【コラム・相澤冬樹】13日、茨城県政が150周年を迎えるのだそうだ。「県民の日」は1871(明治4)年11月13日、初めて「茨城県」という県名が用いられたのにちなんでいる。

県歴史館資料などによれば、1871年7月の廃藩置県によって、現在の茨城県の領域には常陸国14県(水戸県・土浦県ほか)、下総国3県(結城県・古河県ほか)などが成立した。さらに、同年10月末~11月に府県の統廃合が実施され、全国に3府72県が成立する。11月に実施された関東地方の統廃合によって、茨城県が誕生した。

この誕生日は11月13日とも14日ともいわれる。県庁に問い合わせると、13日としたのは、初代茨城県知事(当時は参事)、山岡鉄太郎(鉄舟)への任命書に基づくとの回答だった。末尾に「明治四年辛未十一月十三日」と記されていた。旧暦の日付だから、新暦に改めると同年12月24日になる。

第1次府県統合の関東地方への布告は旧暦14日付。真壁郡・茨城郡・那珂郡・久慈郡・多賀郡が茨城県の、新治郡・筑波郡・河内郡・信太郡・行方郡・鹿島郡が新治県の、それぞれ管轄となった。新治県には旧下総国の香取郡・匝瑳郡・海上郡が統合され、利根川を跨ぐ形で設置された。

つまり150年前の茨城県に、つくば・土浦はなかったことになる。佐原や銚子までを県域とする新治県、その県庁は土浦城本丸御殿を改装して設けられた。知事(当時、権令)には池田種徳が、やはり13日付けで任命されている。

新治県は(以下新暦表記)、1871年12月25日から1875年5月7日まで存続している。1875年の第2次府県統合により、新治県は利根川を境に分割され、利根川以北は茨城県に、利根川以南は千葉県に、それぞれ編入された。つくば・土浦の「茨城県歴」はまだ146年というわけだ。

1896(明治29)年の郡制施行時、新治郡は土浦・石岡など5町30村からなり、このときの郡役所も、改築した土浦城本丸御殿に置かれた。平成の大合併で新治村が土浦市に合併され、新治郡も消滅したのは2006(平成18)年のことである。

わずか3年半しか存在しなかった新治県庁。その形跡を現代にたどるのは難しい。秋季展示を開催中の土浦市立博物館を訪ねると、学芸員の野田礼子さんが「縣廳」と表記された「新治県庁」の所在を地図パネルで教えてくれた。目を皿にして探し回らないと見つからない。新治県庁・郡役所となった土浦城本丸御殿は、100分の1模型を2階展示室で目に出来る。

後の新治県庁、新治郡役所になった土浦城本丸御殿の100分の1模型=同

博物館に隣接する土浦城址西櫓(やぐら)脇に、捨て置かれたように厚い石板が寝かされている。これこそ、県庁玄関の扉を留めていた石壁の一部だと郷土史研究家はいうのだが、「残っているのはこれぐらい」とも。150年という歳月は長い。

それよりはるか昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、新治(にひばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる(新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことであろうか)と問いかける歌を詠んでいる。この古代の「新治国」は新治県とは別の領域。現在の笠間市、筑西市、桜川市あたりの県西部で、筑西市の「新治廃寺」は奈良時代につくられた寺院跡だ。こちらはJR水戸線に新治駅の名が残っている。(ブロガー)