【コラム・秋元昭臣】秋になれば、稲刈りやダダダーというエンジン音に誘われて脱穀作業を見たり、道に伸びた枝から柿を失敬したり。松林では、ハツタケ、アミタケ、たまにはマツタケも見つかり、キノコ取りに夢中になりました。

台風など大風の後には、松林に落ち葉、折れた枝を集めに行くことも子どもの仕事でした。学校に石炭ストーブが導入されると、「ストーブ当番」は火付け用に枝を持って行きました。家庭では、石油コンロが普及するまで、火付け材集めや風呂たきは子どもの仕事でした。

そのほかにも、犬、ニワトリ、ウサギのエサやりがありました。悲しいことに、ニワトリは卵を産まなくなると食卓に上がり、ウサギはウサギ屋に引き取られました。アンゴラウサギは毛を刈って加工してもらい、セーターにしたようです。今と違い、夜は犬を放してしまい、朝方に戻ってきました。

秋には模型飛行機大会があり、「A-1ライトプレーン」を飛ばし、みんなで滞空時間を競い合い、先生の作った大型のグライダーに夢をはせました。

運動会では、登校すると、校門の柱が杉の小枝で囲われ、きれいな緑色になっているのに感激しました。一番の呼び物は、小中高青年団が参加する「部落対抗リレー」で、部落総出の応援に盛り上がりました。なんといっても楽しかったのは、家族で食べる昼の弁当でした。

年の暮れには、父親の実家に親戚が集まり、餅をつき、いとこ同士の交流が楽しかったものです。正月用の桐のげたを履いて走り回り、割ってしまったことは悲しい思い出です。

土浦劇場の「ノンちゃん雲に乗る」

冬は、陽当たりのよい傾斜地に洞窟を掘り、大きな木の上に隠れ家を作り、秘密の基地にしました。

子どもの楽しみは「紙芝居」でした。2本の棒でこねると白くなるアメを買って見るのでしたが、毎回とはいかず、「タダ見」させてもらいました。でも、紙芝居のおじさんはニコニコしながら、何も言いませんでした。

「爆弾」も回ってきました。米やトウモロコシを持って行くと、加熱加圧してふたを開くとき、バーンと大きな音がするものでした。

学校では、教室をぶち抜いて暗幕を張り、映画会を開いてくれました。45分ぐらい歩いて市内の土浦劇場に行き、「ノンちゃん雲に乗る」を見たことはよく覚えています。

テレビ出始めのころは、自転車に乗せられて土浦駅まで行き、街頭テレビでプロレスや相撲を見たものでした。ラジオのドラマに耳を傾けた時期でもありました。

冬になると、朝方、土浦港の船が一斉にエンジンを掛け、その「ポポ・ポン・ポン」という音は子供心に夢を抱かせてくれました。凍った田んぼで、竹を割って先を折り曲げた「竹スケート」を作りもしました。小学生のころ、低い竹馬も作りながら、背丈より高い竹馬に乗っている中学生に憧れました。

今、その場に立って見ると、掌(てのひら)に乗るような広さでしかありませんが、子どもの時は無限の広さを感じた世界でした。決して豊かな生活ではありませんでしたが、子どもなりに好奇心旺盛で、仲間と仲良く、社会格差のない、心豊かな時代だったと思います。(ラクスマリーナ前専務)