【ノベル・広田文世】
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼
我(わが)ひめ歌の限りきかせむ とて

豪雪の蠅帽子(はえぼうし)峠を越え、越前国(現在の福井県)へ入った天狗党の一党は、ここでついに、行く手の葉原(はばら)宿に布陣する加賀藩に降伏した。加賀藩士永原甚七郎の命がけの説得に応じた理由は、加賀藩に先陣を命じた一橋慶喜の出陣だった。京へ近づけば近づくほど露骨に拒絶の姿勢をつよめる慶喜のまえに、矛を収めざるをえなかった。天狗党の頼みの綱は、儚(はかな)い幻像だった。

さらに天狗党は、あまりに激しく行動力を消耗しつくしていた。天狗党の気力と体力は、豪雪の峠越えで極限にまでそがれていた。誰もが、「これ以上の進軍は無理」と肌で感じていた。

天狗党は、加賀藩兵に武器を差し出し、捕らわれの身となる。ついに、幕府軍との全面戦闘を展開せぬままの降伏だった。

心情的に天狗党に肩入れしてきた加賀藩兵は天狗党を、できうる限りの厚遇で迎え入れる。北陸の魚とたっぷりの白米、熱々の味噌汁。手足をゆっくりのばせる風呂は、豪雪の峠越えでおった凍傷に、なによりの治癒(ちゆ)となった。酒さえ相伴し、暖かい布団に寝ついた。

しかし、桃源郷のような虜囚生活は、長くつづかなかった。幕府の天狗党追討軍総括田沼意尊(たぬまおきたか)が越前に到着した。田沼は、加賀藩による厚遇を聞き及び激怒した。「天狗勢を縛って引き立てよ。牢に押し込めよ。反抗する者は、射殺せ」。

降伏823名中352名斬首

加賀藩側も、黙っていなかった。

「われらは、一橋慶喜様の命で出動した者です。慶喜様が京へ戻ってしまわれた以上、われらの役目はおわりました。加賀へ、ひきあげます」。幕府軍と一橋慶喜に対する、精一杯の反抗だった。加賀藩兵は、天狗勢からの深甚な謝意を背に、捕縛の役目を放棄し、加賀へ帰っていった。

幕府軍による天狗勢への過酷な処遇がはじまる。敦賀へ護送され、鰊(にしん)蔵を改造した頑丈な牢獄へ押し込められた。出入り口や窓は、すべて厚い板で塞がれ、手を入れるだけの穴から、一日二個の握り飯がほうりこまれた。ほとんど光のとどかない暗黒の獄内の中央に、大・小便用の桶があるだけ。足には、分厚い板の足枷(かせ)が釘うちされた。

元治二年(1865)二月。田沼意尊は、武田耕雲斎や藤田小四郎などの天狗党幹部25人を鰊蔵から引きたてた。かたちばかりの裁判がとりおこなわれた。斬首に処する。即、執行。

翌日から、一般隊員に対して次々と判決が言い渡された。加賀藩に降伏した823名のうち、352名が、越前国敦賀来迎寺(らいごうじ)で斬首された。筑波山に挙兵して約1年。ちらほらと、早咲きの梅がほころびはじめるころだった。(作家)