとめ)は、スペイン風邪が憎らしくて仕方がなかったらしく、生前、よくそのことを話していた。

「スペイン風邪のとき、消毒なんか、誰が町の指導者だったの?」

「巡査が、やたら威張りくさっていたわよ…」

「保健所は、なかったの?」

「保健所なんて、なかったわよ、すべて、お巡りさんの仕事でね」

「お巡りさんの産地は茨城だって、私の兄がよく言っていた。『オイ・コラ』は、茨城弁なんですって」

新型コロナも、23波が来る?

私の兄、加藤尚文(故人、評論家)は慶應大学の学生時代、学徒動員で土浦の海軍航空隊に所属。そこで何があったか知らないが、教官に頭を殴られて、3日間意識不明になったらしい。教官の話す茨城弁。特に土浦の言葉を、ものすごく怖がっていた。

「巡査の産地かどうか知らないけれど、巡査が威張りくさって、『ソコ退け、ソコ退け』と、石灰を道路にまいて歩いていた」

「石灰? 石灰が消毒薬だったの?」

「そう、クレゾールなんて消毒薬が出てきたのはその後だもの」

「おお石灰、オセッカイ? お節介だ。ワクチンもない時代ですものね、薬は何があったの」

「アスピリンくらいしかなかった」

第2波、第3波、たくさんの死者で、お棺が間に合わない騒ぎだったという。新型コロナも、2波、3波が来るかも知れない。(随筆家、薬剤師)

《ことばのおはなし》23 私のおはなし⑫

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【コラム・山口絹記】血管造影検査から2日後。

眠気でリハビリに集中できない。夜通し本を音読していたせいで寝不足である。2週間後に開頭手術が決まったことで、私は焦りを感じていた。というのも、手術で命を落とす可能性は低いらしいが、脳の出血している部分を摘出するため、失語や右半身の機能障害が再発する恐れがあるからだ。

明日手術です、と言われれば諦めがつくが、2週間時間があると言われると、いろいろやっておきたいと思ってしまうのが人情というものである。朝食後からノートに色々書いては悶々としていると、母からメールが届いた。「色々と考えておこうと思っているとおもいますが、窓辺で陽の光を浴びながら考えてごらん」。

やっと点滴も外れたため、メールを読み返しながら、病棟の廊下を歩いて日の差し込むベンチに座った。外はきっと寒いのだろうが、ガラス越しの日差しは優しく気持ちよかった。

欲をかけばすべて中途半端になるのは目に見えている。想定する状況は、術後2年間、失語症状と右腕の失行が続くこととしよう。それから、自分の口から今の状況を伝えたいと思う人を選定し、術前にリハビリも兼ねて会って話しておくこと。娘のために、できる限り本の朗読を録音しておくこと。自身のためのリハビリ教材の選定と作成、それを妻に託すこと。

手術は10時間近くかかることがあるというから、その間待ちぼうけになるであろう妻と母のレクリエーションも考えねばなるまい。せっかくだから長めの落語でも録音しようか。こんなときだから古典の「死神」なんてどうだろう。すんなり考えがまとまった。なるほど、陽の光というのは大切らしい。

数ヶ国語のAVM単語帳を暗記

その後の2週間はあっという間だった。

入院中の3日間は毎日日本語の文章を7時間、英語の文章を1時間音読、消灯後を含めた4時間は術後のリハビリ教材の作成にあてた。この3日間だけでかなりスムーズな発話能力を取り戻した。日記の誤字脱字もなくなった。

連絡をとった学生時代の友人は「今から行くよ!」と駆けつけてくれた。一児の母となった幼馴染(おさななじみ)は丸一日つくばに滞在してくれた。一時退院中は娘を連れて本屋に行き、子ども用の辞書を買い、一緒に辞書をひきながら絵本を読んだ。私がことばを話せなくなると、娘が暗記してしまったお気に入りの絵本を読んでくれた。日中は同僚や上司が家に遊びに来てくれて、家族が寝静まると、娘のための朗読と、妻と母のための落語を練習し、オンライン英会話で医療従事者と病気について話し合った。

再入院前日には父がふらりと家にやってきた。散々関係ない話をして、帰り際に父は言った。「血管の奇形って言われると、製造元としては責任を感じるんだが。まぁ返品できるもんでもないしな」。

そうなのだ、有りものでどうにかやっていくしかないのだ。

手術前日、再入院した病室では、数カ国語で作成したAVM(脳動静脈奇形)に関する単語帳を暗記しながら眠りについた。明日は久々にゆっくり眠ることができる。-次回に続く-(言語研究者)

《食とエトセトラ》4 梅ジュースや梅干しを作る

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霞ケ浦総合公園の紫陽花

【コラム・吉田礼子】今年の紫陽花(アジサイ)は例年より鮮やかに感じられる。梅雨空にピンクや紫の花の色は一服の清涼剤。空梅雨(からつゆ)の年には瑞々(みずみず)しさが失われ、気の毒なくらい萎(しお)れるが、今年は恵みの雨。紫陽花に元気づけられる。梅雨ならではの仕事がある。梅仕事である。

先ずは梅シロップ(梅ジュース)から始める。固い青梅が最適で、日にちが経っても充分おいしくいただける。酷暑を乗り切るため、原液に氷を入れ、炭酸で割って何度も助けられた。簡単に作れる一品。お忙しい方にもお勧めしたい。

次は梅干し。昨今は、健康維持のために塩分摂取量を減らすことが求められ、梅干しの消費量は減っている。昭和40年代ごろまでは、30%ぐらいの塩分量はよく聞いた。最近は、減塩しても、美味しく傷まない梅干しを作る。

以前、ある梅干しメーカーに5%の減塩梅干しを、どのように作るのか問い合わせたことがある。先ず20%以上の塩で漬け、その後塩抜きをして、ハチミツなどで味付けをして市場に出すということだった。

でも、昔の梅干しを求める声も多い。義母も塩分16%に落ち着いた。高温多湿の日本の夏の気候風土に必要な食品である。昭和生まれの私たちには、日の丸弁当や、梅干しを具に醤油の焼きおにぎりを作ってもらったことが思い出される。

ラッキョウ、ジャムなどの保存食も

梅雨には、ラッキョウ、ピクルス、ジャムなどの保存食作りもある。菌類が活発に動くシーズンは、パン、ピッツア、イーストで作るシュテンゲル(棒状クラッカー)作りにも最適だ。

コロナ禍で、自宅での危機管理のひとつ、食料の調達・備蓄について検証する機会を得た。夫の実家は農家だが、32年前に祖母が亡くなったとき、分家の叔父が米1俵を持って来てくれた。独立した家は備えとして1俵は手を付けないでおく。本家がいざというとき持っていくためと、飢饉などの災害用に、である。

昔は、新米が出来たら1回は食べても、古米から食べていくので、正月を超えないと新米は食べられなかったとのこと。味噌、醤油、塩、砂糖、梅干しなどのほか、乾し椎茸、豆類、麩(ふ)、昆布、かつおぶし、切り干し大根といった乾物の備蓄も大事だった。

これらの使いこなし方の伝承も、昭和生まれの責務と痛感している、同時に、新しい生活様式も取り入れるため、若い人の力も貸してもらいたい。そんなことも考えながら保存食作りに勤(いそ)しんでいる。(料理教室主宰)

《ライズ学園日記》6 With/Afterコロナの国語授業

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学校跡地

【コラム・小野村哲】小学校国語の模擬授業に参加した。都会の人混みが苦手な私には、自宅に居ながらにして参加できるオンライン会議システムを使った研修機会は天の恵みだ。

授業者は教師歴5年目の若い教師、題材は宮沢賢治の「注文の多い料理店」だった。まずは本文を読んで疑問に思った点を、PCに直接タイプしていく。「なぜ、クリームをぬらせたのか?」「どうして風が、‘どう’と吹き始めたのか?」など、他の参加者と疑問点を共有したら、今度は、その中のいくつかを選んで自分なりの回答を書き込んでいく。

もしもこれを一人ひとりに発表させ、板書していたら、大変な時間を要しただろう。挙手となると、発表する子も限られてしまいがちだ。しかし一人に1台のPCを用意すると、これまで手を挙げなかった子まで含め、より多様な考えがより積極的に打ち込まれるようになり、その後の話し合いも活性化したという。

ただ漫然と、塾や家庭で予習をしてきた子が模範的な発表をするのを聞かされて過ごすのでも、教師の範読のあとに棒読みするのでもない。With / Afterコロナの時代にあっては、与えられた情報をうのみにするのではなく、批判的に読み取る力が求められる。時代に取り残されつつある老教師にとっては、コンビ漫才のように宮沢賢治の作品に突っ込みを入れようという発想そのものが興味深かった。

次代に託す

コミュニケーションツールとしての「人の言語」は、あいまいで不完全なものだ。距離や方角を正確に伝えるという点ではミツバチのダンスにも及ばない。木々の間を風が吹き抜ける様子を正確に伝えるすべもない。英語の授業では‘critical’を「批判的」と訳すが、英語話者が思う‘critical’に比べて、多くの日本語話者が「批判的」という語から受ける印象はよりネガティブだ。

文字に変換された言葉はなおのこと、教科書に整然と並んだそれはいわばフリーズドライされたものだと思っていい。「馬鹿」という文字は「ばか」としか読めないが、解凍の仕方によっては「愛している」という意味にもなり得る。しかしこれまでの国語の授業では、これを受動的、無批判に読ませることに終始しがちだった。授業の後で行われるテストには、あらかじめ「そのときの主人公の気持ちは、…である」と正解が用意されていた。

もちろん基礎基本をおろそかにしてはいけない。しかし、時に不可解でさえある常識を押し付けるような授業では、言葉は生気を失う。当然、‘critical’で‘assertive’なコミュニケーション能力など養われようもない。

コロナ禍を文部科学省は「非常事態」だといい、授業のオンライン化を推し進めろと言う。「学びを止めるな!」というのももっともだ。しかし私は「学びが止まる」ことよりも、今の学びが「そのまま続く」ことを恐れる。ICT化はいいが、学びのあり方を見直すべき今、授業はおざなりに継続され、一人に1台のPCをもたせることが、目的とされてしまうことを恐れる。

時代は移り変わっている。幕末の先人たちがそうしたように、次の世代にバトンを渡し、その新たな取り組みを支援したいと思う。(つくば市教育委員)

《食う寝る宇宙》64  ソロリソロリと3時半起床

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【コラム・玉置晋】まずは御報告。2020年4月12日、宇宙ビジネスサロンの一般社団法人「ABLab」において、宇宙天気プロジェクトを発足させました。プロジェクトメンバーがキックオフミーティングの様子をまとめましたので、こちらをご覧ください。

プロジェクトのコンセプトは「宇宙天気キャスタ・宇宙天気インタプリタが活躍する近未来社会を創造する」です。「宇宙天気キャスタ」は読んで字の如くですが、「宇宙天気インタプリタ」って何?という人は、コラム49コラム50をご覧ください。昨年末に鹿島神宮でうけた神様のお告げ(コラム51)を、しっかり実践しておりますよ。

このプロジェクトは、ABLabと僕がお世話になっている茨城大学理学部・野澤研究室(宇宙天気防災)の協力により、「教育・研究」「社会ニーズの醸成」「利用・防災」の3つの柱をつなげていきます。

愛犬のご飯は僕の担当

さて、上記の宇宙天気プロジェクトを推進するために、僕は「会社勤めの宇宙エンジニア」と「宇宙天気防災を研究する社会人大学院生」の二足のわらじを履いています。時間のやりくりが大変なのですが、どのような1日を送っているのか紹介します。

朝3時半にムクっと起き出し、ソロリソロリと椅子に座ってパソコンを開く。「ガタ」という椅子のきしむ音、カチャカチャというキーボードの音。これらの音で家族を起こすわけにはいかない。一挙一動を慎重に行う必要があります。

就寝前に仕掛けたプログラムの出力結果を確認したり、解析結果をドキュメントにまとめたり、プレゼン資料を作ったり、クリエイティブな仕事は早朝の3時間が勝負となります。

朝7時から8時半は家事の時間です。風呂掃除とゴミ出し、愛犬の「べんぞう」さんのご飯の準備は僕の担当です。この行程を忘却すると奥さんに怒られるので、必死です。

僕は会社勤めの宇宙エンジニアです。基本的には、9~18時の日勤帯は本業の人工衛星を見守る仕事をしています。研究で得た知見は、仕事にフィードバックさせるよう、意識しています。仕事と研究を分離しないことがコツだと思います。

また、担当する人工衛星で問題が発生したり、宇宙天気が異常に荒れたりといったクリティカルな状況にならない限り、定時には退勤するように心がけています。

夕飯の準備は夫婦で連携

先に奥さんが帰宅して、夕飯の準備をしてくれていることが多いので、まずは「べんぞう」の散歩などのお世話をしつつ、人間の夕飯の準備を交代します。夫婦共働きなので、その辺りの連携が生活をやりくりするポイントなのでしょう。ただし、主導権は奥さんにあります。

メール処理などの管理作業、明日の準備で2時間ほど費やします。そして、今日も1日が終わる。

以上は平日の様子なのですが、これだけではとてもタスクはこなせません。残りは、週末にまとめて行うことにしています。また、大学院通学や学会発表では、会社で有休を取得して対応することになります。家族、会社、大学の皆さんの御協力のおかげで、宇宙天気プロジェクトの遂行が可能になっています。心より感謝いたします。(宇宙天気防災研究者)

《茨城の創生を考える》16 茨城は対外アピール力を磨くべき

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ダイヤモンド筑波(筑西市)

【コラム・中尾隆友】昨年、茨城県議会が茨城空港の名称を「北東京空港」に変更することを提案したが、多くの県民がこの名称に疑問を持ったことだろう。非常に浅はかな名称変更案だったと思うのは、名称に茨城の特色が表れていないばかりか、東京への距離の近さだけを謳(うた)ったものだったからだ。

最終的には専門家の意見を聞いたうえで、「茨城空港」の名称を継続することとし、英語名では「東京首都・茨城空港」「東京北空港」「首都茨城空港」などとする折衷案が出されたが、いかにもお粗末なドタバタ劇だったと思う。

県議会には失望している。提案する前に最低限やるべきことをやっていないからだ。マーケティングでデータを揃えてから、茨城の強みは何かを考えるという発想があった方がよかった。

県や各自治体のPR能力が問われる

東京への近さをアピールしたかったのは、魅力度ランキングで全国最下位だというコンプレックスから来ているのかもしれない。以前も申し上げたように、茨城県の魅力度が低い理由として、経済性や居住性が優れているため、魅力度を磨く必要性に迫られていなかったという点が挙げられる。

人々はさしたる定義がないなかで「魅力度」と問われると、まず自分が観光地として行きたいところはどこか、といったことを思い浮かべる。茨城にも牛久大仏や袋田の滝といった観光スポットは存在するが、これらは茨城のイメージを決定づけるほどの強いイメージを持っていない。

たとえば、研究機関が集積するつくば市の「科学技術」を前面に押し出していくというのはどうだろうか。つくば市では2016年にG7の科学技術大臣会合、2019年にG20の貿易・デジタル経済大臣会合が開催されている。私はG7とG20の双方で会合が開かれた都市を他に知らない。

新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、都心でリモート勤務が増加し、地方へ移住するハードルが低くなりつつある。企業が地方へ移転する動機付けも強まっている。これまで以上に、県や各自治体のPR能力が問われる事態になっているのだ。そのことを強く意識して、成果を出してもらいたい。(経営アドバイザー)

《宍塚の里山》65 初夏の里山「ぶらっと歩き」②

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上段左からムラサキシキブの花、アカメガシワの出たての葉、アカメガシワの花、下段左からニワトコの実、ヤマユリの花

【コラム・及川ひろみ】初夏には木々が次々花を咲かせます。花とはいっても目立たないものも多い中、甘いいい香りに思わず引き寄せられる木もあります。

その代表がムラサキシキブ。秋には美しい紫の実を付けることで有名ですが、花は長い雄しべの先にある黄色い葯(やく)と薄紫色の花弁が美しい。3メートルほどの高さに育ち、枝を四方に伸ばし花を咲かせています。林の林縁(りんえん)のあちこちで見られます。かじってみるとほのかに甘い。小鳥はこの実が好物。食べたあと、消化されない種を方々に落とします。

アカメガシワ(トウダイグサ科)の花もこの季節の花。春に出る若葉が紅色で、とても美しい樹です。この木はかなり大きな木に育つことから、花を見ることができるのは斜面に生えた木など、条件がよいときだけ。

この花には、ヒョウモンチョウやキタテハなど、チョウがよくやって来ます。チョウ好きな人は、この花が観察ポイントです。高木のため、撮影には望遠レンズ付きのカメラが必要で、首が痛くなるほど上を向いて撮影しているのを見かけます。アカメガシワも虫媒花(ちゅうばいか)であり、種子散布は野鳥。したがって、アカメガシワも里山の明るいところにたくさんあります。

明るいところといえば、アカメガシワは先駆植物、パイオニア植物です。裸地(らち、火事や造成など)が生まれると真っ先に生えてくる植物で、乾燥に堪え、貧栄養の場所でも育ちます。

里山には涼しい風が流れます

この時期、血赤珊瑚(ちあかさんご)を思わせる、真っ赤な実をつけているのはニワトコ。早春ブロッコリーのような蕾(つぼみ)。4月末には小さな白い花。そして今ごろ、真っ赤な実をつける樹がほとんどない中、鳥にごちそうを提供し、鳥に種を蒔(ま)かせるのがニワトコの戦略。その結果は大当たり。里山の方々で見ることができます。

そろそろヤマユリの花の見ごろの節を迎えます。この花の存在はまず香り。遠くから香ってきます。そして近づくと、大きな白い花。香りは昆虫を誘う道具。この花が咲く明るい林の中を飛ぶクロアゲハやカラスアゲハが受粉。種は風で飛び散ります。

今年は30度を超える暑さが早くも到来しましましたが、里山の中には涼しい風が流れます。しかし、体調が芳しくないときにはご遠慮ください。(宍塚の自然と歴史の会代表)

《県南の食生活》14 さまざまなタケノコ

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上の竹林から根を伸ばして来たマダケのタケノコ

【コラム・古家晴美】タケノコというと、5月に掘り上げる孟宗竹(モウソウチク)を思い浮かべる方が多いかと思うが、今回はそれ以外のタケノコについて取り上げてみたい。全国的に見ると、日本には131種のタケ類およびササ類が存在する。このコラム「保存食への思い 多様な食材を楽しむ」(11月27日付)紹介したタケノコの塩漬けは孟宗竹だが、県南ではそのほか、淡竹(ハチク)、真竹(マダケ)がある。この3種が国内で採取される有用種トップ3だ。

かすみがうら市安食では、タケノコのことをよく知っている人ならば、贈った時に最も喜ばれるのは「ハチク」だと言う。これは軟らかくエグミがないので、茹(ゆ)でてあく抜きする必要がない。下茹(したゆ)で不要なので、タケノコの風味が残っていて美味しい、手間いらずというのも人気の理由かもしれない。

孟宗竹のように鍬(くわ)で地面から掘り上げるのではなく、上から40~50センチの部分を鎌(かま)で刈り取るか、手でもぎ取る。煮物にもするが、縦に薄切りにしてみそ汁に入れるのが最も美味しいとのこと。

一方、阿見町大室でマダケの竹山を所有している方は、このタケノコは細くて小さく手間がかかるので、食用にはあまり使わなかったと言う。ただし、繁殖力が非常に強く、春に3~4回刈り取りしないと1年で竹山になってしまうので、手入れをしないわけにはいかない。

私が刈らせていただいたのは、竹藪(やぶ)ではなく日が照り付けている平坦な草地だった。以前、そこは梨畑だったが、梨の栽培をやめたら上の竹山から竹が根を伸ばしてきて、マダケが毎年出るようになったそうだ。

昔は竹で小遣い銭稼ぎ

現在では、迷惑な存在になってしまった竹だが、戦後、農家でコンバインが導入されるまでは、ご年配の方のよい小遣い銭稼ぎになっていた。稲刈りをした後に稲を干すオダカケの道具として活用されていたのだ。

稲をかける部分のノセ(横棒)には長いマダケが必需品とされた。孟宗竹では節が細かく稲が引っ掛かり、また重いので支えきれなかったからだ。ノセを支える3本のオダアシもマダケだ。これらの資材は、その役目を終えると縁の下に濡れないように大事に保管され、数年間使うことができた。

稲刈りが間近になると、農家から注文が入り、おじいさんは竹を伐(き)ってから枝を丁寧に払い、節を滑らかに加工し始める。乾燥せずに青竹の状態で売り渡すが、秋以外の季節の伐採(ばっさい)は、竹の使用期間を縮めるということで、伐採は秋には限られていた。オダガケのほかに、物干用の竹竿やクネ(竹垣)など戦後の農村生活で重宝されていた。

現在、全国的に竹林の管理が環境問題となっている。メンマを食べる以外にも、タケノコや竹について考えてみる時間を持ちたいと思う。(筑波学院大学教授)

《ひょうたんの眼》28 新自由主義経済からの脱却が必要

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【コラム・高橋恵一】新型コロナウイルス感染とその対応で、我が国の様々な実態があらわになったことに驚いた。まず、国民の命や生活を守るという意味で危機管理体制があまりにもお粗末だったこと。理知的な対策の方向も見いだせず、右往左往しているうちに、運よく落ち着いたということだろう。

支援金の支給など、緊急事態なら1週間もあれば、実施できるはず、というより、最優先しなくてはならないことを、業務の質もスピードも優れているはずの業者に手数料を払って外注した挙げ句、施策の成果が国民に届く時期は信じられないくらい遅れた。

「これで全てがつながりました」。テレビ番組「相棒」で、水谷豊扮する杉下右京警部が事件の真相を掴(つか)んだ時の決め台詞(せりふ)である。

日本はバブル崩壊後の社会経済対策として小泉構造改革を選び、政策のベースは、竹中平蔵氏に代表される新自由主義経済理論。聖域なき構造改革として小さな政府を目指し、役所や企業の効率化、スリム化を推進し、社会保障費を抑制し、医療機関を減らし、看護師や介護関係者の賃金を抑制した。その結果が、現在日本の感染症やその影響対策の実力である。

また、新型コロナウイルス後の社会経済構造を強化するとして、IT化、デジタル化を強化しようとしているが、ますます富の集中が進み、格差の拡大が懸念される。業務のアウトソーシングが進み、情報の寡占化が進むことになろう。

その受け皿になる企業体が、広告代理や印刷業などの施策・事業から仲介取りまとめ業に変身した企業や、本来の国や自治体が使命・ミッションとする業務を受注してしまう人材派遣業になっていて、膨大な利益を上げ、その企業体の幹部が政権と深くつながっていたり、経済財政策の指南役だと判明すると、権力の中枢の姿がよく見えてしまった。

次の時代への経済学的提言を

永く政権に影響力を持つ経済学者は、こういう時こそ、次の時代への経済学的提言をすべきだと思うが、日本には経済学者がいないのかもしれない。

世界では、社会経済分野の多くの学者が、中長期的な課題も含めて、様々な提言がされているが、それらを参考にすれば、日本は、PCR検査体制の確保など、第2波への対策とともに、経済活動の立て直しを進めるに当たって、失われた30年になろうとしている経済体質、個人消費の弱さの解消を図る必要がある。

日本の構造改革、スリム化は、人件費の抑制で実現したものである。「99%の貧困」を記したジョセフ・E・スティグリッツに言わせれば、効率化のため、スペアタイヤを積むのを止め、病院の病床稼働率を100%に維持する経営だ。

勤労者の賃金を上げるには、低賃金分野から改善すればよい。政府の意思で賃上げができる医療、介護の従事者の賃上げを思い切って実行すればよい。診療報酬や介護給付金は、政府の意思でできるのだ。もともと足りない所得層に金が回れば、消費にまわる率が高く、経済の好循環が実現するのだ。(元茨城県生活環境部長)

《平熱日記》64 コロナと自治会

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【コラム・斉藤裕之】この新興住宅地に越してきたある日のこと。自治会の班長なるもののお役目が回ってきた。月に1度開かれる会議は、正直気が重かった。読めばわかる配布物の説明やなんやらで、午前中の2時間が潰れる。だが、新参者の私としては黙って聞いているしかない。

元々は、となり組のようなものから発生したらしい自治会。当時は意味があったのだろうが、今や東京都の自治会加入率は5割。武蔵野市は自治会のない街として公言までしているらしい。人によっては、災害時などには重要な役割を果たすというが、そんな時は誰だって助け合うものだ。

自治会は本当に必要なのか。例えば、必要な情報はネット検索可能だし、自治体も積極的に情報を流している。そろそろ2回目の班長が回ってきそうだ。ろくに読みもしない回覧板を回すたびに、自治会の意味を考えてしまう。

ところで、人里離れた山中の家を訪ねる番組が人気という。さぞかし不便で寂しいのだろうと思いきや、案外気楽で楽しそうな暮らしぶりに、人は人生の原点を見るのかもしれない。例えば、多くの場合、ポツンと離れた家の方を麓の村人はご存じである。

翻(ひるがえ)って我が家はどうだろう。両隣の方のお名前ぐらいは存じているが、一本裏の通りにどんな方がお住まいなのか全く知らない。果たして、どちらがポツンとしているのか。

「そういえば、町会費集めに来ないね」

ちょうどこの原稿を書いている最中、たまたま今日のポツンの放送は、なんと故郷の海辺の一軒家。馴染みの風景や言葉が懐かしい。番組ではご家族が楽しそうに釣りをしている。昨年の春、弟の船に乗ってまさにこの海でカミさんと釣りをした海だ。

新型コロナで生活は変わるのか? 仕事や家族、社会、教育、生き方…。自粛中に家の中の断捨離(だんしゃり)をした人は多いと聞くが、世の中の仕組みもこの際変えていくいい機会かもしれない。例えばリモートワークが可能ならば、こんな海辺の近くに住むことも不可能ではないし、地方に首都機能を分散させることもいいのではないか。

そんなことを考えていると、余計に自治会なるものが不要のものに思えてきた。そもそも入脱会は任意なのだ。このたまに遭遇する「任意」という半ば強制。そうだ、「長いものには巻かれろ」的な時代とはオサラバだ。ということで、思い切って班長宅に赴き、脱会の旨を伝えた。やーれ、せいせいした。

「そういえば、町会費集めに来ないね」とある日のカミさん。実はかくかくしかじかで、自治会を脱会したことを打ち明けた。するとカミさん、「今すぐ取り消してきて!」と切れ気味。公僕のはしくれであるカミさんの立場としては、自治会は触れてはいけない琴線であった。

結局、渋々班長さんに再入会の申し入れをした不甲斐ない私なのであった。少しイギリスの苦悩が分かった? シンクグローバル、アクトローカル! いや、もっとパーソナルでいいんじゃない!(画家)

《邑から日本を見る》66 コロナ後の食料自給対策を

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【コラム・先﨑千尋】新型コロナウイルスのまん延による緊急事態宣言はひとまず解除された。しかし、世界各国の状況を見ると、終息には程遠く、わが国でも第2波、第3波が押し寄せる可能性が高い。

平時の時、首相も自治体の長も極端に言えば、誰でも務まる。法律、予算があり、わが国では、統治機構もしっかりしているからだ。しかし、緊急時にはそうはいかない。東日本大震災、東京電力福島第1原発の事故の時がそのいい事例だ。誰も遭遇したことがない。予算も人もマニュアルもない。トップは、瞬時にどう対応するかの判断を下さなくてはならない。

今回の新型コロナウイルスの来襲による初期対応は、国により対応がまちまちだったが、わが国ではどうだったのか。これまでのところ、わが安倍首相は落第だとのちに評価されるのではないか。ダイヤモンド・プリンセス号の対応に始まり、小中高の突然の閉校、アベノマスクの全戸配布、10万円の給付など、やることなすことすべてが首相とその側近によるきまぐれ、場当たりで進められた。

わが家にもやっとマスクが届いたが、農業専業なのでほとんど出かけることはなく、「不要不急」の代物だ。必要度が高い病院などに配った方がいいと考えた。そのマスクだが、国産ではなく、中国から輸入されたものだそうだ。一時、高値で転売されていたころがあったが、緊急時に手に入らないことから、これが食料だったらどうなっていただろうか、と余計な(?)心配をしたのだ。

世界経済はグローバル化し、カネさえあれば、いつでも買える世の中になっていた。コロナのまん延が瞬く間に広まったのもグローバリゼーションのせいだ。しかし、今度のコロナ騒ぎで国境閉鎖があちこちで行われ、わが国でもまだ続いている。

休眠田畑を復活させ食糧備蓄を倍増

問題は医療物資だけではない。国連食糧農業機関(FAO)や世界保健機関(WHO)は、人の移動禁止による労働者不足により、農産物の生産量が減少し、食料不足になると警鐘を鳴らしている。世界的な食料不足ともなれば、各国は医療物資以上に自国第一主義に走るのが目に見えている。政府は自国民を飢えさせるわけにはいかないのだ。

農水省のデータでは、わが国の食料自給率はカロリーベースで37%、生産金額ベースで66%、飼料自給率はわずか25%と先進諸国で最低水準であり、国境閉鎖、輸入が止まれば国民の多くは「食うに困る」状態に陥る。現に、外国人の労働者に頼っている大規模農家は、人の行き来がストップしており、どこでも悲鳴を上げている。

宇沢弘文さんという経済学者がいた。彼は「社会的共通資本」という言葉を広めたことで知られている。「一つの国ないしは地域に住む人々が、豊かな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間として魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置」のことを言う。

自然環境にはいろいろ含まれるが、農業はその基本になる。今日、農業がずたずたに切り裂かれ、農民が農業では生活できないところまで追い込まれている。休眠田畑を復活させ、食糧備蓄を倍増する。そのための生産者を国策として援助する。そうしない限り、食料危機に対応できない。今ならまだ間に合う。(元瓜連町長)

《沃野一望》16 藤田小四郎の6 天狗壊滅

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藤田小四郎像=筑波山

【ノベル・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

豪雪の蠅帽子(はえぼうし)峠を越え、越前国(現在の福井県)へ入った天狗党の一党は、ここでついに、行く手の葉原(はばら)宿に布陣する加賀藩に降伏した。加賀藩士永原甚七郎の命がけの説得に応じた理由は、加賀藩に先陣を命じた一橋慶喜の出陣だった。京へ近づけば近づくほど露骨に拒絶の姿勢をつよめる慶喜のまえに、矛を収めざるをえなかった。天狗党の頼みの綱は、儚(はかな)い幻像だった。

さらに天狗党は、あまりに激しく行動力を消耗しつくしていた。天狗党の気力と体力は、豪雪の峠越えで極限にまでそがれていた。誰もが、「これ以上の進軍は無理」と肌で感じていた。

天狗党は、加賀藩兵に武器を差し出し、捕らわれの身となる。ついに、幕府軍との全面戦闘を展開せぬままの降伏だった。

心情的に天狗党に肩入れしてきた加賀藩兵は天狗党を、できうる限りの厚遇で迎え入れる。北陸の魚とたっぷりの白米、熱々の味噌汁。手足をゆっくりのばせる風呂は、豪雪の峠越えでおった凍傷に、なによりの治癒(ちゆ)となった。酒さえ相伴し、暖かい布団に寝ついた。

しかし、桃源郷のような虜囚生活は、長くつづかなかった。幕府の天狗党追討軍総括田沼意尊(たぬまおきたか)が越前に到着した。田沼は、加賀藩による厚遇を聞き及び激怒した。「天狗勢を縛って引き立てよ。牢に押し込めよ。反抗する者は、射殺せ」。

降伏823名中352名斬首

加賀藩側も、黙っていなかった。

「われらは、一橋慶喜様の命で出動した者です。慶喜様が京へ戻ってしまわれた以上、われらの役目はおわりました。加賀へ、ひきあげます」。幕府軍と一橋慶喜に対する、精一杯の反抗だった。加賀藩兵は、天狗勢からの深甚な謝意を背に、捕縛の役目を放棄し、加賀へ帰っていった。

幕府軍による天狗勢への過酷な処遇がはじまる。敦賀へ護送され、鰊(にしん)蔵を改造した頑丈な牢獄へ押し込められた。出入り口や窓は、すべて厚い板で塞がれ、手を入れるだけの穴から、一日二個の握り飯がほうりこまれた。ほとんど光のとどかない暗黒の獄内の中央に、大・小便用の桶があるだけ。足には、分厚い板の足枷(かせ)が釘うちされた。

元治二年(1865)二月。田沼意尊は、武田耕雲斎や藤田小四郎などの天狗党幹部25人を鰊蔵から引きたてた。かたちばかりの裁判がとりおこなわれた。斬首に処する。即、執行。

翌日から、一般隊員に対して次々と判決が言い渡された。加賀藩に降伏した823名のうち、352名が、越前国敦賀来迎寺(らいごうじ)で斬首された。筑波山に挙兵して約1年。ちらほらと、早咲きの梅がほころびはじめるころだった。(作家)

《続・気軽にSOS》63 浅井心理相談室の「あるあるネタ」

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【コラム・浅井和幸】お陰様で19年目を迎えた浅井心理相談室。日常の些細(ささい)なことから、複雑で重い内容まで、様々な相談を受けてきました。

睡眠時間を確保できない時期が初期にあり、昼食をとって臨んだ午後一のカウンセリングで、クライエントが話をしているときに一瞬コックリしてしまったことがあります。今思い出しても、冷や汗ものの経験です。今回は、相談室での、そのような「あるあるネタ」をお届けします。

<その1>

カウンセリング料を受け取り忘れて、お互いが謝る変な光景。カウンセリング料は、相談終了時に手渡しでいただきます。喜怒哀楽(きどあいらく)交じりに悩みを話した後のクライエント。真剣にそれを聞いてアドバイスをする私。相談終了後は、ホッと気が緩みます。

次回の予約を受け、次を考えつつ、「お疲れさまでした。気を付けてお帰り下さい」と別れた後、ふと料金をいただいていないことに気付きます。そして、駐車場まで走って、料金をいただく。

クライエントは、申し訳なさそうに謝ります。いやいや、浅井が請求することが筋で、それを忘れていましたと謝ります。気付くのが遅く、電話でお伝えしたり、次の相談時に話をしたり、すっかり忘れていてクライエントから指摘されたり。このうっかりは、今もあります。というか、これから頭がぼけていったら、増えちゃうのかな?

<その2

お茶は何杯でもOKですよ。夏は冷たい、冬は暖かいお茶をお出ししています。精神科などの薬を服用されている方は、のどが渇きやすいので、遠慮なく、何杯でもお替わりしてください。真剣な悩みを話しているときに言いづらいと感じる方も多いので、こちらから飲むペースの早い方にはお伝えします。

この話をするだけで和む方もいます。中には、お茶を飲むことも遠慮するぐらい緊張されている場合もあります。冬のこと、あるクライエントには「相談室のお茶はこんなに熱かったのですね。いつも相談が終わるころに初めて気づきました」と言われたことがあります。

<その3

説教されたのに友人を紹介。相談には、知り合いの紹介で来られる方もいます。予約の電話に対応するときに、どこで相談室を知ったかをお聞きしますが、先日は、下記のように応えられ冷や汗をかいたものです。

「以前から何度もそちらで相談をしている〇〇さんからの紹介です。いろいろな所で相談をしましたが、そちらでは話を聞くだけではなく、アドバイスもしてくれると聞いています。〇〇さんは、アドバイスだけでなく説教もされたと笑って教えてくれました」

う~、クライエントに説教するなんて、カウンセラーの風上にも置けないやつだと思うわけです。優しく接しなくちゃだめですよねぇ。え~っと、その説教をするカウンセラーは、たぶん、私で間違いないかと。〇〇さんという名前に心当たりもありますし。気を付けなきゃなぁと考える今日このごろです。(精神保健福祉士)

《電動車いすから見た景色》7  それぞれのマスク事情

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マスクをした筆者

【コラム・川端舞】もはや外出時のマスクは常識になりつつある。マスクをしていない人を見ると、つい冷たい視線を送ってしまう。しかし、マスクは誰にでもできるものなのだろうか。

私は脳性まひという障害のため、手足の筋肉と同じように、口の周りの筋肉も思うように動かせない。何か話そうとするとき、自分では他の人と同じように口を動かしているつもりなのだが、無意識に顔の筋肉が必要以上に動いてしまう。そのせいで、話している間に口元のマスクがどんどんずれて、マスクの意味がなくなってしまうことがある。

また、マスクをしていることで顔の筋肉を動かしにくくなり、周囲が私の話している言葉を理解するのに普段より時間がかかる。言語障害による言葉の聞き取りづらさに拍車がかかっているようだ。感染予防のためには、話す時もマスクをすることが大切なのは分かっているが、スムーズにコミュニケーションをするためにマスクをはずしたいと思ってしまう。

口元が見える透明なマスク

私以外にもマスクを不便だと感じる人はいるようだ。もともと呼吸器の疾患がある人は、マスクをつけることにより呼吸が苦しくなってしまう。知的障害者で肌の感覚が他の人より過敏な人は、ゴムを耳にかける感覚がストレスになり、マスクをはずしてしまう人もいるようだ。

聴覚障害者はマスクにより相手の口元が見えなくなることで、会話を理解しづらくなるというニュースも見た。障害者だけでなく、小さい子どもなどマスクをし続けることが難しい人もいるだろう。

最近は、私も街中でマスクをしていない人を見かけると冷たく見てしまうこともあるが、外見ではわからなくても、マスクをするのが難しい人もいることを覚えておきたい。また、聴覚障害者でも会話ができるように、マスクをしていても口元が見える透明なマスクも開発されているようだ。

それぞれのニーズに合った、ユニバーサルなマスクが今後生まれてくるかもしれない。新しい生活様式の中でも、多様性を受け入れられる社会にしたい。(つくば自立生活センターほにゃらメンバー)

《ご飯は世界を救う》24  ハンバーガー店も再開

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【コラム・川浪せつ子】自粛生活も少しずつ解除されてきました。つくば市小野崎のショッピングセンター「ララガーデン」は、スーパー、薬局など以外は、4月半ばから閉鎖。それが5月20日くらいから、飲食店も徐々に再開されました。私の大好きな「フレッシュネスバーガー」さんに、開始日、すぐにテイクアウトに行きました。

そしてそれから2週間後には、店内でランチスケッチも。こちらの壁には、私が今まで描いたお店のハンバーガーなどのスケッチを、数点展示させてもらっています。初めて描いたのは、お茶に行ったとき。あまりにも描けなくて、へこんだことを覚えています。

それ以来、何十回通って描いたでしょうか。食べものだけでなく、レジの付近、ハロウィンなどの季節の飾りつけスケッチ。お陰様で、少し自信を取り戻せています。

そんな時間を過ごせたのは、店主さん始めスタッフさんの対応でした。そして、10年以上過ぎ、わたしの一番の憩いの場所になりました。店内は広く2階にあり、窓からは筑波山を、ハッキリ拝むことが出来ます。

地域の方にとってはもちろん、筑波山は信仰の山。いつ見ても美しく、長い歴史のある名山ですね。そんなお山を眺められるのですから、ここは、ビューポイントですね。

お茶とフィットネスの時間

また数年前から、このショッピングセンター内に、女性専用のフィットネスが入ったのも私にとっては、好都合でした。食料品のお買いもの、本屋さん、1人でお茶の充足時間、オマケに体を鍛えるという何ともぜいたくな場所です。

コロナの終焉がまだまだのようなので、「フレッシュネスバーガー」さんも、今は時短営業です。もともとテイクアウトがあり、持ち帰りの方も多いのです。これからも筑波山を見ながら、ステキなスタッフさんとの触れ合いを大切にして、美味しい食べ物と、よい時間を過ごすことが出来ますよう祈るばかりです。(イラストレーター)

《くずかごの唄》63 コロナ事件 医療の歴史的試み

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【コラム・奥井登美子】

「耳の後ろがかゆいのです。マスクのゴムのせいでしょうか?」

「暑い時のマスクは耳のところで汗かくから、アセモと同じ手当てをすればいいと思います」

「ゴムひもを取り換えてもダメですか?」

「かゆい所の汗を水でよく拭いてから、弱いステロイド軟膏を塗っておく」

「ウエットティッシュで拭いたら、よけい赤くなっちゃった」

「皮膚炎には、ウエットティッシュに少しだけ入っている防腐剤がよくないの。くたくたの洗いざらしたガーゼがあればいいんだけれど」

「値段の高いティシュにしたのに、なぜダメなんですか? くたくたのガーゼなんか、捨てちゃうからありません」

「困ったわね。家にいる時はマスク外してくださいね」

マスク皮膚炎、手指のアルコール皮膚炎、家のひきこもりに伴う軽いノイローゼなど、病気と言えないような軽い疾患が増えている。病院や医院に相談に行くほどでもないとあって、薬局の雑談まじりの相談電話は結構忙しい。

日本人の生活教育を見直すチャンス

言われたことをキチンと真面目に実行しているのにトラブルが起こってしまう。それにどう対処していいかわからない真面目過ぎる日本人がなんと多いことか…。

マスクのつけ方、マスクの用途、消毒薬の扱い方、ウエットティッシュの使い方など、医療以前の基本的な日常の生活術を知らない人たちがなんと多いことか…。コロナウイルス事件は日本人の生活教育を見直すチャンスではないかと思う。

私は薬史学会に入っているので、薬の歴史的な事件は一応学んだはずであったが、地域医療の地域が世界中に広がっての「医療のコロナ騒動」は、歴史的にみても初めての体験である。

町の薬剤師の1人として、この歴史的な体験をどう乗り切ればいいのか、日夜模索しながらお客様の電話に付き合っている。(随筆家、薬剤師)

《法律かけこみ寺》19 とある会社の消滅時効

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土浦市神龍寺(本文とは関係ありません)

【コラム・浦本弘海】とある会社の一コマ。

先輩「この債権は商事債権じゃないし、時効は…10年だな。きちんと管理しないと」

後輩「先輩、改正民法が今年(2020年)4月1日から施行されてるんですよ、この債権ならいまは5年です」

先輩「な、なに~!」

民法が2017年に大改正されました。この大改正された民法(改正民法)が2020年4月1日から施行されています。ビジネスの現場でも改正民法が意識されはじめました。そこで今回は、主要な改正のひとつ、消滅時効の改正について取り上げます。

ところで、そもそも消滅時効というのは、権利者が一定期間、権利を行使しないと権利が行使できなくなる場合があるという、(権利者にとって)残念な制度です。根拠のひとつは「権利の上に眠るものは保護に値せず」というもの、キビシー。

それでは条文を(原則だけ取り上げていますので、例外にご注意ください)。

●改正前

第百六十七条 債権は、十年間行使しないときは、消滅する。

(以下略)

●改正後

第百六十六条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。

一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。 二 権利を行使することができる時から十年間行使しないとき。

(以下略)

というわけで、改正前の民法では消滅時効の期間は原則10年でしたが、「知った時から5年」が追加され短期化が図られました。

刑事ドラマの「時効」にも要注意

また、改正前の民法には職業別短期消滅時効というのがあり、宿泊料は1年だったり、弁護士報酬は2年だったり、各種資格試験の受験生を悩ませていたのですが、短期化の一方でこれらは廃止されました。

商行為によって発生した債権(商事債権)は、商事消滅時効(商法522条)によりもともと5年だったのですが、この規定も削除され改正民法が適用されます。

なお、とても細かい話ですが、改正民法施行日(2020年4月1日)前に債権が生じた場合は、原則として改正前の民法が適用されます(例外に不法行為に基づく損害賠償請求権)。

ところで、むかしの刑事ドラマなどで、たまに殺人罪の時効が15年(あるいは25年)というシーンが出てきます。

刑事A「ふう、これでようやく犯人を逮捕できるな」

刑事B「先輩、今日で事件から丸15年。時効です!」

刑事A「な、なに~!」

ここでの時効は公訴時効というもので、公訴時効の期間が経過すると被疑者を起訴することができなくなります。

ちなみに「むかしの刑事ドラマ」としたのは、公訴時効を定める刑事訴訟法もやはり2010年に改正され、人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪(たとえば殺人罪)について公訴時効が廃止されています。

小説やドラマで法律ネタが出てきた場合、法律が改正されていることもあるので、鵜呑みにするのは要注意なのです。(弁護士)

《吾妻カガミ》84 いま、つくば市政が面白い

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】このサイトの編集では行政の監視が一つの柱になっています。今回のコラムでは、先の「つくば市のコロナ対応を点検」(5月4日掲載)でも少し触れた「市内事業者応援チケット事業」の問題点を取り上げます。秋の市長選挙を意識して急いだのでしょうか、五十嵐さんが打ち出した施策は「生煮えだった」という話です。

Cファンディングって何?

4月20日に公表されたチケット事業は、コロナ禍で売り上げが減っている事業者を助けるために、将来のサービスなどが約束されたチケットを、市内外の応援者(将来の利用者)に前倒しで買ってもらう―という仕組みです。一時あちこちで扱われたプレミアム商品券の業者救済型といえます。

支援策としては気の利いた内容ですが、問題もありました。応援者はチケット(モノやサービスの提供が約束された金券)を受け取るものの、入金先がクラウドファンディング(CF、寄付感覚もあるリスク承知の投資資金をネットで集める方法)の窓口であるために、チケットが紙クズになっても文句を言えない仕掛けになっていたからです。

つまり、応援のお礼が金券なのか、見返りを求めない寄付なのか、それとも株並みの投資なのか、応援者の理解(誤解?)に任せられていたのです。金融商品に例えると、元本が保証されている預貯金とも、全損もあり得る証券類とも理解できるような、変な制度設計でした。それを自治体が主導したわけですから、設計としては完全にアウトです。

業者応援で制度設計を修正

私のコラムでの指摘のほか、市民からも似たような声があったのでしょうか、 市はこの応援チケット事業の設計を内々に変えました。

10日ほど前、市の担当者に聞いたところ、おカネ集めにCFの機能は使うものの、投資の要素は限りなく排除し、原則として金券と位置づけ、寄付でもOKの人の応援はもちろん受け付ける―という運用原則に変更したそうです。具体的には、事業者が閉店してチケットが無効になったときは、市が払い戻しに応じるとのこと。また、外部委託を考えていた事務局の機能は、市の経済支援室が引き取ったそうです。

この結果、チケットとの理解で応援してくれる人が9割、寄付でも構わないと言う人が1割になると予想しています。事業設計としては、CFが持つリスキーな要素がなくなり、応援に対するリターンは安心な商品券でという形に落ち着きました。

この事業を4月に公表したとき、市はどうして「クラウドファンディング」を前面に押し出したのでしょうか? どうやら、いま流行(はやり)の仕掛けということで、採用されたようです。五十嵐さんはCFを制度設計の柱に据えましたが、詰めの作業で修正を迫られました。選挙が近づくと、面白いことが起きるものです。担当職員はお疲れ様でした。(経済ジャーナリスト)

《茨城鉄道物語》2 まぼろしの筑波鉄道はいずこへ

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筑波線を走るディーゼル車両=「関東鉄道創立50周年記念」誌(1973年)表紙の一部

【コラム・塚本一也】私が小学生のころ(約45年前)、実家から最も近い繁華街は旧筑波町の北条であった。そこには旧大穂町の大曽根商店街よりもワンランク上の商店街が存在した。それはおもちゃ屋さんであったり、牛肉を販売する肉屋さんであったり、眼科などの専門医であったり、小学生には縁がなかったが接客の伴う飲食店であったりと、筑波山のお膝元ということもあって、生活必需品以上の品揃えの整った商店街が栄えていた。

中でも他の町村よりも際立っていたのは、鉄道が走っていたことであろう。県南の商都として発展した常磐線土浦駅と水戸線岩瀬駅を鉄路で結ぶ「筑波鉄道(1979年まで関東鉄道)筑波線」(営業キロ40.1キロ)が、1918年から1987年まで約70年間営業を続けていたのである。最盛期には常磐線や水戸線から直接客車が乗り入れて、筑波山観光に一役買っていたそうである。

私の記憶する筑波線は、通常は2両編成であったが、土浦一高の一大行事である「歩く会」の際に、新土浦駅から生徒を乗せて真壁あたりまで輸送していただいたことがある。その時は約1,000人の高校生が乗車するため貸切の車両を特別編成するのだが、車両がホームに収まり切れずに先頭車両だけでドアを開閉し、車内通行によって乗り降りしたような覚えがある。

その筑波線も1987年4月1日に国鉄分割民営化と共に、惜しまれながらもその歴史に幕を閉じることになったのである。世はバブル経済へ向かってひた走っている時代であり、ご当地の筑波線沿線地域も、つくば万博後の民間企業進出によって好景気時代を迎えていた。農家の庭先には父親のシーマ、息子のソアラ、お姉さんのプレリュードが所狭しと並んでおり、在京TV局が満杯の駐車場を備える天久保歓楽街に頻繁に取材に来ていたころである。「モータリゼーションの普及」の名のもとに、筑波鉄道筑波線は廃線の憂き目にあったのである。

残された観光資源の有効活用を

私は茨城県の県民性に「飽きっぽさ」を挙げることができると思っている。郷土の持つ豊かな自然環境と立地条件から、「いつでも何をしても食べていける」という考え方が根底にあるため、それまでの歴史や資産価値などにこだわらず、すぐに心変わりをしてしまうのである。それゆえに筑波線の存続もあっさりと諦めてしまったことは、他県の市電やローカル線が注目されている昨今では、本当に残念でならない。

しかし一方では、今から30年以上前のバブル経済初期に、誰が今日の環境問題や地方創生策を想定しただろうか、という思いもある。歴史に「たられば」は禁物だが、筑波線が残っていたのならば、つくばエクスプレス(TX)との接続やJR線との相互乗り入れなど、地域発展のための様々な選択肢が考えられたと思う。

昨年、筑波線の廃線跡地であるつくば霞ケ浦りんりんロードは、日本で3カ所しかないナショナルサイクルロードに指定された。筑波線開業から100年の時を経て、再び観光資源として脚光を浴びようとしているのである。今度こそ先見の明をもって、残された観光資源が有効に活用できるような未来を描くことが求められているのではないだろうか。(一級建築士)