【コラム・塚本一也】私が小学生のころ(約45年前)、実家から最も近い繁華街は旧筑波町の北条であった。そこには旧大穂町の大曽根商店街よりもワンランク上の商店街が存在した。それはおもちゃ屋さんであったり、牛肉を販売する肉屋さんであったり、眼科などの専門医であったり、小学生には縁がなかったが接客の伴う飲食店であったりと、筑波山のお膝元ということもあって、生活必需品以上の品揃えの整った商店街が栄えていた。

中でも他の町村よりも際立っていたのは、鉄道が走っていたことであろう。県南の商都として発展した常磐線土浦駅と水戸線岩瀬駅を鉄路で結ぶ「筑波鉄道(1979年まで関東鉄道)筑波線」(営業キロ40.1キロ)が、1918年から1987年まで約70年間営業を続けていたのである。最盛期には常磐線や水戸線から直接客車が乗り入れて、筑波山観光に一役買っていたそうである。

私の記憶する筑波線は、通常は2両編成であったが、土浦一高の一大行事である「歩く会」の際に、新土浦駅から生徒を乗せて真壁あたりまで輸送していただいたことがある。その時は約1,000人の高校生が乗車するため貸切の車両を特別編成するのだが、車両がホームに収まり切れずに先頭車両だけでドアを開閉し、車内通行によって乗り降りしたような覚えがある。

その筑波線も1987年4月1日に国鉄分割民営化と共に、惜しまれながらもその歴史に幕を閉じることになったのである。世はバブル経済へ向かってひた走っている時代であり、ご当地の筑波線沿線地域も、つくば万博後の民間企業進出によって好景気時代を迎えていた。農家の庭先には父親のシーマ、息子のソアラ、お姉さんのプレリュードが所狭しと並んでおり、在京TV局が満杯の駐車場を備える天久保歓楽街に頻繁に取材に来ていたころである。「モータリゼーションの普及」の名のもとに、筑波鉄道筑波線は廃線の憂き目にあったのである。

残された観光資源の有効活用を

私は茨城県の県民性に「飽きっぽさ」を挙げることができると思っている。郷土の持つ豊かな自然環境と立地条件から、「いつでも何をしても食べていける」という考え方が根底にあるため、それまでの歴史や資産価値などにこだわらず、すぐに心変わりをしてしまうのである。それゆえに筑波線の存続もあっさりと諦めてしまったことは、他県の市電やローカル線が注目されている昨今では、本当に残念でならない。

しかし一方では、今から30年以上前のバブル経済初期に、誰が今日の環境問題や地方創生策を想定しただろうか、という思いもある。歴史に「たられば」は禁物だが、筑波線が残っていたのならば、つくばエクスプレス(TX)との接続やJR線との相互乗り入れなど、地域発展のための様々な選択肢が考えられたと思う。

昨年、筑波線の廃線跡地であるつくば霞ケ浦りんりんロードは、日本で3カ所しかないナショナルサイクルロードに指定された。筑波線開業から100年の時を経て、再び観光資源として脚光を浴びようとしているのである。今度こそ先見の明をもって、残された観光資源が有効に活用できるような未来を描くことが求められているのではないだろうか。(一級建築士)