【コラム・山口 絹記】前回までの4回にわたる記事で、外国語を学ぶコツについて書いてきたわけだが、実のところ、誰にでも共通してやるべきことはもう他にはないと思っている。つまり、語彙(ごい)やまとまった文章、表現を徹底的に覚えること、そしてそれを実際に会話の中や文章を書くときに使っていくこと。方法論としてはいろいろな手法があるのだろうが、本質的には「覚えて使う」「使って身につける」。これ以上でも以下でもない。

そう。こんなことは、この記事を今読んでいるあなたもわかっていると思う。わかっているし、学習しているのに話せない。だから困っている。違うだろうか?

ここから先は、メンタリティー、マインド、気の持ちよう、気合い、何でもよいのだが、心の問題になるだろう。つまり精神論だ。私は抽象的な精神論があまり好きではないので、できる限り具体的、実際的におはなしを進めよう。

よく映画で、拳銃を目の前に置かれた主人公が「撃ってみろ」と言われても引き金を引けない、というシーンがある。話せない、声が出ない、というのは、実際のところアレとほとんど同じだ。自分が引き金を引けば、銃弾が飛び出し、相手を殺してしまうかもしれない。拳銃を手に取った時点で襲われるかもしれない。そう考えると、普通は怖くて撃てない。

何を大げさな、と言われるかもしれないが、質量のないことばだって急所に当たれば人は死ぬ。必死に放った自分のことばが相手に届かなければ、首を傾げられたり、笑われたりすれば、自分の心が傷つく。それを想像しただけで怖くなる。だから、ノドがグッと締まって声が出ないのだ。

話せないと思うからこそ話してみる

あえて断言しよう。流暢(りゅうちょう)でないことばには、相手をどうこうできるほどの威力はない。想像してみてほしい。あなたが片言の日本語で話しかけられたとして、あなたの頭に風穴があくことはないし、悪意をもって鼻で笑うこともないだろう。むしろ、意味をくみ取ろうと必死になるのではないだろうか。もしもあなたが、片言の日本語を頑張って話しかけてくれた者をあざ笑うようであれば、あなたが今学ぶべきは英語ではない。

話せないという自覚があるからこそ、話してみるのだ。今現在、何かしらの言語を操っている者は皆、話せない頃から話している。話そうとしている。準備が万全整ってから始めるのではない。走り出しながら体裁を整えるくらいでないと、始めるきっかけは訪れないし、「機が熟す」などということは、ない。

もう一つ、あなたが英語の発話をするにあたって邪魔をする要因のおはなしをしよう。それは「正しさ」という謎の概念だ。正しい文法、正しい発音などというヤツである。次回はこの言語における「正しさ」というものについて書いていこうと思う。(言語研究者)