土曜日, 4月 27, 2024
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シャッターは「触る」もの 《写真だいすき》3

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こんなカメラを使っていた時代もあった

【コラム・オダギ秀】公園を散歩していたら5歳くらいの元気な子が来る。で、いつも腰のポーチに入れている小さなコンパクトデジカメを向けた。アマゾンで、3500円で買った中古の小さなカメラだ。それを見て、その子が叫んだ。「うわぁ、大きなカメラ」

その子の世代にとって、カメラと言うのは、スマホの後ろの5ミリほどの丸い穴、レンズのことなのだろう。だから、写真を専門に撮る機械なんて、大きな驚きの物体だったのかも知れない。

ある日、ボク自身を撮ってもらおうとして、若い人に、ボクのコンパクトデジカメを渡した。ここがシャッターだよ、と教えて。何枚も撮ってもらったつもりで確認したら、1枚も写っていない。「シャッター押してくれたよね?」と尋ねたら、「もちろん、ちゃんと触りましたよ」と言う。いまの一般の若者たちにとって、カメラのシャッターとは、「押す」ものではなく、「触る」だけでいいものなのだ。

時代の変化に少しショックを受けているボクは、最近、小さなカメラを買った。コンパクトデジカメの半分もない小さなカメラだが、結構使われていると聞いたからだ。そう思って気を付けてテレビなど見ていると、なるほど、よくこんなところで撮影しているなというような場面では、そんなカメラを手首に着けたり首に下げたり、ヘルメットに着けている。「ヒロシのぼっちキャンプ」だって、車のフロントに2台も着けているじゃないか。

時代の変化に愕然

日本製名器カメラとして定評があったニコンも、年内にはメイドインジャパンではなくなるという。国内生産はすべて止め、タイ工場に移るそうだ。だからというわけでもなかろうが、スタッフがボクに尋ねた。「冷蔵庫の中から外を、一眼レフのニコンカメラで撮れますか? ドアを開く瞬間を、中から外を」。あなたなら、どうやって撮る? ボクも、中から撮れるカメラを買ってしまう。今は、そんなカメラが簡単に手に入るのだ。

もちろん、大きなカメラでていねいに撮った写真の価値と、小さな、今に対応したカメラによって撮ることを比較することに、意味があるか否かの話ではない。映画やテレビがいかに発達しても、文学の価値が下がることはないことと同じだ。もともと、違うものなのだから。

だが、しかし。いま我々は、何と変化する時代に生きていることだろうと、愕然(がくぜん)とすることが多い。テレビや電話のダイヤルを回さなくなったように、カメラのシャッターは触るものなんだよ。(写真家、土浦写真家協会会長)

孫との入浴に備え風呂の扉を修理 《続・平熱日記》100

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【コラム・斉藤裕之】我が家の扉は全てもらってきたものか、リサイクル屋で安く買ってきたもの。その中で、上下が大きな曇りガラスになっている木製の引き戸が2対ある。1対はアトリエの掃き出しに、それから残りの片方は子供部屋の扉に、もう片方は下のガラスを板に変えて風呂の扉として使っている。ちなみに1枚1000円だった。

その風呂の扉が引っかかっているような感じで、開け閉めにコツがいる。今まではそれほど不便に感じたことはなかったのだが、孫を風呂に入れた時にこの扉が片手で開けにくいので、修理することにした。要するに、戸車を調節するか交換すればいいのだが、いっそつり戸の方がいいのかなと思い、とっておきの扉を引っ張り出して算段し始めた。

この木製の扉は、卒業した高校のピンク色に塗られた古い建物(ピンク校舎と呼ばれていて文化部の部室だったらしいが私は入ったことはなかった)を壊す時に、縁あってもらい受けたもので、台風に追いかけられながら車の屋根に積んで山口から持ち帰った思い出の品だ。

ところが、ホームセンターに材料を買いに行って、急に面倒に思えてきた。結局、新しい戸車を買って帰った。風呂に使っていたので戸車は傷みがひどかったが、薄い板を挟み込んで高さを調節しながら戸車を変えた扉は実にスムースにレールの上を動いた。ついでに、浴室側だけペンキを塗りなおそうと思い、使いかけの鈍いみどり色の缶があったのでそれを塗った。

美しく古びていくサステイナブルな我が家

我が家の風呂は腰の高さまでブロックでできていて、その他は壁も天井もすべて杉で作ってある。ブロックの表面は船用の塗料でざっくり塗ってあって、杉は20年経ってもさほど傷んでいない。床は建築現場用の歩み板がちょうど4枚分ほどの幅で、痛んだら簡単に替えられる。そんな風呂に、このみどりの扉はしっくりとなじんだ。

でも、なんだか塗料の垂れ具合が妙だったので、老眼鏡をかけて缶をよく見てみた。「鉄部、門扉用油性塗料、カントリーグリーン」とあった。水性塗料と間違えて油性を塗ってしまった。いよいよ老人力を発揮か? しばらく匂いが残ったが、結果的に水には強い扉となったのでよしとした。

これで、孫を抱えたままワンハンドで扉を開けて、「でるよー!」と大声で叫ぶことができる。

先日、東京から帰ってきた次女が、「こんな家よく建てたね…」と改めてつぶやいた。いやいや、時代がやっと追いついてきたのよ。確かにきれいな「おうち」ではないが、美しく古びていくリユース、サステイナブルかつカーボンニュートラルな「我が家」は間もなく20回目の正月を迎える。そうそう、孫が転げ落ちないように、階段の手すりと2階の柵を作らなければ…。(画家)

原発再稼働めぐり 東海村議会が大変 《邑から日本を見る》102

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住宅密集地の先にある東海第2原発=村役場5階から

【コラム・先﨑千尋】「東海村議会が大変だ」。村の友人が知らせてくれた。何が大変なのかを調べてみた。

顛末(てんまつ)はこうだ。日本原電東海第2発電所の再稼働について今年3月、水戸地裁は避難計画の不備などを理由として認めない判決を出している。原発に大きく依存している村の商工会は「これは困った、東海第2が再稼働しなければ商売が成り立たない」と考えた。そして4月30日、議会に再稼働を求める請願と速やかな避難計画を村が策定するよう求める請願を出した。

文面には「村内商工業者が自立し、安心して健全な経営を維持継続させるために、東海第2の再稼働に伴う広域避難計画の策定についての議論を進めていただくよう」とある。水戸地裁の判決が避難計画策定を再稼働の条件にしているので、議会が請願を通して、村当局に早く避難計画を作るように圧力をかける狙いだと読める。

一方、原発の再稼働反対を訴える「3.11を忘れない東海村アクション」も、6月に「計画策定には慎重を期し、住民との合意が必要だ」とする請願を出している。同村では、2016年5月に避難計画の素案を公表しているが、計画の策定には至っていない。

12月17日に開かれた議会原子力問題調査特別委員会では、商工会からの請願をめぐって激しいやりとりがあった。

18日付「茨城新聞」によると、賛成する最大会派の議員からは「請願は早期に策定するか慎重に進めるべきかが論点で、同計画の中身の審査ではない」「今できる最大限の計画を作ることが事故時のリスク低減につながる。その後見直しながら実効性を高めていくべき」などの意見が出され、採決を求めた。他の議員からは「専門家や福島原発事故避難者らの話を聞くなど、さらなる調査が必要だ」「実効性のない計画を作ることは村民を不安にさせる」などの意見が出され、採決は時期尚早とした。

同委員会では議論の末に採決を行い、次回に論点を整理し、請願を採決することを多数決で決めた。来年1月の委員会で採決の見通しだ。

議会や村長だけで決めてもらっては困る

原発再稼働の条件の一つに「実効性ある避難計画の策定」ということがあり、国や茨城県知事のこれまでの説明では「具体的かつ合理的だと国の原子力防災会議で了承されること」となっている。請願に賛成する議員は「中身ではなく、形だけでいいから早く作れ」という考えのようだが、そのような計画では、原子力防災会議では通らないのではないか。それよりも、私は「東海村が不十分な避難計画でもOKした」という事実が広まることの影響を懸念する。

東海村は日本の原子力発祥の地だ。村の経済は原子力とともに歩んできた。さらに村民あっての商工会だ。もし東海第2が事故を起こせば、村はなくなり、商売もできなくなる。それなら「安全対策を万全にし、避難計画も万全なものにしてほしい」という請願にすべきではないか。この商工会の請願は、村民全体の安全ではなく、自分たちの商売のことしか考えていないようだ。

委員会では、これまでに請願の内容や避難計画の中身について議論されることはなかったという。東海第2の再稼働は、これからの村、そして私たち周辺の住民にとっても極めて大事な課題だ。東海村の議会や村長の考えだけで決めてもらっては困る。まず村民が議会の動きに強く関心を持ってもらいたい。(元瓜連町長)

里山と若者たちの活動《宍塚の里山》84

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落ち葉ブロック製作(左)とアズマネザサの伐採

【コラム・佐々木哲美】自然豊かで春夏秋冬の多様な変化を見せる里山には、若者たちの元気な姿が似合います。認定NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」では、小さな子どもから大人まで様々な世代の人たちを受け入れてきました。それは、広く宍塚の里山を知っていただかないと保全に結びつかないと考えているからです。

特に次世代を担う大学生が参加しやすいように気を配り、多くの大学から学生を受け入れてきました。地元の茨城大、筑波大、筑波学院大をはじめ、法政大のサークル、東京大のゼミ、NPO法人ドットジェピーからの大学生などです。また、宍塚里山をテーマにした卒論や論文で博士号を取得した方も多くいます。内容も自然系だけでなく、保全手法に踏み込んだ社会系、地元集落まで入り込んでの歴史系まで多種多様です。

その中でもユニークな取り組みが筑波学院大OCPです。学院大では、平成17年度から「社会力」育成を目的に「OCPプログラム」に取り組んでおり、大学と地域が連携して教育に関わる先駆的な取り組みとして、全国から注目を集めてきました。

OCP(Off Canpus Program)とは、大学のキャンパス内だけでなく、つくば市およびその近郊地域をキャンパスにして、社会力を育成するプログラムです。学生が希望する団体で30時間以上活動するもので、参加すると単位がもらえます。残念ながら、17年続いてきたOCPですが、学校の方針で今年が最後になるようです。

会の観察会や保全活動に参加

当会では、当時の門脇厚司学長と何度か意見交換をして、趣旨に賛同して毎年受け入れてきました。同大では、学生の興味や関心に応じた最適な受入れ団体との橋渡しは教職員だけでは困難とし、外部から「社会力コーデネーター」を業務委託契約で採用しました。その「社会力コーデネーター」の1人が、当時の里山さわやか隊の隊長だった野島伸三さん(故人)のおいだったことから、より付き合いが緊密になりました。

参加する学生は毎年3~5名で、会の観察会、保全活動の行事に参加して学びます。どちらかというと身体を動かし体験したいと、里山さわやか隊、田んぼさわやか隊、自然農田んぼ塾への参加が多くなりがちです。学生にとって、ノコギリ、スコップなど道具使い方など基本的なことから、様々な年齢層との交流など、刺激的だったと思います。その反面、もっと深いところでつながり合えなかったかなと反省もあります。

筑波学院大の「社会力の豊かな人間」とは、様々な人たちとよい関係を作りながら、仕事や様々な活動を通して、自分から進んで「社会の一員」としての、「市民」としての義務と責任を当たり前のこととして果たすことを喜びにし、それを生きがいに、社会の運営に参加できる人間のことです。すぐに成果は見られないでしょうが、将来は必ず成果が表れてくると信じています。(宍塚の自然と歴史の会 副理事長)

国が宇宙天気防災の議論を開始 《食う寝る宇宙》100

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【コラム・玉置晋】2017年にスタートしたコラム「食う寝る宇宙」も100回に到達しました。開始時に「宇宙天気防災研究者」という肩書をいただいたものの、宇宙天気は研究の世界のもので、防災という現実世界に出るのはもう少し時間がかかるかなと考えていました。

あれから4年。2021年12月20日に総務省から「宇宙天気予報の高度化の在り方に関する検討会」を発足させるとの発表がありました。これは、宇宙天気予報について、分野横断的に国の観測・分析能力や対処の在り方を検討するというものです。

本コラムの執筆中に、僕は宇宙ビジネスサロン「ABLab」で宇宙天気プロジェクトを立ち上げました。そして、組織にはカリスマリーダーが必要と考え、テレビで気象キャスタを務める気象予報士の斉田季実治さんを、プロジェクトマネージャにお迎えしました。その斉田さんが検討会のメンバーに選ばれました。国として宇宙天気防災に立ち向かう機が熟したといえます。

本コラムは今回が最終回となります。2025年の太陽活動サイクル極大に向けて、すでに準備は始めています。僕はこれから大学院で博士の学位を取りに行きます。そして、本格的に宇宙天気防災に取り組んでいきたいと思います。学位をとったら、また戻ってきますね。

過去20回のタイトル一覧

100宇宙天気防災を国で議論開始 99~97太陽フレアの情報 96宇宙天気防災戦略 95宇宙で髪を切る 94宇宙天気キャスタ 93宇宙天気を朝ドラに出すぞ 92地球温暖化が宇宙ゴミを増やす 91国際宇宙ステーションから放たれた謎の物体

90理科の自由研究をどうしよう 89未確認飛行物体と遭遇 88「大気の窓」と3ミリの宇宙服 87宇宙の物質は弱虫とマッチョ 86宇宙の最前線に迷い込むハチ 85トランポリンで宇宙へ 84宇宙が観光地へ 83桜の開花と宇宙天気キャスタ 82「知識」と「知恵」の違い 81衛星のクリーンルームに住みたい 80火星探査「魔の7分間」

1~79を含めこれまでのコラムは、トップ画面の最上部にある「コラム」をクリックして「コラム一覧」に入り、さらに「玉置晋」をクリックすると、全てただで読むことができます。「NEWSつくば」って便利だな~。(宇宙天気防災研究者)

ブラタモリで紹介された地質標本館《遊民通信》31

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地質標本館の立体地質図

【コラム・田口哲郎】

前略

つくば市東に産業技術総合研究所(産総研)があり、その敷地内に地質標本館があります。先日、NHKでブラタモリの「つくば」編が放映され、国土地理院とともに紹介されていました。地質標本館は産総研・地質調査総合センターの中の一組織です。1882(明治15)年に設立された、初の国立研究所である地質調査所を前身としています。地質にかかわる研究を行い、地質図を作成し、国民の利用に供することが使命だそうです。

ブラタモリでは、ボーリング調査(長い筒で地面を掘り地盤を調べる)で筒の中に残るコア資料の収蔵庫、地質資料調整グループなどが紹介されていました。地質資料調整グループには岩石を30ミクロンという厚さの薄片にまで削る技術があり、これであのゴツゴツした岩石の成分を顕微鏡で見ることができるようになります。

地質標本館の使命は日本の地下の地質を調べること。全国各地から採取された岩石の成分を調べられることは、発信する地質情報の証拠を取ることになります。薄片を作るという地道な作業は、標本館、ひいては産総研の研究を支える中核事業なんですね。

地質の研究者が全国の山や谷を、道なき道を分け入り、苦労して採取してきた岩石を、高度な技術で薄くして、調べて地質図にする。その成果が立体地質図として展示されています。日本列島の立体模型にプロジェクションマッピングで、様々な地質情報を映します。これは圧巻ですし、一見に値すると思います。

博物館は収集好きのあこがれ

さて、ブラタモリでは紹介されていませんでしたが、私が心ひかれた展示は岩石・鉱物・化石の分類展示です。美しく珍しい石から、火山活動でできた灰色の岩、そして古代生物の化石がずらりと並べられています。

パワーストーンでおなじみの水晶やアメジストなどの大きな原石や、私たちが住む大地をつくり上げている岩石があり、アンモナイトやナウマンゾウの歯の化石があります。あらゆる石には標本館が保証するプロフィールがきちんとつけられているのです。たくさんの石に囲まれて、私はなんともいえない幸福感に包まれました。

博物館の第一の役目は資料の収集と保存です。最近、博物館は魅力的な企画展、イベントでしっかりアピールして、来館者数を増やすことが求められているそうです。来館者にとっては楽しみが増えて学べるのでよいと思います。でも、モノを集めてめでるというオーソドックスな使命もやはり博物館の醍醐味(だいごみ)だと思うのです。

私は文学研究をしていますが、本を集めるのが好きです。読み切れない本が部屋に積み上がり、机は本に埋もれそうです。読書よりも買書だねとからかわれます。でも、好きなものに囲まれる幸せは何にもかえがたいです。断捨離(だんしゃり)もよいですが、モノにあふれた空間が妙に落ち着く人間もいます。博物館はそういう意味で収集家の憧れの場所でもあります。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

人口減の土浦に夢と元気は如何にして《土着通信部》48

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暮色の土浦市

【コラム・相澤冬樹】土浦市の「広報つちうら」12月15日号は、かすみがうらマラソン兼国際ブラインドマラソンの来年4月17日開催決定について、フロントページで大々的に報じていた。NEWSつくばには記事がなかったなあ、などと思いながら、ページをめくっていると、「パブリックコメントを実施します」とある一覧表に目が留まった。

3本の計画案について、市民(市内在住・在勤・在学者)の意見も求めるものだが、2本目に「第9次土浦市総合計画について」(案)があがっていて、これは見逃しちゃいけないと思った。総合計画は将来のまちづくりの指針で、22年度から5年間の市政運営の基本方針となる。表には担当は政策企画課、コメントの提出期限は16日から1月12日までとあったが、情報はそれだけともいえ、マラソンの参加者募集に比べたら素っ気ない。

実は、同課には約ひと月前、メールによる問い合わせをしたばかりだ。2020年に行われた国勢調査の結果概要が11月30日に公表され、同市の人口は14万2074人で、前回調査(2015年)から1270人(0.9%)の増加に転じていたのが気になった。増加理由の分析と「下げ止まったと見られるか」を質問した。

回答は、増加傾向に転じた要因として「外国人の技能実習生や留学生等の増加、土浦駅周辺への転入者の増加、土浦協同病院の移転に伴う、おおつ野地区における医療従事者や看護学生等の転入者の増加、宅地造成が市内の複数箇所で進み、分譲が開始されたことによる転入者の増加、老人福祉施設が増設されたことによる入居者の増加」などをあげた。

しかし、「常住人口は、2000年をピークに減少に転じており、住民基本台帳人口においても緩やかな減少が続いていることから、今回の国勢調査の結果をもって、少子高齢化の進行による人口減少に歯止めがかかったとは受け止めておりません」との回答だった。なるほど、市の常住人口は12月1日現在13万7802人、すでに14万人を割り込んでいる。

パブコメ募集中 年を越す課題

で、総合計画である。人口の見通しこそは、計画の根幹をなす。パブコメ向けに市のホームページにアップされている「計画(案)」をのぞくと、人口動態を事細かに分析している統計データを見ることができる。それらから、総合計画の将来目標人口(2031年)は12万8000人とはじき出されていた。

第9次総合計画は「夢のある、元気のある土浦」を将来像に掲げる。しかし、右肩上がりの人口増を見込めないなかで、地域経済やコミュニティー活動に夢や元気が易々と出現するわけもない。実際「人口の社会移動の推移をみると、特に、20歳代後半から30歳代といった若い世代において転出超過の傾向が顕著な状況が継続」しているのが現状といえる。

計画(案)を読み進めていくと、人口の量的拡大が難しいなかで、質的な拡張を意図していることがうかがえる。市外からの来訪者である「交流人口」、さらに地域や地域の人々と多様に関わる「関係人口」を拡大させる必要がある-と説いたりしている。マラソン大会の人集めは大事なのだ。

計画(案)は4つのリーディングプロジェクトを示し、数字をあげて成果指標を示し、具体的な取り組みを書き込んでいる。ただし、読みこなすにはマラソンランナー並みの持久力がいりそうだ。そのうえで、12日までにパブコメ提出するとなると、正月休みはほぼ返上だ。若年人口には取り組めそうにない、年を越す課題である。(ブロガー)

総合運動公園問題 つくば市政の重荷《吾妻カガミ》122

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つくば市役所正面玄関サイド

【コラム・坂本栄】今年もいろいろなことを取り上げてきました。最終回はつくば市の総合運動公園用地跡処理問題を話題にします。五十嵐さんを市長に押し上げる強力なテコになった運動公園問題。今では五十嵐市政迷走のシンボルになっています。因果な話です。

用途限定・一括・民間売却

市長5年目の五十嵐さん、このほど用地跡処理の最終案(?)をまとめました、市民の反応を踏まえ、この案に沿った形で「GO !」を出したいようです。その概要と意見聴取の手続きについては、記事「…運動公園用地を一括民間売却へ … 防災拠点は大幅縮小」(11月11日掲載)、同「売却の目安は68億5000万円…」(12月1日掲載)をご覧ください。

ポイントは、事業提案による土地の利用を「工業団地」「物流倉庫」など4分野に絞り、民間にまとめて売却し、敷地内に防災倉庫と防災広場をつくってもらい、それを市が借り上げる―というものです。入札に際しては、用地取得額+借入金利息=68.5億円を念頭に置いてほしいと言っています。

この処理案については様々な声が聞こえてきます。市が保有し続けてスポーツ施設などに活用すべきだ、学園都市らしく研究機関用に残すべきだ―など民間売却に反対する意見。工業団地や物流倉庫は周囲の雰囲気になじまない―など利用形態への異議。市は売り払って財政難対策の足しにしたいと言っているが本当か―など売却の理屈に対する疑問。

反対、異議、疑問はありますが、この「用途限定・一括・民間売却+賃借防災倉庫」案は五十嵐さんの勝負玉と言えるでしょう。

「成功」に潜む「不調」のタネ

五十嵐さんは運動公園問題を上手に利用しました。前市長が立てた計画(UR都市再生機構から買った土地に陸上競技場+総合体育館+サッカー・ラグビー場を整備)に反対する市民運動を盛り上げ、住民投票で計画を葬ったこと。そして、「運動公園問題の完全解決」を目玉公約に掲げ、市長選挙で勝利したこと。大成功です。

ところが、市長就任後は問題解決に苦労しています。主公約の柱「用地返還交渉」は不調に。その後「民間売却」案を示したものの、価格面で市民に反対され頓挫(とんざ)。代わりにまとめた「3分の1・市有防災施設+3分の2・民間売却」も引っ込め、現案を公表。大不調・迷走です。どうしてこんなことになったのでしょうか?

成功の中に不調・迷走のタネが潜んでいたからです。前市長の運動公園計画を撤回に追い込んだことで、自前の計画に陸上競技場などを組み込むのが政治的に難しくなりました。結果、用地利用の選択肢が狭められ、民間売却案の周りをグルグル回っています。成功の高揚感からか、「用地返還」を主公約にしたものの、売買契約上無理とわかり、対UR交渉は失敗に終わりました。結果、公約の信頼性が失われました。(経済ジャーナリスト)

<参考> 総合運動公園用地問題・市民説明会(12月10日、同12日)全記録

相手を理解するとは?《続・気軽にSOS》99

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【コラム・浅井和幸】「相手を理解する」とは優しく思いやりを持って接することですから、敵や嫌いな相手は理解なんてしたくないものですよね。当たり前のことのようですが、それは必ずしも正しいことではないようです。

理解するという言葉には、「正しく分かる」という意味と「思いやる」という意味があります。「敵を知り、己を知れば、百戦してあやうからず」という孫子の言葉があります。孫子とは中国の春秋時代の武将です。当時の戦争で、相手に負けない方法としての教えであり、現代においてビジネスの場で好まれている考え方です。

この「知る」は、「理解する」と言葉を変えてもよいでしょう。命も取られかねない戦争の相手に、思いやりを持って対応しようということではありません。敵にやさしく接していこうという教えではありません。相手の性質を正確に知ることにより、さらに自分の性質を正確に知ることにより、負ける危険がないということです。

友人Aと私の会話

A「嫌な上司がいて困っているんだ。何とかうまい対応の仕方はないかな?」

浅井「どんな上司なの?」

A「自分では新しいアイデアを出せないくせに、人が出した案に対して、重要じゃない小さな部分をネチネチと指摘してくるんだよ」

浅井「それは嫌だねぇ」

A「そうだろ? なんで、あんなつまらない指摘をするんだろうね?」

浅井「ま、物事の優先順位が分からないからだろうね。分からないなりに、良くしようとか、指摘できるところを見せて、自分をよく見せようとしてるんじゃないかな」

A「いやいや、そんな生易しいものじゃなくて、本当に嫌な奴なんだよ」

浅井「そうなんだ」

A「だって、機嫌が悪いときは、怒鳴ったりするやつなんだよ。いい大人が、どうして怒鳴ったりするんだろうか?」

浅井「きっと、キャパシティが小さくて、何か別でもストレスがあるんだろうね。もしかしたら、その上司も別の人から怒鳴られているかもね」

A「は? なんで浅井は、そんなつまらない上司をかばうんだ? 俺の方が悪者だと言いたいのか?」

浅井「いやいや、かばってないし、そもそも善悪の判断をしようとは思っていないよ。むしろ、今の嫌な状況を変えるためには、その上司の性質を理解した方が対応しやすいと思うよ」

A「ふざけるな。そんな上司に対応する必要もないし、悪い奴を理解する必要なんてない。そんな上司の肩を持つような奴とは話しているだけ無駄だ」

自分は悪くない、相手が悪い

問題を解決するときは、嫌な相手を理解し、自分の見たくない部分も理解することは大切なことだと思います。ま、この会話は、問題解決をするという共通認識がないままに進んだ会話であって、問題解決する前に、悪者が誰で善人が誰で、敵が誰か、味方が誰かをはっきりさせることが必要だということになります。

日常では、「問題解決」よりも、「自分は悪くない、相手が悪い」と同感する方が何倍も重要であるという場面は多いものです。(精神保健福祉士)

大好きな霞ケ浦のあれこれ① 《夢実行人》3

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霞ケ浦の日の出

【コラム・秋元昭臣】霞ケ浦は茨城県南東部に位置し、その先端が利根川に流れ込む、日本第2の面積の淡水湖です。西に土浦・高浜を持つ「西浦」、北に鉾田を持つ「北浦」、それに「常陸利根川」などを併せた総称ですが、一般的には「西浦」を霞ケ浦と呼んでいます。

その管理は、利根川の一部として「国交省関東地方整備局霞ケ浦河川事務所」が行っています。日本1の琵琶湖は国交大臣の委託を受けて滋賀県知事が管理しています。

昔は東京湾の一部で、「流れ海」と言われた時代もあります。海からの塩害防止の「河口堰(かこうぜき)」ができるまでは、汽水湖でした。銚子とは3時間遅れで潮の満ち干の影響があり、シジミや海の魚も獲れました。

そのころは水質もきれいで、湖岸には砂浜や13カ所の「湖水浴場」あり、学校の授業でも使われていました。小魚が泳ぐ姿を見て、子供ながら工夫して釣りを楽しんだものです。大きな黒いタンカイ(淡水域にすむ中型の貝)を足でほじくって遊びましたが、この貝が「貝ボタン」になっていたとは知りませんでした。

湖の干拓:霞ケ浦10%、八郎潟80

昔、霞ケ浦の広さは2位ではなく3位でした。では、2位はどこだったのでしょう。秋田県の八郎潟です。しかし、1956年から1977年にかけ、その80%が干拓事業によって農地になり、現在は18位です。

戦後の食料不足を補う干拓で、霞ケ浦唯一の島だった「浮島」も、本新島干拓(1942~1956年)によって陸につながりました。このように、10%もの水面が干拓されて農地になったものの、霞ケ浦の現在の広さは2位です。ちなみに、3位は北海道のサロマ湖、4位は福島県の猪苗代湖です。

霞ケ浦の流域人口と面積は、茨城県の約3分の1を占めています。琵琶湖の流域面積は滋賀県の79%、流域人口は12%です。

アオコが猛威を振るって湖面が緑色になり、腐敗臭が出たのは1974年ごろで、50年も前になります。最近10年の水質の指標「透明度」(30センチの白い円盤を沈めて見えなくなる深さ)は 50~90センチと、泳げたころの100~150センチには届きませんが、湖心では100センチも珍しくなくなっています。

今欲しいのが砂浜です。国交省では「里浜」造りを進めていますので、霞ケ浦が昔に戻りつつあることはうれしいことです。(元ラクスマリーナ専務)

薬の品切れにふりまわされて《くずかごの唄》99

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イラストは筆者

【コラム・奧井登美子】来年はトラ年。薬剤師は薬のトラブルを絶対起こしてはいけない職業である。半年前から、どういうわけか、コロナ禍の中で薬の原料の輸入品がストップしてしまったらしい。処方箋調剤薬局は、薬の品切れに悩まされている。60年間、経験しなかったことである。

「すみません。薬の中でビソプロロ―ル・フマル酸塩錠が、今、品切れなのです」
「えっ品切れ、冗談じゃないよ。心臓の薬で、狭心症を予防する薬だから、キチンと飲むように医者から言われている大事な薬だよ」
「ごめんなさい。明日の朝、飲む分はありますか?」
「ないよ」

探してみれば家にあるのに、こういう時、心配で、必ず「ない」と答える人が多い。

「困ったわね。今日中に、何とか手に入れて、お宅までお届けするしかない」
「必ず届けてくれ。なかったら、別の薬局へ行ってみるしかない」
「メーカーが品切れなので、よその薬局も厳しいと思います」
「じあ、どうすればいいんだ」

私が、客を怒らせないように、気を使いながら話をしている間、事務員さんが必死になって知り合いに電話して在庫を探っている。

「ハイ、よかった。ありました。うちのもう1軒の薬局にありました。お届けします。メーカーは違ってしまっても、成分は今までの物と変わりありません。安心してお飲みください」

とんでもない、考えられなかった事態

薬の卸業者、何軒かの取引先に電話してもないとなると、同業者に頼んで分けてもらうしかない。電話して、頭下げて、分けてもらい、取りに行って、患者さんの家にお届けする。

コロナ禍で、不足薬品の調達という、とんでもない、考えられなかった仕事が、処方箋調剤薬局に降りかかっている。(随筆家、薬剤師)

誰も自分と同じ経験をしないために 《電動車いすから見た景色》25

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【コラム・川端舞】今年は怒涛の1年だった。4月に本サイトで重度障害のあるライターとして取り上げられたのをきっかけに、他メディアからも取材を受けた。しかし私にとって一番大きかったのは、中学時代の出来事を複数のメディアに語ったことだ。

小中学校時代、介助員から支援を受けながら普通学校に通った私は、一時期、介助員との関係がうまくいかないことがあった。その時のことを公に話すと、当時の介助員を批判してしまうことになるため、ずっと話さないでいようと思っていた。

しかし、自分の経験を公表することで、現在、普通学校で介助員から支援を受けている障害児が自分と同じような経験をすることを防げるかもしれない。ずっと心の片隅でそう思っていた私は、今年、複数のメディアから中学時代の介助員との出来事を話す機会をいただき、自分の経験が普通学校で学ぶ障害児の役に立てばと願いながら、メディアで当時のことを話す決意をした。

私は中学時代の介助員を責めるつもりは全くない。当時、私が介助員との関係で悩んでいたといことは、介助員も同様に私との関係で悩んでいたということだろう。

関係がこじれた時、私と介助員双方の話を聞いてくれ、すれ違いを一緒に解決しようとしてくれる大人が近くにいれば、問題が複雑にならないうちに、関係を修復できたかもしれない。障害児の支援を介助員1人だけに任せ、他の教職員は支援に関与しないという状態では、何か問題が起きた時に過度に障害児や介助員を苦しめることになりかねない。

他の障害児者と出会う機会

障害児が必要な支援を受けながら、健常児と同じ学校に通うことは、大人になってから障害者と健常者が共に生きていくためにも大切なことだ。同時に、障害児が普通学校に通っていても、地域に住む他の障害児者と出会い、周囲からどのように支援を受ければいいのかなど、自分と同じような障害のある人に相談できる環境も必要なのかもしれない。

私は高校時代まで自分のような障害者に会ったことがなかった。中学時代、介助員との関係を他の障害者に相談できていたら、解決方法を見つけられたかもしれない。

内閣府によると、令和元年現在、日本の障害者は人口の7.6パーセントを占める。1つの学校に障害児が数人しか通っていないこと自体、不自然なことなのだ。(障害当事者)

アリーズ フレンド カフェ&レストラン《ご飯は地球を救う》42

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【コラム・川浪せつ子】水彩画を描くのに必要な画材を、JR常磐線荒川沖駅近くのホームセンター「ジョイフル本田」(土浦市中村南)によく買いに行きます。ネットでも買える時代ですが、見てから買いたい、新しい画材などの情報を得たい、と。

ホームセンターは、植物販売や併設スーパーも魅力的です。そして、気になっていたのはケバブ(中東料理)のお店「アリーズ フレンド カフェ&レストラン」。TXつくば駅上の広場で見るあの黄色い車のお店。そこで1回買っておいしかったのが、忘れられなくて。

そこで、入るチャンスを狙っていました。ラミネート加工をしなくては…の時、出来上がるまでの待ち時間でまずはお茶を。チョコレートのお菓子、美味でした。

1年ぶりの友人とお互い近況報告

次回こそケバブと、荒川沖駅近くに事務所がある建築士の友人を誘ってランチ。彼女と会うのは1年ぶりでした。建築士会の活動で以前はたびたび会っていたのですが、コロナ禍で、勉強会のほか見学会までリモート。なんか寂しい、悲しい。

1年ぶりの友人と、お互い近況報告。彼女、そして家族のうれしいサプライズを聞いて、感動。やはり、直接会って話すのって重要ですね。もちろんケバブ、いけてました~♪

ホームセンターの植物コーナーには、たくさんのクリスマスグッズが販売されていました。雪の上に置かれているような雰囲気で。皆さま、良いお年をお迎えくださいね。(イラストレーター)

お代は「鳩サブレー」で! 《続・平熱日記》99

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【コラム・斉藤裕之】2人の娘も家を出たし、コロナ禍のステイホーム期間に不要なものを処分して、家の中は大分すっきりした。食べるものも着るものも、普段通りのもので充分だ。カミさんも特にぜいたくを言うことはなく、強いて言えば、たまに甘いものを食べるくらいのことだ。

例えば、寒くなるとホームセンターに出店する大判焼きの店。クリームの入ったやつがお気に入り。それから、しばらく前から盛んに「鳩サブレー」が食べたいと言うのだが、ここら辺りでは売っていない。似たようなお菓子ならあると思うのだが、「鳩サブレー」でなければ嫌だという。

さて、平熱日記展も友人知人がぽつりぽつりと足を運んでくれて、無事に終えることができた。その中にある同級生がギャラリーを訪ねてきてくれた。

今思えば、私の通った大学には後に頭角を現す才能豊かなやからがうろうろしていて、この男も当時からオーラを放っていた1人だ。今も、越後妻有(えちごつまり)のトリエンナーレをはじめ、野外を舞台に作家として実にエネルギッシュに活動しているのだが、男気のあるロマンチストで人望も厚い。

そんな彼がわざわざ私のちっぽけな作品を見に来てくれるのには、正直ちと気が引けたが、今年でギャラリーが閉まることもあり、遠路はるばるやって来るという。

母校「大浦食堂」の「扉」

ところが、現れた彼の手には白いギブスが。にぎわうカフェでパスタをほおばりながら、彼は近況を報告。90を超えたご両親の面倒をみていること。これから高校に入る息子さんのこと。道の真ん中に立っていた標識に単車で突っ込んで骨折したこと。次の作品に意欲を燃やしていること。大変なことも楽しいことも淡々と語る彼。話を聞くうちに、痛々しいはずのギブス姿がなぜかたくましく思えてくる。

そんな彼がこのエッセイを毎回楽しみしているという。また私の作品に興味を持ってくれたのがうれしかった。中でも「扉」という作品が気に入ったと言う。それは我が家の玄関の扉を描いた絵なのだが、30年近く前に美術館建設のために取り壊された母校・東京芸大の「大浦食堂」の扉をもらい受けて、我が家に取り付けたものだ。

その後も美術館内で営業を続けていた大浦食堂は学生や教官に愛されていたのだが、多分コロナ禍の影響もあったのだろう、今年、その長い歴史に幕を下ろした。豆腐のバター炒め丼、通称バタ丼という名物があって、彼はいよいよ営業が終了すると聞いてわざわざ食べに行ったらしい(私達夫婦の結婚パーティーもここで開いた)。そんな思いを募らせながら、彼はこの絵を見ていたのだろう。

「おやじたちの晩飯作りに帰らなきゃ!」と言って、名残惜しそうに彼は家路についた。後日、「扉」の作品を彼に送ってやった。宛先の住所は鎌倉。実は彼は生粋の鎌倉人。「お代は鳩サブレーで!」という手紙を添えた。(画家)

私の「生き字引」竹内さん逝く 《邑から日本を見る》101

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竹内さんの著作の一部

【コラム・先﨑千尋】図書館学の泰斗、竹内悊(さとる)さんが10月に93歳で亡くなったという知らせが届いた。私の生き字引。それこそ「困った時の竹内さん」だった。

竹内さんは米国のフロリダ州立図書館学大学院やピッツバーグ大学図書館情報学大学院で学び、1987年につくば市の図書館情報大学(現筑波大学)副学長に就任した。古今東西の図書館に関する情報に精通し、2001年から2005年まで日本図書館協会理事長を務めた。

図書館に関する著作も『図書館のめざすもの』(編・訳、日本図書館協会)、『図書館のこと、保存のこと』(共著、けやき出版)などがあり、一昨年にはその集大成として『生きるための図書館』(岩波新書)を出版した。

私が瓜連町長の時、小学校を木造で建て替えたが、その際に図書室を理想の姿にしたいと考え、谷貝忍水海道市立図書館長(当時)、寺田章阿見町立図書館長(同)らと一緒に、竹内さんにも相談に乗ってもらった。もう30年も前のことだ。それ以来、竹内さんから、図書館とは何か、図書館をどう活用すればいいのかなどを教えてもらった。

それまでの私は、本は買うもの、資料は集めるものと考え、図書館の利用は、新聞雑誌を見たり小説を借りたりする程度だった。

しかし、自分で郷土茨城の人や事績を書くには図書館を使わざるを得ない。『ほしいも百年百話』『前島平と七人組』(いずれも茨城新聞社)を書くために、ひたちなか市や常陸太田市の図書館に行ったが、それこそ何もない。静岡県内の図書館や鹿児島県枕崎市、函館市の図書館から多くの情報を得た。

「本は人の感覚と思考と行動の記録」

大部分の郷土資料を閉架にして利用者に見せない水戸市立中央図書館とのバトルの時には、竹内さんに「これからの図書館はどうあるべきか、図書館にとって最も大事な仕事はレファレンス」などのことを教えてもらった。その時、幕末から明治にかけて『大日本史』編さんなどに関わった栗田寛の残した麗澤館文庫は現在どうなっているのか、という宿題をいただいた。

県立歴史館、茨城大学図書館、水戸市立図書館などで調べてもらったが、分からずじまい。結局、那珂市立図書館員から「戦前の火事で焼失した」と連絡があり、一件落着した。

わが家にある戦前の右翼の思想家権藤成卿(ごんどう・せいきょう)の扁額の文字と意味がずっと分からなかった。水戸学の大家などに聞いたが、最後は竹内さん。一発で内容が分かった。竹内さんは中国の古典にまで通じていた。

若いころ、図書館は水戸市にしかなかった。しかし今では、どこの市町村にもある身近な存在だ。自分で必要な本をすべて買う経済的余裕はないし、またその必要もない。近くの図書館を利用、活用する。国立国会図書館の文献も地元の図書館で見られるし、コピーもできる。他の市町村の図書も地元の図書館で借りられる。分からないことは調べてもらえる。インターネットで問い合わせもできる。

竹内さんは、最後の著書に添えて「図書館とは人が生きる上で一体なんなのだろうと考え続けてきた結果、本は、人の感覚と思考と行動の記録。人が生きていく上で大きな働きを持つ。多彩な本と人の多様な要求をつなぐために図書館があると考えるようになった」と私に書き送ってくれた。

竹内さんは私に「これからは人に頼るな。自分で道を切り拓(ひら)け」と呼びかけている気がする。「ありがとうございました。そしてさようなら」。竹内さんへの最後の手紙になる。(元瓜連町長)

太陽フレアの情報③ 《食う寝る宇宙》99

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【コラム・玉置晋】10月29日発生した大規模太陽フレアに関する情報は、SNS上でちょっとした騒ぎになり、夕方のテレビニュースでも放映されました。この太陽フレアにより発せられたガスの塊「コロナ質量放出(CME)」は地球の南方を通過し、地球周辺に影響はほとんどありませんでした。しかし、そのころ、太陽では新たな太陽フレアが発生しました。[以下時間表記はUT(世界時)]

2発の太陽フレアはそれぞれ地球方向にCMEを放っていました。11月1日10時58分:中規模太陽フレア発生。11月2日10時52分:中規模太陽フレア発生。日欧米の研究機関も、数日後に強い磁気嵐が発生するとの予報を出していました。地球から150万キロの距離にある監視衛星がCMEの到来を検知したのは、11月4日4時半ごろです。

一般的には、大きな速度のCMEが南向き磁場をもってと到来すると、大きな磁気嵐を引き起す傾向にあります。3日未満での到来は予報よりも早く、速度の異なる2発のCMEは地球に向かう過程で玉突き事故を起こしたために、早い到来となった可能性があります。

この件については、研究サイドの成果を待っているところです。そして、11月4日6時ごろから11月5日0時ごろにかけて、強い磁気嵐が発生しました。2015年3月にも似たようなイベントがあって、大きな磁気嵐を発生させたことがありました。だから、複数のCMEが発生した場合は注意が必要なのです。

宇宙天気情報の拡散は報道に依存

一撃目の太陽フレアの影響がほとんどなかったことから、人々の関心は薄れてしまったのか、新たな2発の太陽フレアの話題は、日本語の報道、SNS上ではほとんどありませんでした。そして、磁気嵐が強まったのが、日本では昼間であったこともポイントです。

そのころ欧米は夜。普段はオーロラが見えない地域でも、オーロラが見えたという話題が英語圏のSNSに出ていました。北海道と地理緯度が同じ米国カリフォルニア州サクラメントからも、赤色のオーロラがみえたそうです。今回は社会インフラへの影響は聞こえてきませんでしたが、過去の例からみると、あと一段階上のレベルになると、影響の兆候が見えはじめます。

この場合、オーロラが出た時点で社会インフラには影響が出てきていますので、現状の宇宙天気情報の扱いはちょっと危ういなと感じています。

今回の太陽フレアで分かったことは、情報の伝達は現象の社会に与える大きさ・リスクではなく、情報発信力の大きな報道担当者に依存していることが分かりました。一撃目の太陽フレアでは大手メディアがネット上で記事を発信したことで、SNS上に一気に情報が拡散しました。

このことから、宇宙天気情報を適切に社会に発信するためには、報道機関の中に宇宙天気に精通した人材が増えることが重要だと思いました。(宇宙天気防災研究者)

「3密族」のシンボル利用 《映画探偵団》50

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【コラム・冠木新市】つくばセンタービルができる3年前、日露戦争を描いた3時間の大作、東映『二百三高地』(1980)が公開された。当時は戦争を美化する作品との批判もあったが、今では反戦映画の名作との評価が定まっている。

『二百三高地』の丹波哲郎

幾つもの名場面がある作品だが、料亭の一室で伊藤博文(森繁久彌)と児玉源太郎(丹波哲郎)が、勝ち目のないロシアとの開戦を決めるシーンが印象深い。というのも、私はこの場面の撮影を間近で見ていたからだ。撮影終了後、緊張感から解放された丹波さんが、「飯だ、飯だ」とセットから勢いよく出て行った姿を記憶している。つくばセンタービル改造問題に関わって1年半。なぜか、時折このシーンを思い出す。

現在「つくばセンタービル謎解きツアー」を開催中だ。参加者は、11月3日10人、同13日8人、同23日23人、12月4日5人―だった。12日は8人の予約がある。子どもも何人か参加し、どこが面白いのか、また来たいと言っている。建築専門家でない私は、いろいろな資料を再確認しながら、ツアーの準備をしている。

センタービル関係の資料は少ない。主なものは、「建築のパフォーマンス」(1985)、「磯崎新のディテール」(1986)、「現代思想 磯崎新」(2020)などだ。目を通した中では、「磯崎新の『都庁』」(2008)がとても参考になった。

センタービル完成後の1985年、都庁コンペの過程を記録したもので、建築界の大御所・丹下健三に、弱小組織・磯崎新チームが挑戦する話だ。当時の磯崎とスタッフの様子が手に取るように分かる。磯崎はアイデアをスタッフに投げ、その理由を説明せず、読み解かせる。謎解きを要求するわけだ。センタービルのことも想像でき、面白かった。

賞賛、賞賛、賞賛、内密、秘密、隠密

ツアーでは、これまで見過してきた発見がいろいろあった。午後になると、2階階段付近に飾られた月桂樹の彫刻が、反対側1階の壁にシルエットになって幻想的に映る。壁がスクリーン機能となっていたのだ。

また、ボランティアの方の清掃活動で、水路の稲田石の黒い模様がよみがえり、階段からエスカレータで壊される予定だった壁にまでつながっていたことも分かった。黒い模様の石の配置がパズルのように組み合わせられている。

広場に屋根やエスカレータを取り付けたり、階段を削って車を進入しやすくしたり、外壁を壊して窓ガラスにしたり、テントを張るためにタープをつける穴を開けようとしたり―。この1年半、こういったことを計画した人の心理が理解できなかった。けれども、その謎もだんだん解けてきた。

つくばには、何もない広場を3密(密集、密接、密閉)化しようと考えている「3密族」がいるのだ。にぎわいを作り出そうとしているのなら分かる。だがそうではない。3密族には、センター地区の意匠もプリツカー賞も眼中にない。ただただ、人が集まり、その人たちから賞賛を浴びたいだけなのだ。

賞賛、賞賛、賞賛…。しかも改修の進め方は、内密、秘密、隠密…。つくばのシンボルであるセンタービルはそのために利用されている。3密族の闇は深い。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)

<新春つくばセンタービル謎解きツアー>
▽内容:隠された建築の謎を解きながらビルを回る
▽日時:第6回=1 月16日(日) 、第7回=同30日(日)、13時から約1時間
▽定員:10人(小中高生大歓迎)、参加費無料
▽予約:090-5579-5726 (冠木)

歴史と伝統の水戸駅《茨城鉄道物語》18

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水戸駅

【コラム・塚本一也】県内の鉄道路線巡りは全て終了したので、今回から駅舎について少し語ってみようかと思います。その初回は、何と言っても水戸駅を取り上げなければならないでしょう。

常磐線水戸駅は1889年(明治22年)1月に開業しました。歴代の水戸駅の写真がJR水戸駅の駅長室に飾られているのですが、開業当時の写真を見ると、水戸駅南口のすぐ前には千波湖の湖畔が迫っているのがわかります。つまり、現在の水戸駅南口は、ほぼ千波湖だったのです。

明治22年の初代水戸駅の写真

私は1996年から98年までJR水戸支社に勤務しており、水戸駅周辺の工事に携わっておりました。当時、南口はまだ開発途中であり、造成工事の最中だったのですが、そこかしこから地下水が湧き出ていました。

また、当時私が担当していた工事で、水戸駅北口の東京方面に駅ビルを増築するプロジェクトがありました。腐葉土のような軟弱地盤を相手に、地盤改良工事に悪戦苦闘した思い出があります。入社5年目でまだ駆け出しの私にとって、様々なアクシデントを乗り越えた試練の現場でした。

「おもてなしの心」を感じる駅

そんな水戸駅ですが、1985年のつくば科学万博を機に橋上化し、「EXCEL(エクセル)」という名称で駅ビルもオープンしました。現在でも、水戸線を含めたJR線が3路線と私鉄では鹿島臨海鉄道線が乗り入れており、地方都市のターミナル駅を形成しています。また乗降客数も県内最多であり、JRだけでなく県内全ての路線と比較しても、その格付けはNO.1の駅です。

私の知人でつくば市を訪れた県外の方が、次に水戸市を訪れた時に、「つくば市にはない雰囲気だ」と、感想を述べられたことがあります。

水戸市にあるものとは何でしょうか? やはり「歴史と伝統」の香りではないでしょうか。水戸芸術館や県民文化センター、また建設中の市民会館などもそうですが、文化を発信しようという意気込みが感じられます。

鉄道駅舎も同様であり、茨城県を訪れたお客様をお迎えする「おもてなしの心」を水戸駅に感じます。ただ単に旅客をさばくだけでなく、にぎわいを創出したり県産品を販売したり、そういった気遣いは他の駅にはありません。これからも県都の顔として、その存在感を示してもらいたいと思います。(一級建築士)

「マー姉ちゃん」再放送に思う 《遊民通信》30

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【コラム・田口哲郎】

前略

連続テレビ小説「マー姉ちゃん」の再放送が始まりました。昭和54年4月2日から9月29日に初放送されましたから、42年前のドラマです。原作は「サザエさん」の作者として知られる長谷川町子さんの自伝「サザエさんうちあけ話」。長谷川町子さんの半生を姉である長谷川毬子さん(マー姉ちゃん)に焦点を当ててドラマ化したものです。波瀾(はらん)万丈の人生を明るく生き抜く姿に励まされます。

「うちあけ話」は愛読書のひとつです。中学生の時から繰り返して読んでいます。もちろん、「サザエさん」「意地悪ばあさん」など漫画の方も読み込んでいます。「サザエさん」は4コマ漫画ですが、1コマ目を見せてもらえば、2コマ以降が思い浮かびます。

かつて、東京サザエさん学会なる団体がサザエさん研究を行い、『磯野家の謎-「サザエさん」に隠された69の驚き』が出版され、1993年のベストセラーになりました。当然読んで、漫画が研究できるんだ!と感動したのを覚えています。

よく読んでいる「サザエさん」

さて、その東京サザエさん学会の代表を、当時慶應義塾大学の教授・岩松研吉郎先生が務められていました。私が1度目の大学院生の時、とある教授の退官祝賀パーティーで、憧れの岩松先生を見つけました。立食パーティーでしたので、駆け寄って、著書のファンであると告げると、先生は快く雑談に応じてくださいました。

私は読書で気づいたことを矢継ぎ早にお話ししました。マスオさんは早稲田大学出身らしいけれども、長谷川町子さんの周囲の人には東京大学の人が多いからか、サザエさんには慶應色がありませんね、とか。サザエさんは庶民派と言われますけど、時代が進んで世田谷が武蔵野の田舎から高級住宅地になるにつれて、サザエさん一家の周りは庶民っぽくなくなりますね、とか。「君、ずいぶんよく読んでるんだね」と言われ、私はにんまりとしました。

「よく読んでるんだね」という言葉は、今思い出してもうれしいのです。字の本は読むのが遅くてはかどらないけれど、4コマ漫画はとても楽しいので、いくらでも読めます。読み返すたびに、新たな発見や気づきがあります。大学院生として字の本を読む重圧にへこんでいた時に、まったく畑違いのところで褒められた(?)ことが砂漠にわいた泉のように心を癒やしてくれました。

長谷川町子さんの師匠は「のらくろ」の田河水泡(たがわ すいほう)さんです。田河さんは全国の勤労少年を励まそうと、野良犬が上等兵になっていく「のらくろ」を描いたそうです。長谷川さんはその精神を引き継いだのでしょう。「マー姉ちゃん」でも語られていました。おかげで疲れ果てた院生をも励ましてくれました。これからも長谷川漫画は愛読書です。ごきげんよう。

草々(散歩好きの文明批評家)

人生100年時代のマネープラン 《ハチドリ暮らし》8

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庭のミカンの木

【コラム・山口京子】「人生100年時代のマネープラン」というテーマでセミナーを依頼されました。そのとき、2019年に話題になった「老後2000万円問題」のことが頭をよぎりました。金融庁の金融審議会報告書に載っていた、「老後の30年間で2000万円不足する」というデータ元は総務省の2017年家計調査報告でした。

それによると、月当たりの高齢夫婦無職世帯の収入は21万円台、支出は26万円台で、ざっくり5.5万円の赤字となり、それが30年続くと計算して出した数字です。また、この家計調査によると、高齢夫婦無職世帯の貯蓄は2484万円程度となっていました。

統計数字の平均はお金持ちが「かさ上げ」するので、実態を表してはおらず、注意が必要です。また、どこの機関が、いつどんな目的で、どんな方法で、どういった対象に向けて、どのくらいのサンプル数で、調査をしたのかによって、出てくる数字は変わってきます。

ですので、セミナーでは統計数字を参考にはしても、大事なのは我が家の家計であり、我が家の暮らし方、考え方、価値観に基づいて、お金の管理や生活設計をしましょうとお伝えします。

ちなみに、2019年の家計調査では、月当たり収入が23万円台、支出が27万円台で、ざっくり3.3万円の不足。2020年は収支とも25万円台で、ほぼ赤字は解消されています。解消された理由としては、コロナ禍で特別定額給付金などにより収入が増えたこと、外出制限などで支出が減ったことなどが挙げられます。

健康寿命・働く寿命・資産寿命を延ばす

老後の収入の基本となるものは公的年金ですが、それを補完するために働く人が増えています。政府も、高齢者の就労促進のための取り組みや法律改正を続けています。人生100年時代のポイントは、健康寿命・働く寿命・資産寿命3つを延ばすことです。資産寿命についていえば、生活を支える経済的基盤の見通しを立てることです。

そのために、①足元を確認するために資産の一覧表を作成する、②生活費とライフイベントにかかる大きなお金を見積もり予算化する、③年間の収入額と支出額を出して黒字か赤字を確認しその原因を分析する、④将来を予想するキャッシュフロー表をつくり100歳になるまでのお金の流れをイメージする―ことが大事です。そうして1年ごとに家計を確定し点検してほしいとお願いします。

庭のミカンが色づき始めました。毎年、肥料もやらず手入れもしないのに実がなります。ミカンの木にもお日様にも感謝です。(消費生活アドバイザー)